幻視破れり(1)
埠頭近くの古臭い宿屋の一室にてナターシャは横になって眠っていた。窓からは夕焼け色が容赦なく侵入し、彼女の顔を染め上げる。もし外に身を乗り出せば、水平線に沈む赤い陽も見えるだろう。
「ナターシャ様。起きてください、時間です」
隣に控えていたセレンが声をかけると、ナターシャは少し顔をしかめてから目を開けた。
ベッドの上で上体を起こし、腕を伸ばしながら、くあと大あくびを一つ。仮眠のつもりであったが、存外深く眠ってしまった。
「雨は?」
ぼんやりする頭でセレンに向かって言ってから、聞くより見た方が早いと気がついた。乱れた赤い髪をときほぐしながら窓の方を振り返る。
「問題なさそうです」
セレンの言に違えず、見える空にはかすみ雲のみが浮いている。赤く暗く陰影の付くさまは薄気味悪くあるものの、雨を降らせる雲ではない。意気込んだ出足をくじかれることはなさそうだ。
「よし。……行きましょうか、噂のヴェールを引きはがしに」
衣服を正し立ち上がるナターシャには、眠りの国にいた形跡はどこにも残っていなかった。
*
なにもかも昨夜と変わり映えしない。暗さが増すにつれ人の気配が減る町並みも、静かにさざめく波も、吹き付ける潮風のにおいも、まったく。
もちろん広場の英雄像の様子も。これが変わっていては困る、また仮説立てからやり直しになってしまうから。だから、彼の凛とした立ち姿を見た時には、柄にもなく古の御魂に感謝したものだ。
さて、後は事の起こりを待つだけ。今宵も昨夜と同じならば、夜が深まった頃に英雄像は消えるだろう。そしてその隣には居るはずだ。姿の見えぬ、黒幕が。
一つ二つと進む時が、今日はいつにもましてゆっくりに感じられた。ただ待たされるだけはじれったい。しかし、ここで焦りを出しても無駄だ、むしろ悪い結果を招くのみ。
昨日と同じ下手人が現れたら。いや、別人でもいいから誰ぞ不審者の存在を察知――目に見えるか否かも問わずに――したら、すぐに知らせろ。セレンにはそう言い聞かせてある。今のところ彼女も動きは無く、像の周囲を注視しているのみだ。
ナターシャもいつものような無駄口を叩くのはやめにした。もし自分が話しかけたせいで敵を見逃されては責任問題だ。
それに、また昨夜のように喋らなくてもいいような話を出してしまったり、触れてはならない地雷を踏んでしまったりしてはたまらない。他にやることも無いこの状況、無意識に口が軽くなってしまうのは明らかである。
静かな月あかりの下、ナターシャは精神を静めてただ待つ。
状況が動いたのは、昨夜よりやや早めの時間帯だった。セレンが不意に眉目を上げ、首を海側に向ける。それから間髪入れずにナターシャへ告げた。
「来ました。海側から近寄ってきます。今、あの辺りに」
と指で示すが、ナターシャには何も見えなかった。そこには手入れが不足して雑草がはびこる花壇があるのみだ。
セレンが指で追う速度は一定、ゆっくりとした速さなのを見る限り、示す相手は自分の足で歩いている。絶対に見つからないという余裕の表れだろうか。無論、こちらには気づいていない。
見えざるものは、徐々に徐々に広場の中央へと迫る。セレンの指先を頼りにナターシャは彼の姿を追って行く。緊張で切れる息、小さく言葉も混じる。
「もうすぐだ、そろそろ……?」
セレンの指先が英雄像と重なった。
直後、石像は瞬き一つの間で姿を消した。
「消えた……ッ、撃てえっ、セレン!」
力の限り叫んだ。同時に傍らから光が発せられ、間髪入れずに幾筋もの白い光弾が闇を割るように飛んでいき、像のたもとを打ちぬいた。
一瞬、昼に等しい明るさが広場を襲った。暗闇に慣れた目には刺さり過ぎる光だ。ナターシャは反射的に腕で顔を覆った。
幾度も目を瞬かせて、光の残渣を追い払う。再び夜に目を慣らし、ようやく周りがまともに見えるようになってから顔を上げて広場を見渡した。
英雄像は戻ってきていた。否、透明にされただけで最初からそこに居たのだろう。何事も無かったかのように、広場の中央でナコラの守護者として佇んでいる。
そして、広場には一人の人間が倒れていた。筋肉で引きしまった重みのある体つきだが、高エネルギーの魔弾にて無残に吹っ飛ばされたらしい。英雄像からはかなり離れたところで、目を覆いながらもんどりうっている男。違いない、あれぞ騒動の犯人だ。
男はよろめきながら立ち上がる。足元はふらつくし、目も完全に回復していない様子だが、それでも一生懸命走って町の方へと逃げようと。
「待て、逃げるな!」
ナターシャは踏み出した。こちらは準備万端、向こうはあのざま、これなら十分追いつける。消えられたら終わりだが、様子を見るに、アビラを使う余力は無いようだ。
急げ。無心で駆けだしたその時、ナターシャの速力を圧倒する光が、真っ直ぐに男の方へと飛んでいった。先ほどとは違う色、今度は紫の一閃だ。
妖しげな色の魔法弾が男の背中に当たる。刹那、彼はたたらを踏んで、その場で膝から崩れ落ち横たわった。手足を投げ出して、それっきり動かない。
後に残ったのは風が吹き荒ぶ音のみ。
ナターシャは呆気に取られていた。まさか。緊迫した面持ちでセレンを勢いよく振り向く。
「殺したん――」
「寝ているだけです」
いつもより食い気味の返事だった。内容を理解するより先に、勢いにまず閉口させられる。もちろん続けて言葉の意味も理解するが。
ナターシャは脱力感と感心の意を混ぜた、複雑な思いにとらわれた。
「ええー……セレン、あなたそんなこともできるの」
「八色、撃てます」
「なんで八?」
「赤、青、黄、緑、橙、紫、白、黒。魔力の分類と同様です。赤は炎、青は氷、黄は――」
「ああ、うん、もういいわ。また今度、ゆっくりと聞かせて」
長くなりそうな気配に慌てて制止をかけた。「また」が本当にあるかは別としても、とかく講義を受けている場合ではない。セレンもすぐに口を閉ざした。
今は、あの男への対応が最優先だ。
歩み寄り見た男は確かに眠っているだけであった。一体どんな夢を見ているのだろう、赤子も顔負けの安らかな表情である。露わにしている肩口は筋骨隆々としていて牙剥く鮫のタトゥーまで入れているが、その厳つさも形無しだ。
さて、このままいい夢を見させておくつもりはない。ナターシャは男の頭側に回り込み、片膝をついてしゃがみこんだ。
「こら! 起きろ!」
激しく叱責しながら体を揺さぶる。それでも反応が無いから、頬をぴしゃりと打ち据えて。しかし男はむにゃむにゃと意味のない寝言を吐くだけで目を覚ます気配が無い。
いっそ拳で殴ってしまおうか。襟首を捕まえたままナターシャが躊躇っていると、セレンが動いた。
彼女の手のひらから小さな黄色い弾が出て、男の肩甲骨の辺りに飛ぶ。体に触れた瞬間、男の体が大きく跳ねた。
そしてナターシャにも効果が伝わる。掴んでいた手にぴりっとした痛みが走って、慌てて手を引っ込めた。
こうした異能に不理解なナターシャでも、黄色い弾に込められた力の正体はなんとなくわかった。肌を刺すようなこの感触、海中に居た時に味わったことがある。海上が嵐で、落雷があった時に。
男はうめき声を上げながら、ゆっくりと目を開けた。灰色の瞳がもたげられ、ナターシャの冷たい目とかちあう。
「うっ……あああっ!」
血の気を引かせながら、男は腕を使って後ずさり。しかしそちらにはセレンが居る。背が当たったから振り返り、びくりと肩を震わせた。
己の置かれた状況を悟ったか。男は冷や汗を垂れ流す。緊迫した表情で前後を交互にみながら、すっと腕を動かした。
もしや、透明化の力を使って逃げる気か。見つけた瞬間にナターシャは動いていた。その太い手首をわしづかみにして、ねじり、押さえつける。
焦った男に、ナターシャは厳とした響きで勝利宣言をする。
「異能対策省総合監視局のナターシャです。英雄像消失事件の被疑者として、あなたを拘束させていただきます。抵抗する場合は――」
「危険異能排除法に基づき、この場で処断します」
淡々と静かに言うため、並ならぬ重圧感を醸す。更にはセレンの感情の無い顔。男は生唾を飲み込んだ。そして、白旗を掲げた。




