空っぽの右腕
夏の陽射しは僕の熱くなった肩をさらに焼き尽くす。地区予選の球場のマウンドで、汗で濡れたユニフォームの裾を握りしめた。九回裏、ランナー満塁。これをしのげば延長に持ち込める。応援の太鼓、吹奏の金管、団扇をあおぐ音、どれもが遠く近く入れ替わりながら、胸の鼓動と同じテンポでうねった。
キャッチャーの悠真がマスクの下から僕を見る。サインはフォーク。僕は一度首を横に振り、呼吸を整える。帽子の庇から覗く打者は、スパイクの先で白線を軽く削ってからバットを回した。額の汗が頬をかすめ、指先に残った湿りが気になる。僕はロジンを握り直し、胸の前で一度だけ手を合わせ、振りかぶる。指に集中、落とす、刺す――そのタイミングが一瞬ずれた。
ボールは想定より高く抜け、打者の耳元すれすれを通って悠真のミットへ。判定はボール。客席から短い悲鳴と長い溜息が重なり、僕の背中に冷たいものが貼り付いた。悠真はすぐ立ち上がり、マウンドに来ない。キャッチャーミットを構え直し、同じ場所を指差して見せた。「そこへ」。分かってる、分かってるけど。
再び構えた悠真のサインはストレート。逃げ道のない選択。僕は唇を噛み、ユニフォームで掌を拭う。手の震えは止まらない。スタンドのどこかで、誰かが僕の名前を呼んだ気がする。振り下ろす刹那、体の芯に小さな空白ができ、腕がその空白をまたいだ。投げた瞬間に分かった。外れた。
白い軌道は悠真のはるか頭上で弧を描き、バックネットへ一直線。乾いた衝突音が球場の膜を破る。三塁ランナーが躊躇なくホームへ、二塁も一塁も続く。捕手の返球は僕の手前、土の上で跳ねた。僕は膝をつき、指を土に埋めた。土は熱く、掌には細かい砂のざらつき。顔を上げると、ベンチから飛び出した相手チームの選手がホーム付近で歓声に飲み込まれていた。僕は自分の手を見つめ、「終わった」と口の中で小さく言った。誰にも聞こえない声だった。
試合後、校舎に戻るバスの中で、手の震えは嘘みたいに消えていた。夕暮れのグラウンドに降りると、悠真が「ちょっとだけ」と言ってボールを差し出す。僕は受け取る。距離は二十歩。沈黙のキャッチボール。二球、三球、四球。悠真がぽつりとこぼす。
「最後……海斗らしくなかったな」
僕は次のボールを握ったまま、視線を落としながら言う。
「たぶんイップス。キャッチボールはできても、もう投げられないかもなー」
顔をあげて「やれやれ、まさにお先真っ暗だ」。なんとか笑顔をつくり僕は言う。
「海斗、お前……」
僕の精一杯の強がりに悠真は続きを飲み込んだ。僕はボールを握り続け、結局返さずにポケットに手を突っ込んだ。砂の匂いがやけに甘く思えた。
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1学期最後の日、学校では終業式が行われるなか、僕は病院の白い待合で番号を呼ばれるのを待っていた。冷房の風が足首にまとわりつく。診察室の蛍光灯は均一な白で、医師の白衣も壁も、同じ白が続いている。モニターに並んだ画像は僕の肩の中身を映しているのに、何も起きていない地図みたいに見えた。
「骨も腱も問題はないです。心理的な要因、つまりイップスでしょう。治る時期は、はっきり言えません」
医師の声は波打たない。父は腕を組んだまま「そうか」とだけ言い、母は鞄の中からハンカチを出して、使わずに握りしめた。僕はうなずきも反論もしなかった。静かな部屋で、壁掛け時計の秒針だけが生き物みたいに動いていた。
帰宅してドアを閉めると、部屋の空気が重くなる。ユニフォームの畳み跡がベッドの端に残っている。背番号の上を指でなぞり、指先を離す。机の引き出しから用紙を出す。「退部届」の三文字は、見慣れないのに僕のために印刷されているみたいだった。名前を書く。日付を書く。ペン先が止まる。止まったまままた進む。書き終えて紙を持ち上げると、手は震えていなかった。震えないことが、余計に怖かった。
翌日、監督室。窓の外で、部員がノックの練習をしている音が聞こえる。僕は紙を差し出した。監督は眉間に皺を寄せ、紙をしばらく見つめ、それから顔を上げた。
「一度、置いとけ。時間を置いてからでもいい」
「すみません」
自分でも驚くくらい小さな声だった。背後でロッカーの金具が擦れる音、金属バットが立てかけ直される音。僕は振り返らず、ドアを開けて出た。靴底に重さが宿り、廊下のタイルはいつもより長い。部室の入口を斜めに見ながら通り過ぎるとき、誰かがこちらを見た気がしたが、確認しなかった。僕の野球は、高一の夏で終わった。
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夏休みの朝、校庭から部活の掛け声が上がる時間、僕は父に起こされてビニールハウスへと向かった。入口のファスナーを開けると、むっとした空気が押し寄せてくる。外の風とは違う、湿り気を帯びた熱だ。
中には、デコポンの木が規則正しく並んでいる。枝には青い実が鈴なりで、葉の緑の奥に丸い影が浮かんでいた。透明なビニール越しに差し込む陽光が、果実の表面をやわらかく照らしている。汗がすぐに噴き出し、空気には柑橘の青い香りが漂っていた。
父は枝先の実を手のひらにのせ、光にかざした。
「樹熟は自然そのものだ。人が手を加えるより木に任せた方が、酸も糖も丸くなる。人間は少し手間をかける。それだけだ」
僕はうなずかずに聞いた。父の指は節くれだっていて、掌は厚い。実の重さを、指の腹で正確に測っているように見えた。
摘果の作業が始まる。僕は枝を見上げ、どれを残せばいいか迷う。大きい実に手が伸びるが、枝の角度や葉の付き方を父は一瞬で判断し、僕とは違う実を残す。
「迷うな。一番いいと思ったやつを残せ」
父の声が葉の影で音を跳ね返され、耳に届く。僕ははさみの刃を合わせ、青い実を一つ落とす。コツン。土の上で短く響く。もう一つ。もう一つ。落ちる実の数だけ、胸の奥で何かが減っていく。肩の中の空白が、果樹の影と同じ形をしている気がした。
太陽が高くなるにつれ、段々畑の影は短くなり、空気は甘い匂いを増した。葉の間から三河の水面が切れ切れに見える。遠くで列車が橋を渡り、その音が遅れて丘に届く。僕はシャツの襟を引っ張って風を入れ、額の汗を手の甲で拭った。右肩は、痛いような、何も感じないような、うまく名前のつけられない感覚でそこにあった。
午前の摘果を終えると、足元に青い実が散らばっていた。丸い影がいくつも地面に並び、緑の小さな月面みたいだと思う。父は水筒を差し出し、僕は一口飲んだ。ぬるい水が喉を通る。父は言葉を継がない。言葉を継がないのに、何かを伝えたがっている背中をしていた。僕は視線を逸らした。
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夏休みが終わる頃、僕は野球のない高校生活に、上手な居場所を作れなかった。授業の合間、窓の外にグラウンドが見えると、目を伏せる。放課後、校門を出るとまっすぐ家に帰ればいいのに、坂を下りた公園に寄り道した。ベンチのペンキは剥がれ、ブランコの鎖はところどころ赤く錆びている。缶ジュースを飲み干して、空き缶を手に持ったまま、日が沈むのを待った。
缶を無意識に投げようとしたとき、体が勝手に止まった。視界に、あの場面がよみがえる。バックネット、乾いた音、走り込む足音。腕の途中で力がほどけ、俺は缶を膝の上に戻した。ため息が出る。俺はただ、空っぽになっていく自分を眺めるしかなかった。
「だめだよ、空き缶投げちゃ」
背中から声が落ちてくる。振り返ると澪が立っていた。幼なじみ。少しおせっかいで、首から古いカメラを下げている。逆光で顔の輪郭が柔らかく光っていた。
「撮るなよ」
思ったより強い声が出た。澪は肩をすくめ、レンズをわずかに下げる。
「ちょっとはましな顔になったかな。試合終わってからずっと怖い顔しとったし」
そう言って、またカメラを持ち上げる。俺は顔をしかめる。澪は続けた。
「ね、気づいとる? 一人称、変わっとるよ」
「は?」
「“僕”から“俺”。怒ってると、言葉って勝手に固くなるよね」
からかわれた気がして、胸のどこかが逆立つ。カメラ越しに空っぽの俺が写る想像が嫌で、視線を逸らす。
澪は気に留めず、シャッターを切った。小さな音が、公園の空気を軽く震わせる。
「写真はね、目で見るよりいろんなものを写すの。空の青さも、みかんの木も、そんで・・・思い出したくない瞬間も。で、何年も何十年も残る。いつか振り返ったとき、『こんなこともあったな』って思えるように。でも・・・同じ時間は二度とないから。私は今を写したいんだ」
言葉の最後で、澪は自分のカメラのトップカバーを指で軽く叩いた。そこに小さな擦り傷があり、光が細く跳ねた。
シャッターの余韻が、俺の奥のほう――投げることに使っていたはずの場所――をかすかに震わせた。空っぽのはずの胸に、よく分からないけれど温度のあるものが落ちる。夕焼けがベンチの影を長くしていく。公園の鉄棒に一羽の雀がとまり、すぐ飛び立った。
缶はまだ膝の上にある。投げないまま、指で縁をなぞる。指先にアルミの薄さが伝わる。澪はファインダーから目を離し、僕の横に腰を下ろした。二人分の沈黙がゆっくり形を作る。
「ねえ、今度、竹島の橋、夕方に渡ろ」
「なんで」
「風が強いとき、髪が跳ねるの。写真、撮りやすいから」
意味があるのかないのか分からない理由に、俺は肩をすくめた。けれど、断りきれない何かが、胸の中に確かにあった。
公園の灯りが点き始める。僕は空き缶をゴミ箱に捨て、ベンチから立ち上がった。澪も立つ。金属の鎖が小さく鳴り、ブランコが風で揺れた。家までの道はいつもと同じはずなのに、歩幅が半歩だけ軽くなる。
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その夜、机に両肘をつき、右肩を指で押してみる。痛みは、ない。ないのに、ある。名前のつけられない感覚が、そこに座り続けている。窓の外では、遅い時間の列車が一度だけ通り、音だけ置いていった。俺はベッドに倒れ込み、天井の節目をぼんやり数えた。いつの間にか、呼吸はゆっくりになっていた。
眠りに落ちる直前、シャッターの音が、耳の奥で小さく鳴ったような気がした。写真のことなんて何も知らないくせに、その音は、球がミットに吸い込まれる瞬間の代わりに、空白の真ん中に置けるかもしれない、と思った。少しだけ。ほんの少しだけ。




