異能対策省・総合監視局(1)
轟音と共に屋敷の壁は崩落し、白く清浄な月の光がその光景を冷たく照らし出す。
血染めの絨毯に、首から上を失くした男の骸。割られた腹よりは働くことを止めた臓腑が引きずり出され、胸には金色の剣が、標本を縫いとめる針のごとく突き立っていた。もう少し光源が強ければ、壁に描かれた血赤色の絵画をも神々しく照らしていただろうが、今はまだ闇の中である。
あってはならない凄惨な光景だ。ここは世界で最も威のある島なのだから。法治を揺るがし平穏を脅かす事件など起こらないし、起こってはならない。だが、現実は非情である。
夜に響いた破壊の音に、寝静まっていた人間が騒ぎ出し、靴の音が迫り来る。
しかし事件の扉が開かれるより前に、眩い光の塊が崩れた壁の向こうへと飛び去った。それは光速で夜空を割り、屋敷からも見える大理石の宮殿を晒しものにしてから、彼方へと消えていった。
あとに残ったのは、未だ夜に眠る静寂の島と、ざわざわと騒ぐ波の音。そして屋敷の者たちの悲鳴のみ。血を滴らせる咎人はどこにも居なかった。
Chapter 1:邪教の影
潮風吹くこの島は、イオニアンの世界における政の中心だ。丘の上に建つ神殿のごとき見目の宮殿が四つの大陸を取りまとめる政府の中枢として機能している。正義と権威の旗の下、世の平和と発展を図る。そのために数々の省局が設置されていた。司法、治安維持、経済、学問――そして異能対策。
異能。普通の「人間」から見て、普通ではない不思議な力を全般に指す、あるいはその持ち主自体を示す言葉である。その「アビラ」と名付けられた人外の力は、日常を一瞬で崩壊させるほどの脅威であると同時に、有用なものとして利用も可能。異能対策省はその折衷をなすための機関だ。
その一つ、総合監視局――通称「総監局」へ、一人の女が向かっていた。名をナターシャ=メランズという。煮え切らない苛立ちを含んだ険しい足取りで、大理石の廊下を颯爽と通過する。周りの人間を怯えひるませ、あるいは注目を集めながら。
珊瑚礁の海を思わせる瞳、濁りなど皆無の白肌、しっとりと濡れた唇、明度の低い赤色のさらりと流れる長い髪、すらりと伸びた細い手足。ナターシャの全身には、男を惑わせるような麗しさが漂っている。
しかし、すれ違う人間たちは彼女を遠巻きにするばかり。注目は決して好意的なものではない。ナターシャの眉間に深い谷が刻まれる。
「まったく……今日はことさら……」
ひどい。そこまでは言い切らなかった。人間より軽蔑されるのはいつものこと、無闇に嘆いてもしかたがないから。
理由は二つある。一つは、ナターシャが総監局に在籍している事実から。この部局は他から「流刑地」と呼ばれ、疎まれる機関なのだ。
総監局の仕事は、異能が絡む事件や不可解な現象の調査と解明全般である。中枢機関であるから、世界全てが管轄だ。四方の大陸からやってくる膨大な情報を取りまとめ、場合によっては海を越えて現場を走り回らされる。おまけに異能を相手取る仕事柄、調査中に消息不明になったり、不審死を遂げたりすることがままあるときた。
そのせいで重要な部署にも関わらず、進んで入りたがる者が居ないのだ。結果として、他所で問題がある人物を左遷する「流刑地」となっている。あそこには絶対に関わりたくない、それが大半の一般政務官の心の内である。
そしてもう一つ、ナターシャが煙たがられる原因。それは、彼女が人間ではないためだ。
見た目は人間と変わらない、しかしナターシャに流れる血は、イオニアンの亜人種の一つ「人魚族」のそれだ。なお、人魚の外見が人間に等しいのは元々で変身しているわけではない。深い海の中で長いドレスを着て高速で泳ぐ人影を地上の人間は魚の下半身と誤認して、半人半魚の幻想生物だと名付けた次第だ。
人魚族をそうたらしめる唯一たる身体的特徴は、首の根元にあるえらの穴だ。ただ、ナターシャの場合、地上生活が長いせいでこれも塞がってしまっている。さらに政務官の制服は立襟だから痕跡すらも外からは隠れて、まったく人間そのまま。自ら出自を語らなければ、亜人だと思われることも無く差別されることもない。
事実、半年前に秘密を暴露されるまでは地上の誰にも亜人だとは思われず、ナターシャの心は平和そのものだったのだ。そしてこのような刺々しい視線を浴びることも無かった。
だから、半年前の事件を思い出すと今でもむかつきが止まらない。
『だって、ナターシャさん、あなた、人魚ですものねえ』
周りに聞こえるわざとらしい大声で、含み笑いと共に放たれた、とある男の文言。否定はしなかった。十年来隠し通せてきたことを悟られた、その尋常ではない驚きで言葉を失っていた。なおかつ自らの生まれを否定するまでに尊厳を落とすこともできなかった。
亜人は異能使い以上の人外、異端者だ。人間の政府に居るべきでない。政府の大意はそんなところであるから、ナターシャは流刑地送りにさせられた。そして今の恐れ厭われる政務官となったのである。
望まずして居場所になってしまった総監局執務室、古びた扉のくすんだ真鍮の把手を、ナターシャは八つ当たりの勢いで開けた。険しい足音で踏み込んで、扉を乱暴に扉を閉める。空気が震え、天井に届く書棚ががたがたと揺れる。
先に居た同僚が呆れ混じりの野太い溜息をこぼす。ナターシャはそれも無視して、中央に寄せ並べられた机の一つに寄り、足で引っかけるようにして椅子を出すと、腕を組んで、すとんと腰をおろした。
「おい」
「別に。なんでもないわよ」
言葉と裏腹、何かに怒ってるのは明らかだ。向かいの机に居る男は、燃えるような赤色の顔に浮かんだ強面を、渋みある下がり眉へと変じさせた。彼が総監局に籍を置いて十数年、局の最古参として大勢の後輩を見てきた。その中でナターシャは一、二を争う気の強さだと、男――亜人種「赤肌」のヴェルムはひしひしと感じている。
ヴェルムは人間より二回りも大きい手を机の引き出しに伸ばした。小さな薄紙の包みを一粒つまんで取り出し、それをナターシャの額目がけて投げつけた。体格筋力ともに人外であるのは自覚しているから、できる限り力を抜いて。
「痛ッ」
ナターシャはぶつかった痕を手で押さえた。その傍らで包みが、かん、こん、と軽い音を立てて机上に跳ね遊んだ。
ややして双方落ち着いた、そしてナターシャは包み取って開いた。薄紙の中にあったのは白濁したミント・ドロップ。これでも舐めて気分転換しろ、と。
ナターシャは涼しげな結晶体をひょいと口に入れた。ミント特有の辛味のともなう爽快感が体を突き抜ける。
がりごりと無言で飴を噛み砕く。ナターシャの顔に落ちた影は消えない。ただ、当たり散らすような熱は引いていた。そこへヴェルムが問いかける。
「また、何か言われたのか」
「別に。ただあんまりじろじろ見られたものだから、不愉快だっただけよ」
「それだけにしちゃあ、ずいぶん虫の居所が悪そうだ」
「だって、どうせまた亜人とか異能とか局長とかが、なんかやらかしたって話でしょ。そうでもなきゃ、今日突然あそこまで刺々しくなんないわ」
「……ん?」
「だから、そうなると、また面倒が回ってくるじゃない。せっかく今日で一仕事終わると思ったのにさ。あーあ、何か知らないけれど、難事件じゃないといいわね」
「おい、ちょっと待てナターシャ」
ヴェルムからの手振りつきの制止に、くだを巻き続けようとしていたナターシャの口が止まった。
「まさかおまえ、何があったか知らないのか」
「全然」
「いやでも、おかしなことが起こったとは思ったんだろ?」
「まあ。でも、興味ないし」
「……おまえなあ。さすがにちょっとは関心持ってくれよ。それこそ何かお役が回って来るかも知んねえんだぞ」
「だったらその時でいいじゃない。わざわざ火の粉かぶりに行くことないわ」
ナターシャは肩をすくめてみせた。異能事件の捜査、それが任務だとは把握しているし、ヴェルムの言い分もわかる。しかし偏った見方をされる身分なのだ、いたずらに飛び出せば蝿のように叩き落とされてしかるべし。目の前にある現実だけはどうにかして、後は流されるように。それこそナターシャなりに身につけた処世術だ。
ただし今回ばかりは、対岸の火事だと見ているには大きすぎる事件なのだが。
ヴェルムは慎重に様子をうかがうように、一つの名前を出した。それは仮にも政府中枢で官職につく身ならば、必ず知っている人物である。
「ライゾット=ソラー」
「ああ、東方の、ブロケード総裁次んとこの室長でしょう? あの声のでっかい亜人排斥派のおっさん、なんとなく嫌いよ。で、それが?」
「明け方に死んだ。殺しだ」
「ころ……」
衝撃のあまり、ナターシャは続く言葉を失った。強烈なミントの匂いが、半開きになった口の中で淀んだ。
統一政府の中枢はここであるが、実際の統治は、四大陸と中央諸島のそれぞれの現地に設置された総裁府によって個別に行われる。最も簡略に例えれば、大陸が国で、総裁が王。そして統一政府はそれらの連合国を取り仕切る組織となる。
その例えに乗せると、ライゾット=ソラーとは、東方大陸の次期国王の側近にあたる。中枢でも強い権限を持つ高官中の高官、そんなものが殺害されたとなれば、政への多大な影響はもちろん、事件そのものに陰謀論が噴出しても不思議でない。
特にライゾット室長は、東方総裁次長・ブロケード=ロクシアと共に、反異能、反亜人政策を推し進めてきた筆頭だ。それが殺された、誰かが殺した。となれば。
――そういうことだったか。
今朝方ぶつけられた無数の悪意の視線の意味を、ナターシャはようやく悟った。所在なげに肩に流れる赤髪を手でいじる。
反亜人の代表が失墜したら誰が得をするか。真っ先に思い浮かぶのは、亜人。もちろん政府外部から来た刺客の線もあるが、陰謀を囁くならば、内部に黒幕が居た方が劇的だ。噂を聞いた人々が短絡的に考えていたところ、ちょうど人魚がのこのこ歩いて来た。さて、稚拙な空想作家たちはどんな物語を巡らすだろう、答えは明らか。
「とんだ濡れ衣だわ……」
はあ、とナターシャは息を吐いた。場違いな爽やかな香りのそよ風が吹く。