16:水鏡の塔の崩壊-02
折角貴重な戦力が降って沸いてくれたので、ここは手っ取り早く窓でも破ってもらおうかしらん……などと考えたのも一瞬のこと。そもそも、事ここに至って監視の目を盗む必要もないのだと気が付いた。
アシメニオスの――それも王国随一と謳われる騎士が既にここにいて、アルサアル王を訪ねようとしている。その案件は、さすがに王やその側近でなければ手に余る案件だろう。下手に逃げ隠れしない方が、かえって上手く進むかもしれない。
案内は宜しく頼む、と華麗に面倒な役目を投げつけてくれたラファエルさんを背後につけて、大人しく扉から部屋を出ていくことにした。窓と違って、扉は素直に動いてくれる。大きく開け放ったその向こうには、やはりというべきか、家令さんが立っていた。私の目覚めに気付いて控えていたのか、不穏な魔力の動きを察して駆け付けたのかは分からないけれど、都合がいいことに変わりはない。
「ライゼル様、そちらの御仁は」
整った面差しにあるかなきかの警戒を滲ませて、部屋から出てきた私とラファエルさんを見比べながら家令さんが口を開く。私は敢えて殊更に平然とした表情を作ってみせ、それに答えた。
「別に身元は怪しい人じゃありませんよ。少し縁のある――まあ、兄弟子と言って言えなくもない方です。建前として、私の援護にいらっしゃいました」
「建前、とは?」
怪訝そうにする家令さんへ、真面目くさった表情を作って肩をすくめてみせた。
「お名前をラファエル・デュランベルジェさんといいます。アシメニオス王国に仕える騎士の一人……とまで言えば、その意図は察して頂けるのでは」
名前に反応したか、それとも肩書か。私の言葉を聞くや、家令さんの表情がさっと強張る。それに構わず、畳み掛けるように続けた。
「最早、状況は王国の騎士にとっても看過できないものと判断されたようです。私はラファエルさんに同行して、アルサアル王への謁見に向かわなければなりません。よもや、それまで阻みはされませんよね?」
いきなり騎士を大挙送り込んだりなぞせずに、代表者一名で留めているところで誠意を感じて頂きたいところですが――などと、我ながら白々しく聞こえなくもないことを嘯いてみせると、家令さんは観念したように目を伏せた。
「承知致しました、王には火急の用件とお伝え致します。……こうなっては、私から申すことは何もございません。どうぞ、思うようになさいませ」
慇懃に頭を下げ、家令さんが部屋の前の廊下、その壁際へと下がる。まるで道を開けるかのように。
そんな姿を見て、どこか溜飲が下がるに似た心持ちになるのは、どっかの誰かさんと共謀して一服盛ってくれたことへの仕返しじみた気分がなくもないからだろう。割と根に持つタイプなんだ、私は。
ただ、主不在の屋敷に厄介な問題を持ち込んでいる自覚もまた、全くないではない。
「お騒がせしてすみません、お咎めはどうぞ後ほどに。――では、失礼します」
だから、その言葉も一応は心からの本音のつもりではあった。
かと言って、それで歩む足が鈍るかどうかはまた別の話だ。言うだけ言って、顔を俯けたままの家令さんに会釈をし、暗い廊下を歩き出す。まだ騒ぎの混乱から抜けきっていないのか、廊下の灯りはさほど増えたようにも思えなかった。
その暗がりの中を、私は先頭に立って靴音高く進んだ。玄関までの道のりに、今更迷うこともない。固く閉ざされた扉も、閂を外してしまいさえすれば容易に開く。そうして、私とラファエルさんは誰に咎められることもなく屋敷を脱出したのだった。床をぶち抜くとか真面目に考えていたのが馬鹿みたいに思えるくらい、呆気なく。
早朝の薄闇に包まれた通りは、いつにも増して静まり返っている。私達は静寂の真っ只中を黙々と早足で歩み、ひたすらに王の居館へと急いだ。無人の通りを抜けた先に聳える、王の館を頂く巨木の周囲には、早くも篝火がぐるりと円を描くように設えられていた。お陰で辺りは格段に明るくなっていたものの、樹上へ至る延々とした階段の高所までは照らされきらない。黒々とした影がわだかまっているのが見えた。その暗さに不安を抱かないと言えば嘘になるけれど、尻込みなどしてもいられない。
足を踏み外さないよう慎重に、けれど逸る気持ちのまま一段飛ばしで長階段を駆け上がる。お陰で階段を上り始めて五分ばかり、階段の頂上が見えてきた頃には、軽く息が切れかけていた。仮にも王に面会を求めるのだから、いくら何でもこの状態のままで門を叩くのは憚られる。残りの段数を目で数え、両手の指でやや余る程度にまで減らしてから、歩調を緩めた。
一段一段飛ばさずに上り、後ろのラファエルさんが何も言わないのをいいことに、大きく息を吐いて呼吸を整える。ちっぽけな見栄と言われればそれまでだけれど、最低限の体裁くらいは繕っておきたかった。幸いにして、最後の一段に足を掛けようかという時には呼吸も落ち着いてきた。こうなれば、もう歩みを遅らせるものは何もない。意を決して足を踏み出し、持ち上げる。
さあ、いよいよ本丸だ。気を引き締めていかないと――
「……え?」
そう腹を括ってはみたものの、樹上の館の前に広がる光景を見た瞬間、絶句してしまった。
「あ、アルサアル王、何故ここに」
「ロクルードから連絡があったのですよ。あなたが王国の騎士を伴い、私を訪ねると」
常と変わらず穏やかな風で、王は答える。彼の人がそこに佇んでいるだけで、館の前が何やら神聖な空間に変じてしまったような錯覚すら抱いてしまうのだから恐ろしい。世間話をしに来た訳ではないのだから、余りその空気に呑まれないように……なんて意識しなければならない時点で、既に呑まれてしまっているようなものなのかもしれないけれど。
ともかく、今回はとびきり急ぎの用件なのだ。余計なことを考えている場合じゃないし、何より私の役目はここに案内するまで。さっさと仕事を終わらせて、後のことは当事者に投げ戻してしまうに越したことはない。
「お出迎え、恐れ入ります。しかし、今回の訪問の主役は私ではなく、こちらの方――ラファエル・デュランベルジェ氏で」
言いながら、脇に避けて背後の人を示す。その途端、小さく息を呑む気配が伝わってきた。もちろん、その反応の主はアルサアル王ではない。
静かな威厳を放つ王の、その背後。そこには武装した屈強なエルフが二人ばかり控えており、鋭い眼差しで招かざる客を睥睨していた。ともすれば剣呑にさえ見えた彼らの眼光が、今は丸く見開かれて私の背後から現れた人を凝視していたのだ。
対するラファエルさんはエルフの人たちの反応を気にした風もなく、未だかつて見たことのないほど優雅な所作で私の隣に並び立ち、流れるような動作で礼をしてみせる。礼儀作法に詳しくもない私でも知らず圧倒されてしまうような、洗練された――ともすれば美しいとすら言える佇まい。
「お初にお目に掛かる。アシメニオス王国が騎士、ラファエル・デュランベルジェと申す。此度は我が妹弟子が厄介な騒ぎに巻き込まれ窮地に陥っていると聞き、心配の余り参じた次第。閉ざされた里へ押し入る無礼については、ひとえに彼女の身に何かあってはという不安の為と、どうかご容赦頂きたい」
ただし、その口から出てくる言葉は、何ともはや……よくもまあそこまで舌が回ること、といっそ感心してしまうくらいだった。王のあくまでも静謐そのものの眼差しにも、武装したエルフの驚きと警戒の視線にも、まるで平然として堂々と述べ立てていく。全くもって、とんだ役者だ。脇で静観を決め込んだ私の方が、変に表情を動かしてしまわないよう意識しなければならなかった。
王はじっとラファエルさんを見つめて口上に耳を傾けていたものの、別段何か大きな反応を返すでもなかった。これまでとさほど変わらない様子で、軽く顎を引くようにして頷く素振りを見せただけ。
「確かに、兄弟子とあらば彼女を心配するのも当然のこと。ライゼルを巻き込んだこと、誠に申し訳なく思います」
「全くもって。二度目は容赦願いたい。我が妹弟子は優秀なれど、所詮はまだ半人前。半人前をみすみす戦地に送るなど、許容しがたい所業としか。半人前の手を借りねばならぬほど切羽詰まっているのであれば、素直に正式に我が国の騎士団を頼るが最良と申し上げるが?」
「返す言葉もありません。が、ライゼルを半人前と切り捨てるのは、些か過小評価が過ぎましょう」
「いくら魔術に長けようと、戦場の歩き方を知らぬ子供ならば、戦士として一人前とは呼びかねる。それに――この森の戦地で、一体どのような境遇に置かれてきたのやら。我が親愛なる妹弟子殿は、兄弟子が骨を折って迎えに来たというのに、どうしても撤退は許容しかねるなどと嘯いている始末。常にない強情ぶりに、ほとほと困り果てているところ。私も騎士団に連なる身、長く王都を空ければ、妹弟子殿同様『巻き込まれた』と見做されることになるやも」
そこまで滔々と語って見せると、ラファエルさんは勿体ぶって言葉を切った。相変わらず回りくどい喋り方をするなあ、と他人事のように思う。
これまでの長い口上では、つまるところ半人前の子供を動員したことをチクチク刺しつつ、同時に早く私を開放しないと騎士団が騒ぎ始めるかも、と婉曲な脅しをかけた訳だけれど。そこで脅すだけ脅して口を閉じたのが、何というか意地が悪い。
「……回りくどい言い回しは止めたらどうだ。王国の尖兵よ、何が望みだ」
低く声を発したのは、王の背後に控えていたエルフだった。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべた壮年の男性。だいぶ苛立っているらしく、お世辞にも柔和とは言えない面差しが、大変威圧的なことになっていらっしゃる。
「尖兵とは人聞きの悪い。私は単に妹弟子の境遇を憂いているだけのこと。私は彼女を連れ戻したいだけだというに、彼女は目的を果たさねば帰れないと言う。であれば――」
平然と言うラファエルさんは、更に勿体ぶって焦らすように間を取る。エルフの男性の眉尻がきりきり釣り上がるのが目に見えるようで、何とも胃に悪い。割に本気で顔を逸らしたい願望を抱き始めていると、アルサアル王が静かに口を開いた。
「妹弟子を思う気持ちは、よく分かりました。あなたがあなた個人としてライゼルを助けるのであれば、その間わたくし共も拒みはしません。ですが、あなたが王国の騎士として動くのならば、その時は覚悟をして頂かねばなりませんよ」
「無論、それは承知の上。英断に感謝申し上げる」
「英断、ですか。わたくしの判断が真実正しいものであったことを、あなたが立派に証明して下さることを期待していますよ。……ヨフレッド、件のものを」
さらりと釘を刺して見せたかと思うと、王は不意に背後へ視線を投げて呼び掛ける。
は、と返事をしたのは、先に口を挟んだのではなく一貫して沈黙を保っていた方の人だった。実は何やら手に持っていたらしく、その人は王の傍らで膝を突くと恭しい手つきでそれらを掲げた。
薄闇に難儀しつつも目を凝らしてみれば、一張の弓と見慣れた御印のメダルだと分かる。それらを手に取った王が一撫ですると、ふわりと宙に浮き上がり、一人でに動き始めた。弓は私の前に、御印はラファエルさんの元へ。目の前でふよふよと浮かぶ弓に私が何とも反応できずにいる間にも、ラファエルさんは微塵の躊躇いもなく御印を掴み取ってしまう。
「王国の剣の方よ、その印を持つ限り、あなたが結界に道を阻まれることはありません」
「有難くお借りする」
「ライゼル、あなたはその弓をお持ちなさい。あなたの弓は、戦う為に誂えられたものではないはず。それは三代前の王が見出した、決して狙ったものを逃がさぬ必中の弓。不過の弓、フェイルノートと名付けられた一張です。必ずや、あなたの助けになるでしょう」
明けきらない夜の薄闇、掲げられた篝火の朧な明かりの中でもそれと分かる、細やかで美しい彫り物の施された弓は、一見して戦う為に作られた武器だとは思えない。飾って目を楽しませる芸術品と言われた方がよほど納得できる造りをしているのに、触れてみると痺れるほどの魔力が流れ込んでくる。その勢いの凄まじさには、思わず手を引きかけたほどだ。
確かに、これは常軌を逸して強力な逸品であるらしい。それにサロモンさんに作ってもらった弓で人や、人であったものを射るのは気が引ける。折角のお話だし、ここは大人しく甘えておこう。
「ありがとうございます、お借りします。――ところで、戦況はどのような?」
「泉の守りは突破されてはいませんが、芳しいとは言えません。敵の増援によって、第二の結界の外に布陣していた里の兵と傭兵の大部分と、先ほど里から迎撃に出た者たちとが分断されてしまっています」
「増援というと、隠れていた人形が? 確かに、昨日罠に嵌めた数は想定よりも少なすぎました」
当初想定していた数は一万近く。それが昨日では三千余りしか罠に掛けられなかったのだから、過半数は残っている計算になる。それが一斉に押し寄せたら、いかな防衛隊とて結界の有利なしにどれだけ戦線を支えていられるやら、分かったものじゃない。
その上、連中は自爆という反則技を持っているのだから最悪だ。仮に残りが五千だと甘く見積もっても、その一つ一つが歩兵の役割を果たしつつ、自律的に標的へと接近して爆発する爆弾でもあるのだとしたら……考えるのも嫌になってくる。
そんな思考を巡らせ、一人でぞっとしていたら。今までに聞いたことのない苦々しげな、重苦しい声で王が言うのが聞こえた。予想外の声色に、訳もなくひやりとする。
「人形……ええ、あれも人形と言って言えなくはないのでしょう」
「……それは、一体どういう? ただの人形じゃないんですか?」
まるで何一つ躊躇いや迷いなど持っていないように思えた麗しの先見の王は言い淀み、その背後に控える人たちまでもが苦々しげに口を閉ざす。
その思いもよらない反応は、何だかとても嫌な感じがした。エルフの王ですら、口を濁すこと。もしかして、とてつもなく悪いないことなのではないか――
「死体だよ」
窒息しそうな沈黙の中、さながら切り捨てるような響きで発された声は、すぐ隣から。
私は一瞬、言われた言葉の意味がよく分からなかった。したい、シタイ、肢体、姿態……と何度も頭の中でその三音を転がして、やっと「死体」の文字が浮上した瞬間、ぎょっとして声の主を振り仰いでいた。目を丸くさせる私を、ラファエルさんは何でもない風に見下ろして肩をすくめる。
「聞こえなかったかね? 死体、亡骸――要するに死した人間の肉体だ」
「いや、そりゃ、聞こえてはいましたけど……でも、その、死体って、ちょっと、待って下さいよ。それ、まさか、本当に?」
「こんなことで嘘を言ってどうするのだね。いくら何でも趣味が悪すぎるだろう」
「そうですけど、でも、そんな……無茶苦茶じゃないですか。第一どうやって調達するんです、墓荒らしが頻発してるなんて噂は聞いたことないですよ。それに数を掻き集めるのだって」
「おや、君はすっかり忘れているようだ。五年も前から、我が国のすぐ近くでは血で血を争う戦が続いているというのに」
皮肉っぽい口振りで言われた内容に、重いもので頭を殴られたような衝撃を受けた。
そうだ、何で忘れていた。ヴィオレタとエブルの戦争。それが、今の私がこの道を選んだ発端に等しいものだったのに。
「アルマでの手腕を踏まえるに、件の宝石盗人はかなりの長距離、大量数の転送ですらやってのけるようだ。隣国の戦地から顧みられぬ亡骸を盗み出す方が、よほど容易だったろうさ。私からすれば、よくもまああれだけの人形を集めたと、そちらの方に感心するがね」
平然と述べられる言葉に、本気で頭痛を覚えた。
擬似生命工学における禁忌はいくつかあれど、死体を素体に用いるのは、死者の魂を封じて使役する死霊傀儡に勝るとも劣らない大禁戒だ。それをあろうことか、あの人形遣いは死者の魂を死体に籠めて使役しているという。とんでもなさすぎるダブルコンボで、何と言うかもう、本当、有り得ないとしか言えない。ひどすぎる。私の神経がもう少し繊細だったなら、卒倒していてもおかしくないぞ、コレ……。
今森で繰り広げられているのだろう戦いを想像すると、軽く胃が引っくり返って今度こそ吐けそうな気がした。人形を破壊するのと、死体を破壊するのとでは、精神的な負荷も変わってくる。どうしたって生理的な嫌悪感、本能的な忌避感は無視できない。下手をすれば、肉体面以上に精神面が消耗している可能性だってあった。
「とりあえず、どうにかして死霊の契約を切らないと……」
「敵も相当数を投入しているようだ、今更予備の核もほとんどあるまいさ。片端から破壊していくのでも構わんのではないかね」
「いずれにしろ、数を減らすのが急務ですか。人形遣いの居場所が分かれば、それこそ形振り構わず狙いに行くのもやぶさかじゃあないんですが」
「それについては、厄介なことに未だ私にも有力な情報は入ってきていない。死霊の浄化で最も効率的な手段は、火で焼くことだ。一つ所に集めて、火攻めをしてしまえれば手っ取り早いのだがね。その意味でも、戦場は彼らに味方している。まさか森を焼け野原にしてしまう訳にもいくまい」
それができれば格段に楽になるのだが、と本気か冗談か今一つ判じかねる風で呟くラファエルさんに向かって、不機嫌そうな声が「当たり前だ」と言うのが聞こえる。さっきも会話に口を挟んできた人だ。
「まあ、里や泉が攻め落とされるのと、森の一部が火事になるのと、どっちが問題かと言われれば考えるまでもない話ではありますけど。一応、最終手段ということにしておきましょう。下手したら味方まで巻き込みかねませんし」
「背に腹は代えられぬと言いますが、なるべく森を傷付けぬよう、わたくしからもお願いします」
「全力を尽くす、とだけお答えしておきます」
気持ちに応えたいのは山々だけれど、如何せん状況は予断を許さない。色々なことを考えるのは、その余裕がある人に許されるものであって、残念ながら私は既に手一杯だ。
「ええと、とにかく、これで失礼します。すみません、お騒がせしました。それから、弓をありがとうございます」
ひとまずお礼だけはきちんと告げて、私とラファエルさんは再び長い階段と戦うべく踵を返した。
状況は思うよりも遥かに斜め下の最悪を突き進んでいて、正直なところを言えば、今すぐ逃げ出したい。死霊憑きとは言え本物の人形ならまだしも、今度は本物の死体ときた。まさかのゾンビ。まさかのスプラッタ。最悪を一ダース集めて煮詰めて凝縮させたくらいの最悪っぷりだ。まさに最悪の中の最悪。
階段を下りながら、堪えきれない嘆息が唇から漏れ出す。
「ここで王都へ撤退しても、誰も君を責めはしないと思うがね。それどころか、彼は喜ぶだろう」
その途端、そんな声が背中の向こうから降ってきた。
「でしょうね。けど、残念ながら退路はないんです」
震えそうな息を呑み込んで、振り向かずに答える。
恐ろしかろうと、忌わしかろうと。起こったことは変えられない。どうやったって取り返しがつかない。変えられるのは、まだ起こっていないことだけ。だからこそ、私は躍起になるしかないのだ。
喪われてしまってからでは遅すぎる。命には、代えられないのだから。




