08:力無きものたちの為に-08
「開式――緑の楯よ、護れ!」
降り注ぐ無数の銀の鏃は、流星雨にも似ていた。木々の合間を縫い、弧を描いて射込まれる矢はただ一人ヴィゴさんを狙っている。そうと気付いてからの行動に、迷いや躊躇いはなかった。
枝から飛び降りながら、緑泥水晶を投げる。魔力を糧にして、石から蔦や枝葉が発生。溢れ返るそれらが綿密に編み込まれ、瞬く間に楯の形を成す。ちょうどヴィゴさんと矢の中間地点で展開した途端、ざくざくと鈍い音を立てて矢が突き刺さるのが聞こえて、背筋が冷えた。
「ヴィゴさん、こっち!」
上っていた木の裏に隠れながら呼び掛ければ、心得たという風でちらりとこちらに目線を向けたヴィゴさんが後退を開始する。盾をすり抜けてきた矢を槍で払い落としながら、じりじりと。こんな状況でなければ、さらっと矢を斬り捨てる技量に驚いていたかったのだけれど。
ざくざくと矢の突き刺さる楯は、早くもあちこちに穴が開いていた。この様子では、折角作り出したのにそう長くはもちそうにない。どうしたものか、とちらり手持ちの石を探っていると、
「――やべっ!」
不意に焦ったような声が上がり、慌てて顔を上げた。声のした方を見てみれば、蔦と枝の盾が信じがたいほどに大きくたわんでいる。まるで何か強い力で一点を貫かれたような、嫌な屈曲。そのこと自体にも驚いたけれど――
「ヴィゴさん!?」
それ以上に、見やったその人の構えがやけに不自然に崩れていて、愕然とした。口を突いて出た声はほとんど叫ぶようで、裏返りかけてすらいた。一瞬私を見たヴィゴさんは何かを言おうとして止め、敵に背中を見せる格好になるのも構わず、ほとんどスライディングするように木陰へと飛び込んでくる。
間一髪、寸前までヴィゴさんが立っていた場所を歪んだ楯ごと矢が射抜いて爆散させた。前から思ってたけど、あの矢の威力は一々おかしいな! ほんとに矢か! 大砲の間違いじゃないの!?
こうなったら、悠長に手段を選んでもいられない。咄嗟に手に取った石に以前もらったナイフでルーンを刻み、楯にしている木の脇から前方に向かって放る。
「開式――万象は静止せよ!」
詠唱に従って内蔵魔力を放出し、きらきらと輝く石の色は碧。以前からちまちま魔力を溜めておいた「碧の女帝」の欠片だ。刻んだルーンは静止、発生するのは触れたものをその場で静止させる魔力の力場。物理的な楯で止められないのなら、魔術でどうにかするしかない。矢を止めるごとに魔力を消費し、全て使い切れば力場も消えてなくなるけれど、いくらかの時間稼ぎにはなるはず。
――で、ようやっとヴィゴさんに意識を戻すと。
「うわっ、二の腕すっぱり切れてるじゃないですか!」
乱暴に破り捨てられた左袖の下に浮かぶ、一条の赤い線。腕を掠めた鏃はよほどの速度だったのだろう、出血は驚くほど少ない。ただ、それにしては様子が妙に思えた。パッと見ただけでも、傷はそれほど深くない。それなのに何故あそこまで構えが崩れ、袖を破りまで……?
はて、と首を傾げた時、覚えのあるにおいを鼻先に感じた。もちろん、その根源はヴィゴさんの傷だ。
「これ――ナティス草!?」
独特の甘苦い芳香を持つその植物は、森や山に入る狩人には馴染み深い薬草だ。搾り汁は即効性の高い痺れ薬になるけれど、ある程度時間が経つか熱を加えると無効化されるし、経口摂取では無害なので肉を取る獣に使ってもそれほど商品価値が下がらずに済む。
森に分け入る狩人らしく、ヤルミルもその利用方法を知っていたらしい。鏃に仕込んで射てくるとは、何ともオーソドックスな活用方法をしてくれやがってからに……!
「ヴィゴさん、腕が痺れてますね? 喋れますか? 眠気は? 意識ははっきりしてます?」
顔を覗き込みながら問うと、苦々しげな色をした目が私を見返し、「なんとかな」と答えた。苛立てるだけの気力は残っていて、喋ることもできる。なら、まだ大丈夫だ。とは言え、止め処なく矢を射掛けられ続けるこの状況では、痺れが抜けるのを待っていられる余裕もない。
ええと、確か手持ちの孔雀石は毒素を吸い込む特性があったはず。それから癒しの泉の水瓶もいくらか持ってきてあるし……
「すみません、私は解毒とか浄化の魔術に明るくないので、物理的な手段になりますけど。文句は後で聞きますから、少し大人しくしててくださいね」
言うだけ言って、傷の浮かんだ腕を取る。ヴィゴさんが怪訝そうな顔をするのも見えてはいたけれど、敢えて反応はしなかった。
癒しの泉の水瓶の封を開け、傷口に振りかけて軽く流した後、自分の口に含んでよくすすぐ。虫歯はなかったはずだし、まあ、大丈夫だろう、たぶん。よっぽどのことがない限り、ナティスの痺れ薬で人は死なない。口の中の水を吐き捨ててから、入れ替わりに孔雀石の欠片を舌の上に。これはあくまでも呑み込まないよう、注意して。
ここまできて、ヴィゴさんも私が何をしようとしているのか分かったのだろう。オイ待て、と焦った声が聞こえたけれど、この際無視である。あーあー、何を言ってるのか聞こえないなー!
そうして、私はヴィゴさんの腕に顔を寄せた。傷に口を付ければ、掴んだ腕がびくりと硬直する。まるで石か何かのように固くなってしまった腕に苦笑したいような気分になりながら、血を吸い出す。ううむ、不味い。吸血種はこれを美味しく感じるのだろうか。到底分かり合えそうにない。そんなことを考えて努めて意識を行為から逸らしつつ、口の中に溜まった血を吐き捨てる。それから念の為、口をすすいでからもう一度。
確か子供の頃一度、物は試しにと舐めさせてもらったナティスの搾り汁はにおいと同じく甘苦い味をしていたはず。二度目で吸い出した血はもう血の味しかしなかったので、石ごと吐き捨てた。地面に転がった石は痺れの毒を吸ったからか、すっかり淀んだ色合いに変わってしまっていた。
一本目の水瓶が空になってしまったので、二本目を開ける。傷口を洗って、口をすすいで。念の為仕上げに治癒のルーンを刻んだ孔雀石を傷に添えると――
「お、動く」
そんな声と共に掴んでいた腕の指先が開閉し始め、ほっと息を吐いた。どうやら最悪の事態は回避できたらしい。――もっとも、いよいよ防壁が消え始めたらしく、木に矢が突き刺さる音が聞こえ始めているので、相変わらず余裕なんてものは欠片もないのだけれど。
「それは良かった、戦えそうですか?」
「おうよ! ――で、その、なんつーか……ありがとうな」
気まずそうに頭を掻いて、ヴィゴさんが言う。私はどう答えたものか一瞬迷い、結局苦笑して肩をすくめてみせた。必要なことだからと考えないようにしていたけれど、やっぱりお互いに気にせず流す、というのは難しいだろうか。
「必要なことと、できることをしただけです。もう少しできることが多ければ、余計な心労を掛けずに済んだと思うんですけどね」
「心労て」
「困るでしょう、反応に。ああいうことされても」
言っている最中に防壁を突き抜けてきた矢が木を掠めて足元に刺さったので、抜いて手に取ってみる。木と金属と羽根でできていることは間違いないけれど、やはり天然のものではなく魔力で編まれたもののようだ。まあ、そうでもなければここまでの大盤振る舞いなんてできないに違いない。矢を一本用意するのだって、それなりの時間と費用がかかる。
「困るって……いや、困らねえ、訳じゃねえけどよ……」
「ところで、この魔力のにおい追えます?」
何やらモゴモゴ言っているヴィゴさんの鼻先に、拾った矢の矢羽を向ける。すると、途端にまた真剣な表情になって、すん、と鼻を動かした。
「問題ねえ、いけるぜ」
「私を背負っても?」
「お前一人くらい、軽いもんだ」
「じゃ、それで行きましょう。私が背中から矢を防いで、ヴィゴさんが追跡。たぶん、ヤルミルは近接戦闘が苦手なんだと思うんですよね。私がそうであるように」
「何でそう言えんだよ?」
「弓矢が武器の狩人が、獲物と殴り合いできると思います? それに、戦車をまるごと囮に出して、痺れ薬まで使って矢で仕留めに来てるんです。どうしても近付いて欲しくないってことで――うわっ!」
言い終える前に木の前面で爆発が起こり、めきめきと音を立てて倒れ始める。舌打ちをしたヴィゴさんは私を抱えて木陰から飛び出した。
「細けえこたあ分かんねえが、どっちにしろあの野郎をぶっ潰しゃ全部終わりだろ! 負ぶってくから振り落とされんなよ!」
走りながら背負い直され、慌ててその首に腕を回す。左手で私を支えてくれながら、右手に槍を持ってヴィゴさんは木立の合間を駆け抜けていく。
私の仕事はその足が止まらないよう、際限なく飛んでくる矢を逸らすことだ。始めはまた石で防壁でも作ろうかと思ったのだけれど、如何せん相手の手数が多過ぎる。石を早々に使い果たす未来が見え透いていたので、風を繰って矢の軌道を逸らすことにした。飛来する一本一本への探知と干渉は少々面倒だけれど、ヤルミルの所在把握と追跡をヴィゴさんに預けている分、そこまで難しいことでもない。
「あんにゃろう、じりじり後退し始めてやがんな」
追跡を開始してほどなく、ヴィゴさんが忌々しそうに言うのが聞こえた。
「そうなんですか? ……追い付けます?」
「俺を誰だと思ってんだよ。――追い付く!」
語気荒く言うヴィゴさんの肩が、俄かに隆起したような感触があって驚く。何事かと目を見開けば、目と鼻の先にある横顔が思いもよらない変化を遂げていくのが見て取れた。
口吻が長く前に伸び、皮膚は厚い毛皮に覆われていく。耳は楕円形から三角形へと形を変え、これもまた柔らかな毛並みに覆われていった。――要するに、何が起こっているかと言えば。
私を背負って走る人は、あっという間に二足歩行の犬か狼かといった出で立ちに変じていたのだ。毛並みは髪と同じ鋼のような銀灰色で、その割にふかふかとしていて思いの外柔らかい。顎の下に手を伸ばして撫でくり回したい衝動を堪えるのに、正直結構苦労した。やったら絶対怒られる。
「ヴィゴさん、獣人だったんですか」
どうにか平静を保って問えば、「違えよ」と事もなげな返事。
「獣人てのは、最初っから獣混じりの見掛けしてる連中のこったろ。俺は人獣族。人の形と獣の形を行ったり来たりする類で、あいつらとは似てても違うモンだ。その気になりゃあ、あいつらと違って完全な獣みたくもなれるしな」
「はあ、なるほど……。全く気付きませんでした。獣の姿を取らなければ、人と変わらないんですね」
「んにゃ、そうでもねえぞ。――言ったろ、人より鼻が利くって」
……ああ! そうか、あれはそういうことだったのか。
飛んできた矢が風に圧されて近くの茂みに飛び込んでいくのを横目に、少し笑う。
「一本取られた気分です。今の姿の方が、やっぱり足とかも速くなるんですか?」
「おうともよ。つー訳で、ちと急ぐ。しっかり掴まってろよ!」
言って、ヴィゴさんはぐんと加速していく。木々の間をすり抜け、風のように矢のように駆け抜ける。お陰で私の顔面にかかる風圧も凄まじく、目を開いているのにも苦労するくらいだった。おそらくヤルミルもヴィゴさんの移動速度の急激な変動に驚いているのだろう、射られる矢は私が干渉するまでもなく逸れて外れていく。ざざざざ、と音を立てて下草を踏み分け、茂みを突き進む音を聞きながら、私はふかふかの毛並みに覆われた首筋に顔を埋めて、ひたすら必死に大きな背中にしがみ付いていた。少しでも力を緩めたら、その瞬間に振り落とされてしまいそうだった。
「ヴィゴ、さん! 後、距離どれくらいです?」
「もうちょい――って、そこで喋んなくすぐってえ!」
「我慢してくださいよ、仕方がないじゃないですか。くっついてないと振り落とされそうなんですよ。別にもふもふしてて気持ちいいからくっついてるとか、そんなんじゃないですし!」
「お前なあ!?」
「冗談ですって」
だがしかし、このもふもふの気持ちよさよ。多分くっついて寝たら、相当気持ちよく寝られる気がする。いつか是非ともお願いしたい。絶対怒られるだろうけど。
「――て、あれ? ヤルミルいなくないですか?」
矢の排除を気にしなくて良くなった分、周囲を探索する余裕ができた。そうして探ってみたらば、行く手のどこにもそれと思しき気配がなかったのだ。
「ああ、上だ上。あいつ、木の上にいんだよ」
ヴィゴさんが鼻先を動かして、前方を示す。見れば、五メートルも離れていないところに一際背の高い木が聳えていた。見上げても天辺が見えないほどの巨木。周囲から一つどころか三つや四つは図抜けている感がある。あれなら、確かに狙撃台にはちょうどいいかもしれない。
「どうやって下ろすんです?」
「燃やすに決まってんだろ」
「はい!?」
図らずも上げてしまった素っ頓狂な声もお構いなしに、ヴィゴさんは走る足を止めず巨木の根元へと駆け込む。木とのすれ違いざまに槍を振るってみせるや、重厚な色合いの幹に刻まれたのは二筋の亀裂。炎のルーン。
「そら、燃えろ!」
注ぎ込まれる魔力に反応して、刻まれた文字が紅蓮の炎を噴き上げた。対象に直接刻むことで指向性を得た炎は周囲に延焼する気配も見えず、ただただ一本の木を呑み込むべく燃え上がっていく。
ただ、燃え移る心配はなくても、熱は平等に放射される。炎から距離を取るには巨木から離れなければならず、そうすれば必然的に樹上からは狙いやすくなる。案の定、ヴィゴさんの足跡を追うように樹上から矢が降り注いできた。
「しぶてえなあ、とっとと燃えろってんだ」
さりとて、ぼやきながらも軽々と振るわれる槍にことごとく圧し折られて、それらの矢が私達に届くことはなかったのだけれども。そうして矢を払い落とす間にも炎は燃え盛り、上へ上へと上っていく。燃え上がる火の手が届いたのか、しばらくすると矢の雨もぴたりと止んだ。
とは言え、黙して焼かれるような相手でもないだろう。いずれ落ちてくるか――降りてくるはず。
「私、降りてますね」
「おう、くれぐれも油断すんなよ」
はい、と答えながらヴィゴさんの背中から滑り降り、少し考えた末に手近な木の傍に立つ。下手に隠れてみたところで、どうせヤルミルも探索に長けているのだし意味はない。それよりもヴィゴさんに私がどこにいるか把握していてもらう方がいいだろう。
「援護はどうします?」
「んにゃ、いい。自分の身を守ってろい」
「いいんですか? だったら、大人しくしてますけど」
答えている最中、ふと視界の端に黒いものがちらつき、空を見上げる。炎は随分と燃え上がっていったようだ。黒い燃え滓が、小雨のようにはらはらと降ってくる。
ふわりふわりと漂ってくる黒色を見上げながら待っていたのは、そう長いことではなかったのだろうけれど。遥か遠い樹上で燃え盛る枝葉が圧し折られる音が聞こえ、黒い影が落ちてくるまでには、随分と掛かったような気がした。
重い音を立てて地面に降り立ったのは、焦げ跡や煤で汚れた人形だ。やはり体格はヴィゴさんと同じくらい。右手には弓が握られ、煤けて襤褸じみた衣服の合間に覗く胸郭には、ぽっかりと丸い穴が空いている。その奥には、ぬらりと紅く煌めく石が埋め込まれているのが見えた。そして、憎々しげに私達を睨み据える双眸には、未だ禍々しい黒色が渦を成している。
今度こそ影武者ではない、正真正銘のヤルミルと見て間違いなさそうだ。
「ったく、手間あ掛けさせてくれたもんだぜ」
言いながら、ヴィゴさんは気負いのない足取りでちょうど私とヤルミルを結ぶ直線上――私を庇う位置に歩いてくると、右手に握った槍を構えてみせた。けれど、その姿は少しぎこちない。槍を持つのも右手だけで、左手はほとんど添えているだけのような状態だ。
痺れ薬の大部分を排除することはできたものの、その影響全てを拭い去ることはできない。動きはしても、全快ではないのだろう。私がもっと治癒や浄化に長けていたら良かったのだけれど――今更言ったところでどうしようもない。ここはただ、言われた通り自分の身を守りながら状況を窺うに徹しよう。
「つーかよ、てめえ、狙うなら俺達じゃなくて王の使いを狙やいいだろうが。あっちのがてめえの敵だろうがよ」
「山を越えるものは撃ち落とす……。館に近付くものは、排除する……」
ヤルミルの返答はうわごとのような呟きだけで、到底会話が成立しているとは言い難い。
「話の通じねえ奴だな……」
やれやれ、とヴィゴさんが溜息を吐く。いやまあ、狂った人形に論理的な会話を求めても仕方がないと言いますかね。
「多分、自分の妄執と下された命令がごっちゃになってるんですよ。山を越えるものを撃ち落とす為に森の中に置かれたんでしょうが、下手に私達が館と関わっちゃったんで、二重の意味で標的になってしまった。それで他が見えてないんじゃないですか」
「そういうもんかね……。ま、なんでもいいか。七面倒臭え追いかけっこも、これで終いだ。さんざ迷惑掛けてくれた落とし前、きっちりつけてもらうぜ!」
獣の耳を揺らせて、ヴィゴさんが地面を蹴る。未だ燻り続ける巨木を背にして迎え撃つヤルミルは憎々しげな表情を浮かべて弓を構え、空の手で弦を摘んだ。弓弦がぐいっと引かれると、その指にはいつしか一本の矢がつがえられている。
……まさか、あの一瞬で弓を作り出した!? 思わず絶句する私を余所に、極限まで引き絞られた矢が放たれる。その上、あろうことかその矢は空中で五つに分裂すらしてみせた。悔しいけれど、魔術を用いた狙撃において、ヤルミルは完全に私よりも上手だと認めざるを得ない。私はまだ矢の生成すらできないのに、軽々と分裂操作とか。一枚どころか二枚も三枚も上を行かれていて、正直なところを言えば――そりゃあ、もう。悔しいどころの話ではないけれども。
――でも、まあ、何だ。私より上手いからと言って、それが通用するかと言えばまた別のお話なのである。何たって私の雇っている傭兵さんは、そんじょそこらの有象無象とは訳が違うのだから。
ハ、と短く呼気を吐くように笑ったヴィゴさんは、迫り来る五矢を前に躊躇いなく突っ込んでいった。唸る朱の槍は矢の三本を叩き落としたものの、残る二本は防ぐまでもなかったのだろう。頬の毛並みと肩を掠める矢を一顧だにせず、銀の獣は堂々と駆けた。
十メートル近かった彼我の距離を一息に詰め切って、薙ぎ払う槍が弓を破砕する。ヤルミルが壊れた武器を捨て、腰のナイフを引き抜くけれど、それも全て無駄な話。槍の間合いに入ってしまった時点で、勝負は決まったようなものだ。
奔る穂先が的確に手首の球体関節を抉り、ナイフを取り落とさせる。そうして徒手空拳となっても、槍の攻め手が緩むことはなかった。次いでナイフを振るおうとしていた右手の肩が貫かれ、その衝撃でヤルミルの身体が大きく傾く。それは素人目にも明らかな、致命的な隙だった。
ほんの数瞬、けれど充分すぎる猶予を得て槍を引き戻し、ヴィゴさんはぐっと地面を踏み締めて構え直す。渾身の一撃が繰り出されるのだと、私ですら分かる予備動作。低く腰を落とした動きの狙うところ、確実に狂える人形を止められる箇所と言えば――そんなもの、たった一つに決まっている。
終わりの時を予期していたのはヤルミルも同じだろう。ただ、彼には狂気に落ちて尚――或いは狂気に沈み込むほどに、希い渇望するものがあった。嫌だ、と拒絶の咆哮が迸る。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……! 俺は、負けない、負けられない……! 家を、家族を、守」
妄執をそのまま声音に変じたような叫びは、しかし、唐突に途切れた。
胸郭の露出した核から、俄かに黒い荊のようなものが溢れだしたのだ。おそらく、それに対する驚きは三者共通。私はぎょっと目を見開いたし、ヴィゴさんの動きも一瞬止まった。ただ、ヤルミルの反応だけが少し違った。呆然としたような表情を浮かべた後、憤怒を露わに吼える。
「ふざけるな、お前の命令など聞かない……! 壊れてなどやるものか……! まだ、まだ俺は壊れられない……! 彼女を、皆を、守るまでは……!」
血を吐くような呻き。まだ動く方の手が、核から溢れる荊を掻き毟るような動きを見せる。けれど、荊は決して指に掛かることはなく、虚像のようにすり抜けてしまった。
ならば、あれは実体でなく――目に見えるほど緻密に織りなされた何らかの魔術の発露。
咄嗟に探索の魔術を差し向ければ、津波のように押し寄せてくる情報の数々。急速に思考が回転し、あれやこれやと閃いては消える。とはいえ、暢気に考え込んでもいられない。
一瞬その動きを止めたものの、気を取り直したのか再びヴィゴさんがヤルミルを仕留めに掛かろうとしているのだ。それはまずい、大変まずい。ひょっとしたら、あれはとっておきのカードになるかもしれないのだから。破壊されては困る……!
「ヴィゴさん待った、壊しちゃ駄目!!」
叫んだ瞬間、ヴィゴさんの肩がびくりと揺れるのが見えた。けれど、槍は止まらない。止められなかったのかもしれない。ヴィゴさんが距離を詰めた分、私の視界からヤルミルの姿が見切れる。お陰で、私の眼に「その瞬間」が映ることはなかった。目に映るものはなく、ただ音が聞こえていたばかり。
初めに聞こえたのは、かしゃん、と拍子抜けするほどに軽やかに響く破砕音。一拍遅れて、燃え残った巨木の幹に槍が突き刺さったのか、ごりりと堅く削るような。それはさながら、全ての決着を思わせるような、重々しい音色だった。
ああ、と呟いた声は、我ながら笑えるくらい沈んでいた。けれども笑う気にもなれず、項垂れて心の中で嘆く。――ああ、間に合わなかった……。
「……お前は、ほんとに時々無茶を言うっつーか何つーか、なあ、おい」
「へ?」
ため息交じりの声が聞こえて、はたと顔を上げる。そうして目に入ったものに、ギョッとした。
不服そうな顔をしてこちらを振り向いているヴィゴさんの、その向こう。確かにヤルミルは槍で巨木に縫い止められていたけれど。貫かれているのはあくまでその喉笛であり、胸郭の核はまだ黒々とした荊が溢れるがまま、無傷でそこにあった。
咄嗟に狙いを変えてくれたのだと気付いて、思わず飛び上がる。
「こ、壊れてない! やった! よかった! すみませんありがとうございますウェーイ!」
飛び上がった勢いのまま走り出して、まだ獣の姿をしたままのヴィゴさんに抱きつく。おい、と咎めるような声が上がったけれど、この際無視だ。両手を挙げた変な格好でフリーズしているヴィゴさんの背中を胴に回した手でバンバン叩いた後、足取りも軽くヤルミルの許へ向かう。
「馬鹿、待て! まだそいつ動くんだぞ!」
「大丈夫大丈夫、考えてます」
まず投げるのは緑泥水晶。刻むルーンは束縛、込めた魔力が蔦を織りなし、ヤルミルに巻き付いて拘束する。そうして完全に身動きのできなくなったヤルミルの核と、それを覆う荊に投げ込むのは鎮静効果のある月長石。こっちのルーンは静止、荊ごと核を休眠させる。
そうすると、溢れていた荊はすっかり核の中に込められて消え、ヤルミルのもがく動きも止まった。後は仕上げに蔦で核の穴に封をしてしまえば、拘束が解けない限り復活することもなくなる。
「ふっふっふ、私がただで転ぶと思ったら大間違いだってんですよ……」
「……何ブツブツ言ってんだお前?」
「何でもないですって。さ、とりあえず運んでください」
ヤルミルを示して言うと、今度はヴィゴさんが目を丸く見開かせた。
「運ぶって、こいつをか!?」
「そうですよ、他にないでしょう? まあ、悪いようにはしませんから。ね、お願いします」
両手を合わせて拝んでみせると、ヴィゴさんは言葉に詰まって黙り込んだ。それからバリバリと頭を掻き、深々とした溜息を吐いてみたりと、悩むような素振りを見せていたものの、
「分かったよ、ったく……」
何だかんだで、こうやって折れてくれちゃうのである。いやあ、有難い。ついにんまりとした笑みを堪えきれないまま「ありがとうございます」と言ったら、物凄く恨めしそうな顔をされたけど。
「いや、ほんと感謝してますよ。いつも我が儘聞いてくれて、ありがとうございます。よっ、太っ腹! 男前!」
「そう言うなら、少しゃあ自重しろよお前……」
がっくりと肩を落とすヴィゴさんの姿は、徐々にいつもの人間以外の何者でもないものへと戻りつつあった。ふかふかの毛の消えた人間の手で槍を引き抜き、面倒臭そうにヤルミルを小脇に抱える。
「もう人間の姿に戻っちゃうんですか?」
「あ? もう必要ねえだろ」
「必要がなくても、需要はありますけど。主に私に。尻尾とかあるんですか? もふもふですか? もふもふですよね? ちょっと触――」
「絶対させねえからな」
「あいたっ!」
ずびしと私の脳天にチョップを見舞い、ヴィゴさんはずんずんと歩き出す。
「おら、アホ言ってねえでとっととついてこい!」
「あーもう、分かりましたよ! でも、何と言われようと尻尾は諦めませんので!」
「そこは諦めろよ!?」
そんな話をしながら、森を館に向かって進んだ。思えば、久しぶりに穏やかな気分だった。




