EP‐1 変わらぬ日常
EP‐1 変わらぬ日常
街に《魔人》の恐怖が訪れるようになってからも、そこに住む人々の生活には大きな変化は訪れていない。もちろん表層的な変化はあったが、根本的な部分が変わることはなかった。
特に、高校二年生、古谷和哉の、少なくとも彼を取り巻く環境には、大した変化が訪れることはなかった。
校則に引っ掛からないレベルで少し長めの黒髪に、平均よりも少し高めの身長、耳にはイヤホンを付け、片手に英単語帳を持った彼の姿は、おおよそ目立つところのない普通の高校生といったところだろうか。
古谷はいつも通りの時間に登校し教室のドアを開ける。登校時刻の十五分前であり、いつもなら静かなはずの教室であるが、今日はいつもよりも少しだけ人が多く、少しだけ騒がしかった。
窓際の方に固まって何人かのクラスメイトが何やら話をしているようだった。
「おい昨日のニュース見たか?」
リーダー格の一人の男子が周囲のクラスメイトに話しかけていた。それに対して一番近くにいた彼の友人が応じる。
「また《魔人》が現れたんだろ。ここからずいぶん近くらしいぜ」
駆けの言葉に続くかの様にして、その周囲にいた生徒が次々と口を開いた。
「俺、昨日爆発音訊いたぜ」
「おい、まじかよ」
「マジだって。なんかこう、ドカーンって感じの花火みたいな音」
「ここらへんもやばいんじゃねーのか」
「出てくるなら来月あたりにしてほし―な。そうすりゃテストもなくなるし」
「おいおい、そんなこと言ってる場合かよ」
古谷はそんなクラスメイト達の会話を聞きながら自分の席へと着いた。冷静に考えれば異常ともいえるだろう。〝死〟という概念を振りまく存在が日常な中にいようとも、皆、それを当たり前と感じている。しかし、同時に皆忘れているのだ。《魔人》の存在しなかった世界のことを。
「おっ、おはよー、古谷」
唐突に古谷の後ろから声が掛かった。クラスメイトの高橋だ。
「おはよう」
古谷もそう挨拶を返す。
「なんか騒がしいけど、何があったんだ」
「知らないのか? 昨日この近くに《魔人》が現れたらしいんだ」
古谷の質問に高橋がそう答えた。
「……いや、知らないな。ニュースでもやって無かったぞ」
《魔人》が出現すれば、たとえそれがどんな時間であっても必ず周辺の住民へと避難勧告が出される。
(それがなかったということは隠蔽された、か、あるいは常識的に考えて)
「――勘違いかなんかじゃないのか?」
そんな古谷の言葉に対して、高橋は頷きながら答えた。
「かもな。でも、声を聞いたってやつや、姿を見たってやつまでいるんだ。おまえもなんか見なかったか?」
「……いや特には、今はじめて知ったよ。だが、もしそれが本当なら、どうしてニュースにならないんだ?」
「わかんね。多分あれじゃねーか、隠しとかねーとやばいこととかがあるんだろ。最近そういうのが多いしな」
「……なるほどね」
高橋は古谷とひとしきり話すと、席を離れ会話のグループに加わっていった。古谷はそんな高橋の姿や、教室の様子をぼんやりと見回していた。
《魔人》に関する話題は最早に日常的なものとなっていた。
《魔人》が現れた当初こそ大きな混乱があったものの、今ではそれが日常の一部となっていたのだ。《魔人》と言う危険分子を抱えた生活は、確かに命の危険を伴うものであったが、次第にそれが当たり前のものになっていった。
慣れていった、などという言葉を使うのは間違いであり、この場合、麻痺していった、と言うのが正確なところである。
事実、《魔人》の凶暴性や残虐性は日ごとに増していったが、世間の反応はそれとは対照的にだんだんと醒めたものとなっていった。増え続ける《魔人》関連の被害者は、ただの記号と数字に置き換わり、皆、それが他人事であるかのようにふるまうようになっていったのだ。
例えどれほど《魔人》の脅威が近くにあろうとも、根本的なところは何一つ変わりはしない。日常というものはそう簡単には壊れたりはしないのだ。
「自分だけは大丈夫だ」
「自分だけは絶対に死なない」
少なくとも、皆はそう思っている。否、そう信じている。そして疑わないことによってそれを確かなものへとしようとしている。
根拠の無い幻想を抱えることによって、自らの心を安定させていたのだ。
古谷が一人でそんなことを考えているとホームルームを告げるチャイムが鳴った。それと同時にクラス担任が教室に入ってくる。
「ほら、みんなー、席付けー」
クラス担任の微妙にやる気のなさそうな声と共に、教室中に散っていたクラスメイトも皆席へと戻り、朝のホームルームが始まった。何の変わりもない、古谷の、いつも通りの日常が始まったのだ。
×××
学生の一日の長さはそれぞれバラバラであり、その長さを決する最大の要素は、その人物がどれだけの間校内で活動しているか、という点ではないだろうか。
部活動や委員会など、何かに一生懸命打ち込んでいると、時間というものは驚くほど速く過ぎていく。逆に、何もせずにただ漫然と時間を浪費している時には、驚くほど時間が長く感じられる。
どうあがこうと、一日が二四時間である、という時間の流れは絶対的なものであるが、それが果たしてどの程度の長さであるか、というのは、極めて主観的な問題なのだ。
そういった観点から見るのであれば帰宅部である古谷和哉にとっての一日は長いものであろう。ましてや、友人が少なくこれといって趣味もないとあれば尚更のことである。
授業が終わり、ホームルームが済むと古谷はグランドへと走っていく運動部や、部室へと向かう文化部を尻目に、真っ直ぐに下駄箱を目指した。
靴を履き替え、下駄箱から校門までの僅かな距離を近くにいた知り合いと他愛もないような会話をしながら歩く。校門で知り合いと別れを告げると、古谷は独り、駅へと向かった。
古谷と同じ駅を利用しているものは少なく、登下校の際は大抵一人であったが、彼はそのことをたいして気にしてはいなかった。
元々人付き合いが得意なわけではない。また、愛想がいいわけでもない古谷にとっては、一人と言うのはむしろ心地がいいくらいであった。
イヤホンを付けポケットの中のミュージックプレーヤーのスイッチを入れる。聞きなれた音楽が流れ始め、街の音を掻き消す。
通い慣れた通学路。見慣れた景色。聞きなれた音楽。何もかもがいつも通りであった。
この日常の中には、いかなる異物も入り込む余地はない。いかなる事件が起ころうと、世界がどう変化しようと、彼の日常に大きな変化は訪れなかった。
横断歩道で信号を待っていた古谷が目線を上げたとき、いつもなら決して見かけることのないものを見つけた。
それは私服姿の少女であった。年の頃は古谷と同じくらい。黒い髪を肩のあたりまで垂らし、活動的なパーカーとジーパンに身を包んでいる。
学校が終わったばかりの時間帯に私服姿の女子高校生を見かけることは、確かに珍しいことだ。しかし、古谷が驚いた理由はそれではなかった。
「まさか……」
その少女はこちらの方を向き、無邪気な笑顔と共に手を振っている。どうやら彼女の方が先に古谷の方に気付いたようだった。
信号が青に変わった。古谷はミュージックプレーヤーの電源を切り、イヤホンを外すと反対側の信号機の近くに立っている〝彼女〟のところへと歩いて行った。
「古谷君、久しぶり!」
少女は驚愕と歓喜の入り混じったような声で古谷へと話しかける。
「ああ、久しぶり、神崎」
古谷もまたそれに応じる。
少女の名は神崎希夢。古谷の小、中学時代の同級生であった。中学卒業と同時に親の仕事の都合で引っ越してしまい、それ以降は一度も逢っていない。何でも、今は高校へは通っておらず、その〝親の仕事〟の手伝いをしている、という話であった。
「いやー、驚いた。すごい偶然ね、まさかこんなところでばったりと出くわすとは」
「驚いたのは俺の方だよ、神崎。まさかこんなところで会うなんて。どうだ元気にしてるか?」
お互いに並んで歩きながら会話をする。およそ二年ぶりの再会であったが、会話の内容はともかく、話し方はまるでつい昨日会ったかのような自然さであった。
「元気は元気だけど、まあいろいろと大変なことだらけだね。それにこの頃はいろいろと物騒だし」
「まあ、それもそうだな。神崎も気を付けろよ」
「それはお互い様でしょ。それに、何にどう気を付けろっていうのよ」
「……まあ、それもそうだな」
そんなことを話しながら二人は並んで歩き始めた。古谷にとっては誰かと並んで歩くなど久しぶりのことである。まして、女子と言えば尚更のことだ。しかし神崎との間には特に気負ったような雰囲気などなかった。それが二年近く会うことがなくとも消えることのなかった奇妙な縁、腐れ縁のような友情故に為し得たものであるということに古谷は気付き、決して表情に出すことなく心の内で静かにほほ笑んだ。
「それはそうと、神崎は今、何してんだ? 確か神崎の親の仕事って……」
古谷はそう言って神崎に話を振った。中学卒業以後の神崎のことについては風の噂で少し訊いた程度で、詳しいことは何も知らない。それ故のちょっとした好奇心と、その〝噂〟故の気掛かりからの言葉だった。
「そっ、今まさに話題沸騰中の《魔人》関連の仕事よ。まあ、とはいえ父さんたちのやってるのは直接戦ったりじゃなくて、研究とか開発がメインのところだけどね。私はそこの助手ってわけ」
神崎は古谷に対して笑顔のまま答えた。
「……そっか、それを聞いて少し安心したよ。でもすげー大変そうだな」
神崎の回答は古谷の心の中にあった気掛かりを解消するのには十分なものだった。神崎が《魔人》に対抗するための何らかの組織に所属している、というのは、すでにいろいろな噂で聞いていた。
それ故に、古谷が気に掛けていたのは、神崎が《魔人》と直接最前線で武器を手に取り戦っているのではないか、と言うことだった。直接命のやり取りをするような立場に彼女がいないという言葉に対して、古谷は心の底から安堵した。
「まあ大変と言えば大変だよ。それでもまあ、やりがいはあるし、将来の進路を心配する必要もないから、そういうところはむしろ気が楽ね。試験もないし」
神崎はどこか冗談めかしながら古谷に対してそう言った。
「……最後の二つに関しては、心の底からうらやましい限りだな」
古谷はある意味では一高校生としては当然の感想を漏らす。
「まあ、せっかく学生をやってるんだからさ、全力で青春しなよ。部活に汗を流して、恋愛に涙を流す。それが学生の特権ってものよ」
「部活はともかくとして、何で恋愛に涙を流すことが確定なんだ?」
「私を誰だと思ってるの? 腐れ縁とは言え、あれだけの時間を一緒に過ごしてきたのよ。あんたのことは大体わかるわ。まあそれはともかく、今出来ることを精いっぱいやって、決して後悔しないように生きる。それが今の私たちに出来ることったわけ」
神崎は、古谷の肩を叩きながらそんなことを言った。あくまでも昔と変わらない笑顔のまま。
しかし、そのどこか大人ぶったような、あるいは大人びたような物言いに、古谷は改めて、神崎の今の境遇を思い出した。
神崎は僅か十五歳の時に《魔人》と戦うための組織の構成員となった。そこから先にあったはずの〝学生〟という当たり前の生き方を切り捨てて、だ。もちろんその決断が神崎の意思によるものであるのか、それとも周囲の決定によるものなのか古谷にはわからない。その決断が神崎にとって幸福なものであるかなど古谷には知る由もない。
しかし、少なくとも《魔人》という存在が現れなければ、神崎にはもっと多くの選択肢があったのではないか、もっと〝当たり前〟な人生が用意されていたのではないか。古谷はそんなことを考えていた。もちろんそれを直接口に出したりはしないのだが。
「はっ、なかなか説教くさいというか、年寄りくさいことを言うようになったじゃねーか」
「年寄りくさいとか言うなよ、傷つくじゃない。私はあんたとは同い年だし、見てきた世界、感じてきた世界だってほとんど同じよ。状況に対して無力な、一人では何も出来ない、ただの一六歳でしかないってこと」
「……違いねーな。確かにその通りだ。少なくとも、今のお前がそうやって言うんだから、間違いないな」
古谷はそう言った後、少し思案し神崎に向けて問いかけた。
「――そう言えば神崎、全く話は変わるんだが」
「ふむ、何でしょう」
「いや、本当にどうでもいいことなんだがな。――神崎、『取り替え子』って知ってるか?」
「――取り換え子って、妖精とかに誘拐されるっていう、あれのこと?」
「ああ、確かヨーロッパの伝承だっけな。妖精が秘密裏に、自分の子どもと人間の子どもを入れ替えて育てるっていうあれだよ。妖精が人間の子どもを育てたいからやるそうで、人間の下に残された妖精は、普通の人間とは違った様々な特徴が表れてしまう為に迫害され、人間としても生きていけず、人間の世界しか知らないために妖精としても生きていけなくなってしまうんだ」
それに対し神崎は、少し呆れたような感心したような、そんな声で返した。
「なんかの本で読んだ気がするけど、さすがにそこまで詳しくは知らなかった」
「まあ、普通はそうだろうな」
「……で、それがどうかしたの?」
「ああ、その、なんだ。少し思いついたことがあってな。それで少し調べてみたんだ」
「ふーん。で、その思いついたことっていうのは?」
「例えば、だ。この『取り換え子』がただの伝承ではなく、実際起こっていることだとしたらどうする?」
「――妖精が、ってこと? さすがに少しメルヘンチックすぎない?」
「いや、妖精じゃない」
神崎はそこで一息置くと、少しためらうような表情をした後、意を決し、再び口を開いた。
「――《魔人》だよ」
「…………」
「《魔人》が自分の子どもと人間の子どもを入れ替えて育てるのさ。当然取り換えられた《魔人》の子どもも人間として育てられる。そして、ある時自分が人間ではなく《魔人》であるということに気付くんだ」
「それで、《魔人》であることに気付いた子どもは、いったいどうするの?」
「その子どもは自分の正体に気付き己の運命を呪うんだ。そしてそれを乗り越え、自分の《魔人》の力を人間のために使い、自分の正体を隠しながら、独り《魔人》と戦い続ける、ていうわけだ」
古谷の話を聞き終えた神崎は僅かに沈黙した後、笑みを浮かべながら言った。
「……ふふっ、なかなか面白い話だけど、残念ながら今のところそう言う事例は見つかってないわ。アニメや特撮のヒーローじゃあるまいし、現実はそこまで都合よく出来てないみたいだからね」
「――なるほど、そいつは残念だな。こんな世界なんだからヒーローの一人や二人出てきてもおかしくはないと思っていたんだが」
「まあ、悪くはないと思うよ、そういうのは。でも、私なら少し違う考え方をするかな」
「と言うと?」
「見ず知らずの誰かじゃない。例えば自分自身が『取り換え子』だったら、とかね。どこかの誰かじゃなく、自分自身が世界を救うヒーローになれる可能性ってやつを考えるのは、それはそれで楽しいんじゃない?」
「まさか、少なくとも俺はごめんだよ」
「えっ、なんで? 憧れない? そういうの」
「――俺には耐えられないな、そんな大役は。世界の運命を背負うだの孤高のヒーローだの、実際にそんなもんに成っちまったらプレッシャーに押しつぶされて自滅するのが落ちだ」
「まあ、現実的に考えればそうなるか」
「それでも、そんな下らないことでも考えてないとやってけねーんだよ、こんな世の中じゃな」
そう言うと古谷は足を止めた。ここから先の道はT字路。左側はその少し先に駅があり古谷の目指している方向である。神崎はどうやら回り道をして古谷と一緒に歩いていたようであるが、ここでお別れのようだ。
「では、次にまたいつか笑顔で再会できることを期待しましょ」
神崎は足を止めて、どこか芝居がかったような口調でそう言った。
「ああ、そうだな」
古谷もそう言いながら一度足を止め神崎の方へと向き直る。
昔と同じようにどこまでも真っ直ぐで、それでいて昔よりも少し大人びたような神崎の瞳は、古谷にとっては少し眩しく、長く見つめることは困難であった。
×××
夜十一時。東京の街並みは闇の中に沈んでいた。《魔人》が現れるようになってから、夜の明かりは消える時間が早くなり、皆、暗闇の中に息を潜めていた。自分だけは決して犠牲者とならぬために。
「ハァ、ハァ、畜生、何がどうなってやがる!」
そんな闇の中を走る一人の男がいた。男は後ろを振り返ることなく、悪態をつきながらもただひたすらに前へと走っていた。
その男はただのサラリーマンだった。たまたま残業で帰りがいつもよりも遅くなった不幸を嘆いていた、平凡なサラリーマンである。そんな彼の命は今まさに奪われようとしていた。
男の背後から迫る影は、四体の《魔人》。闇に紛れ移動するそれは、縦に割け牙を持った口、黒々とした無表情な目、そして額から背中までの長さがある触覚という昆虫を思わせるような顔をしていた。肌の色は焦げ茶色で、腕や肘、肩、脛の部分は一回り分厚く一見するとプロテクターやガントレットになっている。そして胸元には、宝石のようなものが埋め込まれていた。
昆虫の、とりわけゴキブリによく似た《魔人》である。
「なんでだ、なんで俺なんだよ!」
男はとっさに機転を利かせ路地裏に入り《使い魔》たちを振り切ろうとする。
「――――――ふぅ、何とか撒けたか……」
いくつもの足音が過ぎ去っていくのを確認した男がそう呟いた次の瞬間、《魔人》の内の一体が路地裏へと入り山口へと向かって襲いかかってきた。
「――――っ!!」
男は声を上げることすら出来なかった。とっさに目をつぶり、次の瞬間に自らに襲い来るであろう現実から必死に逃げようとした。
次の瞬間、男は何かが切断されるような音を聞いた。
恐る恐る目を開けると、足元には先ほどまで自分を襲おうとしていた《魔人》の切り落とされた首。そして目の前には、
「まっまさかっ」
赤紫色の肌の、頭部に二つの角を生やした《魔人》の姿があった。
「うああぁぁぁっ、で、で、でたー、ば、化け物だーっ」
男は情けない声を上げながら、路地から飛び出し、そのまま大通りを何度かつまずき転びそうになりながらも全速力で逃げて行った。
角の《魔人》はそんな彼の後姿を暫くの間見つめた後、足元へと視線を落とした。角の《魔人》の腕から生えた鎌状の刃によって、首を切り落とされたゴキブリによく似た《魔人》であるが、まだ僅かに動いている。
手足を痙攣したように動かす瀕死の《魔人》を一瞥した角の《魔人》はその胸元を踏み抜き、同時にそこに埋め込まれていた宝石のようなものを踏み砕いた。その数秒後、体液を周囲にまき散らしながら四散した《魔人》の死骸は、細かい灰のような粒子へと変わり消滅した。
そんな角の《魔人》を見つめるいくつもの目があった。先ほどまで男を付け狙っていたほかの《魔人》である。合計三体の、ゴキブリに似た《魔人》が壁や地面に張り付き攻撃のチャンスをうかがいながら、じりじりと角の《魔人》への距離を詰めていく。
角の《魔人》の方もそのことに気付き、攻撃のチャンスをうかがっている。
先に攻撃を仕掛けたのは角の《魔人》の方だった。
一番近くにいたゴキブリに似た《魔人》へと鎌状の刃を振り下ろす。しかし、それを察知したゴキブリに似た《魔人》は刃が届く前に後方へと跳び、攻撃をかわす。そしてそれを合図にして、残り二体、全ての《魔人》が一斉に跳躍した。彼等は窓の縁や配管などを器用に使いながら、身軽な動作で上へと昇っていく。
角の《魔人》の攻撃をかわした《魔人》もそれに続く様にして、建物の壁を器用に蹴りながらビルの屋上へと上がっていった。
角の《魔人》もそれを追って建物を登っていく。
辿り着いた雑居ビルの屋上にゴキブリによく似た三体の《魔人》は待ち構えていた。
いや、三体ではなかった。
角の《魔人》が屋上へと辿り着き、目の前にいた三体の《魔人》を一瞥した次の瞬間、奥からもう一体《魔人》が現れた。
その《魔人》は今までの《魔人》達とよく似た外見をしていた。異なる点は、プロテクターやガントレットのような部分がさらに一回り大きくなっているということ、触覚が腰よりも下まで伸びているということ、体の色がより黒くなっているということ、そして何よりの圧倒的な威圧感を持っているということだ。
恐らくは、このゴキブリによく似た《魔人》達のリーダーなのだろう。
リーダーの《魔人》は角の《魔人》のことを睨みつけると、その場で上へと跳んだ。次の瞬間、リーダーの《魔人》の背中から一対の楕円形の羽が出現し、空中で静止した。他の《魔人》達もそれに倣うようにして空中に静止し、角の《魔人》のことを見下ろす。
リーダーの《魔人》が右手を高く挙げ、振り下ろすした。同時に、他のゴキブリに似た《魔人》達が角の《魔人》へと向けて一斉に飛翔する。
角の《魔人》は鎌状の刃によって反撃を仕掛けるが、空中へと逃げられてしまうため思うように攻撃が当てられない。そしてリーダーを含めた四体が行う連携攻撃によって四方八方から攻撃を受け続けることになる。
角の《魔人》は攻撃をかわそうとするが、三次元的な連携攻撃の前には急所への攻撃を避けるのが精いっぱいである。
角の《魔人》は四体の《魔人》を何とか全て視界に収めながら戦っていたが、そのうちの一体が角の《魔人》の視界から消えた。角の《魔人》が辺りを見渡そうとした次の瞬間、角の《魔人》はゴキブリに似た《魔人》がどこへ行ったのかを理解した。
そう、姿を消したゴキブリに似た《魔人》のうちの一体は、角の《魔人》の背後をとり、羽交い絞めにしてきたのだ。
何とかもがいて脱出しようとするが、しかしどうやらそれは叶いそうにない。角の《魔人》の動きを止めることが出来たこの好機をゴキブリに似た《魔人》達は逃さない。
「キキキキィィィィィィィ――――」
リーダーと思われる《魔人》が耳障りな甲高い声を上げるのと同時に、残りの二体の《魔人》が拳を構えて身動きのできない角の《魔人》へと向けて突っ込んできた。
角の《魔人》は次に自分が何をするべきかを瞬時に判断した。フェンスを飛び越え、背中にしがみ付いて離そうとしない《魔人》と共にビルから飛び降りたのだ。
角の《魔人》の銀の髪が風になびき広がる。次の瞬間、角の《魔人》の背中から何かが放出された。
それは左右に一対の触手。
それが出現した瞬間、背中にしがみついていた《魔人》は体を貫かれ、そのまま絶命し灰となって消滅した。
そして、そのまま一本の触手を飛び降りたビルの壁に突き刺すと、反動を使って勢いよく上空へと飛び上がった。
攻撃を外し再び上空で待機していた三体の《魔人》は、即座に三方向に飛び、回避行動をとろうとする。
一体の《魔人》が僅かに遅れた。
角の《魔人》はその僅かな隙を逃さない。急上昇する角の《魔人》の鋭い双眼が《魔人》の姿を捉える。残っていたもう一本の触手が逃げ遅れた《魔人》の体を突き刺しつつ捕縛、同時に右腕から鎌状の刃を生やし、真上と振り上げる。
刃は《魔人》の腹部へと深々と突き刺さり、そのまま真っ二つに引き裂いた。
《魔人》は断末魔の悲鳴を上げることもなく、そのまま消滅する。
残る《魔人》は二体。
その二体と、角の《魔人》は一瞬だけ空中に浮いたまま対峙する。
角の《魔人》は自身の落下が始まる直前、ビルに突き刺した触手を即座に回収し、今度は二体の《魔人》へと向けて二本の触手を同時に伸ばす。
二体の《魔人》はそれに反応し回避行動をとる。
リーダーの《魔人》はフェイントを織り交ぜた複雑な軌道で飛び、触手を回避する。しかし、もう一体の《魔人》は逃げ切ることが出来ず、そのまま触手によって背中から胸元の宝石のようなものを貫かれ、叫び声を上げることもなく絶命した。
角の《魔人》は攻撃の命中した触手を、そのまま前方のビルの壁へと突き刺す。そして落下の勢いを利用しつつ、全身を振り子のようにして再び空中へと飛び上がった。
突き刺していた触手を元に戻しつつ、最初に戦闘を行っていた場所とは違うビルの屋上へと着地する。そして、最後の一体の《魔人》の姿を探す。
次の瞬間、腹部への強い衝撃と共にそのまま後方へと吹き飛ばされた。
最後に残った一体、リーダーと思われる《魔人》が飛来し、拳打を仕掛けたのだ。
リーダーと思われる《魔人》はさらに追撃を仕掛ける。吹き飛ばされた角の《魔人》を何度も蹴りつけ、そのまま反対側のフェンスに押し付ける。そして角の《魔人》が再び立とうとしたところへ掴みかかり、そのまま抱き上げると再び勢いよく飛翔した。そしてある程度の距離を飛行すると、そのまま角の《魔人》を地面へと向けて投げ飛ばした。
角の《魔人》は投げ飛ばされた直後、リーダーの《魔人》ではなくその近くのビルの壁に向けて勢いよく触手を伸ばした。そして触手を伸ばしながらある程度の距離を自由落下すると、触手を伸ばすのを停止した。そしてすぐさま、触手を突き刺した場所を支点として、遠心力を利用しつつ地面に対してほぼ九十度の体勢をとりながらビルの壁面を駆け抜けた。そして、空中で静止しているリーダーと思しき《魔人》の同じ高さのところまで来ると、勢いよくビルを蹴ってその勢いを殺さぬまま、リーダーと思われる《魔人》に対して刃を突き立てた。
突然行われた予想外の攻撃に、リーダーの《魔人》は回避も防御もできなかった。角の《魔人》の右腕の刃が腹部を貫通する。
しかし、角の《魔人》の攻撃は終わらない。そのまま空中から前方のビルへと向けて二本の触手を勢いよく伸ばす。そしてビルの壁面に触手が突き刺さると同時に勢いよく回収する。当然、角の《魔人》は右腕の刃でリーダーの《魔人》を突き刺したままビルへと激突することとなる。
ただし、その衝撃は、全てリーダーの《魔人》が受けることとなる。
これほどまでに多くのダメージを受けながらもリーダーの《魔人》は懸命にもがいている。
角の《魔人》はそんな様子を一瞥すると、無造作に左腕を振り、リーダーの《魔人》の胸元へと向けて刃を突き立てた。次の瞬間リーダーの《魔人》の宝石のようなものが砕け散りそのまま全身が閃光と共に爆散した。
角の《魔人》はリーダーの《魔人》が爆散すると同時に飛び上がり、それを利用して上空へと飛び上がった。そしてビルに上へと降り立つとそのまま夜の闇の中に紛れ消えていった。




