18:命溢るる逆月の泉-05
人形遣いが焼け焦げた左腕を持ち上げる。煤に紛れて気付いていなかったけれど、その手には黒い荊のような紋様が描かれていた。真っ黒く焦げた手首、もしくは更にその先から肘を伝って二の腕へ、巻き付くように。
「残念なことに、お前の確保は我が君の望むところ。命までは取らずにおいてやろう。だが、言うべき言葉は早く口にした方が身のためだ。お前の四肢がなくなったとて、生きてさえいれば私は一向に構わないからな」
酷薄な言葉が告げられた瞬間、煤塗れの白腕から荊が飛び出した。いくつにも枝分かれし、弾丸じみた勢いで飛んでくるそれへ、咄嗟に矢を向ける。続けて射掛けた三矢は当然命中したけれど、いくつもの内の三つでは到底足りない。あっという間に目の前にまで迫られた。
冷や汗の出る思いで、絡みつこうとする荊から逃げる。走っては跳び、石畳の上を転がり……形振り構ってなんかいられない。そうして逃げながら、持っていた矢を使い果たした手でポケットから石を掴み出す。目的の石は――あった!
深い紅のツェフリ石。魔力を炎に変換する特性を持ち、身近なところではコンロなんかにも使われている。親指の爪程の大きさでも、相応の魔力があれば十二分な規模の炎を発生させることができる優れものだ。それに石の耐え得る限りの魔力を注ぎ、投げる。
「開式、万象悉く燃え落ちよ!」
くるくる宙を舞う石から、俄かに紅蓮の炎が迸る。視界を一面占めるほどの猛火に、黒い荊が焼き払われる――その瞬間を見計らって、炎の下をすり抜けるように飛び込んだ。
両足から突っ込んで石畳の上をスライディングしながら、弓に矢をつがえる。至近距離で燃え盛る炎に炙られて、あちこちが痛んだけれど、とにかく今は無視して弓弦を引いた。
炎の下を潜り抜けた瞬間、人形遣いが目を丸くしている様が目に入る。同じ年くらいの、同じ境遇をもって生まれた相手。
唾と一緒に、躊躇いを飲み下す。どちらかを取るしかないのだ、目的の為には。
引き絞る指を離す。一矢目、続いて二矢。そこまでで限界だった。矢を放って空いた手で石畳に爪を立て、スライディングを急停止。転がりながら立ち上がって、襲い掛かってくる荊から再び逃げる。
「ぐっ! ……育ちが知れるな。獣か、お前は」
逃げながら目を向ければ、呻く人形遣いの左肘と右太腿には深々と矢が突き刺さっていた。なのに、抜こうとする素振りはない。矢を受けた左手はもちろんのこと、右手すらピクリともしない。やっぱりヴィゴさんの陣を抜けた時に痛めて、使えなくなっているものと考えて良さそうだ。
こうなれば、接近して殴り合いでもした方がいいかもしれない。本当に私と同じ境遇に生まれたなら、多分白兵戦は得意じゃないはず。今だって丸腰で、荊の魔術を差し向けるばかりなんだし。
残りの矢は、ついに七本。できれば温存しておきたいし、どうにか隙を作って距離を詰めて――
「性質の悪い獣は、早々に駆除するに限る」
冷たい声が言うや、突如荊が収縮を始めた。何事かと怪しむ間にも、引き戻された荊は人形遣いの下でとある形を作り始める。
「……なるほど、『人形遣い』って訳」
乾いた笑いが漏れた。思えば、王都でも荊から鳥を作っていたっけ。けれど、これは比べ物にならない脅威だ。人型。それも、身の丈二メートルはありそうな。
まずい、と頭の片隅で思う。荊が絡み合った身体には、矢は効きそうにない。こりゃあもう駄目だと逃げ出すにしたって、はいそうですかと行かせてなんてくれないだろう。どっちにしろ、荊人形とその主を無力化しないことには始まらない。
「覚悟のし時ってことね……」
元はと言えば、自分で蒔いた種だ。自分で始末をつけなければ。
どれだけ人形が手強かろうと、あくまでも人形遣いが作り出したものであって、自動人形のような意思を持つ擬似生命とは異なる。狙いは人形遣い、それは変わらない。軽く息を吐いて、弓に矢をつがえる。
人形遣いが「行け!」と指示を飛ばすや、荊人形はのっそりと動き出した。意外に動きがは速くない。荊人形と私と泉との距離はほぼ等間隔、単純に進んで来られるだけなら、そこまで危機的でもない……多分。ただ、その身体を構成する荊を伸ばして攻撃してくるのが厄介だった。
「このっ……危なっ!」
何度も足元をすくわれそうになり、腕を掴まれそうになり、その度に転がり跳び退り逃げる羽目になる。考えなしに動き回って、泉までの進路を明け渡してしまう訳にもいかないし、逃げるのだって一苦労だった。お陰で矢を射る間も、石を取り出す余裕もない。
このままじゃジリ貧だ。何か手を――そうだ、石がなくてもできることはある。
「開式! 私の声は鋭く響き、汝の軛を断つ!」
思い描くのは一陣の風、擦り上げられた刃のような。
びょう、と音を立てて魔力から成る風が迸る。不可視の刃は、過たず空中を乱舞する鞭じみた荊ごと、人形の胴体を横一文字に斬り断った。荊人形の身体は上下に分かれ、どしゃりと石畳の上に転がる。――やっと、視界が広がる。
荊の人形が倒れた、その向こう。真正面に人形遣いは佇んでいた。身体を貫く矢もそのままに、私を見ている。口元には、不敵な笑みを浮かべて。唯一の駒である人形は、今無効化されたというのに。
チリ、と嫌な予感が胸を刺した。けれど、それに構わず矢を引き絞る。狙いは左足。これで完全に動きを封じられ
「私もさして戦いに慣れている口ではないが、お前はより未熟だ」
薄く笑った唇が、言葉を紡ぐ。それを認識すると同時に、ゴッと重く鈍い音が頭の中に響いた。
……え? ちょっと、いや、何で。
身体が宙に浮く。何が起こったのか分からない。右腕が燃えるように熱い、いや痛い。驚愕と激痛と衝撃で停止してしまいそうな思考に鞭打って目を動かすと、上半身だけで起き上がった荊人形が見えた。その片腕は私が斬り飛ばした荊を集めて、ハンマーのように巨大化している。……ああ、そういうこと。あれでぶん殴られたのか、私は。
痛みがひどいのは、矢をつがえていた右手。肘や二の腕の辺り。頭を狙わなかったのは、命はとらないという言葉に、少なくとも今は嘘がないからだろう。
そんなことを考えているうちに、吹っ飛ばされた身体が落下を始めた。左肩から石畳に叩きつけられて、目から火花が飛び出しそうな衝撃と痛みが全身を貫く。止まりきらない勢いでゴロゴロと転がると、その度右腕が殺人的な痛みを訴えた。ヤバイ、有り得ないくらい痛い。痛すぎて感覚もない。折れてるかもしれない。いや絶対折れてるコレ。
やっと身体の回転が止まった頃には、右腕ばかりか全身が痛かった。辛うじて動く左手を石畳について身体を起こすと、髪留めが壊れたのか、俯いた顔にばらばらと乱れた髪が落ちかかってくる。ああ、バベットさんにもらったのじゃなくて、王都で買ったのにしといて良かった……。
「くそったれ、オイ、ライゼル! 返事できるか! ――ってえな、邪魔すんじゃねえよ!」
遠く、ヴィゴさんの声がする。吐く息は震えていて言葉にならなかったので、何とか左手を挙げて見せた。敵の攻撃を受けたのか、返事はなかったけれど、伝わったものと信じよう。
それにしても、痛い。声に出しての詠唱は断念して、頭の中に文言を浮かべる。とりあえず痛み止め、それから治癒……。ゼイゼイ言いながら立ち上がると、荊の人形もまた二本足で立ち上がっていた。胴体から二分割してやったのが、嘘みたいに。
「愚かだな、所詮は荊の集合。胴斬りにしたところで、編み直せば済むだけの話」
のっしのっしと黒い荊の蠢く人型が近付いてくる。無抵抗はまずい。矢を射るのはさすがに無理っぽいから、何か石でも――と思った瞬間に、人形の腕から黒い荊が伸びてきて首へ絡みつく。ぷつぷつと皮膚が棘に破られる感触が、ひどく気持ち悪い。どうにか逃れようと暴れてみれば、ぎりぎりと首が締め上げられて一瞬意識が飛びかけた。
「四肢をもぐまでもなかったか。獣は獣でも、所詮は温室育ち」
霞がかりそうな頭に、嘲笑う声が入り込む。いら、と苛立ち混じりの反発心が鎌首をもたげた。余りにも癇に障って、だからこそ火が点く。
「いい、加減、うるせ、っつの」
呻きながら、ぶるぶる震える手で腰の短剣を抜いた。渾身の力を振り絞って、首に巻き付いた荊に突き刺す。
「――う、わっ!?」
途端、刃の触れたところから荊が溶けだした。支えを失った身体が重力に従って落下し、強かに尻餅をつく。その衝撃でもまた右腕が壮絶に痛んで、軽く吐きそうになった。痛み止めは、どうも余り効いていないっぽい。くそう、習ったばっかだったしな。
解放された喉でありったけの空気を吸い込みつつ、内心必死になって立ち上がろうともがいていると、人形遣いがさも腹立たしげな顔をするのが見えた。
「その剣……エードラムの祝福儀礼か」
そう言えば、作ってくれた鍛冶師さんが教会で退魔とか浄化とかの祝福をもらってきてくれたとか聞いたっけ。かつて北の悪神はエードラム教の退魔師団とキオノエイデの魔術師団によって封印されたと、ローラディンさんに聞いた。となれば、エードラム教の退魔は彼の悪神や、それに連なるものに対しても効果的なのかもしれない。
そう思うと、いくらか心強くなった。
「さっきっから、ブツブツと、うるさいんだけど」
「何だと?」
「私が、いい家族に恵まれて、生まれられたのは、私が何か、した訳じゃない。あんたが、恵まれなかったのも、あんたのせいじゃ、ない。そこに文句言われたって、知るか、っつーの」
右腕が痛いのと、呼吸が落ち着かないのとで、どうにも言葉が長く続かない。それでも、会話は時間稼ぎには有効だ。腕の解けた荊人形が動かずにいるのと、人形遣いが物凄い眼で睨んでくるのをこれ幸いと、更に続ける。
「それから、私が、あんたの王様に、勧誘されたのは、今までそれなりに、努力してきた、結果でしょ。それも、文句言われる、筋合いじゃない」
「――貴様、私に不足があったと言うか」
「そんなことは、知らない。だって、あんたのこと、知らないし。なのに、嫉妬……ていうか、逆恨み? されても、困るんだけど」
きりきりと眉を吊り上げていた人形遣いの白い面差しが、いよいよもって紅潮し始める。
「黙れ! やっと安らかな居場所を得られた――信頼される場を得られたと、そう思ったのに二度も奪われる、その怒りと憎しみが、貴様に分かるか!」
「だから、分かる訳、ないでしょ。そっちの事情なんて、私は、ろくに知らないんだから」
答えながら、おかしいな、と思う。「二度も」? どういうことだ。
一度は、今だろう。北の悪神が私――私達を勧誘していること。そこで自分がお払い箱になる可能性を危惧している。……なら、もう一度は?
「もしかして、家族は、最初、慈しんでくれたの?」
ぽろりと口に出すと、人形遣いは息を呑んで沈黙した。……図星、か。
考えてみれば、そうじゃない方がおかしい。ルラーキ侯爵は、招かれ人は幸運に恵まれやすい傾向にあると言っていた。先例とは国一番の大貴族と田舎の狩人一家という差こそあれ、少なくとも私は自分で自分を幸運だと感じる。良い家族に恵まれ、良い知人に恵まれ、ここまでやってきた。
絶対に、とは言えないのかもしれないけれど、少なくとも大体の招かれ人はそうやって生まれつくものなのだろう。例に漏れず、人形遣いもそうだった。――最初は。それを、誰かが壊したのだ。
私達が招かれるのは、この世界が望むが故だという。その望みから成るものに、横から手を出すことができるとしたら。
「招かれ人は、幸運に恵まれやすい。あなたも、優しい、温かい家族の下に生まれた。なのに、それが突然壊れた? ――違うでしょう、壊された」
そして、世界の望み、世界の恩寵を破棄破壊できるほど力があり、それを実行しようとする冒涜的なものなんて、そうそう転がっている訳がない。
「あなたの家族を壊したのは、」
「聞いていれば、戯れ言を――あの方は突如狂った家族から私を救って下さった! あの方が力を下さらなければ、私は殺されていた! あの方が私の全てだ!」
髪を振り乱すようにして、人形遣いは叫ぶ。……所詮は聞きかじりの推測、何が真実かなんて分かりはしないけれど。
「あなたはあなたを救った人を選んだの。それとも、選ぶしかなかったの」
「うるさい、貴様に何が分かる!」
人形遣いが金切声を上げると、俄かに荊人形が動き出した。片腕が無い分、よたよたしてはいたけれど、今までにない大股の早足で近付いてくる。やばい、まだ立ててないのに。どうにか身体を前のめりにさせて、片膝を突くところまではきた。後ちょっと、ほんのちょっとなんだよ!
なのに、人形はもう間近に迫っていた。目線を上げれば、荊が収束し、肥大化した足が持ち上げられる。押し潰す気か。短剣でどこまで対抗できるだろう。矢継ぎ早に思考が回転し、痛みだけではない冷や汗がだらだらと流れる。陽光を遮って、頭の上から影が落ちかかる。やばい、時間がない。手段もない。それでも、抵抗はしなくては。
――ピィイイ……
その時、不意に鳥の声がした。鋭い鳴き声。はっとして、顔ごと逸らして天を仰ぐ。
走る銀の光。駆ける銀の翼。遅れて、強い風が吹き抜けた。
「新手か!」
今にも振り下ろされようとしていた荊人形の足を、翼の体当たりで切断するというとんでもない芸当をやってのけたアクィラは、一声鳴いて上空で旋回する。ただし、その足――鉤爪には、見慣れないものが掴まれており……いや、見慣れないものっていうか、鎧がないだけで見覚えはあるっていうか、要するにアレ、エレメイさんじゃん!?
驚きはそれで留まることなく、あろうことか、アクィラは空中でエレメイさんを捨ると荊人形へ更なる攻撃に出た。重い音を立てて、私のすぐ脇にエレメイさんが落ちてくる。
少しでも身体を軽くする為に脱いだのか、鎧ではなく軍服のような装束に身を包んだエレメイさんは辛うじて着地はしたものの、崩れ落ちるようにして膝を突いた。何か不調でもあるのだろうか、と首を捻り、深々とした胸の傷に気が付いた。
まっすぐに胸の中心を貫く傷。紛れもなく、核を破壊しようとしたものだろう。
「え、エレメイさん、大丈夫ですか」
声をかけると、苦笑を浮かべて赤い眼が私を見返す。そうやって笑えるということは、そこまで大事ではない……のだろうか?
「その言葉は、そっくり君に返そう。ひどい姿だ」
「いやでも、その胸の傷、核を狙われたんでしょう?」
「何、死んだと思わせて私の存在から目を逸らさせる策の内だ。粛正に来た者に敢えて刺させ、裏で急所を外した。自慢ではないが、奴より場数は踏んでいるのでな。罅は入ったが、破壊されてはいない」
エレメイさんは平然と言う。策って言ったって、下手をすれば本当に破壊されていただろうに……どれだけ豪胆なんだ。もういっそ呆れてしまう。
「はあ、それは何より――で、どうして、ここに?」
エレメイさんは淡い笑みを消し、真剣な表情を浮かべる。
「奴が揺らぐ時を待っていた」
「待っていた?」
鸚鵡返しに問い返すと、首肯。
「そうだ。君は手札が足りない、私は自由が足りない。私は君の手札になれる、君は私に自由をもたらせる。――私に科せられた契約を、君とのものに書き換えて欲しい。今の私には行動を阻害する指令が下されているが、君と契約を結び直せば、それも解消されるはずだ」
言われた瞬間、唖然とした。いや、そんなこといわれたって、そんなこと……
「そんな、無理です、こんな状況で、私一人で」
「いいや、できる。私は元々奴の縛りが薄い。そして何より、君に真名を捧げる覚悟がある」
真名って何だ。その疑問が顔に出たのだろう、エレメイさんは「説明する時間も惜しいのだが」と早口になって続けた。
「ラビヌの民は皆、公に名乗る名の他に秘された名を持つ。当人以外に隠し名を知るのは名付け親の他、主君や伴侶など、ほんのわずかだ。隠し名を含めた名の全て――真の名を教えることは、その相手に己の魂の全てを明け渡し、捧げることになるからだ」
そこまで言われて、エレメイさんの言わんとしていることが分かった。きっと、私の顔は青ざめていただろう。緩く首を横に振れば、「頼む」と切実な声音に懇願される。
「君にしか成せず、君にしか頼めないことなのだ。この機会を逃せば、おそらく私は術者によって完全に支配され、ただ殺し滅ぼすだけの人形に貶められる。今しかないのだ。私は奴に真名を掴まれてはいない。君がそれを知れば、私は君のものになる。私は君の剣にも盾にもなろう、望むとおりに働こう」
故に、と懺悔するような声で言って、エレメイさんは深々と頭を下げた。
「――重ねて頼む、どうか、私を奴らと戦わせてくれ」
それが叶わないのならば、これ以上騎士の誇りを汚す前に死なせてくれ。
縋る声は、かすかに震えていた。それを、ただ悲しく思う。どれだけ苦しかったか、辛かったか。祖国を滅ぼしたものの手先にされて、侵略の片棒を担がされて。悲惨なんて言葉じゃ、到底足りないだろう。我が身大事な私でさえ、同情を覚える。
ああ、そうとも。ここまで言われてしまったら、是非もない。ここで断るなんて非道は、いくら私でもできない。それに実際のところ、現状を打破するに最も効率的な選択肢は、エレメイさんの提案以外の何物でもないのだから。
「分かりました。教えてください、あなたの名前を」




