誰がために(1)
しばしの間。人魚たちが面して座す他所では、ヴェルムが片隅にあった粗末な寝床から、掛け布を持ち出していた。それをセレンに渡し、晒される裸体を隠してやれと促す。
そうしておき、自分は瀕死の男連中に魔封じの手枷をつけて回る。二人とも重傷、起き上がってはこやしないだろうが、念のためにだ。異能相手は慎重を期すに越したことはない、ヴィジラだった時の経験がそう叫ぶ。
そんなことをしていたら、人魚たちに異変が起こったことを気づけなかった。広い空洞に反響する女の奇声で、ようやく変事を悟り、しまったと顔を向ける。
ナターシャは冷たい岩の上に押し倒されていた。豹変した人魚の片割れの、血走った目と剥き出しにした歯とが、眼前に迫りくる。首にはぼろぼろの爪が食い込み、囚われ衰弱していたとは思えない力で、押し付けられるように絞められていた。
「裏切り者め! お前だな、お前がっ、お前のせいでェッ!」
「ち、が……」
「最低! この悪魔! 死んでしまえ!」
狂乱して叫ばれるは罵り言葉、襲い来るはほとばしる殺意。――勘違いされている。ナターシャは苦悶の中でも理解していた。仕方なかろう、バダ・クライカの連中も政府の軍服を着ていたから、一見では区別がつかない。
肩を揺さぶりもがき、覆いかぶさる人魚をどうにか跳ね除け、咳きこみながら窮地より這い出る。滞っていた血が一気に流れ出す感覚が、非常に不快で苦しかった。
手をついて上体を起こし、弱った顔を晒したまま、ナターシャは牙剥く人魚たちに誠心誠意訴えた。
「違う! あたしは、あなたたちを助けに来た! お願い、信じて。あいつらとは違うの。あなたたちの仲間よ!」
「黙れ! お前なんて、人魚じゃない!」
「そうよ! どうせ地上の屑に私たちのこと売ったんでしょう!? 人でなし! 死んでしまえ!」
喚き声と共に、落ちていた石の手枷がナターシャの頭へ向かって投げつけられた。
当惑の想いが避けるを許さず、赤毛の脳天がもろに揺さぶられる。視界は刹那暗転し、星も飛んだ。意識はどうにか繋がっているが、身を起こしている余力も無い。がんがんと痛む痕を両手で押さえ、その場にうずくまった。
私刑に処す好機だとばかりに、二人の人魚が魔手を伸ばしてくる。癇癪じみた罵倒が、ナターシャの鼓膜を裂き神経へと響き渡った。
淀み濁る脳漿の中、ナターシャは自問自答した。――あたしは、誰のためにここに来た? 何のためにここに来た? と。
確かに人魚が黒幕だと勘違いしていたのは事実だ。しかし、暴力による敵対を前提として来たわけではない。彼女らが加害者ではなく、被害者であるならなおさら。ここで自分が反撃に出れば、傷口に塩を塗るだけでなく、弱者を力ずくでねじ伏せる暴虐の為政者に堕ちるだろう。
おまけに、人魚たちの憤怒と憎悪も痛いほどに理解できた。誤解する理由もまた同様に。地上の物を蔑むのは人魚族という種族の性、その血がなす宿命、仕方ないのである。
誰がためにここへ来た、何がためにここに来た。バダ・クライカ・イオニアンの闇を暴き、悪意を成敗するためだ。犯罪の芽を摘み、汚い欲のために犠牲になる身命を救うためだ。
そんなナターシャの正義感が、人魚たちに抵抗する気を抑えつけていた。掴みかかられても、引っぱたかれても、されるがまま。彼女らの怒りを受け止めることで、彼女らの心を救えるのならそれで構わない、むしろ望むところだ。
しかし覚悟をする他方、ナターシャの周りに光の玉が次々と着弾した。光が閃き石の破片が舞うと共に、人魚たちは悲鳴を上げ、頭を抱え背を丸めた。
そこに凛々しい足音が、軽やかな律を刻み接近する。真っ直ぐ、勢いよく。
セレンは人魚の片割れの横っ腹を、何の躊躇も無く全力で蹴り飛ばした。濁った嗚咽を漏らしながら痩せた身は空へ舞い、荒々しい岩肌に激突した。
ずる、と落ちた場所は波打ち寄せる岸の際、長い髪が愛しき海にしっとりと濡れる。しかし彼女は喜ぶことも怒ることも無く、そして胸も腹も微動だにすることなし。首が人にあらぬ角度でねじ曲がっているあたり、打ち所が最悪だったと見える。
続けてもう一人も追い散らそうとセレンは構えた。しかし、何をするまでもなく、生きている方の人魚は耳をつんざく悲鳴を上げながら、相方のもとへと駆け寄る。物言わぬ体を揺さぶる身に、セレンから追撃が与えられることは無かった。
嘘でしょ、なんてこと、返事をして。同族の耳を覆いたくなるような悲痛な声に、ナターシャの頭は瞬く間に沸いた。痛む身体を跳び起こし、血のにじむ口元を引きつらせ、無の面持で佇むセレンにつかみかかる。
「セレン! 何するのよ! 違うの、この子たちは敵じゃない! あいつらに騙されてた、被害者なのよ! なんで、なんで!」
「ナターシャ様を殺そうとしました。他者に危害を加えた亜人は、その命保証することなかれ、と。また、公務中の政府官吏への暴行は重罪に値するとも法規されています」
「だけど……だけど! あなたには、人の心は無いの!? こんなの間違ってる、正義感はどうなってるのよ!」
「正義とは? 私は、命と律に従うのみです」
曇りない眼差しがナターシャに突き刺さり、その荒ぶる心を削り取った。胸元の合わせを掴んでいた手が、力をなくして重力のまま落ちる。
セレンの行動は紛れも無く正義をふりかざしたものだ。政府の一員として、政府が定めた規範に従い動く。人ならざる姿、人ならざる力を持つ者に人権は無い、犯罪の被害者となりても法には守られず、些細な過ちですら死罪に処される。それこそが政府の法規、正しき義にあたる。
左胸に留めた胸章が異様に重かった。ナターシャもまた公務中の捜査官だ、政府の狗として、政府の規範の中で動かなければならないのだ。酌量の余地はない、私情を挟むべきではない、洞窟を下りてくる途中でそう嘯いていたように。
だが、それが本当に正しいのだろうか。――わからない。ナターシャは首を横に振った。口では冷めたことを言いつつも、いざ不当に虐げられる同族を目の前にして、かばわないで居られるほど、その血は冷えきっていないのだ。
何が正しいのか、どうすればいいのだろうか。政府に所属しながらも、人間にはなり切れないでいる、しかし己が人魚だと主張しても、同族よりは拒絶され否定されるばかり。
――だったら、あたしは何者だ。ナターシャの葛藤は、深みへとはまっていた。
岩場に一際大きな波が打ち付ける。水が白く砕ける中、身の毛もよだつ呪歌が叫ばれた。
「許さない、許さない、許さない! 地上なんて、滅んでしまえ!」
輩を亡くした悲憤が、虐げられた怨恨が、天来持つ人間への憎悪が、とどめていた堰が切られたように爆発した。見開かれた目は血走り、醜く引きつる口角は、もはや狂気を体現したそれである。
爆発したのは感情のみではなかった。瀕死だったとは思えないほど膨大な魔力が、気の高ぶりと共に暴走する。人魚の魔力は海の魔力、潮水で濡れた岩々を伝わって、入り江に共鳴した。
刹那、海面が幾本もの蛇のごとく立ち上がり、大鎌のような鋭さで、がむしゃらに洞窟中を薙ぎ払った。
たかが水されど水、豪速が伴えば鈍器になり、鋭敏が伴えば刃物になる。暴れた水蛇は、岩壁をえぐり取り、床に落ちていた布を切り裂き、半死半生の悪漢を鞭打った。
仲間の猛攻にも無反応なのは、ナターシャが上着を着せた娘。巻き添えを食らわぬよう、ヴェルムが身を挺してかばい立つ。その肩を水流が打ち据えると、屈強な図体がぐらりと揺らいだ。
セレンは身を低くして、地際に来た乱撃のみに集中して避けに徹する。軽い身のこなしと、優れた洞察力とが活き、一撃をももらわない。だが、余裕も無い。鉄面皮が冷や汗と共に崩れている。
「……おい、退くぞ! ナターシャ!」
天井の一部が崩れた直後に、ヴェルムが声をとどろかせた。このままでは全滅、しかも相手は捕えるべき罪人ではないのだ、命をかけてまで深追いする理由も無い、と。
だが、ナターシャは動かなかった。床にひざを折り、放心状態になっている。かたかたと歯を震わせて。
初めてだった。同族の力をここまで恐ろしいと思ったのは。人魚が水に長けると知っていたが、暴威的な力に変換されたそれが、まさか自分に向くことは無いと慢心していた。
『やっぱりこいつは我々の仲間じゃない!』
かつて受けた言葉が再び叩きつけられる。海に君臨する人魚たちから見れば、ナターシャなど憎み蔑むべき腐り切った地上の人間と同じなのである。同じ血が流れ、同じ言葉を話そうと、目に見える認識がそうさせる。
――それでもあたしは、人間ではない。それが事実だからここに来た、輩として凶行を諫めるために。あなた達の現状を知っていれば、救うために、来ていただろう。
ナターシャがそんな心の声を手向けた相手は、すでにこの場に無かった。いつの間にか、不気味なまでの静寂が帰ってきている。
セレンが駆け寄り、ナターシャの肩を担ぎ立たせた。
「ナターシャ様、ここは危険です。急ぎ……」
危機迫る声は、しかし息と共に途中で飲み込まれる。開かれた眼が見ていたのは、異様さを増す海だった。
水面が高く高く盛り上がる。小高い丘から、天を穿つ塔のように成長し肥大していく。あるいは、話に聞く竜。鎌首をもたげた邪竜が、愕然とする二人をにらみ襲い掛かろうとしていた。
水中から狂った高笑いが聞こえた。そして巨大な水柱は、洞窟内の全てを飲み込むように――なおかつ、あからさまにナターシャを狙って――落ちてきた。
怒涛の勢いに押し潰され、寄せた身も離れ離れになる。
そして、引き戻る波がナターシャの身体をさらった。逆らうこともできない激流の中では、得意の泳ぎも形無しだ。おまけに地上の服は重くて仕方がない。
岩肌に体を打ち付けつつ、ナターシャは海に引きずり込まれた。暗く深い海の底へと。
 




