00:愚者は巡る-03
ヴィオレタ王国とエブル帝国がついに戦争を始めたという情報が飛び込んできたのは、私がもうじき十二歳になろうかという季節のことだった。ヴィオレタ王国はアシメニオスの南の隣国で、エブル帝国はその東に位置している。どちらも国土が接しているけれど、比率としては圧倒的にヴィオレタの方が大きい。
「王はひとまず、どちらにも手を貸さないでおくことにしたようだの」
「その方がいいじゃないか。戦争なんかしたって、いいことなんかありゃしない」
「ヴィオレタからの布、手に入りにくくなるかしら」
「その方が問題だな……」
大人たちが難しい顔で話し合いをする中、私は素知らぬ振りで無邪気にじゃれついてくる妹たちの相手をしていた。子供が口を挟むには、少し難しい話題だ。
ただ、ハント家には私を含めてまだ幼い子供が三人もいる。収入について不安要素が出てくるのは、出来る限り避けたい。これでも私はこの世界では人並み以上に計算のできる類に入るから、最悪どこかの商家にでも奉公に出るという手がなくもないだろうけれど、それだって堅実と言えるかどうか。
ハント家には、これまで慈しみ育んでもらった恩がある。そして、可愛く幼い妹たちを不憫な目に遭わせたくはない。私はかつて親不孝をし、弟もひどく悲しませてしまった。だからこそ、今度こそちゃんとしたい。
「先生、王立魔術学院にはどうしたら入れますか」
隣国の戦争開始の報が入った翌日、教会を訪ねるなりに尋ねると、司祭さんはぽかんと目を丸くさせた。
司祭さんはやっと三十路を越えたかどうかという見掛けの若い男性でありながら、おそろしく魔術に詳しく、何より教え方が非常に上手い。単に知識が豊富なだけではない、本当の意味で頭がいい人なのだろうと思う。そんな人ならば教会の要職に就いていていいのではないかと思うのだけれど、何故かこんな辺鄙な村でひとり司祭をしている。
「どうしたんです、藪から棒に。王立魔術学院は、一応建前上は万民に開かれていますが、平民が目指すには困難なところですよ」
「でも、そこを卒業できれば、宮廷魔術師にもなれるんでしょう?」
「平民が宮廷魔術師になってはいけない、と定められてはいません。ですが、平民出の宮廷魔術師は前例がありませんね」
きっぱりと言って、司祭さんは頭を振る。否定の言葉こそ口にしていないけれど、その仕草の示す意図は明白だ。
日本人だった頃にはほとんど無縁のものだった身分制度は、アシメニオス王国では未だ現役で敷かれている。貴族と平民には厳然たる格差があり、立場の低い平民は貴族に比べて出来ることや許されていることが非常に少ない。本当はもっと根深い問題や感情があるのだろうけれど、平民しかいない平穏な村と日本人の感覚に染まりきった私の頭では、まだ少し実感の薄い話でもある。
それでも、身分制度によって出世計画が阻まれようとしていることだけは明確に分かることであって、嗚呼――何とも忌々しい、果てしなく高い壁よ……! 許すまじ、貴族社会。なけなしの情報を繋ぎ合わせて考えた、最善の可能性すらも潰しに来るとは。
「宮廷魔術師になって、ライゼルさんはどうしたいんです?」
「安定した収入と、社会的な保障を得られるかと……」
言ってから、しまったと思った。十二歳の子供が言うことではなかった。
案の定、司祭さんは怪訝そうな顔をしていた。何を言ってるんだこの子どもは、とでも言わんばかりの顔である。
「……ヴィオレタと、エブルが戦争を始めたんでしょ? お母さんが、布が余り買えなくなるかもって」
「ああ、それで少しでも安定した立場を、と」
頷いて見せると、司祭さんはやっと少し納得したような表情を見せた。
「親孝行、大変結構なことですが、王立魔術学院に入学するには、いくつかの問題があります。一つ、合格率三割の入学試験をパスすること。二つ、学費及び在学中に発生する諸々の費用。三つ、これが一番面倒かと思いますが――」
司祭さんはもったいぶって言葉を切る。イラッとしたので、近付いてお腹にシモンさん直伝の正拳突きを加えた。
「ぐふっ!? な、何を……」
「話をもったいぶる奴にろくな奴はいない、っておばあちゃんが言ってた」
「そんな横暴な……」
身体をくの字に折り曲げた司祭さんは、涙目だった。いくら私が羊追いの犬たちと共に野山を駆け回って育った野生児だとは言え、子供のパンチに涙目とは大概に貧弱だ。貧弱すぎるので、こんな僻地に追いやられたのだろうか。それなら仕方がない。
ひとしきり呻いて恨み言を言った後、司祭さんは話を再開した。
「三つ目ですが、身分の問題です。貴族は基本的に平民を同じ人間と見做しませんし、学院に入ることのできるほど能力のある者であれば余計に妬みます」
「人として最悪ですね」
思わず本音を零すと、司祭さんは苦笑を浮かべた。どこか哀愁の漂う表情だった。……ひょっとしたら、司祭さんはそんな事情の為に、ここにいるのかも知れない。
「でも、宮廷魔術師にはなれなくても、学院を卒業することには価値があるんでしょう?」
「そうですね、運が良ければ一生の知己を、運が悪くとも学院の誇る英知の一端を得ることが出来るでしょう」
「なら、行く価値はある、と、思います。……三つ目の問題は、まあ、どうにかするとして、一と二が壁ですよね」
「……いいえ、実際には二つ目の資金繰りだけでしょうね」
「え?」
どういうことかと驚いて司祭さんを見る。司祭さんは、少しだけ得意げに笑った。
「ライゼルさんは、もう駆け出しの魔術師にも劣らないだけの技術を習得していますよ。後は入学試験に対応できるような幅広い、学問的な分野としての知識があれば十分です。そして、それを私はあなたに伝えることが出来ると、思います」
「本当ですか!?」
「ええ、さすがのあなたでも、いくらか時間が掛かるでしょうけれど……必ず、物にさせて見せますよ」
深く頷く司祭さんを、これほど頼もしく思ったことはなかったかもしれない。
戦争の話が出た直後に話を切り出すと、関連付けられる恐れがある。ハント家の人々は優しいから、そうなったらきっと断固として許してくれないに違いない。純粋に私の欲として、学院に入りたいのだと思わせる必要がある。
新聞で知らされる戦況は一進一退、アシメニオスからは遠い国境で、ヴィオレタとエブルは争い続けている。幸か不幸か、そのことによる影響は、今のところそれほど見られなかった。単にクローロス村が二国から遠いから伝わってこないだけかもしれないけれど。
そんな打算の下に時期を見計らっていると、いつの間にか一月が経過しようとしていた。村の様子も、家の中の様子も、それほど以前と変わりはない。ならいいか、と、少し待ち続けることに焦れてきたこともあって、話をすることに決めた。
話をするのは、その日の夕食にした。いつも通りに皆でテーブルを囲んだ、わいわいがやがやとした食事の最中。できるだけ何でもない風を心掛けて、切り出す。
「あのね、話があるんだけど――」
私が王立魔術学院に入りたい、と言っても、意外なことにハント家の人々は驚いた素振りを見せなかった。それどころか、来る時が来たとで言いたげな表情を浮かべていた。……元々私は奇妙な子供であっただろうし、何か察するところがあったのかもしれない。
「勉強は、先生が教えてくれるって。学院にいる間は色々とお金が掛かるとも言ってたから、それは試験に合格できるだけの勉強が終わるまでに、ちょっとずつ貯めておく予定。お父さんと一緒に山に行った時に、薬草とかを摘んでおけば、お小遣い程度でもちょっとは貯まるでしょ?」
「……そこまで考えているのなら、俺は反対しない」
最初に肯定してくれたのは、サロモンさんだった。
「私も、応援するわ。ライゼルが遠くに行ってしまうのは寂しいけれど」
「あたしも、まあ、いいと思うよ。ライゼルは多分、こんなひなびた村に収まるような器じゃないんだろう」
アナイスさんとバベットさんも、そう言って頷いてくれた。シモンさんは否定も肯定もしなかった――と言うか、気が早すぎることに寂しい寂しいと言ってひたすら泣いていた。隣に座っているバベットさんが冷たい目をしていることなんて、全く気付いていないようだった。
それからというもの、私は教会での勉強の合間を縫って、なるべく山に入るようになった。動物を狩ると言うよりは、ほとんどが山の中を巡っての採取だ。怪我や病気に効く薬草や珍しい色合いの羽根、動物の残していった角を持って帰っては、村の個人商店や流れの商人に買い取ってもらう。
山に入る時のお供は、いつも決まってノワだ。
ノワは一昨年ミモザが産んだ雄の子犬で、非常に鼻が利く。危険な動物やモンスターの気配があると即座に教えてくれるし、稀におそろしく高値で買い取ってもらえるキノコを見付けたりしてくれて、何とも頼りになる相棒だった。
妹たちには細かな事情は説明しなかったけれど、そうした行動から感じるものがあったのか、今まで以上に引っ付いてくるようになった。全て事が上手くいけば、きっと短くない期間離れていることになる。文字通り生まれた時から面倒を見ている妹たちと離れるのはさすがに寂しいし、純粋に別れを惜しんでもらえるのは嬉しい。可能な限り、妹たちとの時間も取るように心掛けた。
「うーん、それにしても地味に事務員をしてた頃は、まさか自分が魔術師になろうとするなんて想像もしなかった……」
人生、何があるか分からないもんだ。……一度死んだ後だけに、まるっとひとくくりで人生と言ってしまっていいのかは分からないけれど。
そうして月日は過ぎて、十七歳の春。王都ガラジオスの王立魔術学院に入学する資格を、私は手に入れた。
六年近い年月の間に、ハント家にも少なくない変化と成長があった。ベニレスは十二歳に、リリトは十歳になり、三匹の犬たちと一緒に、立派に羊飼いの仕事の一端を担っている。ヴィオレタとエブルはまだ戦争を続けていたけれど、それによってアシメニオスの景気が悪くなることはなかったし、アナイスさんの仕事に支障が出ることもなかった。
やはり、私は幸運だったのだと思う。生まれた先のハント家は良い家で、周囲にも頼りになる人物が揃っていた。世界情勢に翻弄されることも、突然の災害に泣かされることもなかった。
与えてもらったものは、数限りない。子として、人として、それらに感謝と敬意をもって報いなければならないと思う。
よく晴れた日に、私は村総出の見送りの元出立した。ベニレスもリリトも泣いていたし、シモンさんは号泣してまたバベットさんに冷たい目で見られていた。もっとも、そのバベットさんの目も潤んでいたし、サロモンさんやアナイスさんにしても同じだったのだけれど。
学院から寄越された馬車に乗り込み、窓から身を乗り出して、私はこれからしばらく会うことも声を聞くこともできない人々に向かって手を振った。
「行ってきます!」