誰がために(2)
冷たい、暗い、荒い。そんな感覚が身に突き刺さる。うすぼんやりと開いた脱出口は、実際よりももっと遠く上に見えた。
どうにかあそこまで戻らなければ。沖に向かう海流の中で、ナターシャは必死にもがいていた。しかし。
「お前だけは許さない! 裏切り者!」
人魚の声は水の中でこそよく通る、周囲の岩に反響して、まるで周りを取り囲まれているかのように聞こえた。そして、海が意志を持ったように、あらゆるものを沖へと押し流そうとする。
ナターシャは息もできない身で耐えた。手に振れた岩にしがみつき、激流を辛うじてやり過ごす。海底が起伏の激しい岩場なのが幸いした。
それに、底ではわずかながら流れが緩い。よく見ると、辺りにうすぼんやりと夢幻的な緑色の光点が散っている。アビラ・ストーン、翆晶石だ。大地の力を持つ石が、海のアビラを相殺したのだろう。
ここで眠れば、新緑色の気質に抱かれて、地上の人魚は至高の夢を見られるだろう。だがあいにくナターシャは、死という現象に華美な幻想をもっては居なかった。だから、こんなところで永久の夢を見るつもりは毛頭ない。
ナターシャは意識を集中させた。自分は人魚だ、だから知っているはずだ、水を操る方法を。自らの気を放ち、周囲の水と一体化させ、間欠泉のごとく上層へと昇るイメージを。
だが、どれだけ願っても、何も起こらない。アビラ・ストーンが共鳴して光を増したが、それだけだ。
止めていた呼吸も限界に達した。口からごぼごぼとあぶくが吐き出され、代わりに海水が流れ込む。身体が重く、頭も鐘をつくように痛みが響いてしかたがない。このままでは寸分待たずして溺れ死ぬ。
「アハハ、無様ね! それで、どこが人魚だ! やっぱりお前は、仲間なんかじゃなかった! 嘘つき! 死ね!」
声は煽るようにわざわざ近寄って来ている。頭の上で、馬鹿にするように泳ぎ回っている気配がする。愉悦を噛みしめるのに夢中なのだろう、彼女が起こしていた激流は止んでいたのだが、本人は、そして受けるナターシャも気づいていない。
今はただ生き延びることを。徐々に黒塗りになる意識の中で、ナターシャは未だ生にしがみついていた。痺れたように覚束ない手指で、腰にくくっていた鞄を探っていた。
さて、人魚族が水中で暮らせるのは何故か。答えは単純、呼吸をする術を持っているからだ。人間との唯一の外見的差異でもある、首の付け根、鎖骨の近くにあるえらの存在が、それを叶える。
人魚として生まれたナターシャにももちろんえらがある。いや、あった。地上に出て不要になり長らく経つうちに、皮膚が癒着し塞がってしまったのだが。
しかし、内側はどうだろうか。ナターシャ自身、体の中で何か変化が起こったことは認識していない。だから、器官そのものは変わらずあるはずだ。
これは一種の賭けだ。しかし、外れれば死であるならば、悪い勝負ではないだろう。歯を食いしばるナターシャの手は、探していた物をつかみ取った。
それはナイフ。岩にこすりつければ、鞘が抜けて、研かれた刃が露わになった。尖った先端はかすかな翠光にも、くっきりと影を浮かべている。
立襟の隙間から刃をねじ込み、皮膚に食い込む感覚で、左側のえらにあたりをつけた。
そして、目と歯を固く結び、残っている力を振り絞って、ナイフの先端を体の中へ沈めた。
黙して耐えられないほどの激痛、靄がかかっていた意識も一挙に晴れた。そして同時に、体の中へ水が入って来るのを確かに感じる。
まだ足りない。刺さったナイフを前後に揺り動かし、入り口を広げる。勢いを増し海水が流れ込み、脳に臓腑に命の素がいきわたる。死が遠ざかる感覚が、何もかも忘れるほどに心地よかった。
ナイフを抜き捨て、久方ぶりの海の息を身に染みわたらせる。口ならざる口から水を飲み、吐き出し。生きている実感が何より愛おしい。
「見ろ! あたしだって……人魚なのよ……!」
弱々しくも強い意志の込められた声は、入り江に広く響き渡った。生への執着、覚悟、ナターシャの持ち合わせた気合いが、観客に徹していた人魚を確実に怯ませた。薄闇の中で見えずとも、唖然としているのがしかとわかる程に。
ただ、窮地を脱せたわけではない。身体は未だ海底にある。なおかつ、傷口からは、血がとめどなく噴き出していた。
息が詰まるのとは別の苦しみがナターシャを襲う。しかし、もはやどうすることができようか。今は流れも止んでいる、地上まで泳ぎ切ればいい、だが、それだけの体力が残っていない。
全身の熱が徐々に失われていく。しがみついていた岩から体が離れ、海底をさらう波に巻き上げられるように浮いた。――泳がなければ。運命に抗う意志はあれど、重い体は思う通りに動かない。ゆっくりとゆっくりと、沖へ向かっていく。赤く熱い尾を引きながら。
――寒いなあ。遥かに飛びかける意識で感じていた。
「嫌っ、冷たい! なに!?」
突如、人魚が騒ぎたてる声が聞こえた。甲高い声は神経を刺激し、ナターシャの意識も繋ぐ。閉じかけていた瞼が、少しだけ持ち上がった。
緑色の弱光に、先ほどまでは無かった柱が幾本も浮かんでいる。艶やかに光る表面の質感、そして急に冷えたあたりの温度、氷の柱だ。見ている内に、ナターシャの近くにも、やや斜め角度で一本現れる。
そして、上部より人影が近寄って来る。ブーツの脚で浮き上がる柱を蹴り勢いをつけ、ナターシャのもとへと真っ直ぐに。細い手首には頑丈な鎖が巻き付けられていて、逆の端は長く地上へと延びていた。
――セレン、来てくれたんだ。ぼんやりと思っている間に、彼女の華奢な体によって、ナターシャの身がしかと抱き止められた。正面から肩の下に手を回され、どんな激流にも負けぬほど固く強い力で結ばれる。
それからセレンは、手首に絡めていた鎖を激しく揺さぶった。すると、上へ向かって動き出す。地上でヴェルムが引き上げているのだ。沈むよりもずっと早く、あるべき場所へと導かれていく。
人魚はさぞ面白くないだろう。目を剥いて襲い来ようとしたが、何をするより先に、セレンが弾幕を張った。緑色に輝く無数の魔法弾が、円筒の壁のごとくなりて接近を拒む。
海を信奉する民には到底受け入れられぬ気質だ。人魚は舌打ち一つ残し、復讐を諦め、沖へと去っていった。薄暗い景色の中に溶け込んで、あっという間に見えなくなった。
強い力で地上に引き揚げられた。空気が冷たく頬に触れ、辛うじて意識を残していたナターシャは、飲んでいた水を一気に吐き出した。横たわったままひどく咳きこんで、そのまま上手く息を吸うことも出来ない。苦しかった。
それ以上に出血がひどい。体の下に出来た水溜りが、みるみる赤黒く染まっていく。
「ナターシャ様!」
「おい、ナターシャ! しっかりしろ!」
顔の近くで叫ばれる。ヴェルムが剛力で傷口を圧迫する。外部から与えられる刺激を認識することは出来たが、わずかな反応を返す力すら残っていなかった。血の気が失せた唇は小刻みに震えるばかり、顔は蒼白、瞼が落ちることに抗えない。
閉じゆく視界の中、一人の人魚の姿が見えた。荒れ果てた洞窟の隅で、小さくうずくまっている金髪の娘。肩に引っかけた制服をぎゅっと握りしめ、自らを抱き怯え震えている。
あれを助ける側のはずなのに、なぜ自分が助けられているのか。朦朧とする意識の中、ナターシャは確固たる悔しさを覚えた。
――このまま、死ねるものか。最後に悪態をつきながら、波荒き海に包まれるように心は炎をふつと消し、深い眠りに落ちていった。




