人を殺める人の形(1)
宿で目が覚めたのは、もう朝とは言えない時間だった。強い日差しにより熱されて、ナターシャが居る部屋の空気はまとわりつく暑さを持っていた。
視界が定まるなりたまらず窓を開け放ちに向かった。吹き抜ける風の流れが心地よい、つい身をも乗り出そうとする。が、自分が肌着一枚のあられもない姿であることを思い出し、慌ててベッドの上に体を引き戻した。
振り返ると、とっくに目を覚ましていたセレンが、両手を膝の上にして椅子に座し待っている。怒っている風に見えるのは元々の顔つきのせいだろう。いや、寝坊に対し本当に怒っているかもしれない。ナターシャは慌てて立ち上がり、かけてあった服を手にした。
「そんな風に待ってないで、起こしてくれればよかったのに。乱暴なのは嫌だけどさ」
身を整えながら冗談めかすナターシャ、それとは対照的にセレンは真顔で答えた。
「大変よく眠ってましたので。夢見を邪魔しては悪いと思いました」
その言葉を聞くなりナターシャの笑みが苦くなり、自嘲へと転じた。
「構わないわ、あたしは夢を見ないから。ベッドで眠るようになってから、夢なんて……一度だって見たことが無い」
要領を得ないのだろう、セレンは首を傾げている。
ナターシャはしばし黙々と櫛で髪をとかし、それから意を決して口にした。
「ねえセレン。あなた『人魚の夢』って知ってる?」
「……いいえ」
「そうよね。うん、普通はそうよ」
一般の人――この場合、異能者も亜人も含めて、まともな稼業をしている人すべて――なら、あえて口にすることもない単語だろうし、仮に聞いたとして、何か特別なのものを示す名詞とは思うまい。普通ならば。
なおかつ知らないならそれでよい、むしろ知らない方が幸せだ。当事者たる人魚族のはぐれ者からしたら、そんな存在だ、「人魚の夢」とは。
「……セレン。行きながらに説明するから、聞いてちょうだい」
「わかりました」
最後に政府の官服の皺をぱっと手で伸ばして、ナターシャセレンを引きつれ仮宿を発った。襟を正して向かう先は、疑惑の人物の家である。
*
「英雄像の事件は解決しました。もう恐れなくて大丈夫です」
迎え出た初老の女へ事実を伝えると、彼女は涙を流しながら喜んだ。当然だろう、石像を見て精神を冒され狂気に堕ちた自慢の息子だ、元凶を断てば必ず元に戻ると、母親なら誰しもそう信じるに決まっている。
叫ぶように我が子の名を呼びつつ階段を駆け上がっていく。そんな後ろ姿に付いていくナターシャは、対照的に暗く沈んでいた。――事実と真実は、少し違うのだ。
二階にある青年の部屋にて。薄暗い一室に親子が叫び合う声が反響する。母親が伝えるのは朗報だ、にも関わらず、息子が正気に戻る気配はない。目を剥き頭を振り乱し、耳を押さえ足を暴れさせ、すがりつく手を強く打ち払う。
「お願い、聞いてよシローベ! 終わったのよ、もう怖がらなくていいのよ!」
「ち、違う! ちがう!」
痛んだ喉から発せられる枯れた声で青年は吠えた。恐慌度合いが以前より増している、骸のようになった顔つきからも明白だ。
「嘘だ嘘だ嘘だっ! まだ呼ぶ、あいつが呼ぶ! 今も、ほら、呼んでる! 聞こえる、聞こえるだろ!? 海だ、海に居る! 海に来いってェ、呼ぶんだよ! 何度も何度も何度も何度も、何度だって迎えに来るって!」
ぎらぎらした視線を威嚇するように撒き散らす。拡散した瞳孔は得も言われぬ不気味さを醸していた。がちがちと歯を鳴らす、その音だけが部屋に響く。
母親は蒼白な顔で床に崩れ落ちていた。もはや泣く気力すらないようだ。ナターシャはその隣を無言で通り過ぎ、ベッドの前に立った。背後にはセレンも付き従う。
「シローベさん。こちらを見てください。ここはあなたの部屋です。ここは現実です」
強く、しかし淡泊に。案の定、声には反応が無い。ナターシャは片膝をつき青年と目線を合わせ、もう一度同じように繰り返し語りかける。と、ようやく青年の焦点が合った。瞳を震わせ小刻みに震えたままではある、いつまで繋ぎ止められるかわからない。
ナターシャは一度ゆっくりと瞬きをし、自分の心を整える。哀れみ、怒り、やるせなさ。溢れる感情を気の向くままに吠え立てたくなりもするが、それにはまだ早い。物事には順序がある。
そして、ナターシャは真実への切り口を開いた。
「シローベさん。あなた、『人魚の夢』って、知ってますよね」
最低限の刺激となるように。冷静に、ゆっくりと、できうる限り優しさを取り繕ったもの。
しかし青年は目に見えて狼狽した。肩をすくめて全身を激しく震わせる、赤子のように指を咥えぼろぼろの爪を噛み始める。ベッドの上で後ずさりして逃げようとするが、その肩をナターシャは両手でがっちり捕まえた。
答えろ、そう目で訴えかける。シローベ青年は首を横に振った。
「知ら、知らない。そんな、薬、知らない……」
「なぜ薬だと知っているの。普通の人は、こんな言葉を聞いたって、薬だなんて思わないわ」
「あ、や……う、うぅお! おぉぉオオ!」
雄叫びとともにナターシャは突き飛ばされた。錯乱、発狂、いや違う、青年は自らの意思にて逃亡を図ろうとしている。ベッドから這いずり出て、弱った足で立ち上がり、がむしゃらに腕をかいて。
しかし、セレンがその身に身をぶつけた。勢いでもつれ込んだまま、青年の腕を床に押し付け手で縫い止める。本人の激しい抵抗も意に介せずに平然とやってのける、いわんや母親の悲痛な絶叫など。
ナターシャは短く息を吐き、すっと立ち上がると冷めた目でシローベを見下ろした。
「『人魚の夢』とは、精神を冒す強力な幻覚薬です。これを含め同類の危険を持つ薬は政府の法規により所有や売買を禁じており、よって真っ当な暮らしをしていれば知る機会すらない。ですが……その様子では、手を出したようね」
説明口調はあえてのもの。水を打ったように静かになった部屋に、シローベの荒い息の音だけが虚しく響いた。
この世界には、古くより「人魚の夢」と称される鉱石状の物体が存在している。海岸でまれに拾えるその物体は、海底に住む人魚族が眠って夢を見た際に、人魚に特異な魔力の作用で精製される物だ。手のひら大の球形に近い結晶体で、これには人魚族だけが取り出せるかたちで夢の映像が封じられている。他者と「夢」を交換し鑑賞することは人魚の娯楽でもあるのだ。
夢の像は人魚にしか見られないが、この結晶を粉状にして服用すると、他の生物にも強力な幻覚作用を引き起こすことができる。人魚の魔力に免疫が無い人間の場合、ひとつまみでも常軌を逸する快楽的幻想に浸れ、ゆえに依存性も強く現れる。一度でも用いれば、遅かれ早かれ廃人となるのは確定と言って過言でない。
だが「人魚の夢」には依存性以上の危険がある。人魚の魔力がそうさせるのだろう、心を侵された人間は「海中に戻らなくては」と妄想を抱くのだ。狂気が深まれば実際に入水する。だが当然、人間は水中では生きられない、待っているのは死のみ。単なる幻覚剤では終わらない、ゆえに政府は根絶せんとばかりに厳しく規制をかけているのだ。
ナターシャが「人魚の夢」が元凶であると判じることができたのも、シローベがしきりに海を気にしていたから。石像を見たから錯乱したのではなく、薬物中毒により錯乱して幻覚を見た。それが彼の事件の真相である。
その青年は、血走った目でナターシャをにらみ、訴えた。
「俺はぁ、騙された! 英雄像の、怖いをぉ、忘れるなら、酒よりも、いいヤツがあるって、ちょっと高いけど、って……なのに! 裏切った! 俺は悪くない、騙された!」
「いいえ、過ちを犯したのはあなた。一時の夢にあなたは目が眩んだ、自分の行動を決めたのはあなた自身よ」
鋭く叱責すれば、青年は弱ったうめき声を上げた。
さて、どうしても聞き出さなければならないことがある。人魚の夢の入手経路だ。英雄像の騒ぎに便乗して闇市場で売買が盛んにされた、そこまでは理解した。知りたいのは元締めだ。
ナターシャが抱く一番の危惧。それは、人魚族が意図的に「夢」を地上に供給している可能性だ。海底の民は地上の民を蔑んでいる、事実として認識している。人魚は人の形をしていても人とはまったく異なる心理を持つ者たちだ、純粋なる愉悦のために人間を殺すなどわけない。
そうだとしたら見過ごせない。異能の罪を暴く総監局の一員として、そして人間の世に混じる人魚として。思考が滲みだし、ナターシャの口調は自然と厳しくなる。
「どこで買った」
「サッ、サッチャーロの酒場。黒い、ローブの」
ナターシャが握った拳に爪が食い込んだ。黒いローブ、ルクノラムの信徒の衣装だ。神の救いを説く宗教人が、一方で死の薬を売り歩く。天使の顔をした悪魔、虚飾の極み、偽善者め。侮蔑の言葉が次々浮かび、とめどない怒りに支配される。
そんなナターシャに向かって、シローベは掠れた声で言葉を続けた。
「フードを被った、島の外の、が」
ナターシャは目を見張った。呆然としたまま二つの文章を反芻し、つなぎ合わせて次第を呑み込む。
黒い長衣でフードもかぶっている、島外より来た民。ああ、ぴたりと一致する人物を知っている。――一昨日、教会を荒らした有翼人、バダ・クライカ・イオニアンの一員と思しきあの者だ。
「ナターシャ様」
セレンも察したらしい。声は珍しく緊迫した色をにじませていた。
「わかってる。……行くわよ、急ぎましょう」
それだけ言って、ナターシャはセレンと連れ出し前だけをむき退出する。
その沈黙の背中をシローベの母親が追って来た。階段を降りかけたナターシャの腕をつかみ、すがりつく。このままでは転倒する、さすがに足を止めざるを得なかった。
「待ってください、うちの子は!? あの子はどうなるの!?」
聞くに苦しい悲嘆にくれた声、ナターシャは胸中でのみ呻いた。部屋を出る前、最後に見たシローベ青年は、狂乱の声を上げたまま部屋の隅に逃げ込んで、耳を塞ぎぶるぶる震えていた。そう、彼個人に関しては当初より何も解決していない。
だが、ナターシャにはここで出来ることはもう何もないのだ。「人魚の夢」を服用して壊れた精神が治った、そんな話は聞いたことがない。
ナターシャは重い息を吐いてから、顔中を濡らしている母親の方へと向き直り、立ったまま彼女の肩を軽く抑えて鎮める。そのまま縋りつく手を引っ込めさせると、正面切って静かに述べた。空虚な幻想を打ち払う、残酷な現実を。
「非常に残念ですが、ああなってしまっては、海に帰す他ありません」
宣告された女は魂が抜けたように呆然としていた。その隙にナターシャは彼女に背を向けて、セレンとともに階段を降りた。いつもの早足で歩いて。
一階に足を降ろしたとほぼ同時に、上から絶望に満ちた泣き声が響いてきた。その耳障りな音に耐えながら、玄関をくぐって外にでた。扉を閉めれば声は聞こえなくなった。
ナターシャは、己の一言の正解不正解を考えないようにしていた。そんなもの、答えが無いのだから悩んだって無駄である。
無言で町の通りを進む今のナターシャの内側を支配していたのは、垣間見た深い闇にいかに対処すべきかの煩悶と、悪に対する純粋な怒りであった。




