闇の口(2)
ナターシャたちは予定通り島の西側へと回り込み、積み込んであったロープを使って、岸へと船を着けた。
なお、例の男たちは元通り船に積み込んで置き去りにしてきた。セレン曰く、個人差はあるが翌朝には目覚めるだろうとのこと、彼らの体つきをみるに一日くらいで死にはしないだろう。船を引く海馬も、手綱を握る者が居なくなったから、勝手に浅瀬へと戻るように泳ぐはず。任せておけば、遭難することもあるまい。
さて、現在地は岩肌の西岸。地図によると、内地に向かって草原、森へと植生が移ろいゆくようになっていた。そして実際に見える風景も準じている。
だとしたら、草地に入って北上すればくぼ地に出るはずだ。そこに地下へと続く洞窟が開いている。
特に異論もなし。打ち合わせ通りに、足を進めた。
青々と草が茂る中、所々に赤い実なる低木が育っている。歩いていると、軍が使っていた名残のように、錆びた鉄の矢尻や刃などが落ちているのに気づいた。きっと低木の影を利用して、奇襲や潜伏の訓練をしていたのだ。幸か不幸か、隊列を組んで戦わねばならない大規模な戦闘など、中央諸島で久しく起こっていないから、訓練の成果が発揮される場はあまりないだろうが。
そんな人を隠す繁みの量は、くぼ地方面へ向かうにつれどんどん増えてくる。どちらかと言えば、今は奇襲を受ける方だ。死角からの動きが無いか、歩く三者に警戒が増した。単なる風のさざめきですら、一々神経に障って仕方がない。
藪がいっそう濃くなった。つる草も絡まり、こんもりとした緑の小山をあちらこちらに築く。行く右手側にある一角が、呼吸をするようにがさりと大きく揺れた。
誰ともなく足を止める。三人ともが注視するのは同じ場所、示し合わせるでもなく、皆等しい不審を抱いたのだった。――今、藪を揺らすような大風など吹いていない。
一度きり動いた後、それは再び眠っていた。しかし、よく繁った葉はあらゆる物を覆い隠すから、藪とは別の意志を持った生き物が内に潜んでいてもおかしくない。そして確かに、「誰かに見られている」という湿った感覚は肌身にあった。
「おい。そこに居るやつ、出てこい」
ヴェルムがどすを利かせて語り掛けた。藪は返事をしない。
一拍、二拍、そして三拍目でヴェルムが踏み出す。と、繁みの奥から一人の男が現れた。先ほど船で見た連中と同様、胸章無しで軍の制服を纏っていて、手には発射準備の整ったクロスボウが構えられている。
一人か、いやそうでもなさそうだ。見える男の動きとは別で、わずかながら木の葉が揺れる。少なくとももう一人、藪の大きさからすると、さらに二人くらいなら潜んでいてもおかしくない。
「亜人……エスドアの使いか?」
先んじて現れた男は警戒心むき出しでそう言った。言葉を選び、探りを入れるように。しかし、それが墓穴を掘ったとは、夢にも思っていまい。
エスドアの使い。ナコラで捕えたバダ・クライカ教徒の有翼人が同じ言葉を使っていた。意味するところは言葉通りの存在なのか、それとも単なる隠語のようなものなのか、正確には知らない、が。
「違ぇよ」
「あんたたちをとっ捕まえに来た、政府の使いよ」
二人そろって堂々と主張する。これによって、敵だという明確な認識を相手に与えた。しかし、それは早く出来た方が有利なのである。
敵認識からクロスボウが実際に放たれるまでの一瞬の空白、その間にナターシャの一声が割り込んだ。「セレン」と。
それは引鉄のごとく彼女を動かした。白色の魔法弾を生み、直後、光速にて連射する。
光弾の乱打は土をえぐり、藪を穿ち、向かって来た矢を弾き、立っていた男を打ち倒した。背中から繁みに倒れ込んだ、ただし死んではいない、腹が上下している。
直後、藪の中からさらに二人が顔を出した。そのまま攻め手に出ればよかったかもしれない、しかし、敵は退くことを頭によぎらせ、無意味な静止をしてしまった。
セレンの追撃が容赦なく襲い掛かる。あ、と言う暇もなく、彼らは打ちのめされた。いっそ出てこない方がましだった、そんな風すら吹いている。
それきり他に何かが出てくる様子はなかった。静かになった男らのもとへ歩み寄る。
生きている、意識もある、敵の顔を見てまず確かめたのはそれだった。魔法弾が当たった部位には黒々としたあざが出来ていて、苦悶に歪めた面を晒しているが、死んではいない。大事なことだ、死人に口は無い、質疑に応答することすらできなくなってしまう。
重傷であることもお構いなく、ナターシャは先陣を切っていた男の胸倉をつかみ上げ、鋭く問うた。
「バダ・クライカ・イオニアンね。この島で何をしている」
しかし答えは帰って来なかった。男は反抗心に瞳を燃やしたまま、黙秘を貫いている。
その程度でナターシャがめげることはない。氷のような目を男に近づけて、あえて鋭く端的に斬り込んだ。
「人魚はどこに居る」
核心をついた単語に、男は動揺を見せた。うろたえ彷徨った目が、明らかにくぼ地の方へ向いてとどまった、その動きを見逃さない。
――やっぱり。推測で選んできた道は、どうやら正解だったらしい。
それが分かればもう十分だ、ナターシャは男を捨てるように手放した。どうせ何も語らないならば、相手をする時間の無駄である。
その辺りに腐るほどある蔓で、三人まとめて縛り上げると、総監は虎口への進軍を再開した。勇む足を少しばかり速めて。
やがてくぼ地に至る。草木がぼうぼうにおいしげる中、斜面の一角に、やや不自然につる草がかぶさっている場所があった。手で払えば簡単に崩れ落ち、案の定、ぽっかりと開いた洞窟の口が現れたのである。
低い天井の洞穴をまずは覗き込む。日光すら入り込まない闇の口は、入ってすぐに急な下りとなっているらしい。それも相まって、奥はまったく見通せない。
ナターシャは腰の鞄を開いた。まずは光源石の小型カンテラを取り出し、セレンに手渡す。アビラ・ストーンは蓄積された魔力を使って効果を放つもの、万が一内蔵する魔力が切れてしまえば、お先は真っ暗になる。その点を解消するならば、魔力の扱いが手慣れている者が持つのがいい。自分の体の魔力を送り込み、石の力を回復させることが出来るから。
ついで信号弾と火打ち器を。筒を上に向け、尻から伸びる導火線に火をつける。すると、天を衝く勢いで赤い煙が立ち昇り、太い柱となって空にそびえた。軍の間では救難を示す合図だ、本島にも伝わって、治安隊の一団がここまでやってくるだろう。
信号弾を撃て、それは局長からの指令でもあったが、これで義理は果たした。彼が実際どのように動くつもりなのかは知らないが、割といつものことだ、それはそれで置いておくとしよう。
「行きましょう!」
役目を終えた信号弾の放り捨てると、ナターシャは先陣を切って、闇の口に飛び込んだのだった。
ひんやりとした空気の中を歩んでいく。下りも上りもある道程、全体的に見ると下っているという感触だ。
カンテラの白い光に、三人分の影が浮かんでいた。凹凸の激しい足元に視線を落とし、低い天井には身を屈め、そんな格好でゆっくりと進んでいく様は、幽鬼の類にも見える。
岩盤が脆いのでは、という噂にも相違はなさそうである。手をついた壁面に亀裂が入っていたり、天面から落ちて来たらしい小石を蹴飛ばしたり、はてには岩が崩れて塞がった横穴も見受けられた。大騒ぎすれば生き埋めになってしまいそうだ、危険と隣り合わせの行軍が、ほどよい緊張感を保たせる。
やがて分岐にたどり着いた。左手は光が届かぬほど、深く真っ直ぐ伸びる道だ。しかし右手は、落盤が起こったようで、半分ほど道が埋まっている。ただし覗き込む限り、更に奥に続いているのも確かであり、逆側の壁に体をつけるようにすればくぐれないこともない。
どちらを選択するか。ナターシャは立ち止まり、二方向を交互に見た。わずかな音も反響する洞窟、双方の奥よりうねり聞こえる響きの正体はわからない。頬に触れる空気の流れも、どちら共に存在する。
迷っている中に、遠慮がちなヴェルムの声が発せられた。
「あァ……ナターシャ、俺はこっちだと思うが」
彼の足が向いているのは左方向の広い道。ははあ、とナターシャは冗談めかして口角を上げた。
「あんたでっかいから、こっちだと通れないものね」
「いや、これくらいなら何とか抜けれるさ。だいたい、そんな理由で尻込みするかよ。単純に、いくら隠れ家作るって言っても、こんないつ崩れるかわからんところを選ぶかってことだ」
なるほど、一理ある。綻びから再び落盤が起こる可能性はある、奥に居る時にそうなったら出られない。せっかく秘密の場所で「夢」を大量生産しても、外で売ることが出来なかったら無駄になる。バダ・クライカには神の奇跡が働いていると突拍子のない仮定をしようが、その程度の危機回避すら放棄するとは思えない。
しかし。ナターシャの足は、ヴェルムとは逆の方を向いていた。
「あたしは、こっちだと思う」
「何故」
「海のにおいがするから」
においといっても、嗅覚が感じ取るそれとはまた違う。言うなれば、人魚族特有の第六感だ。右手の道を見ていると、わずかながら潮の気質を察して神経がうずく。一方、ヴェルムが示した側にはそれが無い。おそらく、地上の別の出入り口に繋がっているのではないだろうか。
今追っているのはバダ・クライカに属する人魚の足跡、そこには必ず海が共にあるはずだ。
なるほど、と言った風に、ヴェルムは長く息を吹いた。
「海の民がそう言うなら、信じないわけいかねぇな」
「ありがとう。……セレン、あなたは?」
「ナターシャ様の仰せのままに」
カンテラの光も、頷くようにわずかに揺れた。
こういう時にまず動くべきなのは言い出しっぺだろう。セレンに明かりを寄せるよう指示してから、ナターシャは注意深く崩落して積み重なる岩の横をすり抜けた。




