ナコラ港にて(3)
曲がりくねった上り道を前進するほどに人の集まる気配が強くなる。進むにつれて無意識に足も早くなる。
やがて教会のドーム屋根が風景の中に見えたころには、耳をつく音は明瞭な言葉へと変じていた。
「我らが主は、すべて等しくお守りくださいます! さあ、祈りを! さあ、忠誠を!」
向かう先はほぼ予想通りの状況らしい。青空の下はきはきと通る声口調はいかにも他者に高説を垂れる人間が武器とするそれだ。
白壁の教会の全景を視界に収めたところで、ナターシャは一度足を止めた。群衆の内に入るより、外側から眺めた方が見えてくるものもある。セレンもナターシャの隣に寄り添うように直立する。
開け放たれた黒鉄の門、その脇にいかにもな急ごしらえで設置されたお立ち台の上で、真っ黒の祭服を来た司教が神の救済を延々説き続けている。そして二十を超える民衆が熱心に耳を傾けていた。それもルクノラム教の黒い修道服を纏った信徒だけでない、老いも若きも色々だ。不安を除くためならば、人は普段は見向きもしない神にも縋り付く。目の前の光景が実証していた。
しかし、この照り付ける太陽の下で黒の長衣とはさぞ暑かろう。人を集めて神に祈るための聖堂はすぐ後ろにあるというのに、なぜ道端でこんなことをしているのか。少し不自然ではないか。
理由を探るべく、ナターシャはゆっくりと群衆の輪に近寄り、遠巻きにして中央を覗きこんだ。すると、見えた。司教が立つ隣で、敷き布を広げた上に座った教会の人間がもう一人居た。
そして決定的な瞬間。教会の人間が聴衆から銀貨を受け取って、代わりに手元の何かを渡している。なるほど、物売り。それなら納得だ、利益の増加を目論むなら目立つところで声を出すに決まっている。
では、何を販売しているか。人形だった。木製の粗削りな素体に、黒い祭服が着せてある人形。頭は黒糸で表現された長い髪で、顔の彫り方はまちまちのため個々で表情が違って見えたが、一様に伏し目がちで薄っすら笑んでいるのを見せたかったのだろう。それが彼らの神・ルクノールの基準的な相貌だから、それを知っているならそう見える。
今もまた、一人が金を渡して人形を受け取っている。売り手の箱の中にある銀貨金貨の量を見るに、売れ行きは好調な様子。
ナターシャは露骨に眉を潜めた。公共の場でなかったら吐き気を覚えたとアピールしていたかもしれない。弱みにつけいり利益を得る、その行為自体は商売人も同じだったのに、宗教が絡んだ途端に胡散臭くなるのは、単にナターシャが無神論者だからそう思うのだろうか。
私怨半分にナターシャは意識を売り手の口上に向けた。犯罪を示唆することを含ませてやいないだろうか、と。であればさっさと捕まえるのだが。
「我らが主は言いました、『光無き夜を恐れることは無い』と。我らが主、ルクノール様はいかなる呪いをも跳ね除けてくださいます。枕元に置き、お祈りください。真の信心を捧げれば、危急窮まったその時に、我が主の御魂がその像に宿りて邪悪を打ち払ってくださるでしょうから」
ナターシャは呆れて口を開けた。大層な言い回しをしているが、商人たちのように言い換えれば、「呪いの動く英雄像には、動く神の像で対抗だ!」となる。あまりにも荒唐無稽な話、聞いてる方もよく信じるものだ。
それにもう一点、鼻持ちならないことがある。そもそも恐怖の対象は動く石像だっただろう。枕元の人形が動くのはそれと何が違う?
はああ、とナターシャは額を押さえて長い溜息をついた。
「やんなっちゃうわ。神だっていうなら、そういう差別思想こそどうにかすべきよ。あっ……そうだ、セレン、あなたはどうなの? 神様とか信じる方?」
もしそうだったら、失言だ。セレンが信奉するディニアスは、ルクノールを狂信している――ただし、教会の者たちのように経典を読んだり黒い服を着たりといった姿は見たことが無いから口だけかもしれないが――だから、彼女もまた信徒であってもおかしくない。今後のためにも確かめておきたかった。
ところが、振りかえった隣にセレンは居なかった。
ひやりとナターシャの全身を嫌な汗が伝う。ずっと黙って付き従っていたから、油断していた。
ナターシャは赤い髪を振り乱し、辺りをうかがった。すると、たたずむセレンの後姿が、門に向かって左手に伸びる道の方に見えた。ひとまずは安心、額の汗を腕で拭った。
「……セレン?」
やや警戒心を持ちながら、ナターシャはセレンに歩み寄った。前方一点を見据えていた彼女は、声に応じて振り向いた。
「ナターシャ様。あれを。先ほど教会内より出てきましたが、少し気になりました」
セレンが指さしたのは、教会に背を向け遠ざかる黒ローブの姿だった。ご丁寧にフードも被っている。ここが教会である以上別に不思議なものではない。
「はあ……あれがどうしたのよ。教会に信徒が居たってなにも変じゃないわ」
「ですが、有翼人です」
「えっ?」
「魔力でわかります。風の気質が確かに」
慌てて黒服の方を見返した。しかし、あいにくナターシャには何もわからない。
有翼人。連想するのは先日の騒動、そして昨今の世を騒がせるバダ・クライカ・イオニアン。神ルクノールに真っ向から対立する宗教集団だ。
追え。衝動が駆り立てる。セレンの言を信じるならばそうすべきだ。バダ・クライカがルクノラムの関連施設に出入りする、そんなの普通でない。非常な事をする輩には必ずのっぴきならない動機と目的があるはず。
いや、追う必要はない。ナターシャの理性は真っ向から反対する意見を叫んでいた。有翼人だから反骨の徒、そう決めつけるのはナンセンス、本当にルクノールを崇めている慎ましやかな神の徒だったらどう責任を取る。地上に生きる人魚たる自分自身がイレギュラーなのに、固定観念で動いていいものか。
結局ナターシャは自らの冷静な部分を信じて、二の足を踏んだ。だってまだ何も事件は起こっていない。亜人だから問答無用で捕らえる、偏見とも言って良い、正義にもとる行為だろう。
泰然と遠ざかる黒い影をナターシャは腕を組んで見送った。セレンも特に文句は言ってこない。
と、その時だった。背後の教会より、耳をつんざく声が轟いた。
「司教さまッ、大変ですッ! ルクノール様の、祭壇が、壊されて……!」
息切れぎれの報せが変動を生んだ。説教の声は止み、発狂の音が上がり、そして同時に黒服の影が駆けだした。
――しまった!
失敗した、ナターシャは己の選択を悔やんだ。しかし、それで身動き取れなくなるような魂ではない。汚名は返上するためにあるもの。
「行くわよ!」
セレンを促すと同時に、自ら率先して黒い影の後を追う。わき目もふらず愚直に。
しばし続いたのは遊び心の無い鬼ごっこ。速度はさほど変わらず、勝負は膠着といったところ。持久力にはいささかナターシャが劣ったが、肩で息をし始めた彼女の代わりに、セレンが一歩前を行くかたちでフォローし、敵を逃さぬよう追尾する。
だが、戦場が問題であった。有翼人が逃げ込んだのはかなり入り組んだ裏路地だった。道幅せまく障害物も多種多様、何より死角が多い。角を曲がられ視界から消えたものを足音を頼みに再追跡する。それが幾たびも続き……最後は完全に見失った。
しばらく周囲を探したが気配のかけらも無かった。いずれかの建物内に逃げ込まれたのだろうか、それを見つけ出すのは至難の業だ。
ナターシャは切れ切れの息を整えながら悔しげに自分の腿を叩いた。沸いた血がめぐる頭で考える。セレンの直感を信じて最初から追っていれば……? いや、たらればの夢想は無駄だ、そんなことをしている暇に現実に対応すべきである。
「このことは、あとで、特命部へ、知らせましょ。子どもの悪戯みたいに、程度が低くても、犯罪は、犯罪だわ」
治安部隊の詰所に行けば、中枢との短距離通信用の小型伝書鳥が飼われている。理由を話せば借りられるだろう。バダ・クライカの対応なら向こうに任せた方が無難だ。それに、下手にやぶをつつき大事になってしまったら、ナターシャだけではとても手に追えない。
しかし、こんなところで出くわすとは。昨日の落書きの件もまだ未解決のままで、果たしてどれだけの闇が身近に潜んでいるのやら、。ぞっとしてくる。
「……駄目ね。今は放っといて、切り替えないと」
未だ息が切れるままだが、本命の捜査に戻るべくナターシャは額の汗を拭って足を進めだした。一方の付き従うセレンが汗一つかいていない様子だったのが、少々羨ましい。
ナターシャは太陽の位置を頼りに、広場の方角を目指していた。早足だ。というのも、この裏町ともいうべき区域は、少々風紀が悪いため。家屋に混じっていかがわしい店が点在し、倫理観の怪しい人も多いとか。女ふたりで歩き回ると無用な厄介を招きかねない。
現に今も入れ墨だらけで明らかに堅気でない風貌の男が、行く先にある建物の前で煙草をふかしている。
手前で道を曲がろう。そう思ったところで、しかし別の考えが浮かんだ。――夜の町の状況に詳しいのは、こういう暗い世界の人の方なのでは?
だからナターシャはあえて直進した。男の方もこちらに気づき、向こうから声をかけてくる始末。下卑な笑みが気に障るが、ここは我慢だ。
「ほおう、政府のねーちゃんたちぃ。遊んでいくかい? ちょっとくらいバレやしねえさ。あんたらみたいな美人さんたちなら、大歓迎だぜ」
「悪いけど忙しいの」
掴まれそうになった手をひらひらと振ってかわした。セレンもナターシャと同じく、男に触れられない距離を保って立つ。
「そう、聞きたいことがあるんだけど。まず、あんたらって夜もうろちょろしてる?」
「もちろんさ。……はっはあ、英雄像の話だな?」
「その通りよ。くだらない話でも良いわ、なにか知ってることがあったら、教えてほしいんだけど」
「さあなあ。俺は見たことねえや。つーか、誰も見たことねえんじゃねえの? 動いてるとこ見たら殺されるんだろ? 死んだら喋れねえもん」
ぎゃははとふざけたように男は笑ったが、しかし言っていることはもっとも。姿を消して蠢いていると当然のように語られるのに、実際は誰も姿を見たことは無い。やはりそこが一番大きな違和感のもとである。どういう仕掛けか、なんの意図が絡んでいるのか。ナターシャは更に探るように水色の目を細めた。
「噂の出所とか……それって、あんたは誰から聞いたの?」
「さあ、覚えてねえなあ。気づいたら町中で話題になってたんだ。しっかし、めちゃくちゃな話だと思わんかい? おとぎ話の、邪竜が襲ってきましたーだなんてよぉ。最初に言い出した奴ってのは、単に危ねえ薬でもヤってた馬鹿なんじゃねーの? ヒャハハハ」
ぴくりとナターシャのこめかみが震えた。この文脈で言う薬とは、幻覚剤や精神薬の類だ。物によっては人を殺す、怪しい魔の力が噛んでいる、無法社会の通貨様に扱われているなどの理由から、政府によって厳しい監視がされている。だから政府の人間としては、そしてナターシャ個人としても、あまり笑ってやり過ごせる言葉ではない。
しかし今は動揺する心を押さえ、聴取に集中するべきだろう。
「じゃあ、一昨日殺された二人について、なんか知らない? 知り合いとか」
「おーおー知り合いならいるぜい。教えてやってもいいが」
「が?」
「いやあ、さすがに情報料が欲しいなあって。金でもいいが、どっちかっていうと――」
前触れもなく男はナターシャに飛びかかるって肩を抱き、そのまま豊かな胸をわしづかみにした。
あまりに突然のことにナターシャは目を見開いて固まっていた。しかし、すぐに頭に血を昇らせ、拳を握り、耳障りな笑い声を上げている顎に向かって突き上げようとした。
しかし、ナターシャが怒りを放つより先に、セレンが動いた。
自分より二回りは太い男の片腕を、セレンは力ずくでナターシャから引きはがしてひねりあげ、彼が情けない悲鳴を上げるのもなんのその横腹を思い切り蹴飛ばした。
地面に転げる男に、セレンはさらに追撃を加える。みぞおちをブーツで蹴り上げ、壁際に倒れ込んだ男にさらに踏み込んだ。華奢な手で男の太い首に輪をするよう手をかけ、そのまま押し付ける。
男の顔がみるみる変色し、強靭な拘束を外そうと必死でもがき苦しんでいるが、セレンは血も涙もない虚無の顔をして、抵抗を涼やかに受け流していた。




