記憶3
両親に裏切られたからといってサラリーマンは会社を休むことを許されない。
意識はほとんどないが行かなければ上司からのお叱りが待っているが、行っても今日はミスをしてしまうだろう。そうすれば結局叱られてしまうのだ。
行っても行かなくても叱られるのなら休んでしまおうかと思ったけれど晩年の生真面目さが康隆の足を会社に運んだ。
デスクに付き、パソコンを立ちあげて資料の整理をはじめる。
やってみてわかったがいつもやっていることですらうまく運ばない。指も頭もいつもよりはるかに重かった。
「康隆さん、今日飲みにいきません?」
「あ、おはよう宮沢さん。今日はちょっといいかな」
「なるほど、わかった」
隣のデスクで同期の宮沢さんとはほとんど週一で飲んでいた。けれどそれも完全にたまたまだった。
お互いに愚痴が貯まるとその捌け口としてどちらからともなく誘い出して飲む。それがたまたま週一のペースになってしまっていた。
そしてそんなペースで飲んでいたら自然と二人の間にルールも生まれた。
誘っている時に『いいかな』と言うとそれは『甘えたい』と言うサインになる。
と言っても酒が入っているので恋人同士のような甘い雰囲気にはならない。いつもより少し多めに飲む程度だったが、康隆にとってそれは都合のいいものだった。
宮沢さんはたまたま美人だ。
彼女という枷のない康隆はたまたま隣のデスクでたまたまよく飲みに行くたまたま美人だった宮沢さんに溺れたくて仕方がなかった。
飲みに誘われた瞬間からそのことばかりが頭をよぎり、気が付けば昼になっていた。
屋上にいき、弁当を食べながらさっきまでのことを思い出すと途端に情けない気持ちになる。
ふと、下を見てみると車も人も豆粒のようで、いっそ落ちてしまおうかと考えた。足を柵にかけるとガシャンと大きな音が鳴る。そこで我に返ってやめた。
ゴミを持ってとりあえず屋上をあとにすると涙が出てくる。
それも一粒二粒ではない。
滝のように溢れてくるので一旦トイレの個室に入り、泣いた。
泣き終わってデスクに戻るとすぐに部長に呼び出された。
「何だこれは」
「先日の発注表ですか?」
あからさまに部長はため息をつく。「そうじゃない、ここだここ。なんでこんなもん大量にとってんだ」
「え、先日のやつは部長が・・・」
「俺がミスしたってのか!?発注はお前の仕事だろ!違うか!?」
部長は一際声を大きくして康隆に怒鳴りつける。
「なんでお前はそう何度も何度も発注ミスをするんだ!ボケっとしてるからじゃないのか!」
「・・・・・・」
「お前のこの一時のミスのせいで全体の歯車がずれるんだよ!わかってんのか!?え!?」
「はい、すみません」
「すみませんじゃねーよ」
また大きなため息を一つ。
「お前、仕事舐めてんだろ?」
「いいえ」
「舐めてるなぁ?」
「そんなことないで・・・」
「あ!?何言ってっか聞こえねーよ!」
机をドンと叩いて大声をだされると、体がビビってしまう。
「もういい、お前やめろ」
「え・・・」
「いいよお前、いらないからクビ。帰って」
「え、いや、まって・・・」
「いいから帰れ!いらないんだお前は!」
康隆の中に大きな穴があいたような、そんな感覚が襲ってきた。するともう、平静ではいられなかった。
「わかりました」と言って荷物をまとめ会社を出て、まっすぐ駅に向かい帰りの電車に乗った。
いつも帰りの電車は混んでいるのに、昼頃のこの時間は空いている。
椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていると終わったんだという実感が湧いてきて、同時に涙がまた出た。
康隆は乗り換えの駅まで顔を伏せて、泣き続けた。
そうすると、ここ最近の不幸ばかりが目に浮かぶ。
彼女のこと、両親のこと、会社のこと。さらには犬のうんこが道に落ちていたことやいつも歩くところにカラスがいっぱいいたことなど、とても小さいストレスまで思い出して、乗り換えの駅のホームで電車を待ち、電車が来たのを見計らってホームを降りた。
思えば康隆は電車を真正面から見たのは初めてかもしれないと思った。