00:愚者は巡る-01
かつてお世話になった「銀の道しるべ」、そこで過ごした冒険の日々を偲んで。
最後の記憶は、断片的だ。
自分が何をしてどうなったのかは、一応きちんと分かっていた。案外呆気ないもんだとか、さすがにこの末路は想像したことがなかったな、とか。動かなくなっていく身体を感じながら、そんなことを思ったのも覚えている。
記憶がぶつ切りになっていくのは、そこから先だ。
サスペンスドラマなんかでお馴染みの、灰色の霊安室。真白いシーツの上に寝かされた私は、シーツに負けず劣らず真っ白な顔で目を閉じていた。――そう、死んでただの物体となった自分の肉体を、私は上空から見下ろしていたのである。
未練があると成仏できないとか、そういった物語めいた話はよく見るけれど、まさか体験することになるとは思わなかった。どうすればいいやら、どうしてこうなったのやら。驚きや戸惑いは多分にあったけれど、それらに翻弄されることが終ぞなかったのは、断片的な記憶の中、入れ代わり立ち代わり霊安室を訪れた人々の印象が濃いせいだろう。
父は、ただ顰め面で私を見下ろしていた。長いことそうしていたのに、結局何も言わず霊安室を出てしまったけれど、部屋を出る時に唇を強く噛み締め、目元を手で押さえていたのが、胸に刺さった。
母は、最初から最後まで大泣きしていた。私の亡骸の冷たい手を握っては泣いて、白い顔を撫でては泣いて、その後で「どうして、何で」と責め、それから「痛かったでしょう、苦しかったでしょう」と慰めようとして、自分の言葉にまた泣いていた。あんまりにも泣き続けるので、病院の看護師によって連れ出される始末だった。
そして、弟。弟も、父によく似た顰め面で私を見下ろしていた。けれど、父のように沈黙し続けることはなく、唇を震わせて、言った。
「ばっか野郎、ほんと、馬鹿じゃねえの……姉貴……」
馬鹿だ馬鹿だと、弟は私の横たえられた台に取りすがって、罵っていた。泣きながら、罵っていた。
「自分が死んだら、意味ねえだろ。馬鹿じゃねえの」
泣きながら罵る弟の言葉は、私をひどく申し訳ない気分にさせた。
「 」
掠れきった弟のその一言が、最後の記憶の、本当に最後の断片だ。その言葉を、私は一生忘れることはできないと思う。……既に死んだ身の上だけれども。
それはともかく、こうして私こと山澄千里は、二十三歳の短い生涯を終えたのだった。
そりゃあ、心残りは色々とある。応援していたサッカーチームがせめてリーグ一部に昇格するところを見たかったとか、ずっと読んでいた漫画の結末はどうなったのかとか、職場には迷惑を掛けてしまったなあとか、親不孝をしてしまったなあとか。思うことは多々あったものの、家族の悲しみを見るにつけ、もうどうしようもない、取り返しのつかないことになってしまったのだと思い知らざるを得なかった。だからこそ、諦めがついた。
いつまでも漂っていても、仕方がないと割り切ることが出来たのだ。
――が。
……ええ、全くもって否定しようのない「が」なのである。訳の分からない事態は、浮遊霊状態だけでは終わらなかった。
「アナイス、ライゼルが笑った」
「あら、ご機嫌ね」
気が付くと、私はくすんだ桃色のような髪をした男性に抱かれていた。何じゃこりゃあ、と声を上げようとして、出来ないことに愕然とする。
「む、どうしたライゼル……」
「サロモン、どうかした?」
「さっきまで笑っていたのが、急に暴れ始めた」
「逆鱗に触れてしまったかしら」
からからと冷やかすような笑い声に、私を抱く男性は不満そうにする。その面差しは見るからに厳つかったけれど、青い眼の奥には確かな優しさがあって、不思議と恐ろしく思うことはなかった。
「……大人しくなった」
ほんのりと嬉しそうに、男性は唇を緩めた。ぎこちない手つきで私を抱き直し、頭を撫でる。
その一連の動作で視界が動き、私は訳の分からない現実を再確認する羽目になった。何じゃこりゃあ、と今度こそ叫んだ。ふぎゃあ、という弱弱しい泣き声でしかなかったけれど。
どうしてこうなった。まさにその言葉以外の何物も出てこない。二十三歳の、一端の大人であったはずの私は、今や子供――それも生まれて間もないような赤ん坊と化していたのである。泣きたい。泣いてるけど。
「アナイス、泣きだした……!」
「ええ? サロモン、嫌われたんじゃないかしら」
「嫌われた……のか……」
男性はこの世の終わりでも来たかのような、悲壮な顔になった。頼む、嫌わないでくれ、とぼそぼそ呟くので、何だか無性に申し訳ない気分になる。
嫌いとかそういう話じゃないんですけど、と言いたかったけれど、言えなかった。物理的に喋ることができなかったのだ。