月下奔走(1)
天に輝く白い月は、熱帯の港町の風景の中どこか寒々として見える。ナコラの夜を恐怖で支配する者の目の光はかようなものだろうか。
日没後、町から人の気配が消えた。平和な日常ならば、英雄像の広場には屋台が並び夜更けまで遊ぶ船乗りや住民で賑わっているのだが、今は夜警のかがり火が寂しく揺らめくのみ。赤い炎にぼんやり照らし出される石像は、いつにもまして不気味である。
海を右手、町を左手に広場を一望できる。そんな絶好の位置にある植え込みの陰にて、ナターシャとセレンの二人は日没からずっと英雄像を見張っていた。ただし今現在はセレン一人でその役を担っていたが。ナターシャは一つ思うことがあり一時的に場を離れていた。
そして、たった今戻って来た。足早に歩いてきた彼女の手には、木を削ってつくったコップが二つ。この諸島ではなじみ深い、ヤシの実とパヤ・ポヤという果物のジュースだ。パヤ・ポヤは干したものが兵糧にされるほどに栄養価が高い果物である。ジュースにして飲めば、これより手軽な栄養補給法も他に無い。どうにか開いている酒場を見つけ、頼み込んでコップごと売ってもらった。
「ほらセレン。あんたもちょっと体力つけときなさい」
セレンに片方を渡しながら、先に自分が一口。すぐさま吸収された養分が血流と共に疲労の溜まった体に行きわたる、そんなイメージをして気持ちを高めると、実際にそのように効果が出る気がする。
セレンはしばらく両手で持ったコップとにらめっこしていたが、やがてナターシャに習ってちびちびと飲み始めた。感想を言うことも無く、ただひたすら是とも否ともつかない微妙な気を醸している。
もしかしたら口に合わなかったかもしれない。セレンの出身は南方大陸、それだけ離れていれば食文化も大きく違うだろう。
だが、ここは慣れてもらうしかない。だからナターシャはあえて何も言わなかった。我慢するか、異文化の中から自分に合うものを取捨選択するか、どちらにせよ本人の努力次第となる。かく言うナターシャも、地上に出た直後の食生活には大変苦労した。いかんせん海の中で暮らしていたのだ、火を使って調理をする光景を見たのは衝撃だったし、「飲み物」に関しては概念すらなくて理解に苦しんだ。
もう二十年以上昔のことだ、懐かしい。ナターシャはうっすらと目を細め、手にしたコップを見つめた。もはやすっかり地上の生き物になってしまった。それでも、いまなお耳に吹き抜ける潮騒の音、それは心地よく体に染み渡る。
「ねえ。セレンは、さ」
「はい」
「どうして中央諸島に来たわけ? しかも、中枢に入っちゃってさ。アビリスタだと肩身狭いじゃない、政府って」
人魚族は服を着て立っていれば人間と見分けがつかないし、ナターシャ個人に限っては妙な異能も無い。だから人間として溶け込むのは、一度達成さえしてしまえば継続は難くなかった。そして入り込んでしまえば、政府中枢の懐はこの世で最も安全な場所だった……今となっては、過去形になってしまったが。
一方のセレンは初めからアビリスタだという前提で任官されたもの。異能を忌避する政府の中で堂々それを主張するのは勇気が要ることであるし、リスクも大きい。何かあればすぐ弾劾され、あるいは法を盾に命すらとられかねない。
セレンという人物はどんな覚悟のもとここに居るのか。自分の半生にも満たないうら若き娘は何を胸中に抱いているのか。ナターシャはそれを知りたくて、月下に透き通るセレンの眼を覗きこむ。
しかし、彼女は相変わらず情感のこもらない言葉で答えるのみだった。
「ディニアス様に連れてこられましたので。それだけです」
ナターシャは嘆息の中に呆れを隠さなかった。
「また、それ。あんたねえ、もっと自分でちゃんと考えた方がいいわよ。特にあいつの言うことなんて一番鵜呑みにしちゃだめだし。全部真に受けてたら身が持たないわよ」
「そうでもありません。ディニアス様の言うことは、すべて正しいのです」
「もうっ! それがあたしには全然理解できないのよ。あんた、あれのどこがいいの? 盲信するにも、もっとまともな奴がいくらでもいるでしょ。あんな他人を見下すことしか考えてないような屑じゃなくてさ」
「……私には、ディニアス様しかおりませんから」
静かな口調で放たれた言葉にナターシャは閉口した。気圧されたのだ。言葉と共にまみえたセレンの双眸には、控えめながら苛立ちの灯がともっていた。ようやく彼女の感情が読み取れたが、しかし、望んだようなものではない。
ナターシャは気を紛らわせるように髪に手櫛を入れた。一体なんだというのだ、まるで恋人や親兄弟を侮辱したような扱いではないか。よもや、本当にそのような縁に繋がれる仲だというのか。親類縁者の縁故によって官吏に登用される自体はままある話ではあるが。
それならそれで構わないとは思う。セレンが思慕する相手が、自分の心の底より嫌悪する相手でも、ナターシャには関係ない。好きで付いていくのなら勝手にしてくれ。
ただ、危うい、そう思う。たった一つの理想に縋りつき、その唯一寄る辺として来た足場が崩れ去った時、一体何を頼りに暗い穴の底から這いあがればいいのだろうか。――ナターシャの場合は、自分自身の意志がその糧であった。
そう思い至ってしまったら、頭の片隅でお節介との単語を浮かべながらも、つい口を開かずには居られなかった。目線は英雄像に向けて、飲み物で口を湿らせた後、ぽつぽつと。
「……あたしはさ、人魚なのよね」
「知っております」
「そ。……それで、まあ、なんで地上に出て来たかっていうと。結局さ、嫌になったのよね。海の底での暮らしも、あの連中そのものも、なにもかも」
あまり愉快な話ではない。波の音と潮風の匂いと動かぬ石像の姿に誘われて、つい胸中から引き出してしまったが、セレンとて聞いて不快になるかもしれない。なかば自己嫌悪でナターシャは顔をしかめた。
それでもここで急に無言になるのも不自然だ。
もう一度コップを口にやり、しかしいつの間にか空になっていたと気づく。所在なく指で弄りながら、ナターシャは静かに言葉を連ねた。
「あんたがどこまで知ってるかはわかんないけど、人魚ってね、地上の人が思うよりいいものじゃないわ。利己的で傲慢で凶暴。地上のことは蔑んで、自分たちこそ至高の生物だと信じて疑わない。岩礁で唄う人魚姫? そんな下手な夢見て近づいて見なさいよ、向こうの思う壺、海中に引きずり込まれて殺されるわ」
ナターシャは自嘲して肩を揺らした。
この世界の人間が「人魚」という存在について現実離れした夢を抱いている、ナターシャが地上に出でて強烈なショックを受けたことの一つだ。見たことが無いものを都合よく解釈していった末だろう。人魚は優しくて臆病、心身共に美しく穢れを知らない、果てには女しかいないとか、血肉が万病の薬になるとか、とんだ与太話まである始末。現実は、ただ水の中に住むだけで人間と同じだ。
突然セレンが少し首を傾げ、ナターシャを見た。
「しかし、そう言うナターシャ様も人魚族です。おかしなことです。なぜ、他人事のように言うのですか?」
「まあ、あたしは人魚として出来損ないだから」
自分でも意外なほどにあっさりとその言葉が口をつき、少しおかしくなってナターシャは含み笑いをした。一度始まった流れは止まらない、ぱっと冗談めかして手を広げ朗々と語る。
「そりゃもうひどい扱いだったわよ。なんて言うのかな、アビリスタが差別されるのと同じ、みたいな。あたしになら何言ってもいいって感じでさ。だから嫌になって地上に飛び出してきたわけだけど……結局はそんなに変わんなかったわ」
人魚なら当たり前にできる水の操作、それができなかったのが致命的だった。親兄弟からもつらく当たられる始末。地上での異能差別の逆をナターシャは幼少より味わっていたのだ。
そんなナターシャの逃げ道は海の上の世界にしかなかった。人魚に嫌われる自分の居場所は、人魚の嫌う地上だ、と。まだ見ぬ地上こそ自分の理想郷に違いない、ナターシャは並ならぬ夢を抱き、それを唯一の糧として生まれた海を捨て陸に出でた。
しかし現実は、水陸の境を越えても同じであったのだ。人間の世界に混じろうとすれば、今度は亜人だからと差別を受けた。それを体感した瞬間にナターシャの縋って来た夢という足場は脆く崩れ去った。
当初は暗く沈んだ。しかしナターシャは倒れはしなかった。――もう夢は見ない。もう理想は追わない。ただ、目の前にある現実を受け入れて、死に物狂いで生きていくしかない。その中でただ信じられるものは、自分の心のみ。己をそう駆り立て、十数年と歩き続け色々な困難を乗り越え、そして果てに現在のナターシャがある。
「あーあ、ごめん、どうでもいい話しちゃった。セレン、忘れていいわよ」
投げやりな気配を露わに手をひらりと振った。同情して欲しいとも、教訓として心に留めて欲しいとも思わない。ただ、自分が衝動的に喋りたくなっただけだから。
事実、セレンは関心の無いようにゆっくりとナターシャから目を逸らし、英雄像の見張りに戻った。
夜もいよいよ深まってきた。英雄像が月光の下で凛々しく立つ姿にはまったく変化が起こらない。周囲に人の気配も無く、たまに誰かが来たと思えば巡回中の治安部隊くらいのもの。
待つ、ひたすら待つ。
結局のところ、ナターシャはこんな時に黙ってじっとしていられない性分なのだ。空のコップを植え込みの縁に置き、ほんの軽い雑談程度に疑問を口にした。
「そういや、セレンってここに来る前はどこで何してたの? 南方大陸の出身ってのは聞いたけど、そっちで役人やってたとか?」
「その質問には答えかねます」
即答。あまりにもきっぱりとした物言いにナターシャは目を丸くした。今までセレンがここまで素早く拒否の意を示したことはなかった。咎めるつもりはないが、ただ、驚いた。
それきりで返答は終わりかと思ったが、違った。セレンは半分ほど目を伏せて、声の調子を落とし続けた。
「ただ……。こういう場合は、『アスクバーナより来た』とのみ答えれば良いと、ディニアス様からは言われております」
途端、ナターシャの息が止まった。冷や汗がつうと額を伝う。
南方大陸はアスクバーナ地方。統一政府と現地勢力とが今なお覇権を争っている、要は戦争地帯だ。政府の人ならば誰もが知っていること。政府と旧王国勢力との陣営に加え、傭兵稼業に勤しむ異能者ギルドや、甘い汁を吸おうする闇社会の組織やら、様々な勢力の思惑が入り混じった結果、地獄のような混沌の地と化している、それも周知のことだ。
答えられない、理由に察しはついた。同時にセレン自身の異質さも腑に落ちた。殺すか殺されるかの世界、弱きものは蹂躙され利用される運命、そんな地で見たものを語りたくはないだろう。かつその中で生き繋いで来たのなら、倫理や常識、そして人間らしい心すら失っていてもおかしくはない。
そして。もしそんな地獄の中で、手を差し伸べ救い上げてくれた存在に出会えたのだとしたら。その人物に絶対の忠誠を誓うこと、ああ、なにもおかしくはない。かような相手を盲信することをなぜ咎められようか。
「……ごめん、色々」
ナターシャは迂闊な発言を後悔し、罪悪感すら抱いていた。
気まずい空気が流れる。セレンは何も言わない。ただ、暗い瞳で何も無い空間を一点に見据えているのみだ。
どうしよう、まだ共に捜査をしなければならないのに。自分の馬鹿者。ナターシャは己に罵声を浴びせながら、いかにこの場を持ち直すか頭を抱えた。
だがその時。ついに待っていた瞬間が訪れた。
英雄像が消えた。
ただし動いて何処かへ行った……ではなく、文字通り、その場で跡形もなく消えた。先ほどまで居た石像がぱっと姿を消し、向こうの風景が見えるようになった。その瞬間をナターシャもセレンも確かに目撃した。
「待って、消えるって、えっ、そんななの!?」
「ナターシャ様――」
「行くわよッ、セレン!」
ナターシャは焦るように駆け出していた。失言など、もう今はどうでもいい、後でいくらでも謝り倒してやる。それよりも今は。言葉の二の矢は必要なく、セレンは遅れることなくナターシャの横に付いてきた。
一体どうやって、誰が、どこに。わからないが、ここに居ないということは、別の場所に居るのだけは確実だ。英雄像の姿を見出すべく、ナターシャたちは寝静まる月下の町に奔走を始めた。




