水の物語 6.Put together (1)
6.Put together
葛西桜桃は自分のヴァイオリン、ラック君に毎日会える事を楽しみにしながら過ごしていた。生徒会選挙では、講堂の舞台で弾くことができる。約1000人を収容できるような場所でヴァイオリンを演奏できる、そう思うとワクワクする。
気持ちを落ち着かせなければならない。なぜなら、ヴァイオリン演奏は選挙で自己PRをするための手段に過ぎない。それを目的にしてしまうようなことをしてしまってはならない。だって、音楽家を目指しているわけじゃないから……。音楽で食べていけるはずがない。誰かを喜ばすことができても、食べていけない。音楽家で食べていけるのはほんの一握りの人だけだ。そんなの、無理に決まってるから。
「どこの誰だよ、そんなの無理なんて言ったのは……」
男性の声がして、桜桃は手を止めた。練習室の窓が開いていた。
その声は桜桃を勇気づけてくれるものだった。選ばれた者だけが音楽家になれるという常識、それを否定するエールだった。
(……なんだろ。こういうのに気持ちが昂るっていうのは、なんか恥ずかしいんだけど)
空耳のような言葉に、モチベーションが上がる自分自身に対して何か抵抗を覚える。講堂で演奏するにあたり、楽譜を新調した。選挙で票を集めることが目的なのだけれども、たくさんの前で演奏ができるというのは、特別な機会だ。興奮するに決まってる。コンクールに出た時の楽譜も送ってもらって、それも参考にしながら、桜桃はワクワクしながら、自分の演奏を組み立てていった。
あの時とは違うヴァイオリンのラック君、違っているのは桜桃もだ。身体は大きくなったし、それ以上に心も成長した。五線譜に書かれているものをより理解できるようになったし、五線譜に書かれていないもの、指や身体の動き、そして音から生まれる感情をよりうまく表現できるようになっているはずだ。練習を重ねることでテクニックも、クラシックらしい音の出し方も随分とうまくなった。
うまくなればなるほど自信がつくし、自己肯定感が高まる。音楽は自己研鑽のためにやっていた。なぜなら、桜桃は、プロの音楽家は目指せるようなものではないと考えていたからだ。そもそも、桜桃は神威島の医者の娘だから、医療に携わることを期待されていたし、そういう道に進むべきだと思っていた。音楽家なんて食べられない職業だ。良い演奏ができるということと同じくらい運が大きな要素を占めている。
音楽だけで食べていく人をプロの音楽家と呼ぶ人もいる。雇ってくれる依頼主を得て、その注文に応えることができれば、確かにプロの音楽家になれる。でも、稼ぐことを目的にしてしまったら、他人が求める音楽を作るようになってしまう。それは、自分のやりたいこととは異なっている。他人の要望に応えていることが、自分の表現だなんて言えるのだろうか。寧ろお金にならなくても、誰にも媚びずに自分の音楽を追求し続ける方が音楽家としては優れているかもしれない。音楽は好きだ。だけど、それに執着するがあまりに大事なことを見失ってしまいそうで、音楽家を夢見るというのは簡単ではないなと思う。
楽譜を見ながら、そのメロディーラインを読み取り身体に伝える。音程が上昇したり下降したり、伸びたり跳ねたり、ただそれをなぞっただけなのに心が動く。きっと心地よさは桜桃自身だけではなくて、聞いている人にも伝わる。
(演奏活動をして生きていきたい。そのためにはもっともっと練習して……。これならきっと、他の人よりも……あっ……)
雑念が強くなると、身体への伝達にミスが生じて音が飛んだ。
(余計なことは考えない。とにかく演奏に集中……)
桜桃は自分を戒めて再びヴァイオリンを構えなおした。