09
『傘持った?』
玄関を出て三歩のところで鳴った携帯を操作すると、挨拶も無い一言だけのメール。
空を見上げても、雨は降りそうな気配は今は無い。
けれど、今朝は急いでいて天気予報を見ていないし、そういえば置き傘も少し前に使ってそのままだ。
仕方なく戻って、折り畳み傘をバッグに突っ込むと、みどりは遅れた時間を取り戻そうと駆け出した。
『取りに戻りました』
走りながら、みどりも挨拶も無く一言だけのメールを打ちこんで返信した。
携帯をバッグに放り込んでバス停へ目を向けると、バスがもう見えて慌てて更に速度を上げる。
ぎりぎりで乗り込んだところで、もう一度携帯が鳴った。
『いい子だね。気を付けて』
「い…っ!」
その文面に思わず声を上げかけたが、駆け込み乗車で既に非難の視線を浴びた身としてはこれ以上騒げない。
慌てて口を噤んで、もう一度ディスプレイに目をやって、少々脱力した気分になる。
“いい子”って…、と内心で呟いて苦笑した。
メールの相手は、慧だ。
恋人のフリをしろなどと言われて、正直に言えば戦々恐々としていた。
けれど、みどりの想像に反して、日常はさして脅かされなかった。
時折こうして、メールが送られてくるくらいだ。
その内容も、天気のこと、その日のランチのこと、テレビ番組のこと、といった何でもないものばかり。
ごく稀に今回のように脱力するような文面もあるが、傘情報は素直にありがたいのでプラスマイナスゼロだ。
それに、メールが送られてくればみどりも基本的に返信するが、それでしつこくされることも無い。
お互い特に用事も無いので、電話もかけたこともかかってきたことも無い。
もっと強引に連れ回されるのかと思っていたが、そういうことは無かった。
考えてみれば、みどりは学生で、増して慧は医師なのだから、時間的制約が多すぎる。
前回会う時も実現までにかなりの時間がかかったのだから、そうそう会うことも無いだろう。
そういった事実を顧みて早々に安堵感を抱いたみどりは、早計にも警戒心を埋もれさせていた。
慧のことが頭の中から抜けていたのには、他の理由も幾つかある。
まず、もうすぐ行われる学園祭の準備で少し前から猫の手も借りたいほど忙しい。
みどりのクラスは、俗に言う“コスプレ喫茶”という目新しくも何とも無い企画をすることになっている。
と言っても、風紀にあまり緩くない学校であるため、きわどいものは無い。
スクール系の服、メイド服、ナース服、和服といった露出の少ない無難なものでまとめられている。
しかし、低予算ゆえに着る服を自分たちで用意しなくてはならない。
和服は親に、学ランは男子に、ブレザー系の制服は他校生に借りれば済む。
だが他の服はみどりや有衣を含めた裁縫の得意な女子たちで、目下制作中なのである。
と言っても、その人数は大して多くないし、得意と言えどたかが知れている。
家庭科部に所属している数名と、小さな頃から一切の家事をこなしている有衣、
それに服飾系専門学校に進学しようとしているみどりを除けば、皆辛うじてミシンが使える程度だ。
みどりたちの負担が増えるのは、至極当然と言える。
週末でさえ、バイトを休んで学校へ行って作業するはめになっている。
そして、今みどりの頭を占めている大部分は、やはり有衣のことだ。
先日相談に来て以来、状況は好転していないらしい。
いや、それよりも、傍目から見ている分には悪くなってきているような気さえする。
そもそも有衣と有衣の彼氏がぎくしゃくするようになった原因は、制服だ。
遅くまでかかった学園祭準備のせいで、着替えずに学校から直接会いに行き年齢を知られたらしい。
常識的な大人が、知らずに一回りも下の未成年相手に恋愛感情を持ったというのは、確かに衝撃かもしれない。
けれど、その衝撃が長く続き過ぎている。
有衣の顔色が、いつまで経っても晴れない。
その上、制服を忌避する直輝に気を遣って、数日前から着替えの私服を入れた鞄が一つ増えた。
真面目な人柄なのかもしれない、と直輝を一度は見直したみどりではあるが、今の状況はいただけない。
その日。
有衣は朝から調子が悪かった。
生理痛の上にひどい貧血も手伝い、ついには動けなくなって保健室へ連れて行った。
午後の授業も終わり、みどりは有衣の荷物を持って行ってやろうとして、一つ多い鞄に眉を顰めた。
やはり、今日もわざわざ着替えを持ってきているらしい。
真面目なのはいいが、それで有衣が傷つくのは見るに堪えない。
保健室に着くと、真っ白な顔色でベッドに横たわる有衣を見つめて、みどりは小さくため息をついた。
その気配で有衣が目を覚ましたらしく、ゆっくりと体を起こす。
「…もう、終わったの?」
「うん。どう? 少しは具合いい?」
「んー…大丈夫」
有衣はそう答えたが、顔色を見る限り、全然大丈夫そうでは無い。
学校の後有衣が会いに行くのは、直輝だけだはない。
直輝が帰るまで、まだ小さい息子の晴基の世話を任されている。
それを考えると、この体調ではきついだろう。
このまま小さい子どもの世話をしていたら、本当に倒れてしまいそうに見える。
「お願いして今日は早めに帰ってきてもらうとか、できないの?」
有衣の性格上、そういうことは言わないとわかってはいても、みどりはそう聞かずにはいられなかった。
だが案の定、有衣は首を横に振った。
「大丈夫。それに、心配かけるのやだ」
額面通りでは無い、その言葉に潜む本当の意味に、みどりは気付いた。
有衣は、直輝に心配をかけるのが嫌なのではない。
この状態を知れば直輝が有衣の心配をして気を回してくれるのは間違いない、とみどりにもわかる。
ふたりの間がぎくしゃくしている今、具合が悪いと言うのが、有衣には気を引こうとしているように思えて嫌なのだ。
そして有衣は、頑固なところがある。
みどりがこれ以上何をどう言ったところで、意思を変えるとは思えない。
どうあっても自分では言わないつもりだとわかり、みどりは今度こそ大げさにため息をついた。
有衣を送り出した後、みどりは急いで携帯のアドレス帳を開いた。
慧のデータには、090から始まる番号と、070から始まる番号のふたつが入っている。
今の時間帯はきっと病院にいるだろうから、とふたつめの番号にカーソルを移動させる。
不思議と、何の気負いも緊張も無く通話ボタンを押していた。
三回コールの後、繋がる。
『四谷です』
仕事モードとでもいうのだろうか、あるいはただ単に機械を通したせいなのだろうか。
慧の声が、知っているものとは少し違う気がして、みどりはここに来て初めてうろたえた。
「あ、あの…鱸みどりです」
名乗って、なぜフルネームだ、と内心で突っ込んだが取り消せない。
『あぁ…うん。どうしたの?』
少し笑いを含んだ返答に、何を笑われているのかわかり、やはり数秒前の失態を取り消したくなる。
しかし、今はそれどころでは無い。
「仕事中にすみません。今少し大丈夫ですか」
『大丈夫だよ。無理なら出ないから』
「すみません。あの、有衣のことなんですけど」
『直輝とのことだね』
即座にされた返事に、慧もふたりの仲に起きている事柄を知っているのを悟る。
特に説明も要さずに頼めそうでよかった、とこの時のみどりはそれしか考えていなかった。
『…俺に、何かお願い事かな?』
何かを含んだようなその聞き方に、サインは出ていたのに、みどりは気付かなかった。
ただただ、有衣の状態を伝えて欲しくて、それだけだったのだ。
「あ、あの、はい。できれば、つた」
『俺がそれを聞いたら、俺からもお願い事をしてもいいかな』
普段、人の言葉を遮ることなんて絶対にしなさそうな慧が、みどりの言葉を遮った。
まず最初に、そのことにみどりは驚いて言葉を止め、次に今言われた言葉を反芻する。
慧からお願い事?
何度か頭の中で繰り返すと、急に怖気が震って立ち竦んだ。
仮にも恋人のフリをさせようとする慧を相手に、どうして今までこんなに普通にしていたんだろう。
すっかり忘れていた、埋もれさせていた警戒心が、今更のようにわっと押し寄せる。
慧からのお願い事など、絶対碌なものじゃない。
喉がからからになって、みどりが沈黙している間に、慧は都合よく了承したと解釈してしまった。
『よろしくね。で、お願い事は?』
ここで言ってしまえば、慧の思惑通り決定事項になってしまう。
けれど、有衣のためを思えば、言わないわけにもいかない。
みどりは自分の迂闊さを呪いながらも、結局お願い事を口にした。
有衣の体調の悪さを伝えると、さすがに医師なだけに、慧は雰囲気を一変させた。
いろいろと細かなことを聞かれ、今日一日の有衣について答える。
答えているうちに、有衣の心配でまた頭が一杯になってしまった。
『わかった。直輝は早めに帰すよ。…大丈夫だから、安心しなさいね』
最後は、みどりを安心させるためだろう、ゆっくりと言い聞かされる。
慧に任せておけば本当に大丈夫なのだ、という奇妙な安心感が生まれた。
「お願いします」
『じゃ、俺のお願い事は今度』
その一言に、今感じていた安心感は一瞬で吹っ飛んだ。
そして、安心感など感じていた自分にため息。
今さっき反省したばかりなのに、どうしてこう慧に引きずられてしまうのだろう。
しかし、どうせ約束はしてしまったのだから、何を頼まれるのかは早く知っておきたい。
「今聞けませんか」
『…積極的だなぁ』
「心の準備が必要なんです!」
慧相手には、どうしても冷静さを保てない。
思わず怒鳴ってしまったのに、慧が小さく笑ったのが聞こえる。
『いい心がけだね』
そんな言葉に言い返そうとしたみどりは、しかし何も言えなかった。
次に耳に入った言葉が、あまりに衝撃的だったからだ。
『お願いしたいのはね、俺の実家訪問だよ』
その瞬間、みどりの思考は一切の機能を停止した。
ようやくみどりが自分を取り戻した時には、既に数分は過ぎていた。
まだ耳元に宛てたままだった携帯電話は、とっくに通話を終えている。
「…実家訪問て」
ケーキショップの前で会った女性を思い出す。
あの時慧が積極的にさせた勘違いを、確たるものとするのが、お願い事だ。
親を騙すことに加担するとか、常識的に有り得ない。
「ばかじゃん、ばかっ」
小さくひとりごとを呟きながら、携帯をバッグに入れると、折り畳み傘が目に入った。
ばかなのは、自分だ。
傘情報などでうっかり絆されてしまっていた、自業自得。
「信じらんない…。しかも雨降らないし!」
未だ雲の見えない空を、八つ当たり気味に睨みつけた。
ちなみに、折り畳み傘はきちんと使われた。
帰りのバスに乗っている間に、雨が降り出したからだ。
濡れずに済んだにも拘らず、傘を持つみどりの顔は、はっきりと不機嫌だった。