18:命溢るる逆月の泉-03
木立の合間にわだかまる影が蠢く。ずるりと粘性の音を思い起こさせる所作で起き上がるそれは、たちまち一つの人型を作った。ただし、その輪郭はあくまでもあやふやだ。
顔は目深なフードで目元はおろか口元さえ窺えず、手足など黒い長衣に覆い尽くされて尚のこと不鮮明。思いの外小柄に見える体格も、どこまで内実を反映したものか分からない。目測で百七十前後。小柄な男性にも、少し背の高い女性にも見える。……もしかしたら、子供という可能性だって。
何にしても、あのローブが邪魔過ぎる。中身が何一つ推し量れない。どうせただ衣服でもないんだろうけど――どこぞの占い師殿も、似たような格好をしていたっけか。あれだ、人界から外れたひとのトレンドが黒ローブだとでもいうのか。
陰から現れた黒衣の人影――人形遣いは、つと右手を挙げる。その動作でさえ、指先一ミリたりとて見せないのだから周到なものだ。
「――!」
次の瞬間、黒い荊の絡んだ杭が無数に音を立てて突き立った。細く長い杭は、槍にも似ている。間一髪で後ろに跳んだヴィゴさんが被害を被ることはなかったけれど、一歩でも遅ければ串刺しになっていたに違いない。草地は大きく抉れ、砂埃が立っている。
『エラスト、お前の願いを容れた対価を忘れたか』
人形遣いは木陰に佇んだまま、威圧的な声音で言う。以前から変わることのない耳障りな、女とも男ともつかない合成音声。
この人形遣いは、何故ここまでして「自分」を隠すのだろう。知られて不味いことがある? そりゃそうだ、なければ隠さない。あるから隠すんだろう。ならば、それは何だ。素性がばれる? 北の果てから来たのに? ……ああもう、推測すら立てきれない。
「いいえ、決して忘れてなど。ですが、」
鎧騎士は私達もといヴィゴさんに対する攻撃的な態度が嘘のような、恭しい態度で主へ向かって膝を折ってみせた。俯くように伏せられた顔は、まるで殊勝だ。
『言い訳を聞くつもりはない。早く事を成せ。我が君はそれをお望みだ』
は、とどこまでも従順そのものの姿で応じるや、鎧騎士は淀みのない動作で立ち上がる。そして再びヴィゴさんに向かっていくかと思いきや、唐突に剣を逆手に持ち替えた。まるで自分に刃を向けるかのように。――何、何する気?
怪訝そうにしたのはヴィゴさんも私も同じで、だからこそ、その次に起こったことを見守ることしかできなかった。
ざん、と鎧ごと人形の素体を貫く重い音。黒い剣が鈍色の鎧の鳩尾を、深々と刺し貫いている。
「……極北の王よ、降臨あれ」
押し殺した声が呟くのが聞こえた瞬間、思わず軽い目眩を覚えた。
* * *
それは、戦いの勝敗を分ける泉に戦火が忍び寄るより、十数分ばかり前のことだった。
騎士と、死人と、鳥とがそれぞれに警戒にあたっていた時、静かにそれは訪れた。金属でできたゼンマイ仕掛けの馬を駆り、兜の中から紫の眼光を憤怒に揺らめかせてやってきた。
「エレメイ、貴様裏切ったか」
鈍色の甲冑の騎士は、開口一番同胞である黒銀の甲冑の騎士を詰る。
「裏切るとは人聞きが悪いな。我らに下される命のうち、最も優先されるべきは王のもの。王はライゼル・ハントをご所望だ。だが、我らの直属の指揮者は彼女を害そうとしている。王の命を果たすのならば、彼女を守らねばなるまい」
平然と答える黒銀の騎士に、鈍色の騎士はいかにも憎々しげな舌打ちを零した。
かねてから黒銀の騎士が主に不忠を重ねていることは、鈍色の騎士もよく知るところであった。それを忌々しく思ったことも数知れない。その悪癖が、この土壇場で発揮されるとは。
下らぬ、と嫌悪と苛立ちの滲む声が吐き捨てる。
「下らぬ戯れ言だ。貴様には失望した」
「下らぬ? 下らぬと言えば、お前の方こそだ。エラスト――いや、ゾルターン・シュクヴォル。ラビヌ騎士団の一翼を担ったお前が、何故怨敵に降る? 奴らは我らの祖国を滅ぼした。その魔手が再び伸ばされようとしているのだぞ」
「私も、貴様も死人だ。死人が何を変えられる。喪われたものは戻らず、時は返らぬ。――故に、私は私の目的によって動く。その動機を、貴様に教えるつもりはない。バルナバーシュ・シルハヴィー、かつての我が同胞にして長よ。貴様と私の道は、既に分かたれた」
切って捨てるにも似た声で言い、鈍色の騎士は馬上で剣を抜く。その途端、辺りに陽炎のような人影が現れ、瞬く間に相似形の鎧騎士の姿を成した。
二人と一羽をぐるりと囲むように布陣する騎士の数は、ゆうに二桁に上る。全ての騎士が揃いの銀の甲冑に身を包んでおり、一様に兜で頭部を覆い隠していたが、その目元は暗い。馬上の騎士が兜の合間から紫の眼光を覗かせていているのに対し、一分の光も零れ出してはいなかった。
「おや、敵の増援はエルフ王が防いでいるのではなかったのかね」
「ゾルターンは門だ。奴と人形遣いの間には、常に道が通じている。奴は人形遣いの派兵の先触れでもあるのだ。いかなエルフ王とて、ただの転送を防ぐようには阻めんだろう」
「なるほど、それは確かに厄介極まりない」
『……呑気に喋っている暇があるのか。今はこの数は厄介だぞ』
「ルカーシュ、君の手腕で無力化はできないのか?」
『不可能とは言わないが、難しい。どれもこれも支配の度合いが深い。自由意志もなく、ただ与えられた命令を遂行するだけの人形に等しい状態だ。付け入る隙がない』
「やれやれ、それを私一人で全て相手しろと言うのかね」
「油断はならんぞ。口惜しいことこの上ないが、彼らは皆全て元はラビヌ騎士団でも指折りの猛者だ。十把一絡げの屍や人形とは訳が違う。甘く見ては命取りになるぞ」
「何、私とてアシメニオス指折りの騎士だ。そう容易に屈する気はないさ」
二人と一羽が忙しく言葉をやり取りする間にも、居並ぶ騎士はじりじりと包囲を狭めている。銀の翼を広げた大鷲が威嚇に鳴こうと、二人の騎士が剣を抜こうと、微塵も歩みを緩める素振りを見せない。
そこへ、馬上からの声が止めを刺すように降る。
「エレメイ、我が主はこの場の戦いにおける指揮権を私に移譲された。貴様は私に従う義務がある」
「それはどうかな。例え指揮系統に変更があったとしても、最優先事項は変わるまい」
白々しく切り返す黒銀の騎士を、馬上の騎士は眼光を強めて見返す。強情な、と短く零された言葉は、半ば吐き捨てるようですらあった。ほんの数秒の短い沈黙を挟むと、鈍色の騎士は忌々しげに続ける。
「貴様と議論するも馬鹿馬鹿しい。主は、一時彼の娘を捨て置くと、たった今定められた。そうとなれば、敵に加担する道理もあるまい」
「それがお前の騙りでないという証があるか?」
「証をもらわねば動けぬのか? バルナバーシュ・シルハヴィー。己一人では判断することもできぬと」
「……お前の言葉が騙りであったと判明すれば、即座に私は役目を果たすべく動くぞ」
「勝手にするがいい」
鈍色の騎士がぞんざいに言うと、黒銀の騎士は肩を並べる一人と一羽へちらりと視線を向ける。
「残念ながら、道連れはここまでのようだ」
「ああ、全く残念だ」
『賢い立ち回りを期待する』
次々に投げられる真意を隠しもしない言葉に苦笑を浮かべながら、黒銀の騎士は同胞たる馬上の騎士の許へと足を進める。包囲網をすり抜けてその傍らに立つ頃には、残された一人と一羽は背中合わせに敵と向き合い、完全なる臨戦態勢に入りつつあった。
その光景を横目に、黒銀の騎士は今は己の指揮者となった同胞を見上げる。
「最優先指令に反することのない限り、私はお前に従おう。――これで満足か、ゾルターン・シュクヴォル殿?」
皮肉げな言葉にも、馬上の騎士はさして感情を動かされた風がない。それどころか、次に発された声はどこか昂揚しているようにさえ聞こえた。
「充分だとも、離反者エレメイ。今や私の言葉は、あの方の言葉に等しい。故に――『動くな』」
「な、」
見下ろす騎士の、紫の眼光がゆらりと揺れる。見下ろされる騎士の表情が凍り付く。異変に気付いた一人と一羽が、目を見開く。
三対の視線を集めて、馬上の騎士は手にした剣を持ち上げた。刃が陽光を受けて煌めく、その様を前にしても、黒銀の騎士の身体は微動だにしない。まるで今はここにいない契約主から直接命令を受けているに等しく、己のものであるはずの身体を動かすことができなかった。
「なるほど、お前は確かに私を従える力を得ているようだ。だが、疑り深く他を信用しないあれが、素直にお前に指揮権を譲り渡す訳がない。代償は何だ。お前は何を差し出した」
人ならぬ身体であるが故、身体を動かすことが許されなくとも声を発することはできる。どこか憐れむような色さえ含ませて見上げてくる同胞を見下ろして、馬上の騎士は冷たく言い放った。
「貴様には必要のない話だ」
その一言を最期に、剣が突き下ろされる。
森に木霊するは、鋼を貫き、断つ鈍い音。刃は過たず黒銀の鎧の胸を貫き、巨躯は全ての力を失ったかのように地に崩れ落ちた。その姿に一瞥すらくれることなく、馬上の騎士は剣を振るって号令を発する。
「剣を抜け! 奴らを逃がすな、始末しろ!」
――それを皮切りに、戦いが始まった。
一斉に殺到する銀の騎士の剣を受け、時に払って凌ぎつつ、人間の騎士は声を張る。
「ルカーシュ、こちらはいい! 司令塔の足を潰せ!」
『承知!』
空へと舞い上がった銀の大鷲は、鋭く旋回すると勢いよく馬上の騎士へと急降下をを開始した。騎士は同胞を貫いた剣を握り直して斬り伏せようとするが、鳥は流れるように翼を傾けて振りかぶられた刃の側面をすり抜ける。
鳥はそのまま地を這うような低空を滑空すると、騎士の騎乗する馬の後ろ脚を掠めて再び空へと舞い上がった。その間際に、低く唱える声が響く。
『兵装展開・翼は剣に』
翼に掠められた馬の脚に一筋の線が走ったかと思うと、その線を境にして、ずるりと上下に分かたれる。内部機構を露出させた滑らかな断面を晒し、断ち切られた脚が倒れるのと、馬の体躯そのものが均衡を崩して倒れるのは、ほとんど同時だった。
核が破壊されない限り、人形が行動不能に陥ることはない。しかし、四肢のうち一つを奪われては、当初の性能は望むべくもない。横倒しになる馬から飛び降り、地に降り立つ鈍色の騎士は、眼光を強めて鳥を睨み上げた。しかし、鳥は既に剣の届く距離から遠ざかってしまっている。腹立たしげに剣を鞘へ納めると、人間の騎士を取り囲んで混戦の様相を呈している騎士たちに向かって怒鳴りつけた。
「賢しげな邪魔を……! 人形共、その身に代えても双方必ず仕留めろ! 泉へ到達させることは罷りならん!」
怒号に対する返事が上がることはなかったが、鈍色の騎士もまた既に興味を失ったかのように配下を顧みることはなかった。上空の鷲を警戒する素振りを見せつつも、素早く地に倒れ伏したまま微動だにしない黒銀の騎士へと歩み寄り、膝を折ってその手に携えられたままの剣を取り上げる。
「貴様には過ぎたるものだ」
そう残すや、後は迷う素振りも見せずに走り出した。木立の合間に飛び込み、茂みを潜るようにして緑の中へ消えていく。去りゆく騎士の背を捉えた大鷲は首を巡らせ、即座に追い駆けようとしたが、鋭い声がそれを止めた。
『待て、アクィラ! ラファエル、この場は預けても問題ないか!』
「問題ない、行け! 可能な限り早く片付けて追う!」
四方八方から斬りかかる銀色の騎士を、時に脚で蹴り倒し、時に剣で薙ぎ払いながら、人間の騎士は声を張る。亡国の騎士団において指折りと謳われた銀色の騎士たちの剣腕に誤りはないのか、人間の騎士の肉体には大きな傷こそないものの、細かな手傷があちこちに窺えた。その姿を見る限りでは、問いに対する答えが虚勢であるのか否かは分からない。
それでも大鷲は二度問い掛けることなく、応えるように一声鳴くと飛翔を始める。――かに見えたが、
『……? この反応は――』
翼が翻る。その嘴が向いた先は、空や木立の間ではなく、地上だった。




