18:命溢るる逆月の泉-08
見慣れた背中から生える、鮮血滴る黒い刃。
咄嗟に考えられたのは、右に寄っているから心臓は外れているはずだ、なんて馬鹿みたいなことだった。あの長大な剣に刺し貫かれた。それだけで大変なことなのに。そう思い至るにつれて、背筋が冷えていった。まるで足元の地面が抜けて、深い深い穴の中に落ちていくような恐怖感。
ここで折れたらヤバいと思うのに、身体は自由にならない。かくん、と腰が抜けた。立ち上がった膝が崩れて、泉の中に逆戻り。温かくも冷たくもない水に浸されながら、全身が震え上がる。
だって、あれじゃあ、どう見たってひどすぎる。断たれた肋骨の数はどれほどか。右の肺はどれだけ生きているだろう、ほぼ直撃だ。あんなもの、あんな傷で、平気であるはずが、あれるはずが、ない。
「人の身は脆い。それを不運と悔やめ」
冷たく吐き捨てる声さえ、衝撃の余り右から左に抜けていく。――そんな中で。
ハ、と短く笑う声が、聞こえた。掠れていても、力無くても、確かに響いた。
「なら、てめえは今の有り様が、幸運だってのか」
何だと、と気色ばむ応答。
「俺は御免だ。俺以外の何にも、なる気はねえ」
掠れた声が強く言い切るや、鈍い音を立てて槍が振り抜かれた。喉元から核へ斬り下げる軌道は、しかし、命中の寸前にエラストが後ろへ跳んだことで隻腕の半身を抉り落とすだけに留まる。
エラストが退けば、必然的に剣も追従する。胸に突き刺さった刃が、怖気のする音を立てて引き抜かれた。花のように散る、鮮烈過ぎる赤。噴き出す血は、さながら霞のようだ。凄惨極まる光景に、喉が鳴る。身体を貫く痛みは壮絶だろう。血を失い続ける苦しみは深刻だろう。
だというのに、胸に背中にしとどに血を流しながら、ヴィゴさんは一歩も退かなかった。傷など無いかのように、嘘みたいに速く、大きく踏み込む。衰えを知らぬ槍の奔る様は、紫電にすら似て。
半身を失い均衡を欠いたエラストは、それを受けることさえできなかった。背を屈め、肩の装甲で辛うじて受け止めると、肩を捻って弾き返す。
けれど、それは意図して作られた猶予だった。
深くは抉らず、弾き返せる程度の攻撃は、あくまで牽制に過ぎない。槍を引き戻したヴィゴさんが取るのは、上体を低く倒した構え。槍から離れた左手が、胸元の細い銀鎖を引きちぎる。
ああ、と知らず胸の内で呟きが漏れた。その手の中に何があるかなんて、見なくても分かる。
かつて、私自身が贈ったもの。「碧の女帝」を用いた、魔力を蓄積するペンダント。掌の中から、眩いばかりの緑色が溢れ出す。
「全開放――これで終いだ」
緑の光が描き出すのは、四つのルーン。
炎、光、破壊、戦――炎と光をもって敵を打倒する、必滅の記述。
宙に閃く四文字は槍へと収束し、担い手さえも呑み込まんとする紅蓮の炎を生み出す。否、真実担い手さえも焼きながら、朱い槍は燃え盛った。まさしく、「前回」と同じように。
大きく目を見開いたエラストが、歯を食い縛って地面を蹴るのが見えた。当然の判断だ。あれが放たれたが最後、全てが焼かれて終わる。相対して尚も生き延びようと思うのなら、放たれる前に止めなければならない。教えられるまでもなく直感的に、そういう質のものなのだと、私にも分かっていた。
不均衡な体躯で駆ける騎士が迫る。迎え撃つは業火渦巻く槍。しなやかに伸びた腕の構えが表すは投擲、その様は張り詰めた弓弦にも似ていた。
そして、一拍。強く大きく踏み出す足が、バキリと音を立てて石畳を割った。
「穿て、〈約り火群〉!」
ごう、と音を立てて放たれるは、正真正銘の乾坤一擲。傷口から鮮血を弾けさせるほどの力で放たれる、赤く燃える流星にも似た一投。
紅蓮の炎そのものと化した朱い槍を、半身の騎士は剣を掲げて真っ向から迎え撃った。火花を、炎を散らして、槍と剣が真っ向から衝突する。ギャリギャリギギギ、と金属を引っ掻くような、耳を覆いたくなる濁った金属音が乱れ響いた。
四重のルーンで武装された槍は、阻まれようと避けられようと標的を狙い続ける。それでこその破壊と戦、それでこそ必滅の一撃。押し返されれば、より強い圧力をもって押し掛かる。
拮抗は一瞬のようで、永遠にも等しく思えた。押され、押し返し、それが何度繰り返されたか――やがて剣を担う腕が曲がり、担い手の表情が歪む。
私は息を呑んで――否、完全に止めて、食い入るようにその光景を見詰めていた。
最後の足掻きとばかりに一際強く眩く、血のように紅い赤い光を放つ剣。それが、鈍い音を立てて折れる。紫の双眸が信じられないものを見たかのように大きく見開き、悔しげに歪むのが見えた。剣を失った騎士に、最早なす術はなく。
鈍色の鎧の中心へ、吸い込まれるように槍は命中した。そうして引き起こされるのは、空恐ろしいまでの大爆発。凄まじい音と炎が目と耳を圧し、眩みそうな視界の中で、騎士の胸から下がごっそり爆散する様を見届ける。身体の七割を失った人形は、炎に巻かれながら崩れ落ちていった。
「負ける、だと。私が」
呆然と、或いは愕然として、エラストが呟く。彼の騎士の有り様は、まさに敗北の一言に尽きた。
爆散した身体で残っているのは、剣を握っている腕と肩に頭、それから爆発の衝撃でもげて吹っ飛んだ足だけ。核も壊れかかっているのだろう、紫の眼はほとんど光を失っていた。そんな状況では、いくら自動人形でも動くことはできない。
……そのはず、だというのに。
それでも、騎士は動いた。如何程の執念がなさしめるのか。頭と腕だけの身体で石畳の上に転がったまま、折れた剣を掲げる。食い破りそうなほど唇を噛み締めて、憤怒と憎悪に満ち満ちた顔で。
嫌な予感がして、咄嗟に声を張った。
「敵の首を持たずして戻るなと命じられておきながら、一体どんな顔をして逃げ帰るつもりです」
「……安い挑発には乗らん。自壊する隙を残した手落ちを、精々悔やむがいい」
返る言葉は、いっそ潔いほど。だからこそ、やはり、と理解せざるを得なかった。立ち上がるのももどかしく、手で地面を掻いて走り出そうとした時には、全てもう遅い。
掲げられた剣が、折れた切っ先を己へ向ける。事ここに至っては、阻むのも止めるのも無理だった。一連の行動は、余りにも躊躇いがなさすぎた。仮にも自分の胸に剣を突き立てる――正しく自殺行為だというにもかかわらず。
「私は、あの方のものだ。あの方だけのものだ。貴様らの捕虜になどならん」
ザン、と重く断つ音。捨て台詞じみた一言を最期に、騎士は動かなくなった。
折れた剣を己が胸に突きたてた手が、ゴトリと地面に落ちる。
長い戦いの終着と認めるには、余りにも静かで。劇的なんて到底言えない、呆気ないとすら思ってしまうほど。――けれど、それは紛れもない戦いの終わりの証明だった。
「どうにか、勝った、か」
ぼうっと呆けていた頭を引き戻したのは、儚い吐息のような声。
それが誰のもので、その人がどんな状態にあったか。声の響きに連鎖して次々と思い起こされ、痛みも疲れも忘れて、私は文字通り飛び上がって今度こそ走り出した。
「ヴィゴさん!」
名前を呼んでも、血塗れの背中が振り返ることはない。それどころか大きな身体がぐらりと傾くのが見えて、喉から悲鳴だか怒号だか訳の分からない声が飛び出した。時々転びそうになる身体を何とか手を地面について支えながら、お世辞にも長いとは言えない距離を必死の思いで進む。
なのに、間に合わない。
倒れる長躯は仰向けに。その身体を支えることも、受け止めることも間に合わなかった私にできたのは、ただ這うように駆け寄ることだけだった。
「ヴィゴさん――ヴィゴさん!!」
空を向いた顔を覗き込むと、今にも閉じてしまいそうな橙の眼が私を見上げた。血の気の失せた顔が、「よう」と唇を歪めるように笑みを浮かべる。その顔が、ああ、もう、本当に。
「ちゃんと、仕事、したろ」
「――だけど、こんなじゃ意味ないでしょ!?」
両手で胸の傷を押さえる。止まれ、止まれって、どれだけ唱えても願っても、どくどくと次から次に赤色が溢れてきて、やだ、ほんとにもう、やめてよ。
誰か、と震える声で叫んでも、周りを見回しても、誰もいない。誰も助けに来てくれない。
「ライ、ゼル。……いいか」
「よくない!」
裏返った声で叫ぶと、苦笑された。だから、なんで、あなたって人は、そんな顔を、するのか。
「ここに、来る前。ラファエル、に、誓わせた。俺が、いなくても、代わりに、あいつが、お前を、守る。心配は、いらねえ」
「やめて聞きたくない!」
叫んで、弾かれたように立ち上がった。告げられる言葉から逃げ出したかったこともあるし、ようやく「それ」の存在を思い出したからでもあった。
軋む身体も痛む身体も無視して、泉に取って帰る。上手く動かない脚は、しゃがむより一歩先に進む方が早い。泉の水を蹴立てるようにして中心の杯に近付き、巻いていたストールを引っ掴んで突っ込んだ。水を吸えるだけ吸わせてから、薄布を握ってまた走って戻る。
「大丈夫、癒しの泉があるんだから。治る。絶対治るんだから」
ストールを胸の傷の上に翳して、両手で握り込む。上手く力が入らなくて滴るくらいにしか零れてこなかったけれど、それでも飛び散った水は破れた衣服のあちらこちらに覗く細かな傷を、見る見るうちに治していった。ちゃんと治る。これで上手くいく。
そう思って、信じていたのに――
「何で治らないの!?」
どうして、一番治したい傷だけが治らないのか。
何かが胸の傷から水を弾いている。癒しを拒んでいる。バリアでもあるみたいに。何故――どうして!
「だから、人の話、聞け、って。どうにも、厄介な呪いを、もらっちまった。治癒、が、効かねえ」
途切れ途切れに言われた言葉に、頭を殴られたような衝撃を覚えた。
解呪なんて、まだ私は簡単なものしかできない。なのに、他に人はいない。助けはない。時間もない。もう喋るだけでも辛いのだろう、ヴィゴさんの呼吸は浅く速く、目は今にも閉じようとしている。
「待って、駄目、やだ、駄目だってば」
「――そう、言うなよ。上等な、終わりだ。ただ、戦って死ぬんじゃ、なくて。何かを、お前を、守って、終わる。……ああ、本当に、俺にしちゃあ、上出来だ――」
そんなことを言って、本当に心底嬉しそうに、ヴィゴさんは笑った。笑って、すうっと目を閉じる。
「駄目だったら!!」
反射的に叫んで、目を閉じてしまった人の肩を揺さぶった。いやだ、お願い、目を開けて。
「やだやだやだ、ねえ、待って――待ってったら……」
どれだけ懇願しても、揺さぶっても、反応はない。それが、嘘だとしか、思いたくなくて、
「やめてよ……」
呻いて、項垂れる。
その時、視界の端で光るものがあった。きらりと白く輝く――まろい小さな欠片。
あ、と思わず声が出た。ついさっき、ジャエル石と一緒に魔力を籠めるだけ籠めて忘れていたもの。このどさくさの中で、どこかにやってしまったと思っていた。どこかに引っかかってでもいたのか、それが今、倒れた人の胸に転がっていた。
魔祓いの石、カタルテ石。――そうだ。それで作った矢は、北の悪神にさえも有効だった。
気付けば、白い欠片を摘んで口の中に投げ入れていた。飲み込まないよう舌の上に置いて、空いた手でストールに残った水を掌に絞り出す。それを口に含んでから、目を閉じた顔の上に屈みこむ。両手を伸ばして、動かない顔を掴んで固定。
後で怒られるかもしれない、とそんな危惧が脳裏を過らないでもなかったけれど、命に比べればどれほどのことだ。それより他に手段がなく、それを為すのが疑いようもなく正しいことであるのなら。躊躇う必要は、どこにもない。
遥か南のアルマの島で、雨の山越えに失敗した、あの時。この人だって同じように判断して、行動に移してくれたはずなのだから。
薄く開いた唇に、自分の唇を押し付ける。口の中に含んでいた欠片と水を流し込みながら、胸の内で唱えるのは「開式」。こくりとかすかに動いた喉に全ての望みをかけて、吹き込むのは思い付く限りありったけの解呪と治癒。願うのはただ一つきり。
「戻ってきて、戻ってこい……!」
唇から唇を離して、囁く。だって、まだ何も終わってなどいないのだから。
冬が過ぎて雪が解け、春になったら村へ帰ろうと待ち遠しい話をした。しばらくは傭兵ギルドで見向きもされない、簡単な仕事をしようと暢気な話もした。余裕ができたら、もう一度アルマに行かないとって思って、一緒に行ってもらう約束だってした。
その他にも、たくさん、たくさん。話していたのだ。私たちは、未来の話を。そんな日が来なくなることなんて、少しも考えもしないで。
「故郷に、家族だっているんでしょう。こんなところで――あなたまで、親不孝して、どうするの」
脳裏に蘇るのは、かつて過ぎ去った光景。
唇を噛み締める父。取り乱し泣き惑う母。冷たい身体に縋って罵る弟。
どれだけ悲しませ、苦しませたか。今になっても夢に見る。でも、何もかも、もう取り返しはつかない。全ては起こって、終わってしまった。
だからこそ、思う。……ああ、そうだ、本当に。和歩、あんたは正しい。
「『自分の命を捨てて誰かを守る英雄になんて、ならなくていいんだよ』……!」
私は、そんな願いさえ叶えられなかった。あなたまで同じ風になって、どうするんだ。
お願いだから、起きて。懇願は声にもならない。限界から更に絞り出した魔力は枯れ果てて、どれだけ願ってももう、打つ手がない。
閉じた眼。開かない瞼。それを、ただ見下ろす。待てば何かが変わるのだと、変わってくれるのだと、信じることしかできなかった。
ぽたり、と不意に覆い被さる顔に雫が落ちる。初め意図せず落ちた涙かと思ったそれは、雨だった。空を振り仰げば、陽光の下、きらきらと輝く雨が降り注いでいる。薄絹で織り上げたヴェールが漂うような細やかさで、しとしとと。
知らず、目を細めていた。幻想的な光の雨。綺麗な――夢みたいに美しい光景。こんな状況でなければ、きっと見惚れていたに違いない。けれど、分かち合う人もなく独りで眺めているのでは、どんな美しい景色でさえ色褪せてしまう。
ここで喪うのは、きっとそういうことだ。何もかもが色を失う。そんなのは嫌だ。忘れることなんてできない。乗り越えることなんて、もっとできる気がしない。項垂れた頬を伝って、未だ眠り続けるような顔に、ぽたぽたと雫が落ちる。
どうか、と何かに縋りたくてならなかった。
――大丈夫、あなたの為したことは無駄ではありません。あなたの願いが、命を繋ぐ
その時、微風のような声が耳元で聞こえた。
驚いて辺りを見回してみても、誰の影もない。でも、あの声は確かに……
「う……」
「!?」
かすかな呻きが聞こえて、はっと目線を下に向ける。再び見下ろす先、そこにあったのは。
眉間に寄せられた皺。震える睫毛。唇が歪むように動いて、曲がり――
「ヴィゴさん!?」
薄らと、橙の眼が開く。
「ヴィゴさん、聞こえます!? 私のこと、分かりますか!?」
折角繋ぎ止められたものが途切れてしまうのが恐ろしくて、矢継ぎ早に声をかける。橙の眼差しはぼんやりと辺りを漂っていたけれど、何度か声をかけるうちに、私を見た。
つう、と頬を伝う感触は、これこそ果たして降りしきる霧雨の雫か、いつの間にか流れた涙か。自分のことなのに、自分でもよく分からなかった。
「これ、夢か。……それとも、お前も、死んだのか」
ゆっくりと唇が開き、時間をかけて言葉を押し出す。掠れきって、聞き取りづらい声だった。
寸前までの状況が如実に表れた声に、いよいよ目頭が熱くなってくる。そんなことある訳ないじゃないですか。軽く笑い飛ばしたかったのに、ずび、と鼻が情けない音を立てて、上手く声が出せない。手の甲でぐしゃぐしゃ拭っていると、視界の端にちらと入り込むものがあった。
アミュレットが指に引っ掛かったままの、傷だらけの手。真っ黒く炭みたいに焼け焦げた、槍を投げた手。ボロボロの二つの手が私の頬を包んで、目元を擦るように親指を動かす。力が入らないのか、驚くほど弱弱しい手つきだった。それがまた、ツンと鼻の奥を痛ませる。
どうにも声は出ないし、うっかりすれば涙は流れそうだしで、黙ってしたいようにさせていると、ぽつり「綺麗だな」と思いもよらない呟きが聞こえてきた。え、と間抜けな声が出る。
「昔、見た。山の上で、緑の朝焼け。緑が薄く伸びて、白に変わる。だいぶ前でも、まだ覚えてる。今までで一番、すげえ、綺麗だった」
とつとつと紡がれる言葉に、目が見開く。もしかしたら、まだ夢見心地なのかもしれない。
「おまえのも、同じように綺麗だ」
じわ、と今度は別の意味で顔が熱くなってくるのを感じた。居た堪れなくなって顔を逸らそうとすれば、この重傷患者のどこにそんな力があるというのか、妨害される。ああもう、諦めろってか。
「……こんなの」
「うん?」
「いつでも見られるでしょ。――生きて、いれば」
最後の付け足しは、馬鹿みたいに震えていた。
そうだな、と今気付いたような声で言うのが妙に胸に迫って、今度こそ私は少し泣いた。




