02:女教皇は闇に棲む-01
広場でのタリスマン放り投げ事件、その翌日のこと。
空は快晴、気温はやや高め。制服の上にジャケットを羽織るのを止めて、代わりにストールを巻くことにした。そんないい天気の中、私はいつも通りに下宿先を出て、王立魔術学院へと向かい――そして、思いもよらないことが起こった。
「おはようございます、ハントさん」
登校早々、挨拶をされたのである。我がことながら言っていて悲しくなることに、入学以来初めての事態だった。
挨拶は重要だ。たった一言なのに、それだけで印象が随分と異なる。顔を合せて開口一番、笑顔で言われれば、そりゃあ悪い気はしない。しない、のだけれども。
「……お、おはよう。えーと、エリゼくん、だっけ?」
「はい! あ、申し訳ありません、まだきちんと名乗っていませんでした。エリゼ・ミシリエと申します」
「はあ、ご丁寧にどうも……ライゼル・ハントです」
昨日ぶりの少年――エリゼくんは丁寧に頭を下げて名乗る。その姿につられて会釈を返しながら、どうもおかしなことになったと首をひねった。
このエリゼ・ミシリエという少年はあのセッティの馬鹿息子の供回りのはずで、その馬鹿が私に対し一貫して敵対的反応を取り続ける以上、この子もまた友好的に振る舞えるはずもない。少なくとも、昨日まではそうであるはずだった。
「で、エリゼくんはこんなところで何してんの? しかも、私に挨拶なんかしちゃって。どっかの誰かさんが怒ったりしない?」
こんなところとは、すなわち学院の正門だ。
どう見ても待ち構えていたとしか言えないことに、エリゼくんはまるで門番宜しく正門の前に立っていた。さりとて、私にはこんなところで立ち話をする趣味も、用もない。学生証であると共に通行証でもある、左中指に嵌めた紫の魔石の指輪を門に備え付けられた認証魔道具に通せば、重々しい音を立てて正門が開く。さっさと扉をくぐると、案の定と言うかやはりと言うか、エリゼくんも青い魔石の指輪を魔導具に通し、後をついてきた。
因みに、紫の魔石は主席の証、赤の魔石は成績上位層の優秀生徒の証、青の魔石はそれ以外の生徒であることを示すものだという。魔石には各個人の魔力を組み込んであるので、所有者以外の人間が身に着けると学院に警報が届く仕組みになっているのだとか。正直、余計なことをしてくれたと思う。そんな仕組みさえなければ、この紫の魔石の指輪をあの馬鹿息子に押し付けて、少しは過ごしやすい学校生活を送っていられたかもしれないのに。
これまでに何度考えたとも分からない詮無い憂鬱を振り払い、校舎へ向かう。正門から校舎へは、真っすぐに白い石畳の道が敷かれている。かつりこつりと響く靴音に混じって、ぱたぱたと軽やかな足音が続いた。どうやら、まだついてくるつもりらしい。
「あの、ハントさん」
「ん? 何?」
「僕はエジディオ様の側仕えを解かれたんです」
少し距離をあけてついてくる少年は、いきなりそんなことを言った。へー、側仕えを解かれたん――
「解かれたぁ!?」
思わず歩く足を止めて、振り向く。
「なんで、どうして――って、いや、そんなの決まってるか。昨日のせいだよね。あの馬鹿息子が、お偉いお父様に告げ口でもしてくれちゃった? あーもう、ほんと面倒ばっかり掛けてくれるお子様だこと……とりなしになる自信は微塵もないけど、伯爵に手紙でも書こうか? 平民の子供の手紙なんか、封も切られずに捨てられて終わりのような気もするけど」
勢いのままにそこまで一気に喋ると、エリゼくんはぽかんと目を丸くした後で、何がおかしいのかくすくすと笑いだした。意味が分からない。
「本当に、ハントさんはお優しくて、豪胆な方なんですね」
「……それは若干どころでなく、間違った評価だと思うけどね。お優しくはないし、豪胆というよりは偏屈か狭量、もしくは無謀ってところじゃない?」
肩をすくめてみせると、エリゼくんはゆるりと頭を振った。
「僕らは、エジディオ様の代わりに責められることに慣れています。けれど、ハントさんそれをしないでいてくれました」
「それは君らに八つ当たりをする奴らがはき違えているだけで、やっぱり私が優しい訳じゃないよ」
「でも、それでも、僕は嬉しかったんです」
少年は微笑む。なんだかなあ、と思う。物凄く釈然としない。
あの馬鹿息子は、きっとこれまでもこれからも、あんな調子で敵ばかりを作っていくのだろう。それでもやっていけるのは伯爵家の子供だからで、かと言ってそれで買った恨みまでも帳消しにされることはなく、都合のいい標的としてその供を務める子供が八つ当たりに晒される。たぶん、それがエリゼくんの置かれた状況なのだろう。
……何というか、これまで馴染みの薄かった身分だの立場だのという問題は、とてつもなく厄介で、本当に困る。何をどうすればその問題にとっての最善になるのか、よく分からない。
「……まあ、君がそう思うならそれでいいけど。で、結局のところ私に何の用事?」
「あ、そうでした。昨日のエジディオ様のなさりようは、さすがに耳目を集めてしまったようで、伯爵のお耳にも直接入ってしまったんです。それでエジディオ様はお叱りを受けて、しばらく一人で行動するようにと――リュシアンが最低限のお手伝いはさせて頂くのですけれど」
「ふむ、それで君は晴れて自由の身になった訳だ」
「そ、その、自由とか、そういうことでは……」
もごもごとエリゼくんは言う。少し意地の悪い言い方をしてしまったかもしれない。
「ええと、ともかく、しばらく僕は勉学に励むよう仰せつかったんです。――……そこで、あの、その間主席のハントさんによく学ぶようにと」
それは良かったね、と相槌を打ちかけて、止めた。目眩がしそうだった。思わず掌で目を覆う。どうしてこうなった。
「あ、あの……ハントさん? これが、伯爵からのお手紙です」
おずおずと差し出された封書を受け取る。久しく触った覚えのない、上等な絹のような手触りの紙だった。カッターだのレターオープナーだのという持ち合せもなく、面倒だったので適当に封蝋を剥がして開封する。
中の手紙も、これまた上質な紙を惜しげもなく使っていた。深い色合いのインクで書かれた文章は、装飾が多く婉曲で分かりにくい。これもまた貴族独特の手法なのかもしれない。苦労して読み進めていくと、次第に眉間に皺が寄るのを堪えきれなくなってきた。
手紙に書かれていたのは、大まかに言えばエリゼくんに魔術を教えて欲しいという依頼だった。時間を取らせる代わりに、金銭を支払うとまで書いてある。単純にそれだけを見れば、悪くない話ではあるのかもしれない。提示された金額も、正直目玉が飛び出しそうな額だったし。……ざっと計算してみただけでも、節約せずに学院を卒業してもおつりがくる。お金ってのは、やっぱりあるところには山ほどあるものらしい。妬ましい。
――ただ、これはあの「セッティ伯爵」からの手紙なのだ。単なる依頼、それだけで終わる訳がない。後先考えずに軽々しく飛び付いては、後で絶対泣きを見るに決まっている。要するに、この依頼も表面上はそう見せかけた、援助だとかそう言った類の申し出なのだろう。金銭で不自由させない代わりにセッティ家の子飼いになれと、詰まる所そういうことを言われているのではないかと、思う。
溜息を吐いて、開いていた手紙を畳み直す。エリゼくんは既に内容を知っていたのだろう、間髪を容れずに「いかがですか」と問い掛けてきた。故に、私もすっぱり答える。
「光栄ですが、お断りします。伯爵には、そう伝えて。……私はまだ誰に、何に雇われるか決める気はないんだよ」
えっ、とエリゼくんが息を呑む。ぱくぱくと唇を開閉させる彼の、その手を掴んで無理矢理手紙を握らせた。エリゼくんは困ったように眉をハの字にさせる。
「そんなあ、ハントさ――」
「ただ、友達に勉強を教えてと言われて断るほど冷血じゃないつもりではある」
再び、エリゼくんが目を丸くした。
「とか偉そうに言ってみても、私だって所詮一生徒に過ぎないし、教えられることなんてないと思うけどね。それに手が空いてなきゃ相手はできないから、そう頻繁には時間も取れないだろうし」
「いえ、そんな――どうか宜しくお願い致します! あの、因みに、今日は……」
「あ、ごめん。傭兵ギルドに行く予定」
傭兵ギルド、とぽかんとするエリゼくんに、私はただ頷き返して見せた。
一日の講義が全て終わると、私は一目散に学院を出た。時刻は四時過ぎ、まだ空は明るい。
傭兵ギルドは下宿先の宿を中心に学院からちょうど対称の位置にあり、歩いて移動するのでは少し時間が掛かる。かと言って街中を走る周回馬車に乗るのも、主に金銭的な理由で躊躇われたので、とにかく先を急いで走ることにした。
比較的大きく、広い通りを選んで、傭兵ギルドへ向かう。もう夕暮れまでそれほど時間があるとは言えない。下手に細い路地に入ってしまうと、迷うどころか面倒な騒ぎに巻き込まれるおそれがあった。夕方から夜にかけて犯罪が増えるのは、日本でもこちらでもさほど変わることがない。と言うか、確率で言えば確実にこちらの世界の方が高い。君子危うきに近寄らず。
人にぶつからないよう、気を払いながら通りの隅を走ってゆく。
「ちょいと、そこのお嬢さん。薔薇色のお嬢さん」
そんな時、ふと横合いから呼びかける声がした。決して大きくはない、むしろ囁くような女性の声。走っている最中、普通であれば聞き逃してしまいそうなものなのに。私は立ち止まり、声のした方へ顔を向けていた。
声の主は、細い路地の奥にいた。まだ日も沈んでいないのに、嘘のように薄暗い路地。それなのに深紅のクロスの掛けられた小さなテーブル、そしてその向こうに座る人影ばかりははっきりと見える。真っ黒いローブで全身を覆い、すっぽりと被ったフードで顔は口元しか窺えない、不審者の代名詞のような出で立ち。
「そう、あなただよ。お嬢さん」
私ですか、と聞く前に答えがあった。今まで聞こえていた街の喧騒がひどく遠く、路地の奥から届く声ばかりが鮮明に聞こえた。
「少し占いに付き合ってゆかないかい」
「……少しだけなら」
急いでいる。そのはずなのに、そう答えていた。
真っ黒な人影が白い手で手招きをする。足が動き、薄暗い路地へ入ってゆく。深紅のクロスの上で、細く白い指がカードを手繰る。ぺらぺら、ぱららら。細長いカードが躍る。抜き出されたカードが、深紅の上に広がった。不思議と、そのカードの模様は上手く読み取れない。
「ふむ、やはり……。お嬢さんは、そう――言うなれば、無限の可能性だね。その数奇な生涯の内で、或いは何かを成し、或いは何も為せないかもしれない。それはあなたの選択次第だ。……けれど、お嬢さんはもう運命に出逢った。歯車は回り出しているよ。刻々と世界は動き、巡り続けている。今度こそ後悔のないように、よく考えて選び取りなさい」
声が囁く。ぱたたたた。クロスの上に並んでいたカードが舞い上がり、独りでに白い手の中に納まってゆく。
「さあ、今日はこれで店じまい。お付き合いありがとう、また縁があればお会いしよう」
ざん、とまるで幕が閉じられたよう。視界が真っ黒く染まり――
「はっ!?」
瞬間、我に返った。遠ざかっていた喧騒がわっと戻ってきて、その音の奔流に一瞬だけ気が遠くなりそうになる。ぶるりと頭を振って路地を見回してみたものの、もうあの深紅のクロスも黒いローブも、影も形もなかった。
「……白昼夢?」
むにり、頬っぺたをつねってみる。しっかりと痛かった。
「――って、いけない、日が暮れる!」
慌てて踵を返し、さっきまで走っていた通りに飛び出す。空はうっすらと明るさを落とし始めていた。