幻視破れり(2)
「ちょっとしたイタズラのつもりだったんです!」
静かな夜に男の涙声が響き渡った。
「それと、うちのギルドに警護依頼が来たら儲かるって……でも、ほんと、それだけで! こんな大ごとにするつもりじゃなかった! 見えなくしたのは確かに俺だけど……最初に噂流したのも、俺たちだけど……他はやってない! 誰も傷つけてないんだ! だから、グレーゴン送りは勘弁してくれぇ……!」
英雄像に仕掛けをした男は仁王立ちするナターシャの前でそう白状し、地に膝折りへこへこ頭を下げていた。ナターシャの目つきは水底の虫を見つめる時のそれだった。
ちなみにグレーゴンとは、同名の孤島にある収容所である。堅牢な砦のごとき建物内には、アビラを封じ込める措置がされており、荒ぶる潮流と断崖絶壁に囲われた島という立地も重なり、異能犯罪者を捕える世界最強の檻となっている。入れられたら二度と外の世界は拝めない。
今回の「ちょっとしたイタズラ」の処分がどうなるか、ナターシャ個人としては私情も込みで収容所に送ってしまえという意見だ。あいにく、その采配権はないため実現できない。直接の殺しや暴行を行っていないことを鑑みると、せいぜい政府認可ギルドからの除名処分で留まるだろう。
「最終的な処分はギルド担当局から通達されるわ。それまでは、治安部の方で拘留」
「そこをなんとか……! これ以上、なんにもしないって! ギルドで大人しくしてるからさ。あの司令おっかねえもん、嫌だよ……!」
「だったら最初からやるな!」
ナターシャが感情を剥き出しに一喝すると、男は「ひぃ」と情けない悲鳴をあげた。
*
総監局が英雄像事件の犯人を捕まえた。ナターシャ本人がもたらした報せに、真夜中の治安部隊詰所は色めきだっていた。
普段の態度からは考えにくい歓待を受け、下手人ともども一室に通され司令の到来を待っている。例の犯人には逃げるそぶりはなかったが、念のためセレンに彼の手首をつかまさせていた。もし逃亡の気配がしたら「やっちゃっていいから」との事前の命令に従い、即座に腕一本がへし折られるだろう。
ややして、乱暴な足音と共に司令マグナポーラが姿を見せた。仮眠中だったのを叩き起こされた、明らかに不機嫌である。
来ながらに部下から状況を説明されていたらしい。つりあがった目でナターシャの顔を見るなり、鼻を鳴らした。
「はん。で? それ締め上げて一件落着ってか」
「……まあ、英雄像が消えた件についてはね」
含みを持たせた言い方に、マグナポーラの顔がますます険しくなる。鬼のような形相で向いたのは、件の男の方だ。
気おされ肩を震わせる彼に、誰より男らしい女司令が額を寄せて凄んだ。
「じゃあ、他の事件はどうなってんだ。てめえの仲間か? ギルド潰してやればいいのか? あ?」
「ち、違いますぅ……」
「とぼけんなよ。てめえなんか、叩っ斬ったって構わねえんだ」
威圧的な態度にも、男は首をぶんぶん横に振るのみ。
嘘は言っていない。それはナターシャの憶測とも一致する。だから進んで助け舟を出してやった。
「待ちなさいよ。残りは全部、便乗だわ。直接はそいつが起こしたわけじゃない」
――たぶん、という単語は飲み込んで外に出さない。マグナポーラのような過激な輩には、白黒はっきりつけて言ったほうが効果的だ。でなければ、無理を通して灰色も黒に変えてしまうだろうから。
マグナポーラは舌打ちしてから男より目を逸らし、代わりにナターシャを見据えた。組んだ腕の上で、節くれだった指先が不定律を刻む。高慢な態度は身内相手でも変わらない。
だが、臆する必要はない。ナターシャは己の見解を堂々述べた。
二件の殺人事件は怨恨によるものだ。いま殺せば、英雄像のせいにできてしまう上、夜間の人気が減っているから犯行後も逃げやすい。そんな心理が凶行に駆り立てた。動機と手段と好機とが揃ってしまったら、後はやるかやらないか。
別口の二者の最後の一歩がたまたま同じ夜に踏み出され、事件の闇が一層深まってしまった。英雄像は罪を着せられただけ。
殺人でも便乗で出来ることなのだから、いわんや公共物の打ちこわしなど。日頃溜まっていた鬱憤を晴らすため、あるいはただの愉快犯など、理由はいくらでも思い浮かぶ。下手すれば、便乗商売をに走った連中の自作自演かもしれない。
とにかくナターシャに言わせれば、英雄像消失を除き、アビリスタの犯行でも何でもない。となればもちろん、総監局の出る幕でもない。
ナターシャは強気にマグナポーラに打って出た。
「一般人の犯罪者捕まえるのは、あんたらの仕事でしょ? 便乗して公共物壊した連中とか、殺人の犯人も、もっとちゃんと調べなさいよ! 向こうの裏通りの奥まで、すみずみね!」
ふん、と鼻を鳴らす。論は間違っていない、決まった、とナターシャは思った。
が、マグナポーラから真っ先に返って来たのは舌打ちだった。
「馬鹿人魚、てめえなんぞに説教かまされる筋合いはないね。こっちだって必死こいてやってんだ、人の事情も知らず、偉そうな口聞くな」
「やってる? 現にこんなに色々起こってんじゃない」
「ああ、そうだな、石像が跡形もなく消えるとかな。そういう異能のことはてめえんとこの管轄だ、なのにヴィジラが居ねえから、こっちで全部対処しなきゃならん。手が足りんわ、慣れてもいないわ、上手くできるわけないだろ」
「ヴィジラが、居ない?」
「何日か前に全員本島へ引き上げてった。どうせてめえんとこのクソ局長の指示だろ? なんにも聞いてないのか?」
ナターシャは真顔で首を横に振った。知らなかった。言われてみれば、捜査中に白服の存在は一切見かけなかった。あれだけ異様なものなのだから居れば絶対に意識する。
おかしいと思いつつも、考えればすぐに理由が察せられた。先日のなりすましによる機密漏洩事件の余波だ。中央諸島所属のヴィジラの個別面談をするつもりだ、事件直後にディニアスがそう言っていた。一対多では自ら出向くより非常招集をかけるた方が早いに決まっている。それもあって自分とセレンが代打に英雄像事件の始末へ送り込まれたのだろう、ナターシャはそこまで考えた。
知らなかったとはいえ、悪いことを言ったものだ。ナターシャは少し反省したが、しかしマグナポーラの嘲るような呆れ顔を見ている内に、謝罪の言葉を発せようという気は失せた。
*
詰所を出れば心地よい夜風が吹き抜けた。あてもなくぶらぶらと歩いて、今は波打ちつける埠頭に居た。闇に黒々と広がる海は静かにさざめいている。波止から足をぶら下げても飲み込まれてしまう心配はない。
ナターシャは水面に反射する月影をぼんやりと臨んでいた。揺れる光の合間から、伝説の邪竜が現れる……なんてことは起こらない。伝説は遥か過去のもの、現代の噂は偽りだったのだから。
世を騒がせた英雄像事件、種火をつけた男は捕まえた。便乗で起こった別件の始末はマグナポーラ隊に任せることになった。異能が関わっていないと推定される事件へ積極的に手を出すのは、総監局の職務範囲でない。それどころか規定違反になりかねない。
マグナポーラがどこまでやるかはわからないが、ナコラ港にはおのずと平和が戻ってくることは間違いない。事件の首謀者が捕まった、治安部隊をきっかけにそんな噂が街中に広まるのは時間の問題だ。
ナコラ港のキリング・ドール、そんなものの存在は人間の恐怖心が創り出した幻だった。人々に正しい事実が広まれば、騙されて踊らされることもなくなるだろう。
これにて一件落着である。
「って、言いたいんだけどね」
未解決の証拠と証言が手元に二つある。ため息の種はこれだ。
一つは昨夜の晩「切られた」と騒いだ茶髪の若者の件。彼が証拠だと言って押し付けて来た首なしルクノール人形は、宿にまだ残っている。
が、これも噂への便乗ではないかとナターシャは睨んでいた。犯人はあの若者自身で、目的は注目を浴びること、または信仰を集めること。冷静になって考えれば、襲われたにしては状況が不自然だ。第一、命からがらな目にあった人間が悠長に座って酒なんか飲もうとするだろうか。
とにかく、一旦これも殺人事件や破壊行為と同じように扱っていいだろう。後で報告したときに、ルクノールを信奉する局長からは一言二言いわれるかもしれないが、ナターシャには深追いするつもりはなかった。
それよりも重大なのが、もう一つの件である。ナターシャは目を細め、遠くにさざめく波をみやった。
「……あの人ねえ」
「裏通りの家ですか」
「そ」
上体をひねって、背後に立つセレンを仰いだ。彼女はじっとナターシャのことを見ていた。
もう一度海へと向き直る。体をひねった際にたまたま手に触った小石を握り、思い切り海の方へと投げた。静かな海面に波紋が生まれる。
そう。裏通りの家で出会った、英雄像を見て狂気に堕ちた青年の存在が、いまだ腑に落ちないのである。
ナターシャの背に、静かなセレンの呟きが下りて来た。
「嘘、でしょうか」
「いえ。多分違うと思う」
あの彼は嘘は言っていない、嘘をつける精神状態ではなかった。きっと彼は本当に英雄像を見たのだ。しかし、それは広場の英雄像ではなかった、それもまた事実なのだろう。
彼に何が起こったのか。ナターシャは一つの予感を抱いていた。
海を見やり目を細める。今宵の波は本当に静かだ、それがいやに不気味でもある。真っ暗な海の底から誰かがこちらを見ているような感覚に襲われる。伝説の邪竜などではなく、その主は――
ナターシャは軽く頭を横に振り、弱ったような笑みを作って立ち上がった。ぐっと腕を伸ばしながら、セレンに向き直る。
「ねえセレン。今日はもう休みましょ。それで、明日、最後のひと仕事。関わってしまった以上、無視してこれで終わりにはできないわ」
捜査の期間として与えられたのは五日間、しかしこの夜が明けてもまだ三日目。すべてを白日に晒す猶予はまだ残っている。
そして。ナコラで起こった数多くの事件でもこの話だけは、一般人に任せていい案件ではない。ナターシャはそう見通していた。
セレンと二人、海辺を去る。周りには他に誰も居ない、波の音が木霊するだけの静かな夜だ。
だがナターシャには、古き記憶にこびりつく、同族の笑い声の幻聴がしかと聞こえていた。




