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青の羅針儀  作者: 奈木 一可
第一部
49/99

12:吊し人の蛮勇-01

 デュランベルジェ邸は王城からも程近い、貴族のお屋敷が立ち並ぶ区画の一等地にある。さすがはこの国一番の大貴族、仰々しい豪奢な邸宅が軒を連ねる中でも桁外れに広大な敷地を誇っていた。

 お屋敷はぐるりと高い壁に囲われており、正門と思しき巨大な門の両脇には門番が一人ずつ。私とラファエルさんを乗せた馬車は見事な細工の施されたその門扉をくぐると、そのまま前庭へと進んでいった。外からは内部を窺わせないが、内部から外を見渡すことはできるという、おそらくは何らかの魔術の施されているのだろう窓ガラス越しに周囲を窺ってみれば、馬車の通り道に真白く輝く石畳が敷かれているのが見えた。その周囲には完璧に整えられた庭木に花壇が、これまた非の打ちどころのない配置で据えられている。遠くには温室らしきガラス張りの建物や、獅子を模ったオブジェを擁する巨大な噴水なんかもちらりと窺えた。……ううん、まさしく違う世界に来てしまったような気分。

 観光目的で訪ねるならまだしも、しばらく滞在するとなると、中々にぞっとしない光景だ。あんまりにも立派過ぎて、激しく気後れがする。今からでも尻尾巻いて逃げ出せないだろうか――なんて、どうしようもないことを考えていると、おもむろに馬車が止まった。お屋敷の玄関前に着いたらしい。

「さて、到着だ。まずは部屋に案内しよう。荷物を置いてから、」

「いえ、それは後で結構です。先に知り得ている限りのことを教えて頂けます?」

 座席から腰を浮かせながら言うラファエルさんに、頭を振って答える。

 内実はどうあれ、私がこの屋敷に招かれたのは連続爆破事件への捜査協力の為だ。遊びに来た訳でも、茶飲み話をしに来た訳でもない。まずは役目を果たす。騎士団もといラファエルさんの把握している限りの情報を開示してもらって、一仕事しないことには落ち着くこともできない。

「全く君は勤勉だな。承知した、先に仕事だ」

 仕方がない、とばかりに肩をすくめて言ったラファエルさんは、扉を開けると先に馬車を降りた。そうして降りた先で私を待ち受けており、手を差し伸べて馬車を降りる助けをしてくれる。貴族の子女ならば慣れたものなのだろうけれど、如何せん私は純粋な平民の小娘である。何とも居心地の悪い気分で手を借り、大きな旅行鞄に四苦八苦しながら馬車を降りた。

「荷物なら、置いておいてくれれば君に用意した部屋に運び込ませるがね」

「いえ、お気持ちだけで。貴重品は手放すなって、教え込まれたものですから」

 ここまで手荷物として持ってきた鞄には、清風亭に放置していくには躊躇われるものを厳選して詰め込んできてある。お気遣いは有難いけれど、自分で運ばないと心配でならないのだ。

 それからはラファエルさんの先導の下、屋敷の諸々を差配する執事さんやら、私の担当にしてくれるとかいうメイドさんと引き合わされたりしつつ、ある部屋に案内された。内装や調度品の様子の印象からすると、騎士団の詰所で通された部屋に近い。ラファエルさんの自室だろうか。

 部屋の中央にはローテーブルとソファが一式揃えられてあり、ラファエルさんは何やら本棚から取り出すと、そのテーブルの上に広げた。八つ折の大きな紙――アシメニオスの国内地図だった。ところどころに赤いインクで×がつけてあるのは、その付近に書かれている文字からして、爆破事件の現場都市に対する目印のようだ。東西南北、特に偏りはない。万遍なく、というのも変だけれど、地図上では隣り合っている×印も、実際に一括して調査するには遠い微妙な距離だ。上手く人員を割かざるを得ないように現場を配置している、とでも言おうか。

「現状分かっていることは、さほど多くはない。爆破事件の発生地点に関連性は無し、騎士団ではあくまで陽動だろうという見方が強い」

「一連の事件が、アルマで騒ぎを起こした人形遣いの仕業だという確証は?」

 旅行鞄を足元に置き、地図を覗き込みながら問いかける。すると、ラファエルさんが今度は小さなガラスの箱を持ってきた。その中には煤けて黒ずんだ木片のようなものが収められており、滑らかに磨かれた曲面と、焼け焦げて炭化した部分との落差が激しい。

「爆心地からは、ごくわずかであるが人形と思しき破片が見つかっている。術者を辿れるほどの残滓ではなかったが、魔力の痕跡が残されていた。アルマの技師連と連絡を取った結果、彼の島を混乱に陥れた人形に施されていた術式と同一のものであると確認された」

「この箱は?」

「念の為の隔離策だそうだ。外界と遮断する封印の術式が仕込まれている。万が一、自分の魔力の残るものを起点に術を展開されては困ると」

「ああ、その方がいいと思います。あの人形遣い、隠蔽もですが探索もよっぽど上手いらしいので。……自分の操ってる人形の周囲で起こっていることも、かなりの度合いで把握してるんじゃないでしょうかね。私がアルマで自動人形を捕獲したことを知ってたので」

 答えて言うと、ラファエルさんは露骨に渋い表情で眉根を寄せた。

「何と……それは厄介だな。確かに人形を通じて状況を覗き見でもしていなければ、君が何を成したかなど知り得まい。くれぐれも扱いに注意するよう、改めて通達を出しておいた方がいいな」

「その方がいいです。それから残留魔力を辿って追跡するなら、よくよく気を付けるように、とも。よっぽど上手くやらないと、逆探知されて潰されます」

「ああ、昨日もそのようなことを言っていたな。――君に被害はなかっただろうね? どのような手段でやり返された?」

 あー、やっぱり話の流れ上、そこを突っ込んでくるよなあ。仕方ないっちゃ仕方ないことだけど、嫌なことを思い出させてくれるものだ。あんな情けない事態、できれば喋らないでいたいものだけれども。……この状況じゃあ、そんなことを言ってもいられないか。

 はあ、と一つ溜息を吐き、おどけるように言い返してみる。

「それって事実を詳らかにお答えしないと、問題になります?」

「つまり、口を噤みたいようなことになったと?」

「胸を張って言えるような事態になってたら、あなたに『随分な自信喪失ぶり』なんて言われてないと思いますけどね」

「それもそうだ。――で、どうしたね?」

「うわ、ここまで言って平然と訊き返しますか」

「ここで甘やかしたところで、誰の得にもならんだろう」

 ハッとラファエルさんが鼻で笑う。悔しいことに、そういう気取った仕草がやけに似合った。黙ってさえいれば、男前の典型みたいな造作の人だものなあ。

 もっとも、それが私の心証にとってプラスになるかどうかは、また別の話だけれども。自分の見目が整っていることを自覚していて、しかもそれを意識的に利用する御仁はなー。好きじゃないとまでは言わないけれど、過去に遺恨があるだけに、些か警戒してしまうというか何と言うか――って、そんな頭の中で現実逃避をしている場合じゃなかった。

「寸前で対処したので、実被害はゼロでしたけど。探索の術式を逆探知されて、反撃食らいかけました。後一歩遅ければ、たぶん、目でも潰されてたんじゃないですか」

 そう答えると、ラファエルさんは束の間息を呑む風な様子を見せ、それから深々とした溜息を吐いた。

「君という奴は……やんちゃが過ぎるぞ」

 頭痛を堪えているような表情で紡がれた窘める言葉に、唇が曲がるのを自覚する。はいはい、とおざなりな返事返しながら、肩をすくめた。

「申し訳ありませんね、未熟者で。どーせ私は足手まといの役立たずですよ」

「そういうことではない。藪を突いて蛇を出してどうする。危険を察知したら探るのも大事だが、その質はよく見極めたまえ。時には敢えて無視することが必要な場合もある」

「それが分からないから、試しに探ってみたんじゃないですか。しょうがないでしょう、私はちっとも戦いのことなんて分からないんですから。あーもう、自分がヘマして自爆したってのはよくよく分かってますから、お説教は勘弁してもらえませんかね」

「そうかもしれんが――ええい、どうして一々自虐に走るか! どうも、君は己に厳し過ぎるきらいがあるぞ。君は将来有望だが、まだ若い。一人前の騎士でも、魔術師でもないのだぞ。如何に現時点で技量に優れたものがあると言っても、見習いの域を出ない学徒だ。完成していなくて当然、そうでありながら己に万全を求めるのは、些か酷というものではないかね」

「けれど、見習いとは言え、その腕を見込んで頼まれた。それなら、きちんと役目を果たすのが筋というものではありませんか」

「その心がけは立派だと思うがね。では、何を持って役目を果たしたとする? それは己の立場と力量を正確に把握した、その上で口にする言葉だ。君は人形遣いに負けたと思っているようだが、そもそもそれは考え違いというものだろう。君は奴と戦ってはいないし、戦う立場にない。自分を戦士と同列に並べて考えているのなら、止めることだ。早死にをする。――第一、私や彼は君に手を貸してほしいと頼むこともあるが、何も完璧な成果を求めてのことではない。詭弁だと思われるかもしれんが、君の持つ力を貸してほしいとは思っても、君に何かを成し遂げろと強いるつもりはないぞ。途上の君に、それと知って頼んでいるのだから、例え失敗があったとしても、それは頼んだ者が負うべき責任だ」

 整然と並べられる言葉は、何故かナイフでざくざくと刺し貫かれる様を連想させる。謎の胃痛だか何だかよく分からない、身体の中心奥底でじくじくと蠢く痛みを覚えながら、私は苦し紛れに反論を吐いた。

「そうは言っても、それじゃあ余りにも無責任でしょう」

 やるだけやって、やりっぱなし。上手くいかなくても気にしない、なんて。それは小さな子供なら許されるかもしれないけれど、いい年した私までもが踏襲してしまうのはどうか。

「では、逆に訊くが。君は子供の身で、どのようにして責任を取ると言うのかね? 責任を負うのは大人の役目であり、権利であり義務だよ」

 穏やかな調子で告げられる言い分に、妙な反発心が生まれる。結局のところ、それは慰めだろう。強大な敵に遭遇して、やり込められて、挫折を味わう子供に対する励まし。――けれど、私だってそこまで子供ではないのだから。そんなことを言われたって……言われたって……あれ……?

 不意に、目の前で光が弾けたような錯覚。自分でもよく分からない驚き。……いや、本当に。何の意地を張っているのだろう。今の私は、真実社会的な責任なんて取れない。それは紛れもない事実であり、その意味では確かに「子供」だ。頭の中、精神がどうあるかなんて関係がない。

 何かあれば、保護者であるクローロス村のハント家に類が及ぶ。だから、私はこれまでも何かにつけ、用心して手を打ってきたつもりであって――

「そも、まだ若輩の身で何を果たし遂せるというのだね? 自負は大いに結構。だが、それに見合うだけの技量がなければ、ただの自惚れに過ぎんよ。卑屈になれ、と言っているのではない。だが、自分の力量を正確に認識しなければ、自意識に振り回されることになるぞ」

 ――そう。私にできることなんて、元々それほど多くはない。だから、その上で状況を上手く整えておく為にあれやこれやと考えて、時には親しい人たちを利用するような真似もした。元からしてそんな体たらくだったのに、どうしてそのことを忘れて、今更また自分の無力を思い知らされてヘコまされたみたいな気になっていたのだろう。

「自意識過剰――今のように、ですか」

 ぼそりと言うと、ラファエルさんは小さく笑った。ご名答、とでも言うかのように。……少し憎らしいけれど、これまでの言葉は、きっと正しい。少なくとも、私の考え得る限りではまともな反論は思いつかなかった。完璧な降参である。

 はあ、と溜息を吐いてから、頷き返した。

「……心得ておきます」

「ああ、そうしてくれ。悩み足踏みするのは、若者の特権だ。今のうちによくよく悩んで試行錯誤しておくといい」

「へえ……経験豊富な人は言うことが違いますね」

「何だね、その口ぶりは。人を年寄りのように言ってくれるな。これでも君と十は離れていないんだぞ」

「ふーん、ほー、そうですか」

「また気のない返事を……まあいい、座りたまえ。昨日の今日で思うこともあろうし、昼食もまだ済ませていなかっただろう? 何か用意させよう、今しばらく休憩だな」

 そう言って、ラファエルさんは部屋を出て行った。私の返事も聞かずに。

 まあ、言われてみれば、確かに朝から何も食べていなかった。お腹が空いているかいないかと問われれば、そりゃあ間違いなく空いている。それは断言できる。今まで腹の虫が鳴らずに済んでいたのは、きっと奇跡か何かだ。そんなだから食べるものを貰えるとなれば、嬉しいことは嬉しいんだけれども。

「それでも、もう少し人の話を聞いてもいいんじゃないのって、ねえ」

 独り言を呟きながら、ソファに腰を下ろす。背もたれに寄り掛かると、途端に身体が重くなったように感じられた。気疲れだろうか、意外に疲れていたらしい。眼を閉じてみれば、あれやこれやと頭の中に考えが浮かんでは消えていく。苦々しいこととか、腹立たしいこととか、なんかもう色々。

「……子供、子供かあ」

 今改めて突き付けられて、再認識した。私の姿と立場、そしてこの世界における経歴は、十七歳の未熟な子供以外の何物でもない。そんなこと、初めっから分かっていたつもりだったのに。どうも最近はその認識が薄くなっていたようだ。そんなに自分を一人前だと思いたかったんだろうか。

 そう考えて、苦笑する。思いたかった――……うん、思いたかったんだろうな、私は。

 本人に言ったことはないけれど、あの人の立派な傭兵としての在り方を、私は素直に尊敬していた。有体に言えば、眩しく思うくらい、憧れてもいたと思う。だから、それに少しでも並びたかった。あの人はいつでも私を尊重してくれたし、首席だからって持ち上げてくれていたけれど、本当にその評価に見合うくらいの人間でありたかった。でも、本当はそうじゃなかった。まだ半人前で、至らないことばかり。

 あの人と出会ってからは、幸か不幸かそこまで自分の無力さを思い知らされる機会がなかった。だから、おだてられるままに調子に乗っていたのだろう。それが、あの人形遣いの出現で瓦解した。現実を思い知らされて……そう、恥ずかしくなった、と言うのが一番近いかもしれない。

 肝心な時で役に立たなかったのが歯痒くもあり、求められる役割を果たせなかったのが悔しかった。その中には、あの人に失望される恐怖も、もしかしたら少しはあったかもしれない。……まあ、その、あれだけど。そんなことしない人だろうとは、思ってるけどさ。勝手に。

 ともかく、そんなどうしようもないことでぐるぐると頭を悩ませて、その無力を役立たずだと自虐することで、きっと現実を直視することを避けていた。それがここ数日の私の実情だ。

 それこそ「自意識に振り回される」という奴かもしれない。私の頭は、どうしても今を二十三年の続きの十七年として認識して生きている。けれど、この世界で一から作り直された身体は前の二十三年となんら繋がりはなく、魔術に関してもそうだ。学院に入ることを意識してまともに学び始めてから、十年も経っていない。それこそ、まだ義務教育の年数を脱しないくらい。

 考えてみれば、そんな立場で歴戦の傭兵の隣に並び立とうとすること自体がおかしい。届かなくて当たり前だ。私は天才でも何でもなくて、それこそ二十三年分余計に生きた経験のある小賢しい頭を持つだけの、平平凡凡なただの十七歳の子供なのだから。この世界で生きてきた時間も、積み重ねてきた経験も、あの人とは何もかもが違い過ぎる。

 それでも――それでも、その隣に立っていたいと思っていたのなら。その事実を踏まえた上で、私は周到に立ち回るべきだった。おだてられて木に登るのではなく、褒められて錯覚に酔うのではなく。

 あの人形遣いに対してだって、そうだ。あちらはおそろしく腕の立つ魔術師。その力量差は、自虐だの妬み嫉みだののバイアスを取っ払って、正確に認識しなければならない。敵わないのなら、悔しいけれど、それはそれで仕方がない。それを認め、理解した上で手を打つべきだったのだ。いつも通りに腹黒くあれこれ考えを巡らせて、使えるものは全部使って、生き延びる術を模索するべきだった。

 調子にに乗って、そんなことも忘れて、自分が一端の大人の仲間入りをしているような気になっているから、いざ現実に対峙してみると呆気なく鼻っ柱を叩き折られて自虐に酔うことになる。……そんなことだから、勝手に預けられて、残されていく羽目になる。たぶん、守ってやらなきゃいけないとか、思われることになる。――そうとも、誰もそうだとは言わないけれど。私は確信しているのだ。

 あの人は、人形遣いを討つ為に独りで発った。私を狙うものを、私の敵を、その手で討ち果たす為に。明確な根拠なんてない、ただそういう人だからとしか言えないけれど、絶対、そうだと思っている。

「ほんと、お人好しというか、世話焼きというか……」

 でもって、そんな人なので、念には念を入れて私をデュランベルジェ邸に押し込むことにしたに違いない。私が自虐に酔ったままやさぐれて、怠惰に拗ねて時が過ぎるのをただ待つことを選んだとしても、万が一のことが起こり得ないように。妙に私に構ってくれる大貴族を、隠れ蓑に使うことにした。

 本当、目的の為に自分の好き嫌いも呑み込んでしまえる、立派な傭兵の手腕過ぎて泣けてくるね。そこまで私を守る為の根回しをしておいてくれながら、何も言わずに――言わせずに、独りで勝手に発ってしまうんだから。

 あーもう、と息を吐く。これからどうしよう、どうするべきだろうか。あれこれ策を練るにしても、手札が少なすぎる。というか、虎穴に入らずんば虎子を得ず的な思いと、後は多分に自棄が入り混じってここまで来てしまったけれど、デュランベルジェ邸に滞在するということ自体、かなり厄介な状況だ。人の噂に戸は立てられぬ、確実に今後の私はデュランベルジェ家の子飼い扱いになってしまう気がする。

「この際、起こってしまったことは仕方がないとして……目的をはっきりさせないと」

 まず思い浮かぶのは、自分の身の安全の確保。殺されるのだけは御免こうむる。

 それを最重要事項に据えるなら、この状況は願ってもないはずだ。アシメニオス一の大貴族、デュランベルジェ家のお屋敷。或いは、アシメニオス一の騎士、ラファエル・デュランベルジェその人。その庇護下で隠れていられれば、よっぽどのことが起こっても安全だろう。多少の風評被害をこうむるにしても、お釣りがくる結果だ。あの人の厚意も無為にせずに済む。

 ――でも。

 そう、何とも不思議なことに「でも」と頭の中で、もう一人の自分が待ったをかけるのだ。そのままでいいのか。本当にそれでいいのか、と迫ってくる。そして私は、それに否と答えてしまうのだ。どうしても、素直に受け入れることができない。何故、と自問してみれば、答えは思いの外簡単に見つかる。

 デュランベルジェの子飼いになるのが嫌なのか? ――今更だ、既にその噂は広まっている。

 あの人形遣いが怖い? ――当然だ、あんなもの怖くない訳がない。

 では、何故か。何故、目的を十全に果たせる環境にありながら、釈然としないものを覚えるのか。それは――……えー、つまり。……うーん、改めて意識すると、なんかむず痒いな、これ。

「いや、一人で何ブツブツやってんのって話だけど」

 要するに、だ。私は、私を置いて独りで発ったあの人が、気にかかって仕方がないのである。

 ここで目を閉じて耳を塞いで、ただ時が過ぎるのを待っていたら、私は何らは危険に晒されることなく事態の解決を迎えられるのかもしれない。けれど、たぶん、それでは取り返しのつかないものを失うことになるのだと思うのだ。

 何と言うか、上手くは言えないのだけれど。けれども、ここで何もしないでいれば、この先もう、二度とあの人に正面切って向き合えない気がしてならない。隣に並び立ちたいと思った、そのことにすら背を向けることになる気がする。それだけは、どうしても――とても、嫌だ。

 ……けれど、あの人はラムール石の飾りを置いて、ラファエルさんと共謀してまで独りで発った。発ってしまった。すなわち、それは私に追ってきて欲しくないという意思表示であり、追わせないないようにするという策略に他ならない。

 ラファエルさんにしても、わざわざ執事さんに紹介してくれた上、お付きのメイドさんも用意してくれてある手際を見るに、この屋敷への滞在がそう短期的なことにならないことを想定している節があるような気がする。あの人とどんな取り決めをしたのかは分からないけれど、捜査への協力と言う名目で、最悪の場合、状況が解決するまでこの屋敷に留め置かれることも有り得るのではなかろうか。

「何にしても、手札がなさ過ぎるんだよなあ……」

 第一、仮にこの屋敷を脱出したとしても、私にはあの人を追う術がない。それどころか、身を守れるかどうかも怪しい。傭兵ギルドで護衛を募るにも、ギルド経由でラファエルさんに連絡が行って連れ戻されるに決まっている。前にラファエルさんは自分の方で傭兵ギルドに手を回してもいい、と言っていた。つまり、ギルドとの間には既にパイプがあるのだろう。よって、傭兵ギルドは頼れない。

 後はもう、それこそ個人的な付き合いを頼るしかないけど――

「シェーベールさん、それから……アルドワン講師、は無理か。お師匠様だしなあ、あっちの味方するだろうし。後はデュナン講師、も……繋がってたらやばいなあ」

 こう考えると、自分の交友関係はどんだけ狭いのかと空しくなってくる。今後はもう少し社交的に振る舞えるよう、気を付けよう……。というか、仮に人を集められたとしても、行き先が問題だ。人形遣いはどこにいるのか、あの人はどこに向かったのか。これじゃあ八方塞がり五里霧中もいいところだ。

 ……ううむ、まずい。このままじゃあ、状況を理由に折角の反骨心が萎えてしまう。それはいけない、大変宜しくない。

「あーもう、参ったなあ!」

 頭を抱えて呻く。すると、不意に柔らかな風が頬を撫でたような気がした。

 はたと顔を上げる。いつの間にか開いていた窓から、赤い蝶が舞い込むのが目に入った。

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