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中村計画

作者: 中村英樹

この小説は2015年の小説すばる新人賞の応募したものですが、残念ながら選ばれなかったものです。

小説としては未熟ですけど、日本のマクロ経済について解りやすく書いたので、経済の勉強なるかもしれません(ならないかもしれませんけど)。

小説なので当然フィクションなのですけど、2014年の実際の日本をモデルに書きました(執筆がその頃だったもので)。

この小説を読んで、理解し共感できたのなら、ニュースや新聞などで時々トンチンカンな報道をしていることに気付くと思います。

「中村計画を知っているかね?」

「はい。あ、いや、名前くらいですけど。昔の政治団体ですよね」芸能雑誌記者の佐々木俊治は、取材相手の雨宮一郎の、経歴に書いてあった、その名前を思い出した。

 佐々木は雑誌の『今月の芸能人』という記事のインタビューで、雨宮一郎の所属する事務所に来ていた。雨宮の経歴は特殊で、サラリーマンから二十代半ばで、お笑い芸人としてデビュー。一時期はテレビにもよく出ていたが、その後は人気も下降気味で、いわゆる一発屋といわれていた。

 しかし、その後にいきなり政界に入り、最終的には総理大臣にまでなったのだ。そして政治家を引退して役者になったという、特異な経歴の持ち主だ。

 六十歳になった今では、映画やテレビドラマなどで活躍している、実力派俳優といわれている。

『中村計画』とは、雨宮が政治家だったときに所属していた政治団体の名前だ。

「私はね、中村計画の一員だったから、今の私があるんだよ。そうじゃなかったら今頃は芸能界にはいなくて、普通にサラリーマンになっていただろうね」雨宮は人の良さそうな顔でにっこりと笑うと、プラスチック容器に入ったコーヒーを旨そうに飲んだ。

『今月の芸能人』は、その人の、ひととなりを紹介する記事だ。佐々木は雨宮が政治家だった頃の話から聞くことにした。

「雨宮さんは、どうして政治家になろうと思われたのですか?」録音機を確認して、雨宮に視線を移した。

「私はね、当時は政治なんてまったく興味がなかったんだよ。お笑い芸人として人気がでたときもあったけど、その後は鳴かず飛ばずでね。生活のためにアルバイトもしていた」

「一発屋と呼ばれていたんですよね」

「失礼な!」急に声が大きくなった。

「す、すみません」雨宮の親しみやすい雰囲気に、つい調子にのって余計なことを言ってしまった。

「一発屋って言うけどねえ、一発当てるってことは、たいへんな事なんだよ。世の中は、オレの歯車を中心に回ってるー。だから一発当てられたんだー」雨宮は立ち上がり、右手を腰にあてて、左手をぶんぶんと回している。

「ごもっともです」

「世の中は、オレの歯車を中心に回ってるー」ぶんぶんと回している。

「はい、そうです・・・」

「世の中は、オレの歯車を中心に回ってるー」ぶんぶんと回している。

「・・・・・・・・」いったい何なんだ?

「あのね、ここ笑うとこ」寂しそうな顔をして座ると、コーヒーをズズッと音をたてて飲んだ。

「昔はこれで、みんな笑ってくれたんだよ。時代は変わったねえ、私の一番の笑いをとった持ちネタを見せてあげたのに」

「もしかして、今のギャグだったんですか?」昔の人がこのギャグで笑っていたのが信じられない。

 雨宮はコーヒーをテーブルの上に置くと、もとの人の良さそうな顔に戻って言った。「政治家になった理由ねえ」

「あ、はい。何かきっかけがあったのですか?」

「あの頃は、お笑いの仕事もあまり来なくて、芸能界を辞めようかとも考えていた。そんな時に、以前のサラリーマン時代の同僚が訪ねてきたんだよ。彼は、世の中が間違った方向に進んでいると言って、それを直すために協力してほしいと言ってきた」

「世の中が間違った方向に進んでいる、ですか」

「ところで君はいくつかね?」

「僕ですか? 二十六です」

「そうか、二十六歳か」そう言うと、雨宮は遠くを見るような目をした。

「じゃあ、私が選挙に立候補したのは、君が生まれる前の話だな」

「そうなんですか」

「今とはだいぶ違う時代だった。あの頃は徴兵制度もなかったしな、その制度を作ったのは私だ」

「えー! 徴兵制度を作ったのは雨宮さんなのですか?」人の良さそうな顔をして、なんてことをしてくれたんだ、この人は。

「でも、若いときに身体を鍛えるのは大切なことだよ。それに友達も出来るだろう」

 確かに徴兵制で一緒に訓練を受けたメンバーで同期会を作り、今でも、時々集まって飲んだりしている。

 日本では女性も徴兵されるので、そこで知り合って結婚したという話も聞いたことがある。

「でも徴兵制は、なんだか部活の延長みたいな感じでしたし、愛国心って言われても、今ひとつ、ぴんときませんでしたけど」

「まあ、愛国心よりも日本人同士の助け合いに、重点を置いているからね。災害救助の訓練あったでしょ?」

「はい。訓練というか、僕が徴兵された時に、ちょうど大雪がありまして、山梨で雪かきをしました」あれはあれで、素直に楽しかった思い出だ。

「佐々木さんは、セイシャインという言葉を知っているかね?」

 セイシャイン? 性社員? なんだかエッチな響きがする名前だ。「風俗店で働いている人のことですか?」

「何それ?」雨宮は訳わからん、といった顔をした。

「正社員。正しい社員と書いて、正社員。以前は会社で働く社員のことを、正社員と言っていたんだ」

「では、正しくない社員もいたのですか?」

「正しくない社員か、まあそうかな」

 正しくない社員って何だ? 不良社員ってことか? 社員の振りをして、実は仕事をまったくしないとか?

「正しくない社員は、正しい社員になろうと思っても、なかなかなれなかったんだ。そんな時代だったんだよ」そう言って窓の外を見た、窓からは夏の青空が見える。

「彼と再会した時も、ちょうど今日のように晴れた日だった」

「先ほどおっしゃっていた、サラリーマン時代の同僚の方ですね?」

「そうだ。彼は、世の中を正しい方向に進めるために政治家になりたい、と考えていた。そのためには、知名度が必要だと言っていた。私は一応芸能人だったから、それなりの知名度はあったからね」

「一発屋でもですか?」

「世の中は、オレの歯車を中心に回ってるー」ぶんぶん。

 佐々木は、雨宮のことが少し好きになった。

「じゃあ、彼と再会した時のことから話そうか」そう言うと、雨宮はまっすぐにこちらを見て話し始めた。



     二十八年前 初夏


 ピンクのTシャツ。胸には大きな文字で、アイ・ラブ・ニューヨークと書かれている。ぽってりとしたおなかに、丸い顔。そして、つぶらな瞳で僕をじっと見つめている。

 彼の名は中村英樹。中村の隣には、申し訳なさそうな顔をして、小川直子が座っている。

「元気そうだな、雨宮」言いながら中村は、から揚げに箸を伸ばしている。

 おやつの時間だからか、午後三時のファミリーレストランで、中村の前にはクリームソーダと、から揚げが並んでいた。

「中村も元気そうだな」

「うん、おかげさまで元気だ」

 もぐもぐと、から揚げを食べながら話す中村を見ていて、さっきから頭の中にある疑問を聞いてみる。「どうして中村がここにいるんだ?」

「雨宮に頼みたいことがあったからな」

「たしか今日は、小川さんと会う約束だったと思ったけど」

 小川ちゃんは困った顔をしている。困った顔も可愛い。

「だって俺が電話するよりも、小川ちゃんが電話した方が、来てくれる可能性が高いだろ?」

 まあ確かに、中村から電話がきても、会いたいとは思わなかったかもしれない。でも小川ちゃんからの電話となれば話は別だ。実際に喜んで来たわけだ、中村が一緒だとも知らずに。

 中村と小川ちゃんは、僕がお笑い芸人として芸能界に入る前に勤めていた派遣会社の同僚だ。僕と中村は営業、小川ちゃんは事務として働いていて、みんなのアイドル的な存在だった。

 僕と中村は歳が一緒で、仕事帰りによく飲みに行った。僕はサラリーマンである自分をカッコ悪く思っていたので、会社の歯車では終らない、そんな話をたびたび中村にしていた。それで会社を辞めてお笑い芸人になったのだ。だけど、今となってはあのままサラリーマンを続けていたら、なんてことを時々思ったりもする。

「で、頼みたいことってのは、何なんだ?」

「俺は今、会社を辞めてパート勤めをしている」中村の話し方は、昔からあまり抑揚がないので、感情が読み取りにくい。

「辞めたというか、クビになったんだけどな。ほら、六年前のアメリカの不動産バブルが弾けたときだ」

「あの派遣切りのときか」思わず声が大きくなった。

 六年前のアメリカの不動産バブル崩壊は、今でも覚えている。日本でもその影響がでて、景気がいっきに悪くなって、年越し派遣村なんてのがテレビでやっていた。

「派遣先の工場の生産量が落ちて、真っ先にクビを切られるのは、派遣労働者だからな。会社の指示で、俺もみんなにクビを通告していたんだが、自分までもがクビになってしまったというわけだ」

「小川ちゃんは大丈夫だったの?」僕は小川ちゃんを見る。

「わたしは残れたの」小川ちゃんは、にっこりと笑った。「でも、このまま会社がつぶれちゃうんじゃないかと心配したよ。今は、だいぶ盛り返してきたけどね」

「うちは自動車工場関係を中心に派遣していたからな、売り上げもだいぶ落ち込んで、営業の人間もほとんどが、クビになった」中村は、クリームソーダのバニラアイスに、スプーンを突き刺した。

「だけど、どうしてパート勤めなんだ? ちゃんと働かなくて生活できるのかよ」

「芸人なんかをしているお前に、言われたくはないな」そう言って、スプーンを口にはこぶ。「フォークリフトの免許を持っていたからな、とりあえず今の倉庫で働いたんだ」

「パートでか? なんかスーパーでレジを打ってる主婦みたいだな」主婦がエプロンをして、フォークリフトに乗っている光景が頭に浮かぶ。

「でも驚いたぞ」中村はここで、ぐいっと顔を近づけてきた。「倉庫で働いているのは、ほとんどが、パートタイマーなんだよ。社員はごく一部。しかもそのパートが、みんな大の男なんだ」

「男のパートっているんだな」知らなかった。というか、パートは主婦がやるものだと思っていた。

「もっとも、パートもアルバイトも、呼び名が違うだけで、中身は一緒だけどな。要するに、非正規雇用ってことで、派遣労働者と同じく、人件費を低く抑えるのが目的だ」

 まあ、そうなんだろうな、と思う。今は、働いている人の三人に一人は、非正規雇用だと聞く。

「その倉庫で働いているパート労働者は、俺もそうだが当然賃金が安い。だからなのだろう、独身者が多い。俺もそうだがな」

 芸人としての僕の給料は、当然ながらパート労働者の足元にも及ばない。

「だけど、結婚をしていて子供がいる人も、当然だが沢山いる。そんな彼らは倉庫で働く以外に、別の所でも働いている。ダブルワークだよ」中村は、右手でピースサインを作ってみせた。

「彼らは朝から晩まで働いて、別の会社に行って夜中も働く。寝る時間はあるのだろうか、と思うよ」

 僕も芸人としての仕事の他に、週4日でコンビニのバイトをしているけど、元々芸人としての仕事が少ないのだから、普通のサラリーマンよりも時間があるくらいだ。

「派遣社員の人達も、他で仕事をしてるのかなあ?」だまって聞いていた小川ちゃんがつぶやいた。「うちから派遣で行っている人にも、子供がいる人いるし」

 まあ、もし別のところで働いていたとしても、派遣会社には報告しないかもしれない。

「なあ雨宮、人はいつからこんなに、働き者になったんだ?」

「いつからだろう? というか、世間がそんなに働き者だとは知らなかった」

「俺も、社員で働いているときは知らなかった、だけど非正規雇用になってみると、家族持ちがダブルワークをするのは、ある意味では当たり前だ」

 いつからこんなに、生きるのがたいへんになったんだろう? アメリカの不動産バブルが崩壊してからか? それともそれ以前から?

「そこで俺は、いつから人が働き者になったのか、を考えたんだ」中村の目が輝いている。興味津々といった顔だ。

「昔、人は狩をして生活をしていた」

「ちょっと待て、そこからかよ」狩の生活ってのは、原始時代のことか?

「人の消化器官の構造ってのは、肉食動物に似ていて、だから元々の人類は、肉食中心の雑食らしい。動物や昆虫、木の実など、周りにあるものを、何でも食べていたんだろうな」

「昆虫? 昆虫も食べたの?」小川ちゃんは、中村を睨んだ。

「昆虫は、良質なタンパク質だからな。その後に、農耕をするようになったんだが、それは環境の変化で、周りにある食べ物が減ったからだと、いわれている。安定して、食料を確保するために、農耕を始めたんだろう」

「よく知ってるな」素直に、中村の知識に感心した。

 中村は無表情で、「ネットで調べたからな」と言った。

 そうだ、こいつは何でもネットで調べるやつだった。知らないことがあったら検索をするんだよ、いつだか、中村がそう言っていたのを思い出した。

「俺が思うに、農耕によって、労働という意識が出来たんだ。それまでは腹が減ったら、目の前にあるものを食べる生活だったが、農耕とは、半年後の収穫のために、労働を続ける、という行為だからな」

 確かに、そう考えられるかもしれない。でも、狩や、木の実を採るのも、労働のような気もするけど。「農耕をするようになって、人は、働き者になった、ということか?」

「そうだ。人は、一生懸命に働いた。また、農耕に適した土地に、人は集団で生活するようになり、仕事も分業化された。農家、大工さん、洋服屋さんや鍛冶屋さん、とかな」

「ひたいに汗して働いて、それで飯を食う。基本な感じがする。それが現代か」

「いや、現代はもっと素晴らしい。なんたって技術が進歩したからな。農業も工業も機械化が進んで、事務作業だって、そろばんからパソコンの時代だ。人の代わりに、機械が働いてくれるからな。それこそ、今まで十人でやっていた仕事が、一人で出来るくらいにはなっている。生産性の向上ってやつだ。残りの九人は、働かないでも飯が食える」中村は自信満々な表情をしている。

 人の代わりに、機械が働いてくれる? 残りの九人は、働かないでも飯が食える? バカなのか? いつの未来の話をしているんだ、こいつは。

「働かないと、生活出来ないよ。生活保護を受けるってこと?」小川ちゃんが、もっともなことを言う。

「働かないで飯が食えるなら、僕だって働きたくないよ」ネコのように、朝から晩まで、日向ぼっこをしている自分が、一瞬、頭に浮かんだ。

 中村は、そこで口の形が、への字になった。「そうなんだよ、働かないと生活が出来ないんだ。それどころか、結婚をして、子供を育てるために、寝る時間を削って働いている人達が、沢山いるんだよ」クリームソーダを、ストローで一口飲んでから、「不思議だ」と、つぶやき、上を見た。

「そもそも、人が誕生してから、こんなに長時間働いているは、現代だけなんじゃないのか? これほど科学が発達してるのに、どんなカラクリなんだろうな?」

「カラクリもなにも・・」そう言いかけたけど、確かに不思議な気はする。

「雨宮、人は解らないことがある時は、検索をするんだよ。だから、俺は検索をしてみた。だけど、答えは見つからなかった」

「中村さんって、相変わらず何でも検索するんだね」そう言って、小川ちゃんは笑った。

 中村は小川ちゃんに、当然だ、というような顔をしてから、「検索しても解らないということは、誰もそのカラクリの正体を、知らないのかもしれない」そう言って、「カラクリなんか、無いのかもしれない」と、続けた。

「そこでだ、視点を替えてみた。彼らは何故、そんなに働くのか。その答えは簡単だ、検索するまでもない」中村は、右手の人差し指を立ててみせた。「賃金が安いからだ」

「でも」小川ちゃんは、反論をする。「仕事が忙しいとか、仕事が好きだからって人も、いるんじゃない?」

「確かに、そういった人達もいるだろう。でも、今の俺の周りには、いない」

「僕も、お笑いだけで食べていけるなら、コンビニでバイトなんか、しないよな」

 中村は面白そうに、「コンビニのバイトだけで、食べていけたら?」と、僕を見る。

「それでも、お笑いは続ける」当然だ。

「雨宮に、笑いのセンスが、もう少しあればな」中村は僕を見てから、「じゃあ、なぜ賃金が安いのか?」と、小川ちゃんに顔を向けた。

 小川ちゃんは、少し考えて、「派遣で働く人が、多くなったから? 今は、不景気だって言われてるし。会社も、高いお給料は、払えないんじゃない?」

「そうだよ。不景気だから。デフレだからだよ」デフレだから景気が悪くて、会社の給料が下がって、そうなると、人は、あまり買い物をしなくなって、物が売れなくなる。物が売れないと、会社の利益が出ないから、更に、給料が下がったり、失業者が増えたりする。そんなことを、テレビのコメンテーターが言っていたのを、聞いたことがある。「デフレスパイラルだよ」

 中村は意外な顔をして、「よく知ってるな」と、僕を見た。そのくらいのことは、誰でも知っている。

「じゃあ、デフレって、何だ?」と、中村は楽しそうに聞いてきた。

 小川ちゃんは、「デフレって、景気が悪いってこと?」そう言って中村を見ると、中村は、口を尖らせて、「ブッブー」と言い、唾が、小川ちゃんの近くに飛んだ。

「ちょっと、汚いなー」小川ちゃんは、汚いものを見るように、中村を睨んだ。

「デフレってのは単純に、物価が下がること。その逆に、物価が上がるのは、インフレ。」中村は、小川ちゃんの視線など、まるっきり気にしていないようだ。

 僕が、「物価が下がるのは、嬉しいけどな」と、言うと中村は、「そう、物価が下がるのは、歓迎したい。デフレにも、良いデフレと、悪いデフレがあるんだよ」と、言った。

 良いデフレ? 悪いデフレ? 聞いたことがないぞ。「何だ、その良いデフレってのは?」

「良いデフレってのは、そうだな、例えば、大型液晶テレビ。出始めの頃は、けっこう高かっただろ? それが、今はだいぶ値段が下がった。理由は知らないけど」

「知らないのかよ」中村なら、すぐに検索して調べそうなのに。

「たぶん技術の進歩か何かで、コストが下がったんだろ」

「なんだか適当だな」

「つまりだ」そう言って中村は「企業努力によって、低コストで物が作れるようになり、物価が下がる。そして、賃金が下がらないのが、良いデフレってことだ」と、自分では納得しているみたいだ。

「じゃあ、悪いデフレは何なのよ?」小川ちゃんは、まだ中村を睨んでる。

「景気が悪いから、物が売れなくなって、それで、物の値段が下がるってことか?」どこかの解説者が、言っていたことだ。

「そういうこと」と、中村が言った。

「インフレの場合は、景気が良くて、物がどんどん売れるから、物価が上がってくんだろ? 悪いインフレってのは、あるのか?」インフレが悪い、なんてのは、聞いたことがない。

「ある。一つは、ハイパーインフレーション。国の経済が、破綻しそうになって、その国の、お金の価値が、凄い勢いで下がる現象だ」

 そうだ、ハイパーインフレって言葉は、聞いたことがある。

「ハイパーインフレーション?」小川ちゃんは、知らないようだ。

 中村は、「から揚げの値段が、次の日には、二倍とかになる現象だよ。お金の価値がどんどん下がるから、お金を持っていても仕方がない、そう思って、国中の人達が、お金を物に換えたがるんだ」と、説明した。

「から揚げ屋さんは、大儲けだね」そう言う小川ちゃんは、解っているのか、いないのか。

 中村は、「もう一つの悪いインフレは」と言って、話を続けた。「これは日本でも起こることだが、円安や、原油などの原材料高によって、物価が上がることだ。給料は変わらないのに、物価だけが上がるのは困るからな」

「それ知ってる。パンとかマヨネーズとかも高くなったんだよ」小川ちゃんは、今度は解ったようだ。

「なんだか、インフレでも、デフレでも、結局、景気が悪くなるみたいじゃないか。とにかく、景気が悪いから、賃金が安いってことなんだろ?」ずっと前から、景気が悪いって言われていたと思う。

「正解」中村は、にっこりと笑ってる。

「なんか、世知辛い世の中だねー」

 世知辛い、なんて言葉は、久しぶりに聞いた。しかも、小川ちゃんの口から。

「景気が悪い世の中だと、生きるのが、たいへんだからな」そう言って、中村は小川ちゃんを見て、「だから、景気を良くすればいいんだ」と、にっこりと笑った。

 僕はあきれて、「それが出来れば、誰も苦労はしないよ」と、言うと中村は、「出来るんだよ。検索したからな」と、自信満々の顔をしてる。やっぱりバカなのか?

 僕は、「お前が検索したからって、簡単に出来るわけがないだろ」と、反論するが、小川ちゃんは、「中村さんなら出来そうな気がする」と言って、何かを期待する目になっている。

「そのためには雨宮、おまえの協力が必要なんだ」そう言って、中村のつぶらな瞳が、僕を見つめてきた。


 中村の頼みとは、僕のブログに、中村の作った、『働く時間を半分にして、給料が二倍になる方法』という名前の、ホームページのリンクを貼ることだった。そして、ブログで毎日、中村のこの方法は素晴らしい、みんな見てくれ、などと書くことだった。

 この、いかにも怪しい名前のホームページには、中村が考えた方法が、つらつらと書かれていて、これを行うと、働く時間が少なくなって、給料が増えますよ、みたいなことが書いてある。

 僕のブログは、お笑い芸人としての人気の割には、読者が多い。毎日、欠かさず更新をしていて、写真も入れて、なるべく読者が笑えるように書いているおかげだ。

 そこに、中村のページのリンクを張って、みんな見てくれ、なんてしたら、読者が減ってしまうんじゃないかと心配していた。

 二日間は、変化がなかったが、三日目あたりから、逆に、少しづつアクセス数が増えてきて、ブログのコメント欄に、中村の方法に関するコメントが多くなった。もっとも、半分くらいは否定的なコメントだったが。


 働く時間を半分にして、給料が二倍になる方法


 一、財政出動

 二、規制強化

 三、消費税の段階的縮小

 この三つを行うことにより、経済はインフレ傾向になる。それにより、生産性が高まり、

 GDPが増える。

 生産性が二倍になり、GDPが二倍になれば、働く時間が半分になり、給料が二倍にな

 る。


 中村のホームページには、最初にこう書かれていて、その後に詳しい内容が、グラフも交えて載っている。

 だけど、僕にはどうも納得がいかないところが多い。まず、一番目の、財政出動ってのも、詳しく書かれた内容を読むかぎり、公共事業が多くなって、国の借金が増えるだけのように思える。

 二番目の、規制強化だって、今は、規制を緩和して、企業が成長しやすい環境にしているはずだ。

 三番目の、消費税は賛成。もっとも、消費税がなくなると、それこそ、国の借金が、雪だるまのようになりそうだ。GDPや生産性のことも、なんだよく解らないし。

 それでも、僕が中村の頼みをきいたのは、小川ちゃんがやけに乗り気になっていたからだ。小川ちゃんの「だって面白そうじゃん、やろうよー」という、押しに負けてしまったのだ。

 でも、そのおかげで、これからは時々三人で集まって、作戦会議をすることになった。小川ちゃんとも、また会えるのだ。


「雨宮さん、こんにちは。少しお話出来ます?」稽古部屋にいる時に、入り口の扉が開いて、声が聞こえた。見ると、同じ事務所の吉田ひろみが、マネージャーの陽子と一緒に立っていた。

「はい。大丈夫です」

吉田ひろみは、ヒロミン、という愛称で呼べれていて、バラエティーの司会もこなすマルチタレントだ。今まで、数えるほどしか話したことのないヒロミンから声をかけられて、思わず、気を付け、の姿勢になってしまった。

「雨宮さんのブログ、今、盛り上がっていますね」肩にかかるくらいの、黒いストレートの髪に、色白で日本人離れした、美しい顔立ち。そして、意思の強そうな瞳が、僕を見ている。

「はい。おかげさまで」なんか、緊張してしまう。

 陽子は、壁に立て掛けてあった、折り畳みのパイプ椅子を広げ、気を付けをしている僕に、「どうぞ」と言って、椅子を勧めた。

 三人が椅子に座ると、ヒロミンが、「わたし、雨宮さんのブログを時々見ているんですけど、最近、中村さんっていう人のサイトが、話題になっていますよね?」と、僕の目を覗き込んできた。

「僕のブログ、見てくれてるんですか?」

「芸能人らしくないブログだけど、面白いから好きで、よく見ています」ヒロミンが微笑みかけてくる。「働く時間を半分にして、給料を倍にする方法。わたし、肯定派なんです」

「ヒロミンさんも肯定派なんですか?」意外だった。あの方法の肯定派は、ほとんどがニートや、フリーターなどの、働かずに楽をして生きたい、と、考えている人達だと思っていた。「肯定派の中には、ヒロミンさんのような、しっかりとした人もいるんですね」

「わたしは別に、しっかりとなんて、していませんけど、でも、あのサイトを見て、今の政治は間違っている、と思うようになったんです」ヒロミンは、真剣な表情で、「もしかしたら、本当に、中村さんの、あの方法が正しいんじゃないかって」と、僕を見つめた。

「でも、GDPが二倍になったら、給料が二倍になるというのは、僕にはどうも信じられなくて。それに、生産性が上がれば、その分、働かなくても良くなる、というところも」 

「あれ、雨宮さんは、肯定派じゃなかったんですか?」ヒロミンは、意外だって顔をした。「でも、ブログで、中村さんの方法は素晴らしいって、書いてあったと思いましたけど」

「中村とは、サラリーマンの時の同僚で、頼まれたから、ブログに載せたんですけど。実際は、中村の言ってることが、よく解らなくて」

「わたしも、あそこに書いてあることで、解らないとこは、いっぱいあります」そう言うと、ヒロミンは鞄から携帯を取り出した。

 携帯を操作しながら、「あった、あった、GDPのとこ」などと、ぶつぶつと言っている。どうやら、中村のサイトを見ているようだ。

「いいですか」と、ヒロミンは言って、「GDP三面等価の原則って書いてあります。GDPというのは、国内総生産のこと。GDP三面等価の原則とは、生産面から見たGDPと、所得面から見たGDPと、支出面から見たGDPが、すべて同じになる、と書いてあります」と、携帯を見ながら説明した。

 なんとなくなら理解は出来るのだけど、と思っているとヒロミンが、「つまり、GDPはみんなの所得って意味です。ざっくりと言うと、日本中の、会社や、個人経営の人達の、売り上げ額から、仕入れ額を、引いたもの。それが、GDP。みんなの所得です。そこから、従業員の賃金だったり、政府への税金だったり、貯えとして企業に残されたりと、それぞれに支払われるんです」ヒロミンは、満足顔でそう言うと、「中村さんのサイトを見て、勉強しました」と言って、笑顔を見せた。

「要するに」頭の中を、整理しながら、話した。「GDPが二倍になれば、働いてる人や、国や、会社の所得が、二倍になる」

「そうです」と、ヒロミンは自信ありげに言うが、「でも、景気が良くなったとしても、GDPを二倍にするのは、簡単じゃないみたいですけど」と、付け加えた。

 やっぱりか。「そんなに簡単には、給料が二倍になったりはしないですよね」と、僕が言うと、ヒロミンはまた、携帯で何かを探し始めた。

「これだ」と、言って、僕にも画面を見せながら、「これだと、一九八一年から一九九七年までで、GDPが二倍になっていますね。えーっと、十六年かかっています」と、説明した。

 確か、これは中村のサイトに載っていた表だ。グラフも載っているけど、携帯の画面だと、小さくて解り難い。

 ヒロミンは、画面をスクロールして、「その後は、GDPは大きくなってないんです」と、続けた。

「だけど、その、一九八一年から、十六年間で、給料が二倍になったんですか?」十六年で、給料が二倍になったなんて、ちょっと信じられない気持ちだ。

 ヒロミンは、平均年収も載っていたと思ったけど、と言いながら、スクロールをして探し始めた。

「こっちの方が、いいですよ」陽子が、タブレットをヒロミンに差し出した。

 ありがとう、と言って、ヒロミンはタブレットを使い、探すと、「ありました」と、僕にも画面を見せてくれた。

「あ、でも、平均年収は」と、言って、携帯の電卓で計算しながら、「約、一・六倍」と、つぶやいた。

「それでも、一・六倍にはなったんだ」一九八一年といえば、僕が生まれる一年前だ。それから十六年間で、みんなの給料が一・六倍になっていたのか。なんか、実感はない。

「二倍には、ならなかったんですね」ヒロミンは、タブレットの画面を睨んでいる。


 タブレットを見ながら、ヒロミンと色々話した結果、平均年収が二倍にならなかった理由として、その十六年間で、人口が一・〇七倍になり、一人当たりのGDPが、その分、少なくなったからではないか、と考えた。

 だけど、国民一人当たりのGDPは、十六年間で、一・八七倍になっている。だとすると、平均年収も、一・八七倍になっていてもおかしくはない。

 政府の税収も見たけど、その間、一・八五倍にしか増えていなかった。二倍にまではなっていない。

 GDPは、みんなの所得の合計。平均年収も、政府の税収も、二倍にまでは増えていないとなると、残りは、企業に貯えられているのかもしれない。

 中村のサイトには、企業の所得のデータはなかった。ヒロミンがネットで探すと、企業の内部留保が載っているサイトがあった。内部留保とは、企業の利益のうち、企業内部へ保留され、蓄積された部分、と書いてある。

 それを見ると、その十六年間で、企業の内部留保が、三倍以上になっていた。結局、GDPが二倍になって、企業は、二倍以上の利益が出ていたのかもしれない。

「でも、企業も、そんなに儲かってるイメージはないですけどね」大企業の営業赤字が、新聞にもよく載っている。

 そうですよね、と言うヒロミンの横で、陽子が、「法人税率は、その十六年で、四二パーセントから、三七・五パーセントに下がっていますね」と、タブレットそ覗き込んで、つぶやいた。

 ほんとだ、と、言いかけると、ヒロミンが、「それよりも、その後の二〇年近く、GDPが伸びていないんですよ。それが一番の問題です」と、言って、画面をGDPのグラフに変えた。グラフを見ると、一九九七年までは、右肩上がりだけど、それからは、上がったり、下がったりで、推移している。

「原因は、デフレだからです」ヒロミンは、はっきりと言って、「デフレを終らせるには、中村さんの方法しかないと思うんです」と、僕を見つめた。


 ヒロミンは、自分のブログでも、中村のサイトを紹介して、この考えをみんなに知ってもらいたい、と話した。

 それには中村の許可がいる、と考えたので、僕に声を掛けたのだった。中村のサイトを紹介するにしても、その前に、本人にも一度、会っておきたい、と言っていた。

 僕としては、ヒロミンのブログが炎上するのが心配ではあったが、中村に連絡をして、ヒロミンに会わせる段取りをした。


 作戦会議。僕達はこれを作戦会議、と呼ぶのだが、実際は居酒屋で飲んで、喋っているだけだ。しかし、今日の作戦会議にはヒロミンが来るので、個室のある居酒屋にした。

 小川ちゃんは、ヒロミンに興奮して写メを撮ったりしているが、中村は普段と変わらない様子だ。まったくマイペースなやつだ。

 相変わらずに、から揚げに箸を伸ばす中村に向かって、「本当に、あの方法で、デフレから脱却できるのか?」と、聞いてみる。ヒロミンも、そこが知りたいはずだ。

「出来る。と言うか、財政出動、規制強化、消費税の縮小。これらは、経済をインフレ化させる政策の常道だ。逆に、経済をデフレ化させるには、緊縮財政、規制緩和、消費税の拡大が有効だ」

 ヒロミンは、から揚げを、もぐもぐと食べている中村に「デフレから立ち直るには、金融緩和も有効だと聞きますけど」と、尋ねた。

「よく知っているな」中村はヒロミンを見て、にっこりと笑った。こいつは、ヒロミンに対しても失礼なやつだ。「デフレの初期段階には、金融緩和も有効だと思うよ。でも、ここまでデフレが深刻な状態では、金融緩和に意味はない」

「意味はないって、そんなことはないだろう」本当に意味がなかったら、日本銀行がこれほどの金融緩和を、続けるはずがない。

「金融緩和をする人達は、デフレは貨幣現象だ、と考えているんだよ」

「貨幣現象?」意味が解らなかった。

「デフレってのは、物価が下がっていく現象だろ? 物価が下がるってことは、逆に言うと、お金の価値が、上がるってことだ。デフレが、貨幣現象だと考えている人達は、お金をいっぱい刷って、お金の量を増やせば、お金の価値が下がって、デフレも治まる。そう考えているんだよ」

「治まらないのか?」

「金融緩和では、デフレは治まらない」中村は、きっぱりと言った。「金融緩和は、世の中の、お金の量を増やすことなんだが、どうやって、世の中のお金を増やすか、知っているか?」

「ビルの屋上から、お金を、ばら撒くんじゃない?」小川ちゃんは、真面目な顔で喋っている。

 僕は笑ったが、中村は真面目な顔で、「本当に、ビルの屋上からお金をばら撒いたら、デフレが治まるかもしれないな」とつぶやき、考えている様子だ。

「でも、実際は、屋上からお金を撒いたりはしない。日本銀行が、民間の金融機関から、国債などを買い取るんだ」と、小川ちゃんを見て言った。

「銀行からすると、それまで持っていた国債が、現金に換わるわけですね?」ヒロミンは中村を見た。

「そう。でも、現金って言っても、実際にお金を刷るのではなくて、それぞれの金融機関が持っている、日本銀行の当座預金に、国債を売ってもらった分の金額を、増やしてあげるんだ」

「銀行って、日本銀行に、当座預金の口座を持っているんですか?」ヒロミンは知らなかったようだ。もちろん、僕も知らない。

 中村は、「そうだよ」と、言ってから、「だって、そうじゃないと不便だからな」と、説明した。

「例えば、俺がA銀行から、B銀行に、千円を振り込んだとする。A銀行のATMに入った千円を、銀行の誰かが、封筒に入れて、B銀行まで持って行いくのか? そんなことをしていたら面倒だろ。だから、それぞれの銀行が、日本銀行に当座預金を持っていて、A銀行の当座預金残高が、千円減って、代わりに、B銀行の当座預金残高が、千円増える仕組みになっている。カード払いも同じ理屈で、俺の使ったクレジットカードの支払いは、A銀行から引き落とされるが、俺が買い物をしたお店のメインバンクは、B銀行だったり、C銀行だったりするからな」

 なるほど、そんなことは、考えたこともなかった。

 話を戻すけど、と言って中村は、「金融緩和で、今は銀行には、腐るほどの金がある。だけど元を正せば、国民から預かった預金だ。銀行としても、運用しなければ、利息の支払いだけで、赤字になってしまう。銀行の仕事は、預金者から、お金を預かって、それを、高い金利で貸すことだろ? でも、お金を借りて事業を拡大しようって企業が、少ないんだよ。だから、いつまでも銀行にお金が残っていて、世の中にお金が出回ることはないんだ。世の中にお金が出回らないかぎり、デフレは治まらない」

 ヒロミンは、「世の中に、お金が出回らないと、金融緩和の効果は、出ないんですね」と、納得したようだ。

「因みに」中村は、ヒロミンを見て言った。「日本銀行が、金融緩和を始めたのが、二〇〇一年。その時に、日本銀行にあった、各金融機関の、当座預金残高の合計は、約四兆円。当初はそれを、金融緩和によって、五兆円にするのを目標にしていた。だけど、五兆円になっても、デフレは治まらなかった。だから、もう少し、もう少しって、日本銀行は金融緩和を続けていた。それが今じゃあ、一五〇兆円だぞ。もし、俺が日本銀行の職員だったら、日銀総裁に、ツッコミを入れるけどな」

小川ちゃんは、「一五〇兆円!」と、びっくりするけど、僕も、一五〇兆円って、いくらだよ、とボケたくなる。

「なんか、ピンとこない数字ですね」ヒロミンはつぶやいた。「そこまでやっても、デフレが治まらないなんて、やっぱり、金融緩和では駄目なのかもしれませんね」

 中村はビールを飲みながら、「今のデフレが続いているのは、需要不足が原因だからな」と、言った。

「需要?」って、何だっけ?

 僕が、需要の意味を知らないと解ったのか、ヒロミンが、「需要は、人々が、その商品を、欲しいっていう気持ち。供給は、その商品を提供すること」と、教えてくれた。

「簡単に言うと、需要と供給のバランスの問題だ」中村は、空になったビールジョッキを置いて、「供給に対して、需要が少ないと、商品があまり売れなくて、物価が下がる。逆に、供給に対して、需要が多い場合、品物不足になって、物価が上がる。現在は需要が少ないんだ。だから、物を作っても、売れない時代なんだよ」と、続けた。

「わたしは、欲しいものは、いっぱいあるけどな」小川ちゃんはそう言うが、中村は、「欲しいものがあっても、実際の賃金が少なかったり、将来の不安から、貯蓄を優先させたりして、需要に結びつかないんだ」と、小川ちゃんに言った。

「最近では、高校生も、老後のことを心配していますからね」と、ヒロミンが、付け加えた。

「俺の考えでは、デフレを脱却するには、需要を拡大するしかない」中村は、みんなを見てから、「逆に、需要を拡大させる以外で、デフレから脱却する方法があったら、教えて欲しいよ」と、言った。

「需要の拡大か、わたし、お給料が出たら、お財布を新しいのに買い換える。欲しいお財布があるんだけど、買おうか、どうしようか、迷っていたのよねー。わたしもデフレ脱却に貢献する」

 小川ちゃんが財布を買ったくらいでは、デフレから脱却しないと思う。

 だけど中村は、いい心がけだ、と小川ちゃんを見た。「小川ちゃんが財布を買うと、それは、財布屋さんの所得になるんだ。財布屋さんは、そのお金で、今度は靴を買ったとしよう。それは、靴屋さんの所得になる。つまり、誰かの支出は、誰かの所得になる。みんなの支出が増えないと、みんなの所得が増えない仕組みになっているんだ」

「でも、小川ちゃんみたいに、みんながいっせいに買い物はしてくれないだろう?」僕は中村を見た。

「みんなの支出と言ったが、みんなの支出とは、三つに分けられる」中村が言った。「一つ目は、個人の支出。二つ目は、企業の支出。三つ目は、政府の支出」

「小川さんのは、個人の支出ってことですよね?」ヒロミンが尋ねた。

「そういうこと。雨宮、名目賃金と実質賃金って、知ってるか?」

「なんだよ、いきなり。名目? 実質? 何だったっけ?」

「名目賃金ってのは、実際にもらった賃金の額のこと。実質賃金ってのは、物価変動の影響を除いたもの。つまり、今の賃金が、一年後に二倍になったとする。でも、物価も二倍になっていたら、実質賃金は一年後も同じってことだ」

「なるほど。で、それがどうした?」

「ここ十年以上、実質賃金は、細かい上がり下がりはあるが、全体的には下がっている。それに、消費税を上げるってことは、実質賃金を、強制的に下げるってことだ。そんな実質賃金が下がっている状態では、個人の支出は上がらないよ。支出を抑えて、将来のために貯蓄に励む。それは、個人としては、正しい判断だ」

「確かにそうだよな」僕も少しは貯金をしないといけないな。

「二つ目の、企業の支出だが、今は、銀行にも金が余っていて、金利も安いから、銀行から金を借りて、設備投資がしやすい状態ではある」

「金融緩和も、企業の設備投資を増やすのが目的ですもんね」ヒロミンが言った。

「だけど、設備投資ってのは、供給量を増やす為のものだろ。工場を広くしたり、新しい機械を導入したりして、生産量を増やしたとする。だけど、生産量を増やしても、それが売れなければ、設備投資をしても、損をするじゃないか。つまり、需要不足の今は、企業は儲からないから、設備投資はしない。企業は営利団体だから、設備投資をするか、しないかは、それによって、儲かるか、儲からないか、で判断する。金利が、高いか低いか、ではないんだ」

「個人も、企業も、デフレの世の中だと、支出は増やさないってことですね?」ヒロミンが確認した。

「一個人としても、一企業としても、デフレの下では、支出を抑えるのは、正しい判断だからな」

「だとすると、残りは政府の支出ですか?」ヒロミンが尋ねた。

 そうだ、と言う中村に、「政府の支出って、何だ? 公共工事か?」と、聞いた。

「公共工事もそうだ。日本は地震や台風が多い国だ。地震や津波の対策、エネルギーや食料問題もある。医療や、これからは介護の問題もだ。介護報酬も、もっと上げた方がいい」

「でも」と、僕は思う。「それじゃあ、国の借金が、どんどん増えるじゃんか」

「個人も、企業も、政府も、支出を減らしていたら、みんなの所得は、どんどん下がっていくんだぞ。だから、政府が支出を増やす。デフレの時には、政府以外に支出を増やすところがないんだ。政府が増やした支出は、誰かの所得になる。つまり、GDPが増える。GDPが増えれば、法人税や所得税の税収が増えて、政府の借金も減っていく」

「そんなものなのか?」なんか、納得がいかない。

「逆に、デフレの時に、してはいけないのは、財税支出を抑えること。それと、増税だ。この二つは、インフレの時に、行う政策なんだ。前に、消費税が三パーセントから、五パーセントになった時があっただろ。実は、同じタイミングで、緊縮財政、つまり、財政支出を少なくしたんだ。結果、景気が悪くなり、五パーセントになる前は五三兆円の税収があったんだが、五パーセントになった後は、税収が減ってしまったんだよ」

「え? 消費税が上がったのに、逆に税収が減ったのか?」知らなかった。

「そうだ。所得税、法人税、消費税、他にもあるけど、それらを合わせた、一般会計税収ってやつが、消費税が五パーセントになる前の方が高かった。因みに、一番税収が高かったのは、消費税が三パーセントになった翌年で、六〇兆円だ」

「なんだが、消費税が上がるのが、虚しくなりますねー」ヒロミンは嘆いた。「でも、消費税が上がった分は、社会保障に使われるって聞きますからね」

「そうなのか?」中村はヒロミンを見た。「消費税は、軽油取引税みたいに、道路を作ったりするための目的税じゃなくて、使い道が自由な、普通税だろ?」

「でも、増税分は、社会保障に使うって政治家が言ってたぞ」確か、テレビで言っていた記憶がある。

「ほんとに社会保障に使うのか、怪しいもんだよね」小川ちゃんの言葉に、ヒロミンがうなずく。

「デフレ脱却ですけど、本当に財政支出を増やすだけで、デフレから立ち直れるんでしょうか?」ヒロミンは中村を見た。

「実質賃金が上がるかが、鍵だ」と、中村は答えた。

「実質賃金」僕はつぶやいた。

「流れはこうだ」そう言って、中村は話し始めた。


 中村の考えは、シンプルだった。

 デフレから立ち直るには、供給に対して、需要を大きくすること。

 その為には、実質賃金を上げて、国民を豊かにする。国民が豊かになれば、消費が増えて、需要が増える。


 『財政出動』

 防災、防犯、医療、介護、流通などの、『強化』に支出をする。そうすると、支出をしたところに、仕事が出来る。例えば、津波対策の防波堤を造るとする。すると、土建業やコンクリなどの資材メーカー、それを運ぶ運送業などの、仕事が増える。

 仕事が増えれば、企業は従業員を増やしたり、設備投資をして、より多くの仕事をして儲けようとする。例えば、運送業の場合は、設備投資として、儲けるためにトラックを増やす。すると、トラックメーカーの仕事も増える。トラックが増えると、ドライバーが人手不足になる。すると、運送会社は、儲けるために、少し高い賃金を払ってでも、ドライバーを確保しようとする。

 運送業や、土建業など、いくつかの業種が人手不足により賃金が上昇すると、他の業種から、労働者の流入が起こる。そうする事によって、社会全体的に、人手不足になり、賃金が上昇していく。特に、今後は人口の減少により人手不足になりやすく、賃金が上昇しやすい環境になるのだ。


 『規制強化』

 今の政権の政策は、なぜか規制緩和が多い。この規制緩和とは、インフレの時に行う政策である。規制緩和とは、企業の規制を少なくする、という事で、規制を少なくして、企業の供給能力を高めるのが目的だ。つまり、需要と供給のバランスで考えると、規制緩和をすると、よりいっそうデフレ化してしまうのだ。今するべきなのは、規制強化だ。

 とくに問題なのは、労働市場の規制緩和だ。派遣法の改正や、ホワイトカラーエグゼンプションは、実質賃金を下げる政策なのだ。これはやってはいけない。

 また、日本は今後、人口が少なくなると予想されているが、人口減少の対策として、外国人の労働者を増やすのも、やってはいけない政策だ。せっかく、人手不足によって、実質賃金が上昇するのを、低賃金の外国人労働者を入れることによって、日本人の実質賃金が、下がってしまうからだ。


 『消費税の段階的縮小』

 そもそも増税とは、個人や企業の所得の一部を、政府に移転させることなのだ。増税をして個人の所得が減れば、とうぜん消費も減って、景気が落ち込み、GDPが減る。GDPが減れば、税収が減る。

 つまり、増税は、インフレの時には、正しい政策だが、デフレの時には、やってはいけない。デフレの時は、GDPを増やすことで、法人税や所得税などの税収を増やすのが正しい政策なのだ。


 中村の話は、まだ続いた。

 経済が、緩やかなインフレ状態になり、GDPが安定して成長する。そうしたら、GDPの成長を落とさないようにしながら、労働規制の強化をする。

 つまり、今は一日八時間、週四十時間を越えると、残業手当を支払うことになっている。それを、段階的に、週二十時間を超えると、残業手当を支払うことと変更する。

 この目標は、GDPを成長させながら、労働時間を少なくすること。

 これには、数十年はかかるだろうがな。でも、そうなれば、働く時間が、半分になるだろ。中村は、そう言って笑った。

 

 中村の話が終って、少しの間、黙っていたヒロミンが口を開いた。「やっぱり、デフレから脱却するには、実質賃金を上げるしかありませんし、実質賃金を上げるには、中村さんの、この方法しかないと思います」

「確かにそうだよな。これが一番いい方法だよ」働く時間が半分ってのは、現実感がないけど、デフレから抜け出すには、これしかないと思う。

「これが一番いい方法だ」そう言って、こう中村は続けた。「でも、実はもう一つ、方法がある」

 僕とヒロミンが、同時に「え?」と、中村を見た。

「グローバル企業を目指すんだよ」と、僕を見て、「雨宮、グローバル企業って、何か解るか?」と、聞いた。

「グローバル企業ってのは」何だ? 「要するに、グローバルに活躍する企業か?」

「まあ、正解」中村は、にっこり笑った。「少し具体的に言うと、世界を相手に、商品を売る企業ってことかな」

「世界を相手に商売するって、なんか、かっこいいな」俺も世界に通用する芸人を目指したい。

「しかしな、世界を相手に物を売る場合のライバルは、外国の企業だ。当然、外国企業との、価格競争もある。価格を下げる簡単な方法は、何だ?」

 ヒロミンは、「もしかして、人件費?」と、答えた。

「正解」中村は、そう言って、「国内で作ったものを外国に売るには、人件費が高いと、大きなハンデになる。グローバル社会で戦える企業を育てるには、労働規制を緩和したり、低賃金で働く外国人を増やしたりして、国内の実質賃金を下げる必要があるんだ」と、みんなの顔を見た。

「それって」と言って、ヒロミンは嫌な顔をした。「企業は成長するかもしれないですけど、国民は貧困化するってことですか?」

「そんな方法、誰も喜ばないじゃん」僕は笑い飛ばした。

 だけど、小川ちゃんは真剣な表情で言った。「でも、実際にそんなふうに、日本はなりそうだよ」

「そうなんだよ」中村の口が、への字になった。

「何で、こんな風になっちゃってんのー?」そう言って、小川ちゃんはビールを飲みほした。

 ヒロミンが、中村の顔を見た。「マスコミでも、グローバルって言葉を、最近よく耳にしますし、政治家もグローバル社会で通用するには、って話をよくしています。でも、企業がグローバル化したら、日本人は貧困化するんですね」

「政事がいけないってことなのか?」僕は中村の顔を見た。

「政治家が悪いんだよ」酔ってきたのか、小川ちゃんは少しほおが赤くなっていた。「政治家がちゃんとしてないから、日本が悪くなっちゃうんだよ」

「俺の職場では、家庭を持った人達が、寝る時間を削って仕事をしている。前に話したよな」中村は僕の顔を見た。そして静かに話し始めた。「俺は、何故みんながこんなに働くのかを、検索したんだ」

「検索?」ヒロミンが小さな声でつぶやいた。

「理由は、デフレによる低賃金だった。次に、どうすれば、二十年近く続くデフレから、脱却出来るかを検索した。結果は、金融緩和と財政出動のパッケージ政策だった。もっとも、金融緩和に関しては、デフレの初期にしか効果はない。だから、今のデフレからの脱却には、財政出動だ。それが、一番効果的であり、常道だ」

「わたしも中村さんの話を聞いて、そう思いました」ヒロミンは真剣な表情をしている。

「だけど、実際には、デフレ対策である財政出動と、インフレ対策である規制緩和を、一緒にやっている。俺は、政治家ってのは、頭が悪いやつの集まりかと思っていたんだ」

 小川ちゃんは、「政治家って、裏では悪いことしてそう。でも、わたし達よりかは、頭はいいんじゃないの?」と、僕に顔を向けた。少なくとも、僕や小川ちゃんより、政治家は、頭がいいと思う。

「そう。実は、政治家の頭は、悪くなかった。政治家が行う政策は、理にかなっていたんだ」

「どういうこと?」ヒロミンが聞いた。

「デフレ経済では、個人は、支出を抑え、貯蓄を増やす。企業は、支出を抑え、人件費を含めたコストを低くして、商品の価格を抑える。これは個人としても、企業としても、正しい行動だ。だとしたら、政権を取った与党や、総理大臣の正しい行動とは、何だ?」

 僕の頭に、戦後から、ほぼ政権与党である自由国民党。そして、二年前に総理大臣となった、安斉明夫の顔が浮かんだ。

 総理大臣としては二枚目で、国民から人気の高い、安斉首相の正しい行動とは何だ?

「与党は、与党であり続けること。総理大臣は、総理大臣であり続けること。それが正しい行動だ」と、中村は言った。

「言ってる意味が、よく解らないんだけど」確かに、総理大臣がころころと代わるのは、良いことではないけど、中村は、何が言いたいんだ?

「安斉政権は、自分が長期政権になるための行動をとっている。では、どうすれば長期政権になれるか。それは、株価を上げることだ」

「株価?」中村は、何を言っているんだ?

「そうだ、株価だ。株価が上がると、長期政権になる。今までの総理大臣を見ても、株価が上がった時の政権は長く続き、株価が下がった時は、短く終っている」

「ほんとなのか?」僕が聞くと、「検索したからな」と、自信たっぷりに中村が答えた。

「おまえ達、株式を持っているか?」

 僕も、小川ちゃんも、首を横に振った。「わたし、少しだけど、持っています」この中では、ヒロミンだけが株をやっているようだ。

「四人中、一人か。日本人の貯蓄額の内、株で運用をしているのは、一割以下だ。だけど、株価が上がると、なんとなく、景気が良くなった感じがするだろ? 自分が株を持っていなくても、景気が良くなったと、錯覚するんだ。それで、株価が上がると、政権の支持率が上がる。政権の支持率が上がると、長期政権になる」

「でも、企業の業績が良いから、株価が上がるんですよね?」ヒロミンが反論した。

「一つ一つの銘柄を見れば、そうかもしれない。だが、俺が言っているのは、全体の株価、つまり、日経平均株価のことだ。日経平均株価は、日本の景気とは関係なく、上下する」

「そうなんですか?」ヒロミンは疑いの目だ。

「日本企業の株式は、約三分の二を、日本人が保有している。だけど、市場で株の売買をしているのは、約三分の二が、外国人投資家だ。株価は、売買によって、上下するだろ。つまり、日経平均株価は、外国人投資家の動向が、大きく影響するってことだ」

「株取引の三分の二は、外国人なんですか」株をやっているヒロミンも、知らないようだった。

「日経平均株価と、為替は、相関関係にある。円安になると、株価は上がり。円高になると、株価は下がる。これには、色々な見方があるが、俺はこう考える。外国人投資家はドルで投資をしている。だから、日本の株の場合、円安だと、少ないドルで買える。円高だと、売って利ざやを稼げる。単純な事だ」

「確かに、円安になると株価は上がって、円高になると株価は下がります」ヒロミンは、よく知っている。

「それで、安斉首相は、株価を上げるための政策を、色々としている。一つは、金融緩和。これは、政府というより、日本銀行がしているのだが、金融緩和によって、円安になり、株価が上がっている。次に、規制緩和で実質賃金を下げたり、法人税率を下げたりして、企業の純利益を多くする。それによって企業は、自社株買いを行い、株価が上がる。それから、年金積立金管理運用独立行政法人。つまり、年金の運用をしているとこだが、その年金の、株式で運用をする割合を、拡大する政策だ。とうぜん、株式市場に大量の年金の金が入ると、株価は上昇する」

「実際に、今は、株価が上がっていますし、安斉政権の支持率も高いです」ヒロミンが言った。

「だけど、株価がいくら上がっても、GDPが上がるわけではないし、実質賃金が上がるわけでもない。喜ぶのは、外国人投資家だけで、日本国民は少しも豊かにはならない。それでも、支持率を上げるために、株価を上げる。それは、総理大臣の行動としては、正しいのかもしれない」

「ちっとも正しくないだろう」いったい、誰のための政治家なんだ。

「総理大臣が長期政権を目指す。これは、当たり前のことだよ。日本は民主国家だ。国民の支持がなければ、政権は続かない。国民が、株価が上がることを望んでいるんだよ。株価の上がり下がりと、景気の良い悪いは、関係がない。それを、国民が理解しない限り、総理大臣は、株価を上げる政策を続けるだろうな」

「そんな。株価はいいから、デフレ脱却だろ。景気回復だろ」少し頭にきた。何に? 政治家にか? 自分でもよく分からない。

 中村は、相変わらず抑揚のない声で言った。「デフレ脱却のために、財政支出を増やして公共工事を多くする。そうしたら、税金の無駄遣いと言われて、支持率が下がり、安斉政権は退陣になるよ」

 何かが、間違っている。このままじゃ、駄目だ。


 みんなに知らせなければ。

 この、中村の考えが、正しいのか、間違っているのかは、分からない。

 それでも、たくさんの人達に知らせて、そして、みんなで考えなければいけない。

 そう、僕達は決心した。


 ヒロミンのブログでも、中村のサイトは紹介された。

 サイトの名前も、『働く時間を半分にして、給料が二倍になる方法』は、あまりにも胡散臭い、とのヒロミンからの強い要望で、『中村の、正しいデフレ脱却の方法』とした。

 また、ヒロミンのマネージャーの陽子がパソコンに詳しかったので、中村のサイトを作り直した。それによって、見栄えがよく、内容がより解りやすくなり、コメント欄も充実された。

 ヒロミンは、ブログ以外にも、テレビ関係者を中心に、いろんな人に、中村の方法を宣伝した。可能な時は、テレビでも宣伝をした。

 それで、事務所の社長に一度、注意されたことがあったが、逆に、中村の方法を広める必要性を熱弁して、社長を論破したこともあった。

 ヒロミンの影響力は絶大だった。ネットの中では、中村の方法に関するいくつものサイトが立ち上がった。中村も、陽子に協力してもらい、関連サイトをいくつか立ち上げた。

 ネットの中では、みんなが、中村の方法を知っているような感じになった。


 そろそろ次の行動に移る。ヒロミンが、中村のサイトをブログで紹介してから、二ヶ月くらい経った頃、中村は僕にそう電話をしてきて、また、作戦会議をすることになった。

 場所は、前回と同じ居酒屋だ。

「俺の考えた方法を、実際に行うための、やり方を考えた。名付けて、『中村計画』だ」中村の目が輝いている。

「何だ、そりゃ?」また変なことを考えたのだろう、中村のつぶらな瞳が、みんなを見回した。

「何を考えたの?」小川ちゃんは、興味津々といった表情だ。

「ヒロミンのおかげで、ネットの世界では、俺の考えが、だいぶ広まった。だが、これで政治家が動くかは、不確定だ。もっと、確実な方法をとる。つまり、俺達が政治家になる」

「おまえが政治家に立候補するってのか?」これは、僕の予想を超えた発想だ。

「雨宮、おまえも立候補するんだよ」

「僕も?」なに言ってんだ、こいつは。

「コントも出来る政治家だな。国会に笑いの風を送ってやれ」中村は楽しそうな顔で、「ヒロミンは、司会もこなす国会議員だ」と、ヒロミンに笑いかけた。

「わたしも立候補するんですか?」さすがのヒロミンも、動揺している。

「わたしも政治家になりたいー」大きな声を出した小川ちゃんに、「とうぜん小川ちゃんにも国会議員になってもらう」と、笑顔を向けた。

「ちょっと待って下さい」ヒロミンは、手のひらを中村に向けた。「わたし達、四人が立候補するってことですか?」

「四人だけじゃない。衆議院の選挙区、全部から利候補する」

 ヒロミンの「選挙区全部?」と、僕の「誰が?」の声が、重なった。

「それは、これから募集する」

 何だ? 何なんだ、いったい。やっぱり、こいつはバカなのか?

「募集するって・・・」ヒロミンは、言葉に詰まっているようだ。

「国会議員の年収は、二千万以上なんだ。ネットで、俺の考えに賛同する者を募集すれば、集まるんじゃないか?」

「二千万円なのー!」小川ちゃんの目が、¥マークになった。

「ほら、もう立候補者が決まった」中村は、小川ちゃんを見て、笑った。

「だけど、国会議員ですよ。誰でもいいって訳には、いかないですよね」ヒロミンは小川ちゃんを見るが、小川ちゃの目は、まだ、¥マークになっている。

「誰でもいいんだよ」中村は、あっさりと言う。「民主主義ってのは、多数決ってことだ。国会で、俺の出す政策に、手を上げてさえしてくれればいいんだ」

 でも、と、ヒロミンは言うのだが、中村は、「それぞれの選挙区では、俺のやろうとする政策に、賛成か反対かの民意を問う。立候補した人間の、能力や人間性を問うのではない。そこで選ばれたとしたら、そこの選挙区の民意は、俺のやろうとする政策に賛成ってことだ。だとしたら、そいつは国会で、俺の政策に賛成の手を上げる。それだけのことだ」と、話した。

「でも、それじゃあ、政治が滅茶苦茶にならないか?」中村の考えも解るけど、やっぱり素人の政治家だと、無理な気がする。

「今でも十分に、滅茶苦茶だろ。インフレ対策と、デフレ対策を、いっぺんにやっているくらいだからな」

「そりゃ、そうなんだけど」それでも、無理な気がする。

「それに、国会で議員が話していることなんて、みんな官僚が書いた台本だろ。官僚が優秀なら、問題はない」

「そうかもしれないけど」やっぱり、無理な気がする。

「俺には、官僚をコントロールする考え、がある。それには、与党にならないとな」

「おまえ、与党になるつもりなのか? 政治の素人のおまえが?」

「当たり前だろ。民主国家なんだから、与党にならないと、多数決で勝てないだろ」

「与党になるってことは、おまえが総理大臣になるのか?」こんなやつに、総理大臣をやらしていいのか? 「滅茶苦茶になるだろ」

「だから、今でも十分に滅茶苦茶だって言っただろ。それに、与党になったとしても、今の、自由国民党と、連立政権にする。俺がやるのは、経済政策。つまり、デフレから回復させて、GDPを成長させるだけだ。他の外交やら、防衛やらなんて、俺には分からないからな。それらは、自由国民党のやつらに任せる」

「任せるって・・」そんないい加減な総理大臣で本当にいいのか?

「でも、面白いかもしれない」ヒロミンが言った。小川ちゃんも、「でしょー、面白いよー」と、声をあげた。

 小川ちゃんはともかく、ヒロミンまでもが、面白いと言うなんて。確かに、面白いかもしれないけど。

 本当に、これでいいのか?


 さっそく『中村計画』を、ネットで公表することになった。

 陽子に連絡をして、ヒロミンの部屋に来てもらうことにした。作戦会議の後に、中村、ヒロミン、陽子の三人は、ヒロミンの部屋で、そのままサイトの変更作業に入るらしい。

 この、中村計画とは、『中村の、正しいデフレ脱却の方法』に賛同する者達で、衆議院小選挙区すべてから立候補者を出して、直接、政治を行う計画だ。

 衆議院の小選挙区は、全部で二九五区ある。四人を除いた、二九一人の立候補者の募集となる。

 応募資格は、二十五歳以上の健康な男女。

 当選をした場合は、国会開催中は、国会へ出席可能な者。地方に住んでいる人のために、青山に議員宿舎が用意されている。

 そして、供託金六百万円を準備出来る者。

 衆議院選挙に立候補するには、この六百万円の供託金が必要なのだ。これは選挙期間が終れば、戻ってくるが、有効投票数の十分の一以下しか票を集められないと、没収されてしまう。この制度は、あまり本気でない者が立候補をするのを、防ぐ目的のものだ。

 国会議員になった場合の給料は、月給、ボーナス合わせて、約二一一〇万円。

 今の安斉政権が誕生したのは、二年前なので、次の衆議院選挙は二年後となる。しかし、その前に衆議院が解散する可能性もあるので、今のうちに立候補者の募集をすることにした。

 中村計画を、ネットで公表するにあたり、マニフェストを作った。主に、デフレ脱却のための政策だが、仮に、与党になった場合は、自由国民党に連立を提言し、経済政策以外は協力を求めるとした。

 供託金の六〇〇万円が、一番のハードルだと考えられる。これは、得票数が全体の十分の一以下だと、没収されてしまうからだ。

 ただ、実際の選挙活動は、中村とヒロミンが行うことにして、それぞれの立候補者には負担はかけない予定だ。

 政治や選挙には、お金がかかる。僕達は一応、政党ということにはなるが、国から政党交付金を、もらえるだけの要件は満たしていない。だから、選挙が始まる前に、いかに中村計画を世間に認知させられるかが、勝負である。そう考えると、選挙はなるべく先になった方が、有利といえる。

 いよいよ、中村計画のスタートだ。


 中村計画がネットで公開になってから一週間が過ぎた。

 ネット上ではだいぶ盛り上がっているけど、まだまだ世間での認知度は低い。応募者は一人も来ていないし、僕も、六〇〇万の工面を考えなければならない。

 意外なことに、中村は六〇〇万を用意出来るみたいだ。あいつに、そんな貯蓄があったとは思えない。もしかしたら、金持ちの女と付き合っているのかもしれない、と考えたけど、中村がそんなに女にモテるとは思えない。

 小川ちゃんの場合は、親が貸してくれると言っていた。小川ちゃんの父親は、娘が国会議員になったら、その三倍以上の年収があるから、資産運用の利回りが凄くいい、と言っていたらしい。供託金と資産運用とは、別物だということを、小川ちゃんの父親は分かっていないらしい。

 小川ちゃんの話を聞いて、僕も山梨の実家に電話をかけてみた。

 「オレオレー」っとかけた電話に、お母さんが出て、「うちには金はないよ」と、あっさりと言われてしまった。

 お母さんは中村計画のことは、聞いたことがないらしい。それは予想通りだったが、ヒロミンのことも、「誰だっけ?」と、言っていた。

 ヒロミンは、国民的なタレントなので、きっとテレビで顔は見ているはずだ。たぶん、顔と名前が一致していないのだろう。

 お母さんとの電話を切ると、すぐに携帯が鳴った。画面を見ると、中村からだ。

「雨宮の事務所に、高齢者に人気のあるタレントは、所属してないか?」

「高齢者に人気って? なんでまた、そんなこと聞くんだ?」

「俺達がやっている宣伝活動は、ネットとヒロミンが中心だろ。それは、若者に対しては効果的だが、若者はあまり選挙には行かない。それで、高齢者向けの宣伝方法を考えたんだ。高齢者は、ネットを見ないし、ヒロミンにも興味がない。高齢者に宣伝しようと思ったら、やっぱりテレビだろ。あいつらは、テレビばっかり見ているからな」

「確かにな。僕の母親も、ヒロミンのことは知らないって言ってたし」でも、高齢者がテレビばっかり見てるってのは、中村の偏見だろ。

「そこで、年寄りに人気のあるタレントに、テレビで中村計画を宣伝してもらうんだ」

 なるほど、と思う。「そうだな、永島浩一さんとかかな。あの人は、中高年の女性に人気なんだよな」協力してくれるかは、分からないけど。

「永島浩一って、あの、おばちゃんに人気の、漫談をしている人か。いいかもしれないな。雨宮と同じ事務所だったのか」

「だけど、永島浩一さんとは、あまり話したことが、ないんだけどな」

「良かったじゃないか。これを機会に友達になったらいい」

 中村は勝手なことを言って、電話を切った。


 翌日、永島浩一さんのマネージャーに電話をすると、今日は、中野区の区民ホールで漫談だと言うので、会いに行った。

 区民ホールは、異様な雰囲気だった。会場は満席で、全てがおばちゃんなのだ。

 これほどの数の、おばちゃんの集団を見るのは初めてだ。しかも、おばちゃんの集団は、永島浩一の話す言葉に、げらげらと笑っている。

 永島浩一さんの漫談を、生で見るのは初めてだったが、僕は、永島浩一と、おばちゃんの集団に圧倒された。

 

「圧倒されました」楽屋に戻った永島浩一さんに、素直な気持ちを言った。

「観客が、おばさんばっかりで驚いたでしょ?」永島浩一さんは、六十歳に近い年齢のはずだけど、午前の漫談を終えても、疲れた様子は感じられなかった。 

「はい。会場中大爆笑でしたよね」

「うん。みんな僕の話に、笑ってくれた。雨宮君も面白かった?」

「もちろんです」

「本当?」永島浩一さんは、僕の目を覗き込んだ。

「本当ですよ。おばちゃん達も、大笑いしてたじゃないですか」

「本当かなあ?」

 永島浩一さんは、何でそんなことを聞くのだろう?

「僕の漫談はね、おばさんにはうけるけど、雨宮君のように若い人が聴いても、それほど面白くないと思うよ。でも、ありがとう」

 そう言われると、永島浩一さんの漫談は、確かに面白いんだけど、おばちゃん達を見ていて、笑い過ぎだろう、と感じていた。

「下積みの頃、ぜんぜん笑いがとれなくて、試行錯誤をしてた時代があったんだ」

 永島浩一さんには、長い下積み生活の時代があったと聞く。

「それで、笑わせるターゲットを、おばさんに限定してみようと考えたんだ。世のおばさんが、ふだん何を考え、何を想い、何に興味があるのか。そして、何に笑うのか。そうして出来たのが、僕の芸風だからね。だから、おばさん達は、僕の話に笑ってくれる」

 そうだったのか。笑わせるターゲットを限定する。だから、おばちゃん達は、あんなに笑っていたんだ。

「勉強になります」永島浩一の笑いは、実は、深くまで計算されていたのだ、と思った。

「だけど、一つ失敗をした」

「失敗ですか?」と、僕が言うと、永島浩一さんは、「ターゲットを、おばさんじゃなくて、若い女の子にすればよかった」と、真面目な顔で言って、「おばさんじゃなくて、若い女の子に囲まれた方が、楽しいだろうからね」と笑った。

「ところで、今日は、僕の漫談を見に来たの?」と、言う永島浩一さんに、僕は、中村計画のことを話した。


 僕の話を聞いた永島浩一さんは、一言、「無理」と言った。「さっき、中村英樹って人の写真を見せてもらったけど、顔が可愛くないもん」

「顔ですか? 中村の顔が、可愛くないから、無理?」

「おばさん連中は、政治のこと、とくに、政策のことなんか、解らないよ。政治家は、誰も彼もが、国民のために、がんばっています、って言ってるでしょ? おばさん達には、どの政治家も、同じに見えるってわけ。その中で、選挙になったら投票しようって思うのは、顔とイメージ」

「顔とイメージ、ですか」中村は、どっちも悪いように思える。

「おばさん達が好きなのは、素直で可愛い、若い男の子。政治家としてなら、正義感があるイメージも必要になるね。要するに、娘の結婚相手にしたくなるような男の子。」

「中村は、おばさん達には、受け入れてもらえない顔なんですね」こればかりは、本人の努力では、解決出来ない問題だ。

「僕は、おばさん心理の専門家だよ。中村英樹って人の顔は、おばさんには、人気の出ない顔だ」

永島浩一さんは、「ターゲットを、おばさんじゃなくて、おじさんにしてみたら? 中高年の男性なら、中村英樹君の顔も、それほど、気にしないと思うよ。だけど、それだと僕に協力出来ることはなくなるけど」と言って、煙草に火をつけた。


 区民ホールを出て、中村の携帯に電話をかけた。

「どうだった?」と聞く中村に、「おまえの顔が悪いから、駄目だった」と答えた。

「なんだ、そりゃ?」と、携帯から聞こえてくる中村の声に、僕は、永島浩一さんとの会話を話した。

「ターゲットを、中高年の男にした方がいい、そう言ったのか。確かに、永島浩一が言うことにも、一理あるな」中村は、少し沈黙してから、「おまえのところに、中高年の男に影響力のあるタレントはいないか?」と聞いてきた。

「そんな都合のいいタレントなんか、いないよ」

 中村計画を世間に知ってもらわなければ、先には進めない。

 だけど、世間に知ってもらうのは、凄くたいへんなことだった。

 芸人の世界にも、実力はあるが、売れていない人は、ごろごろとしている。そういった人達の中には、何かのチャンスをつかんで有名になる人もいるけど、ほとんどの人は、実力はあっても、そのまま消えて、いなくなるのだ。

 中村は知らないだろうが、世間に知ってもらうってのは、とてもたいへんな事なんだ。


 夕方、事務所に行くと、社長の黒滝葵に呼ばれた。

 彼女は、番組のADや、歌手のマネージャーなどの経験を生かし、三十二歳の時に、この芸能プロダクション、株式会社シュリンプを設立した人物だ。本人自ら、時々テレビにも出ている。

 社長室に入ると、社長の他に、ヒロミンがいた。ヒロミンは僕に、「ミラクルが起こったわよ」と言って、写真週刊誌を見せた。

 週刊誌の開かれたページには、「ヒロミン(二七)に、恋人出現!」と、大きな見出しがあり、ヒロミンと男が、タクシーから降りたところの写真が載っている。

「これって、今日出た週刊誌ですよね? ヒロミンさん、恋人いたんですか」今まで、浮いた話が一度もなかったから、ヒロミンには恋人がいないと思っていた。

「ちょっと、よく見て下さいよ」と、写真を指差した。

「あ!」写真に写った男の顔には、黒く目線が入っている。だけど、この、まあるい顔と、ぷっくらした唇。そして、ぽってりとしたお腹は、中村にしか見えない。

「いつから中村と付き合ってたんですか?」

「付き合ってるわけ、ないじゃないですか」

 ヒロミンは、中村のどこが気に入ったのだろう?

「あのですね、これはこの前の作戦会議の後に、中村さんと、私のマンションに行った時に撮られたんです」

「ああ、あの後か。そういえば、ヒロミンさんの家で、サイトの書き換え作業をするって、言ってましたもんね」冷静に考えると、ヒロミンが、中村と付き合うとは、到底考えられない。

「部屋には陽子もいましたしね。でも、どうして写真週刊誌が、わたしを狙ってたのかが不思議ですよ」

「それはたぶん、他の誰かを張っていたのよ」社長が、週刊誌を手に取った。「ヒロミンのマンションには、他に芸能人が二人住んでるでしょ。そのどちらかを狙っていたんでしょうね」

 ヒロミンは、なるほど、といった顔で、「高木俊ですね。あいつが女と同棲しているとこを、撮りたかったのね」と、言った。

 高木俊は、ドラマによく出演しているイケメン俳優で、スキャンダルの多い人物だ。ヒロミンと同じマンションなのか。見たことはないけど、高級なマンションだろうと思った。

 ヒロミンは嬉しそうな顔で、「この記事に対して、記者会見を開くことにしたんです」と言った。

「わざわざ記者会見をするんですか? 中村と一緒の写真を撮られて、怒る気持ちも解りますけど、こんな記事、ほっておけばいいんですよ」

「雨宮さんは、分かってないですねー」と、ヒロミンが、いたずらっ子のような目をした。「これを使って、中村計画を宣伝するんですよ。中村さんを、テレビの前に、出すんです」

 そんなやり方もあるのか。そう思ったけど、これは売れないタレントが、人気のある芸能人との関係をスクープされて、知名度を上げる。よくある売名行為のパターンだ。

「ヒロミンから、中村計画のことは色々と聞いててね。あたしは、面白いと感じたんだ」社長は、僕に顔を向けた。「あたしは中村計画を応援する。雨宮、おまえも政治家に立候補しな。現役の政治家だったら、バラエティだけじゃなくて、情報番組の仕事も取れるわよ」

「社長、打算が多すぎです。中村計画を世間に知ってもらうためです」ヒロミンの声に、社長は、「中村計画の主義は、ちゃんと分かっているつもりよ」と答えた。


 社長は、中村を事務所に呼んで、話をしたようだ。それからは、意欲的に中村計画に協力してくれた。

 会社のホームページや、所属タレントの公式ホームページでも、中村計画が大きく紹介された。社長の本当の意図は分からないが、これは中村計画にとっては、プラスになる。

 写真週刊誌にヒロミンの記事が載ってから、ヒロミンの周りには、記者達が群がり始めた。社長は、タイミングを計って記者会見を開催した。


 ヒロミンンは、今までスキャンダルとは無縁だったこともあり、会場には、たくさんの記者が集まっている。テレビ局からも来ている。

 僕は、会場の隅で、記者会見が始まるのを待っていた。

「これより、ヒロミンさんの記者会見を始めます」司会者の声があり、社長、ヒロミン、中村の順で、会場に入り、席に座った。沢山のフラッシュが光る。

 左側に座っている男が、写真に写っている男に似ていることに記者達が気付いたのか、会場内が、どよめきだした。

「えー」ヒロミンがマイクに向かって話し始める。「この度、写真誌に掲載された写真ですが、私と彼は、恋人関係ではありません。彼は、中村英樹さんといい、中村計画という政治団体の代表者です。私も、その政治団体に所属していまして、写真を撮られた日は、中村計画の、ホームページの変更作業をするために、私のマンションに来て頂きました。部屋には私のマネージャーもいまして、主に、中村さんとマネージャーとで、作業をしていました」話している間中、フラッシュと共に、シャッター音が響いている。

「お隣に座っている方は、中村さんですか?」記者の中から聞こえた質問に、中村が答えた。「はい。私が中村計画の代表の、中村英樹です」中村は、にっこりと笑った。

「毎読新聞の川村です。中村計画という政治団体は聞いたことがないのですが、名前も変わっていますし、どのような政事団体なのですか?」会場の、後ろの方からの質問だった。

 中村はその記者に顔を向け、抑揚のない声で話し始めた。「先日、設立した政治団体です。中村計画は、日本をデフレから脱却させる事を目的に、設立しました。現在は、政治団体といっても、政治家は1人もいません。メンバーも少数です。ですが、次回の衆議院選挙には、全ての選挙区から候補者を立てる予定です。そのために、私達は、政治家になりたい人を募集しています。政治家になりたい人を集め、衆議院選挙に立候補をし、デフレから脱却するための政策を行う。それが、中村計画なのです。二十年近く続く、日本のデフレを終らせるには、この計画しかないと考えています」

 ヒロミンの、スキャンダルの記者会見に集まった、芸能担当の記者達は、会見の内容が政治に関することに変わり、困惑しているようだ。

「ヒロミンさんも、その、中村計画という政治団体に入っているということは、選挙に出るのですか?」記者達の中から、女性の声がした。

「はい。まだ、選挙がいつあるかは、分かりませんけど、立候補するつもりです」ヒロミンの言葉に、またフラッシュの光が集まった。

「先ほど、お隣の中村さんが、衆議院選挙とおっしゃっていましたけど、芸能人が参議院ではなくて、衆議院に立候補するのは珍しいと思うのですが、なぜ衆議院なのですか?」別の記者の質問だ。

「私は、芸能人として政治家になりたいのではなくて、中村計画の一員として、政治家になりたいのです」

「中村計画に入った理由を、お聞かせ頂けますか?」また、別の記者からの質問だ。

「中村さんの話を聞いて、このままだと日本は駄目になるという、危機感を抱いたからです。一言では言えませんけど、私の公式ホームページからも、中村計画の内容が見れます。それを見て頂ければ、みなさんも理解してもらえると思います」

 ここで黒滝社長が、マイクに顔を近づけた。「シュリンプ代表の黒滝です。弊社のタレントでは、ヒロミンともう1人、雨宮一郎が中村計画に所属しております。中村計画に関する資料がありますので、これよりお配りします」

 中村計画の資料が、スタッフの手によって、それぞれの記者に配られた。

 それから、いくつかの質問があり、記者会見は終了した。


「おつかれさまでした」記者会見場の控え室に入り、みんなに声をかけた。

「まあ、こんなもんでしょうね」黒滝社長が言った。

「フラッシュが眩しかった。でも、いい宣伝になったな」中村は、ペットボトルの水を口にした。

 黒滝社長も、水を一口飲んだ。「これからよ。謎の男に、謎の政治団体。これに世間が食いついてくれたら、面白いんだけど」


 その日からテレビの情報番組などで、中村英樹とは、どんな人物なのか? 中村計画とは、何なのか? が取り上げられるようになった。

 社長の狙い通り、ヒロミンの仕事は増えたし、僕の仕事もだいぶ増えた。

 だけど、一番驚いたのは、中村がテレビに出るようになったことだ。

 いつのまにか、中村もタレントとしてシュリンプに登録していて、社長が色々と、情報番組や、バラエティ番組の仕事を取ってきている。

 中村の、気持ち悪いんだか、可愛いんだかの、微妙な容姿が人気になって、このままだと、中村グッズとかが出るかもしれない。


 中村が生放送の討論番組に出演するというので、僕は家でそれを見ていた。

 テーマは景気回復。

 出演者は九人で、現役の政治家、経済評論家、ジャーナリスト、元官僚の作家など、そうそうたる顔ぶれだ。

 そんな中に、中村が呼ばれた理由は、一つのキワモノとしてだろう。

 討論が進む中、中村は黙って周りの話しを聞いているようだった。

 話題が、少子化による人口減少の問題になった。

 日本では、若者の未婚率が増加している。また、結婚をしていも、保育所の数が足りなくて、待機児童が増えている。

 保育所は増やさなければならない。子供手当ても必要ではないか。女性が外で働けるように、外国人の家政婦を入れることも必要になってくる。労働人口の減少を止めるために、外国人技能実習制度の枠を広げて、たくさんの外国人労働者を、日本に呼び寄せることも大事だ。など、色々な意見が出た。

「中村さんは、これとは違った意見を持ってると聞きましたけど、少子化問題、人口減少問題は、どういった考えですか?」司会者が、中村に話を振った。

 中村は、みんなの顔を見回した。「まず、少子化問題だが、若者が結婚しないのが一番の原因だ。理由は簡単で、実質賃金が少ないからだ。給料が安いから結婚が出来ない。だから子供も少ない。次に、人口減少による、労働人口の減少だが、労働人口が減ったらどうなる? 人手不足により、供給量が減り、物が不足する。つまり、人手不足と物不足。これによって、起こる現象はなんだ? 人件費の上昇と、物価の上昇だ。また、需要に対して、供給が少なくなるのだから、物を作れば、売れる時代になる、ということだ。企業は設備投資をして、生産性を上げ、たくさんの物を作ろうとする。なにしろ、作れば売れるのだ。それによって、GDPが上がり、実質賃金が上がってくる。実質賃金が上がれば、若者も結婚が出来て、少子化問題も解決する」

 中村の断定した物言いに、苛立つ者と、あざ笑う者とに、分かれた。

 経済評論家の高橋繁盛が反論した。「中村さんは、解っていないようですね。労働人口が減るってことは、日本の経済は衰退していくんですよ。それを防ぐためには、企業が力をつけて、日本の経済を牽引していかなければならない。そのために、今、安斉政権が行っている、成長戦略が必要なんです。減っていく労働人口を押さえるため、外国から優秀な人材を受け入れることも、その一つだです。まず、企業が成長しなければ、賃金も上げられないでしょう」

 中村は、つぶらな瞳で高橋を見た。「企業に力をつける。そして、賃金が上がる。それは、供給を大きくして、そして、需要が上がる。そういうことですね? それでは逆だ。まず、需要を大きくするのが先だ。今は、供給に対して、需要が少ない状態だ。そこで、供給を増やしてどうする」

「まあまあ」司会者は、話を止めた。「中村さんには、ちょっと難しかったかもしれないね」

 ここでコマーシャルになった。


「さて、次は日本のデフレ問題。この長きに渡るデフレから立ち直るには、いったい、どうしたらいいのか」コマーシャルが終ると、司会者が話題を変えた。

 現職参議院議員の越田が発言した。「金融緩和と財政再建が肝要です。日本銀行には、インフレ率二パーセントを目標に、徹底した金融緩和を続けて頂きたいと考えます。また、今年春に行われた、消費税の増税。これにより、景気は一時的に失速はしましたが、国債の信認を失わないためにも、増税による財政の安定化は必須です。そして、財政が安定すれば、国民は将来への不安もなくなり、消費が上向きます」

「ここで消費税の話が出たけど、消費税は二年後にも、また上げるべきかね。じゃあ、土田さん」司会者が、ジャーナリストの土田に、話を振った。

「今年の消費税増税では、エコノミストの予想よりも、若干、景気が下振れ致しました。原因としては、今年の夏の異常気象があったから、と考えられます。週末の度に雨が降り、外食産業にも大きな影響が出ました。しかし、これ以上、国の借金を増やして、私達の子供の世代の負担を増やしてはいけません。二年後の消費税増税は、国際社会にも約束をした事でもあります。もし、二年後に、約束通り消費税を上げない場合、国際社会からの信認を失い、国債が暴落してしまう可能性は否定できません」

 その後も、それぞれが意見を言っていたが、誰も中村に話を振らなかった。

 中村は、深呼吸を一回して、勝手に話を始めた。「消費税増税とは、国民の所得の一部を、政府に移転する、ということだ。つまり、実質賃金が下がる。デフレの時にこれをやると、需要が減って、デフレが加速する。消費税増税により、景気が失速するのは、当たり前の現象だ。また、、国債の信認だが、そんなもので国債は暴落したりはしない。日本の国債は、全て、円で発行している。今は、金融機関が、国債をこぞって買い求めている。理由は一つ、デフレのために、企業が銀行から金を借りて、設備投資を増やさないからだ。つまり、銀行は、他に金を貸すところがないから、国債を買うんだ。国債の信認があるからではない」

 中村の話により、周りは、しらけた空気になった。

「その理屈だったら、銀行は、外国に投資するでしょう」土田は、しらけた顔で言った。

 中村は、「外国に投資をするには、円では出来ないだろ」そう言って、土田を見た。「円をドルに換える必要がある。例えば、A銀行が、円をドルに交換する場合、銀行間取引で、B銀行が持っているドルと交換する。そうなると、B銀行は、その円を、何かで運用しなければならない。つまり、外国に投資しようとして、円をドルに換金しても、その円は、消えたりしないってことだ」

 土田は、言葉に詰まって、横を向いた。

「中村さん」司会者が、中村を指差した。「あなたね、デフレから簡単に脱却出来るって、ネットで言ってるらしいけどね。いったいどんな方法なの、言ってみてよ」

「中村計画だ」中村は、用意していたフリップを、テーブルの上に立てた。


 中村計画  働く時間を半分にして、給料が二倍になる方法


 一、財政出動

 二、規制強化

 三、消費税の段階的縮小

 この三つを行うことにより、経済はインフレ傾向になる。それにより、生産性が高まり、

 GDPが増える。

 生産性が二倍になり、GDPが二倍になれば、働く時間が半分になり、給料が二倍にな

 る。


「財政出動をして、需要を増やす。それと、主に労働市場の規制強化と、消費税の縮小により、実質賃金を増やす。それによって、デフレが終る」

「なんだ、それ?」誰かの言葉が聞こえ、周りが笑った。

「そんなので、デフレが終るわけがないだろ」経済評論家である高橋繁盛は、あきれた顔で言った。

「おまえには、解らないだろうが、これでデフレは終る」中村は、高橋の目を見て言った。「中村計画は、現在、政治家になりたい人を、募集している。そして、次の衆議院選挙の、全ての選挙区に候補者を立てる。中村計画が政権を取ったなら、二年で、経済を立て直し、デフレから脱却させる。今の政権では、デフレ脱却は出来ない」

「何を言ってんだ、あんた」高橋は、中村の挑発的な言葉に、声を荒げた。「あんたに政権が取れるわけないだろ。仮に取れたとしても、あんたにデフレ脱却なんて出来ない」

 中村は、テレビカメラを見据えた。「中村計画が政権を取ったなら、必ず二年で、デフレ脱却を果たす。もし、それが出来なかったら、俺は、腹を切る」

「本当だな。本当に、二年でデフレが終らなかったら、腹を切れよ」高橋は、大声で言った。

「まあまあ、落ち着いて」司会者が止めに入った。「高橋さんも、中村さん相手に、そう興奮しないで。中村さんも、軽はずみなことは言わないように。もし本当に政権を取っちゃったら、あんた、二年後には、切腹することになっちゃうよ。時代劇じゃあるまいし」

「そうか、切腹ってのは、現実的ではないな」中村は、司会者に顔を向けた。「よし、こうしよう。中村計画が政権を取って、もし、二年でデフレが終らなかったら、俺の腎臓を一つ、誰かにやろう。世の中には、腎臓移植を待っている人達がたくさんいるだろ」

 司会者は慌てたように見えた。「そんなこと、言っちゃ駄目だよ。あんたが政権を取るってことは、ないだろうけど、もしも、ってことがあるんだ。あんたが政権を取って、二年でデフレが終らなかったら、本当に腹を切ることに、なるかもしれないんだよ。これは、生放送なんだよ」

「腎臓を取り出すところも、生放送で流すか」中村の言葉に、司会者は「コマーシャルにいって」と叫んだ。

 コマーシャルが明けると、そこに、中村の姿はなくなっていた。


 中村の、腹切り宣言があった翌日、僕達はまた、作戦会議を開いた。

「おまえは、前からバカだと思ってたけど、正真正銘のバカだな」僕は、中村のぽってりとした、お腹に目がいった。

「普通だったらカットされるんでしょうけど、生放送でしたからね。しかも全国放送」ヒロミンも、中村のお腹の辺りを見た。

「おまえ達、四面楚歌ってのを知っているか? あの時の俺が、まさに四面楚歌だった。つい、勢いで言ってしまった」中村が、自分のお腹を撫でた。

「だけど、中村さんの身を切る思いの宣伝は、ネットで凄いことになってるよ。あの時の切腹宣言の映像が、あちこちで流れてる」小川ちゃんは手を伸ばして、中村のお腹にふれた。「あの、高橋ってやつ。憎たらしい顔してたよねー。あいつのせいで、このお腹に危機が迫ってるんだよね」

 ヒロミンも小川ちゃんの言葉に、うなづいた。「高橋って、経済評論家ですよね。経済評論家なのに、なんで中村計画の正しさが、解らないんでしょうね」

「そうだよ」僕も、ヒロミンと同じことを思っていた。「中村計画が正しいってことを、なんでみんな、解らないんだろ。今回、消費税が上がって、景気が悪くなったのも、天気のせい、にしていたし」

「ああ、あれか」中村は、僕を見た。「あれは、大人の事情ってやつだ」

「大人の事情? なんだそれ、どんな事情だよ」僕の横で、小川ちゃんが、「子供には、聞かせられない事情なの?」と、聞いた。

「財務省には、誰も逆らえないって構造なんだ」

「どういうこと?」ヒロミンが、真面目な顔を、中村に向けた。

「財務省には、国税庁と国税局があって、財務省に刃向かうと、税務上のことで、色々と指摘されたりする可能性があるからな」

「でも、やましいところがなければ、大丈夫なんじゃないですか」と、言うヒロミンに、中村は首を横に振った。「国税局にかかれば、何かしら出てくるもんだよ。それに、国会議員の場合だったら、税務上の指摘を受けること自体が、致命的になる」

「確かに、国会議員がそんなことで新聞に載ったら、大きなイメージダウンだもんな」過去の、何人かの議員の顔が、頭に浮かんだ。

「それと、金融機関にとっては、財務層は、仕入れ先でもある。例えば、金融機関が国債を販売するときは、まずは、発行者である財務省から、国債を売ってもらうだろ。でも、それには、国債の入札資格者にならいと駄目なんだ」

「国債の入札資格者?」話が難しくなってきた。

「そう。国債の入札資格者にならないと、財務省から、国債を買えないんだ。もし、財務省の機嫌を損ねでもしたら、入札資格者から外される可能性がある」

「つまり」頭を整理しながら言った。「金融機関は、国債を販売したいために、入札資格者から、外されないようにしている」

「そうだ。それに、入札資格者になると、色んなメリットもある」

「外務省から国債を買える以外に、何のメリットがあるんだ?」

「金融機関の担当者と、財務省の担当者が、毎日会って、話が出来る」

「何だ、それ?」その二人は、恋人同士なのか?

「財務省の担当者は、時々、今後の経済政策のヒントをくれる。金融機関の担当者は、そのヒントにより、一歩先のビジネスが出来るようになる。これは、大きなメリットだ」

「つまり」また、頭を整理しながら言った。「財務省に逆らうと、そのビジネスチャンスになるヒントってやつが、もらえなくなる、ってことか?」

「そういうこと。あと、経済評論家や、エコノミストって連中だけどな。彼らの多くは、金融機関や、その子会社の、シンクタンクなんかに勤めている普通のサラリーマンが多いんだ。サラリーマンってのは、会社の意向には、従わざるを得ないだろ。つまり、経済評論家は、会社の意向に従う。会社は、財務省の意向に従うってことだ」

「つまり」またまた、頭を整理する。「・・・どういうことだ?」

「つまりだ。増税したい財務省が、消費税を上げても大丈夫って言ったら。多くの経済評論家達は、消費税を上げても、あまり景気に、影響は出ませんと言う、ってことだ」

 ヒロミンが、驚いた顔をした。「今年の四月の消費税を上げる前ですけど。消費税を上げても、景気の影響は少ないって言っていた評論家が、たくさんいましたよね。でも、その人達は、本当は、消費税を上げると景気が悪くなるって、知ってて言ってたんですか?」

「経済評論家だからな、あのタイミングで消費税を上げたら、景気が悪くなることくらいは、知ってただろ。もし、本当に、景気が悪くならないと思っているやつがいたら、そいつは経済評論家としては能力が無い。なんたって、これだけ景気が悪くなったんだからな」

「じゃあ、その人達は、嘘を言ってたの? 今でもテレビによく出てて、景気はこれから良くなっていきます、なんて言ってるよ」小川ちゃんは、そう言って、「もう、テレビも信じられない」と、ヒロミンを見た。

「テレビや新聞も、財務省には逆らえないんだよ」中村は、小川ちゃんに言った。「マスコミの財務省担当記者は、財務省に嫌われると、情報がもらえなくなる。財務省から情報をもらえないなんて、日本の報道機関では、あってはならないことなんだ。だから、マスコミは、財務省の意向に沿った報道をする」

「なんだよ、その、財務省に沿った報道ってのは」

「財務省が、記者達に発表した通りの報道をする、ってことだ」

「どういうことだ?」

「例えば、景気が悪いのは、天気が悪いせいだって、財務省が言うだろ。そしたら新聞に、天気が悪いから、景気が悪いんだ、って記事になるんだ」

「ひどい話ですね」ヒロミンが言うと、中村は、「政治家だって、経済評論家からの情報で、政策を決めているしな」と言った・

「めちゃくちゃだー」と、小川ちゃんは声をあげた。


 テレビや週刊誌で、中村の切腹宣言が、話題を集めた。そこに、社長の黒滝葵の営業力も加わり、中村のマスコミに出る機会が増えた。

 中村が、テレビなど、あっちこっちで中村計画を話し続けた結果、中村計画のデフレ脱却理論の是非に、世間の注目が集った。

 ネットの中でも、中村計画の是非が、肯定派と否定派に分かれて、盛り上がった。

 しかし、それ以上に盛り上がったのは、中村の切腹宣言だった。ネットの住人は、この手の話が好きだった。

「切腹宣言を、中村計画のマニフェストに載せるべきだ」「腎臓摘出手術を、生放送で中継するよう、署名運動をしよう」「中村英樹の切腹、見てーー」など、ネットでは言いたい放題だ。

 しかし、途中から、奇妙な方向に向かった。中村の切腹を望んでいる連中は、中村計画に、政権を取らせようと、意見が一致したのだ。

 中村計画が政権を取れば、切腹が見れる。もし、デフレが終って、切腹が見れなかったとしても、あまり働かずに、給料が二倍になる世の中に向かう。

 どっちにしても、おいしい話だ。

 この時点で、中村計画の募集している立候補者の人数は、一八〇人を越えた。しかし、予定している二九一人には、届いていない。


 中村の切腹宣言から、三週間が過ぎたころ、「衆議院解散」という記事が、新聞の一面に載った。

 解散理由は、今年の四月に増税した消費税により、多くのエコノミストの予想に反して、景気を悪くしたからだった。

 内閣の支持率はまだ高く、解散をする理由は曖昧だが、安斉首相は、国民に信を問う、と言っている。

 そして、衆議院解散をする日が近くなると、二九一人を超え、三二六人の応募者が集まった。僕達は、五日間で応募者と面談をして、二九一人を選んだ。

 五日間の面談の翌日、衆議院が解散した。

 その夜、僕達四人は、また作戦会議を開いた。


「国会中継を見た? 万歳三唱をしてたけど、何で万歳なんかしたんだ?」僕の疑問に、ヒロミンが答えた。「あれって、衆議院が解散するときに、毎回やってるらしいですよ」

 中村が、携帯を取り出した。「どうした?」と聞くと、「何で万歳するかを検索する」と言って、携帯画面に文字を打ち込んだ。

 小川ちゃんが、「また検索してんのー」と言って、笑った。

「あった」と言って、中村は、検索結果を読んだ。「衆議院議長が、日本国憲法第七条により、衆議院を解散する、と言ったら、万歳、万歳、万歳、と叫ぶ。と書いてある」

「あ!」今日見た、国会中継を思い出した。「ネットに、そう書いてあるからかな。議長が、衆議院を解散しますって言うと、何人かが、万歳って言いだしたんだよ、本当は議長の話が終ってから、万歳をするらしいんだけど」

「わたしも見ました。議長の話が全部、終わってから、もう一度全員で、万歳って、三回言ってましたもんね」ヒロミンは、中村を見て、「なぜ万歳するかは載ってました?」と聞いた。

「とくに理由はなくて、ただの慣習らしい」

「なんだ、ただの慣習か。別に、めでたくもないのに、万歳をしてるのか」

「めでたくもない、か」中村はつぶやいた。「衆議院が解散したら、その瞬間に国会議員は無職になるだろ。それなのに、万歳と叫ぶ。あいつらは、きっと、やけを起こして万歳って叫んでるんだ」

「そうかなあ?」と言った僕に、「そうなんだ」と、中村は言った。「雨宮、検索して答えが見付からなかった時は、自分の頭で考えて、答えを出すんだ」

「自分で考えた答えが、正しいのか、間違ってるのか、どうやって判断するんだ?」

「俺の、考えて出した答えは、俺にとっては、正しい答えだ」中村は、自信満々な顔で言った。「だから、あいつらは、やけっぱちで、万歳と叫んでいる」

 そうなのかー? 僕は、心の声で叫んだ。

「だけど、二九一人の面談は、疲れたねー」小川ちゃんは、自己中心的な思考の中村を無視して、話題を変えた。

「思っていたより、しっかりとした人が多かったですね。現職の政治家も七人いましたし」ヒロミンはスケジュールを調整して、面談に参加してくれたのだ。

「俺の予想だと、引きこもりのニートとか、茶髪で鼻ピアスばかりが、集まると思っていたんだが。嬉しい誤算だ」

「これから選挙なんだな」なんか、自分が国会議員に立候補するなんて、不思議な感覚だ。

 供託金の六〇〇万円は、事務所が貸してくれた。社長の黒滝葵は、「国家議員になったら、仕事をたくさん取ってくるからな」と言っていた。

「ところで雨宮、おまえ、衆議院の人数って、知ってるか?」中村の質問に、「二九五人じゃないのか」と答えた。

「雨宮さん、違いますよ」と、ヒロミンが言って、「四七五人です」と、教えてくれた。

 衆議院の選挙区は、全部で二九五区ある。一区から、一人の議員が選ばれるから、議員の人数は、二九五人、じゃないのか?

「雨宮、今、二九五区だから、数が合わない。なんて考えていなかったか?」

「そんなこと、考えるわけないだろ」本当は、おもいっきり、考えていたけど。

「ふーーん」中村のつぶらな瞳が、僕を見ている。「じゃあ、教えてあげるよ」

 考えてない、って言ってるのに。まあ、教えてほしいけど。

「衆議院選挙は、小選挙区比例代表並立制なんだ。小選挙区選挙で二九五人、比例代表選挙で一八〇人を選ぶ。足すと、四七五人。つまり、一回で、二つの選挙を、いっぺんにやるんだよ」

「選挙に行くと、小選挙区と、比例と、二枚書くでしょ?」ヒロミンが、僕に向かって言った。

「そうなのか?」知らなかった。「僕達は、小選挙区の二九五人の候補者しか準備してないけど、まずいんじゃないのか?」

「大丈夫。全員、両方に立候補させるから」

 両方に立候補する? どういうことだ? そもそも、比例代表選挙って、何だ?

「ねえ、その比例なんとかって、何なの?」小川ちゃんが聞いた。ナイス、小川ちゃん。

「比例代表選挙ってのは、個人じゃなくて、それぞれの、政党に投票するんだよ。政党は、得票数に応じて、小選挙区で落ちた人を、繰上げて、当選させられる」

「中村さん」ヒロミンが、中村を見た。「比例代表の投票用紙には、政党の名前、わたし達の場合は、中村計画って書けばいいですよね、でも、小選挙区の投票用紙には、それぞれの選挙区の、候補者の名前、を書くじゃないですか」

「そうなるな」

「わたし達で、世間に名前が知られているのって、中村さんと、雨宮さんと、わたし、くらいです。どうやって、小選挙区の候補者の名前を、有権者に知ってもらうんですか?」

「え?」今まで、選挙なんて行ったことがなかったけど、投票用紙に、候補者の名前を書くなんて知らなかった。「面談のときに、選挙活動はこちらでするから、みなさんの選挙のときの活動は、限定的になります。なんて言ってなかったっけ?」

「言った」中村は、落ち着いていた。「でも、大丈夫。裏技があるから」

「裏技?」なんだそれ? ロールプレイングゲームか?

「裏技って、何ですか?」ヒロミンが聞くと、「候補者には、名前を変えて、立候補してもらう」と、中村は答えた。

「名前を変える?」ヒロミンがつぶやいた。

「別に簡単なことだ。雨宮、おまえだったら、『中村計画 雨宮一郎』という名前で立候補する。そうすれば、小選挙区の用紙にも、比例代表の用紙にも、中村計画とさえ書けばよくなる」

「つまり、候補者全員の名前の上に、中村計画って付けるのか」それだったら、候補者の名前を知らなくても、中村計画に賛成の人は、ちゃんと、投票が出来るってことか。

「でも」と、ヒロミンは言った。「名前の上に、政党の名前を付けて、大丈夫なんですか?」

「前に、リングネームで選挙に出た、プロレスラーがいたろ。問題ない。それに、選挙管理委員会に電話をして、確認をした」

「だったら、大丈夫そうですね。で、これからどうやって、選挙戦を戦います?」ヒロミンの顔が、引き締まった。

「そうだ、どうやるんだ、代表」僕が言うと、小川ちゃんも、「代表」と言って、中村を見た。

「まずは、四日後に、立候補予定者説明会が、新宿で開かれる。これには、ここの四人で行く。選挙のやり方の説明会だ」

「途中で、居眠りしないようにね」小川ちゃんは、僕に、言っているらしい。

「説明会では、選挙にかかる費用についても、説明があると思うが、一部は、国が出してくれる」

「国が、選挙費用を出してくれるの?」小川ちゃんは、お金の話題に敏感に反応した。「わたし達、お金ないものねー」

「出してくれるといっても、一部だぞ。テレビやラジオで放送される、政権放送。それと、新聞広告を五回。これらは、国が出してくれる」

「政権放送と、新聞広告が五回」ヒロミンは、真剣な表情をしている。「弱いですね」

「本来なら、政見放送も出来なかった。募集で、現職の国会議員が、七人入っただろ。それで、中村計画も正式に政党とみなされて、政権放送が出来るようになった。だが、これだけだと、あまりにも、弱い。だから、ポスターとビラを作る」

「ポスターって、選挙のときに、いっぱい貼ってあるやつ?」と言う小川ちゃんに、中村は、「そうだ」と答えた。

「でも、その、ポスターって、国からのお金は出ないのか?」ポスターを作るっていっても、それなりの金額はするはずだ。

「供託金と一緒だ。まずは自腹で払って、選挙の得票率が十分の一以上だったら、国から金が出る」

「何でも、十分の一なのねー」と言う、小川ちゃんに、ヒロミンが、「最低でも、ポスターはないと駄目ですよね」と言った。

「ポスターを作るのって、いくらくらいするんだ?」と聞いた。

「ポスターが百万。三つ折のビラが、五十万ってとこだな。黒滝社長に相談をしたんだが、シュリンプと、取り引きのある印刷会社に、明日にでも発注しようと思う。料金は、国から金が入ってからの、後払い」

「ポスターとビラですね」ヒロミンが言った。

「そう。ポスターとビラ、政見放送と新聞広告。それと、インターネットで、中村計画は戦う」

「それだけじゃない」僕が言った。「テレビを使って、バシバシと中村計画を宣伝しよう」

「それは出来ないよ」中村の、つぶらな瞳が、僕を見た。「衆議院も解散したし、これまでのように、俺達がテレビに出て、中村計画の宣伝は出来ない」

「何で?」どういうことだ?

「雨宮さん、知らないんですか?」と言って、ヒロミンが答えてくれた。「選挙前になると、マスコミは、それぞれの政党に対して、公平で中立に、ならないといけないんです。テレビでも、各政党に対して、同じ長さの時間で放送します」

「だから、これまでみたいに、テレビには出られない。ヒロミンも、あまりテレビに出ていないだろ」

 知らなかった。そんな、面倒な約束事があったんだ。

「衆議院の選挙期間は、十二日間。選挙期間に入ったら、それぞれの候補者には、自分の担当する選挙区に、行ってもらう」

「面談のときに、旅行してみたい場所はありますか? って聞いてたもんね」と言う、小川ちゃんに、「旅行じゃ、ないですけどねー」と、ヒロミンが言った。

「候補者は、自分の選挙区の、選挙管理委員会に行って、立候補の受け付けをする。そこで、選挙管理委員会から、街頭演説用の腕章、拡声器用表示物、個人演説会看板用表示物など、七種類の道具を受け取る」

「大きな鞄を、持っていかないと」と、小川ちゃんは、つぶやいた。

「次に、選挙管理委員会が指定した掲示板に、ポスターを貼ってまわる。それが終ったら、駅前など、人の多いところで、ビラ配り。以上が終れば、帰ってくるなり、そのまま観光をするなり、自由だ」

「ほとんどの候補者が、今まで行ったことのない土地から、立候補するなんて、なんか不思議ですよね」ヒロミンの言葉に、僕はうなづいた。

「俺達四人には、別の仕事がある。選挙期間中の街頭演説だ。これは四人で、まとまって行う」

「わたしは、うぐいす嬢ね」小川ちゃんは、嬉しそうに言ったのだけど、「小川ちゃんは、候補者だろ」と、中村に突っこまれた。

「お台場など、若者が集まる場所を中心に、演説を行う」

「ヒロミンが一緒だと、人がいっぱい、集まりそうだな」と言うと、ヒロミンは、「ゲリラライブね」と言った。

「ライブと言っても、演説だ。中村計画の、デフレを終らせる道筋を、語ってもらう。ラップ調でもいいけどな」と言う中村に、ヒロミンは笑いながら、「練習する」と言った。

「二週間後に、俺達四人で、中村計画の、立候補表明記者会見をやる。前にやった記者会見のときは、俺は、謎の男、ってことになっていたが、今回は、中村計画の代表としてだ」

 ヒロミンは、中村を見た。「なんか、懐かしいですね。あの記者会見から、もう二ヶ月近く経つんですもんね」

「でもさー、何で中村計画って名前なの?」小川ちゃんが聞いた。僕も前から、疑問に思っていた。「普通は、何とか党とか、何とか会って、名前にするんじゃないのか?」

 中村は、「とくに理由もなく、自然と、中村計画って名前になったんだ」と言って、少しの間、黙った。「たぶん、政党を作りたい訳ではなかったから。俺は、デフレを終らせる計画ってやつが、したかっただけだ」

「それで、いいんじゃない?」ヒロミンが、中村に言った。

 それから、みんなで、中村計画遂行を誓って、乾杯をした。


 選挙戦は、忙しいスケジュールの中、坦々と進んでいった。

 ヒロミンと僕、そして小川ちゃんとで、ユニットを組んで、中村計画を、ラップ音楽に乗せて、熱唱した。

 中村はいつもの、抑揚のない口調で演説をした。

 他の政党は、主に企業を成長させるための政策、が中心なのに対し、中村計画は、実質賃金を上げることを、政策の中心に置いている。

 僕達は、他の政党の政策との、相違点を強調して、訴えた。

 一方、ネットの中の住人達は、善意と悪意、双方の想いが、中村計画に、政権を取らせようと動いていた。

 そうして、選挙期間は終った。


「こんなはずはない!」中村が叫んだ。

 株式会社シュリンプの稽古部屋は、中村計画の選挙事務所となっていた。

 壁に、大きな模造紙を貼って、当選確実となった人数が、書き出されている。

「これは、ドッキリか? カメラはどこだ?」うろたえる中村に、何台ものテレビ局のカメラが向けられていた。

「中村さん、おめでとうございます!」ヒロミンは、満面の笑顔だ。

「中村、おまえらしくないな。大勝利なんだぞ」僕の顔もきっと、くしゃくしゃの笑顔だ。

「だって、二四二議席だぞ。ありえない」目の前のテレビカメラを無視して、中村はまだ、影に隠れているカメラを探している。

「中村さーん。もー、ドッキリじゃないですよー」小川ちゃんも、最高の笑顔だ。「みんな、中村さんの切腹が見たくて、投票してくれたんですよー」

「俺の、切腹?」中村は、挙動不審者のようだ。

 中村の背中を、バチバチと、黒滝社長が、叩いた。「壊れちゃった中村君は、ほっといて、みんな、いくよー」選挙事務所に集まった、シュリンプの芸人達と、候補者達は、せいいっぱいの声で、「万歳ー、万歳ー、万歳ー」と、叫んだ。


 翌日、株式会社シュリンプの中の、選挙事務所を片付けるために、四人が集まった。

 片付けはすぐに終わり、そのまま稽古場で、作戦会議となった。

「中村、なんか元気がないな」昨日もそうだったが、中村は選挙の勝利を、嬉しく思っていないように感じる。

「正直に言うと、今回の結果は、予想外だったし、予定外だった」

「どういう事ですか?」ヒロミンが言った。

「俺は、今回の選挙では、三十くらいの議席しか取れないと思っていた。まずは、野党として政界に入り、少しづつ中村計画の考えを、官僚と政治家に広める。そして次の選挙で、政権を取る予定だった」

「おまえ、そんなことを、考えてたのか? 政権を取るって言ってただろ」つい、声が大きくなった。

「やっぱり、いつもの中村さんじゃないねー」小川ちゃんは、中村の顔を、覗き込んだ。

「だって。次の国会で、俺は総理大臣に任命されるんだぞ。総理大臣だぞ」

「がんばってよ。総理」小川ちゃんは、中村に微笑んだ。

「俺、総理大臣なんて、やったことないし」

「そんなことで、どうするんですか。しっかりして下さい」ヒロミンが言うと、小川ちゃんも、「うちの従業員だって、初めて行く派遣先でも、一週間もすれば、慣れてますよ」と、中村を励ました。

「国会議員には、秘書が二人付くらしいですから、解らないことがあったら、秘書に聞けば大丈夫ですよ。わたしも、タレントになり立てのときは、マネジャーの言うことを聞いていれば、なんとかなりましたし」ヒロミンも励ました。

「わかったよ」と言う中村は、四人の中で、一番、頼りなく思えた。


 年が開け、中村内閣が誕生した。

 副総理には、連立政権となった自由国民党の安斉明夫が就任した。

 中村の国会での所信表明演説は、まるっきりの原稿の棒読みだったため、評判は悪かったのだけど、国会はそれなりに機能をして、大きな混乱もなく進んだ。

 ただ、内閣総理大臣としての公務は、国会での仕事以外の大半は安斉明夫が行っていた。

 一部のマスコミでは、中村政権は、自由国民党の傀儡政権だ、との批判も出ていたが、政治家一年生の中村にとっては、これは仕方のないことかもしれない。

 そんな僕も、議員一年生として、右も左も分からない状態だった。

 もし僕が、自由国民党の議員だったとしたら、党内のグループ、派閥ともいうが、どこかに所属をして、政治家として一から先輩議員に指導をしてもらえるのだけど、中村計画は、ほとんどが議員一年生なのだ。

 そんな僕が、もっとも頼りにする人物は、秘書の松井星夜君だ。歳が僕と同じ三十二歳ということもあり、彼とはすぐに打ち解けられた。

 彼は、それまで自由国民党の政治家の秘書をしていた。

 その政治家は今回の選挙で落選をしてしまい、いったんは民間への就職も考えたらしいが、それまでのキャリアを活かすために、議員秘書として、僕のところへ来てくれたのだ。

 僕を選んだ理由は、僕が立候補した選挙区が、神奈川十三区だったから。星夜君がそれまで仕えていた議員と、同じ選挙区らしい。次に選挙になった時は、地元の有権者の票集めでは、力を発揮出来ます、と言っていた。

 有権者に顔を覚えてもらって、秘書として政治を学び、ゆくゆくは自分も政治家として国民のために働きたい。そんな星夜君の話を聞いていると、僕は、政治のことを何も知らずに政治家になってしまったので、とても恐縮してしまう。

 その星夜君が言うには、国会議員の一番の仕事は、法律を作ること。

 有権者である国民の声を聞き、現状の法律を、少しずつ良くしていくのが、国会議員としての務めだと言っている。

「先生は、この国を、どのように良くしたいのですか?」星夜君に聞かれた。

 政治家はそれぞれ、環境問題なり、教育問題なり、自分が取り組みたいテーマを持っているらしい。

 僕が取り組みたいテーマは、やはりデフレ問題だと思う。そもそも、デフレ脱却のために、中村計画が始まったのだから。

 星夜君の提案で、景気回復に関する勉強会を開くことにした。この勉強会は、中村計画だけでなく、他の党にも呼びかけて行われた。

 また、星夜君の働きかけで、毎回、官僚や民間からの講師を呼んで、専門的な勉強会となった。講師の中には、中村計画の考え方に反対の人もいたが、色々な意見を聞くのは、みんなの勉強になった。

 また、政治家、特に与党の政治家になると、国民からの陳情も多く来る。

 陳情とは、国民が政治家に、ある問題について、お願いをすることだ。具体的には、「この法案には反対します」とか、「こういう意見を議会で決議して下さい」とかだ。

 陳情をする人は、僕の事務所がある議員会館に来るのだけど、毎日多くの人が来るし、しかも、彼らは僕よりも、陳情をする法案に詳しい。

 政治家となった以上、もっと勉強をして知識をつけなければと痛感する毎日だ。

 勉強会、国会、陳情をしに来る個人や団体の話を聞くだけで、毎日のスケジュールは埋まってしまう。

「他の先生方は、国会が開催されない金曜の夜から、月曜の朝まで、地元の選挙区に戻って、後援会のみなさんへ挨拶にまわったり、結婚式に出られたりと、週末も過密スケジュールなのです」と星夜君は言った。

 政治家になる前は、政治家という肩書きを活かして、お笑い芸人の仕事を増やそう、なんて考えていたけど、実際の政治家は、そんなに甘いのもではなかった。

 小川ちゃんも最近では、政治家らしい顔つきに変わった。

 変わらないのはヒロミンで、彼女は国会には出席するが、勉強会にはほとんど参加せず、陳情に来る人の対応も秘書に任せていて、芸能活動を積極的にこなしている。

 ヒロミン曰く、「わたしの役割は、国民に、政事に関心を持ってもらうこと」と言っている。

 星夜君は、「中村計画の人達を見ていると、純粋に政治に取り組んでいて感心します」と、言った。

「選挙が終ったら、もう次の選挙の戦いは始まっている。普通の政治家はそう考えるものです。週末は地元に戻り、次の選挙のための地盤固め。国会での発言は、有権者へのアピール、としか考えていないのです。彼らは政治のプロではなくて、選挙のプロなのかもしれない。先生を見ていて、そう感じました」

 星夜君の言ってくれた言葉に応えるためにも、僕は努力を怠っていけないと思った。


 月曜日の朝、星夜君が僕に一冊の週刊誌を見せた。そこには佐久間誠の、過去の児童買春の記事が載っていた。

 中村計画の佐久間誠衆議院議員は、二年前に当時十七歳の高校生に、金銭を支払って、みだらな行為をした、と書かれている。

「先生、まずいことになりましたね」星夜君は僕に言った。「この佐久間誠さんは、二年前に児童買春で起訴されています。援助交際で補導された女子高生の携帯の履歴から、佐久間さんとの繋がりが発覚したそうです」

 佐久間誠、僕は、選挙の候補者全員と面談したのだが、数が多いので、一人ひとりは覚えていない。

「ちょっと待って、名簿を見てみる」僕はパソコンの中村計画議員名簿の中から、佐久間誠を探した。「あった。佐久間誠、四十三歳。滋賀県四区から出馬している」

 星夜君も名簿を覗き込んだ。「先生、この佐久間さんは、二年前まで小学校の教員をしています」

「学校の先生が、女子高生にお金を払って、セックスして捕まったのか。それじゃあ、学校を辞めさせられるよな」思い出した。佐久間誠は、教員を退職した後は、販売関係で働いていたと言っていた。教員を辞めた理由は、確か、教育委員会のやることの理不尽さに、ついていけなかった、と言っていたが、実際は児童買春で逮捕されたからだったのか。

「裁判の判決は、罰金四十万円だったそうです。ただ、仕事は辞めることになって、奥さんとは離婚したと、記事には書いてありました」

「もう教師は出来ない。だから中村計画に来たのか、とんでもない奴だな」もっとも、その、とんでもない奴を候補者として選んだのは僕達なんだけど。でも、あの短時間の面談では、それを見抜けなくても、仕方がなかった。

「佐久間さんの事件では、すでに罰金や社会的な制裁も受けています。でも、野党はこれを、中村計画の攻撃材料に使って来るでしょうね」

「それでなくても、中村は外国の大使や、国内の団体とかの面会も、みんな安斉副総理にやらせて、傀儡政権と言われてるしな。これで、佐久間さんのことで野党から攻撃されたら、支持率が、がた落ちになるな」内閣が発足した時は、高かった支持率も、中村政権になっても世の中が実際に変わっていかないので、支持率は落ち始めている。

「野党は、中村計画の議員の人達に、本当に国会議員としての資質があるのかを、突いてくると思います」と、星夜君は言った。

 僕自身にも、国会議員の資質はあるのだろうかと、自問するときがある。


 今度は、別の中村計画の議員、三名の記事が出た。

 傷害、飲酒運転による事故、それに、女性議員が過去に風俗店で働いていた事実も露呈した。

 この記事から二日後の国会の予算委員会で、野党の女性議員が、この問題を取り上げた。

 彼女は最初に、日本の教育問題に言及してから、佐久間誠の児童買春問題に話を移した。「佐久間誠議員は、二年前、当時、小学校教員という立場でありながら、児童買春という犯罪を犯しました。これは過去の事件ではあります。しかし、私は、このような人物は、国会議員としての資格はないと思います。また、佐久間議員の他にも三名の方が、今回の報道で、国会議員としての資質を問われています。中村計画では、今回の衆議院選挙の候補者を、短い面接で選んだと聞いております。そのような短い面接だけで、国会議員の候補者を選んで良いものでしょうか? この責任は、総理にもあると思います。総理にお尋ねします。佐久間誠議員は、国会議員として、相応しい人物でしょうか?」

「中村内閣総理大臣」と言う議長の言葉で、中村は立ち上がった。

「この度の佐久間誠議員に関する報道ですが、これは二年前に起こったことであります。これについては、法的にも、社会的にも、本人は十分に罪を償っております」

 中村が原稿を棒読みして席に戻ると、質問をした野党の女性議員が、また手を上げた。

「二年前の事とはいえ、佐久間議員に国会議員の資格があるとは、私には到底思えません。総理自身には、佐久間議員を候補者にした責任はないと、お考えですか?」

 中村は、また、マイクに向かって歩いていった。「中村計画では、候補者を選ぶにあたり、厳正に勘査を致しました。佐久間誠議員は、自分の過ちを反省し、更生しております」ここまで言うと、中村は質問をした女性議員を見た。

 与党席にいた僕から、中村の目が輝くのが見えた。嫌な予感がする。これは中村が、何かに興味を持ったときの目なのだ。きっと、また、ろくでもないことを言い出すにちがいない。

「そもそも、これは予算委員会で議論することなのか?」中村は、原稿の棒読み口調ではなくなった。「女子高生が売春したってだけだろ。それが国家予算と、何の関係があるんだ?」

 野党席から、もの凄いヤジが上がった。僕が経験した今までの国会で、一番大きなヤジだ。

 ヤジの集中砲火を浴びた中村は、「君たち、うるさい」と言って、席に戻った。

 ヤジが湧き上がる中、先ほどの女性議員が、また手を上げた。

「政府が作る予算は、全ての国民の皆様に影響を与えるものです。その予算を作る与党の中に、国会議員としての資格のない者がいるのが、問題なのです」彼女の発言に、野党側から、「そうだ! そうだ!」と声が上がり、大きな拍手が起きた。

 中村は、ゆっくりとマイクに向かって歩いた。「実際は、財務省を中心に、各省庁が予算案を作っているのだけどな。でも、この予算委員会で、予算の話をしないでどうする? 優れた法律であっても、予算がなければ実行出来ない。予算を確定するってことは、国の方針を決めるってことだ。皆さんは、もっと真面目に議論をした方がいい」

 中村の発言に、また、野党側から大きなヤジが上がった。その中の、「佐久間誠を国会議員にした責任を取れ!」のヤジに、中村が反応した。「佐久間は、選挙で選ばれたのだ。彼には、国民の民意を政治に反映させる責務がある。過去の個人的な問題は関係ない」

 また、ヤジが沸き起こった。「個人的な問題ではない!」「佐久間の正体を国民が知ってたら当選なんか出来なかった」

 議長が、「静かにして下さい」と言っても、なかなかヤジは収まらなかった。

「それに、前から思っていたのだが、そもそも売春は何故いけないんだ?」中村の言葉に、ヤジは一段と大きくなり、議長は欧米人のように、肩と、両方の手の平を上げた。

「売春を合法化させる法律案を出すか。その分、GDPが増えるし、税収も増える」中村は、渦巻くヤジの中、席に戻った。


 中村の国会での答弁は、いつも原稿の棒読みだった。

 中村計画の作戦会議のときの中村は、横柄なやつだったけど、いつも物事の真意を突いていた。

 中村が総理大臣になってから、本来の中村らしさが無くなっていたように思う。僕は、中村が自分の意思で、何かを話し出すのを待っていた。

 待っていたのだけど、僕が待っていた中村は、これじゃあない。

『売春を合法化させる法案提出か?』『売春で、GDPと税収を増やす!』

 翌日の新聞の見出しは、中村の国会での発言を大きく取り上げた。

 これまでの中村政権の無策と、総理大臣の公務を安斉副総理に押し付け、自分は何もしていないこと。そして、今回の国会での売春合法化発言で、各新聞は、中村政権に批判的は記事を書いた。

 星夜君は、新聞を読みながら、「中村首相って、面白い方ですね」と、愉快そうに言うが、日本中の人が、星夜君のように、面白い、で済ませてくれるとは、思えない。

「内閣支持率は、確実に落ちるでしょうね」新聞を閉じて、星夜君は言った。


 三月初旬。内閣支持率が下降し続ける中、中村内閣の閣僚が、一部入れ換わった。

 財務大臣、総務大臣、内閣府特命担当大臣、厚生労働大臣、経済産業大臣、それぞれが民間から登用され、そして、僕が副総理になった。

「政治家でない一般の人が、大臣になっていいのか?」との僕の疑問に、中村は、「別に問題はない。内閣の過半数が政治家なら、他は民間人でもかまわないんだ」と答えた。

 そうして、新しい中村内閣が出来上がった夜、僕達は最初の中村計画のメンバーで、久しぶりの作戦会議をすることにした。場所は、いつもの居酒屋、ではなく総理大臣公邸だ。


「みんなで集まるのって、久しぶりだよねー」小川ちゃんは嬉しそうに、みんなの顔を見まわしている。

「もう、こうして集まることなんて、ないと思ってました」ヒロミンも嬉しそうだ。

「総理大臣って、忙しいんだろ? 作戦会議なんかしてていいのか?」

「雨宮、解っていないな。総理大臣の仕事よりも、中村計画の達成の方が重要だろ。それに、総理大臣としての仕事は、可能かかぎり安斉明夫に振っていたから、時間は比較的にあった。これからは、雨宮が安斉の代わりに、総理大臣の仕事をしてくれ」

「僕が? それだから傀儡政権なんて言われるんだよ。また、支持率が落ちるぞ」内閣を発足したときに高かった支持率は、今では、これ以上ないほどに落ちていた。

「支持率を上げるために、閣僚の入れ換えをしたんですか?」ヒロミンが言った。

「内閣支持率は関係ない。衆議院の過半数は中村計画だから、四年間は首相でいられる」

「まあ、そうですけど」そう言って、ヒロミンは、「それで、今回の閣僚の入れ換えは、どんな考えなんですか?」と聞いた。

「政治を動かすためだ」中村はみんなを見まわした。「政治は誰が動かしていると思う?」

「それは、政治家でしょ」小川ちゃんは、中村に向かって、「その一番上にいる総理大臣でしょ」と、笑顔をみせた。

「総理大臣は、別に政治家の一番上ってわけではない。正確には、閣僚の一番上だ」

「閣僚?」と言う小川ちゃんに、「大臣のこと」と、教えた。

「その大臣の集まりである、内閣が中心となって、政治を動かす」

 三権分立。立法、行政、司法の内、内閣は行政にあたる。国会は立法。僕が、最近の勉強で覚えたことだ。

「でも、政治を動かすのは、国民なんじゃないですか?」ヒロミンは中村を見た。

「そう、国民。俺が言いたいのは、国民が選挙をして、与党が生まれる。そして通常は、与党のトップが内閣総理大臣になる。その内閣総理大臣が任命した大臣達の集まりが、内閣。そして、内閣が、国民の意思を反映して、政治を行う。という意味」

「わかりました」ヒロミンが言った。

「でも、実際には、大臣の下にいる官僚が、政治を動かしているのが現状だ。おまえ達も、国会に出席しているから分かるだろ。大臣は官僚が書いた台本通りに、喋っているにすぎない。国会答弁では、前日に官僚が、質問をする政治家のとこに行って、どんな質問をするのかを聞く。そして模範回答を作って、製本をして、それを大臣や関係者に配る。国会では、大臣は台本を読んでいるだけだ」

「確かに、僕も国会では作られた台本通りに話してる」棒読みにならないよう、気を付けてはいるけど。

「中には、質問文と回答文、両方を同じ人物の官僚が、作っている場合もあるしな」

 そうなんだ。なんか、自分でボケて、自分でツッコミを入れているみたいだ。

「因みに、国会で審議される法律や政策は、霞ヶ関で官僚が作った原案を元にしているのがほとんどだ」

「国会劇場で、わたし達は女優、官僚は脚本家ってとこですね」ヒロミンらしい解釈の仕方だ。

「つまり、専門知識で、官僚に、確実に劣っている大臣達では、官僚をコントロール出来ない。だから、官僚が事実上、政治を動かしている」

「政治を動かしているのは、実は官僚ってことなのね」と、小川ちゃんが言った。

「各省庁も一つの組織だ。選挙で官僚が選ばれているわけではないし、組織である以上、官僚達が自分達の組織の利益を求めるのは、実は当たり前のことだ。だが、国益よりも省益を求めてはいけない」

「どういうことだ?」中村は何が言いたいんだ?

「財務省が、日本の景気を回復させることよりも、税率を上げることを優先させている、ってことだ」

「あ!」中村が前に、財務省には誰も逆らえない、って言っていたことか。

「それで俺は、財務省をコントロールするために、佐藤勝巳を財務大臣にスカウトした」

「佐藤勝巳って、そんなに優秀なのか?」

 ヒロミンは僕を見た。「雨宮さん、知らないんですか? 佐藤勝巳っていったら、昨年まで財務省の事務次官をしていて、その後に、民間の会社に天下りをした人ですよ」

「財務省の事務次官?」と言う僕に、「財務省のトップです」と、ヒロミンは言った。

「俺はこの三ヶ月の間、佐藤勝巳を時間をかけて洗脳したんだ」

「はあ?」小川ちゃんは素っ頓狂な声をあげた。「洗脳って、あやしい宗教みたいじゃん」

「佐藤勝巳の頭の中身が、財務省の思考のまま来ても仕方ないだろ。ゆっくりと、時間をかけて、中村計画を佐藤の頭にインプットした」

「そのために、総理大臣の仕事を安斉副総理にやらせてたのか?」僕が聞くと、中村は、「総理の仕事よりも、こっちの方が重要だったからな」と答えた。

「へんな薬とか、使ってないでしょうねー?」と、小川ちゃんが言うと、ヒロミンも、「どうやって洗脳したんですか?」と聞いた。

「簡単だよ。あいつは本来、凄く頭がいいんだ。デフレの時に税金を上げると、デフレが加速することくらいは解っていた。省内にいるときは、省益のために働いていたけど、退官してからは民間の企業にいた。その佐藤に、日本の繁栄のために、財務省の体質を変えてくれって頼んだだけだ」

「本当にそれだけー?」小川ちゃんは疑っている。

「まあ、説得に時間はかかったけどな」と、中村は横を向いた。

「それで、佐藤と相談をして、総務大臣、内閣府特命担当大臣、厚生労働大臣、経済産業大臣を、それぞれ民間会社に天下った、官僚の元事務次官からスカウトをした」

 ヒロミンは、少しの沈黙の後に言った。「事務次官のOBだったら、官僚達も言うことを聞くわね」

「言うことを聞かせるっていうか、官僚達の体質を、省益優先から、国益優先に変えるのが目的だよ」

「ふーーん。結局、内閣は、官僚の天下り先になったのね」という小川ちゃんの結論で、今回の作戦会議は終了した。


 中村新内閣になってから、中村計画は加速した。

 消費税は段階的に下げる計画だったが、佐藤財務大臣の考えで、十月に消費税は全面廃止となった。つまり、実質賃金が八パーセント上がったことになる。

 秋の補正予算では、財政支出も大幅に上げられた。

 また、十年間の財政支出計画を発表して、企業の設備投資を促した。

 これは、一回だけの財政支出だと、企業は設備や人材に投資をすることに躊躇をするが、長期的な財政支出を発表することによって、企業が安心して、設備投資、人材投資を可能にするためである。

 仕事の量が増えたため、まずは、土木建築業界、流通業界を中心に、人手不足になった。

 人手不足になり、人件費が上昇すると、それを企業が吸収しきれずに、商品価格に転嫁した。

 しかし、消費税がなくなり、実質賃金が上がっていた消費者は、それを受け入れることが出来た。

 人件費の上昇、つまり、賃金の上昇と、消費税の廃止により、消費は拡大した。

 拡大した需要に応えるため、企業は設備投資を増やした。

 また、人材を確保するために、企業は、非正規雇用者を減らして、正規雇用者を増やした。

 それまでは、株価と大企業の業績が上がるだけの、実感のない景気回復だったのに対し、今は、実感の出来る景気回復となった。

 中村政権が誕生して二年目の夏。デフレから脱却し、GDPも成長を始めた。

 政府の一般会計税収と、一般会計支出、このバランスのことを、プライマリーバランスと言う。

 支出に対して、税収が足りない部分を、国債を発行して賄うのだが、佐藤財務大臣は、「このままGDPが成長していけば、五年後くらいに、プライマリーバランスがプラスになる」と言っていた。

 日本は、二十年近く続いたデフレから、やっと立ち直ることが出来たのだ。

 中村内閣の支持率は、九十パーセントを超えた。


 中村政権が誕生して三年目の春。それは突然のことだった。

 中国軍戦闘機二機が領空侵犯をし、航空自衛隊戦闘機二機が緊急発進。

 中国軍機がミサイルを発射、自衛隊機に命中し尖閣諸島近海に墜落、パイロットの生死は不明。

 反撃した自衛隊機により、中国軍機一機を撃墜、一機はその場から離脱。

 これにより、日本と中国は戦争に突入した。


 自衛隊員約二十三万人に対し、人民解放軍は十倍の約二三〇万人。

 戦闘機は日本の約二六〇機に対し、中国は五六五機。

 船艇は日本が一四〇隻、中国が一〇九〇隻。

 国防費は日本が四兆七千億円、中国が八兆七千億円。

 この数字だけを見ると、中国の人民解放軍にはかなわない。だが、日本の自衛隊、特に海上自衛隊の戦力は高かった。

 戦争は二週間で終結した。自衛隊は尖閣諸島を守ることに成功した。自衛隊の戦死者は二十三名で、人民解放軍の戦死者は不明。

 今回の戦争で、僕は一つ理解した。

「アメリカは助けてくれない」

 日米安全保障条約の、第五条の存在を、僕は初めて知ったのだ。


「日米安全保障条約 第五条

 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手順に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 前記の武力攻撃及びその結果として執ったすべての措置は、国債連合憲章第五十一条の規定に従って直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執ったときは、終止しなければならない」


 これは、「日本に平和及び安全の危機」が起きた場合、「アメリカの憲法上の規定及び手順に従って」アメリカ軍が動く、となっている。

 アメリカの憲法上の規定及び手順に従って、軍事介入をする場合、アメリカ大統領は、「事前の議会への説明の努力」「事後四十八時間以内の議会への報告」「六十日以内の議会からの承認取り付け」の義務がある。

 つまり、日本が戦争になったとしても、自動的にアメリカが助けてくれるわけではないのだ。アメリカは、尖閣諸島の領有権を争った戦争に、軍事介入はしなかった。

 尖閣諸島は、誰も住んでいない、小さな岩だらけの島々である。アメリカは、そんな無人島のために、アメリカ国民の血を流すべきではない、そう判断したのだ。


 今回の戦争の終盤、中村は、「中国は、核を使うと思うか?」と聞いてきた。

 そんなこと、僕に分かるわけはなかった。

 テレビニュースでは、中国国内の、暴徒化した反日デモ隊の映像が流れていた。走行中、もしくは駐車中の日本車が破壊され、日系企業の工場やスーパー、コンビニエンスストアも、破壊と略奪行為の対象となっっていた。

 日本国内でも、日本人による中国人を狙った事件が発生するなど、反中国感情が高まった。


 戦争が終って、一週間が経った。マスコミはこの戦争を、日中尖閣戦争と呼んでいた。

 テレビでは、戦死した二十三名の自衛隊員を追悼する特別番組が、連日放送された。その中の、二十四歳の若い自衛官の、「将来は、海上自衛隊に入って、日本の海を守りたいです」と書いた小学校の文集を、女性キャスターが涙声で紹介をした。

 また、軍事ジャーナリストが、頻繁にテレビに出演するようになり、今回、中国機が何故ミサイルを打ってきたかで、様々な見解に分かれた。

 これまでも、中国軍の戦闘機と、自衛隊の戦闘機が、異常接近することは、しばしばあり、機体の接触など、偶発的な事故が懸念されていたが、直接的な攻撃を受ける可能性は少ないと考えられていた。だが、今回は、中国軍戦闘機がミサイルを撃ってきたのだ。

 中国側は、先に自衛隊戦闘機が撃ってきたと発表しているが、日本政府は中国軍機が先に撃ったと発表している。


 議員会館の事務所。隣でテレビの報道を見ている星夜君に、「憲法九条があるのに、なんで戦争になるんだろうな?」と言うと、「憲法九条で、戦争を放棄しますと書いてあっても、中国からしたら、関係ありませんから」と、テレビ画面を見たまま、星夜君は言った。

 そして、星夜君は、「何故、中国の戦闘機は、ミサイルを撃ってきたと思いますか?」と聞いてきた。

 これは、軍事ジャーナリストでも、色んな意見がでている。「やっぱり、中国共産党指導部は、軍を完全には掌握しきれていないんじゃないかな。軍が暴走しているのかもしれない」

「報道でも、軍が暴走した、という考えが多数派ですね。他には、政府に対する、人民の不満をかわすためとか。でも、もしかしたら、中国は試したのかもしれません」

「試す? 日本を?」

「アメリカを、です」星夜君は僕を見て、そう言った。

「アメリカが、尖閣諸島の領有権争いの戦争に、介入するか試したっていうのか?」

「そうです。ロシアの、クリミアに対する軍事行動のときに、アメリカは、経済制裁だけで、軍の介入はしませんでした。それを見た中国は、尖閣諸島で、アメリカ軍が出てくるか、試したんじゃないでしょうか」

「でも、もしアメリカ軍が出てきたら、中国としては、まずいことになったんじゃないか?」

「そのときは、先にミサイルを撃った日本に責任がある、と押し通すつもりだったのでしょう」

「実際に、中国は、日本が先にミサイルを撃ったって言ってるもんな」したたかな中国が、考えそうな事かもしれない。

「今回のことで中国は、尖閣諸島で争いが起きても、アメリカは経済制裁だけで、軍事介入をしないことを確認しました。次は、大規模な作戦で、本格的に尖閣諸島を取りに来るかもしれませんね」そう言って、星夜君はテレビを見つめた。


 それから三日後、中村はテレビで国民に向かって、演説をした。

「先般の尖閣諸島の領有権をめぐる戦争により、国のために亡くなられた、二十三名の自衛官の方々のご冥福を、謹んでお祈りします。また、国内で起きている中国人への差別的行為は、日本人として、恥ずべき行為であり、犯罪である」その言葉で始まった演説は、今回、アメリカが軍事介入をしなかったことに話が移った。

「アメリカは、民主主義と資本主義、それを世界に広めるため、また、世界の警察官として、あらゆる地域で軍事介入を行ってきた。しかし、アメリカ国内のシェール革命による中東への依存度の低下、また、長きに渡った戦争による、アメリカ経済の停滞。それにより、アメリカは世界の警察官から降りようとしている。代わりに台頭してきた中国による、アジアの緊張の高まり。我が日本を取り巻くアジアの平和のために、日本は何をすべきか。それは、軍事力の強化である。日本だけでなく、アジア全体の平和のためにも、日本と中国との、軍事パワーバランスの均衡は必須である。日本は石油の九割以上を中東に依存しているが、中東から日本までの、船で石油を運ぶ海上ルート、このシーレーンの防衛は、今後はアメリカに頼ることは出来ない。私には、日本国民の生命と財産を守る責務がある。日本人は平和を愛する国民だ。その平和のために、隣国である中国との軍事パワーバランスを、保たねばならない」

 中村が、軍事力強化の必要性を国民に訴えた結果、国内の世論は、軍事拡大に反対する者と、中国を脅威に感じ、賛成する者とに二分された。

 中国と韓国は、この中村の演説に対し、猛然と非難をした。しかし、意外なことに、アメリカから日本に対する抗議はなかった。アメリカも、アジア内での中国の台頭に、懸念を感じていたのだ。

 一方、ロシアからも非難の声はなかった。中村は、ロシアと日本を結ぶ、天然ガスのパイプラインの計画を、ロシア側に打診していたからだった。

 この、日露天然ガスパイプラインは、サハリンから関東までパイプラインを使い、天然ガスを輸送するプロジェクトである。ロシアとしては、ウクライナ問題によるヨーロッパのロシア離れから、天然ガスの買い手を求めていたのである。

 アジア諸国からも、日本の軍拡は、肯定的に受け止められた。フィリピンや、ベトナム以外にも、中国は脅威と思われていたのである。

 このような世界からの反応が国内で報道され、国内の世論も、しだいに軍事拡大容認へと変わった。

 僕は、心の中に漠然とした不安を感じていたが、日本は、少しずつ、軍事拡大路線へと進んでいった。


 日本政府は、沖縄県与那国島など、三ケ所の島に、長距離巡航ミサイル発射基地の建設に着手した。

 僕は、中村と二人だけで話をした。

「これで本当にいいのか? デフレ脱却のための中村計画だろ?」と言う僕に、中村は、「いくら景気が良くても、戦争になったら景気もくそもない。日本が戦争をしないための軍拡だ。雨宮も解るだろ?」と言った。

 理屈では解る気もする。アメリカが世界の覇権国家から降りようとしていて、代わりに中国が覇権国家の地位を狙っている。

 そうなると、日本のエネルギーの九割を依存する石油のシーレーンは、中国に守ってもらわなければならなくなる。それはそれで、恐ろしい気がする。

 中村は、いつもの抑揚のない声で、静かに話した。「俺は自分の考えたやり方で、デフレから脱却出来るのか、知りたかった。そのために総理大臣になったんだ」

「ああ、中村計画は正しかった。日本の景気は、回復した」最初は、半信半疑で中村と一緒に行動をしたけど、今は、中計画の一員になれたことを、誇りに思っている。

「そう、中村計画は正しかった。景気は回復した」そう言って、中村は窓から夜の街を見た。「総理大臣になって分かったのだが、日本の平和を維持しながら、経済を成長させるのは、とても難しい」

「だから、軍拡なのか?」

「今までは、日本はアメリカに守られてきた。そのために、日本の国益の一部を、アメリカが搾取するのは当然のことだろう。だが、アメリカの方針が変わりつつある。今後はアメリカに代わって、中国が影響力を大きくする。日本にとっては危険な状況になる」

「中国は、反日教育をしている、反日国家だもんな」今までは、アメリカの顔色を見て政策を行っていたけど、これからは、中国の顔色を見て政策を決めるようになるかもしれない。

「そこで俺は、日本が戦争に巻き込まれない方法、を考えた。それは、世界から戦争をなくせばいい」中村の目が、また輝いている。経済問題の次は、平和問題に興味が移ったようだ。

「世界から戦争をなくす? それは、いくらなんでも無理だ」

「何故無理なんだ? 戦争は国同士が交渉する場合の、一つの手段に過ぎない。つまり、交渉が決裂した場合の、国際的な裁判所を作れば、戦争をしなくても決着がつくだろ」

「それでも、裁判所の決定に不服があったら、戦争になるんじゃないか?」

「物理的に、戦争が出来ないようにすればいいんだよ。つまり、各国が軍隊を持たなければいいんだ」中村は真面目な顔で言った。

「どういうことだ?」どの国も、軍隊を持たなければ戦争は起きないけど、それは夢物語だ。

「俺が考えるに、先進国の多くは、戦争を望んでいない。だが、自国の防衛のために、軍隊を持っている。俺の計画は、まず、新しい国際連合を作る。その連合の中に、国同士のルールを作る。ルールを破った時の罰則も決める。裁判所も作る。つまり、連合内での国同士のトラブルは、ルールに従って解決するシステムにするんだ。そうすれば連合内の国同士の戦争はなくなる。そして、連合外からの侵略に備えて、新たな国際連合軍を作る。これは、今ある寄せ集めの国連軍とは違い、それぞれの国が軍隊を解体して、新しく国際連合軍を編成するんだ。それぞれの国が軍を解体するのだから、連合内の国同士の戦争は、物理的に出来なくなる。どうだ? これなら戦争が無くなると思わないか?」

 中村のつぶらな瞳で、どうだ?って言われても、やっぱり夢物語のように思える。「国際連合軍になったとしても、やっぱり軍があるんだから、戦争はなくならないんじゃないか?」

「加盟する国にもよるが、たぶん国際連合軍は世界最強になる。そうなれば、加盟国に対して戦争を仕掛ける国はなくなる。また、連合に加盟すれば、他国からの侵略を防げると考える国も増えるだろう。そうなれば、加盟国も増え、戦争のない世界が広がっていく」

 戦争のない世界か、本当にそんな世界は造れるのだろうか?

 僕は、「テロはどうなんだ? それでテロは防げるのか?」と中村に問いかけた。

「テロは犯罪であって、戦争ではない。俺はあくまでも戦争の話をしている」

「そうか、テロは防げないか」それでも、戦争がなくなる世界を目指すのは、意義のあることに思える。「中村、この考えを世界に発信しよう」

「無理だ」中村はつぶらな瞳で、そう言った。

「え? 無理って?」中村は僕を、からかっているのか?

「アメリカが言えば別だが、日本がこんなことを言っても、誰も相手にしてくれないだろ」そう言って、中村は、また窓の外を見た。「日本の経済力、軍事力をもっと高めないと、誰も言うことを聞いてはくれない」

「そのための軍事拡大なのか?」

「それもある。だが、早急に中国との軍事バランスの均衡は必要だった」中村は窓の外を見ながら言った。「それに、日本の発言力を高めるには、核兵器を持つ必要がある」

「核?」僕は一瞬、中村が何を言っているのか、理解出来なかった。

「そうだ、核だ。核を持たない国が、核を持つ国に、核を放棄しろと言っても、誰も相手にしない」

「だからって、核か? 日本が核兵器を持つって言うのか? そんなの世論が納得するわけがない」

「もちろん核兵器を保有することは、国民には公表しないさ。国民への公表は、時機を見て行う」

 中村は何を言っているんだ?「日本は民主国家だろ。国民に黙って核を保有するなんて、許されるはずがない」

 中村は僕を見て言った。「雨宮、民主主義は完璧なのか? 例えば、病人がいたとする。その病人の治療方法を、国民が民主主義による多数決で決めるのか? それよりも、治療の専門家である医者が、治療方法を決めた方が、確実に病気は治るだろ。それと同じで、国の政策は、政治のプロである政治家が、決めるべきなんだ」

「中村、それはこじつけだ」

「尖閣戦争もそうだ。都合よく中国機がミサイルを撃ってきたから、国民の世論も軍事拡大に傾いたんだ。あの時、戦争が起こらなかったら、今でも世論は軍拡に反対だったんだぞ。今、日本が軍事力を高めないと、いずれ、日本は中国の従属国になってしまう」

「都合よく? 中村は、戦争が起きて良かったと思ってるのか?」

「当然だ。日本は、中国の従属国になる危険を、回避出来たんだ」

「あの戦争で、二十三人の命が犠牲になったんだぞ。他にも負傷した人は大勢いる」

「たかだか二十三人だろ。それによって日本国民、一億二千万人が、正しい方向に進めたんだ。雨宮、些末なことに囚われるな、物事の大局を見ろ」と言った中村の顔は、自信に満ちていた。


 僕は、中村から核兵器の保有の話を聞いてから、ずっと考えいた。

 核兵器。民主主義。平和維持。戦争。アメリカ。台頭する中国。新たな国際連合。

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 正しいとは何か。民主主義にとっての正しさ。日本の繁栄にとっての正しさ。

 答えが見付からないまま、日本の世論はマスコミを中心に、軍事拡大路線へと突き進んでいった。

 中村英樹という総理大臣により、日本は、経済成長を成し遂げた。自信を取り戻した日本国民は、強い日本を求めた。

 中村英樹が先頭に立てば、強い日本になり、日本国民としての誇りを取り戻せるという、集団心理が働いているようだった。そのため、中村政権の非難をしたり、軍事拡大路線に反対する者は、非国民として抑圧された。

 各地で、在日中国人を狙った事件は続いていて、反中デモも盛んに行われている。

 排他的対象は、アメリカ人にも向けられ、反米デモが活発化した。

 星夜君も、「先生、これから日本は変わります。中村首相によって、アメリカに頼らない、強い日本に生まれ変わるのです」と言っていた。


 中村政権が誕生して三年目の秋。ネット上に、二つの噂が流れた。

「日中尖閣戦争の引き金となった戦闘機の交戦で、自衛隊機が先に中国機にミサイルを撃った」

「中村英樹は核兵器の保有を企てている」

 この二つの噂は、ただの噂ではなくて、信憑性が高かった。

 戦闘機の交戦では、出所は不明だが、ネット上に衛星写真が出回っていて、四機の戦闘機の内、中国機が爆発する場面が写っている。これは、一番最初に中国機が撃墜されたということだ。

 核兵器に関しては、プルトニウム型原子爆弾ではなく、ウラン型原子爆弾を製造する計画を立てていて、このウラン型はプルトニウム型と違い、構造が単純なため、核実験の必要がないが、ウランを濃縮するには大量の電力が必要となり、原子力発電所の電力を使用する計画であると、ネット上に具体的に書かれている。

 この噂は瞬く間に広がり、テレビや新聞でも報道された。

 日本が核兵器を保有する。この報道は、世界で唯一の被爆国である日本人に、衝撃を与えた。

 それまで、軍事拡大路線を突き進んでいた国民は、立ち止まり、迷い始めた。

 専門家の検証では、衛星写真は本物であり、このことから、中国機が先に撃墜された可能性が極めて高いとされた。

 マスコミはこの噂の出所を探したのだが、結局、見付からずに、核兵器保有に反対する政府関係者がリークした、軍拡反対派のハッカーが流した、日本の核兵器製造に怒ったアメリカが流した、自衛隊の隊員が流した、など、色々な憶測だけが広がった。


 ここで、一つの仮説が出来上がった。

 中村英樹は、日本を軍事国家にするために、中国機を攻撃して、戦争を引き起こし、国民世論を軍拡へと誘導したのではないか。

 そして、秘密裏に核兵器を製造して、日本を核保有国にする計画だったのではないか。

 この仮説は、新聞各紙でも取り上げられ、国民は中村英樹を、平成のヒットラーと呼び、見放した。


 日本政府は緊急記者会見を開いた。

 僕と星夜君が、議員事務所のテレビで記者会見を見守るなか、中村がテレビ画面に現れた。

「今回、ネットを起点に流れた噂だが、一つは真実だが、一つは虚構である。日中尖閣戦争の発端となった戦闘機の交戦では、中国機が先に攻撃を仕掛けた。そして、核兵器に関してだが、私には日本国民の生命と財産を守る責務がある。そのために、日本は、核兵器を保有する」

「やっぱり核を造るつもりだったんですね」星夜君がテレビを見ながら言った。「こうなると、中国が先にミサイルを撃ったというのも、怪しいものですね」

「私には、戦争のない、平和な未来を作る計画がある」中村はそう言って、以前、僕に話した、新しい国際連合の話をした。連合を造り、各国が軍隊と核を手放して、一つの国際連合軍を造る話だ。

 中村が、つぶらな瞳でテレビから語りかけてくる。「その国際連合を造るには、日本の国際社会に対する影響力を高めなくてはならない。そのために、日本は経済力、軍事力を拡大し、核を保有する必要がある。世界から、戦争、そして核兵器をなくすには、それしかない。それが出来るのは、平和を愛する日本国民だけだ」

「詭弁だ」星夜君は叫んだ。「核をなくすために、核を持つだって? 矛盾している」

 僕は、何故か他人事のように、星夜君を見ていた。

 星夜君は、画面の中村に対して叫んでいる。「だいだい、国際連合を造ったとしても、それぞれの国が軍隊を手放すはずがない」

 中村の喋り方は、相変わらず抑揚がない。「世界では、戦争は、絶えることなく続いていく。日本も、いずれ、戦争に巻き込まれる可能性は、十分にある。日本だけが、戦争に巻き込まれない方法を考えるより、世界から戦争をなくす方法を選ぶ方が、日本にとって、より安全な方法だ」

 テレビを凝視していた星夜君は、あきれた顔で言った。「世界から戦争をなくす方法だって? そんな夢みたいなこと、この人、本当に信じているんでしょうかね?」

「世界から戦争をなくす方法」僕は口に出して言ってみた。「中村計画」

 中村は話し終えると、記者からの質問は受けずに、会見場を去っていった。


 政府の記者会見から一週間後、中村内閣の不信任決議案が、国会で提出された。

 中村は、表決の前に発言を許可された。

「諸君、我々政治家は、日本の安全を守る責務がある。時として、世論は、誤った判断をする。核の保有は、日本の安全にとって、必要か、否か。核を保有することの、メリットとデメリットを、深く熟考することが大切だ。核の、好き嫌いで、決めることではない。民意より優先されるのは、日本国の安全だ」中村はそれだけ言うと、ゆっくりと席に戻った。

 投票が始まり、各議員が順番に、自分の木札を、議長席の前の箱に入れていく。白い木札だと賛成、青い木札だと反対の票になる。

 この、アナログな方法の投票によって、中村内閣の運命が決まる。

 議員全員の投票が終わり、賛成が過半数を超えた。この瞬間、中村内閣の不信任決議が可決されたのだ。

 僕の横に座る中村は、抑揚のない声で、「馬鹿な国民どもだ」と、つぶやいた。

 





 雨宮一郎の話に聞き入っていた佐々木俊治は、窓の外が暗くなっていることに、初めて気付いた。

「それで中村英樹さんは、それからどうしたのですか?」

「彼は、内閣を解散して、政界から去っていった。それで、私が次の総理大臣に、任命されたんだよ」雨宮は、空になったプラスチック容器のコーヒーカップを、テーブルに置いた。

「もし、そのとき、決議で中村さんが首相を続けていたら、日本は核を持っていたかもしれないのですね」

「そうかもしれないね」雨宮は、すでに暗くなった窓の外に顔を向けた。「もしかしたら、本当に、戦争のない世界になっていたのかもしれない」

「もし、そうなっていたら、僕も徴兵されなかったのですね」

「それは違うなー」と、僕を見た。「国際連合軍に徴兵されてたよ。そうしたら、国際的な友達が出来るな」そう言って、雨宮は笑った。

「ところで、その、内閣の決議、雨宮さんは、どっちに投票したのですか?」

 雨宮の顔から笑いが消えた。「私は、最後まで迷っていたんだ。そして、白い木札を選んだ」

「白い木札」

「賛成だよ。中村内閣の不信任決議に賛成したんだ。中村を裏切ったんだよ」雨宮の顔は無表情だった。「中村のやろうとしていたことは、一部ではあるが、理解は出来た。だけどね、核だよ。核兵器を持つことは、どうしても嫌だった。理屈じゃなくて、核兵器は嫌だったんだ。当時の日本人は、誰もが核兵器に対して、生理的な嫌悪感があったんだ」

 雨宮は、それだけ言うと、しばらく黙った。

「今の日本人だって、同じですよ。僕も核兵器は嫌いです。世界中から、核兵器がなくなればいいと思っています」

「そうなると嬉しいね」雨宮は、にっこりとした。

「今の日本の経済発展は、デフレから回復させた、中村首相の功績が大きいといえますね」

「そうだね、彼の政策によって、日本は全体的に所得が増えたからね。おかげで豊かな生活がおくれいてる」

「もし、中村首相と、芸能人だった雨宮さんとが知り合いじゃなかったら、中村さんの中村計画を、国民に広めることは出来なかったのですね。これは日本にとって、とても幸運なことだと思います」

「ああ、そうなるね。私を通じて、ヒロミンと彼が出会えたから、中村計画は、世間に知られるようになったからね」雨宮は、遠くを見るような目で言った。

「じゃあ、もし、中村首相と雨宮さんとの、繋がりがなかったとしたら、日本はまだ、不景気で、正しくない社員が沢山いるのかもしれませんね」正しくない社員というのだけは、一度見てみたい気がする。

「そういえば、もし私と連絡が取れなかった場合は、中村計画を本にしていた、そう彼が言ったことがあった」

「本、経済の専門書、ですか?」

「彼が言うには、経済関係の本を書いても、世間への影響力は少ないらしい。経済の内容を小説にして、その本がヒットして、映画化されて、初めて一般の人達に影響を与えることが出来る、と言っていた」

「本にして、映画にする、ですか。それはとても狭き門ですね」出版関係の仕事をしているから分かるけど、無名の人間が、映画化どころか、本を出版すること自体、難しいんだ。

「彼にとって、私やヒロミンとの出会いは、とても幸運なことだった」


 雨宮一郎の事務所を出て時計を見ると、すでに七時をまわっていた。

 今回は、いい記事が書けそうだ。

 週末の木曜日の夜だからか、街には人が多い。以前は週休二日だったらしいが、昔の人は働き者だったのだと、今回の話を聞いて、改めて感じた。

 佐々木俊治は、なんだか映画が観たくなり、映画館へと向かって歩き出した。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

実際の世界の2015年では、安倍政権は緊縮政策、構造改革を進めておりますねー。

あいにく私には芸能人の友達もいませんし、この小説も小説すばる新人賞に落選してしまい、当然ながら映画にもなりません。

どなたか、スーパーヒーロー的な総理大臣が現れて欲しいと願います。

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