14:節制の民-04
里を守る防衛部隊からの報告は、日を置かず随時届けられる。状況は一進一退、群がる人形は破壊しても破壊してもきりがなく、まだ人的被害こそ無いに等しいものの疲労の蓄積は無視できないという。最早さほどの猶予はない。
敵の人形の軍勢を無効化する罠の構築は、急ピッチで進められた。ルカ先生が契約切りの魔術陣を考えてくれる間に、その他の細かな問題を大急ぎで解決してしまわなければならない。
目下の課題は、罠の礎となる石の確保、それから罠を仕掛ける場所の選定だ。後者は特に、安易に地図の上で選んで決めてしまう訳にもいかない。アルサアル王への相談や、前線で戦っている戦士とも情報の共有が必要になる。森の地理や敵と味方の戦力等の情報も加味しなければならず、些かどころでなく私の手には余る。よって、ローラディンさんとシェーベールさんにお願いした。
そういう次第で、私の仕事は石の確保になった……のだけれども、意外にこれが曲者だった。手持ちを確認してみたところ、緑柱石は大小合わせて六つばかりしかなかったし、葡萄石に至っては一かけらもない。けれども里は結界で厳重に封鎖されているから、気軽に買い出しに行くこともできないのだ。
仕方がなしに、最寄りで一番の心当たり――今日も今日とて広場で店を開いているはずのイジドールさんの許へ向かうことにした。多様な商品を扱っている人だから、ひょっとしたら在庫に持っているかもしれない。そんな思惑の下に訪れた晴天の昼下がりの広場には、少なくともここまでは戦火が届いていないからか、思いの外にのどかな空気が漂っていた。
幸いなことに、イジドール商店も今日は盛況らしい。広場の隅に陣取る馬車の周囲には、エルフの娘さんたちが集っていた。きゃあきゃあと可愛らしい声が上がっているので、何事かとチラ見してみれば、装飾品を選んでいるようだ。ああでもないこうでもないと話し合う姿は、何だか微笑ましい。
そんな風に眺めていると、「よう」といつも通りの気さくな様子で店主が近寄ってきた。
「仕事は順調か?」
「そこそこですかね。――今、大丈夫です?」
訊ねると、イジドールさんはちらりと娘さんたちを見やった後で小さく頷いた。
「ま、いいだろ。何か物入りか?」
「ええ、緑柱石と葡萄石を。装飾品とかではなく、できれば石単体で。在庫にあったりします?」
「石い? ちょっと待て、探してくる。その間、代わりに店番しとけ」
了解です、と応じるよりも早く、イジドールさんは馬車の荷台に入っていく。この人も割と人の話聞かないよなあ、などと思いつつ、装飾品を巡ってきゃいきゃいと麗しい娘さんたちの傍に寄ってみる。その必要があるのかは微妙な気がしなくもないものの、頼まれた以上は店番をしなければならない。今も昔もレジ打ちのような仕事をしたことはないけれど、どうにかなるだろう。たぶん。
「あら、店主の方は?」
「少し所用で、私が代わりを務めます」
「そうなの? ところで、この髪飾り、どちらが似合うかしら。意見を聞かせて下さらない?」
「そうですねえ、天河石の緑もお似合いですが、紫水晶の深い色が金の髪によく映えていらっしゃると思いますよ。そう言えば、紫水晶は素敵な恋人を招いてくれるともいいますね」
「それは素敵! ねえ、こちらの紅い石はなあに?」
「ああ、赤水晶です。勝利を引き寄せてくれるそうですよ」
「この耳飾りは?」
「青い石ですか? 燐灰石ですね、心を鎮めてくれるとか」
店番代理ということもお構いなしに、娘さんたちは次々と質問を投げかけてくる。
内心あたふたしつつも、魔石加工学のテキストで読んだり、商工ギルドで小耳に挟んだ知識を思い起こして答えてみると、これが意外に食い付いてくれた。どこの世界でも、やっぱり女の子がパワーストーンとかを好むのは変わらないのかもしれない。
最終的には、各々が二つ三つのお気に入りを見つけ、お買い上げの運びとなった。イジドールさんが馬車から戻ったのは、ちょうど彼女達が互いに勝ったものを見せ合いながら帰っていくところだ。満足げに去っていく娘さんたちを見たイジドールさんは軽く両目を瞬かせた後、にやりと笑みを浮かべた。
「立派に店番できたってか?」
「ちゃんと全部値札がついていたので、お陰様で何とか。――で、これ売り上げです」
娘さんたちから受け取った硬貨は、近くに置き捨てられていた紙袋の中に金額別に入れておいた。それをごそっと渡すと、中身を確認したイジドールさんがギョッと目を見開く。
娘さんたちは欲しいものを買うといった様子で、特に金額を気にすることなく、ぽんと現金で支払ってくれたので、紙袋の中はそれなり以上のまとまった金額になっていた。
「おいおい、随分な金額じゃねえか。気前いいな」
「里の外へ出られない状態ですから、気晴らしでも兼ねてたんじゃないですか。それより、石はありました?」
「おうともよ。緑柱石は原石が拳大のが三つ、葡萄石は小玉が一袋だ。足りるか?」
「うーん、どうでしょう……。とりあえず、あるだけもらえます?」
「はいよ。代金は、あれか? あのエルフのお嬢ちゃんに?」
「ええ、それでお願いします」
石の購入費用については、依頼主負担で構わないと許可を貰っている。ローラディンさんのお屋敷の位置を説明し、そこに請求書を届けてもらえるようお願いして石を受け取り、早々にイジドール商店からは離れた。初日と違ってそれなりにお客も来ているようだし、余り長居をして邪魔になってはいけない。
晴れた空の下、広場を抜けて、てくてくと歩む。ローラディンさんのお屋敷までは少々距離があるものの、道のりはほとんど一本道で、滞在も四日目となれば迷うこともない。軒を連ねる家々はどれも優美な佇まいで、眺めているだけでも目を楽しませてくれる。お屋敷までの道のりは、意外に退屈とは無縁だ。
そんな家並みの中でも、一際立派なのがローラディンさんのお屋敷だ。トレードマークは敷地をぐるりと囲む蔦の巻いた白木の柵と、透かし彫りの細やかな白銀の通用門。門衛はいないので、勝手に通用門を押して中に入ると、
「ライゼル! 里の細工師から石を分けてもらうことができたぞ!」
いきなり屋敷の主の声が聞こえてきた。
はたと声のした方を見やれば、前庭の片隅に設置されたベンチから少女が立ち上がるところだった。ベンチからは柵越しに通りが窺える。ひょっとしなくとも、私の帰りを待っていたのかもしれない。
どうだすごいだろう、と得意げな様子で駆け寄ってくるローラディンさんは私より頭一つ分近く小柄で、幼げな表情と相俟って、どうにも本来の年齢を霞ませてしまう。ありがとうございます、と答えながら、だいぶ低い位置にある頭に手を伸ばしそうになるのを、苦労して堪えなければならなかった。
「数はどれほど?」
「緑柱石の大玉が五つ、それよりやや小さいものが六つ、小玉が十。葡萄石はさざれが一袋と、大小混じった玉が二袋余りだな。これだけあれば足りるか?」
「ううん、どうでしょう。如何せん、相手の数が多いですからね。それを一気に嵌めるとなると、かなり大規模な罠を仕掛ける必要があります。となると、作用範囲を広げる分だけ石を使いますし」
「……左様か。もし足りぬようであれば、ケーブスンの傭兵ギルドにも問い合わせてみよう」
「そうですね、その時はお願いします」
話し合いながら庭を通り抜け、玄関前の広いポーチに上がる。このスペースは常に瑞々しい花で飾られていて、この館に出入りするようになって四日が経とうとしているけれど、未だに少しでも枯れているところをみたことがない。このお屋敷に出入りする人たちが、いつも気に掛けているのだろう。
ポーチを突っ切ると、その最奥には何度見てもため息の出そうな、それは見事な細工の施された玄関扉がそびえている。いつも私がされていたように扉を開けて、お先にどうぞ、と手振りで示すと、ローラディンさんは「ライゼルは気が利くな!」と上機嫌で進んでいく。その後に続いて扉をくぐると、
「お帰りなさいませ、ローラディン様」
入ってすぐのところで、恭しく頭を下げる男性の姿があった。ローラディンさんに仕える家令の男性で、「ケーブスンからの書状でございます」と何やら一通の手紙のようなものを差し出す。
ローラディンさんは家令さんの差し出す手紙を一瞥すると、重々しいため息を吐いた。見掛けの幼さとは裏腹に、彼女はこの館の立派な主なのだ。そして、どうも里の外との交渉も一手に任されているらしいようでもあり、中々に多忙の身の人なのである。
手分けした方が早く済むから、と言ってもらえたので石探しに協力してもらってしまったけれど、やっぱり細工師さんの家を教えてもらって私が行った方が良かったかもしれない。この緊急時なら、さすがに門前払いとかもされないだろうし。
「すみません、お忙しいところ時間を割いて頂いてしまって」
「何、良い息抜きになった。たまには散歩にも出なければな。――ああ、書状はすぐに確認する。ついて参れ。ライゼル、石はそなたの部屋に届けさせてある。確認を頼むぞ」
「あ、はい! よくよく確かめておきます」
家令さんを引き連れて、ローラディンさんは自室へと繋がる廊下に向かっていく。その背中を見送ってから、私もまた自分に割り当てられた部屋へと急いだ。
ルカ先生から二日ぶりの連絡が入ったのは、その日の夜のことだった。
食事も入浴も終わり、後は寝るだけの状態になって部屋でくつろいでいた時。勉強机替わりにデュナン講師に借りてきた禁書やら筆記用具やらを広げていたテーブルの上で休眠状態になっていた、あの銀の鳥がおもむろに稼働し始めたのだ。
『夜分にすまない。私だ、ソイカだが――今、少し時間を貰えるかね?』
夜更かししても仕方がない、と半ば寝に入ろうとしていた私は、突然響いた低い声に飛び上がりかけた。慌てて寝間着――ローラディンさんが用意してくれたもので、滑らかな絹の感触が値段について想像するのを拒否させる――の上にナイトガウンを羽織り、テーブルの前の椅子に座る。
「はい、大丈夫です! すみません、服装は、その、ちょっと気にしないで頂けると嬉しいのですけど」
『いや、時間をわきまえずに連絡しているのはこちらだ。気にすることはない。それで、ようやっと件の魔術陣が完成してね』
先生の声で喋りながら、銀の鳥は青い輝石の嵌められた両目から光を放つ。すると、複雑な紋様がテーブルの表面に投映された。反射的にその図案を読み解こうとして、余りの情報の多さにうめく。それでも紋様の端々から、込められた意図を読み取ることはできた。間違いない、契約切りの魔術陣だ。
大急ぎでテーブルの端に積んでいたノートを開き、羽ペンとインクを引っ掴んでノートに書き写す。それだけ難易度の高い術式なのだろう、陣は恐ろしく書き込みが多かった。私一人じゃ、とてもじゃないけど考え出せそうにない。素直に助けを求めて良かった。
『この陣を緑柱石に封じ、罠の基点にするように。……石は確保できたかね?』
「はい、何とか。ちょっと待って下さい、写し終わったら持ってきますので」
時折質問をしながら、ひたすら図案をノートに描いていく。その間、先生は質問に答えてくれる他は何も言わず、じっと待っていてくれた。
「……よし。すみません、間違いがないか確認して頂けますか?」
『分かった。その間に君は石を』
了解です、と答えて席を立つ。石は旅行鞄の傍にまとめて置いておいた。全部合わせるとかなりの数と重量になるそれを、二度三度と分けてテーブルの上に運び上げる。袋に入っているものは口を開けて、中が見えるように。
『うむ、問題ない。きちんと書き写せている。……それが石かね?』
ノートを眺めていた鳥が頭を上げ、がしゃがしゃと並べた石の方を向く。ちょこちょこと小さな足で跳ねるようにテーブルの上を移動してくると、葡萄石の大袋の端に飛び乗って嘴でつつくような仕草を見せた。まるで餌を見つけた小鳥そのもののようだ。
『ひとまず、これだけあればそれなりの規模の陣は敷けるだろう。緑柱石は大きいものを選んで基点に据え、小さいものは補助に使おう。葡萄石の小さいものは陣の外周に撒いて、境界にする。大きいものは緑柱石の基点と境界を繋ぐ中継に』
喋りながら、銀の鳥は再びノートの上に戻る。その上に置いたままだった羽ペンを器用に嘴で挟むと、契約切りの陣の隣のページに丸と三角の二種類の記号と、それを結ぶ線からなる回路図のようなものを描き始めた。どうやら石の配置案のようだ。
『地形によって多少の調整はせねばならんだろうが、おそらくこの配置が最善だ』
「やっぱり中心に緑柱石を並べて据える感じなんですね。有効範囲は……半径二リコくらいですか?」
『確実に効果が期待できるのは、それくらいだろうな。――ああ、技師連を経由して島王に連絡を取ってみたところ、事態の解決に注力せよとの許可も得られた。罠を仕掛けに行く時は声を掛けてくれ。少しは力になれるだろう』
「それは心強い! ありがとうございます。詳しい日程が決まったら、また連絡します」
『宜しく頼む』
ではまた、と残して、先生の声は途切れた。会話の終わり際、小さく欠伸をするのが聞こえたように思えたのは、おそらく聞き間違いではないはずだ。
これだけ精密な魔術陣を、島王や技師連と連絡を取りながら構築してくれたのだ。本当なら、とてもじゃないけど二日間で成し遂げられるようなことじゃない。それこそ寝る間も惜しむくらいの勢いで奔走してくれたのだろう。事態が解決したら、また一度アルマに行ってちゃんとお礼をしなければ。
「その為にも、生き延びないとだけど」
敵はまさかのカミサマだけど。……うん、ちょっと真面目に考え出すと怖すぎるから、この辺深く考えるのは止そう。どうにかなる、なるったらなる! そう信じる。
何はともあれ、先生のお陰で最大の懸念事項は解決を見たのだ。そのことをローラディンさんに伝えておきたいけど、今日はもう時間が遅いかもしれない。明日の方がいいかな。朝一番で陣のことを伝えて、ゴーサインが出たら石に細工して、後は仕掛けの場所を――
「ライゼル、まだ起きているか?」
そんなことを考えながら石とノートの片づけを始めた時、不意に部屋の扉が叩かれた。
外から呼び掛ける声はローラディンさんのもので、ナイスタイミングとガッツポーズでもしたい反面、珍しいことだと訝しくも思う。こんな時間に訪ねてくるなんて、どうしたのだろう。戦線の異常とかじゃないといいけど。
片づけもそこそこに、扉へと向かう。どうやらローラディンさん以外にも誰かいるらしい。扉越しに言い合うような声が聞こえてきた。男の人の声だ。やだな知らない人だと困るなあ、と耳を澄ませ――ぎくり、いつになく心臓が強く跳ねるのを感じた。ちょっと、いや、この声……!
その瞬間、走り出していた。一足飛びで扉に跳び付き、ノブを回すのももどかしく引き開ける。何故か、そこにローラディンさんの姿はなかったけれど。
「よ、よう。遅くに悪いな」
代わりに、橙の目を真ん丸くさせて、私を見下ろす人が――いた。いやがった。
記憶の中と同じ色の日に焼けた肌と、前に見た時よりもぼさぼさな銀の髪。くたびれた風な佇まい。防衛線で槍を振るっていた名残なのか、顎のあたりには無精ひげがちらほら。見間違えようもない、私の探し人張本人である。しかも、それが、暢気に挨拶なんかしてくれちゃって。
今にも爆発しそうな感情とは裏腹に、眼球ばかりは冷静に、私より頭一つ背の高い長身を観察する。……ただし、そうしていることで落ち着きを得られるかと言えば、全くもってそんなことはなく、
「――こ、の、馬鹿あああああッ!」
むしろ、プッツンと頭の中で何かが切れる音を聞いた気がした。扉を開け放ち、怒鳴る勢いに任せて、全力で頭から突っ込む。
「うおおっ!?」
素っ頓狂な声が上がる。激突した身体が二人分一緒に傾いていく。でも、そんなことはどうでもよかった。私の下敷きになる格好で、どしんと背中から廊下に倒れた人が「いってて、随分な挨拶だなオイ」とかぼやいているのだって、敢えて無視した。そんなもん知るもんか。
勢いだけで目の前で倒れた身体の腹の上に馬乗りになり、上着の襟首を掴む。本当はそのまま引きずり起こしてやりたかったけど、生憎とそんな腕力はなかったので諦めた。代わりに、ぎっと歯を食い縛り、前のめりになって目と鼻の先の至近距離から橙の眼を睨みつける。怯むような表情を浮かべられたけれど、そんなのも無視だ無視!
「私がっ」
最初の言葉は、ぽんと出た。なのに、そこから先が声にならない。
喉の奥から言葉じゃない何か――熱い塊のようなものが込み上げてきて、喋るのを邪魔してくるのだ。気を抜くと、そのまま喋れなくなりそうな気さえする。だから、一層強く上着を握る手に力を込めて、とにかく口を開いた。何か、何か言わないと。間に合わなくなる。
「いつ! 助けてくれって! 頼んだ!」
その結果、妙な焦りと共に飛び出した言葉が、何故そうだったのかは、自分でもよく分からない。
ありがとうとか、ごめんなさいとか。言うべきことは色々と考えていたつもりだ。でも、実際に口を突いて出たのは、そのどれでもなかった。なのに、一度流れ出すと止まらない。
「全部っ、何もかも勝手に決めて! 今更逃げ出すなんて思えないのに、そう思わせたいみたいな、余計なことして! 隠れるみたいにして! 勝手に預けて、勝手に発って! 結局、一人で戦ってて! そんな風に気を使われて、喜ぶと思ってんのかふざけんな馬鹿っ! 心配しない訳ないでしょが! 一人で隠れてられるか!」
真ん丸く開いて私を見つめる眼に、さながら噛み付くように。何度も声は裏返るわ、つっかえるわで、自分でも何を言っているのか分からなかったけど。まるで手当たり次第投げるみたいに、溢れ返るもの全部が喉を素通りして流れ出してしまって、止まらなかった。
ぎゃんぎゃんと、どれだけ叫んだのかは分からない。いい加減に声が掠れて、ぜいぜいと呼吸が荒くなってくると、ここぞとばかりに再び喉の奥からあの熱の塊が這い上がってくるのが感じられた。声を途切れさせ、呼吸を塞ごうとする厄介者。
一度それを意識し直してしまうと、もう駄目だった。もう勢いを保てない。これまでずっと逸らされるのことのなかった橙色から、逃げるように視線を逸らすと、困ったような声に名前を呼ばれる。素直に答えるのも癪だったので、ぜいぜいと喧しい呼吸の合間に「うるさい!」と叫び返した。完全に引っくり返った、お手本みたいな金切声で死にたくなったけど。
「いや、うるさいじゃなくてな? 頼むから聞こうぜ、人の話。ほら、あー、その、あれだ。深呼吸。深呼吸しろ。んで落ち着け、まずは落ち着いて、話をな」
「いつも人の話聞かないのどっちだっつの! ほんともうやだ、いつも勝手なことばっかするし話聞かないしほんと勝手だし馬鹿じゃないの馬鹿でしょ馬鹿だよ」
「馬鹿馬鹿言い過ぎだろ……」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪い訳。……あーもうほんと、ほんと……わた、私のことなのに、なんでほんと馬鹿じゃないの……」
いよいよ完全に叫び返す元気もなくなった。決壊してしまう前に広い胸板に額を押し付けて、顔を隠す。ずず、と鳴る鼻が忌々しい。ぼたぼた落ちるもので服が汚れたりしたかもしれないけど、そんなの知ったこっちゃない。自業自得って奴だ。それで少しは後悔したりすればいいんだ。
詰まって言葉を出さない喉の代わりに頭をぐりぐりと押し付けていたら、温かいものがやたらにそうっと肩に触れて、それから頭の上に乗った。ぎこちなく髪が撫でられる。言葉はない。ただ私が、一人で鼻をぐすぐすさせているだけ。
……ああもう、くそう。分かってるよ。分かってるんだ。謝らないのは、謝ることじゃないと思ってるから。何も言わなかったのは、私に背負わせる気がなかったから。そうやって私が関わらない、関われないところで、全部終わらせようと、終わらせてくれようとしてた。何もかも、私のせいで。私の為に。
「ほんと、いみわかんない」
「さっきから言いたい放題すぎんだろ、オイ……。あーもう、何て言われようが、俺はお前を巻き込みたくなかったんだよ。怯えたり、怖がったりするような目に遭わせたくなかった」
囁く声。だからさあ、こう、やけに優しい声とかで。言うんじゃないっつうの。ぎゃんぎゃん喚いた私が馬鹿みたいじゃないか。ほんと、こんにゃろ、私の負けか。負けだってのか。負けでいいよくそう。
ぐり、と最後の悪あがきにもう一度、頭を押し付ける。かすかに笑う気配がした。余裕かこの野郎。
「巻き込むって、何を今更。最初っから当事者なのに」
「そりゃそうだけどよ。逃げ出せんなら、そりゃ逃げ出しとくに越したこたねえだろうが。そっちのが安全だ。分かるだろ? ……ほんっと、お前も頭いいのにアホだよなあ。ちっと我慢してりゃ、穏便に済んだろうによ。その為に上手くもねえ小細工したってのに」
「うっさいですよ」
また鼻をズビズビさせながら言うと、頭の上の手はそのままに背中がぽんぽん叩かれた。おのれ、完全にあやされている……。
「まあ、何だ。俺も現金なもんで、騒ぐ元気のある顔見れて、安心したのは確かだあな。お貴族んトコでいびられてたら、どうしようかとは思ってた。――ここまで、怖いこととかなかったか?」
「……誰かさんがいなかったことを除けば」
殊更刺々しい声を作ってみたけれど、答える声は「そーか」と柔らかかった。もう意地なんて張っていられないくらいに、完敗だと手を上げるしかないくらいに。
顔を傾けて、額ではなく頬を押し付ける。それから耳も。じっとしていると、とくとくと心臓の音がした。生きている音。勝手なことばっかりしてくれた人だけど、きちんと生きているのだ。今ここで、確かに。……仕方がないから、それで許してやることにしよう。
はふ、と息を吐き出す。無事でよかった、と呟くと、おう、と答えがあった。頭の上から離れた手が、乾いた指で濡れた頬に貼りついた髪を退けて、残る雫を払うように目元を擦る。その感触がひどくむず痒くて、私は黙って目を閉じた。




