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その時の慧の表情を見ていたなら、恐らく十人中十人ともに“愉悦の表情”と表現しただろう。
それも無理は無い。
なにしろ、慧にとっては面白くて仕方のないことが続いたからだ。
まず、予想も期待もしていなかったことに、みどりから電話が来た。
付き合っているフリをして欲しいなどと言ったせいで、多分警戒しているだろうと思っていたから、しばらくの間は逆に何も仕掛けずに様子を見ていようと思っていたところで、これは予想外だった。
何でもないただのメールが、想像以上にみどりを懐柔していたと知り、慧は奇妙な喜びを感じた。
しかもその内容が、お願い事ときた。
飛んで火に入るなんとやら、だ。
妙からのうんざりするほどのみどりに会わせろという催促を、ようやく止められそうだ。
勿論、みどりのお願い事自体は切実かつ緊急なものだったので、そこはきっちり応えた。
しかし、それが思いの外面白い事態へと転がったのだ。
直輝から有衣を病院に連れて行くと電話が入った時は、そこまで酷かったのかと眉を顰めたが、実際に病院に着いた彼らを目にした慧は、脱力したような笑みを零した。
有衣の年齢を気に病んでいたはずの直輝が、制服姿の有衣を姫抱きにして抱えていたのだ。
どうやら吹っ切れたらしい。
それにしても、吹っ切れ方が尋常でない。
堅物で真面目で常識から外れたことが一切できなかった直輝なのだ。
その直輝にこうまでさせるなど、有衣は案外最強かもしれない。
慧としては、唯以外の大切なひとを再び見つけた直輝に対しても、その相手である有衣に対しても、正直なところ、手放しで喜べるほどできた人間でもなく、やはり少々複雑な気持ちも抱いている。
道理を考えれば歓迎するのが正しいし、だからこそ協力もするが、胸に燻る何かは残っていた。
それでも、今はその気持ちが鳴りを潜め、思わず笑い出したくなるような気分になった。
名前が同じ、けれど唯とは違う有衣を、慧も初めてきちんと認めたのかもしれなかった。
それに、今日の様子を見る限り、この先慧が協力しなければならない状況もほとんど無くなるだろう。
素直に喜べると思った自分自身もまた、慧には面白く映ったのだった。
着信を告げた携帯を手に取ったみどりは、ディスプレイに映る名前にひどく嫌そうな顔をした。
午後にしたやり取りを思い出して、無視してやりたい気持ちになったみどりだったが、
有衣の状況を聞いておきたかったため、しかたなく通話ボタンを押した。
「はい」
『四谷慧です』
わざとらしくフルネームを名乗った慧に、みどりは一気に沸点に到達しそうになった。
間違いなく、みどりが電話をかけた時のことを踏襲している。
怒鳴りたくなって息を吸い込んだ途端、慧が笑った。
『冗談だって、怒らない怒らない』
「…怒って、ないです」
悔しくて、みどりは吸い込んだ息を慧に気付かれないように細く細く外へ逃し始めた。
でも多分気付かれているんだろう、と思うと馬鹿らしくなり、残りの空気をため息として吐き出す。
「あの後、どうなったんですか」
『直輝はすぐ早退させたよ。ただ、有衣ちゃんの容体が思ったより悪くてね。
直輝が病院に連れてきて、点滴もしたから今晩は様子見たいし、一応大事をとって入院』
「えっ」
入院、という言葉に驚いてみどりが声を上げると、慧の声の調子が変わった。
『大丈夫だよ』
有衣のことを頼んだ午後、みどりを安心させたのと同じ、ゆっくりと言い聞かせるようなそれ。
みどりは、またしても奇妙な安堵感に支配された。
『明日の朝の様子で、安定してればそのまま退院できるから、そんなに心配いらないよ』
「そう、ですか…」
みどりがほっと息をついたところで、慧が何かを思い出したように急に小さく笑った。
『それから、直輝とのことも、もう心配無いと思うよ。
直輝はもう吹っ切れたみたいだし、有衣ちゃんも大丈夫そうだったから』
それはそれは楽しそうに話す慧から、みどりは直輝の姫抱きについて聞かされ、苦笑した。
あんなに有衣を悩ませ、直輝も悩んでいただろうに、いざとなるとそんなことができてしまうのか。
直輝の真面目さも、難儀なものだ、とみどりは思った。
けれど、慧にお願いしたことで、結果的には全てが丸く収まる方向へ行ったのだ。
「あの、ありがとうございました」
『べつに、俺は何もしてないよ』
「でも、結果的によかったので」
『まぁね。でもお礼はいらないよね。俺も交換条件出したんだし』
「…そうでしたね」
げんなりとした様子のみどりを、慧は電話の向こう側で遠慮なく笑った。
『そんなに構えなくても平気だよ。ただ母親に会ってもらうだけだ』
母親に会うだけ。
会うだけ、その会うだけ、が本当に会うだけのわけがない。
慧と最初に会ったときだって、会うだけと言ったのに結局それだけでは済まなかった。
その慧の母親だ。
それに、ケーキショップの前で会ったあの様子では、慧でさえ歯が立っていなかった。
それなのにみどりが、ただで済むわけがない。
みどりは、いろいろ言いくるめられるだろう自分の未来を想像して、大きなため息をついた。
とは言っても、その未来が本当にすぐやってきたわけではない。
慧は慧で忙しかったし、みどりも今は学園祭準備で忙しい日が続いているからだ。
しかし、学園祭も当日までもう残すところあと数日だ。
つまり、みどりのその言い訳が使えなくなる日も、近いということである。
楽しいはずの学園祭も、そのリミットだと思うと、どこか楽しめない気持ちもある。
横で作業している有衣は、直輝と完全にうまくいったらしくあれからずっと幸せそうな穏やかな表情だ。
有衣は直輝の早退がみどり経由でのことだったと知って感謝の気持ちをたくさん伝えてくれたが、それでもみどりと慧の裏取引については当然知らないので、みどりのこの複雑な心境も知らない。
それがなんだか、恨めしいような気もしないでもないみどりだ。
だが、みどりのそんな気持ちに全くかかわりなく、刻々と日々は過ぎていった。
今手掛けているみどりの着る分が、仕上げる最後の服だ。
メイド服は、みどりが全員分をほとんどひとりで作り上げた。
ちなみに予算が少ないから、あまりゴテゴテしていないシンプルな出来上がりだ。
けれど、黒を基調としたミニワンピースのスカート部分には、みどりなりのこだわりがある。
安っぽく見せないために、内側にチュールを重ねてふんわりとしたボリュームを出したのだ。
そして、その上に着るエプロンも、肩紐部分のフリルと後ろの大きめリボンにこだわった。
こだわりが過ぎたために皆の技術が追いつかず、みどりにほぼ丸投げされたが仕方が無い。
大変だが、それでも作るのは好きだし、自分が作ったものを人が着たり使うのも嬉しい。
ミシンから糸を切ると、ついにやり遂げた感が湧いてくる。
「できたぁ!」
嬉しくなってみどりが大きな声を上げると、ちょうど横の有衣もできあがったところだった。
ちなみに、有衣が作っていたのはナース服で、こちらもかなりシンプルな形だ。
ただ、色がピンク系統なのと、丈がかなり短めなので、まぁ刺激的な感じではある。
やがて皆が作業を終えれば、試しに着てみようという流れになるのは自然なことだった。
教室のカーテンを閉め、できあがっている人から順に着替えて行く。
作った服に加えて、オーバーニーソックスやタイツを履けば出来上がりだ。
メイド姿になったみどりと、ナース姿になった有衣とで、お互いを見てみると妙な気分になる。
標準よりもだいぶ小柄なみどりは、フリルのあしらわれたメイド姿だとまるで人形のようでかわいい。
有衣も、体のラインが出るしかも短めのスカートのナース姿だと高校生とは思えないほどセクシーだ。
鏡を見ると、新しい世界が開いた気すらした。
つまり早い話が、ふたりとも似合いすぎていた。
クラスメイト達がそれに気づかないわけもなく、ふたりはあっという間に皆に囲まれる。
「なに、あんたら似合いすぎ!」
「写真撮ろ。で、ちょっと加工してチラシにするのどう?」
「あ、それいい!」
「え、えぇー??」
抗議する間も与えられずポーズを取らされて写真を撮られ、チラシに写ることが決定してしまう。
その後は、チラシやチケットを作る担当のクラスメイト達も呼んで、被服室は大騒ぎだった。
その中にはツナも含まれている。
みどりはツナの前でメイド姿でいることに気恥ずかしさを覚えたが、着替えることは許されなかった。
「うーわ、えっろ…。ヤバくないかこれ」
「確かに。加工具合間違えると方向性変わりそうだな」
「つか、メイド服こだわってんなぁ。あれ鱸ひとりで作ったらしいし、すげぇ」
「そういや専門行きたいとか言ってたし、得意なんじゃね」
「へぇ。俺もあいつ用に作ってもらいてぇかも」
「ばかじゃね」
「えーいいじゃん。ご主人様とメイドごっこ」
写真を加工しながら話していたのはツナと、ツナとよくつるんでいる西(にし)だ。
たまたまその会話が聞こえたみどりは、どことなく居たたまれないような気分になる。
一応褒められているようなので良しとし、それ以外の男子な会話の部分は聞かなかったことにした。
ただ、ツナがみどりの進路について覚えていたことに、みどりの胸は高鳴った。
その直後、見ているだけの恋なんて意味が無いと言ったあの日の慧を思い出して、眉を顰める。
なぜ今思い出してしまったのだろうか。
確かに、みどりは自分の恋が叶うとは少しも思ってはいない。
けれど、それでも、自分のことを少しでも覚えていてもらえれば、嬉しくなるものなのだ。
こんな気持ちは、きっと恋をしていなければ味わえない。
叶えるだけが恋じゃない。
負け惜しみに聞こえるかもしれないけれど、無意味な恋なんて、一つも無いと思いたい。
有衣の件以来増した慧への反発心も手伝って、みどりはそのまま慧のことを頭から追い出した。