Interval 昼夜の境に動く者
夕陽が水平線へと消えかけている。昼と夜との境界が橙の線となり現れ世界を割っていた。
本島港地区にある古臭い外観だが中は小綺麗な酒場、ここでは政務から解き放たれた公人たちが静かに酒気に現を抜かしていた。この辺りでは最も高級な店だ、普通の酔いどれに想像される荒々しい賑やかさはここには無かった。
楽師の音曲を背景に上等な酒を静かに味わう空間。別に嫌いではない、と赤肌ヴェルムは思った。ただし、一人の場合に限る。誰かと伴するなら、煩わしいことすべて忘れて騒々しく飲みたいものだ。こんな選民気取りの店でなく、普通の賑やかな酒場で。
ただ隣に居る男と一緒では決して叶わぬ話である。ワイテ=シルキネイト、親亜人を掲げるこの軍人には、ヴェルムも初めこそ敬意を持っていた。しかし、今は違った。彼の「配慮」で背後に設置されたパーテーションが気に障って仕方がない。
もっとも、今さら悔やんでもどうにもならないことである。隣の男のしょぼくれた話に適当な相槌を打ちながら、ヴェルムは大きな手で小さなグラスを傾けた。
「――ああなったマグナポーラ君を抑えるのは大変でな。いやはや、今節の総会が終わってからでよかったよ。まあ、次がわからんがね。あれは根に持つぞ、ディニアス君に斬り込みに行くぞ。きみはどうするかね」
「お好きにどうぞ、ってもんです。マグナポーラの馬鹿じゃあ敵いやしない、散々こけにされて終わるのが目に見えてますよ」
「相変わらず厳しいことをいってくれるな。まあ、否定はせんよ。ディニアス君はなあ……うむ、やはり、わしとしては、早いところ君に局長の席についてもらいたいねぇ。総監局にとってもその方がよいだろう」
「単純に俺の方が色々と御しやすいからでしょう?」
嫌味に言うと、ワイテは鼻にかかった笑い声を短く鳴らした。酒を一口舐め、その気に酔いしれるように液面を見据える。その横顔をヴェルムは鋭く冷ややかに睨んでいた。
ワイテは爪でグラスの露を集めながら、ぽつりと呟いた。
「まあ、しかし。あの新顔の人魚さんも大概のようだしね。ああも派手に動くとは、思いもよらなかったよ」
品定めするような言いぶりには不快感がある。しかし内容には同意せざるを得なかった。ヴェルムから見るナターシャは論で責め立てるタイプだった。なおかつ道理を優先し、規律違反などもってのほかとする。力任せに無理を通して道理をひっこめるのはむしろ自分の役目。
そのナターシャが、特命部・ギベルからの制止も効かずナコラで任務外の捜査を進んで行い、民間人から通報が多発するほど大暴れした上に死人まで出す事態を招いた、と。普段の様子からは想像できない。
――何か、よほど腹に据えかねたんだろうな。
酒の苦味を味わいつつ想いを馳せる。再会した彼女が特に何も語らなかったから、真相はまったく見えないが。
「人魚は」
ワイテの呟きがぼそりと聞こえ、ヴェルムは顔を横にした。うっすらと怪しく笑む大将の目と目があい、うすら寒いものを感じた。
ワイテは両の肘をついて手をゆるく組み、どこか夢見心地で語った。
「人魚とはね、実に愚かな生き物なのだよ。近海で軍船を出すとたまに出会うのさ。波間から顔を出して、わしらに向けて歌をうたう。言葉はまるで通じないがね、誘っているのは明らかだ。こちらがちょっとでも気があるそぶりを見せれば、向こうも色を出して誑かしに来る。女の人魚は人間の目には概して美しく見える、それを自分たちでわかっているのさ」
ふふっとこぼした笑い声は、ひどく下卑たものであり、ヴェルムは思わず眉をひそめた。
「だがあれらは人間のことを知らない、舐めていると言ってもいいだろう。だからあっけなく捕まるのさ。まったく愚かな話だよ、海の下に居るから守られているというのに、わざわざ自分からのこのこ出てくるんだから。人魚は……とても珍しいから、その筋じゃあよい見世物になるらしいよ。かわいそうに、あとは壊れるまでいたぶられるだけだ。昔むかしからそうだった」
語り草にヴェルムは嫌悪感をありありと示し、音を潜めず舌打ちした。無意識に手にも力がこもり、厚手のグラスがみしりと苦悶の声をあげていた。カウンター越しに酒場の店員が身を縮める、構うつもりはない。
反吐が出る。亜人を食い物にする悪意と我欲まみれの人間たちにも、そして、それをなんの躊躇いなく自分に語るワイテにも。――この「親異能・親亜人」を標榜する軍人の腹の底は、とうに知れていた、それでも。
一方、ワイテは楽し気にしたままである。若輩を諭すようにヴェルムの背中をぽんぽんと叩く。
「そうそう怒るな、わしはそんな愚かなことはやらんよ。わかるだろう、ヴェルム君。人魚族はね、秀でた力の持ち主でもあるんだ。だからもっとうまい付き合い方があるはずだ。ひどく単純な話だよ、世界の大半は海じゃあないか。海を制することは、世界を制することに繋がるわけだ」
「そう言って、俺の次はナターシャを懐柔しようって魂胆ですかい」
「地上を闊歩する人魚なんて、珍しいどころの話じゃないだろう。使わない理由はなかろうに」
ワイテの目が狡猾に歪んだ。
ヴェルムの口から重低な溜息が吐き出された。――これだ。ワイテが異能の持ち主にすり寄る理由、それは単に人外の力を利用したいからである。自分の利になりさえすればいい、だから口で語ると裏腹に、差別問題を根本的に解決するつもりはないのだ、この男には。
だからヴェルムは後悔していた。ヴィジラを辞めて総監局に回された、あの己の神経が擦り切れていた時期に、この男の甘言に乗って縁を結んでしまったことを。聞こえの良い理想論に縋り付いてしまったことを。
今、同じ魔の手が同僚に伸びようとしている、牽制をせずにはいられようか。元々鋭いまなざしが、一層凄みをましてワイテに突き刺さった。
「ナターシャは気まぐれだが馬鹿じゃない、おまけに俺なんかよりずっと心の強い女だ。欲にかられて近づいても、引っ叩かれて噛みつかれて終わるだけだ、やめとけ」
低く吼えるような語り草に、ワイテは胡乱な目つきになった。
「ふうむ、ヴェルム君が言うのなら、実際にわしじゃ手懐けられないのだろうな」
「ええ」
「では、いっそ、彼女がエスドアに膝を折ってしまう可能性は」
「もっとあり得ない。『イオニアンの真の民』? そんなまやかしじゃあ、あいつは騙せねえよ」
「……ずいぶん買っているのだねえ。わしの部下のことはこきおろすのに。いやはや、どんな物差しで評価しているのやら、きみは何を考えているのかわからんね?」
ほっほとからかうような笑い声が神経を逆なでする。ヴェルムはそっぽを向きながらつぶやいた。
「あなたには、俺の気持ちなんてわかるわけないさ」
苛立ちをぶつけるように酒をくらう。ここらでは最上等のはずなのに、ひどく不味かった。
早く夜が更けてくれないか、ヴェルムがいくら願っても天の道理が変わることは無い。楽師の音曲同様に、宵の時はゆるりと進んでいく。
*
水平線に日が落ちた、光と闇の境界上に時は位置している。そんな折、波止場に一隻の帆船が身を寄せた。
異能教団よりの宣告文が起因して港には厳戒態勢が敷かれていた。帯剣した治安維持中央軍が起立したまま目を光らせ並び、遠巻きにクロスボウを携えた射手たちも待機している。白装束に身を包んだヴィジラも三人ほど、異能対策省統括・ミリア=ロクシアの特別指揮によって配備されていた。
ただならぬ雰囲気の中、武装した護衛と共に一人の男が船より降り立った。精悍な顔つきに堂々たる風格、齢四十にして東方大陸統治の次席にある人物、名をブロケード=ロクシアと言う。大陸にて政務にあたっていたが、己が腹心ライゾット=ソラーの訃報を受け、急ぎ中央に帰参した次第である。
翡翠の目で周りを見ながら、敬礼なす軍人の列の前を横切り、まず接見する対象はミリアだ。出迎えに来た高官である、同時に無二の細君なのだ。ブロケードの険とした翡翠の目がわずかにゆるみを見せた。
にわかに他愛の無い雑談がなされる。無論、それで周囲の警戒が緩むことなどないが。
だから、突如沸いた警備たちのどよめきに、夫妻はすぐさま反応できた。
不穏なさざめきに沸く薄闇の中を一人の男が闊歩してきた。改造した政府高官の衣装で胸を張り、夕日と夜闇の二色の目をご機嫌な弧に描いて。彼の独特な三色の髪を見て、他の誰かと取り違えることは無いだろう。
まず叫んだのはミリアだった。
「ディニアス! なぜここに居るの!? 来なくていいと言ったじゃない!」
「ああ、ああ、統括。そんな言い方しないでくださいよ。私だって、ご主人の帰還を喜ぶ気持ちぐらいは持ち合わせていますから」
肩を揺らすディニアスの言葉に嘘偽りはなかった。ブロケードが生きて本島にたどり着いた、これすなわち彼がバダ・クライカの標的でない証明なのだから。相手は異能教団、本気で反異能の人間を排除しようと思えば赤子の手をひねるようにできる。
まずは良い滑り出し。内心で高笑いしながら、ディニアスは渋い顔をするミリアを尻目に、感情の無い目で佇むブロケードへ向かって声をかけた。
「お久しぶりです、総裁次殿。こうやってお話するのは二度目でしたっけ? いやあ、ご機嫌悪そうで何よりです」
「相変わらずだな、貴様は」
吐き捨てるような言いざまに、ディニアスは失笑した。
ブロケードの異能抑圧方針は至極有名な話で、それは政府内にも同様に向けられる徹底したものなのである。ゆえに亜人とアビリスタが主体の総合監視局とは存在が噛み合わない。そこにディニアスという個人への嫌悪感も乗って、関係性は最悪の部類。
ただ、そんな背景まるで意にかけない無神経の権化がディニアスという人物である。にこやかな笑みを浮かべ、ブロケードに正面から歩み寄っていく。握手を求めるように右手を持ち上げながら。
ブロケードは警戒心に満ちた真顔のまま、しかし、礼として応じるべく腕を動かした。彼の直属の護衛も、胡散臭さの化身たる存在の接近をすんなりと許した。
ディニアスはブロケードの眼前に立ち、満面の笑みを浮かべた。
そして、手を勢いよく振り上げた。向こうの手は無視し喉元へと一直線へ、死角たる袖から落とした銀の閃きと共に。
空気が切られ、時が止まった。予想だにしていなかったこと、それが一瞬に通りすぎたから、誰もが唖然としたまま動けない。
唯一、ブロケードだけが冷静な目つきを保ち、自分自身の状況を観察していた。その喉に食い込むのは鈍色のペーパーナイフの刃だ、まともな武器ほど鋭利ではないが、狙いは正確無比に頚にあった。あと寸分も深く突き出されていたら命は無かっただろう。
まるでおもちゃで戯れるように。ディニアスはナイフの腹をさらに深く、しかし皮膚は斬れぬ程度に押し当てる。ながらに、意味深に眉目を上げてうそぶいた。
「もし私がバダ・クライカの一味なら、あなたは、今、死にました。ええ、とっても簡単です。これなら、別に異能使いでなくたって誰にでも可能だ」
そしてけらけらと笑い声を上げたところで、ディニアスの足元に牽制の矢が四方より飛んできた。
同時に非難が嵐のごとく巻き起こった。護衛たちが剣を抜いて差し迫り、ミリアは蒼白面で金切声を上げていて、本来はディニアスが指揮するはずのヴィジラたちもが仮面の下で気炎をくすぶらせていた。整然としていた隊列ももはや崩れている。
――無能どもめ。
ディニアスはナイフを握った手はそのままに、内心で吐き捨てた。つまらない威嚇や牽制ばかりだ、その間に、本当に殺してしまったらこの連中はどうするのだろう。中央の連中はまだ情勢をわかっていない、腑抜けている。
ここに唯一評価に値する者が居るとしたら、やはり。ディニアスは満面の笑みをブロケードに向けた。
「ここまでされているのに、存外、冷静なんですね」
するとブロケードは眉目一つ動かさず、ディニアスの手からナイフをもぎとりながら厳粛な声音で言った。
「もし貴様が私を本気で殺すつもりなら、こんな物には頼らないだろう。貴様とて元ヴィジラ、戦い慣れした異能使いだ、人間など一瞬で簡単に殺してみせる。違うか?」
「アッハハハハ! 素晴らしいです。ええ、ええ、その通り! こんなの軽いお遊びだ、それに気づける――」
ディニアスは不意に口を閉ざして視線を下に落とした。喉元に走る冷たい感触は、先ほどまでは己の手の中にあった刃である。
「ディニアス。私は貴様らと馴れ合うつもりはない。私の方は、このまま貴様を殺してしまっても構わないが?」
「温情ならいりませんよ、好きになさったらどうです? さあ、ほら、早く。できるものならば」
余裕風を吹かせてディニアスは鼻で笑った。ブロケードにその気はない、と確信している。彼とて今は敵を減らしたいだろう。
案の定、ブロケードはペーパーナイフを投げ捨てた。軽やかな響きが弾むのを背に受け、彼はミリアを伴い歩き出した。向かう先には幌馬車が待っている。
無言で去りゆく背中を追うことはしない。代わりにディニアスは不敵に笑んで投げかけた。
「ライゾットさんのお屋敷を見に行かれるんですか? あいにく、もう片付けられてしまったんですよねえ。本当は、あなたにあの死体を見てもらえれば話が早かったのですが」
ぴた、とブロケードは足を止めた。渋み走る横顔を見せつけながら、重々しく口を開いた。
「それができぬのは、貴様ら特命部の怠慢だ。手段はいくらでもあったはずだ、貴様が抱えている異能どもを使えば」
「ううん、おっしゃる通りですね。私はぜひそうしたかったのですが、残念ながら、そうされると都合の悪い輩が大勢居るようでして」
「……ふん」
ブロケードは胡乱な眼光を一つ残すと、再び馬車に向かって歩みを再開した。道中、隣に付き従う夫人に声をかける。
「お前を帰したら中枢に入る」
「まあ、もう日も暮れたのですよ。せっかく戻って来たのですから、せめて今日はごゆっくり……」
「してもいられん。急ぎライゾットに任せていた案件を追跡せねば」
「ああ、そうですね。本当に、ライゾット……あぁ……」
ミリアの萎れた呟きを最後に、馬車の扉が閉まった。
馬のいななきを残し去っていく車を、ディニアスは目を細めて見送った。無論、夫婦の会話は耳をそばだてて聞いていた。
「まあ、それもいいでしょう」
ふっと笑って、どこへともなく歩き出す。今だ警戒感をむき出しにする軍人がひしめく船着き場を泰然と横切って、波寄せる岸辺に沿いながら、人気のない場所へ。
示唆は十分にしたつもりだ。後はブロケードが期待に漏れず聡明であることを祈ろう。
それと、もう一人。
「ああ……ナターシャさん、あなたには期待していますよ」
ディニアスは遠く海をみやった。日は完全に落ちて、黒き闇がうねりを上げている。
局長として見るに、ナターシャ=メランズの働きは予想を越えたものだった。ナコラでの件も、バダ・クライカの動きに気づくまでは行く前提で送り込んだが、まさか自ら手を下しにまで到達するとは思っていなかった。
実に嬉しい誤算である。ちょうど自分の身体が一つしかないことに不便さを感じていた最中であった。
彩豊かな衣装は夜の薄明かりにもよく浮かぶ。その背中に突き刺さる監視の目は、今日に始まったものではないがゆえ。




