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青の羅針儀  作者: 奈木 一可
第一部
37/99

08:力無きものたちの為に-06

『それはまた、厄介なことになっているな。……生憎と、私にその件について奏上する権限はない。力になれそうにないのが申し訳ないが』

 館を巡る面倒な事情を一折説明すると、ソイカ氏は重々しく溜息を吐いた。

 確かに技師連の人形師にとっては、畑違いも甚だしい話題だろう。それは分かっていたつもりだから、別段その反応に落胆することもないのだけれど。

『しかし、泉と館の主の間に何らかの契約が発生しているのは間違いないのだろう?』

「間違いありません。そもそも、これまでの三百年で王のものになっていなかったということは、相応の理由があるはずでは」

『そうだな。……ひとまず、泉と館の主の契約について証明できるようにするといい。王に疑いを持たせること、それが第一だ。それさえできれば、後はあちらで勝手に調べるだろう。疑いさえすれば、必ず自分に忠実なものに詳しく調べさせるはずだ』

「調査結果の改竄や隠蔽を防ぐために、ですか」

『その通りだ。矜持に関わるかね?』

「いえ、生憎とそのようなものの持ち合わせはないもので」

『それならば結構だ。何も君が全てやってやる必要はない。――まだしばらくは、技師連も暇が続きそうだ。何かあれば、鳥に声を掛けてくれ。私の方でも、少し調べてみる。泉について何か分かったことがあれば、或いは王の方で動きがあれば知らせよう』

 そう言って、ソイカ氏との通信は途切れた。終わった途端に壁に寄り掛かって舟をこいでいたヴィゴさんが頭をガクッと揺らして「お、おお……寝てた……」とか言って顔を上げるのが見えて、何と言うか脱力する。……って、よくよく考えてみれば、ヴィゴさんもこれまで私の分も警戒しながら森を行ったり来たりしていたのだし。疲れているのも当然か。少々失礼だったかもしれない、ごめんなさい。

「話は終わったので、もう寝ちゃっても大丈夫ですけど。よっぽど眠いなら、そこのベッド使ってていいですよ。私はもう少し資料を整理するつもりなので」

 言うと、ヴィゴさんは私を見て「またこのアホは……」とでも言いたげな顔をした。

「お前なあ、ほんとにそういうこと気安く言うんじゃねえよ」

「ヴィゴさんにしか言ってませんよ」

 言い返せば、返事の代わりに深い深いため息。それを無視して動かなくなった銀の鳥を鞄にしまっていると、不意に眩いばかりの光が部屋の中に満ちた。ギョッとして、ヴィゴさんと顔を見合わせる。

 何が起こっているのか。カーテンを透かして、窓の外から真白い光に照らされている。そう認識した瞬間、背筋を駆け上がったのは悪寒だった。考えるよりも早く身体が動く。

「オイ待て、下手に動くな!」

 制止する声は聞こえていたけれど、右から左に抜けていく。カーテンに手を掛け、そのまま開けようとして――ぐん、と後ろに身体が引かれた。襟を掴んで引かれたのだろう、その勢いで軽く首が締まりかかる。ぐえっ、と喉から潰れた声が飛び出した。

 締まってます締まってます、と声を上げようとしたら、その発生と同じく唐突に光が掻き消えた。かと思えば、ガシャンと何かが割れるような音。俄かにカーテンの布地が大きくうねる。描かれるのは、外から突く一点を中心に据えた螺旋のような。外側から何か回転するものに巻き込まれて、薄布が引き裂かれ突き破られる。

 それに対して反応できたのは、ほとんど偶然――或いは奇跡のようなものだった。目の前に迫る、無機質な銀の光。思考ではなく反射で身体が動き、首を傾ける。鋭利な鏃に頬を抉られる痛みは、ひどい熱に似ていた。その熱に浮かされたかのように、スゲーな私、今の避けたよすごくね? と妙な昂揚が沸き立つ一方で、全身が怖気立つような、氷水を頭から浴びせかけられたような、ぞっとする心持でもある。要するに、混乱して動けずにいた。

 襟を引く手は離れたものの、引っ張られた勢いで床に尻餅をつく。視界の端で、ぱたた、と抉れた頬から飛び散った血が床に落ちるのが見えた。それで脳裏をよぎったのは、こんな時にも関わらず服のことだった。血で汚れたら嫌だな、と。左手で傷を押さえながら背後を振り返れば、一本の矢が壁に突き刺さっている。これまでとは違ってごく普通の、矢羽と木でできた矢だ。一体どんな心境の変化があったやら。

「あ――んの野郎!」

 怒りに震えた声が聞こえて、はっと声のした方に顔を向け直す。槍を持っていないにもかかわらず、ヴィゴさんは今にも穴のあいた窓を蹴破って出ていきそうな有り様だった。咄嗟に探索の魔術を走らせるも、狙撃手と思しき気配は人の足では到底追い付けそうにない速さで館から遠ざかっている。この速さからするに、馬にでも乗っているのかもしれない。

「ヴィゴさん、待った、ストップ! ヤルミルはもう逃げてます、今からじゃ追いつけない」

 叫ぶと、辛うじて窓を蹴破る前にヴィゴさんは思いとどまってくれた。お陰で左頬がまた過激な痛みを主張してきて、軽く呻く羽目になったけれども。

 ともかく一瞬の間の後、ヴィゴさんは大きく息を吐いて怒らせた肩から力を抜き、こちらを振り返った。その顔は、苦々しげに歪んでいる。

 もちろん、その表情に思うところがない訳ではないし、血の滴り続ける傷は未だじくじくと痛んで気を重くさせるけれど。それでも今は、先に言うことがある。立ち上がろうとして何故かできなかったので、格好悪いことこの上なくも尻餅をついたまま、軽く頭を下げた。

「すみません、話聞かないで勝手に動いちゃって。それから、助けてくれてありがとうございました」

「俺あ助けてねえよ。助けられなかった。お前が自分で避けたんだ。……よく避けたもんだぜ。完全にやられたかと思った」

 言って、ヴィゴさんはまた重苦しい息を吐く。今度の吐息は怒りを逃すと言うよりも、緊張から解放されたような、安堵の表れのように見えた。

「勝手に動いて墓穴掘られんのは勘弁だけどよ……まあ、いきなりのことだったしな。こういう経験のねえヒヨッコが驚いて判断を間違えても、しょうがねえだろ。普通なら確実に死んでるとこだったけどよ、何だかんだ生きてるしな。それだけで良しとするっきゃねえわな」

 言いながら、歩み寄ってきたヴィゴさんが私の前で膝をつく。

「傷どうだ、見せてみな」

 促されるまま、手を下ろす。掌の血でべたついた感触と、頬のがびがびと貼りついたような感触が、やたらと不快に感じられた。躊躇う気持ちがないではないものの、顔を動かして傷をヴィゴさんに向ける。目の端で、また一層苦い顔をするのが見えて、何とも申し訳ない気分になった。

「……ちと触んぞ」

「あ、はい」

 頷くと、伸びてきた指先が傷の周りを調べるようにちょいちょいと触れた。うっかり肩が跳ねてしまったのは、あくまでも反射であって、痛かった訳ではないのだけれど。

「悪い、痛かったか!?」

 慌てふためいた声が上がったので、首を振る代わりに手をひらひら振ってみせた。

「あ、すみません、大丈夫です。ちょっと驚いただけなので」

「そ、そうか? なら、良いんだけどよ――sowelu(ソウェル)beorc(ベオーク)

 呟く声が聞こえ、傷口に痛みとは違う優しみのある暖かさを感じた。呟かれたルーンから推測するに、治癒が施されたようだ。

「とりあえず治癒は掛けといたが、後で本職の医者に診せた方がいいだろ。痕も残らねえようにしねえといけねえし」

「ありがとうございます。……まあ、多少の痕くらい気にしませんけど」

「いや、しろよ。お前がしなくても俺がするから、どっちにしろ後で医者な」

 何なのだろうか、その論法は。結局私に選ぶ余地がないんですけどもね。

「んじゃ、俺はちょっと水とってくるから、お前はここで大人しくしてろ」

 挙句の果てに、言うだけ言って部屋を出て行ってしまった。

 その背中を見送って、やれやれと息を吐く。大人しくしてるも何も、腰でも抜けたのか立てないのだから暴れようもない。そんなだから、ついつい思考は逃げて行ったヤルミルのことに向かっていく。

 逃げる時に使っていた馬は、前に召喚した戦車に使っていたものだろう。矢を使っていることと、あの強烈な光、それを成す魔力の気配。それらの要素から総合的に狙撃手はヤルミルであると判断したけれど、逃げていく人物の背格好には違和感があった。こんな状態だから、慌てて放った術に不備があって捉え損ねたとか、単にそういうことかもしれないけれど。それにしたって、躊躇いなく館の一室に向かって矢を射こんできたところを見るに、その狂気に拍車が掛かっている可能性も捨てきれない。何にしても、不穏だ……。

 困るなあ、ともう一度溜息を吐いたところで、扉が開いた。水を張った桶を持って、ヴィゴさんが帰ってきたのだ。

「お帰りなさい。……ヴァネサ、起きてませんでした?」

「んにゃ、音沙汰なし。よっぽど深く寝入ってんじゃねえ?」

「心労も激しそうでしたしねえ」

 会話をしながら、移動してきた再びヴィゴさんが私の前で膝をつく。戻ってくるまでに自分の部屋に寄ってきたのか、手拭いと救急キットまで持っていた。桶が床に置かれ、水に浸された手拭いが軽く絞られる。深夜の静寂に響く水音は妙に異質なもののように聞こえ、ひどく落ち着かない気分にさせられた。

「明日、ヴァネサに説明して弁償しなきゃですよねえ。窓にカーテンに、それから壁も? となると、中々の出費に……」

「悪いのは俺達じゃねえが、まあ、無視すんのもアレだしなあ……」

 話している間に頬と傷が濡れた手拭いで清められ、更には血塗れになった手が取り上げられる。律儀に指の間から指先の爪、手の甲まで拭ってくれるので、有難いやら気恥ずかしいやらだ。至れり尽くせりとはこのことか、嫌な訳じゃないけど落ち着かない。できればこの一回こっきりで、二度目があっても割とお断りしたいかもしれない。

「うし、こんなもんか」

 傷に薬が塗られ、ガーゼが貼り付けられて、やっと手当は終了した。ありがとうございます、とお礼を言えば、「どういたしまして」と軽やかな返事。

「で、問題は寝場所か。このままこの部屋使うのも良くねえし、俺んとこと交換すっか」

「あ、それなんですけど」

 声を上げると、どうした、とばかりにヴィゴさんが首を傾げる。その顔は特に機嫌が悪そうには見えず、何かを疑っている風もない。単純に、問い返す風な目顔。これなら、口に出してもそこまでバッサリ切り捨てられたりはしない……といいな……。

「……怒らないで聞いてくれます?」

「……それは、何だ、アレか。俺が怒るようなこと言うって前振りか?」

「いやあー、別にいー、そーゆー訳じゃないんですけどおー」

「そんなんで誤魔化されるか、このアホ! なんて言おうが、結局そういうこったろーが! ほんと人の話聞かねえなお前は! つーか、何だその変な喋り! 白々しくて寒気するわ!」

「しょうがないじゃないですか、ノリと勢いですよ」

「どんなだよ……」

 あーもう、とヴィゴさんが溜息を吐く。

 まあ、何ですかね。思えば私もこの人に大概色々我が儘言ってるよなーと、これまでのあれやこれやを振り返って些か反省しなくもないのです。なので、あんまり強気には出る訳にもいかないかなー、と。思ったりしなくもなかったりして。いや、最終的には出るんだけどもさ。ハハハ。ほんとすみません。

「まあ、前置きはそれくらいにしましてね。つまり、今さっき私は九割殺されかかった訳じゃないですか」

 そう切り出すと、途端にヴィゴさんは神妙な顔になった。けれど、敢えてそれ以上の反応を待たず、口早に続ける。

「ぶっちゃけ、未だに腰が抜けて動けないくらいには、驚いたというか、びびったというか、まあ、ええ、はい、そういうことなんですけど」

「……怖かったんだろ。当たり前だ」

「人が折角その言葉を避けたと言うのに……」

「避けてどうすんだよ」

 それは、アレだ。何となく認めたくなかったというか。認めてしまったら、いよいよ本気で怖くなってきて夢に見そうだなーとか。そんなことを思ったり。しちゃったりして。

「多分、さっきのは宣戦布告みたいなもんなんでしょうけど。また戻ってきて狙い撃たれない保証とかない訳じゃないですか」

「まあ、そりゃそうだな」

「なんで、同じ部屋にいてもらえませんかね……」

 お願いします、と両手を合わせて拝んでみる。もうこの際だから言ってしまうけれど。ああ、そうとも! 今私は全力で恐れている。この上なく震え上がりそうなくらい、心の底から怖いと思っているのだ。

 だって、あんな鋭い鏃が目の前に。しかも頬を抉って。しかも、光で誘ってから明らかに殺す気で顔面を狙って射られて。つまり、私は殺したいとか、死んでもいいとか、もっと言えば、死んでほしいとか思われた訳である。山で獣と対峙するのとは違う、人為的で意図的な殺意。それは、純然たる恐怖に他ならない。

 しばらくの短い間の後、「分かったよ」と返事があった。顔を上げれば、観念したような顔でヴィゴさんが頷いて見せるのが目に入る。思わず、ほっと息が漏れた。

「朝まで寝れねえで震えられてても困るかんな」

「すみません、いつも色々と我が儘を言って。でも、ええ……お陰様で、これで少しは安心して寝られると思います。ありがとうございます」

「人を無理矢理付き合わせんだから、そこは嘘でもぐっすり寝れるとか言っとけよ」

「あっはっは、私嘘吐けない人間なんで」

「今の時点で吐いてんだろうがよ!?」

 心外だなー、そんなことないのになー。そう言って笑って見せたら、何故か頭にチョップされた。痛くはなかったけれど、全くもって実に心外である。

 それからヴィゴさんは血塗れになった手拭いや、水の薄ら赤くなった桶の始末をしてから、荷物ごと私を抱えて隣の部屋に移してくれた。私はベッドに置かれて、本来の使用者は槍を抱えて窓際へ。そうなることを承知の上でお願いしたので、今更申し訳ないとか言えた立場じゃないのだけれど。

「ヴィゴさん、寒くないですか」

「あー? 大丈夫だ、心配すんな。隣から布団と毛布持ってきといたしよ」

「意外に準備良いですね」

「意外って何だオイ」

「おっとうっかり、口が滑りました。――で、話変わるんですけど」

「おう? どうしたよ」

「……もし、万が一なんですけど。多分そんな繊細な神経してないとは思うんですけど、ひょっとしたら有り得なくもなくもないかなーと思う訳で」

「だから前振りが長えっつーの」

「いーじゃないですか、この複雑なオトメゴコロって奴を察してくださいよ! オトメゴコロとか自分で言ってちょっと鳥肌立ちそうですけど!」

「じゃあ言うなよ!?」

「言っちゃったものは仕方ないでしょーが!?」

「何だよ、その理屈は……。へいへい、そーかい。んで、結局何だよ?」

「……もし、なんですけど。……もし、うなされてたら、起こしてもらっていいですか」

 意を決して言うと、一瞬、空白のような沈黙が落ちた。

「……分かった、任せとけ」

 けれど、答えはちゃんと返ってきた。そのことに安堵して、布団の中にもぐりこむ。

「じゃ、宜しくお願いします。おやすみなさい」

「おう、おやすみ。安心して寝とけ」


 ――なんて、やりとりもついには空しく。

 翌日の朝を、私は生まれ直してこの方覚えがないくらい、最悪の気分で迎えた。案の定、寝ている間に喉笛やら眼球やら眉間やらを射抜かれて死ぬ夢を数えたくないくらい見て、覚えている限りでも三回は起こされた。よくは覚えていないけど、何度か頭を撫でられたり、布団を掛け直されたような気もする。

 実際、朝起きたらヴィゴさんの手を握っていたので、多分どれもこれも気のせいじゃなくて現実にあったことなのだろう。その上、手を握られた当人は床に座ったままベッドに突っ伏して寝ているという、大層申し訳ない事態。

 平謝りするやら感謝を述べるやら、あたふたしながらヴィゴさんを起こすと、

「……今日は泉の調査は中止だ。あの人形野郎を狩り出してぶっ潰すぞ」

 えらく怖い顔で、そんなことを言われたのだった。

 そのお怒りも当然、已む無しである。未だかつてない、相当な迷惑を掛けたことは自覚している。左様でございますか、と気分は粛々として相槌を打つと、ぎろりと鋭い目線を向けられた。ひいー、ちょっと止めてもらえませんかね、その顔! 怖い怖い!

「これについちゃあ、もう決めた。異論は聞かねえからな。宿と飯の恩があるんで、壊しはしねえでおいてやろうと思わねえでもなかったけどよ。もう駄目だ。我慢できねえし、許さねえ。狂わせた元凶がいるとか、んなこたもうどうでもいい。あの野郎は壊す。徹底的に潰す」

 語気荒く言うヴィゴさんの頭からは、なんかもう湯気とか立って見えそうだった。お怒りどころでない激怒っぷりである。もうこれは余計なことは言わん方が得策だな、と私は大人しく頷くことにした。実際殺されかけた以上、私もヴァネサに気を使う気持ちはあっても自分の命の方が惜しい。

「それじゃあ、とりあえず作戦会議しないとですね。館の中に居れば、少なくとも大々的に攻撃はされないでしょうし……裏庭の泉にでも行きます?」

「そうだな、厚い壁もあったし、あそこならいくらかマシだろ」

 そんな会話の後、頬の傷は別に医者に診せなくても泉の水を拝借すれば綺麗さっぱり治るんじゃないかと思い出して、昨日は私もヴィゴさんも割かし動転していたのかもしれない、と嫌な実感をしてしまった。

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