17:星降りの射手-01
『ライゼル、聞こえていますか?』
今にも崩れ落ちそうな塔の中。とりあえずヤバい逃げよう、と後のことはともかく吹き抜けから飛び降りようとしていた、まさにその時。
「アルサアル王……?」
不意に聞こえてきたのは、遠く離れた里の最奥に待つはずの王の声だった。
はっとして辺りを見回してみるも、当然声の主の姿はない。代わりに、ありとあらゆるものが静止していた。緩んで瓦解していく柱の石組も、今にも底が抜けそうな床の石畳も。がらがらと聴覚を圧していた崩壊の音すらもがすっかり止んで、ただ静かに響く声だけが聞こえてくる。
『ええ、わたくしです。――時間がありません、よくお聞きなさい。今し方水鏡の塔の結界を破ったものは、大変に恐ろしい武器です。北の悪神が愛用した、呪いの魔剣。魂を喰らい、死を撒き散らす。只人に破れるものではありません。急ぎ、わたくしと近衛の兵がそちらへ向かいます。あなたはお逃げなさい、兄弟子の騎士にそう伝えるのです。これでは、じきにわたくしの結界も破られてしまうことでしょう』
とんでもない情報の投下に、自分の目が見開くのが分かる。本当、この戦いはどこまで私の想像を超えていくんだ。そもそもが日本に比べれば、まるで物語のようにファンタジーな世界だけれども。それでも神が使っていた魔剣とか、何というかもう度を越している。
……けれど、ふと視界の端にちらつく桃色の存在で、私は気付いてしまったのである。
左手に嵌めたバングル――その飾りの石が、結界を破った敵の別働隊の位置を指し示していることに。考えてみれば、そりゃあそうだと思う。足が速くて、戦闘力も申し分なし。咄嗟に派遣されるとしたら、まず筆頭に挙げられたっておかしくない。
あの人は、今この瞬間にもこの森で最も危険な場所で戦っている。
「お言葉ですが、王」
私がその場に駆けつけて、何か役に立つとは思えない。……が、ただし。ここは私の能力が最も向上する緑溢れる森の中で、尚且つ必中の弓までもが貸し与えられている。「その場」でなく、距離を取って身を隠した上でなら、十分に援護することができるはずだ。
「あなた方が到着するまでには時間がかかる。ならば、ここは少しでも敵の足止めを試みるべきでは」
『ですが、』
「一つ、私に考えがあります。敵を射るに相応しい位置を御存知ではありませんか。死霊に対抗すべく用意してきたものがありますから、それと必中の弓があれば、多少の足止めはできるはずです」
そう言い募ると、王の声が止んだ。短い沈黙の後に『ライゼル』と囁くように名前が呼ばれる。
『命の保障はありません。誰も、保障することはできません。それでも……行くと言うのですか』
「はい。教えてもらえないなら、自分で隠れ場所を探して実行するだけです」
『……分かりました、あなたの決意を尊重しましょう。すぐに相応しい場所へ転送します。くれぐれも気を付けるのですよ』
「心得ています。それから、私の偏屈な兄弟子にも連絡を入れておいて頂けますか?」
『構いませんよ。何と?』
「私は私の目的の為に動くので、あなたもあなたの目的の為に動けばいい、とでも」
『そのまま伝えましょう。――ライゼル、あなたにどうか幸運のあらんことを』
声が途切れたかと思うと、崩壊の音が再開する。けれど、足元が崩れていくことを感じるよりも先に、転送魔術独特の浮遊感に包まれ、視界は漂白された。
真っ白い空白は一分、いや数十秒、もしかしたらほんの数秒。
まっさらだった視野に色が戻り、浮遊感が去ると、私はまた違う塔の中にいた。さっきまで居た崩壊しかけのものに比べれば、比べ物にならない程に広い部屋。円い部屋はきちんと一面が壁で囲われていて、等間隔に四角い窓が開いている。
部屋の中には小さな机が一つあるだけで、ひどく殺風景な造りだ。もちろん床に敷物なんかある訳もなく、飾りの類も一切ない。何はともあれ、状況を確認しなければ。そう思っていると、机の上に一枚の羊皮紙が出現した。驚いて近寄ってみれば、地図であると分かる。泉の周辺を描いたもののようだ。
おそらくはアルサアル王が、わざわざ転送してくれたものなのだろう。中央に泉を据えた絵地図の中には、私がさっき居たところ、今居るところに加えて敵と味方の配置に関する記述やら、細々とした情報まで書き添えてある。
どうやらこの場所は結界の塔と泉の概ね中間地点にあり、有事の際の指揮所というか防衛機構となすべく建造されたものらしい。等間隔に空いている窓は、要するに銃眼だ。似たようなものは泉の周囲に他に三つあり、この塔はその中でも結界を破ろうとしている敵に最も近い位置にある。確かに、敵を狙い撃つに相応しい場所だった。
「問題は、射程か」
敵の動きを捉えること自体は、それほど難しくない。森の中とあって、いつもより探り易くなっているし、そもそも泉を守る結界自体が半径四キロあるかないかの規模だ。一方向に集中して探れば、十分にその陣容は把握できる。
さりとて、こちらの武器はライフルだの何だのとは訳が違う弓であって、圧倒的に射程が足りない。ケタが違う。それで中てようとするからには、相応の魔術補助が必要だ。とは言え、今回使うのはいつもの弓ではなく、何と言っても「必中の弓」。取るべき手段もまた、自ずと大きく変わってくる。
「……まずは、性能確認といきますか」
探査魔術の運用状況は良好。窓に近付けば、途端に傍らに矢束が出現する。ここまで至れり尽くせりとは、なんとまあ有難いやら申し訳ないやら。でもまあ、これで武装の憂いもなし、と。
矢束から一本引き抜いて、白い弓につがえる。凝らした目は遥か遠い敵にピントを合わせ――
「うわあ、ほんとに本物のゾンビじゃん……」
血塗れ臓物塗れの死体を目の当たりにする羽目になって、危うく反射的に吐きかけた。グロテスクとスプラッタのオンパレード。驚くほど猟奇的。
げんなりしながら数えてみれば、死体の数はざっと百余り。結界の破壊の為に消費してくれたお陰か、驚くほど多い訳ではないことに内心で安堵する。ただし、先頭ではまたあの黒い鎧の騎士が指揮を執っているし、その手にはこれまで何度か目にしてきた、禍々しい赤色で刻印が施された剣が握られている。あれが北の悪神の剣なのだろうけれど、そうと知ってしまった分より恐ろしく見えてならなかった。
そんなものを相手に、あの人は奮闘していた。一緒に派遣されたのは他にエルフの人が数名だけで、彼らが死体の処理をしている間を縫って、黒騎士と槍を交えている。幸い動きに大きな違和感はないから、ひどい怪我なんかは負っていないのだろうけれど。その姿は街で出会ったら卒倒間違いなしに全身真っ赤で、頼むから返り血だけであってくれと祈る他なかった。
吐きたいため息を堪え、弓を引き絞る。狙うは最大の脅威、それ以外にない。
「開式――私の声は道を引き、汝を遠きへ導く」
静かに唱え、弓を放つ。びょう、と空を裂いて突き進む矢は、大きく弧を描くようにして明後日の方向へ飛んでいく。敢えて大きく狙いを逸らして射た、それですら必中になさしめるべく修正してくるのかどうか……見物だ。
矢の軌道を意識の片隅で追いながら、イジドールさんから貰い受けてきた石の包みを床に並べて開く。一番効いてくれそうなのは、やっぱり祓魔のカタルテ石かしらん。ヴルダ石、孔雀石は浄化、緑陽石と黒瑪瑙も魔除けとして強い効能を持ってはいるけれど、死霊に対処するとなれば、さすがに一歩譲ると本で読んだ覚えがある。
「やっぱ、最初に最大のをぶつけるべきでしょ」
ひとまず石を全部取りだし、空いた袋にカタルテ石だけを詰め直す。念の為、浄化にも有効な太陽のルーンを刻み込んでおいた。
貴重なこの石は、掌大のものが五つきり。大盤振る舞いは出来ないのだから、一つ一つを上手く使わないといけない。さて、他には何か入れた方がいいかな……。
『カタルテ石は緑陽石と相性がいい。共に使えば、より魔祓いの力が強まるはずだ。後は、効能を倍増させるドブレ石があれば、添えるといいだろう』
「なるほど――って、ええ!?」
何の前触れもなしに聞こえてきた声につい普通に頷きかけ、我に返ってギョッとした。
よく知ったその声は、他でもない――
「せ、先生?」
『君はよくよく無謀だな』
呆れた声を発しながら、ジャケットのポケットから飛び出してくる銀の鳥。
ま、紛れ込んでいたのか……! 確かに、ポケットには戦闘を想定して石をあれやこれや突っ込んではおいたけれども!
「いつから鳥を?」
『夜更けのことだ、急にエルフを介して君の守護者に叩き起こされた。鳥を逆探知したのだろう。……それで、君を戦闘に参加させる訳にはいかないから、何かあった時は説得をしてくれと頼まれた。とは言え、この鳥では物理的な干渉はできないに等しい。ひとまずは黙って動向を見守っていた――もとい、聞き耳を立てるに留めたという訳だ。ラファエルが首を突っ込んでこなければ、さすがに声を上げたが』
そう言えば、先生とラファエルさんは知り合いなんだったっけ。だったら、そりゃあ任せておくか。
『君がまた上手くラファエルを撒いてしまったので、仕方がなしに口を挟むことにしたという訳だ。――問答は以上で結構かね?』
「はあ、ええ、はい」
何とも言えず、苦笑しながら相槌を打つ。
そんな会話をしている間に、遠く離れた戦場でどよめきが起こるのを感じた。大きく弧を描かせた矢は、過たず標的を横合いから襲ったらしい。寸前で気付いた黒騎士に斬り捨てられてしまったけれど、空から攻撃してくる第三者の存在について意識させることはできたはず。最初の仕込みとしては上々だ。
それに、弓の性能も把握できた。まさかほぼ直角に曲がるほどの軌道修正を演じてまで中ててくれるとは、予想を上回って余りある凄まじさだ。これさえあれば、どんな素人でも百発百中の名手になれる。さすがはエルフ王秘蔵の一張、全くもって恐れ入る。
因みに、さっきの矢は私が魔術を用いて放ったものであるからして、当然私の魔力を纏っている。識別手段を持っていれば、容易に射手を判別することができる訳であって――ちらりと意識を向けてみれば、案の定ヴィゴさんが軽く般若のような顔をしていた。……おお、怖い。気付かなかったことにしておこう。今、忙しいし。それどころじゃないし。
「えーと、ドレブ石、あったかな……」
気を取り直して、ポケットの中の石をざらっと床の上に広げる。赤青紫黒白緑、と様々な色合いが並ぶ中で、銀の鳥が舞い降りて一つの欠片をくわえ上げる。半透明な白い石――ドレブ石だった。
『敵の数はどれほどかね?』
「百ちょっとくらいです。多分、今この時も減ってるでしょうから、実際にはもっと減ってるかもしれません」
『ならば、この欠片とカタルテ石、緑陽石を一つずつで粗方足りるだろう』
了解です、と応じながら革袋に残りの石を詰め、口を固く縛る。次いで、矢束から特に頑丈そうなものを選んで二本引き抜く。片一方に革袋を括りつけ、万が一にも落ちることのないよう雁字搦めに。もう一本は、敢えて小細工はせずに素のままで。
二本の矢を手に携え、再び窓辺に立つ。弓を水平に倒し、つがえる矢は二本。
「開式――私の声は奔り、私の声が砕く」
魔力を籠めながら、窓枠に足をかけて踏ん張りつつ、二本いっぺんに弦にかけて引く。どうにもやりにくくて仕方がないけれど、この際文句は言っていられない。二本同時に射るなんて今までやったことはないし、おまけにこの二本は重さまで違う。精度は二の次どころか、求めるのがお門違いなやり方だ。
どう放ってもこちらの意図通りに中ててくれる、文字通りの必中の弓がなければ、到底できなかった荒業。
「砕けて満ちよ、救済の光雨!」
唱え終わった瞬間、限界まで引ききった指を離した。
蓄えた魔力を彗星の尾のように閃かせて、二本の矢は滑空していく。一つはまっすぐに、一つは緩やかな弧を描いて。――目論み通りに。
『手応えはあるかね?』
「もちろん」
頭の上に降り立つ鳥の声に答えながら、弓を下ろす。見つめるのは飛翔する矢でも、ましてや血みどろの戦場でもない。それらへ視線を向けていることに、今はさほどの意味もない。
注視していなければならないのは、あくまでもその「上」。
まだ早い朝の空を、黒い二点となった矢は音もなく翔ける。数秒の後、先に戦場の上空へ差し掛かったのは、石を担う一矢。地上では、いち早くその気配に感づいた黒騎士が顔を上げたものの、それが落下してこない――自分を狙っていないことに怪訝そうな表情を浮かべた。
にやりと、つい口元が歪む。そうとも、私の狙いはあなたではない。
そうして笑った次の瞬間、戦場の上空で光が弾けた。
一拍遅れる形で別の方向から戦場へと飛来した矢が、先行した矢に衝突したのだ。正確には、矢に括り付けた石の袋に命中した。矢の直撃を受けた石は粉々に砕け、きらきらと光の尾を引きながら地上へと降っていく。流れる星のように、晴天にちらつく雨のように。
もう分かるだろう、黒銀の騎士よ。私が射た矢の、その意図が。
『――なるほど、これは面白い』
探査の魔術越しに、黒騎士が空を見上げて目を見開き、そしてほのかに笑う気配が伝わってくる。
『総員、これより行動の自由を許す! 束の間の安息が欲しくば留まれ、我らが怨敵の下僕が恐ろしくば退け!』
朗々とした低音が、高く声を張る。それを聞きながら、私はにやりと笑った。
ご名答。私の狙いは、黒騎士一人ではない。
「あなた達、だ」
一本の矢で複数の標的を捉えることは難しいように、どんなに強い力を持っていても一つの石では多数の標的を包囲するのは難しい。ならば、どうするか。
――答えは単純だ。数を増やせばいい。
無数に砕けた石の欠片は、籠めた術の誘導に従って効力の弱まらない最大限広い範囲に飛び散る。石の放つ光の届く領域全てが射程だ。そこに一歩でも踏み込んでいれば、術が届く。死霊は祓われる。
森に降る光の雨が、一際強く輝く。その光景を見詰めながら、私は新しい矢を弓につがえた。




