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青の温度  作者: ミナ
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02

世の中は、今までも決して色づいてはいなかったけれど、ここのところなぜかさらに色褪せて見える。

誘いかけてくるような細い指先が、背中や腕に触れるのが、今は煩わしい。

「…慧」

微かに不満を滲ませた声で名前を呼ばれ、慧はようやく思い出したように隣の女を見遣った。

その瞳に自分と同じ翳りを感じるのは、わざわざ慧がそういう相手を選んで傍に置いているからだ。

それなのにどうしてか、ため息をつきたい気分に襲われるのだ。

またひとつ、矛盾がコトリと音を立てて転がる。

「なんだか、気もそぞろ、って感じね。何かあった?」

聡い女は嫌いじゃない。

嫌いじゃないのに、今はそれさえも苛立ちを覚えさせる。

慧は、ひとの気持ちを見抜くのは得意な方だが、自分がそれをされるのは、嫌いなのだ。

不遜だと認めつつも、踏みこまれるのは苦手なのである。

「悪い。今日は帰るわ」

慧の言葉に仕方なさそうに笑うその表情と、それでも何も言わずに速やかに離れる体温が、今日は妙に癪に障る。

無理に引きとめようとするような言動をされれば興ざめで、求めているものがそこにあるのに、一方で本当に求めているのはこれではないと思う。

矛盾だらけだ。

危うく本当にため息をつきそうになった瞬間、不意に脳裏に甦ったのは、つい一週間ほど前に目にした、みどりの泣き顔。

「…なあ、他のひとのために泣いたことって、あるか?」

「なあに、それ。心理テストか何か?」

呆れたように笑うところを見れば、自ずと答えはわかるというものだ。

実際、慧自身だってそんな経験は思い出せないのだから、似たようなものだ。

みどりの、あのわかりやすい熱に、中てられてしまったのだろうか。

たった一度会っただけの、しかも一回り以上年下の高校生相手に、影響を受けているようでは自分もまだまだ甘い、と苦く笑う。

純度の違いをまざまざと突きつけられたような感覚に苦々しい思いを抱き、慧は女に軽く手を振るとそのまま部屋を後にした。


家に帰った慧を待ちうけていたのは、さらに気の滅入るものだった。

フロントで声をかけられ、渡されたのは小包。

差出人の名前―四谷 妙(よつやたえ)―を見ただけで、中身が何かわかってしまい、思わず手を引っ込めたくなる。

ずしりと重たく感じるそれは、何冊も入っている見合い写真だ。

妙は慧の母親で、気のない慧をせっつくように、こうして定期的に写真を送ってくるのである。

それも、直接だと慧が頑として受け取らないため、強行手段として宅配で送ってくるのだ。

こうまでされても、どうせ見ないことには変わりは無いのだが、それでも親は親であるから無視もできない。

それに、多分妙は寂しいのだろう。

娘のようにかわいがっていた唯は亡くなり、実の息子である慧の嫁に期待したいのだろうという想像は容易い。

妙の持ち込もうとする見合いを全て撥ねつける慧に、それなら誰でもいいから誰か連れて来てみろ、と怒られることも多い。

しかし当の慧としては、結婚など全く眼中にないため、単に頭痛の種となっているだけである。

慧からすると、人間が結婚をしたがるのは、あるいはさせたがるのは、主に種々の安定性のためではないかと思う。

好きな相手と一生を共にしたいという気持ちは、強力な動機付けとはなるのだろうが、結局のところ単に付随するものに過ぎないだろう。

そして、それは同時に失うことへの恐れも植え付けるものだ。

少なくとも現時点では、慧を促す要素は無い。

時折、そんな自分自身を人間として欠陥品ではないかと疑うこともあるが、動かない心はどうしようもないのだ。

ようやくため息を吐き出すと、クロゼットの片隅に重ねられている開けないままの小包たちの上に、さらにまた新たな小包を重ねた。


発散できないものを抱えている時は、寝てしまうか、もしくは何かに没頭するに限る。

寝てしまうにはまだ早すぎる時間帯だったので、慧は新薬に関する研究論文を読むことにした。

それは、本当に偶然だった。

幾人か連名で書かれている名前の中に見つけた、“鱸”の文字。

通常英語で書かれている論文ではあるが、国内向けに日本語訳も添付されていたため、名前も漢字で書かれていたのだ。

今までは全く気にも留めていなかったが、思い返してみると以前に読んだ論文でも、同じ名前を目にしたことがあった気がする。

コンピュータを検索してみると、保存してある論文の中だけでも、何度か名前を見つけられる。

“すずき”という姓は珍しくも何とも無いが、同じ読みでも“鱸”はかなり珍しい部類に入るだろう。

まさか、という気持ちと、もしかして、という気持ちが交互に浮かぶ。

名前を気にしてしまう辺り、やはりもう一度くらい会ってみたいという気持ちが自分の中にあるのだと認めると、慧は急に楽しい気分になった。


職業柄、製薬会社とはパイプがある。

昼の休憩時間や診療終了後に、空いた時間を狙って複数の会社からMRがこぞってやってくるのだ。

時に必死に営業をしに来る場合もあるが、大抵は顔繋ぎの意味もあり、ほとんど雑談で終わる場合も少なくない。

それを利用して、聞き込みをすることにしてみた。

論文は第一薬品工業のもので、連ねられていた名前を見た限りどこかの大学と共同研究という形ではなさそうだったから、幾らか分が良い。

それに何より、“鱸”という漢字が珍しいため、最初の段階で振り分けができ、簡単だ。

「研究員でさ、鱸さんっていない?

 鈴の木じゃなくて、魚の鱸って書く人。けっこう論文たくさん書いてる」

「あ、はい。よくご存知ですね」

「まぁ、たまたまね。漢字珍しいし」

「そうですよね。自分も、はじめて見ましたから」

「その人ってもしかして、娘さんいる?」

「はぁ…、よくは知りませんけど。

 確か高校生の娘さんがいるというのは人伝に聞いたことがありますね」

一気に怪訝な表情になって慧を見るが、立場上何か言ってはまずいと思っているらしく、何も言ってこないのが笑える。

仲野医院を長く担当しているMRは、大抵そのうち病院の雰囲気に合わせてかなり親しげに話してくれるようになるが、割と新しいMRはそうもいかないのだ。

かしこまって、鯱張って、多分これ以上の情報は引き出せないだろう、と踏んだ慧は一応この場は諦める。

前の担当MRに連絡してもいいし、ライバル会社に聞いた方が落ちてくる情報もあるし、他のひとに聞けば良い。

我ながらキャラに合わないことをしているという自覚は、もちろんある。

こんな風に誰か特定の人間に興味を示すなど、慧の中では異常事態とさえ言える。

ただそれでも、なんとなく関わってみたいという気持ちがいっこうに消えないのだ。

あの日、みどりは慧が既に忘れてしまった、またはもしかすると最初から持ち合わせていなかった何かを持っているのだと感じた。

それは慧に苦い想いを抱かせると同時に、清々しい想いを抱かせるものでもある。

それに、あの直情型の性格は、見ていて飽きないだろうな、と漠然と思う。

ずっと傍に置いておきたい、などと思う対象は今のところ誰もいないが、みどりがいたらいたで面白そうだ。


地道な、と言うには職権濫用しすぎた感も否めない仕方で聞き込みを開始して二週間ほど。

第一薬品工業の鱸氏が、みどりの父親である可能性はほぼ100パーセントに近いことがわかった。

鱸氏はかなり家族を大切にしているタイプらしく、職場に家族写真がいつも置いてあるらしい。

肝心な娘の名前は出てこなかったため、確実なことはわからないが、写真を見たことのある人間から聞いた特徴は、ほとんどみどりと一致している。

思わずにんまりしてしまいそうになった慧は、表情を引き締めるのに苦労した。

あとは、仕掛けるだけだ。

変な言い方だが、病院からたとえ難題を突きつけられても、営業はよほどのことでない限り、NOとは言わない。

そして研究職の人間からすれば、営業がいるからこそ仕事が成り立つのであって、やはりよほどのことでない限り、NOとは言わないだろう。

今回のことにしたって、娘を大切にする父親なら多少躊躇はするだろうが、なにも取って喰おうというわけではないのだ。

だから、おそらくこの慧の要望も、案外あっさりと通るだろうという勝算はある。

「てわけで、ちょっと会ってみたいんだよね」

「はぁ…あの、では、一度社に戻ってから、また連絡させてください」

「うん。よろしくね」

妙な要望を出された、と思っているのだろう。

冷や汗をかいて帰っていった若いMRをほんの少しだけ気の毒に思った慧だったが、こういうタイプほど無理が利くのだ、などとほくそ笑んでいたりもする。

さて、鱸氏はどう出るか。

彼の娘が本当にみどりだったとして、みどりはどう出るか。

みどりの反応を想像してみるだけでも、おかしい。

きっと、顔を真っ赤にして怒るか、あの大きな目で慧を睨むかするのだろう。

まだみどりだと本当に確定しているわけでもないのに、猫のようなみどりの様子を思い描いて、慧は小さく笑った。


慧が動き出しました~。

でも、恋愛感情からこのように動いているのではないのです。

好意は確かにありますが、それはまだ発展してはいません。

今のところ、みどりのことはマスコット的に面白がって可愛がりたいだけなのです^^;

次回以降はみどり視点寄りも入りますので、話がだんだん動いていくと思います。


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