07:怒れる戦車の島-04
港から引き上げると、レインナードさんは私を伴ったまま街中のお店を巡り、恐ろしいほどの速さで山越えの準備を整えた。地図、食料、雨具に丈夫なロープその他諸々。一気に膨れてしまった荷物を抱え、私達は大急ぎで北への針路を取った。
ヴァラソン山は緑の絶えた岩山で、鉄鉱石をよく産出するという。その代わりに峻厳なことで広く知られ、よほど急ぐ用事があるのでもない限り、三倍以上の時間を掛けることになっても迂回する人の方が多いのだとか。何事もなければ、大人の足で山を越えるのにおよそ一日強。その三倍となれば、四日は固い。それだけの時間をかけてしまえば、確実に北の街まで王の使いの手が伸びる。
もっとも滞在していた街の港が封鎖されていた以上、とうに北の街へも伝令が出ていると考えるのが妥当ではある。王の伝令を出し抜けるとは、端から考えていない。まだ監視の目が緩む可能性のある北で、少々の非合法も呑み込んでくれるような船主を探すのが目的だ。
もちろん、その選択肢をとるからには、少なからぬリスクを負うことにはなるだろう。それでも身を守ることにかけてはレインナードさんがいるし、それなりの金銭を要求されるとしても、これまで貯めてきた資金がある。質素な生活をすれば、一年は暮らせる額だ。よほど吹っ掛けられでもしない限り、足りるはず。……今までせっせと貯めてきたもの、そりゃあ惜しくない訳ではないけれど。お金はまた貯めればいい。ここで騒ぎに巻き込まれて学院に戻れなくなるとか、大怪我をしてしまうとか、そっちの方が問題だ。後で取り返しがつくかも分からない。とにかく、今は無事にアルマを脱出すること。これが最優先だ。
迅速に準備を整えたとはいえ、蜂の巣を突いたかのような騒ぎの街を抜け出す頃には、時刻は四時を回っていた。いくら日の長い八月の夏真っ盛りでも、日の入りまで二時間もない。それでも私達は構わずに街道を北へ駆けた。青空がやがて橙に染まり、日が落ちて月が昇り、暗い空に星が瞬き始め――体力の限界も迫ってきた夜更け。ようやっと、月明かりの下に天険の稜線が見えてきた。
「今日はここらで夜を越して、日の出を待って山に入るとするか」
そう言ってレインナードさんが街道を外れていくので、黙ってその後に続く。
辺りはすっかり草木の絶えた岩石地帯になっており、そんなだからこれまで目に入る限りの距離で人里が見えたこともなかった。周囲には地を這うように生えた背の低い木々がぽつぽつと生えている他は、大小の岩がごろごろしているばかり。木もほとんど生えていないからには火を熾すこともできない。せめて風よけになりそうな岩陰を選んで今夜の寝場所と定め、魔石ランプの灯りを頼りに食事をして、早々に寝ることになった。
そう言えば、まともな野宿とかこれが初めてかもしれない。何かどきどきしてきた。
「レインナードさん」
「あん?」
大きな岩に寄り掛かる格好で地べたに座った私の、ランプを挟んで向かいにレインナードさんは槍を抱えるようにして座っている。声を掛けると、橙の目がつとこちらを向いた。
「見張りとか、した方がいいですか?」
「できんのか?」
「いや、したことはないですけど。した方がいいと言われれば、善処は」
そう答えると、レインナードさんは軽く目を見開いたかと思うと小さく噴き出して、ひらひらと手を振った。
「いい、いい。気にすんな。気持ちだけもらっとくよ。何かありゃあ、俺が気付く。こっから先は気が抜けねえだろうし、今のうちによく休んどけ」
「じゃあ、お言葉に甘えまして」
ありがとうございます、と言いがてら分厚い外套を身体に巻き付ける。アルマの島がそういう気候なのか、ヴァラソン山の周辺が特にそうなのかは分からないけれど、八月半ばにしては肌寒いくらいの気温だった。眠るのに難儀するかもしれない。焚火ができればいいのに、などと思っている間に――まあ、寝落ちてしまったのだけれども。
何事もなく夜が明けると、空が白んでくる時刻に私達は出発した。空は快晴、気温もまだ十分に涼しい。本格的に暑くなる前に、距離を稼いでおきたいところだ。
まずは街道に戻り、昨日と同じに一路ヴァラソン山へ。申し訳程度に草が刈られ、土を踏み固めただけの道を一時間も走ると、行く手に立て看板が立っているのが見えてきた。街道も二手に分かれている。どうやら案内板らしかった。
日に焼けて読みづらい看板の記述によれば、右手が山を越える山道に、左手が山裾の迂回路に続いているのだそうだ。
「ま、考えるまでもねえやな」
「ですね」
もちろん、選ぶのは右の道。急がば回れとは言うけれど、急ぐならそれこそショートカットを試みるものなのだ。ほとんどの場合、下道より高速を飛ばした方が早い。微妙に例えが違う気もするけど気にしない。とにかく、そういうものなのだから、今は諺も無視である。
そうして案内板の右手の道を走ること、更に小一時間。徐々に狭く細くなっていく道の果てに、ようやっと辿り着いた麓から見上げた天を突く威容は、山というよりはこちらとあちらを隔てる壁のようにすら思われた。視界いっぱいに、灰色のごつごつとした山肌が広がっている。無機的な色合いはいかにも威圧的で、緑の山林とは異なり、どうにも人を寄せ付けまいとしているような印象を受けた。被害妄想と言われれば、まあ、その通りではある。
人を拒むと言えば、麓の殺風景さもそうだ。登山者に最後の休息を提供する小屋の一つもあって良かろうに、そんなものは影も形もない。あるのは登山道への案内看板のみ、ときたものだ。実にお客に優しくない。
「登山道まで、徒歩十分なあ。ここらで休憩するか?」
看板の前で立ち止まったレイナードさんがその表記を読み上げたかと思うと、肩越しにこちらへ目を向けた。これから峻厳な岩山に踏み込むのだから、きっと山を抜けるまでゆっくり休むことはできなくなる。その前に念の為、ということだろうか。
努めて客観的に自分の様子を顧みるに、体力にはまだまだ余裕がある。今朝だって朝食の準備が整ってから起こしてもらってしまったお陰で、十分以上に睡眠時間もとれた。だから、疲れている訳でもない。
「いえ、大丈――あ、ちょっと待って下さい」
そう思って首を横に振りかけた瞬間、はたと思い出すことがあって止めた。
もしかして、アレ、渡し時は今なんじゃないだろうか。昨日からバタバタ忙しくしていたとはいえ、頭を悩ませて作ったものの存在を完全に忘れていた自分の頭に悲しくならざるを得ないものの、それはそれとして。
これから危険を冒しての行軍になるのだ。何らかのアクシデントが発生して、はぐれる可能性もなくはない。その為に備えておくことも、また必要だろう。
「何だ、どした?」
かくりと首を傾げたレインナードさんが、身体ごと振り向く。一歩二歩とこちらに寄ってきてくれたので、ここぞとばかりに鞄から布の包みを取り出した。差し出してから、ああまたラッピングとか全く考えてなかったや、と気が付いたけれど、実に今更である。
いや、そもそもこれは旅に必要な装備の一環というだけであって、特別プレゼントとかいう訳ではないのだし。ないはずだし。……よし、自己弁護完了。
「これ、浮遊遺跡で見つけたラムール石から作ったんですけど」
布を開いて、中のものを示してみせる。言ってしまえば、それはキーホルダーの一種だ。
鈍く光る銀色の金具はベルトとかその辺に連結することを意図したもので、深紅の玉――浮遊遺跡で得た剣のものを流用した――と、牙のような形状を意識してざっくり形を整えたラムール石を連ねてある。余り研磨しても持ち主になる人の印象と違ってしまうかと思ったので、表面はほとんど切り出した時のままだ。そのお陰で思ったほど薄桃色が目立たなくなったので、これぞまさに一石二鳥……って意味違うかな、まあいいや。
因みに、深紅の玉は商工ギルドで鑑定してもらったところ特に魔石の類ではなく、単なる綺麗な宝石だった。売ればそこそこの値段になったのかもしれないけれど、その鮮やかな色合いが以前見たレインナードさんの火によく似て思えたので、折角なのだからと使ってみた次第。あの鮮烈な赤は、今もよく覚えている。綺麗だったなあ……。
「ベルトとか鞄とか……まあ、どこかに引っ掛けておいて下さい。一応、色々考えて細工してみたんで、普段は特に引き合ったりすることはないです。何かあった時には魔力を流してもらって、そうすればこっちの私の方のに反応して動きますから」
左手に着けたバングルを示す。手首を装う飾りを形作るのは白みを帯びた金の蔦、その表面には小さく砕いたラムール石を花のように配した。それだけでは引き合う力に乏しいので、レインナードさんの飾りよりは大分小ぶりながらもペンデュラムに整形研磨した石を吊り下げてある。有事の際には、これが互いに引き合って居場所を指し示すという寸法だ。
どうぞ、と飾りを持つ手を揺らしてみせると、おっかなびっくりといった風の指先が布の上から飾りを摘み上げる。橙の眼が、じいっと模造の石牙を見詰めた。自分の作ったものを目の前で矯めつ眇めつされるのは、何度経験しても慣れない。少なくとも、表向き嫌そうだったり不満そうには見えないことだけは、まだ救いかもしれないものの。
「そんな感じで、大丈夫ですか? 直した方がいいところとかあるようだったら、今のうちに言って下さいよ。変えるのは王都に戻ってからになりますけど」
「お? おお、いや、問題ねえよ。いいと思う」
「そうですか? 随分じいっと凝視してましたけど」
「んにゃ、本当に器用なもんだと思ってよ」
にかりと笑って、レインナードさんが飾りを腰のベルトループに装着する。……うーむ、やっぱり目の前で自分が作ったものを身に着けられるというのも、何と言うか絶妙に慣れない。照れ臭い。むず痒い。
「じゃ、今度は俺からな。お返しって奴だ」
「はい?」
何ですと?
「本当は、王都に戻ってから渡すつもりだったんだけどよ。折角の旅行中に物騒な話題ってのも野暮なモンだろ」
言いながら、レインナードさんは先刻の私よろしくごそごそと鞄の中から何かを取り出す。あ、ちょっと見えた。何だろう、細長い? 棒状?
「延べ板二つは、槍の補修強化に使うにしても多過ぎだったかんな。鍛冶屋の親父に頼んで、短剣作ってもらった」
そう言ったレインナードさんの手に握られていたのは、ダガーとでも言えばいいのか――こちらの世界では一般的な、かつての私の感覚で言えば西洋風の、短い剣だった。
長さは二十センチ強といったところ。真っ白な鞘は要所要所が銀の金属で補強と装飾がされていて、まさかこれもミスリルだったりしちゃうのだろうか。丸みを帯びた造りの鍔は何かの葉や花でも意匠にしているのか、シンプルながらも可愛らしい。柄は鞘と同じに白く、つるりと光るほどに磨き上げられていた。白一色だからか、どこか神聖な感じすらする。
「な、なんかえらく上等な感じがするんですけど……」
「若い嬢ちゃんにやるっつったら、あの親父の奴、やたらに張り切って作ってくれてよ。ついでに教会で祝福してもらってきたんだと。なんか退魔とか浄化とか。よく知らねえけど」
「わあー」
神聖な感じどころじゃなかった。本物だった。
「って、いや、ちょっと、これはどう考えても釣り合いが取れないと思うんですけど」
「取れてんだろ。鎧の解析してもらった、ミスリルは延べ板にしてもらった、槍に術を掛けてもらった。その辺の手間まるごとの礼だ」
「はあ、そですか……」
「ああ、そうなんだよ」
無駄にきっぱり言い切られた。そんなことはないように思えてならないのだけれど、当人がそう言うのであれば、納得しておいた方がいいのだろうか。反論したところで、きっと議論は平行線だろうし。あんまり遠慮してしまっても、逆に失礼になりそうだし。
「そういうことなら、有難く頂きますかね。もしレインナードさんがピンチになったら、これで助けに入りましょうか」
「んな気い使わなくていいっつの。自分の身を守る為に使えよ。その為に用意してんだ」
そう言って、レインナードさんは鞄を背負い直し、ぐるりと肩を回した。
「うっし、そんじゃあ行軍再開といくかあ!」
大きな背中が案内看板の示す方へ向かって歩き出すのに倣い、止まっていた足を動かす。少し迷った末に、短剣はベルトに差すことにした。
刃物なんて料理の他は狩った動物を捌くくらいにしか使ったことがないから、後でレインナードさんに扱い方とか、手入れの仕方を確認しておいた方がよさそうだ。槍と短剣じゃだいぶ違う気もするけど――まあ、どうにかなると信じよう。そう言えば、バルドゥルさんは剣を持つ人だったっけか。ちゃんとガラジオスに戻れたら、バルドゥルさんにも訊いてみようかしらん。
それからはまた黙々と足を動かし、二十分とかからないうちに山道の入り口に着いた。ヴァラソン山にはいくつもの採掘場が築かれていると聞いた覚えがあるけれど、少なくともこの近郊ではないらしい。これまで通り周囲には建物の影一つなく、文字通りの人っ子一人いない無人っぷり。そんな殺風景この上ない景色の中で少々の休憩時間を取った後、いよいよ山登りに入った。
「万が一落石とかあったら困るんで、探索頼んでいいか」
「了解です。あ、これは自分の身を守る為でもあるので、変な気遣いは要りませんから」
「……そーかい」
そんな会話を交わしながら、斜面を均し、岩壁を削り取っただけのような道を、慎重かつ早足で歩んでいく。一歩足を踏み外せば、崖下まで真っ逆さまだ。足元は確認しつつも極力崖下は見ないようにして、ひたすらに歩む。風魔術を極めた魔術師は風を駆って自在に空を飛ぶことができると聞くけれど、生憎と私の技量はそこまで到達していない。転落した場合の落下速度を減衰させるくらいが精々だ。それもできれば一生実践はしたくないので、とにかく足元には気を付けて進もう。
幸い、山肌を抉るようにして作られた道自体はしっかりとしていたし、吹きつける風もそれほど強くない。涼しいのを通り越して寒いくらいなのは辟易するけれど、身体をふらつかせるような強風じゃないだけ有難いというものだ。……まあ、前を行くレインナードさんが風よけになってくれているお陰も、多分にあるのだろうけれど。
時折立ったまま岩壁に寄り掛かるだけの休憩を挟みながら山道を登り続け、気が付くと太陽が随分と高いところに昇っていた。その割に、気温は思ったほど上がっていない。風は涼しいままで、天候に変化も――あ、いや、少し雲が増えてきたかも。見上げた太陽は眩く光っているものの、薄ら雲がかかっているようにも見える。あれが厚くなってきたら、まずいんじゃなかろうか。
「レインナードさん、レインナードさん。天気大丈夫ですかね」
「天気? ……あー、確かにちっと雲があんな。あのまま吹き消えてくれりゃあいいんだが」
ちらりと空へ視線を巡らせたレインナードさんが、厳しい声で言う。
「山の天気は変わりやすいって言うしな。この断崖絶壁の上で雨に打たれて立ち往生ってのも勘弁してもらいてえが、この先どっか避難所になるようなトコを作ってくれてあっかね……」
とは言え、今まで歩いてきた道の中にはそれと思しき物はなかった。洞窟の類どころか、延々と続く細い道以外には開けた場所一つない。望み薄としてもこれから先にあると期待して、また雨が降らないことを祈って、進むしかないのだろう。
はあ、とレインナードさんが溜息を吐く。
「これまでみてえな幸運が、今回もあることを祈るっきゃねえな」
全くだ。言葉には出さずに頷き、吐きそうになった溜息は呑み込んだ。
空に牛乳を溶いたような薄いおぼろ雲が次第に厚みと体積を増し、灰色を濃くさせ始めたのは、午後三時を回ろうかという頃だった。そこからは坂を転げ落ちるように、瞬く間に見事な雨雲を形成してくれた。真昼間が嘘のように辺りは薄暗くなり、ゴロゴロと嫌な音さえ遠く近く聞こえてくる。
「レインナードさん」
「おう、分かってる。とにかく、行けるところまで行くしかねえ」
不安に駆られて呼べば、思いの外しっかりした声で返事があった。その打てば響く声の確かさに、顔を出しかけた弱気が引っ込む。……そうだ、今更引き返すこともできない。
山に入って、既に六時間余りが経過している。ここまで来た分を無駄にしない為にも、余計なことなんか気にしていないで、着実に進んでいかなければ。
それからは休憩を取る間も惜しんで、山道を進んだ。足が棒のようになっても、疲れを通り越して痛み始めても、ひたすらに。さりとて相変わらず腰を落ち着けて休めるような場所はなく、空の雲は灰色が濃くなる一方で、今や黒くすら見える有り様。チカチカと雲間を走る閃光が見えるのも怖気がしてたまらない。
ここまでくれば、祈ろうが願おうがどうしようもないことは目に見えていた。重たく厚く空を覆う黒雲は、いずれ雷を伴った雨を降らせるだろう。その時までにどれだけ状況を変えられるか、整えられるか。それが私達の安全を分かつ。……分のない賭けだと、些か空しい気分にならなくもないけれど。
というか、誰も彼も山越えの強行突破をせず、大人しく下道を迂回するのは、単に山道が厳しいからだけじゃなくて、急な天候の移り変わりを凌げるような場所がないからなんじゃなかろうか。そんな気がしてきた。気付きたくなかったけど。欲を言えば、看板辺りにそんな注意書きをしておいてほしかったけど。あーもう、やっぱり先人の経験から生まれた諺ってのは正しいものなのかなあ!
「……あーあ、ついに降ってきやがったな」
そんな声が聞こえて、はたと我に返る。その途端、鼻の頭にぴちりと落ちてくるものがあった。冷たく濡れた感触。――雨だ。
慌てて鞄から雨除けの外套を取り出し、肩に羽織ってフードをかぶる。そうしている間にも雨は勢いを増し、外套を叩く雨粒は痛いほどになっていた。ぬかるむような足場ではないとは言え、滑る可能性は格段に増す。外套があっても濡れるものは濡れるし、水を含んだ衣服はじっとりと重く、自然と歩む足は遅くなっていった。
何より、気温が急激に下がっていくのが辛い。濡れた指先がかじかむ。吐く息が白くないのが嘘みたいだ。今って本当に夏だったっけ? 秋とかじゃなくって? あー、やばい、寒い。震えそう。眠気……は、ないけど。断じてないけど、こんな状況で。
ぶるりと頭を振って、両手で頬を叩く。ばしん、と響くその音さえ、この雨の勢いでは目の前を行く人の耳にすら届かないに違いない。じんじんとした痛みに、いくらか意識がはっきりする。それでも、限界は近い。情けないし申し訳ないのも山々だけど、その時が来る前にちゃんと知らせないと、迷惑になる。
はふ、と息を吐いて、目の前の濡れそぼった外套に手を伸ばす。震える指先で掴んで、何度か引く。すると、前を行く背中はすぐに立ち止まって、振り向いてくれた。濡れて重くなったフードが目深になって、少し顎を上げたくらいでは顔を見上げることもできなかったけれど。
「どうした、疲れたか?」
穏やかな声は、私と違ってまだ随分と余裕がありそうだった。
疲れているのか、と問われれば、それもあると思う。体力が十分に残っていたのなら、少しくらいの雨には耐えられたのだろう。ただ、今何よりも辛いのは――
「疲れてることは疲れてますけど、それ以上に、さ、寒くないですか」
自分でもびっくりするくらい、細い声が出た。蚊の鳴くような、とはこんな声を言うのかもしれない。そんな現実逃避気味な思考さえ、脳裏を流れていく。
小さく、息を呑むような気配がした。
「……悪い、雨の山越えはやっぱ辛かったな」
申し訳なさそうな声で言いながら、腰を屈めたレインナードさんが私の顔を覗き込む。その橙の眼を見返した瞬間、日に焼けた顔が苦々しげに歪んだ。
「ああ、くそ、顔真っ白になっちまってら。まだ耐えられるか? 頭痛えとか、気持ち悪いとか、何かあるか?」
その手の症状はない。緩く頭を振ると、ほっとした風でレインナードさんが息を吐いた。
「なら、まだ不幸中の幸いってもんか。怖えかもしんねえけど、こっから先は負ぶってくわ。今、鞄背負い直すから待ってろ」
そう言って、レインナードさんが少し距離を取る。濡れた外套に四苦八苦しながらも鞄を下ろそうとする姿を、霞みそうな目で見ていると、
「――うわっ!?」
カッと空に閃いた光。反射的に飛び出す引っくり返った声。それらとほとんど同時に、どおん、と鼓膜が破れるかと思うような轟音が響き渡った。……どーん、ごろごろ。雷? 雷か。雷だ。音も一緒ってことは近い。もしかして、落ちた? どこに? 山? 他?
回転の鈍った頭でも、次々と矢継ぎ早に考えが巡る。そんな混沌とした思考の中、疲労と寒さで消えかけていた探索の術式が感知したのは――
「レインナードさん! 石! 光! 落ちてくる!」
瞬間、ほとんど訳も分からず叫んでいた。何だと、と焦る声が耳を通り抜けていくのを感じながら、術式に教えられるままに頭上を振り仰ぐ。
雨に濡れて霞む目に映ったのは――黒い、影だった。視界を丸ごと圧するような、大きな岩の塊。斜面を跳ねながら転がり落ちてくるそれを見詰めて、私は思わず呆然とした。
――ああ、もしかして、死ぬんだろうか、これ。




