07:怒れる戦車の島-06
いかに減速を図っていたとしても、見事な枝ぶりの青々とした樹木の真っ只中へ落下すれば、少なからぬ傷を負う。厚い雨避けの外套は思いの外盾として有用ではあったが、それでも布地を突き破る枝葉は容赦なくあちこちの皮膚を掠めて裂いた。ヴィゴは顔をしかめて呻いたが、それでも突き刺さるというほどの傷を負わずに済んだのは、まさに不幸中の幸運であったに違いない。
大小さまざまな横枝を散々にへし折って、更に落下すること数秒。やがて太く張り出した枝が目に飛び込んできた瞬間、ヴィゴは咄嗟にそれへと片腕を巻き付けた。みしみし、と枝は不吉な音を立ててしなったが、辛うじて折れるには至らない。急遽停止した落下の勢いで、ぶらん、と振り子のように大きく脚が揺れた。
「……何とか、生き延びたか」
片手で枝にぶら下がり、もう一方で槍とライゼルを抱えた格好で、ヴィゴはほっと息を吐く。さて、枝に乗り上げるか、素直に地上に降りるか。逡巡するように上に下にと視線を走らせたが、思考時間はそれほど長くはなかった。
あっさりと枝から手を離し、途中頑丈そうな枝に何度か手を掛けて勢いを殺しながら、再び落下を開始する。時間にして一分もかからず、未ださほど雨脚の弱まらない土砂降りの如くに枝葉を舞い散らせながら、ヴィゴは腐葉土の地面に降り立った。
はあ、と肺の中身を根こそぎ吐き出すように息をつき、ヴィゴは柔らかな地面の上に座り込む。辺りはすっかり暗くなっていたが、山道を駆けていた頃から十数分と経ってはいまい。だというのに、揺れることのない広々とした終わりのない地面が、やたらと懐かしく感じられた。
何とはなしに周囲の地面を手で探ると、ほとんど濡れていないことが分かる。頭上で十重二十重の階層を成すように生え並んだ枝葉が、降りしきる雫を落ち切る前に梢の先に運んでゆくのだろう。しばし頭上を見上げた後、ヴィゴは億劫そうに立ち上がり、木の根元に座り直した。この場を移動すべきではないかという思いもあったが、既に日は落ちている。この土砂降りの暗闇の中、見知らぬ森を行くのは躊躇われた。手ごろな「次」が見つかる保証もなく、それ以前に寒さと疲労に倒れた同行者の処置が最も優先される。
背を預けた幹は平面と錯覚するほどに広かったが、悠長に休んでいられる猶予はない。覚悟をするように一度目を閉じてから、ヴィゴは荷を下ろしてから目の前の地面にそっとライゼルを寝かせた。鞄から取り出したランプを点けて照らした顔は、紙のように白い。今一度その呼吸を確かめ、外傷のないことを確かめてから、ヴィゴはライゼルの外套の留め金に指を掛けた。
「後でどんだけ殴ってくれてもいいから、今は勘弁な」
濡れて重くなった布地に四苦八苦しながら着衣を解き、乾いた布で手早く身体を拭う。申し訳ないやら気まずいやら、久しく覚えのない惨憺たる気分だった。年端もゆかない少女の着衣を脱がせ、良いように扱っているという事実に、できるものなら地面に頭を打ちつけて気絶してしまいたい気分である。夜闇にすら透けて見える肌の白さにあらぬ感情を抱く隙もない、圧倒的自己嫌悪。
しかし、鞄の中で辛うじて浸水を逃れていた替えの服に着替えさせても、ライゼルが目を覚ますことはなかった。一連の作業は極力その肢体を直視せぬよう、直に触れぬよう心掛けたが、如何せん手元は暗い。時に指先に触れた肌は思わず背筋が震えるほどに冷たく、慌てて自分の身なりを整えたヴィゴはライゼルをきつく抱きしめて巨木の根元に座り込んだ。
森の夜は夏の終わりが嘘のように肌寒かったが、それ以上に寒々しい気分だった。一人夜を越すことを、ここまで歯痒く、不安に思ったことがかつてあっただろうか。
気を抜けば口を突いて出そうな罵声を呑み込み、ヴィゴは眠り続ける娘を抱き直す。冷えた身体に、少しでも熱を分け与えられるように。せめてこの身が、今度こそ何がしかの守りになると信じて。
* * *
ふっと意識が浮上する。チチ、と鳥のさえずる声が聞こえた気がした。薄く開けた目に映るのは白、差し込む光。少し頭を動かして、光を避けて視線を動かす。
知らない部屋の、知らないベッドで、私は寝ていた。
「……うん?」
でもって、視界の端に何やら、ちょっと予想だにしないものが見えたような。
そろりと布団の中で慎重に身体を起こす。何をしてるんだろうか、この人は。寝るなら、そんな椅子に座ったままなんて身体に悪そうなことしなくったっていいだろうに。……それとも、何か。もしかして私はこの人の寝るベッドを奪って寝ていたのだろうか。物凄く有り得そうで嫌だ。この人、根っからのお人好しというか、私に対して妙に気にしいなところがあるし。
ううむ、と唸りたい気分で、ベッドのすぐ傍に置かれた年代物の椅子を見やる。そこで座ったまま俯けた顔をゆらゆらさせて舟をこぐ人は、どうしようもないことに見間違えようもない銀の髪をしていて、胸元では見慣れた碧の石が身体の動きにつられて揺れていた。
要するに、レインナードさんである。
というか、本当に今のこのこれはどういうことなのだろう。ここが山の中でないことはまず確かだろうけれど、北の街に無事着けたのだろうか。山と言えば、あの狙撃手はどうなったんだか。ちゃんと矢は当たったのかしらん。
そんなことをもにゃもにゃ考えていると、不意に扉を叩く音が聞こえた。清風亭の部屋よりも少々狭いこの部屋には、薄いカーテンを透かして陽の差し込む窓が一つと、塗装どころか穴が開く一歩手前位に摩耗した扉が一つきり。その扉が、外から叩かれたらしい。
さて、返事をしようか、どうしようか。迷っている間に、扉が開いた。
「あ、目が覚めたんだね」
内に向かって押し開けられた扉の隙間から、ひょこりと顔を覗かせたのは、私と同じくらいの歳の少女だった。蜂蜜色の髪を少年のように短く切った、朗らかな笑顔のよく似合う鳶色の眼の少女。
「ここはヴァラソン山東の森のはずれだよ。癒しの泉の館って言えば分かる?」
目を白黒させる私にそう語りかけながら少女は部屋の中に足を踏み入れ、ベッドに近付いてくる。その手には丸盆があり、少女が傍にやって来るに至って、水の入ったコップと、おそらくはオートミールか何かのお粥と思しきものが入れられた深皿であることが分かった。
そして、ここがヴァラソン山の東の森ということは、おそらく狙撃手の潜んでいた森に違いない。何らかのアクシデントがあって、私達は山を越し切れずに森に降りた、というところだろうか。「癒しの泉」という単語も、港町にいた間に小耳に挟んだことがあったような気がする。どこぞの森の中に、病や傷を癒す不思議な泉があるとか何とか。……どちらにしろ、こんな虫食い状態の情報だけでは状況把握には程遠い。
「すみません、ちょっとまだ色々と混乱していて……。今日は何日ですか?」
「九月二日だね。時間は午前九時」
港町を出たのが八月末日、その後一度の野営を挟んでヴァラソン山に入った。その日の午後から夕に掛けて狙撃手との悶着があって――となると、単純に日をまたいで翌日か。よかった、そこまで時間を食った訳でもないらしい。
「昨日の夜は、山の方じゃ落雷と崖崩れがひどかったんだってね。あんた達も、よく山道から転げ落ちただけで済んだもんだよ」
……なるほど、そういうことになっているのか。
そんな話をしながらベッドの傍までやってきた少女は、「まずは水でも飲みなよ」と木をくりぬいて作られた素朴なコップを差し出してくれた。お礼を言って受け取り、口をつける。意識されないまでも、喉は渇いていたらしい。甘くさえ感じられる水が喉を通ると、ほっとした息が口を突いて出た。
「どうも、ありがとうございます。人心地つきました」
「そんな畏まらなくていいよ。あんた達もよっぽど大変だったみたいだし」
「まあ、大変は大変でしたけど、レインナードさんが上手く対応して下さったので」
「ふうん、やっぱり腕の立つ傭兵なんだねえ。自分じゃ『俺がもっと上手くやってりゃ、こんなことになってねえ』なんてブツブツ言ってたけど。――食欲はある? 一応、麦粥持ってきてみたんだけど」
少女は私の手から空になったコップを引き取り、代わりに同じく木でできた深皿を持たせてくれた。ふんわりと立ち上る匂いに、ぐう、とお腹が圧迫されるような感覚。
「ありがとうございます、頂きます。っていうか、そんなこと言ってたんですか?」
「どうぞ召し上がれ。二、三時間前までは起きてたからね。ベッドならまだ空きがあるから休めばいいって言ったって聞く耳持たずに、ずうっとここであんたにつきっきりだよ」
愛されてるねえ、と茶化すように笑う少女に苦笑を返して、これまた木のスプーンで麦粥をすくう。塩分控えめで素朴な味付けは疲れた身体に程よく染み込んでいくようで、食べ終わるまでにそう時間はかからなかった。
「あんた達を見付けたのは、今朝がたのことでさ。昨日の今日だから山の様子を見に森に入ったら、ヴィゴがあんたを抱きかかえて木の下で座り込んでてね。いやあ、あたしが近付いたのに気付いた瞬間の顔は凄かったよ。今にも槍で突かんばかり!」
私の手から深皿を回収する少女はおどけるように笑って言ったけれど、それは相当な恐怖体験だったのではなかろうか。私だったら震え上がって、一目散に逃げるね。
まあ、実際には少女自身を警戒したのではなくて、すわ狙撃手が止めを刺しに来たかって、そっちに反応したのだろうけれども。
「やばい奴に遭っちまったかと思ったけど、そりゃあもう大事そうにあんたを抱えてるのが見えたからさ。敵じゃない、ただ山の様子を見に来たんだって説明して納得してもらって、とにかくあんたをちゃんとしたところで休ませなきゃって話になったんだ。相当に疲れてたみたいだし、ちょっと風邪も引きかけてた感じだったしね」
「なるほど、やっと状況が理解できました。危ないところを助けてくださって、どうもありがとうございます」
頭を下げると、少女は照れたように笑った。
「いいって、困った時はお互い様だよ。――そうだ、すっかり名乗り忘れてたけど、あたしはヴァネサっていうんだ。宜しく」
「あ、どうも、こちらこそ。ライゼル・ハントです」
差し出された手を握り返す。私が生まれた村に生きる女性たちがそうであるように、働き者のかさついて皮膚の硬くなった手だった。
「ライゼルか。折角だから、そう堅苦しい喋り方をしないでおくれよ。あたし達、同じくらいの年だろう?」
「まあ、多分……そうだね。ヴァネサがいいなら、そうさせてもらうよ」
そう答えて頷いた時、これまでこっくりこっくり舟をこいでいた人が小さく呻いた。話し声で目が覚めてしまったのかしらん。レインナードさんをちらりと見たヴァネサは、悪戯っぽく笑う。
「それじゃ、お邪魔虫はここらで退散しとくよ。動けそうだったら、表に出てきてくれると嬉しいね。弟妹が気にしてるんだ。挨拶でもさせてやって」
「それはもちろん。挨拶と言えば、親御さんは? ベッドを借りて、食事まで貰っちゃったから、お礼を言わなきゃ」
言うと、ヴァネサはあっけらかんと笑った。
「ああ、そんなの居ないから大丈夫さ。ここは癒しの泉の館っていう名目の孤児院なんだ。去年までは院長のじいさまが健在だったんだけど、病気でぽっくり逝っちゃってさ。今はあたしがそれを引き継いでるって訳」
何ということか。あっさりと告げられた過酷過ぎるだろう現実に、思わず絶句する。けれど、そんな私に向かって、ヴァネサは気にした風もなく肩をすくめて見せる。
「ま、そういう訳だからさ。ゆっくりしていきなよ!」
言うだけ言って、若すぎる孤児院の主は軽快に部屋を出ていった。
彼女には気負いも悲観もなく、あるのはただただ明朗な軽やかさ。孤児であること、まだ若い身の上で館の主を名乗ること、それが彼女にとって全く負担にならなかったはずはない。それでも、彼女は森で困窮する人間に手を差し伸べることを躊躇わず、明るく朗らかに笑って受け入れることができる。きっと、とても優しく強い人なのだろう。
素直な敬意を抱き、去る少女を見送る。見送った、ら。
「――ライゼル!?」
まさに飛び起きる、という風で勢いよく顔を上げた舟こぎ人。
いやしかし、覚醒した瞬間に人の名前を叫ぶというのはどうか。叫ばれた当人は大層驚きました。というか、私の名前を叫ぶような夢でも見ていたのかしらん。内容を知りたいような、別にいいような。
ともかく、お目覚めである。よう、とばかりに手を挙げてみせると、ベッドの上の私に気付いたレインナードさんはギョッと目を見開いた。ぱくぱくと魚のように唇が開閉し、物言いたげなのに何も言えないまま、呆然として私を見詰めている。
「どうも、ご迷惑をお掛けしました。おはようございます」
このままでは埒が明かないのでそう言ってみせると、今度は深々とした息を吐いて、天井を仰ぐようにして椅子の背もたれに寄り掛かった。寄り掛かったものの、そのままずるずると床に落ちてしまいそうな有り様だ。ぎし、と椅子が抗議するように小さく鳴る。
「あのー、できればもう少し意思疎通の可能な反応をしてもらえませんかね。現状、何だこれという感想しか抱けないんですけども」
「ほっとしてんだよ、少しくらい浸らせろい」
お、やっとまともな音声言語の答えが。
目元を掌で覆って背もたれの上に頭を載せたレインナードさんの姿は、よく見ればあちこちに小さな傷があった。頬や腕に両手の指では足りない数の擦り傷やら、切り傷。対する私はと言えば、だ。……お察しである。
「その傷、山から落ちた時ですか?」
問うと、レインナードさんが顔をこちらに向ける。分かりやすく目を泳がせた後、「まあな」と低い声の肯定。
「そですか、ありがとうございます」
なので、そう答えた。山から落ちた覚えはないから、それは私が落ちた後の出来事だったのだろう。それなのに私は何一つ傷が無くて、レインナードさんはそこここに傷を作っている。だったら、「そういうこと」なのじゃないのかと。
そう判断して、言ったのだけれど。返ってくる反応はつれないものだ。
「あ?」
何だって、とばかりに怪訝そうな声。それを予想していなかった訳ではない。
きっとこの人のことだから、私が人事不省に陥ったことを自分の不手際として責任を感じている可能性がなくもなかったし、突き詰めると山越えの強行軍を決めたこと自体を悔いてすらいるかもしれない、と思ってはいた。とは言っても、山越えに積極的に同意したのは他ならぬ私であるし、あのひどい雨さえなければ、狙撃手の凶行さえなければ、ここまでおかしなことにもならなかっただろう。多分に運も悪かった。悪すぎた。
ともかく、現状を非難できる権利だの資格だのが私にあろうはずもない。ただ一つ確信をもって言えることがあるとすれば、それは無傷の私に代わってたくさんの傷を作った人への感謝の言葉くらいだ。
「そのお陰で、私は無傷なのだと思うので」
そう告げると、レインナードさんは椅子に座り直し、ひどく気まずそうな顔で頭を掻いた。
「……そう言ってもらえると、なんつーか、助かる」
「まあ、実際助けてもらったのは私ですけどね。山道から落ちたってことは、相当な高さでしょう。レインナードさんは他に怪我とかなかったんですか?」
「んにゃ、ねえよ。そこまで腕が悪い訳でもねえし、それなりに上手くやれた」
「それなりにとかいう次元のことじゃない気もしますけどね……」
「そうか?」
「そうですって。で、私は途中で意識が落ちちゃったんで分からないんですけど、あの後どうなったんですか?」
「あー、あの後は――」
レインナードさんはさほどの思い入れも無いような顔で、ともすれば淡々と語った。
私が矢を射てからしばらくは狙撃手の攻撃が止んだこと。狙撃手が攻撃を再開してはひたすら逃げの一手を打ち続けたものの、迫る夜の闇と足元が崩れたことで山道から追い落とされてしまったこと。……正直、あの悪魔的に執拗かつ精密な狙撃手から夜になるまで逃げ続けた上、魔術による落下速度の減衰やら空中浮遊ができないというのに、あれ程の高さから落ちて多少の傷だけで済んでいる時点で、レインナードさんも大概に化け物ではないかと思う。
「んで、何とか着地して、雨宿りして一晩越して」
「ヴァネサに会った、って訳ですか。彼女、さっきご飯持ってきてくれたんですけど、言ってましたよ。遭遇した時、今にも槍で突きそうな顔してたって」
「狙撃手が止め刺しに来たかと思ったんだよ」
ばつの悪そうな顔で、レインナードさんは呟く。
「ヴァネサにもう会ったんなら、ここの位置とかは聞いたか?」
「ざっくりとですけどね。山の東の森の外れ、だとか。北の街からはむしろ距離が広がってそうですね」
そうなんだよなあ、とレインナードさんは渋い表情で頷く。
やはり先人の言葉は無視するものではないらしい。大人しく迂回していれば、少なくとも狙撃手には遭遇せずに済んだかもしれなかったのに。
「とりあえず、今日はゆっくりして、明日出発しますか」
「いや、今日でいいだろ」
「いや、いい訳ないでしょ。レインナードさん、ちゃんと寝てないでしょう」
「今さっきまで寝てただろ」
「二、三時間前まで起きてたってヴァネサから聞きましたけど。で、どーせあなたのことだから、夜中の間はずっと警戒して起きてたんじゃないですか」
畳み掛けるように言うと、レインナードさんはぐっと言葉に詰まった。
そんなことはない、なんて言えないことは分かり切っている。それを否定することは、夜間の警戒の一切を放棄したと声高に主張するに等しい。そんなことはしないし、できないし、許せない。この人は、そういう人だ。
「私はこれから荷物を確かめるついでに濡れたものを洗って乾かしたりしてきますから、レインナードさんは代わりにここで一眠りしててくださいよ」
そう言えば、いつの間にか服装が替えのものに代わっている。山登りの最中に着ていたものは雨でひどく濡れていたはずだし、ベッドに入れるにあたって着替えさせられたのかもしれない。ただ、部屋の中に鞄と思しきものはない。どこか別の場所に置いてでもあるんだろうか。
「で、荷物ってどこです? 私のってやっぱり着替えついでにヴァネサに預けてたり?」
――ガタタタンッ!
ベッドから降りしな問い掛けたら、いきなり派手な音を立ててレインナードさんが椅子から転がり落ちた。お、おおう、何事だ……。
「ど、どうしました?」
「あー、いや、何でも……ねえ訳じゃねえけど……その、なんだ……」
床に尻餅をついた格好のレインナードさんの眼が、未だかつてなく泳いでいる。漫画だったら物凄い量の冷や汗とか流していそうな、なんかもうあからさまにも程がある、この上ない狼狽えっぷりだった。何がどうしちゃったんだ……。
何とはなしに私がベッドに座り直すと、レインナードさんは項垂れて床に正座した。私は何も言っていないのに、自発的に。前にこの光景を見たのは浮遊遺跡からの帰り、マーヴィの街でだ。私が酔っ払いに絡まれた時。となると、それに等しいくらいの問題が発生していたということか。私の記憶にはないから、山道から落ちてのことなのだろうけれど。
「ライゼル」
「はい」
やたらと力のない声で呼ばれたので、ますます訝しい気分になりつつも返事をする。
「その、あれだ。濡れ鼠のまま、夜を越すのは危ねえだろ」
「ええ、まあ、はい。……ああ、なるほど」
何となく、狼狽の理由と事態のあらましが見えてきた。
前にも浮遊遺跡の宿で部屋を巡ってやり合ったくらいには、レインナードさんは私が年若い娘であるということを気にしている。その上での「これ」なら、うん、レインナードさんの胸中もお察ししますと言うか。私の身体はお世辞にも豊満ではないと言うか控えめに言っても貧相なのはさて置いて、こういった事態を役得と喜んでしまえるタイプでもないから、とんでもないストレスになっただろうことは想像に難くない。何一つ望んでないのに、状況の方が毎度転がり込んでくるとか、レインナードさんはよっぽど不運な星の巡りの下に生まれたんじゃなかろうか。
「――つー訳で、一発殴ってくれ」
「何故に」
どうしてそうなった。
「何でも何もなあ!」
「いや、緊急事態ですし、単に気遣ってもらった結果でしょう。いいじゃないですか、仕方がなかったってことで。というか、すみませんね、貧相なものを見せちゃいまして」
「お前、割り切りすぎだろっつか、貧――」
顔を赤くさせたり青くさせたり忙しいレインナードさんは、挙句の果てに絶句してしまった。がっくりと肩を落として、なんかもう打ちひしがれている。
「お前、何でそんななんだよ……」
「何ででしょうね、自分でもびっくりしてますけど」
家族でも恋人でもない年上の成人男性に着替えさせられて介抱されたと聞けば、いくら何でも少しくらいの抵抗を覚えるのではなかろうか。それとも、二十三足すことの十七年の間にそんな繊細さは抜け落ちてしまったのだろうか。それはそれで悲しい。
とは言え、まあ、これが全く知らぬ人であったら、嫌だなあとか困ったなあと思うのは確かであろう気もする。ならば、うん、そういうことだ。
「他の人だったら困るなーとか思いますし、レインナードさんが立派な傭兵の男の人だとも分かってるつもりなんですけど。――なんて言いますかね、レインナードさんなら、ま、いいっかなーって……あれ、そんなぶるぶる震えてどうしたんです?」
あっ、撃沈した。




