08:力無きものたちの為に-04
「――で、初めの場所って、どこだよ?」
「多分ですけど、私達が初めて顔を合わせた場所のことでしょう。つまり」
「泉の館に逆戻り、ってか」
「です。これまでと同じなら、帰り道もそう危険はないでしょうけど……」
騎士と兵士の去った後、私とヴィゴさんはぼちぼちと森へ戻り始めた。何となく、互いに走り出そうとはしなかった。これまで走ってきたものが全て徒労に終わったという空しさが、歩む足を重くさせている。
結果として、ラファエルさんの計らいによって、私達はこの国の争いに加わらずに済むことにはなった。それはあの人の立場やら身分やらを利用したようで後ろめたくはあるものの、喜ぶに値することでもある。けれど、何と言うか釈然としないのだ。
「結局、この島ではどんな思惑が動いていて、何がどうなっているんでしょうね」
「お前に分かんねえもんが、俺に分かる訳ねえだろ」
「いや、それは私を買いかぶりすぎですから。所詮はただの学生ですからね」
「学生でも首席だろ」
「そうですけど。それは学問の習熟度を示すものであって、人間的な尺度を示すものじゃないですもん」
「ああ言えばこう言うよなー」
「素直な意見を返してるだけですよ。ともかく、これまでの話聞いてて、何か変だなーとか、おかしいなーとか思ったことありませんか」
山を迂回して北の街へ向かう人の為に敷かれたのだろう、草を除けて地面を均しただけの簡易的な道を並んで歩く。相変わらず鳥の声も、獣の気配もない。この異常事態を敏感に察して、逃げるか隠れるかしてしまったのだろうか。
「おかしいと思うこと、なあ……」
呟き、ヴィゴさんは考え込むような素振りを見せた。
「少し仮定が多いんじゃねえか、とは思った。人形の核が根こそぎ抜かれたとしても、それをどうやって回収して移動させんだよ? 途方もねえ数で、手間じゃねえか」
「うーん、例えば人形同士で核を抉り合せる。抉った核をひとところに集めさせて、一気に任意の場所に転送するとか?」
「エグいこと考えんな、お前……」
「いや、私の発案じゃないですからこれ。そういう可能性もあるかもってことですから」
めっちゃ引いた顔をしてくれたけれども、全く心外であると主張したい。
「そうじゃなくても、例えば鳥型の自動人形の体内に格納庫を作って、そこに蓄えさせて飛ばせるとか。どっちにしろ、あれだけ大量の自動人形を好きに扱えるんですから、回収する術もあると思いますよ。……それこそ、仮定ばっかりですけど」
「仮定も仮定なりに真実味がありそう、ってか。まあ、そんならそれはそれとして――ああ、後はアレだ」
「何です?」
「敵はこの島そのものをどうにかしてえ訳じゃねえんだろ? だったら、回収した核を石切り場に持ってって人形を増産するってのは、おかしかねえか」
「あ、そうか。そうですね」
言われてみれば、その通りだ。北に集っていた自動人形の核が再利用されて戦力を集中肥大させられたらまずいと、そればっかりに気を取られていたけれど。そもそもこの島自体に関心がないのなら、敢えてそんな手間を掛けるだろうか。
「んで、今も石切り場だの鉱山だのに人形をたむろさせてんだろ? だとすりゃ、連中は初めっから、単に魔石が欲しかっただけなんじゃねえのか? どうよ?」
えっ、いや、どうよって言われても。そう言われてみれば、それも考えられなくはないけれども……。
「仮にそうだとしても、だったらここまでの大事にすることあります? 街一つ壊滅させて、そこにいた自動人形を根こそぎ壊して――」
「だから、それも魔石を獲る為だったんじゃねえの? 街を壊して、そん中にいる人形を全部連れ出す。で、同士討ちさせて核を抜き出して回収。漏れがねえだろ」
「……何の為に?」
「そりゃ、さっきお前が言ってたろ。抜き出した核は、別の人形に入れりゃまた使える。この島で使う気はなくても、余所で使う気がねえとは限らねえだろ。そうすっと、船を壊したのは人形を逃がさねえ為と、余所から来る援軍に人形を壊されんのを防ぐ為かもな」
「あー……なるほど。それも、確かに有り得そうです」
その論理でも一通りの辻褄は合う、気がする。ただ、そうすると今回の一件はこの島だけに収まらないことになり、余計にひどいことになるんじゃあ……。
「でも、それって、要するに余所で狂った自動人形の軍勢を編成しようとしてるってことになりません……?」
「なるわなあ」
返答は、実にあっけらかんと。ちょっとお!? なるわなあ、じゃねーですって、それ!
「何をそんな暢気な!?」
「暢気な、って他にどうするよ? 敵の思惑が実はそうかもしれねえが、確証はねえ。現状できることもたかが知れてる。ソイカの奴にゃあ、抜かれた核が悪用されるかもって伝えておいた。やれるこたあ、全部やったろ。そもそも、俺達は何だよ。騎士か? 護国の兵か?」
淡々と畳み掛けるような言葉に、思わずぐっと言葉に詰まる。
「知識に振り回されんのは、どーにもお前の悪い癖だ。この島で起きてる事件を調べんのは、この島の兵士だの何だのの仕事であって、俺達が積極的に関わるこっちゃねえ。自分の立ち位置と現状をよーく見詰めて考えて、んで一度深呼吸してから動けや。事件のあれやこれやに一喜一憂して深刻がるのは当事者気分で昂揚するかも知んねえけど、半端な気持ちで首突っ込んで後で泣くのは自分だかんな。近所の喧嘩ならともかく、こりゃ下手すりゃ本物の内乱になる。本気で当事者になるつもりが無けりゃ、野次馬根性は引っ込めとけ」
静かに指摘する言葉は、私の胸に思いの外ぐさりと刺さった。
ヴィゴさんの言う通りだ、私は今この島で起きている事件に関わる気はない。それどころか、積極的に逃げ隠れしている。その立場にありながら、大変だ、ひどいことになった、と騒ぎ立てるのは、考えてみればひどく無責任なことであるように思えた。
面白がっているつもりはないけれど、傍から見ればそれに近いのではないか。他人事だから気軽に騒ぎ立てている、そんなようなものだ。
「……肝に銘じておきます」
「おう。どっちにしろ、また後でソイカから連絡来るだろ。気になるなら、そん時残りの話も伝えといたらいいんじゃねえの」
ですね、と頷き返す。
それからは特に深刻な話をすることもなく、のんびりと森を進んだ。打つ手がない現実は、言ってしまえば少々の退屈感を伴う。従って、私達の会話も割と現実から飛躍したものになりつつあった。南海諸島に着いたら何をしようか、とか。また学院が始まったら素材探しの遠征計画を立てなければ、とか。
そして、いよいよ日が暮れ始めた頃。手ごろな木陰で野営をする段になって、話はついに将来の展望についてと飛躍に飛躍を重ねた有り様になっていた。
「学院を卒業したら、どうすんだ? やっぱ故郷に帰んのか」
「うーん、どうするか悩んでるんですよね。家業を継ぐにしては、随分長い間他のことに傾注してしまいましたし」
「つーか、何であの学院に入ろうと思ったんだよ。この国だと、多分普通平民の選択肢に入ってこねえだろ」
「まあ、そうなんでしょうけど。……初めは、物凄い衝動的な思い付きだったんですよね」
「あ? 学院に入ろうってのがか?」
「ええ。五年くらい前でしたっけ、ヴィオレタとエブルが戦争始めたじゃないですか」
「ああ、そういやそうか。もうそんなに前になんのか……」
「はい。――で、うち母が仕立て屋してるんですよ。で、ヴィオレタからの布が手に入りにくくなるかも、とか喋ってるの聞いて。父は狩人で、祖父母は羊飼いをしていたので、今考えればそんなにすぐ困る訳じゃなかったんでしょうし、結局うちに直接戦争の影響が及ぶこともなかったんですけど。でも、その時はまだ小さい妹が二人も居たんで、これはまずいかなあ、と子供なりに思った訳でして」
「んで、何か? 衝動的に学院に入れば何とかなるんじゃねえかと思ったって訳か? オイオイ、そいつあ飛躍し過ぎだろ」
「いやまあ、どうにかなるというか、宮廷魔術師とかになったら、故郷に対して便宜を図ったりできるんじゃないかと企んだ訳で」
言うと、焚火を熾していたヴィゴさんはあんぐりと口を開けた。
「宮廷魔術師が手段かよ!?」
「手段……いや、手段は手段なんでしょうけど、そう言いきると語弊があると言いますか」
「語弊も何も、実際そうだろーがよ。……涼しい顔して、えらい野心家だこった」
「それこそ言い過ぎでしょう。結局求めてるものは丸っきり私情で、規模も小さいですしね。野心なんて程のものじゃないですよ」
そう言ってみせても、「どうだかな」と肩をすくめるヴィゴさんはイマイチ納得していないというか、信用していないような感じだ。いやほんと、そんな色々勘ぐってもらっても、何もないんだけどな、私は。
何とも言えない気分でいると、ヴィゴさんが火を熾し終えた焚火の傍らに胡坐を掻く。少し迷ってから、私はその向かいに座ることにした。
既に日はとっぷりと暮れ、辺りには濃い暗闇が漂っている。それにしても、ここまで静まり返った森は違和感しか覚えなくて気味が悪い。残り少なくなってきた食料を火に当てて温めて食べながら、ぶるりと肩が震えた。
「寒いか?」
その動作を認めたのだろう、向かいから声が掛かる。
「いえ、火にあたっているので、そこまでは。……ただ、今まで思ってはいたんですけど、森が静かすぎて気味が悪くて」
「ああ、確かにな。やけに気配がしねえ。つっても、山崩れの後に、森を抜けた先であの有り様だ。あの分じゃ、現場は相当な騒ぎになったんじゃねえのか。真っ当な神経がありゃあ、逃げ出してんだろ」
それはそうかもしれない。……けれど、それだけでこんなにも静まり返るだろうか。何か他の原因があるのでは……?
食べる手を止めて考え込んでいると、今度は溜息が聞こえた。
「また難しい顔してんなあ。何がそんな気にかかるよ」
「別に、ヴィゴさんの意見を否定する訳じゃないんですけど。だとしても、余りにも静か過ぎるような気がするんですよね。森の中なら、私は空や山の上よりもよっぽど広く探れる。なのに、反応が無さ過ぎる」
「そういや、そうだったか」
「行きは何事もなかったので、そこまで過敏になることはないかもしれませんけど……」
何と続けたものか迷い、言葉が切れる。すると、「分あかった」と明朗な声が重い空気を断ち切るように言った。
「もし真実何かあったとして、そん時に油断してて後ろから刺されたってんじゃ、笑い話にもならねえもんな。りょーかい、護衛は護衛らしく警戒しとかあ。遠く広く探るにかけちゃ、お前のがよっぽど上手だ。その勘は無視しねえ方が良さそうだ」
「……ありがとうございます」
「あ? 何だよ、その礼は」
「いや、明確に根拠の提示できない話を受け入れてもらって」
「何言ってんだよ、別に俺に何か妥協させた訳じゃあんめえ。お前はお前の意見を言って、俺はそれを無視する方がまずいと判断した。それだけのこったろ」
「そう、ですかね」
「そうなんだよ。んで、飯食ったら、とっとと寝とけ。食料も残り少なくなってきたからな。この状況が続くんじゃ、その辺で兎だの鹿だのを狩って補充って訳にもいかなさそうだ。明日は少し急いで行くぞ」
はい、と頷き返し、残りの干し肉を平らげる。それから荷物の確認やら何やら、手早く明日の準備を整えてしまえば、今日のうちにするべきことも終わりだ。
厚手の外套を身体に巻き付け直して、焚火の傍で丸くなる。着替えを丸めただけの枕はお世辞にも使い心地がいいとは言えないけれど、今更それに悩むほど繊細でもない。すぐに睡魔はやってきた。とろとろとまどろみ始める頭を感じていると、
「……そういや、一つ、いつか聞こうと思って忘れてたんだけどよ」
「はい?」
不意に投げられた問いに返した声は、眠気混じりのせいか、変に舌たらずに聞こえた。まるで自分の声ではないみたいに。薄ら目を開けると、火勢の弱くなった焚火越しに、ヴィゴさんが変な顔をしているのが見えた。何だか怯んだような、ぎくりとしたような。
私の視線に気が付くと、ヴィゴさんは大袈裟な空咳をしてから再び話し出した。
「学院にゃ、貴族のガキ共がわんさか居んだろ。そいつらを捕まえて、嫁に収まって援助させるってとかは考えなかったのか」
「んー……そういうの、趣味じゃないんですよね。援助の申し出的なのも、前に一度あったんですけど。その家、嫌いな奴の家だったので、断りました」
「因みに、どこよ」
「セッティ伯爵」
「あ!? そりゃお前を妬んでるのがいるとかっていう、アレか!?」
「そのアレです……。どーせ最終的に子飼いにされるんだろなーと、思って」
「断った訳か、それが正解ってもんだろ。身内に敵じみたのがいるとこになんて、行くだけアホだぜ」
ですよねえ、と答えたつもりだったけれど、答えたつもりで声にはなっていなかったかもしれない。断続的に瞼が落ちては開きを繰り返し、いよいよ睡魔に抗い難くなってきている。
「……あの三男とかは、どーよ」
「ふぁい?」
「ルラーキ侯爵んとこの。ラファエル・デュランベルジェ。あいつ、何か絶対お前のこと気に入ってんだろ」
「そですかね……知りませんけど」
「どう見てもそうだっつの。まあ、そういう意味じゃねえとしても、縁作っときゃ後で何かに使えんじゃねえの」
コネ的な話だろうか。何か面倒臭そうだから、あんまり考えたくなかったんだけどなあ。貴族社会とか人間関係ドロドロして複雑そうで嫌だし、身分差が露骨に出る世界とか、出来ればあんまりお近付きになりたくない。
まあ、宮廷魔術師になったらそんなこと言ってられないのかもしれないけど。それでもガッツリ貴族社会に食い込むよりは、技術職的な感じで距離を置くことができるんじゃないかと、甘い考えを抱いていたりする訳で。
というか、そんなに不服そうな顔して言うくらいなら、言わなけりゃいいのに。ヴィゴさんも時々よく分からん人だな……。
「そういうの、あんまし好きくないんですよね……」
「……そか。眠いとこ邪魔して悪かった。よく寝ろよ、おやすみ」
はて、これで終わりとは。結局、ヴィゴさんは何を言いたくて、何を話したかったのだろう。今一つ骨子が掴めないのは、果たして私が半分寝ているからだろうか。
そう考えながらも、頭がどんどんぼんやりしていく。
「おやすみ……なさい……」
もごもご答えたところで、限界が来た。すうっと瞼が落ちていく。
その間際、焚火の向こうの橙色が、随分優しい色をしているんだな、と思った――気がした。
森の異常な静寂は、それからも変わることがなかった。かすかに流れる風の葉擦れの音だけを聞きながら、ひたすらに緑の中を駆ける。
当座の目的地である癒しの泉の館に到着したのは、更に一度の野宿を経た後――森の外の惨状を目撃してから二日目の午前早くのことだ。やっと一息つける、と安堵したのも束の間、何やら今度は館の様子がおかしい。
「チビたちの声が聞こえねえな。昼寝か?」
「まだ九時前ですよ。朝寝にしても時間が変じゃないですか」
そう、まるでこれまで走ってきた森のように。館は恐ろしく静まり返っていた。
前に滞在していた時は、昼寝や朝寝の時間でもない限り、館のあちこちで子供たちの声が聞こえていた。それがこうもぱったりと途絶えている。……嫌な予感がした。
「ヴァネサ!? いる!?」
呼びかけるのもそこそこに、玄関の扉を押し開けて中に入る。ぎいぎいと扉が嫌な音を立てたけれど、そんなことを気にしている場合じゃない。そして、そんな音をさせて踏み入っても、誰一人様子を窺いに出てくる気配はなかった。
意を決して、探査の魔術を放つ。建物の構造を把握、生命反応を確認――その数、一。
「一人しかいない!?」
塀に囲われた裏庭の泉にも、館の周囲にも、その一つ以外の反応は何もない。驚いて叫んだ声は、危うく裏返りかけていた。何がどうなっているのやら、まるで分からない。
思わず傍らのヴィゴさんを見上げれば、大きな手がぼすりを頭の上に乗せられた。日に焼けた面差しが険しく歪み、誰も出てこない廊下を睨むように見据えている。
「どうにも、おかしなことになってやがんな。一人は残ってんだろ? そいつはどこだ?」
「しょ、食堂です……」
答えて、歩き出す。動悸が激しい。どくどくと、まるで耳の裏で心臓が鳴っているよう。
薄暗い廊下を進み、目的のドアの前に至る。恐る恐る扉に伸ばした手は、小さく震えていた。薄く開いた内開きの戸は、少し押すだけでも容易くその隙間を広げるだろう。それなのに、ひたりと当てた掌を、どうしてか私は押すことができなかった。
「……!」
ふと私の手のすぐ隣に、大きな手が置かれる。一回りも違うその手は、躊躇いなど無縁のように力強く扉を押した。きいい、と扉が細い音を立てる。それが、やけに耳障りに聞こえてならなかった。
扉が押し開かれる。内部はやはり、薄暗かった。それでも中央の長机に突っ伏している人影があることは分かる。ごくりと息を呑んで、足を踏み出す。ヴィゴさんは何を言うこともなく、後からついてくる。二人分の足音と気配が近付いても、机の上の影は――ヴァネサは、ぴくりともしなかった。
長机の周囲には、数多くの椅子が並んでいる。それなのに、今この館に居るのは一人だけ。空恐ろしい気分で、突っ伏す彼女が座っているところから椅子一つ隔てた場所で足を止めた。
「……ヴァネサ?」
いつの間にか口の中がカラカラになっていて、その一言を発するのにさえ苦労した。
呼びかけても、少女は身動きすらしない。少し躊躇ったものの、すぐ傍にまで歩み寄り、その肩に手を伸ばしてみる。ぽん、と肩を叩いても、無反応。軽く揺さぶってみると、やっと小さな呻き声が上がった。
「ヴァネサ!?」
もう一度呼び掛けると、ゆるゆると頭が持ち上がる。そうして表れた顔は、疲れ果てて泣き腫らした、以前の溌剌さの面影も見えない――余りにも無残な。
「……ライ、ゼル?」
虚ろな鳶色の眼が私を捉え、わずかに光を取り戻す。
「そう、ライゼルだよ。どうしたの、何があった? 子供たちは?」
矢継ぎ早に問いかけると、そこでやっと我に返ったらしい。がばりと身体を起こしたヴァネサが、震える手で屈んだ私の両肩を掴む。そのまま立ち上がろうとして足を縺れさせたので、咄嗟に抱き止めた。
「ライ、ライゼル――ど、どうしよう。皆、皆が……ああ、もう、あたし、どうすればいいか分からない。分からなくって、ねえ、どうしよう」
ほとんど論理性を失った、悲嘆と動揺の色濃い混乱しきった声音。取り乱すなんて言葉じゃ生易しいくらいの姿を前に、かえって思考が冴えていくのを感じた。
そうだ、私まで動揺していてどうする。この状況に一番困惑し、混乱しているのは当事者のヴァネサだ。部外者の私が騒いでいい筋合いはない。
「ヴァネサ、落ち着いて。深呼吸しよう――はい、吸って、吐いて」
促すと、思いの外素直にヴァネサは従ってくれた。何度かそうして呼吸をさせるうちに、落ち着いてきたらしい。倒れかけていた身体を立て直そうとするので、抱き止めていた腕を離す。私の腕に掴まりながら椅子に座り直したヴァネサは、涙の痕も濃い、疲れ果てた眼をしてはいたけれど、それでも意識のはっきりした眼差しを向けてきた。
「最初から話してみよう。そうしたら、一緒に考えられるから」
「うん……ごめん、取り乱したりして」
「気にすることないよ。それだけのことがあったんでしょう」
フォローのつもりでそう言ってみたものの、ヴァネサの表情は目に見えて暗くなってしまった。館の有り様からそうじゃない訳はないと理解せざるを得ないけれど、それにしてもよほどのことが起こったらしい。
「ちょうど、昨日の昼のことだったんだ……」
そう切り出された話は、私とヴィゴさんを絶句させて余りある一大事だった。




