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第一話 はじまりのはなし

 ——小さかった頃にこんな話を聞いたことがある。自殺した人は天国でも地獄でもない、真っ暗な世界に行く、と。でもきっとこんな話は、自殺をしてはいけないという人間のエゴが生み出したおとぎ話だ。自殺をして楽になろうということはきっと間違っているとでも言いたかったのだろう。そんなことを思いながら、私は使い慣れたカッターの刃を決して古くない傷跡に重ねる。何度も何度もなぞるように傷をつける。紅い血が鼓動に沿うように、どくどくとあふれ出す。それはまるで私を構成しているすべてのようだった。この体から私という存在が少しずつ消えていく。いつもより深く、深く傷をつけた。走馬灯は少しも見なかった、見るとも思っていなかった。ようやく楽になれる、という多幸感で意識が埋もれて、私は「世界」から脱出した。




 目を閉じているのに、まぶしいと感じて私は私に意識があることに気が付いた。いや、意識だけでなく体がある、手放したはずの体が確かに自分の意志で動いた。何かがおかしい。

「アリス、アリスってば」

誰か知らない、少女の声がした。目を開けると、臙脂(えんじ)色の瞳と目が合った。

「おはよう、朝だよ」

全く知らないはずなのに、笑いかけてくるその顔が私には気持ち悪く感じた。

「貴方、誰。というか、アリスって誰」

少女は少し驚いてから不思議そうな顔をすると、背を向けて部屋を出て行ってしまった。仕方がない、自分で情報を得よう。やけにふかふかなベッドの上で体を起こした。部屋を見渡すと大きな窓が目に入った。日の光がまっすぐと部屋全体に注がれて照らしている。窓の横に目をやると沢山の写真やチェキが壁や棚の上に飾られていた。よく見ようと思って、ベッドから降りて、近くへ寄る。その時、ちょうどドアが開く音がした。またあの少女が帰ってきたのか、と思い振り向いたらさっきのとは全くの別人らしかった。まっすぐに見つめてくる鼠色の瞳、私に向けられた顔はよく知っていた顔だった。

「ひさしぶり、ですか。実帆(みほ)さん」

実帆というのは私の生前の親友だ。短く肩で切りそろえた黒髪に、白く細い手足の綺麗な少女だ。そして彼女自身も故人である。死因は肺結核。大昔は不治の病と言われていたが、彼女の病が分かった時には、治療方法がないわけじゃなかった。それでも、彼女自身が生きることを選ばなかった。私はホスピスで苦しそうにしながらも笑う実帆を何度も見て、いつも何も言えなかった。そうやって私が後悔を積み重ねてくうちに、彼女は少しずつ弱っていった。彼女は高校二年になる春、静かに息を引き取った。実帆とはお互いに干渉せず生きていけるのが心地よかった。そんな関係を崩さないようにと、私は死ぬのを止めなかった。そんな彼女が今、元気そうに目の前にいる。ならば、きっとここは天国だろう。

「ごめん。おれ、実帆じゃなくてさ」

「え?」

実帆は振り返って、後ろに隠れていた臙脂色の瞳の少女に声をかける。

「クロエさん、少しだけアリスと話をさせて」

少女はこくりとうなずくと、そっとドアを閉めて行った。

「実帆さん、じゃないの」

彼女の顔は実帆によく似ている。何より大好きだったのだ、間違えるわけがない。

「今のおれはイルゼ・トレッサだよ。そしてアリスはアリス・ニコラ」

「なんで、実帆がいて、ここは天国じゃ」

声は緊張でかすれていたかもしれない、でも彼女に届いたらしかった。

「天国じゃない。体はちゃんとあるでしょ。ほら」

彼女は私の手を取って、ベッドに座るように示した。手は確かに暖かかった。

「なんていえばいいのかな、いわゆる異世界転生かな」

横に並んで話す実帆はよく見ると知らない顔をしていた。困ったようにする鼠色の瞳、実帆はこんなに柔らかい顔をしていなかった。何より、彼女の瞳は吸い込まれそうに深く、黒かったはずだ。

「鏡貸して」

イルゼから手渡された鏡に映るのは、知らない顔。ああ、なるほど。

「これが、アリス・ニコラか」

水色の長い髪、黄色の瞳、全く知らない美少女じゃないか。本当に異世界に転生したらしい。そんなおかしなことが意外としっくりきてしまった。いや、そうじゃないと説明がつかない。ただ、私は彼女に向き合ってこう言った。

「そっか、じゃあイルゼだから、ルゼね。」

私とイルゼの仲だ。私の死因も、今までのことも多くを語る必要はないと思った。

「うん、おはよう、アリス。それとクロエさん、聞いてるんでしょ」

ルゼがドアの方に向かって声をかけると、ドアが静かに開いた。

「モナがいいって言ったもん」

彼女はそんな言い訳をしながら、また一人少女を連れてきた。蒼い瞳にウェーブのかかった髪が何とも言えない美しさを完璧に形にしている。

「クロエからアリスが記憶喪失って聞いたけど、大丈夫?」

彼女の大きな青い瞳が心配そうに潤んだ。こんなに優しい瞳を見たのはいつぶりだろうか。

「ちょっと前の熱のせいだと思う。少しずつ思い出すよ」

ルゼがこちらを向いて、話すように示してきた。何といえばいいのだろう。アリスが大切にされているのはわかっても、私にはその記憶がない。この体はどんな子だったのだろう。どんな人生を歩んできたのだろう。思考がぐるぐると回った。一度生きるのを諦めた私がここでうまく何かできるわけない。

「覚えてない? モナ・ガーネットだよ。貴方とクロエのお姉ちゃん」

蒼い瞳がまた一段と潤んで問いかけてきた。まずい、美少女を泣かせてはいけない。

「モナ、大丈夫。覚えてる。元気になったから」

私は使い慣れない表情筋を精一杯動かして笑って見せた。ルゼはそれが満点だとでもいうように手をぎゅっと握ってくれた。すごく懐かしい温度のはずなのに、全部初めてなんだ。いや、これはきっと私のなつかしさじゃない、体がこうやって優しくされたのを覚えているかもしれない。それを私は自分のものだと思った。それだけで私はこの世界に認められた気がした。

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