表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハガキ 水の物語  作者: 伊諾 愛彩
第5章
6/38

水の物語 5.挑戦(1)-(35)

5. 挑戦


 篠塚椥紗は、疲れていた。中学校三年生の間は不登校で家に引きこもっていたのに、雁湖学院に来てからは毎日が楽しくて、とにかくやりたいことがたくさんあって、とにかくやれることはやってみた。充実している学校生活だった。

 とても良い理想の高校生活ではあったのだが、その過程で自分が任されたたくさんの役割について考えていると、頭の中がその考えていることでグルグルしてきた。毎日学校の通って勉強するだけでなく、射撃部の部長になったり、同じ寮の部屋の友達と仲良くしたり。これに、更に風・水・炎・土の四大元素の話であったり、同じ部屋の双葉がなにやらこういう魔法のような力を高めようと修行していたり。

「もう、何か一杯過ぎるよ」

と思いを吐露しながらも、なんとかしようとかやっていた。すると、頭痛とかしんどさとかそういうのが出てきた。

 まず、信頼している春日伊織には、テレビ電話で相談した。

「どうした?」

「頭痛いっていうか、お腹の調子も悪いし。どうしたらいいのかなって」

「……うーん。……休んだら大丈夫になると思うが、熱はあるのか?」

「熱はないし、外に出て、さぁやるぞって思ったらなんとでもなるの」

「それは、無理をしていて、あとから疲労感が来てるんだろ」

「でも、休めないなって思って」

「休めないなっていうより、休みたくないんだろ」

「そうなんだよね。……楽しいから」

「それでも、身体がしんどいっていうからには、休む必要があるんだろ。無理をする必要なんてないと思うけどな」

「でもやりたいの」

「……まぁ、そうだな」

伊織は椥紗が不登校の間ずっと面倒をみていたから、椥紗がどうして無理に動こうとするのかはわかる。仲間と一緒に何かをする楽しさだとか、自己実現とかに飢えていることを知っていたし、その飢えが満たされるというのであれば、それを満たそうと他のことを省みずにやってしまうこともわかる。それを分かった上で、伊織は椥紗に提案した。

「とはいっても、私は、雁湖学院の中のことは分からないし、仕事があるからそっちにいって至れり尽くせり何かをしてやるってことは出来ないからな……」

電話をしたら、伊織が困るのは分かっていた。

(やっぱり電話するべきじゃなかったかな。自分で解決するべきだったかな)

と、椥紗は思ったところで、伊織は釘を刺した。

「黙っているけど、お前、私に迷惑をかけたとか思ってるのか?」

「えっと……」

「そういうのは考えるな。私はお前の面倒を見るのが仕事なんだし。仕事した分はお前の父親の祥悟にしっかり請求するから、心配しなくて良いの」

「うん……」

「祥悟から、追加料金込みで交通費貰って、そっちに行ってやるのがベストだとは思うけど。折角椥紗が自立しようって時に、私が行って邪魔をするのもなぁ。とも思うんだよな……、ああ、そうだ。確か、メンターさんが居ただろ? カウンセリングとかそういうの、頼むのどうだ?」

「えっと、和奈さんに?」

「そうそう。大人で、話を聞いてくれる人、そういうのが居るだけで、全然違うと思うぞ?」

「確かに。そうだね、うん、ありがとう」

椥紗が慌てて電話を切ろうとすると、電話からまた伊織の声がした。

「おい、椥紗」

「何?」

「話聞いてるだけで、頑張ってることがよくわかったよ。無理するんじゃないよ」

「うん。ありがとう」

「じゃあ、いつでも電話かけてきたらいいから。そのために時間の融通が利く仕事をしてるわけなんだから」

ぶっきらぼうな伊織の優しい言葉を聞いて、椥紗の頭痛は少し収まったような気がした。

 

 気まぐれな体調不良だ。心と連動しているのだからそういうものなのだと思う。この病のようなものが起こるくらいまで頑張ってしまう自分を何とかしないといけない。そう思った椥紗は伊織に言われた通りにカウンセリングを予約するために、ReGのアプリを開いた。気分が悪くても、好奇心を刺激するようなことがあれば、身体の不調が消える。だから、無理をしてしまう。

 体調不良だからというだけではなくて、そろそろ誰かに今の状況を相談したいなと思っていたのもあって、スムーズに予約などを進めることができた。学校生活に関わること、ギュフで仕事をしたいことなどはこのアプリを使えば、簡単にできるようになっているというのもあるだろう。

「えっと、面談の予約したいんだけど」

「メンター面談でよろしいでしょうか?」

「うん。そうそう」

「では、こちらからどうぞ」

音声で指示をするだけで、AIが予約をするページにまで連れていってくれる。精神的にしんどいことを相談したいというのは、後ろめたい気持ちが全くないわけではないから、機械的に進めてくれるのは、心理的な負担が少なくて良い。また、人を介さないから、誰かに聞かれているのではないかとかそういう心配をする必要もない。

 面談をするにあたって、必要なのは面談相手・場所・時間を決めることである。ReGのアプリでは、人の名前からの検索もできるし、予約したい日に近くにいる人を探してもいいし、相談したい内容をキーワードを選んで探すことも出来る。そのキーワードとは、例えば、得意科目であったり、恋愛相談であったり、メンターの得意とすることが登録されているから、それを頼りに選ぶこともできる。自分のメンターは決められているけれども、違う人を選んでも良い。この中に登録されているのは、ギュフで働いている人で、雁湖学院の生徒との面談も仕事の一つとして認められる。業務としてはサブのものになるので、その優先順位は下げられてしまうが、遂行するかどうかは各人の裁量でどうにかなるものだ。これといったこだわりのない椥紗は、自分のメンターである冴山和奈を探して、彼女のスケジュールを見た。

「良い偶然だったね。今日は、こっちで仕事だったの」

和奈はギュフの社員で、普段は関西の方で働いているにもかかわらず、3日ほど出張で雁湖に来ていた。雁湖は、ギュフの研修施設とか工場とか拠点でもあるし、社内での大きな集まりの多くが行われる場所になっている。

「仕事は、いいんですか?」

「いいの。今からの会議はちょっと私には関係ないかなっていうやつで抜けたかったから、寧ろありがたかった。聞いておくのに越したことはないけど、興味がないって思っていることを集中して聞くのは多分無理だし」

ソファに座るように促された椥紗は、縮こまったように座った。

「まず大事なことはリラックスかな」

「え、えっと……」

和奈には、椥紗の態度が窮屈そうに見えた。和奈のことは好きだが、正直なところ、彼女のオーラというか、取り巻いているものの力が大きくてどういう風に相対したらいいのか分からなかった。

 和奈もそのぎこちなさに気付いていて、椥紗がもう少し自然体になれるように立ち上がって飲み物を勧めた。

「御紅茶かコーヒー、どちらかなら用意できるけど、飲む? あ、緑茶もあるかも」

「えっと……御紅茶」

紅茶に御をつけて丁寧な話し方をする和奈に、椥紗は親近感を覚えたというか、ホッとした。電気ポットにはもうお湯が入っていて、マグカップに入っているティーバックに注がれた。

「熱いから気を付けてね」

椥紗が手を出して受け取ろうとしたから、和奈は椥紗に手渡した。パンダの絵柄が書かれているマグカップだった。

「なんだか、眼が前よりもキラキラしていて、充実している生活を送っているように思うんだけど、どう?」

和奈にそういわれて、椥紗は、紅茶を息で冷ましながら答えた。

「ええ、まぁ充実はしてますけど……」

「けど?」

「何か、最近疲れやすいな、みたいな。体力ないのかなって」

「それは、学校に毎日通って疲れているんじゃないかしら? 不登校だった人が毎日学校に通うのは体力的にも精神的にもしんどいと思うけど。椥紗ちゃんの学校の出席のデータ見させてもらったけど、とても頑張っていると思うわ」

「えっと、それって……どうして分かるんですか? 誰が見れて、あと、何が分かるようになってるんですか?」

「うーん。やっぱりちゃんと読んでないよね。『?』で詳細にリンクできるようにはしているけど……。面談の予約入れるときに、情報を開示しても良いですかというチェックが合ったでしょ。その詳細を見れるようにもなっているんだけど、それをちゃんと読んでから登録っていうのはやっぱり難しいよなって。ちゃんと読むように促すこともできるんだろうけど、そうなると登録するまでに手間がかかるでしょ。誰かに相談したい人に手間をかけさせるのは、ちょっとなって思うし……」

「一体どれくらいの事が分かるんですか」

「この学校の貴方にまつわることの殆どがデータには登録されているわね」

「殆どって? テストとか、そういうの? まだ大きな試験はやってないけど」

「小テストとかも見ようと思えば、見れるけど……。椥紗ちゃんがプライバシーを解除しているから」

「ひえぇぇぇ。この前、小テスト半分しか取れなかったのに、そのデータが全員に見られてるってこと?」

「いや、そうではないのよ。この面談を行うにあたっての情報開示っていうことだから。あと、半分取れたら悪くないと思うわ」

「ええ、悪いですよ。だって、うちの部屋の人、2人とも満点なんですよ。双葉は中学の頃から1回見たものはほぼ覚えているし、珊瑚は『小テストなんてミスする方がおかしいんじゃないかしら』なんて言うし」

和奈はクスッと笑った。

「それは、比較する相手が間違ってるんじゃないかしら」

そして、椥紗は息をつくことができた。

「私は、数学は得意だったけど、文系教科は苦手だったから、英語の単語テストはあまりよくなかったわ。だから、テストは見直すようにして、間違えたことを一つでも覚えられるようにした。まぁざっと見たところ、大学を受験するっていうなら、最終的に全部覚えてないとまずい単語ばかりだったけどね」

「うぉ。結局落としてくるんじゃないですか」

「あ、ごめんなさい。そういうつもりはなかったんだけど。そもそも、椥紗ちゃん、学校を終えたらどうするのかとか考えられるような状態じゃないでしょ」

「……まぁ、そうなんですけど」

引きこもりだったということを考えると、よくやれている。和奈がリラックスした空間を作ってそれを伝えようとしてくれているように思う。

「もしも何も問題なく今までやってこれたのなら、進路はどうするのとか詰めていくんだけど、そういう段階でもないなって。それに、今回はわざわざ面談を予約してきたわけでしょ。進路とかそういう話ではなくて、その『わざわざ』の部分をちゃんと聞きたいなって思うんだけど」

「あの、そうなんですけど、でもその前にやっぱり気になって」

「何が気になるの?」

「進路とか、ここから出た後のこととか。出来れば自分一人でやっていけるようになっていたくて。いつまでも春日ちゃんの世話になっているわけにはいかなくて……」

和奈は椥紗が急に不安な表情になるのを見て、大学の話を切り出したことをまずかったと思った。

 ここで胡麻化すような話をするのは一番よくないと思った。まずは椥紗が今考えていることの話を聞いて、和奈が理解する必要がある。そして、落ち着かせてから、椥紗が今悩んでいることを聞いていくことにしようと思った。

「椥紗ちゃんの今ある環境、そういうのも含めてのお話しをまずしようか」

「え」

「ちょっとね。心配なんだ。なんだか、椥紗ちゃんの気持ちがすごく前へ前へっていってるように見えるんだよね。だからこういう心持ちのまま今の悩み事を聞いても、それは表面的な解決にしかならなくて、あんまり意味がないんじゃないかなって思って」

椥紗はその考えに納得して頷いた。

「ここにね、クローズドの情報があって、椥紗ちゃんについての詳しい情報が出てくるの。見てもいいかしら?」

「クローズドの情報?」

「普通の人は見れない情報。クローズド、閉じられたものだから何が書いてあるかは分からないけど」

椥紗は開くことを承諾し、タブレットでマークを付けた。

「えっと、先ず『パパがゲイだということを吹聴して回っていた』ってあるけど」

「いや……えっと確かに、そうだけど」

確かに雁湖に来て間もないころに、そういうことを言っていたのを覚えている。このことを改めて人から指摘されると、どう反応していいのか面喰った。今から考えると、どうして自分の家庭環境の大変さについて、口に出さなければならなかったのだろうとなんだか恥ずかしい気持ちになるし、これを冷静に読んだ和奈がどんな風に感じたのか、軽蔑されているようで、焦った。

「それって、誰からの情報とか、分かります?」

「そこまではわかんないな。ギュフのAIシステムで、情報の発信者の特定が出来ないくらいのものがここに上がるようになってる。この時、椥紗ちゃんが話をした相手を通じて、情報がここまでやってきてるって考えるだろうけど、その相手を問い詰めたらややこしいことになりそうだから、止めてね。そもそも、椥紗ちゃんが考えている人では、ない可能性が高い。この情報源がどこかっていうのはどうでも良いんだ。ここに書かれていることは、AIが集約した情報に過ぎないから、正しいと思われていることの推定に過ぎない。情報源は、人間だけじゃなくてビデオからとれた情報っていうのもあるし」

ビデオ、確かにどこにでもある。雁湖学院やギュフの敷地には、防犯用のビデオカメラが幾つかあるし、ビデオカメラも小型化だったり、壁や天井に分からないように据え付けられているものがあって、分からないうちに記録されていることがある。それは、ここに限ったことではなくて、日本の、いや、世界のいたるところで、自分を記録されているようなことは当たり前のようにある。

 和奈に説明されて自分がいかに監視されているのかということに気付くと、椥紗は怖いと思った。

「安心してね。ギュフにある情報は悪用されないように管理されているから」

「……って言われても、何か、怖いです」

和奈は、半ば機械的に話を前に進ませようとしたのだけれども、話の内容一つ一つに椥紗は引っかかっていた。

「よく考えてください。自分のことを知らない人が私のことを知っていて、私に関する情報が知らないとこで回っている。これって、いじめが広がる時と同じみたいで、怖い。知らない人が私の想いを全く理解しないでってことでしょう」

「……ええ、そうね」

椥紗が動揺しているのは、単に椥紗の父親がゲイであるということではなくて、今、生きているこの世界において自分の情報が自分の得体のしれないところで回っているということなのだ。

 和奈はその椥紗がいうところの世界の摂理のようなことよりも、椥紗が目の前で動揺していることに驚いた。監視カメラが様々なところにあるところはもう当たり前で、自分が見られていることに対して、神経質になっても仕方がない。そんなことをいちいち意識していれば、生活できなくなる。

「どうしてそんなに慌てているの?」

落ち着かせなければ、話をすることはできない。息が上がり始めた椥紗の傍に寄り、背中をさすって、耳を傾けた。

「ビデオとか、AIとか、それが私よりも私を知っているような感じになっていく。それって、人間よりも機械の方が私のことを知ってるようになるってことでしょ。機械は人間の作ったものでしょ? 人間が便利に生きていくために、自由になるために作った機械が私たちを見ていて、コントロールしてる。そういうことでしょ?」

「確かに、そうかもしれないけど……」

「和奈さんは怖くないんですか? 自分じゃない何かに見られてるって……」

(やばい……息が、できなくなる。)

椥紗の気持ちが昂るに連れて呼吸が荒くなり、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。たくさん入ってくるものをとにかく吐き出さないといけないという焦りが出てきて、言葉を伴っているが、それは出すためだ。頭で身体をコントロールしようとするけれども、思った通りにならない。それがまた気持ちを焦らせる。和奈は椥紗が落ち着くように身体を支えてくれていたが、これは一人で対処できるようなことではないと判断し、椥紗の身体がソファに横になるようにして置いた。そして、部屋から飛び出して、扉を開けたままにして携帯で緊急対応できそうな部署への連絡先を探しながら、助けを探した。

(和奈ちゃんは、助けに行ってくれてる……大丈夫。大丈夫だから……)

意識が朦朧とする中で、誰かが椥紗の口を塞ぐのが分かった。

「ゆっくり息を吐いて……」

(誰?)

「風の魔法」

それははっきりとは見えなかったけれども、具体的な人間の姿をしていた。声は低くて、その陰から見て多分男の人だ。不思議なことに怖いとは思わなかった。

「颯……だよね」

呼吸はすぐに安定して身体は楽になったが、そのまま眠りが襲ってきて、椥紗は意識を失った。

「椥紗ちゃん。先生呼んで来たよ」

和奈の声と一緒に、少し年配の女性がやってくるのが分かったけれども、身体に力が入らなかった。不思議と苦しさは全くなくなっていて、恐怖も消えていて、身体の中に入ってくるものを吐き出さなければならないという焦りも止んでいた。

「落ち着いたのかな?」

「えっと、すいません。さっきまで呼吸が荒くて……」

「貴方から聞いた症状は、過呼吸みたいだけど。今の感じだと疲れて眠っているだけですね。暫くこのままにしておいて……えっと冴山さんでしたっけ? 貴方は暫くここで見ておいてあげてもらえますか? 小一時間ほどすれば、起きて部屋まで戻れそうですし、今、折角落ち着いているのに、起こして保健室まで運ぶというのはちょっと……ですしね」

和奈はその後の予定のことまでを計算して言った。

「えっと、とりあえずオフィスの荷物取ってきます」

椥紗が起きるまでの間、和奈は自分の仕事を進めようと考えた。ヘッドホンを使えば、会議に参加できるし、面談室は寧ろそういう作業に適していて、二つの簡単な作業をこなすには丁度よかった。

 その後、1時間半後に椥紗は目が覚めて、気持ちも呼吸も落ち着いた状態に戻っていた。和奈は、オンライン会議に集中していて、椥紗はどう声をかけて良いのか分からなかったけれども、話がひと段落したところで和奈の方から声をかけてくれた。

「ごめんね、今日はやらなきゃいけない仕事が出来ちゃったから、またお話ししよう」

結局、和奈との面談の約束を取りつけたにも関わらず、椥紗が当初考えていたことは何も明かすことができなかった。


 和奈の話を聞いて頭が段々グラグラしてきた。監視カメラのことを話していて心が乱れたんだけど、冷静に考えると監視カメラなんてそういうもので、録画されたものは管理されているし、それを利用する人が適切に用いているなら心配する必要はない。監視カメラがなくとも誰かに見られているかもしれない。


 それは、人間? 人間ではない存在かもしれない。


 111号室に戻って、自分の個室にすぐに入った。誰もいないところでもう一度、呼んでみたいと思った。

「ねぇ、颯。こたえて」

一度目は懇願するように呼び掛けた。

「ねぇ、颯、居るんでしょ」

二度目はちょっと強気に。

「颯、何か言ってよ、もう」

三度目はプンプンと機嫌が悪そうな感じで名前を口に出した。


 暫く待っていたが何の反応もなかった。


 あまり期待もしてなかったから、これといった衝撃はなかったけれども、どうしたら颯が反応してくれるのか、途方に暮れるような感じだと思った。確かに少しずつその存在が分かってきている。

(でも、あれ。颯って、人型って言ってたっけ?)

椥紗は確かに人の形をしているように見えた。颯は双葉の風で、風でしかなかった。双葉は颯から色々な情報を得ていたけれども、姿があるなんて聞いたことがない。

 このことをすぐに双葉に確認しないとと思ったが、そういえば最近ゆっくり話をしていない。同じキッチンダイニングの部屋に居るのに、すれ違いが続いていた。

(でもわざわざ部屋をノックすることでもないんだけど……)

それでも、一人で悩んでいても仕方ないと思い、個室から出て誰かと話でもして気を紛らわせようと部屋から出た。すると偶然、リビングのソファに双葉が座っていた。

「あれ、双葉、居たんだ。」

双葉はタブレットを見て眉をひそめていて、椥紗に声をかけられたのに気付かなかった。

「ふ、た、ば」

椥紗が一音ずつはっきりとした音で話しかけると、双葉は肩を動かして驚いた。

「え、何?」

「何見てるの?」

「あ、バスの時刻表。ちょっと出掛けようと思って」

「一人で?」

「うん。自分の用事もあるから」

「自分の用事?」

「うん。自分の用事」

双葉は答えなかった。椥紗は何でも自分のことを話したいと思うけれども、多分、これは変わっているのだと思う。椥紗の家族が普通の父と母が居て、時には祖父母もいてというような典型的な家族ではなくて、ややこしい家だ。『父親はゲイである』。このことをおおっぴろげにしようとしたのはどうしてだろうか。これを話したところで何にもならない。注目はされるかもしれないけど、寧ろ周りの人たちを心配させたり、混乱させることになる。周りを気にせずに話してしまっているのは、客観的に見て承認欲求をどうにか満たそうとする、飢えた人間の様にも見える。

(和奈さんは、私に何かを警告してくれようとしていた……ってことか)

冷静に考えれば、和奈とのやりとりは取り乱すような必要はなかったのに、心の中がショートというか、停電したような感じで、どのように振舞って良いのかが分からなくなっていた。

(だから、颯が助けてくれた……。そうでしょ、颯?)

椥紗を落ち着かせてくれた「風の魔法」といった誰かを颯だと決めつけて椥紗は呼びかけたけれども、返事はない。椥紗が大きなため息をつくと、用事を終えて、タブレットを置くと双葉は椥紗に話しかけてきた。

「椥、何かあったの?」

「ん。色々あったんだけど、まぁ大丈夫かなって。苦しかったんだけど、今は全然大丈夫だし」

「え、苦しいって何?」

「先生が昔の珠みたいな事言ってたけど、」

「昔?珠?」 

「呼吸がゼイゼイする奴」

「呼吸。昔……過去、珠……球。過呼吸ってこと?」

「そうそう、そんなことを言ってた。初めてなったんだけど……」

一通り話をして、双葉が椥紗のことをあまり把握していないことに気付いた。まぁ、すぐに治ったし、どうでもいいことだとは思うんだけど、多分中学校の頃の双葉だったら、椥紗に起こったことを把握していたと思う。中学校の頃は、殆ど知らない同級生だったから、かえって注意を払っていたのか。え、そもそも何で、双葉は椥紗のことを観察していたんだ? 

 そうだ。椥紗のことを見て、その情報を伝えていたのは颯だ。颯は双葉の風で、颯が椥紗のことを意識的に見ていた。双葉が椥紗のことを把握していたのは、颯の影響だということ? 椥紗は双葉から情報を聞き出そうと思った。

「最近、颯に会った?」

「ずっと御無沙汰だよ。だって、りっちゃんに関わるなって言われてるし。どうしたの?」

「えーっと……」

色々聞きたいことがある。過呼吸になったときに、助けてくれたのは人型の颯で……。え。確かにそうだよね? もしかしたら気のせいかもしれない。言うべきかどうか。考えていると言葉が出てこなくなった。

「……うーん。いいや、何でもない」

「え、何? 何かあったの?」

「何でもない。えっと、颯ってさ、風だよね?」

「うん。風だよ。……何かあった?」

「うん、風だなって。いや、何でもなくて」

(男の人に見えたなんて言ったら、変だって言われるというか。なんていうか妄想の豊かさって言うかイケメン~っていうか、何かちょっとHなこと考えてるとかそういうのではないんだけど、そういう風に見られるのって嫌だし)

異性のこと、これも椥紗を混乱させている種だった。恋愛事というと、颯の話に限らない。椥紗はレオンに告白されている。レオンは椥紗のことを異性として見ていて、それを意識して欲しいような言い方をされた。双葉はレオンを見て、初めて会った時から顔を赤らめて意識しているような素振りを見せていたし、多分、今でもそういう風に見ている可能性が高い。椥紗とレオンは別に付き合っているわけではないし、椥紗はレオンのことを恋愛対象として考えていない……から意識しなくてもいいのだけれども、話題に出して色々ややこしくなる可能性は否定できない。その上、双葉の風だった颯が男性で、椥紗にだけその姿を見せているとしたら、双葉はどう思うだろうか。これ以上色々話をするのはまずい。双葉との間にややこしい話題が増えるのは面倒くさいし、とにかく双葉がネガティブな気持ちになるようなことはしたくない。色々知りたいことはあるのだけれども、じゃあ、どのように双葉に聞いたらいいものなのだろうか? 

「えっと……えーっと」

「どうしたの? 大丈夫?」

(話しづらいな……)

椥紗は苦々しい顔をした。

 何か話を始めてしまうと、ついつい余計なことを話してしまうのは、椥紗自身がよくわかっている。色々と聞きたいことは山々だけれども、諦めるのが賢明だ。一呼吸おいて、椥紗は双葉に違う話題を振った。

「うん。大丈夫なんだけど、あれ、何で今日はこんな時間にここにいるの? 毎日朝から山に行って修行とかそういうのじゃなかったっけ? そろそろ寝ておかないとダメじゃない?」

「暫くおやすみなんだ。りっちゃん、暫く札幌のお店手伝えって言われているみたいでさ。朝の散歩は続けるけど、でも、それだけかな。いつもみたいに危険なことはするなって」

「いつもみたい?? ……いつもみたいってどういう感じ?」

「ちょっと獣道みたいなところかな。とりあえず分からないようなところに連れていかれて、自然の声を聞きながら家まで戻るっていうことをしてる。歩いているだけで、ボロボロになるから身体を傷つけないように身体を保護するような膜を作る……」

「それって、魔法だよね」

椥紗が眼を輝かせながら双葉に問いかけると、

「魔法、なのかな。」

「じゃあ、妖術とか呪術っていう名前とか?」

「うーん。やっぱりヒジュツかな。秘術とか、卑術とか、非術とか。そういう言葉で表されるものだと思う。それを使うことが誰かに知られたら、いけない力」

「ずっと不思議だったんだけどさ。それはどうやって使えるようになったの?」

「親……かな?」

「え、双葉のお父さんとお母さんって、魔法使いとかなの?」

椥紗が興奮した口調で問いかけると、双葉は淡々と答えた。

「血の繋がりのある両親じゃなくて、昔の……どこか繋がりのあった人たち。その存在に風の力を教えてもらった。どこだったかは忘れたけど、神社かお寺だったのかな。そこの大きな木から触れた時に溢れてきたというか、その時に颯のことも知ったんだ」

不思議な話だ。椥紗は更に気持ちが昂ってきた。


 それは、随分昔の話だ。その時、双葉には納得できないことがあって、家族のいる部屋から飛び出して辺りをさまよっていた。何に納得出来なかったのか、その原因は覚えていない。双葉の面倒を見ている家族はみんな忙しくて、自分にまで目が届いて居ないということが分かった。もやもやとした気持ちが一番大きなきっかけだった。そうだ、誰も居ないところに行こう。そういう好奇心にも駆られた。

 双葉は見つからないように誰もいないような通路を選んで進んでいった。古い建物だったから、隠し通路のようなものがいくつかあった。二つの部屋で使えるように作られた押入れの引き戸をトンネルのように使って、勝手口から外に出てきた。そういえば、裸足だったような気がする。

 そこは、木々が整えられている場所で、雰囲気からして神社か寺のような感じだった。ここがどういう場所なのかはわからなかったし、覚えてもいない。表の方は、人がたくさんいて、こっちの方に行くと誰かに見つかってしまうと思って、反対側を目指していったことは覚えている。わざわざ庭のような空間を抜けて、見えたのは鬱蒼と茂った木々、整えられた場所だったけれども暗い場所だった。恐らくそれは松の木だったと思う。そして、その中に一本違う木があった。幼い双葉には、それが輝いているように見えた。そして双葉を光が包み込んだ。


 双葉は子供の頃に起こった出来事を思い返した後、椥紗の顔を見て、言った。

「御神木みたいな木だった。とても大きくて、枝も葉もたくさんフサフサしている木。その木に触れると、不思議なことに気持ちが落ち着いたんだ。温かい気持ちが流れてきたの。そしてね。また元のところに戻ろうと思ったの。声がしたんだ。大丈夫だって」

「それは、何の声?」

「何だろう。声は本当にあったとは思うんだけど、木のせいかもしれない。恐怖が消えていたの。周りの大人たちが忙しくて自分のことを全然見てくれていなかったことに孤独を感じていたのかな。寂しさ、それに気付くことができた。それで、不安になっていたのかもしれない。その気持ちを落ち着かせてくれる感じ、自分のことが見える。それは誰かが支えてくれた。親が見えたのは、そんなきっかけだった」

「え、その親っていうのは木の妖精とかそういうの?」

「妖精? 姿とか形とかそういうのはないかな」

「でも、親っていうのは違うでしょ。親は血が繋がっているというか、家族というか、私はよくわかんないけど……」

自分には普通の両親がいるわけではないのに、知っているかのように説明している自分が奇妙だと感じながら椥紗は話していた。

「まぁ、安心させてくれる何かがあったの。自然の何か。形はないけど、そこに力があるなら、それは妖精なのかな。妖精もよくわからないけど。それが親、みたいな感じで……」

「親って、本当の親とは違う、みたいな? 私は、両親が居る普通の家のコじゃないからよくわからないけど」

椥紗が卑屈そうに話をしたが、双葉はそれをサラッと受け流して言った。

「私も分かんないよ。私の母は、もう亡くなってるからね。お父さんが再婚したからお義母さんは居る。お義母さんはすごくよくしてくれるから、普通の家ではあるとは思うんだけどね」

「……そう、なんだ」

椥紗は初めて聞いて驚いた。そんな素振り、一度も見せることはなかった。中学校が私立の進学校だったから、普通の両親が揃っている経済的に豊かな家の子だと椥紗は勝手に思っていた。

「納得できる、良い家族なんだけどね。やっぱり引っかかるところがあって……ごめんね、こんな話されても、困るよね」

双葉が申し訳なさそうに言うと、椥紗は微笑んだ。

「困ったりしないよ。寧ろちょっと、嬉しかった。それって、教えてくれるくらい、双葉が心を開いてくれたってことだから」

自分が普通ではない、他の人とは違う境遇にあることを話さなくてもいい。話さないのが普通なんだ。そう思って、父親がゲイであることを吹聴して回っていた椥紗のことを俯瞰してみることができた。承認欲求大きいとか、高くなっている。そんな自分自身のことを認識することができた。

 自分が愚かだったことを後悔しても仕方ないし、これを引っ張ると話が暗くなると思い、椥紗は話題を変えることにした。

「それで、魔法とヒジュツってどう違うの?」

わざわざ魔法というよく知られている言葉ではなくて、ヒジュツという表現を使うからには何らかの意味がある。椥紗はそれを知りたいと思った。

「あ、それに戻るのね。さっき言ってたみたいにヒジュツだと色々な漢字が連想できるの。魔術でも、他の人にはない力を持っているわけで、隠さないといけないっていう感じはあると思うんだけど、ヒジュツ、卑術って表わすとね、もっと見せてはいけないものという意味が強くなって、それがしっくりくるなって」

そもそも魔術や魔法自体、非科学的でキリスト教といった宗教において存在しない、むしろ否定されるものなのだが、あえて違う言葉で表現することでその禁忌であるという意味を際立たせたいということなのだろう。

「そのしっくりっていう感覚はどうしてなの?」

「何だろう、上手く説明できないな。なんとなくの感覚。その感覚は、親の影響かな。うん。本当の親ではないんだけど、風を教えてくれた何か……っていうと遠いな。やっぱり親」

「その親は、颯とは違うの?」

「颯は風だからね」

「颯は、風を教えてくれないの?」

「えっと、颯が知っていることは教えてくれるけど、親が教えてくれることとは違うかな」

「どう違うの? よくわかんない」

「まぁ、うーん。どう説明したらいいんだろう。確かに、言われてみれば、颯が教えてくれることもあったし。でも風は風でしょ。風は気まぐれだし、心を許して頼れるとかそういうのではないというか……」

心を許して頼ることが出来ないというのは、椥紗にはない実感だ。雁湖に来るまでは、双葉に伝言したり情報を伝えるために呼びかけるだけの存在だったけども、、雁湖に来てからは颯のことをより認識できるようになったし、はっきりとは覚えていないが、今日は人間のような姿を伴っていたように思えた。

(やっぱり、私が認識している颯と、双葉が認識している颯が違う……)

椥紗が認識している颯と、双葉が説明する颯の間にはあきらかな違いがある。それは関係性だったり、親密さであったり、物理的な距離よりも心理的な距離において違っているように思った。恐らく颯は椥紗に対して懐いているというか、親しみを覚えている。そのことを確認したいと思ったが、話題を切り出すことがきっかけで恋愛の話とかややこしい話が導かれそうだった。これは、勘弁だ。椥紗と双葉の間に亀裂のようなものが生まれないように、椥紗は言葉を慎重に選ぶように心がけた。

 椥紗は新しい質問を双葉にぶつけた。

「りっちゃんに言われて、今、颯とは関わってないんでしょ? それで何か変わったの?」

双葉は頷いた。でも答えてくれたなかったから、椥紗はまくしたてるように言葉をつづけた。

「何が変わったの? どうしてりっちゃんは、颯を使わないように言ったの?」

「そうだな……。どう変わったのかって言われたら、上手く説明することは難しいのだけれど、今まではいつも颯に頼ってたなって。風にこうしてほしい、ああしてほしい。そう思った時に、風ではなくて、颯の力を使っていた。りっちゃんに使ってはいけないって言われて、困ったら、颯の力を使おうとしてたなって言うことに気付いた。大きな力を持っている風だから、分かりやすいんだよね。」

「じゃあ、颯なしでは、大きな力は使えないってこと?」

「今は、講堂の屋根を飛ばすようなことは出来ないかもしれないけど……」

双葉は、以前に講堂の観客に対して放たれた大きな風の力を相殺させるために、颯の力を使ったことがある。何かに意識を奪われた珊瑚が、会場に対して打った風の力と双葉の風がぶつかって、それが天井をぶち抜くことになった。相殺されて力がなくなっているはずなのに、大きな音と共に天井が破壊されていたから、もしも会場にその風の力が当たっていれば、けが人が出ただろう。もしかしたら、死者が出たかもしれない。この雁湖という場所は自然が豊かというだけではなくて、不思議な力、それを操るような存在もいるようで、それらの攻撃的な動きに備えて、双葉は風の力を高めなければならないと考えて、律にその方法を教えてもらっていた。

「大きな力、というわけはないけれども、前よりも出来ることは増えているように思うんだ」

「出来る事?」

「まだ、形にできるようなものではなくて、分かるようになったのはヒジュツの基礎の部分……。今どういう風に考えているか説明しようか?」

双葉が、そう提案すると、椥紗は目を輝かせながら大きくうなずいた。

 双葉は、手のひらを広げて、そこに風を集めた。球のような形に風が集まっていることが椥紗にも見えた。椥紗は息をのんだ。

「身体の中と自然の力が溶け合う、そうすることで力が生まれるの。私の場合は、風と水の力を生み出すことができる」

「これは風でしょ? 水はどうやるの?」

双葉は風の球を消して、下を向いて考え込んだ。

「えっと……ちょっと待ってね」

同じように手を広げたけれども、何も起こらない。手に力を入れて、顔を少し赤らめてふり絞ってみたが、やはり何も起こらなかった。椥紗はがっかりしたような顔をした。

「水……欲しいな」

「コップに入れたのでいい?」

「うん」

曇ってしまった椥紗の表情を、意地でも明るくしたいと思った。そのためには、それらしい力を示さないといけない。

 椥紗に渡された水を見つめて、それが浮き上がり球体の塊になるようなイメージを作った。コップの中身が双葉が望むように透明な珠になっていく。

「よし、出来た」

その球を手のひらの上に載せて、それを少しずつ大きくしていく。最初は手に収まる程度の大きさだったのがバスケットボールくらいの大きさになった。

「凄い凄い」

椥紗が喜んだのを見て双葉は得意げに笑った。

(やった)

そう思った瞬間、球は壊れて水が滴った。

「まだ、だめだな。全然コントロールできてない」

滴った水の一部分を集めて、コップに返して、残りの濡れてしまった部分を雑巾で吹いた。

「凄いよ。風が集まったし、水も集まったよ」

「まだまだだよ。力がどういう風にあるのかというのは感じたり、読めるようになったけれども、それで何が出来るっていうものでもない」

「じゃあ、どんな風になったら、十分な気持ちになるんだろう」

悔しそうな表情をする双葉を見て、椥紗は不思議な顔をして尋ねた。颯のことが大分分かるようになっただけの椥紗からすれば、双葉が魔法(彼女はヒジュツと呼んでいるけれども)を使ってできることがたくさんあって、しかも颯という大きな存在を介さずに双葉自信の力で風を出したり、水を操ったりしている。

「……少なくとも、何もないところから、水と風を作り出すことは出来るようになりたいな」

椥紗は双葉の話を促すようにうんうんと頷いた。

 椥紗は、双葉に尋ねる。

「こういうのってさ、何度も繰り返すと出来るようになるとかじゃないの? だから、もう一回、何もないところから水を出そうとしてみたら出来るんじゃない?」

「え~。もう無理」

「無理じゃないよ」

椥紗が前向きな感じで鼓舞すると、双葉はらしくなく嫌そうな顔をした。

「だって、大分頑張ったもん。集中するからしんどいんだよ」

「こんな時こそ、限界を超えるチャンスっていうじゃない」

「そういう20世紀の部活漫画みたいなのでできるようになるとかそういうのではないの」

「そうなの? 努力・友情・勝利、だっけ。これは大事でしょ。根性っていうのは、戦うのに欠かせないと思うよ」

ノリノリで話す椥紗に、双葉はため息をついた。

「少年漫画の三大理念みたいなことはもう古いよ。そういうの、ハラスメントに繋がるんだよ。もう時代が違うし、限界まで頑張るというのは場合による」

「それは頑張らないってこと?」

「継続して取り組む。これも一つの頑張り、でしょ。短い期間に集中して頑張るということを否定しているわけではないけど、根性とか、暴力とかそういうのを使ってやることが良いとは思えなくてさ。多分時間が経てばもっと分かるようになる。もっとできるようになる。そう感じるんだよ。そう思うから、続けられる。頑張って出来るという感じではなくて、無意識で出来るようになる。そうなりたいなって」

「それはどうすれば、出来るようになるの?」

「実際に自然を感じる事かな。その動き、営みを知ること。その力を使わしてもらう、借りるのがヒジュツの基礎になる部分、みたいな。自然の中を歩いているとき、どうやって力を使うかなんて意識はしていない。こう動けばいいんじゃないかっていうなんとなくの勘で動き始めて、最初は勘だったんだけど、それは勘じゃなくて、風に聞くというか、その動きとか在り方から、一番いい答えが分かるようになるっていうか」

「じゃあ、ただ歩いているだけなのに色んな事意識してるんだね」

「意識してないようにならないといけないんだけど、分かるっていうことも意識のうちなんだったら、そういうことだね。でも、もっとその時間のロスというか、勘を鍛えるというか。自分の身を危険から守ることができるとか、そういうのは直感的に分かるもので、それを養う。そのために山道だったり、森だったり、林だったりを歩いてる。主に歩いているのは、この周りだけだから、もう慣れてきちゃったというのはあるけど。でも、歩いたら歩いただけ、分かることがあるかな。どの道を歩いて、寮まで戻るか。どこに行くと遭ってはいけない動物が居るのか、とか。風に聞いてるのか、水が教えてくれるのか。そのどちらでもないものかもしれないし、どちらでもあるものかもしれない」

「水とか風とかって形があるわけではないもんね。例えば木の中には導管と支管があってあって、その中を水が通っていて、光合成をするから二酸化炭素を取り入れて酸素に変えているし、呼吸もしている。そう考えると、水と風の要素どっちもあるんだよね。土から養分を取るのもあるし、身体を形成しているのは炭素だから、火を燃やす材料にもなる。世界は四元素から出てきているっていう考えに基づくなら、植物だけじゃなくて人間もそうだものね。複合体」

椥紗は自分の言葉で説明することで、自分の理解が合っているかどうかを双葉に確かめた。

 双葉は何でも話を引っ付けようとする椥紗の話に理解を示しながらも、双葉がどう考えるかを一つ一つ吟味しながら答えた。

「植物の導管と支管と、光合成と呼吸……。理科の教科書の内容、よく覚えてるね。教科書の内容と照らし合わせるなら、そういう理解もできるのかもしれないけど、しっくりこないなぁ」

「どうこないの?」

「多分、珊瑚のいう四元素も私の感覚とは違うんだよね」

「四元素も違うの? ゲームとかやっていると当たり前にゲームとかやっていると当たり前のように風・水・火・土の魔法は出てくるし、この4つって古代ギリシャとかで発見されたものなんでしょ?」

「インドとかもそうだって聞くけど、古いから正しいっていうわけではないし、ヒジュツの感覚とは違う。四元素が正しいわけではなく、中国だと五行だしね。日本の昔からの者とかは、どっちかっていうと五行の方が影響大きいからなんとも。その場合、火・水・木・金・土で風は存在しないからね」

「あ、本当だ。じゃあ、何で、四元素っていう言葉で説明するの?」

「それは自分で調べてよ。私はそれと感覚が違うって言ってるんだから」

「あ、そうね。ごめんごめん。じゃあどういう感覚?」

椥紗がまた話を戻すと、双葉はソファに座りなおして答えた。

「まずは、気付けるようになること。りっちゃんが連れて行くところは、人間ではなく動物の縄張りだからね。遭遇して戦うのではなくて、その生き物の邪魔をしないように進んでいく。これが大事なこと」

「それってさレーダーとかで分かるやつじゃない? 知ってるよ、魚群探知機とかそういうの?」

「うーん。魚群はこの話とは関係ないと思うけど、生き物の動向を察知するという上では似てるかな」

「じゃあ、機械を使わなくてもそういうことができるってことだね。凄い。それも、やっぱり、成長ってことね」

椥紗が違うものを例に挙げて理解を示していくことに、違和感を覚えて、少し嫌そうな顔をした。

「確かにそうだけどさ、なんか違う」

椥紗は悪態をつく双葉を不思議そうに見た。

「機嫌悪いな。それって、MP切れみたいな感じってこと?」

「……何でもかんでも、そういう変な訳し方しないでよ」

「ごめん」

椥紗に謝られて、双葉は自分が冷静に対応できないような心持であることを自覚した。

「MP切れ……かもね」

「でっしょぉ」

椥紗が嬉しそうに叫ぶので、うるさいと思いながらも、邪険にはしたくなくて苦笑いした。

 双葉は、椥紗の考え方に合わせて説明を始めた。

「でも、私はMPとか身体の状態を数値にするっていうのは、ゲームに思考が冒されいるなぁって思うけど。同じことをしてもどれだけ疲れるか、例えば、毎日学校に行くけど、学校に行ってどれくらい疲れるかなんて日によって違うでしょ。ゲームの場合、どの魔法や呪文を使っても常に同じ。しかもそれがどれくらいかっていうのを測れるって思ってしまうと思ってしまうことには疑問を持った方が良いんじゃないかな」

双葉は話しながら、説教のような文言をたれていると思った。上手く伝えられないのは、疲れているせいもある。

「まぁ、MP・HPで色々考えると、ゲームに置き換えすぎてるなっていうのもあるけど、この世界はもう既に数字でいっぱいだしね。そしてその数字を頼りに生きてるじゃない。今日という日は、太陽暦を計算して出てきた数字の日になってるし、時間は地球の自転に合わせてる。どれだけ温かいかは温度計の数字で、どれだけ湿っているかは湿度計。血圧、視力検査、身体検査をすれば全部数字で出てくる。それだけじゃなくて、中間テストも期末テストも点数と数字で書かれていて、実力テストなんてそれに順位とか偏差値とか、他の人と比べて自分がどれくらいの価値があるのかというのが示されてる。怖いと思わない?」

「……怖いかどうかと言われれば、怖いって思うけど。それは、椥紗とは違う意味で怖いなって感じてるよ。椥紗は数字と現実をつなぎ合わせて、数字が現実を支配していくから怖いって言ってるけど、私は、椥紗が怖いと思うくらいにつなぎ合わせていること、それが怖い」

「それは私も激しく同意するわ」

「うわぁ、びっくりした」

不意に椥紗の後ろから、珊瑚の声がしたものだから、椥紗は驚いてのけ反った。

「おかえり、珊瑚」

その存在に気付いていた双葉が珊瑚に合図を送るように手を振ると、珊瑚は何だか嬉しそうだった。

「面白そうな話をしてるなって思ったの。盗み聞きしてたんじゃないわよ。たまたま聞こえただけ」

「分かってるよ。別に聞かれてもいい話だし。ここは珊瑚の部屋でもあるわけだし」

「何、恥ずかしい事言ってんのよ」

「え、ここ照れるとこ?」

「何でもないわ。続けなさい」

珊瑚は椥紗の隣に座って、足を組んだ。それは、珊瑚が小柄な自分自身を大きく見せる威嚇みたいなものだった。

(警戒する必要なんてないのに……)

椥紗は珊瑚の振る舞いに気付いていたけれども、気付かないふりをした。指摘したら、珊瑚の気持ちが荒れるかもしれないから、そのまま双葉との話を続けた。

 珊瑚に促されたので、椥紗は話を続けた。

「数字と現実。それを繋げることで数字はより有効的になるわけでしょ。どうして繋げすぎるとよくないの? 数字を信頼して、それに従って次の選択をする。例えば中学受験の時に、偏差値に応じて受験校を決めたりする。そうすることで、受験料を無駄にしないとかそういう対策が立てられるわけだし」

「確かにそうだね。でも、椥、貴女の感情はもっと深いところまで入り込むことが多いでしょ。偏差値を気にするがゆえにそれに達することができなくて、暗い気持ちになる、卑屈になる。嫌な気持ちになるリスクが高いというのはよくないことだな、って」

「でも、嫌な気持ちになるから、もっと高い点数が取りたいとかそういう気持ちが生まれるのもあるでしょ。そのために勉強する。そういうモチベーションになる」

2人が言い合っていると、珊瑚が口を開いて新しいアイディアを提示した。

「『中庸』の美徳というのを取り入れると、いいんじゃないかしら」

「それ、中国のやつ?」

「そ、世界史の教科書にも載ってるし、倫理の教科書にもあるわよ」

「もう読んでるの?」

「え、まだ読んでないの?」

確かに雁湖学院に入学してから、間もない頃に大量に教科書が渡された中に、世界史の教科書も倫理の教科書もあったけれども、自分の部屋にもあるけれども、授業の進捗に合わせて読んでいくもので、渡された日から読むなんていう発想はなかった。

(珊瑚が、変なんだよ。頭がいいからおかしいんだよ。私は普通だよ。こいつら2人でおかしいんだよ)

こんなことを嘆いたところで、ずば抜けて頭がいい奴2人と自分では、反論されて更に惨めな気持ちになるのは分かっていた。

「……アンタの魅力は、頭の良さとかそういうのじゃないから。別に気にしなくてもいいわよ」

「気付いてんのかーい」

「アンタは分かりやすいのよ」

双葉とは違って、珊瑚は椥紗のちょっとした気持ちの動きにも敏感だ。いや、双葉が鈍感になっただけで、元々は珊瑚の様に椥紗の変化のことを分かっていたようにも思う。それは、颯が双葉に教えていたからではないだろうか。颯が自発的に双葉に椥紗の様子を伝えていたから、以前は双葉は椥紗の様子を分かっていた。けれども、今は颯と関わらないようにしているから、椥紗が何をしているのかを双葉は分かっていない。

(こういう状況になってるっていうことは、どういうことなんだろ。えっと、何でりっちゃんは、颯と双葉を離れさせようとしてるの? 私と双葉が離れるため? いや、何かそれは違う気がするけど)

珊瑚が『中庸』の美徳について話をしている間、椥紗は双葉と颯のことを考えていて、全然頭に入ってこなかった。

「まぁ、教科書の内容はこんなところだけど、何かを盲目的に信じるのではなくて、何事にも偏らないという姿勢が大事だと思うわ」

椥紗はさも聞いていた風にうんうんと頷いた。

「いや、殆ど聞いてないでしょ」

「聞いてたよ。いや、もう皆を信じまくるなっていうか。そういう……」

椥紗が珊瑚に弁明しようとしたが、上手くできなかった。それに双葉が追い打ちをかけた。

「全然聞いてないじゃない」

「いや、きいてたよ。20パーセントくらい……」

「赤点ね」

珊瑚は厳しい口調で言った。

 珊瑚が、双葉に向かって質問を投げかけた。

「私、聞いてみたかったの。颯を使わない今の双葉は、本当に前の双葉よりも強いのかって? 双葉自身はどう捉えているのかって。河竹律の指導を受けて、感覚は前より研ぎ澄まされたってことは分かるわ。でも、それは、本当に強くなったの?」

「それは、強さの定義によるかな」

双葉は、自信をもって答えていた。

「じゃあ、例えばの話、もしもこの前みたいに私が操られたらどうする?」

この前みたいにというのは、織原睦美の講演会の日のことで、彼女の講演を聞いていた人々が座っていた客席に向かって珊瑚が魔装銃を使って風の力を撃ったという話だ。その風の力は建物を破壊するような力を持っていて、双葉は颯を使って更に大きな風を当てて、威力を相殺させつつ、更に風の軌道を変えて、誰もいない二階の天井をぶち抜く形で被害を抑えた。

 研究熱心な珊瑚だから、後から、何が起こったのかを分析していた。その時は何かに操られていた。その時はわからなくても、破壊された屋根の痕を見て、どれくらいの威力だったのかという推定はできる。

「今の私なら、珊瑚が風の力を使って、害をなそうとするのであれば、事が起こる前、気付くと思う。大きな力程感じやすいからね」

「それは、クーゲルの中に込められている力でも?」

クーゲルは、魔装銃の弾丸である。風の力は、コイン状の弾丸に封じられているわけだから、それが、どれくらいのものなのか分かるものなのだろうか。

「どれくらいの威力があるかどうかは、分からなくても、風のクーゲルなら、感覚を研ぎ澄ませれば分かると思う。クーゲルが講堂の2階にある。それだけで、不穏なことが起こるってことは予測できる。それに、今は珊瑚のことを前よりもよく知っている。何かに操られている。この部屋の中で珊瑚の異変には気付けるかも」

「撃ったらどうするかではなくて、撃たせなければいいってこと?」

「そういうこと。撃たれてしまったなら、前と同じような方法でしか、みんなを助けることはできないと思うんだ。撃たれてしまったら、何らかの余波を受けることになるだろうなって」

何かが起こったときに対処できる方法ではなくて、起こらないような方法を考えている。そこまでは、椥紗にだって分かる。ただ、それは理想とか、きれいごとの様に聞こえた。

「今回は、珊瑚だったけど、他の人が操られるってこともあるわけでしょ? その時に、前もって察知できたりとかできるものなの?」

双葉は額にしわを寄せて答えた。

「無理だろうね」

「じゃあ、やっぱりより強い風の力とかそういうのを意識した方が良いんじゃないの?」

双葉はそう言われて、どう答えるべきか迷った。

「そうなんだけどね。あの時止められたのは、私の力じゃないんだ。颯の力もあるけど、あーちゃんの感覚っていうのがあって……。その感覚を借りて、颯が的確な力で対応できるようにしたの。それはその時、私が本当に求めたから出来ただけで、そんなのが出来るとは思えない。あーちゃんだから、出来る感じもする」

「あーちゃん。また新しいのが出てきたな」

椥紗がそう行ったのに促されて、双葉はあーちゃんについての話を続けた。

「私の中のあーちゃん。それは私とは違う存在なんだけど、でも、彼女は私になることもある。強い存在で、さっき話した親は、あーちゃんの親だと思う。彼女が、ううん、私が間違ったヒジュツの使い方をしないように教えてくれるというか、見守ってくれているというか」

曖昧な話だったけれども、双葉が伝えたいことは椥紗にも分かるような気がした。

 双葉の話を聞いて、珊瑚が口を開いた。

「大体のことは分かったわ。そのあーちゃんっていう存在があって、双葉は風の力が使えていたということ。そして、その存在に意識が持っていかれないようにするというのが双葉の課題。それで、今は、双葉自身の力を高めようとしているということね」

「じゃあ、今鍛えてるのはさ、双葉自身の力ってことでしょ。それは、私でも出来るってことじゃないの?あーちゃんが居たから双葉は風の力が使えていて、今は、あーちゃんなしでも使える。双葉が今やってる事すれば、私も魔法ができるようになるっていう感じしない?」

椥紗が強引な論法で話を進めようとすると、それに対して双葉は返答に困った。

「えっと、どうなんだろう。どこからが私で、どこまでが彼女なのかというのは分からなくて、今、ヒジュツが分かるのは、私なんだと思うけど……。椥が私と同じように分かるようになるかってことだよね? えっと、私がどうして分かるのかっていうのは……」

「はっきり言ってやればいいのに。それは生まれ持った才能の差だからどうしようもならないの」

「才能!?」

「そう。結局力が分かるかどうかは、生まれ持った才能ありきなの」

「え、そうなの。じゃあ、努力とかって無駄ってこと?」

「それは短絡的思考だわ。やってみたら意外とできる、やってみることで自分の隠れた才能に気付くってことは往々にしてあるわ。才能がなければ学ばない。そういう姿勢は愚かだわ。だけど、学んだから成果が得られるって考えるのも愚かだわ」

珊瑚の口調は厳しいけれども、間違ったことは言ってない。双葉は、一呼吸してから、空気を柔らかくするような雰囲気で話し始めた。

「才能というよりは性質かもしれない。人によって得意な力、苦手な力がある。勉強、運動、音楽、美術……何が好きとか、嫌いとかそういうのあるでしょ。人それぞれ好みが違うわけで、それに近いかな。自然の中を歩いて、精神を研ぎ澄ませると風や水からの声、情報が入ってくる。きっと風や水との相性がいいんだろうね。世界には他のものもあるのに、よりはっきりとした輪郭を持っているんだ。私の感覚がそれを捉えるんだよね。意識してるとか無意識しているとかそういうのは関係なく。私は風と水って呼んでいるけれども、その風だとか水の感じは、多分、人によって違うと思うんだ。私の中でも違う。眠くてぼんやりしているとき、嫌なことがあって気持ちが憤っているとき、捉えられるその形、感触は違っているし、言葉で説明するのが難しいな。確かにあるんだけれども、普通の人には見えないものだからね」

椥紗はその説明を聞いて、風や水の力が分かる双葉をより羨ましいと思ったし、自分も何らかの力が分かるようになればいいのにと思った。双葉はヒジュツという言葉で呼ぶけれども、椥紗にとってはワクワクする魔法だ。そこには夢とか希望といったピカピカでふわふわな感じがあった。珊瑚は目を輝かせる椥紗に対してむっとした顔をした。

「そういうあほな顔出来るところ、何かむかつくわ」

「いや、むかつかないでよ」

椥紗はひるまずに明るい調子で応える。

「そういうお気楽な気持ちでいれるところ、そういうところなのよね」

「そういうってどういう?」

「言わない。言いたくないから」

2人がじゃれているのを見ながら、双葉は微笑んだ。

 椥紗と珊瑚のやり取りが一通り終わった後、珊瑚は居住まいを正して話し始めた。

「講堂での事件があった後、どれくらいの力を出せるのかということも調べたんだけど、魔装銃のルーツも調べてみたの。どうして私のところにこの魔装銃があるのか。なぜ私はすんなりとその使い方が分かるようになったのか、とか」

双葉と椥紗はそういわれて、真剣な眼差しを珊瑚に向けた。すると珊瑚は照れた。

「……なによ。そんなことを知って、どうなるのっていう感じだけど。魔装銃は私の家にあったの。なぜ私の家にあったのか。そういうことは調べてた。翡翠が……えっと、兄?が使い方を教えてくれて、まぁ使ってもいい感じだったから使ってるんだけど、家が森にあるから、護身用って言うか」

「兄にって、親じゃなく? これ、聞いてもいいことかどうか分かんないんだけど、珊瑚の親ってどういう人なの? 話に出てこないんだけど」

「知らないわ。私は翡翠に面倒見てもらって、育ったから。」

珊瑚は特に躊躇うこともなく、あっけらかんと言った。

「知らないってどういうこと?」

椥紗が恐る恐る尋ねたが、それを気にすることなく答えた。

「前にも言ったような気がするけど、私には、昔の記憶がない。過去がないのまぁ、色々あったんじゃない。ロクな親じゃなかったのよ、多分」

「え、結構深刻な話だよね?」

「別に。私は深刻だと思ってないわ」

「過去がないっていうことは、大事な思い出とかそういうのがないってことでしょ。そもそも親がいないって……」

「親の状況が複雑なアンタに指摘されたくないわよ。親がいようといなかろうと、私は私。過去もそんなものね。過去なんて大事なものかしら? ある人にとっては大事かもしれないけど、私にはないから、その大事さが分からないのよね」

珊瑚がそういう風に強い口調で話してくれると、椥紗まで勇気づけられるような感じがした。何かが欠落していようといなかろうと気にすることはない。

「それでその翡翠さんはどこにいるの? 家?」

「さぁ。首都圏のどこかじゃない? 仕事があるから北大屋町を離れなければならない。翡翠は私を連れていけないって思ったのよ。その通りだわ。私は、他の人間と一緒に過ごすなんてとてもじゃないけど、無理。この田舎でもしんどいのに、都会なんて猶更。連れて行ったところで、人がたくさんいて私は外に一歩も出れないことになるだろうなってね」

「よく珊瑚のことを分かってくれているお兄さんじゃん」

「でしょ。雁湖学院で過ごせないことも想定してたからね。だから、『万一の場合は研究所で過ごせ』ってね」

学校の屋上には、珊瑚にしか入られないスペースがあった。椥紗はそこで珊瑚に初めてであった。

「即ち、あれ避難所なわけか」

椥紗が納得して頷くと、珊瑚はムッとした。

 その場の空気が悪くなってきたが、双葉は、2人のやり取りを悪くないものとして見ていた。学校に行って、友達を作って、くだらないやり取りをすること、それは当たり前じゃなくて尊い時間だ。なのになぜ自分はその時間よりも、ヒジュツの力を高めることに時間を優先させている。大事だからその時間を守りたい。守れる力を手に入れたい。

 多分理由はそれだけじゃない。もっと強くなりたい、もっと出来ることが増やしたい、もっと知りたい。溢れてくるのは、純粋な欲望だ。

「っていうか、思うんだけど、りっちゃん、献身的すぎない? 最初悪い奴だったのになんなの?」

双葉は椥紗の質問を聞いて、嫌なタイミングで尋ねてくるなと思った。河竹律が双葉を好いてくれているのは、誰かのためとか、正義感とかそういう理由づけではなくて、強くなりたい、自分を知りたいという純粋な欲望からだ。それを望むことは何も間違っていない。そのはずなのに、罪悪感を覚える。わざわざ力のことをヒジュツなんて呼ばなくてもいいのに、双葉は自分自身が何かを恐れていることに気が付いた。

「双葉?」

返答のない双葉を椥紗は覗き込んできた。

「どうしてだろ。カミサマに良いも悪いもないからな」

「りっちゃんは、カミサマだっけ?」

ふと漏れた言葉に驚いたのは寧ろ双葉だった。

「ああ、そっか。カミサマだね」

「何、納得してんの。わけわかんないんだけど」

珊瑚が不機嫌そうに言葉を挟む。

「なんだか、腑に落ちたんだ、カミサマだなって」

「カミサマに憧れた妖怪とかそういうのっていう認識じゃないの?」

「そんなこと言ったら、不機嫌になるよ、りっちゃん。……確かに、最初は悪い感じだったけど、何かさ、そうだな、って」

「うーん。よくわかんないけど、今頃りっちゃん、くしゃみしてるんじゃない?」

「いや、くしゃみしないでしょ。カミサマなんだったら」

「カミサマなんだったら、こっちの会話を聞いてるかもしれないわよ。別に聞かれたって困るような話はしていないけど」

(確かにそうかもしれない)

珊瑚の話を聞いて、双葉が口を開いた。

「ここに居るカミサマが、りっちゃんだけだと良いんだけどね」

「ぷうちゃんもそうでしょ。あれ、でも、ぷうちゃんはカミサマとは違う? 力が弱いから?? それで、りっちゃんに以外にカミサマが居たとして、何か困ることあるっけ?」

椥紗がのんきなことを言うと、珊瑚が大きなため息をついた。

「能力者っていう意味でのカミサマがたくさんいると、脅威だって言ってるの。悪意を持った能力者がいるかもしるかもしれないでしょうが」

「ああ、確かに。珊瑚が操られるかもしれないしね。でも、何か大丈夫な気がするんだよね」

「何を根拠に……」

「大丈夫に決まってる。そのために、双葉は修行してるし、珊瑚は魔装銃のこと調べてる。そういうことでしょ」

椥紗は自信満々に答えた。


 三人で話をして、気持ちが落ち着いた椥紗は、再び冴山和奈と相談をすることにした。誰かと比較してというのはあまり好きじゃないけれども、珊瑚と双葉の話を聞いて、色々なことを抱えているのは自分だけじゃない。そう思えて、気持ちが上向きになった。

「そう、大分顔色がよくなったように思うわ。やっぱり若いって羨ましいわね」

「若さって、関係あります?」

「あるわよ。若ければ若いほど、先入観とかそういうのに囚われなくて済むし。身体や心の回復力が違う。専門の医者とかではないから、私の意見に過ぎないって言われたらそれまでだけど」

「……和奈さんに言われたら、説得力ある」

話をすればするほど、和奈に心を開いていく自分に気が付く。そして、今まで表に出すことができなかったこと、それは、事実とかよりも気持ちを出すことができる感じがした。こういう気持ちになれないようなメンターなら、合っていないわけだから、他の人に変わってもらえばいい。誰が優れていて、誰が劣っている、そういうのではなくて合う、合わないという関係性の問題だ。上手くいくかどうかという関係性は運や縁だ。

 定められた担任だけではなくて、メンターとして雁湖学院の生徒に対して、ギュフの社員を関わらせていくというシステムは、椥紗に合っていた。

「ちゃんと部長としてやっていけるのか、とか……あと、ピアノの伴奏を頼まれたんです。同じ部屋の子になんですけど、凄い弾けるわけではないのに、生徒会選挙のPRの時にステージで弾いてって……。その時は、まぁいけるかなって思ったんですけど、よく考えたら、雁湖学院って芸術科があるわけだし、私なんかが弾いていいのかなって……」

「椥紗ちゃん、ここは、貴方の学校でもあるんだから弾いて良いに決まってるの。優れた演奏っていうのは、技術だけで決まるものじゃないし、音楽をすることは音楽家だけに与えられた特権じゃないのよ」

「そうはいっても……」

発表会で良い演奏をするために色々な動画を見たし、CDも幾つか持っている。だからこそ、上手い演奏がどういうものか、椥紗は知っている。音楽系YouTuberの動画も見る。そういう動画は、上手ではあるのだけれども、それにキャプションをつけてその演奏者の特別感を演出している。そういうのを見ているから、自分の演奏は拙いものだと思ってしまうし、舞台に上がってもいいのかという躊躇いを覚える。

「何でもやってみたらいいの。やれば何かが変わるかもしれない。やってみたら凄い演奏になるかもしれない」

「でも、うまく弾けなかったら……」

「椥紗ちゃん、貴方は普通科なんだから、誰も上手く弾けるなんて期待していない。上手く弾けたら、みんなが驚くだけ。そう思ったら、やってみる気持ちになるかしら?」

和奈はかなり積極的で、椥紗を炊きつけようとする。椥紗は素直なところがあったから、それを挑発だとは思わずに、応援してくれているという風に受け取った。

「もしも、ピアノのアドバイス貰いたいんだったら、ReGで教えてくれる人を探してみればいいのよ。部活はもう入っているわけだし、個人的に何か教えてもらうみたいな方が良いわね。特別な能力のある人は、それを教わりたい生徒募集もしてるから、それを利用してみたら?」

積極的な和奈に促されて、椥紗はその場でReGを起動させることになった。そして、布引雫のレッスンを取り付けたのだった。

 ピアノ講師として仕事をすれば、その仕事をした分、Gpが貰える。それは教えた生徒から直接貰えるのではなくて、教えた生徒の満足度に応じてギュフの福利厚生課が評価して支払われる。ギュフの内部では充実した生活が送ることができるような工夫で、ギュフの社会をよりよくするために必要なものとして、利用する人が払っGpよりも支払われるGpのほうが多くなるようになっている。Gpは現金にすることもできる。けれども、Gpで貰う方が割が良いので、Gpで貰って雁湖の施設やギュフの商品を購入するのに使うのが賢い使い方になっている。個人でのGpのやりとりはできなくなっているので、貸し借りがある場合は、現金に換算して払うか、Gpを使えるところでおごるとか代わりに支払うとかそういう方法を使うしかない。

「何か教えることができる人って、良いですよね」

椥紗がため息をつきながらそう言ったので、和奈は軽い調子で返答した。

「芸術科の生徒は自分の持っている力で食べていくっていう覚悟をしているわけだからね。それに対して対価を払わないと、矜持を保っていくことが難しいでしょ。まぁ作品を作ってそれを評価してもらうことが大事なわけだけど、自分の持っている技術を教える事は自分の能力を把握する上でも、作品を知ってもらうネットワークを作る上でも悪くないものだからね」

「そういう難しいこともわからなくないんですけど、でも、同い年なのに教えられるって凄いじゃないですか。誰かに教えて対価が貰えるって」

椥紗がそういう姿勢は卑屈で、和奈には受け入れることが難しかった

「うーん。そうかしら。特別な技術っていっても、たかだか高校生が先生をしているだけだから、そんなに大したことはないわよ。対価が貰えるっていうなら、ReGで仕事してくれるアルバイトを募集してるし。そんなに自分を卑下することなんてないでしょ」

そう指摘されて、椥紗は黙った。

「まぁ、働くのに自信がないとかそういうのだったら、今度うちで、インターンシップすればいいのよ。社員用宿泊所あるし、同じ建物に寮もあるから、若い社員が助けてくれるわよ」

「でも……私、他の人と上手くやっていけるか分からないし、そもそも学校いけてないような人だから……」

「今、行けてるじゃない。何の問題もなくやってるじゃない。それでいいの。それが続けられるような教育をするのが学校よ。自分で生きていける人間にする。そのために働く事ができる機会も提供する。うちの会社はね、全ての人間を助けるなんてことは出来ないから、自分の会社の人間くらいは幸せにするっていうスタンス。私はこういうところに惹かれて続けてるんだけどさ。困ったところは、他の会社とかではやっていけない奴が結構いることかもしれないわね」

和奈は笑った。和奈は椥紗を勇気づけてくれる。和奈のように話を聞いてくれる場所があるというのは、一度上手くいかないという経験をした椥紗にとって大事なことだった。


 レッスンの日、練習室に行くと、既に布引雫が部屋で待っていた。扉の外からも中に人がいる気配がした。礼儀として、生徒が先に準備をして待っておくのは大事だというのは知っていたが、それができなかったことで椥紗は後ろめたい気持ちになった。先生の方に先に来てもらってしまったのは申し訳ないなと思いながら扉を開けると、雫は嬉しそうな、キラキラとした顔をして椥紗に話しかけた。

「篠塚さん?」

曇った顔を晴らしてくれるような雰囲気で、椥紗は迷う間もなく返事をした。

「はい、篠塚椥紗です」

「初めまして、芸術科1年の布引雫です。よろしくお願いいたします」

教わる生徒が遅れてくることで、もっと嫌そうな顔をされると思った。先生はそういうものだと思っていた。その椥紗の予想は良い意味で裏切られた。

「布引でも、雫でも好きなように呼んでください」

「あの、雫ちゃんはどうですか?」

「先生にちゃん付け……。えっと……」

雫は、椥紗の呼び方に面喰った。なめられているのだろうか。いや、そうではない気がする。中学校の時に海外の先生にレッスンを受けたが、その時は先生を呼び捨てにしたし、ちゃんづけというのも一つの個性の表出かもしれない。

 椥紗は、雫の顔が曇ったのを見て、フォローを試みた。

「あの、私の大事な先生は、春日ちゃんって言うんです。苗字にちゃんつけて、春日ちゃん。ちゃんって呼ぶことで近い存在な感じがして……」

「変な子」

雫は鋭い調子で言った。その言葉は椥紗に刺さった。けれどもすぐに雫はそれを癒す言葉を言った。

「でも、そういう子、好きよ」

最初のキラキラとした笑顔は、雫を一番よく見せる事ができる顔で、作ったものだということがすぐにわかった。はっきりと言いたいことを言うけれども、椥紗も雫のことが好きだと思った。

「じゃあ、椥紗でいい? 同級生だし、顔作って指導するっていうのも何か変だなって思うんだけど」

「はい、それがいいです」

椥紗が緊張した声で返答すると、雫は人差し指を振って「違う」というサインを送った。

「同級生って言ったでしょ。敬語禁止!」

「了解!」

椥紗は、敬礼をしてその言葉に応えた。


 珊瑚がリビングに向かうと、双葉が出掛けようとするところだった。

「どこに行くの?」

「買い出し。ちょっと時間があるうちに行っておこうかなって思って」

「瑞穂ショッピングモールまで行くの?」

「え、あ、うん」

「私も行くわ。連れて行きなさい」

口調も態度も強引で、双葉がそれに対して異を唱えるような間を与えてくれなかった。そもそも抵抗する気なんてなかったし、その申し出を素直に受け入れた。

 瑞穂ショッピングモールまではバスで行くのだけれども、札幌のように交通の便が良いわけではないから、(札幌でさえ東京や大阪といった大都市圏に比べると、不便なのだけれども)ちょっとしたお出かけに行くようなウキウキとした気持ちになる。

 雁湖の寮には売店もあるし、インターネットを使えばデリバリーだってできる。だから、何かが足りないとかそういうのではなくて、ただ理由もなくショッピングに行くという楽しさを味わいに行った。

「双葉はさ、都会から来たんでしょ。だったら、瑞穂ショッピングモールなんてつまらないんじゃないの?」

「そんなことないよ。買い物って行くたびに違うものだし、店も変わるし、同じ店でも服が変わったなとか、そういうので気分変わるでしょ。たくさんあることよりもそういうのが楽しいから」

「スーパーは毎日変わるじゃない」

「確かに。でも、私、スーパーはあまり興味がないんだよね。美味しいものを食べることは好きなんだけど、料理は苦手だから」

「意外。何でもできる片桐双葉だと思っていたのに……」

「模試の成績がいいから、何でもできるなんて思われてるけど、そんなことないよ。たまたま記憶力がいいだけ」

「卑屈なもの言いね」

「じゃあ、成績で誰かに負ける気はしないよ」

「……いうじゃない」

双葉や椥紗の居たところは、礼儀に厳しいところもあって、鼻持ちならないこととかをすると後ろ指を指されるようなところもあった。謙遜の文言として、「記憶力がいいだけ」なんて返すことが多いけれども、最初はちょっとした気遣いで、慣習的に自分を下げているだけの言葉だったのに、いつの間にかそれは卑屈な響きになっていた。

 能ある鷹は爪を隠すともいう。卑屈な態度をとるのは、相手を欺くために有効なありかたというのもある。でも、双葉と珊瑚は敵ではなくて、クラスメイトであり、同じ部屋に住んでいる仲間だ。

「言葉は言霊。声にして発すれば、それはより現実になる」

「……確かに」

「『信じろ』っていう強い言葉で強要する気はないけど……ありのままの双葉の方が私は好きだわ」

こんな熱のこもった言葉を発するつもりなんてなかった。珊瑚は、双葉が研鑽するヒジュツのことを聞いてみたいと考えていたというのもあって、ショッピングモール迄ついてきた。優秀な双葉は、いつも忙しそうで本音を聞くことができるような隙というか、暇がなかった。

 珊瑚は、双葉のことをおっとりとしているけれども、芯のあるお嬢さんという感じで見ていた。毎日トレーニングのために朝早くに家を出ていく。そんな生活をしているから、筋肉がついてくるし、健康的な身体つきになっていっていた。ヒジュツだとか、呪術だとか魔術だとかそういう科学では証明できない力について話を聞きたいという気持ちよりも、双葉自身について知りたいという気持ちの方が大きくなってきた。

「ねぇ、双葉。どうしてアンタは自分よりも椥紗のことを優先するような生き方をしてるの?」

「え、そんな風に見える?」

「……なんとなくだけど。双葉なら、別に雁湖に来る必要なんてなかったでしょ。優秀な片桐双葉は大学に行って、優秀な人材として社会で活躍する。そのライフコースを辿るのに、わざわざこんなところに来ることないじゃない」

「椥のことが好きだから、心配だから……これはきっかけに過ぎないよ。もっと自分を知るためには、ここに来たいって思ったの。ここならもっと良い風が吹いていそうだったから、実際にそうだったし」

「そんなに風って重要?」

「その言葉を珊瑚から聞くとは思わなかったな。考え方が変わった?」

「……変わったわけじゃないわ。でも、あのクソ狐に魔装銃に触るなって警告されてから考え方に揺らぎが出たかもしれない」

「……ヒジュツがそんなに大事だとは思えなくなったと?」

「興味があるのは単なる好奇心よ。その好奇心がなくなったというわけではないわ。上手く説明できないけれども、質が変わった」

双葉は珊瑚がヒジュツに対して強い興味があることは分かったけれども、双葉が把握している風や水の力を説明しても、珊瑚は感じられないみたいだし、どう説明をしたらいいのか、暫く考えた。そして問いかけた。

「ねぇ、珊瑚。風の力、水の力、火の力、土の力、その4つの名前でヒジュツのことを呼ぶけれども、じゃあ力を使う時に、それらは分けることができるのかなって。例えば、水は水蒸気になるでしょ。沸点が100℃で、その温度を境に違う力として扱うっていうわけではなくて、今目の前にあるものとしてそれを操る、その時にどういう力を使っているかなんて大体は直感的に判断してる」

「……そうよね。クーゲルが四元素と同じように風、水、火、土に分かれているからそういう風に捉えているだけで、異能力を使える人からすれば、その境界なんてないのは当然なのよ。クーゲルは、一つ一つどの力が装填できるかが決まっている。放つときにどんな頭の中でどんなイメージをするかで、発する力は変わるけど、どんな風に力が放たれるのかも、大体は決まってるんだと思う。そもそも、クーゲルに込められた分の力くらいしか出せない」

「けれども、講堂の演説会で珊瑚が放った力はそうじゃなかった。珊瑚は風の力を認識出来ない。それなのに強い風の力を放った。それはどうしてなのかなって思ってる」

双葉の顔が険しくなった。

 珊瑚はそれに上手く答えることが出来なくて、黙っていた。

「ヒジュツのことをちゃんと見つめるようになって、自分の力というのを意識する世になったの。自分にはどうしようもならないっていう時は颯に何とかしてもらおうと思ってた。颯は私の風だし、それも私の力だって思ってた」

双葉は一つ一つ噛み締めるように話をした。

「でも、颯を使わないという制約を受けて、自分の力という概念が変わったと思った。ヒジュツを使う、その時に最初は慣れている風が現れるんだけど、それは柔らかいの。自然の、現実の他のものにも影響されて、その形は自分の思ったようにならないってことはあるけど、自分の創造する力、ヒジュツに対して込める力で自分でコントロールすることが可能というのが分かった。最近は、水の力のことも分かるから、それを混ぜてみたり……。そういうのって、颯と離れているからやるんだよね。颯は、もう既に強い力、型のある風だから。どういう風を作るのか、操るのか、自分で何とかするしかない。そういう状況に置かれることで、力がどういうものか分かるようになってきた。ヒジュツってこういうことなんだなって」

「最近は水のことも分かるって言ってたけど、やっぱり主に使えるのは風なの?」

「そうだね。主に風だね。水の力も感じられるようになってるけど、それは、雁湖に来てからの話だよ。あまり時間が経ってないから、理解できていない、というか」

「分かるっていうのはどういう感覚? 風や水を操れるというのはどんな感じなの?」

「ヒジュツはね、2つの方法があるの。0から創り出す方法と、1から10に変化させる方法。0から創り出すためには大きなエネルギーが要る。1から10に変化させる、増幅させるほうのはエネルギーよりもコツがいるっていう感じかな。波長を合わせたり、そういうチューニングみたいなことに気を遣う。そう考えると、良いイメージができれば、エネルギーが自然に湧き出てくることもあるから、0から創り出す方が簡単だなって思うこともある。それは、ヒジュツに限らず、どんなことでもそうだよね、珊瑚や椥たちが立ち上げた射撃部もそうでしょ?」

「そもそも雁湖学院は新設校で、何もないじゃない。何かを踏襲するとかそういうのはないし、比較することはできないわよ」

「確かに」

「双葉の話に戻すけど、話を聞く限り、颯が随分怪しいじゃない」

「颯が怪しい?」

「そう、颯にとって都合のいいように双葉に力を与えていた。颯が双葉を導くことができるような存在だったということは、引っかかるわ」

「それを言うなら、珊瑚に魔装銃を与えた家族もそうじゃない? 颯と距離を取れと言ったのも、魔装銃を使うなと言ったのもりっちゃんなんだから、りっちゃんも疑わしいっていうことになっちゃう」

「……警戒するに越したことはないと思うけど。分かっているのに警戒しないのね」

珊瑚は双葉の知性を信頼していたから、丁寧な態度で確認を取った。

「それはそうなんだけど、ヒジュツを使う時は、信じる事が大事だから、難しいなって。少しでも疑いの気持ちがあれば、それは必ず力として反映される。試合でも試験でもあるでしょ。気持ちの問題って」

「まぁ、確かに」

珊瑚はしぶしぶ頷いた。


 布引雫のレッスンを終えた篠塚椥紗がスマホを見ると、メンターの冴山和奈からの連絡があることに気が付いた。そのまま夕飯を一緒に食べようという話になって、ギュフの社員のみが入ることのできるエリアのカフェテリアの雰囲気がいいから、そこで話をしようということになった。

 普段着を来ている人が多くて、時々スーツを来ている人がいる。和奈の考えだが、スーツの人はスーツがカッコいいと勘違いしている人か、永劫の人、そして、ギュフの店舗に勤めている人は、ギュフの服を身に着けて接客するとGpが貰えるから、あえてギュフの服を着ている人が多いらしい。でも、全然違うロリータ系のファッションだったり、和服を着ている人もいる。個性的な社員が多い職場だ。社員の同伴がなければ学生は入られないエリアだから、大人っぽくてお洒落な感じがするし、特別感がある。カフェテリアは空いていて、他の人からは少し離れたところの席に座った。

「大分いい表情してるね」

「そうですか?」

6時を回っているのに、まだ周りは薄暗くて、晩御飯らしくないなと思った。

「何だか良いことあった?」

「良いことはないですけど……悪いこともないです」

「落ち着いた顔をできているみたいでよかった」

和奈が、わざわざ連絡を取ってくれることを椥紗は嬉しいと思っている反面、またしんどい気持ちにならないかということもありそうで警戒していた。

 でも、しんどい気持ちになれば、助けてくれた、恐らく颯が人の姿をして現れるかもしれない。自分がしんどくなるというリスクを負ってでも、颯を見れるなら、それもアリだなと思っていた。椥紗は、あの時気持ちが悪くなった原因、椥紗の家が複雑な状態であるということに関して和奈がまた踏み込んでこないかなと思いながら、パスタのフォークを進めた。

「また、改めて聞くけどさ、自分のしんどい家庭環境、お父さんのこと、ゲイだって言いまわったってメモがあったよ。他の人にも聞こえるくらいそんなに大っぴらにしなければならないって、何かあったの?』」

(おお、来た来た来た)

椥紗は、その話を吹聴していた時の事を思い返した。その話は、織原謙人レオンと島田蒼佑に向けて話をしていて、まだ2人のことをあまり分かっていなかった。場所は寮のロビーホールで、ソファが幾つも置いてあるところ。椥紗の声は大きかったから、他の人に聞かれていてもおかしくないし、それこそビデオに声が録音されていたというのもあり得る。

 こんなことを聞かれてしまったら、中学校だと完全に仲間外れにされるのに、どうして、大声で話してしまったのか。正直自分でも分からない。馬鹿だろ、自分。

「えっとそれは……わかんない、です」

答えに戸惑っているが、和奈は前に具合が悪くなった時とは違うということを悟った。

「そっか。でも、今の様子だと、その時の椥紗ちゃん自身は、そういう態度に出た自分を何かおかしかったなって感じたってことだよね?」

(うん。そうですね。馬鹿だって思ったわけですからね)

「えっと、はい、そうです」

「じゃあ、それは、過去のこととして大分消化できてきたってことね」

「えっと……」

(そうではなくて、颯が来るような展開になってほしいんだけど……)

椥紗は和奈の質問よりも、颯のことが気になって、真面目に応えられるような心の状態ではなかった。

 和奈は、椥紗が全く違うことを考えているなんて考えてもいないだろう。和奈が颯という風どころか、魔法や風の力といったものがあることを信じてくれるかどうかも分からないし、その颯という風が、人間のような姿をして自分の元にやってきてくれることを望んでいるということを考えている。和奈は椥紗のことを真剣に考えてくれているにもかかわらずである。

「私はね、椥紗ちゃんがどういう家族の生まれだとか。そういうのはどうでもいいと思ってる。でも、家族は自分にとても近い存在だからさ。家族構成とか、そういうのでしんどくなったりとか、あるのかなって」

精神的に不安定になると、上手くいかないのは置かれている環境や境遇が悪いのではないかと考える。それはおかしなことじゃない。椥紗の心の中は冷静で平穏だった。

「多分、内地の私立の学校に行っていたからかなって。こっちに来てからは、殆ど雁湖で過ごしているから、昔からのしがらみとか、家の関係とかそういうのはなくて……。和奈さんと面談をしていて、気持ち悪くなってきたのもあって、心の中も穏やかではなくなっていて……」

「内地なんて言葉使うようになったんだ」

内地というのは北海道の人が北海道以外の地域のことを呼ぶときに使う言葉なのだけれども、自然な流れで椥紗はその言葉を使った。恐らく龍野理真美の影響が大きいだろう。

「友達が使っているの聞いていたら、積極的に使っていきたいなって」

穏やかに話しながらも、椥紗は頭の中ではもやもやとした気持ちになっていた。

(っていうかこの展開では絶対に颯こないやつ……。全然苦しくなる話にならないよ)

まゆをひそめていたのか、その気持ちは表情にも出ていて、和奈は優しい口調で言った。

「聞こえてる、椥紗ちゃん?」

「えっと、はい」

「聞いてた?」

「あの、聞いてないです」

(詰ってください。そして、私をしんどい気持ちにさせてください)

椥紗が期待するのとは反対の行動を和奈はとった。

「そっか。ごめんね。私……」

「そうじゃないんです。なんというのか、苦しくなりたくて……えっと……ですね」

「苦しくなりたい? 何で?」

「えっと、『苦しみと何か』を知りたくて」

「……それは、哲学的だね」

和奈には颯のことを話すことはできるような感じじゃなかった。和奈は、大人で、メンターで、しっかりとした感じの人だから、突然、剣と魔法のファンタジー世界の話を始めるような感じではないと思った。哲学という椥紗には馴染みが少ない難しそうな話になっていくのは予想外だったが、まぁ悪くはない感じで進んでいるようには思った。

 和奈は、箸を置いて真剣なまなざしで椥紗を見た。和奈がしてくれている話について、上の空になっていた椥紗に気付いていたし、思うところがあったのだろう。このまま話していて意味がないと考えた和奈は、話題を変えて椥紗のふわふわとした気持ちと向き合おうとした。

「じゃあ、もう少し私が思っていることを話すよ。あ、椥紗ちゃんはそのまま食べながらでいいよ」

和奈は、椥紗に気を遣ってそういってくれたんだろうけども、和奈が箸をおいたのに、自分だけ食べているのは何だか落ち着きがない感じがした。自分の中から溢れてくる興奮を伴ったような気持ち、それをちゃんと抑えて、和奈が伝えようとしていることを聞かないといけないような気がしたから、椥紗は同じようにフォークを置こうと思った。

 和奈はそのことに気が付いた。目の前に温かい食べ物があるわけで、それを美味しいうちに食べ終えてから何かをするのが順序というものだ。

「ごはん、食べてからにしようか。ちょっと難しい話だから、食べながらっていうのはできないなって思って」

言葉で説明すること以上に大切なことがある。それは伝えたいことがうまく伝わるような状況を作ることだ。相手がその言葉を受け取りやすい状況に置く。安心出来る心理状態を作り出すために、和奈は気を遣った。

 一方、椥紗はどちらかというと不安な状況になりたいと考えていた。椥紗は自分がどうこうよりも、颯に会いたいという気持ちが優っていた。颯は、椥紗が危機的な状況にならないと現れない。自分の不幸な境遇について正面から向き合うことで、心の中に鎮めていた汚泥のような感情が湧き上がってくれば、また呼吸困難のような症状が出るのではないか。そうすれば助けに来てくれるのではないかと考えていた。

 そんな椥紗の心のうちのことは何も知らず、和奈は冷静に話を始めた。

「なぜ椥紗ちゃんが『不幸な境遇を周りに言いふらす』っていう行動出たのかっていうことを問いかけた時に、椥紗ちゃんの不安を煽ってしまった。本当に申し訳なく思ってるわ」

「あ、はい」

これは流れ的に、椥紗の心の中が荒れることはなさそうな感じだ。

「私の推測なんだけど、椥紗ちゃんがちょっとした不幸自慢を始めてしまったのは、承認欲求が働いたからだと思うの。周りの反応がどうとかそういうのは分からないけど、やっぱりそれは特異な行動で、立ち止まって考えてみても良いと思うの。自分をさらけ出せるのは、弱みでもあるし、強みでもある。全ての出来事には正と負の面を持つ。当たり前のことなんだけどね。この行動がどういう可能性を持っているのか、危険性を持っているのか。そういう話をしておこうかなって」

(これ、絶対無理なやつだ)

和奈の話は聞いていたし、彼女の献身的な言葉は嬉しいと思っている。だけど、これは今じゃない。

「刺激の強い話だったかしら? とりあえず、椥紗ちゃんが学校で何がしたいのかという話をしたいな。自分の理想に向かっての筋道が立てられたら、もう少し落ち着いて物事を考えられると思うんだけど、どうかな?」

「間違ってはいないんです。でもね、何か足りない」

「何か?」

「そう、理路整然と考えるのは、確かに正しいかもしれない。でもそうだと何かが足りないんです」

「何か気になることがあったなって思ったら、記録を取っておいて……」

「違うんです。寧ろ混沌とかそういう系が欲しいんです」

「混沌……、それはどうして?」

椥紗は面倒くさくなってきて、顔を歪めた。

「えっとぉ……」

「そんな顔するならいいわよ。別に無理に話さなくても」

ひたすらお喋りを続けてくるのかと思いきや、突き放すような回答を貰って、椥紗は驚いた。

「分かりやすいわね。椥紗ちゃん」

「え、何が」

「全部顔に出るのね」

「出てます?」

「うん、出てる」

椥紗は恥ずかしくなって両手で頬を抑えた。

「話したくないなら、話さなくていいわよ」

「どうして、そんな風になったんですか?」

「え、そんな風って?」

椥紗が思ったことを口にすると、和奈は驚いた顔をした。

 話を振ってしまったものの、椥紗は上手く説明できなくて、言葉に詰まった。

「前よりグイグイな感じがなくなったっていうか。オシオシしなくなったっていうか」

「へぇ……そう見えてたんだ」

「えっと、あの、悪い意味じゃなくて……、私のために色々考えてくれていることは分かるんです。だから……」

「『悪いのは私』……。そう思わせていたなら、私がメンターとして失敗してるの」

「そうじゃなくて……」

「自分が何とかすれば物事が変わる。それは傲慢な考え方だよ、椥紗ちゃん」

「傲慢」

椥紗が険しい顔をすると、和奈はフッと笑った。

「そんな顔しないで。この前の面談の時、椥紗ちゃんの体調が悪くなっちゃったでしょ。それで、何がいけなかったんだろうって、私なりに考えたの。……考えたんだけど、言ったことは間違ってないよなって……。押しつけがましかった。正論だからといってそれが受け入れられるとは限らない。そう思った時にどうしたらいいのかなって考えて……。じゃあ、黙ろうって思った」

いつの間にか和奈の話に聞き入っていた。もう颯のことなんてどうでもいいと思った。それだけ、和奈が椥紗に真剣な眼差しを向けていてくれたし、それを素直に受けたいと思っていた。

「椥紗ちゃん、貴方が特殊な状況にあるのは確か。でも、それは、特殊なだけであって、それを良いように捉えられるか、悪いように捉えてしまうのかは、今の貴方の心の在り方なんだよね。自分の与えられた環境が悪く思えるなら、それは、今の貴方の心がしんどいってことなのかなって。色々考えたんだけどね。貴方の生まれ育った環境が私とは全然違うから、うまく力になれてるのか、ほんっと、結構お手上げ」

和奈は明るい調子で言ったけど、それは装っての明るさだった。

「じゃあ、和奈さんはどんな家で育ったんですか?」

「私?」

急に振られて戸惑う和奈に、椥紗は深くうなずいた。

「はい。どうして、和奈さんは、女性なのに男の人と同じ様に自立して生活しようって思ったんですか?」

和奈は自分より若い椥紗が女性も自立するということを特別に思っていることに面喰った。

 直接質問をぶつけて応えてもらうよりも、話をしていて、また一緒に過ごしていて見えてくる情報の方が相手を知るのに大事なものであることが多い。和奈は椥紗がリラックスして話ができることを心掛けながら、椥紗の考え方、意見を引き出そうとしていった。

「えっと、椥紗ちゃんの居た中学校って確か女子校だったわよね」

「はい。そうです」

「最近の女子校ってどんな感じなの? 私は、公立の共学でどんな感じか分からないんだけど。お金持ちの人が多いの? 言葉遣いとか、『ごきげんよう』とか。……それは偏見かな」

和奈は椥紗が話しやすいように盛ったような話をした。笑って否定してくれると思ったのだ。けれども、椥紗はそれを真剣な顔で受け止めた。

「どうなんだろう。……綺麗な子はたくさんいて、まぁ上品というか、お金持ちの子が多かったですね。良いもの、ブランドとか持っている人が結構いました」

「へぇ。でも、椥紗ちゃんって、ブランドものとかを持っているイメージないんだけど……」

「だから、合わないなっていうのもあったと思います」

和奈は頷いた。

「そもそもどうして中学校受験したの? 公立中学校に行こうと思わなかったの?」

「えっと、そもそも最初は、御祖父ちゃんの希望だったんです。お母さん、えっと、血縁上は叔母なんですけど、その時はお母さんだと思ってて、お母さんは御祖父ちゃんに助けてもらっていたから、まぁそこの話は聞いておかないといけないなって。結構アパートとか色々持ってて、それを経営してるので、御祖父ちゃんはお金持ちなんです。あんまり会ってないから知らないんですけど」

「会ってない御祖父ちゃんなのに、その希望に沿おうとしてたんだ。真面目だね。小学校の友達と一緒の中学校に行きたいとかなかったの?」

「……仲のいい友達とは中学校の学区が違っていたし、私の学区の方は苦手な子がいたから、あまり行きたくなかったんです。治安も悪いって言われてたし」

「治安が悪いって? どんな風に?」

「えっと、タバコ吸ってた人がいたとか。結構荒れてるとか」

「まぁ、そりゃあ、中学生でしょ。反抗期だし、タバコが身近にある人はそういうことするでしょうよ。まぁ、学校によるだろうけど」

「……そういうの、あんまり得意じゃなくて。違反しているような人たちが居る学校って嫌だなって。公立中学校は校舎も古いし、綺麗じゃなかったっていうのもあります。だから、もう中学校受験はするものなんだろうなって思ってて。あんまり知らないんですけど、中学校については、御祖父ちゃんの希望があって、それが期待されてるなら叶えないとなって……。でも、もっと考えるべきでしたよね。全然合ってなかったし」

「まぁ、それはそうかもね。でも、そこの学校に行っていなかったら、片桐さんには出会えてないでしょ? それに過去のことは過去のことだからね。その時は痛みがあったかもしれないけど、もうそろそろその痛みからは解放されたらいいんじゃないかしら」

「解放? 痛み……そういうの、あるかな」

和奈から投げかけられた言葉について暫く考えた後、椥紗は再び口を開いた。

「……痛みとかそういうのもないですよ。パパが突然やってきて、色んな話をしてくれて、……ああ、これは私、いじめを受けてたんだって分かって……。本当に大したことないんです。グループにいるのにいつも一人ぼっち。不思議なんですよ。それでも仲間だって。私のこと見下していたのに。そういうものだったから……そうなんだって、勝手に納得して……。そういう風に過ごしていたんだけど、それがおかしいっていうことを、パパは突然やってきて諭しだしたんです。変だったけど、確かにそうだなって……」

椥紗ははにかみながら言った。

 それを聞いた和奈は冷静に話を確認しながら言った。

「まず、椥紗ちゃんは女子校のお友達グループに所属しているにもかかわらずそのグループの中で仲間外れを食らっていた。それがおかしいということを、突然やってきたパパに指摘された。それ、パパがおかしくない? なぁんで突然やってきたの?」

「なんで……、本当のことを教えるため?」

「本当のことって?」

「私がお母さんの娘ではなくて、本当はパパの娘だったってことを伝えるため」

「……唐突にそんな暴露ってあるものなの? 何かきっかけとかなかった?」

「きっかけ?」

「そう、どういう所でその話を教えてもらったのかとか」

「それは確か、御祖父ちゃんのお葬式で……。その時に、初めて……」

椥紗は覚えていることを言葉にしながら、その時のことを思い返した。


 祖父が亡くなったのは突然だった。死因は脳卒中だった。高血圧とか、そういう持病はちょっとあったけど、とても元気な御祖父ちゃんだった。前時代的な考え方をしていて、椥紗のお母さん、篠塚有佐はそれを我慢しているというところもあった。有佐は美術大学を卒業していて、デザイン会社に就職した。けれども、椥紗が居て、母子家庭で育てるというのは仕事を続けるという点でも、金銭的な面でも大変で、家の仕事を選ばざるを得なかった。

 椥紗の本当の父親、祥悟は、父親、即ち椥紗の祖父のことを随分と毛嫌いしていて、椥紗が初めて祥悟に出会ったのは、祖父の葬式だった。一度も会ったことがないのに、椥紗は彼の事を知っていた。彼は、テレビによく出ている人だったから。


 椥紗は分かることを一つ一つ絞り出していった。

「えっと、情報量が多すぎたんですよ。母子家庭だけど、母親と思ってた人は本当の母親じゃないし。父親だっていう人は、テレビでゲイだってカミングアウトしてる人だし。イケメンだから、そりゃあ、嬉しいですけど、ゲイなのに何で私、生まれてるの?じゃないですか? 理科で習いましたけど、男性の染色体がXYで女性の染色体がXXだから、男性同士の遺伝子を掛け合わせて、女性が生まれることは可能だと思うんですけど、じゃあ、どうやって性交渉したの?じゃないですか。男性に子宮はないし、そういうことをどう捉えて良いのかとか……全然、わかんなくて」

混乱して、話が止まらなくなる椥紗を和奈は思わずぎゅっと抱きしめた。

「大丈夫。そういうの、別に知らなくても、大丈夫だから」

「でも、知りたいの。だって、わけわからなくて」

「それも分かる。でも、今じゃないのかも。こんなにしんどそうにしている椥紗ちゃん、見てらんないから、少しずつ知っていってくれたらいいのかな……って」

和奈は、椥紗を真剣に見つめてなだめてくれた。不思議なことに椥紗の心は自然と落ち着いていった。

 和奈はただの他人なのに、椥紗に寄り添ってくれる。一応メンターっていう役割だから、椥紗の傍に居てくれているということなんだけど、多分椥紗に触れている和奈の手が温かいと感じるのは、その役割だからではない。椥紗の呼吸が落ち着いたのを確認して、和奈は笑った。

「今日はこれくらいにしとこうか? もっと色々話したいけど」

「……色々ってどんなことですか?」

「何でも。椥紗ちゃんが心の中に閉まっていること。椥紗ちゃん、抱えていること多すぎるんだもの。だから、何か一個くらい荷物持てるなら持ちたいなって」

和奈が椥紗のことを想って言った事に対して、椥紗は抵抗を示した。

「……それって、ちょっと嫌だなって」

「え、何が?」

「上から目線的な感じを……。持てるなら持ちたいって……和奈さんの方が余裕があるって言っているっていうか。……でも、年齢も立場も和奈さんの方が上だし。それは当たり前なのかもしれない。けど、何かムカムカって……」

「ムカムカするんだ」

「うん、そうです。何かやだなって」

「確かに、上から目線に聞こえたといわれたらそうだね。……の割には冷静だね。凄いね」

「だって今ここで癇癪起こしたらカッコ悪いじゃないですか」

「まぁ、確かにそうだけど、すごいよ。それだけ自制効かせられるってことか。凄い能力」

会話をしているうちに、和奈の口調が砕けてきて、それが気持ちいいと椥紗は思った。何度も言葉を交わしているうちに、そこから感情だとか人となりだとかが漏れてきて、それを浴びていると、自分の中の固まっているものが溶けていくような感じがする。それは、固まっているままのほうが良いものなんだと思う。椥紗が良い人間であるために固めた要らない感情の塊……だけど、どこかで溶かしていかないと椥紗自身が固められてしまいそう。

「ねぇ、椥紗ちゃん。これは私の勝手な解釈だけど、貴方は家を出て正解だったと思うわ。家族のことは家族のこと。別に気にする必要なんてない」

「そう思えたらカッコいいですけど、私、そんな風に割り切れないんです」

相手を困らせるような台詞だと分かっているのに、止められない。和奈はそれをものともせず応える。

「……そう思えるように自立したらいいのよ。確かに理想なのは、男がいて、女がいて、その双方が愛し合って、子供が生まれる。そして親と子供は愛し合っている。そういうのなんだろうけど、それは所詮理想なのよ。全ての人が愛されて生まれてくるわけじゃない。私は普通の家だったけど、だからといって不満がなかったわけじゃないわ。別に両親とうまくいっていたわけじゃないし、両親だって上手くいっていたわけじゃない。結構喧嘩してたし、それが子供としてしんどいなって思うこと、よくあった。そんなに裕福じゃない普通の家だったし、早く出て行って正解だった。自由に使えるお金を自分で稼げる。だから、ここで働いてる。ただそれだけ」

「喧嘩してたとかあっても、普通なら、いいじゃないですか」

「そうでもないわよ。普通というのは、一見普通っていうだけで、色んな感情が蠢いていることはそこで暮らしてみないと分からないわ。他人からは、理想であるように繕ってる。……人間って大体、そんなもんじゃない」

やさぐれた雰囲気で話す和奈には、説得力があった。そして、初めて会った時に真摯な姿を見せていた和奈よりも今の和奈の方が椥紗に合っていた。

「いい結婚相手を見つけて、それで食うに困らない生活を続ける。それも女が生きていくための一つの生き方ね。でも、それは私には合わない。自分で稼いで食うに困らない生活を続ける。誰の束縛も受けないで済むのは、とてもいいわよ」

和奈の言うことは、説得力がある。だって、それはいつも聞かされていた言葉と殆ど同じだったから……。



 春日伊織は椥紗が小さい頃から、祖父が代表を務める会社で働いていた。その彼女がいつも口酸っぱく言っていたのが、自分で稼げるようになれ、ということだった。

「……でも、それって、人並みの普通の幸せってことですよね」

「確かに、そうだけど。それが幸せなんじゃない?」

「……そうなのかな。何か、引っかかるんですよね」

「何が?」

「人並みの幸せって、本当に普通に得られるものなのかなって。日本の人並みの幸せってことですか、とかって……。昔、お祖父ちゃんの知り合いの人が来た時に、戦争のこととかそういう話をしたんだけど……そういう戦争の時の大変だった時の事とかのことを聞いて、今は恵まれてるって……。うちのお祖母ちゃんは、戦後生まれの人だから、御祖父ちゃんのことはよくわからないみたいで、それでも今よりは全然貧しい暮らしで、今あるものを当たり前にあるなんて思わないことだよとかそういうのは言われてきたんだけど、でも、なんだか今がその昔よりも恵まれているとはちょっと思えなくて。何か私はおかしいのかなって……」

和奈は、椥紗の頭の回転の速さに驚くと同時に、それが椥紗を苦しめている原因であるということを察していたから、椥紗が静止するように強い調子で言った。

「そこまで考えたらしんどいでしょ」

「しんどいけど、でも考えないといけないことだと思うんです」

これは止められないな。ただ静観するしかないなとも思った。椥紗の力というのは、良くも悪くも大きくて、何か物事を起こすには良い働きをするけれども、周りが止められないくらいの力で暴走を始める。和奈には椥紗を止められるような力はなかったから、それに異議を唱えることは出来なかった。

「じゃあ、椥紗ちゃん、貴方は、私にどうしてほしいって思う?」

「え」

「何だかね、話を聞いていて、これ、全然ついていけないやつだなって思った。何もアドバイスできないっていうか……。私は普通に満足してるというか、普通が続けばいいと思っている。普通を作るのだって簡単じゃないし。だから、そのままでいいって思っちゃってる」

和奈は椥紗を突き放すように、でも優しい眼差しを向けて言った。

「椥紗ちゃんみたいに大きな世界を見れること、俯瞰できることは、カッコいいなとは思う。でも、絶対についていけない。ついていきたくないもの。私にはどうすることのできないものだから。私の世界は上手く回っているけど、大きな世界はそうじゃない。そんなものは、私とは遠い世界。無責任だけど、そう思うのが一番なのよ。私は、私を守るのに精一杯だから。……苦しいでしょ? そんなに大きな世界を見てしまったら」

「……苦しいです。だけど、それが私なのも知ってます。パパが、普通にパパとして居てくれないこと。お母さんはお母さんじゃないし、嘘つきな家族で生きてきたこと」

椥紗が目を赤くして、泣き出しそうな顔をしていたから、和奈は椥紗を抱きしめて、頭を二度撫でた。椥紗の呼吸が少し穏やかになった。和奈は椥紗の顔を見て微笑んだ。

「だから見えてしまう。……でも、そんなに不幸でもないのよね。私なんかよりお金持ちのお家で幸せな生活をしているように見えるわよ。色々複雑みたいだけど、私にはなかったものを椥紗ちゃんは持ってる。椥紗ちゃんは特別。だから、他の人にはない痛みがあるんじゃないかな。苦しいよね。だけどね、きっと、それは必要な痛みなんだと思う。いつか分かるんだよ、きっと」

不思議だ。この言葉は、前にも聞いた。話を聞いてくれる人は同じように接してくれる。春日伊織もそうしてくれる。

「もしも椥紗が何かを成そうと思った時は、……そうだな、私は何もできないかな。でも、まぁ、いつも通り、身の回りの世話はできるかもな。私は、椥紗が精一杯仕事できるように、支えられる人になるよ。何も理解してあげられないけれども」

和奈の優しさが、頭の中に伊織の姿を過ぎらせた。椥紗には、支えてくれる人がいる。何も心配することなんてない。


 和奈と別れて、部屋に戻ろうとする時には、もう空は真っ暗で、幾つか星が見えていた。雁湖は空気が澄んでいるので、都会よりも空が良く見える。

「困ったな。全然颯に会えるような感じじゃなくなっちゃったよ……。会いたいんだけどな……」

危機的なことが起こっても、誰かが助けてくれる。そんな力がここにはある。高校生として勉強すること、射撃部の部長、そして桜桃の選挙応援を手伝ってピアノ伴奏を弾くこと。挑戦できる時間や心の余裕がある。椥紗はそう確信できた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ