記憶2
今でこそ覚えていないが、康隆にも両親がいた。
新潟で康隆を産んで、東京で康隆を育ててくれた。
康隆を学校に通わせるため、毎日共働きをしてくれた。
一度だけ彼女を紹介した時には、それはもう喜んでくれた。
けれども、別れたと報告する頃には居なくなっていた。
それに気がついたのは、康隆が彼女と別れて、その日のうちに報告しようとした。あまりに盛り上がったものだから申し訳ないと思い、実家に電話をかけた。
けれど、何度掛けても留守番電話サービスに繋がってしまう。
五度目ともなると流石に訝しみ、とりあえず母親のケータイにかけてみたが、電話の向こうで女が「この番号は現在使われておりません」というのみで、父親にかけても結果は同じだった。
彼女と別れた痛みと両親に何かあったのかという不安で、その日康隆は布団の中で眠れずに転がり続けること七時間。一睡もできずに朝を迎えた。
眠れずに苦しんだ夜に比べれば、休息の取れていない体を動かすことは簡単で、スーツに着替え、朝食を食べて家を出るまでの支度がいつもより十分早く終わったので、康隆は静かにコーヒーを飲むことにした。
半分くらいまで飲み終わったところで突然部屋のドアが強く叩かれる。
叩き方が少し乱暴なので隣の部屋の男かと思い躊躇したが、もう関係ない、終わったことだと言い聞かせドアを開けた。
しかしそこに立っていたのは隣の男ではなく、全く見覚えのない黒服の男だった。
真っ黒のサングラスの奥で凄んでいるのかと思うと康隆はすくんでしまった。
「どちらさまですか」
頭をフル回転させてやっと見つけたあまりに弱々しい一言に、男は一歩詰め寄って応える。「私、こういうものです」
胸ポケットから出された名刺には吉田金融と村瀬卓雄という字が入っていた。
けれど吉田金融なんて会社に覚えはない。生まれて此の方奨学金以外の借金をしたことがない康隆には吉田金融の村瀬さんに突然押しかけられる理由がなかった。ないはずだった。
康隆が名刺を見たのを確認すると男は話し始めた。
「実は、お宅のご両親がうちで借金をつくりまして、払えないからと言ってにげてしまったんですよ」
「それと、俺に一体なんの関係が?」
「ご両親がお支払いできない場合血縁の方にお支払をしていただくことになっております」
「えっ・・・・・・と。ちなみにいくらですか?」
「ご両親が借りれた三十万に利息をつけさせていただきまして二百七十万円となります」
「・・・・・・」
あまりの額に康隆は声が出せなくなった。
なんで三十万がほとんど九倍になっているのか、ということももちろんあるが、それよりもそれだけの借金を息子に背負わせて両親が逃げたということが信じられなかった。
いつも厳格な父親はかなり厳しかったが、歪みのない力強さに康隆はいつも憧れていた。
その父親に叱られた時にいつも泣きつくのは母親だった。
優しい母親は康隆が泣くといつも優しく慰めてくれた。その暖かさが康隆には心地よかった。
康隆には、今両親が犯したという罪はまるで真逆の存在のようであり、正直ピンとこない。
「はらえそうですか?」
黒服の声で我に返ったが、そこにあったのは借金という現実だけ。当然払う宛なんて康隆にはなかった。そのことを黒服に伝えると、今払える分だけでもだせという。
そんなことを言われてもどうしようもないが、渡さなければ帰ってくれなさそうだったので、とりあえず手持ちの二万を差し出して帰ってもらった。
三百万近い借金に対する二万なんて途方もなくちいさい。利息が付けばその二万も軽く吹き飛んでしまうであろうことを考えると、理不尽な悲しさがこみ上げてきた。
悔しい。悔しい。悔しい。
なんで一度も自分で借金を作ったことがないのに、たとえ両親とはいえ他人の負債を被らなければならないのか。
康隆は泣いた。「ちくしょう、なんなんだよ一体」
泣くと涙が出た。乾いていくような感覚が康隆を襲う。
カバンを放り出し、台所に駆け込んで冷蔵庫を開け、お茶を飲んだ。
喉を流れる冷たい感触に康隆はすがった。そして、そうしているうちに悲しみは怒りに変わる。
「わけがわからねぇ、なんなんだよ一体。俺が何したってんだよ。」
三杯、四杯と飲むとだんだんとその怒りも落ち着けてきて、強い喪失感だけが残った。
すっかり重たくなった体を起こし、足をあげようとするが、あがらない。
一歩一歩、地面から離れているのかいないのかわからない位の高さで、しかし確実に足を前に出す。
カバンを取って、玄関で靴を履き、ドアを開けて家を出た。