07
ドアの隙間から滑り込ませるように押し込まれたみどりは、背中がシートに着いた瞬間、右耳をぎゅっと押さえた。
熱い。
ドアミラーを覗き込むまでも無く、顔が火照っているのがわかる。
「びっくり、した」
心臓が、まだばくばくしている。
べつに好きな人でも何でもないのにこんな反応になってしまうのは、やはり慣れていないからで。
そのうえ腹の立つことに、あのきれいな顔のせいで、威力がとんでもない。
「…ていうか、何今の」
けれど、離れて冷静になってみると、腹立たしいし不可解である。
慧は、今回に限ってはみどりの反応なんて見ていなかったから、いつものようにからかわれたわけではないはずだ。
でもそれ以外に、あんな風に密着する理由も無いし、まさか、あれがデフォルトでもあるまい。
そうすると鍵となるのは、今車の外で慧と話をしている、やけにテンションの高いあの女性ということになる。
そっと窺って見ると、上機嫌そうに話している女性と、諦めたように黙って聞いている慧がいる。
何を話しているのかは聞こえないが、みどりの知っている慧とはだいぶ様子が違っているような気がして、なんだかおかしな感じがした。
車に戻ってきた慧は、力尽きたようにどかっとシートに納まると、長い長いため息をついた。
目を瞑ったまま脱力している慧に、みどりは首を傾げる。
「あの…」
「あぁ、ごめんね。驚かせて」
よくわからない、と思いきり書かれているかのような、困惑しているみどりの顔を見て慧は苦笑した。
「あれ、母親なんだ」
「えっ! は、はは…?」
それにしては若く見えたのだが、血が繋がっていないのだろうか。
「いや、若づくりなだけだよ」
「え? い、いえべつに」
何にも言ってないのに、とみどりは慌てて首を振るが、顔に全て出ていることに気づいていない。
裏の無い、というより、そもそも人に裏があることも知らなさそうな、純粋で真っ白な、まだ子どもと言っていい。
そんなみどりを横目で見つつ、慧はもう一つため息をつく。
この子を思いきり利用しようとしている、いや、もう既に利用し始めてしまったのだ。
それも、うるさい母親の口をふさぐため、というしょうもない、かつ限りなく利己的な理由で、勝手に。
どうなんだ、この腐り具合。
「ごめん、ね」
小さく謝る。
聞こえないかと思ったけれど、狭い車内だ。
みどりは、慧の顔を見上げた。
「何がですか」
「うーん…いろいろ?」
「は?」
今度は、全くわけがわからない上になぜ疑問形なのだ、と顔に書かれているのが丸わかりで、慧は自分の口角が上がるのを自覚した。
つい今さっきまで感じていたはずの罪悪感などという殊勝な感覚は、やはりみどりは面白いな、という腐った思いにさっさと淘汰された。
母親対策に、その場しのぎで始めたことだが、案外楽しいかもしれない。
「まぁ、追い追い話すよ」
「ちょ、追い追いって何ですか」
「順を追って、だんだんと、しだいに、ってことでしょ」
「意味なんて聞いてないし!」
みどりは、今日を限りにもう会うことは無いとでも思っているように、焦って否定するけれど。
ごめんね。
もう一度、心の中でだけひっそりと謝る。
安易に特別を作らない代わりに、一度特別だと認識した時のある種の執着心を、慧は自覚している。
お気に入りのおもちゃを手にした子どものような、大人にしてはタチの悪いそれだ。
みどりには悪いが、そう簡単に離れてはやらない。
今の自分は、そうとう悪い顔をしているのではないか、と慧は喉の奥で微かに笑った。
みどりとしては、適当な場所で降ろしてもらえば、普通にバスで帰るつもりだった。
このまま送られるなどとなってしまえば、家まで知られてしまう。
一つの論文からみどりまでたどり着いたという、慧のある種の執念が、みどりを警戒させていた。
追い追い、などという先ほどの不吉な言葉を聞いてしまったせいでもある。
しかし、慧はみどりを家まで送ると言って聞かない。
「こんな遅くにひとりで帰せるわけ無いでしょ」
「遅くって、そんな遅くないですけど」
「親御さんに申し訳立たないし」
「え? 今更そういうこと言いますか?」
「気のせいか、なんか俺の扱い、だんだんひどくなってないか?」
「胸に手を当ててみて、自分の行動をよく考えてみるといいと思います」
社会的地位を振りかざして、高校生と見合いもどきをするとか、有り得ないだろう。
しかも今日ずっと、というか、主にあの慧の母親だという女性に会った辺りの事だが。
慧にはいろいろとうやむやにされたことが多い気がする。
ひとのことにはずかずかと踏み込んできて、無理矢理泣かせたくせに。
落ち着いたと思った恥ずかしさがまたぶり返して、ついみどりは言葉をきつくしてしまう。
けれど、それさえも慧には面白く感じるらしい。
ちょうど信号待ちで停まると、わざとらしく右手をハンドルから離して胸に当てる。
「んー…、泣かせちゃったから、かな?」
笑いを多分に含んだ声が、みどりの怒りを誘発した。
もうやだ。
何が嫌って、この性格。この顔。この口。
大人のくせに、大人げない。
大人げないくせに、いちいち的確で、大人なんだと認めざるを得なくさせる。
こんなめんどくさい人、やっぱりもうこれを最後に、関わらないのが正解だ。
「…絶対、教えない」
「何が?」
「家」
それでも降ろさないと言うなら、ぐるぐる走りまわってガス欠にでもなればいい。
そうしたら、その隙にでも笑って逃げ出してやる。
「あ、そう? ま、いいけど」
そのあまりにも軽い言い方に呆気にとられるみどりの目の前で、慧は徐にカーナビをいじり始めた。
つられてみどりもディスプレイを見ていると、目的地の登録リストが映し出された。
普段あまり使わないのか、一件だけ。
「鱸氏宅…すず、えっ?」
「家、俺知ってるし」
「な、なんで」
「そりゃ、君と会う前に鱸氏といろいろお話させてもらったからね」
呆然とするみどりの、その表情さえもおかしいのか、慧は笑う。
「やっぱり外堀からでしょ」
にたり。
そんな表現がしっくりくる顔だった。
未成年の分際で申し訳ないが、みどりは内心で父親へ悪態をつくのが止められなかった。
なんでこうなったんだろう。
みどりはお盆を持ってキッチンへ戻りながら、遣る瀬無さにため息が出た。
結局、既に家を知られていたせいで、抵抗も虚しく家へ送られてしまった。
しかも、事前に何をどう慧に言いくるめられたのか、父親は上機嫌で慧を家に迎え入れてしまうし。
どうせ論文について褒められでもしたのだろうが。
慧の外見に見とれた母親も言わずもがな…みどりの味方にはなってくれそうもない。
「みどり、早く戻って。ケーキ選びなさいよー」
「はいはい」
呑気にケーキなど選んでいる場合ではないのだ、母よ。
レディファーストですから、なんてふざけたことを言っているその目の前の男に騙されてはいけないのだ、騙されては。
でも、ケーキには罪は無い。
慧が選んだそれらは、キラキラして見える。
しかも、好みを知っていたわけではないだろうに、みどりの好みにぴったりのケーキがある。
「…いちごショート」
言ったとたん、息が詰まったみたいな、抑えるのを失敗した風な笑いが聞こえた。
誰が笑ったかなんて、もう顔を見なくてもわかる。
あれだけ悩んでいたくせに、一番無難なのを選んで悪かったな、と八つ当たり気味にフォークを刺した。
もう一度、ケーキには罪は無い、と言い聞かせてから、その一口を口に入れる。
甘すぎないクリームと、ふんわりとしたスポンジに幸せな気分になる。
その表情を観察する慧のことは、もうこれ以上気にしないふりを決め込むことにした。
あの美しく、おいしかった和食と、幸せな味のケーキ。
もしかすると自分は、不本意ながら買収されてしまったのだろうか。
みどりにそんな不穏な思いがよぎったのは、慧の帰り際。
あれこれと言い合った末に、結局慧と連絡先を交換させられた後。
慧は、みどりの敗北感に追い打ちをかけた。
「彼氏、いないよね?」
「はぁ? なんでそんな」
「いいから、いないでしょ?」
突然、しかもなんという失礼な聞き方だ。
というか、始めからいないと断定しているし。
事実ではあるが、なんとも腹の立つ言い方だ。
「…いませんけど」
「なら、また今度うまいもん食べに行こう。親御さんたちは、歓迎してくれてるし。
ケーキ屋で会ったあの人にも、君と付き合ってることにしちゃったしな」
あまりにさらりと言われたので、聞き逃すところだった。
「…今、なんて?」
「だからまた会いましょう、ってこと」
「ではなくて。最後、何て言いました?」
「ああ。母親にはちょっと、勘違いしてもらったから」
勘違い。
みどりが訂正する暇もなかった、慧とデートしている彼女だと思われた、あの勘違い。
やけに嬉しそうでハイテンションだった様子が思い出された。
あの時は、慧が来て助かった、と思ってほっとしたというのに。
今になって車に押し込められる際の、慧のあの仕草の意味を悟る。
あれはつまり、わざと勘違いを深めさせたということだ。
自分の母親相手に。
「っな、何考えてるんですかっ」
「まぁいろいろね。そんなわけで、またね」
「そんな勝手な」
「でも彼氏いないならいいでしょ。フリくらい」
「フリでも嫌です。だいたい、私だって好きな…っ」
人くらい、いるのに。
そう言いかけて、はっと口を噤む。
慧の前でこんな情報を漏らしてしまったら、またどんな不覚を取らされるかわからない。
「へぇ…?」
あぁ、ほらやっぱり。
慧の口元が、面白そうに歪むのを、みどりは嘆息する思いで見つめる。
「その人には、告白とかしないの」
「そんな雰囲気じゃ、ないです」
「…ふぅん」
みどりの答えが、不満だったのか何なのか。
面白がっていたような表情は、一変して、今度はあまり感情が読めなくなった。
「じゃあ、見てるだけ?」
そう問いかけながら向けられた慧の視線が、どうしてかみどりを怯ませる。
どこか、責められているような気さえした。
頷いてはいけないような、けれど答えられないことが既に肯定してしまっている。
どうしてよいかわからないでいたみどりから、慧はふいと視線を外した。
「そんな恋、やめな。見てるだけなんて、意味が無い」
ひとりごとかと間違うほどに小さく聞こえた慧のその言葉に、なぜか、みどりの胸は激しく痛んだ。
外堀埋まりまくり。
みどり逃げ場無しw笑
ラストは、ちょっとだけ慧の素が。
昔は慧も若かったから…っていう^^;笑
その辺りは、それこそ追い追いということで…。