水の物語 4.Stand up
4.Stand up
葛西桜桃は、札幌の知り合いの家にいた。天候が悪くて神威島から船が運航休止になり、それに伴いヴァイオリンを持ってきてくれる人の到着が遅れるためだった。札幌には、泊めてくれる姉のような存在が居たから、その決して広くないワンルームの部屋に桜桃は転がり込んでいた。
ギュフの店舗に行けば、Wi-Fiのある環境で授業が受けられるから、札幌にしばらくいても、支障はない。そもそも今まで時差のあるところで授業を受けていたわけだから、それに比べれば随分環境は良くなった。ビデオ録画でなく、全てオンタイムで受けられるし、ギュフの店舗では店員が声をかけてくれるし、可愛がってくれる。
泊めてくれている姉のような存在は、市川なずなという。なずなは、神威島の顔なじみで、島田蒼佑のことも良く知っている。大学に通っているのだが、勉強よりもバイトに熱心になっているようだ。
「札幌で待たずに、雁湖に戻ったらいいのに」
「往復するのしんどい」
「蒼ちゃんは毎日帰ってるんでしょ」
「そりゃあ、なずちゃんの所には泊まれないっしょ。だからしゃーなし」
「ああ、ちゃんと桜桃も女として、わきまえられるようになったんだ、偉い偉い」
そういって桜桃の頭をポンポンと叩いた。なずなは、桜桃を馬鹿にしてくるけれども、嫌な気はしていなかった。桜桃はなずなに気を許しているし、なずなの所にいるとリラックスできる。神威島の医者と看護師の家の一人っ子として生まれて、周りの人たちにも期待されながら生きてきた桜桃の大事な避難所みないな人だった。「先生の娘なんだから、先生の跡を継いでくれるはずだ」「優秀なのは当然だ」。桜桃に対する周りの人からの目は、同世代の他の友達へのものとは違っていて、それに応えなければと思う自分がいた。
「……ヴァイオリン、弾く気になったんだね。イギリスに行く前は、辞めようかな、なんて言ってたのに」
なずなが、からかうような口調で言うと、桜桃はちょっと恥ずかしそうに顔を下に向けて話した。
「……小さいころから、頑張って練習したしね」
わざわざ自分の楽器であるラック君を持ってきてもらいたいと思ったのは、蒼佑に演奏を褒めてもらったからだ。
「確かにね。でも、桜桃って辛そうに弾くときがあるから、そんな風に弾くならやめてほしいなとは思ってたけどね。演奏するのが辛いなら、やめた方がいいんじゃないか、って」
自分以上に周りは色々なことを見てくれている。
「演奏することを前向きに捉えているなら、応援しようかね。私は、桜桃の演奏、嫌いじゃないからね」
好きではなくて、嫌いじゃないという殊勝な言葉を用いるところが、なずなの包容力を示している。優秀な両親よりも、なずなと一緒にいる方が桜桃は落ち着くのだ。
「明日、うちの母さんがラック君と一緒に来るから、桜桃は雁湖に帰るんだよ」
そう言われて桜桃は驚いた顔をした。
「うちの母さん、ここに泊まるんだって、日帰りはできないでしょ。だから、今夜は桜桃が泊まれる場所ないんだ。ごめんね」
「えっと、そうだよね」
桜桃は聞き分けがよくて、自分がどういう行動を取るべきなのかということを導き出した。
「じゃあ、今日荷物纏めて……」
広がっている荷物を見て、桜桃はきまりの悪い顔をした。
「シーツとか、どうしよう」
「ああ、そうだね。母さん、桜桃の使った布団とかでもそんなに気にしないとは思うんだけど……」
「コインランドリー行ってくる」
ギュフの店舗でオンラインで授業受けて、終わったら洗濯して、荷物を取って、これなら札幌から雁湖に行く最終便なら間に合うはず……。
「洗濯は母さんがやるから大丈夫だよ。朝一でやって干しておけば結構乾くし、無理だったら、コインランドリーの乾燥機使うから」
桜桃は周りをよく見ていて、気配りができる。その分気疲れもする。なずなはそういう桜桃のことを知っているから、良い合いの手を差し伸べてくれる。
なずなは、一通りの料理を作ることができたから、桜桃にご飯を作ってくれた。晩御飯はカレーライスで、材料は玉ねぎと人参とじゃがいもと豚肉と市販のルーでその箱に書かれた作り方の通りに作ったものだったのだけれども、桜桃は大喜びをした。
「うん。やっぱり日本のご飯は美味しい」
「そんなに喜んでくれるんだったら、作りがいがあるな」
なずなもニコニコと笑っていた。桜桃の言葉は演技でもなんでもなく、思っていることそのままだった。イギリスのご飯はまずいわけではないけれども、あまり身体に合っていなかった。白米の味が違うし、和食はまず食べられない。寿司もあるけれども、想定しているような寿司じゃないし、美味しいものは値が張る。中華料理のお店に入れば、アジア的な、口に合う物が食べられたりしたけれども、母親の料理の優るものはなかった。
カレーのルーは、アジアショップやジャパンショップのような店に行けば売っていたけれども、値が張る。日本の食品を置いている全ての店を探しても、見つかるのはせいぜい3種類程度だろうか。醤油は普通のスーパーでもキッコーマンはおいてあるけれども、高い。真空パックに入った醤油なんて売ってるわけがない。アジアショップにはsoy sauceという名前でどこの国で生産されたのかよく分からないようなものもあったので買ってみたが、安いけれども、期待していたような味ではなかった。
イギリスには様々な日本食がある。インスタントラーメンもあるし、米も寿司用の日本米らしいものもある。日本の価格と比べると高いし、値段の割にあまりおいしそうではないものもある。納豆は日本の納豆を冷凍したものが売っていて、冷蔵庫で解凍すれば納豆なのだけれども、やはり値段が高かった。
そもそも北海道は食料自給率が100パーセントを越えていて、食べ物がおいしい。
「蒼ちゃんの方が美味しいもの作るでしょ。アイツ、料理は得意だから」
「蒼佑は蒼佑。なずちゃんはなずちゃん」
なずちゃん。なずなの呼び名を口にして、桜桃は「なぎさちゃん」と呼ばれていた少女のことを思い出した。桜桃のヴァイオリンの演奏を罵倒した少女のことだ。
「なずちゃんをなずちゃんって呼ぶようになったのは、なぎさちゃんがいたからだよね。その子をなっちゃんって呼んでたような……。覚えてる?」
「ああ、なんか居たような気がする。すぐいなくなった子でしょ?」
「うん」
「もうほとんど覚えてないけど……。その子がどうしたの?」
そのなぎさちゃんのせいで、桜桃はヴァイオリンを弾くことを躊躇するようになった。だけどそのことをわざわざ話す必要もないと思って、首を横に振った。
「ううん。なんでもない。覚えてるかなと思っただけ」
何か思わせぶりなことを言って、曖昧なまま終わらせるということは今までに何度かあった。だから、なずなは追求しなかった。桜桃は、踏み込まれたくないと思っている。そう、なずなは悟ったのだった。
翌日、桜桃は前日と同じようになずなの家から一番近いギュフの店舗に向かった。ショッピングモールの店舗だと朝九時より前に入ることが難しいので、独立店舗になっているところに行くようにメンターと打ち合わせている。だから、桜桃がどこに居るのかをメンターを通じて、他の生徒も知ることができた。
「おっす」
「おはよう。蒼佑。バイト?」
「いや、お前を探しに来た。全然帰ってきていないみたいって心配してたぞ」
「誰が」
「篠塚椥紗が」
「……そうなんだ。大丈夫だよ。今日帰るから」
何だかムカついて、桜桃は不機嫌そうに尋ねた。
「バイトのついででしょ?」
「違うって言っただろ」
「怒ってる?」
「怒ってねーよ」
「蒼佑は授業受けるの?」
「ああ、受けるさ。お前な、何でそんなに態度悪いの?」
「いつも通りだよ。荷物来ないし、思ったよりも札幌滞在が長引いてるから」
「……嫌だったら帰ればいいじゃねぇか、日帰りできるわけだし」
「え~。バス長いじゃん」
道路状況がよければ、自家用車で2時間かからないぐらいの距離だが、バスとなると2時間半近くかかってしまう。往復5時間になると、日帰りは可能だがバスが好きじゃないと厳しい距離ではある。
「ほんっと、よく何度も往復できるよね……」
嫌味のような言葉を言うと、蒼佑は1枚の紙を桜桃に突き出した。
「これ、気になるかも知れねぇと思って、渡しに来た。桜桃もやればいいんじゃねぇかと思って……」
生徒会選挙。5月15日18:00~ライブ、録画翌日以降アップロード。詳細は書かれていないが、QRコードが添えられていて、それで視聴しろということだ。即ち、今日の夜6時から、選挙に関する情報が公開される。
「どうして私に?」
「いや、お前、親の都合で途中からの入学になっただろ。お前、部活に入るっていうよりは、作りたい側だろうから、合うかなって思って」
「……ありがと」
蒼佑は桜桃のことをよく知っている。蒼佑もなずなのように桜桃の事を気遣ってくれるし、甘えさせてくれる。でも、桜桃は誰かに甘えるような人間になりたいのではなくて、しっかりとした自立した人間になりたい。女だからといって専業主婦になるなんていう考えはないし、桜桃の母親は看護師として、父親の診療所で働いているから、結婚を目標にして勉強をしないという選択肢もない。医者の一人娘だから、看護師ではなく医者になることを期待されているし、父親の跡を継いで、島の医療をリードしてほしいとも言われている。
その期待は嬉しい。でも違和感がある。与えられたレールの上を進んでいくみたいだし、自分に理想としない自分を目指しているような感じがする。良い子、賢い子、真面目で素直な子、そうなるように求められているのもわかるし、そのレールに乗っかろうとするけれども、そうなりたい自分は居ない。カッコいいと思えない。だからといって不良になりたいわけではないけど、自分ではない何かになりたいと思っている自分がいるのだ。
蒼佑から勧められたことを素直にやるというのも乗り気ではなかった。自分で自分のやりたいことは見つけたいし、指示されるのは苦手だ。でも、蒼佑はそんな桜桃のことも知っている。それを分かっていて桜桃にこのビラを渡したのだから、無下にすることもないだろう。
気を回したものの、泊まらせてもらっていたなずなの家の片づけはしなくてもいいことになったし、なずなが母親からヴァイオリンを受け取って、雁湖に向かうバス停まで持ってきてくれることになった。なずなの母親は、札幌の友達と遊びに行くついでにヴァイオリンのラック君を持ってきてくれたのだ。
「桜桃、ラック君持ってきたよ」
「なずちゃん、ありがとう」
「予定、何度も変更したからね。母さん、ちょっと機嫌悪かった。天気だからどうしようもないのにね」
「……だよね。どうしようもならないんだけどね」
いくら仲が良いと言っても、なずなのワンルームマンションで少し気を張りながら過ごして、桜桃はストレスを溜めていた。そして、蒼佑に対しての態度がきつくなっていた。
(……謝ったほうがいいよね)
そのことを反省しながら、なずなからヴァイオリンケースを受け取った。
「久しぶり、ラック君」
気持ちが沈んでいたが、彼に再会できると桜桃の表情が変わった。桜桃はケースを撫でて、愛おしそうに抱きかかえた。数日分の洗濯物などが入っていたスーツケースは、先に雁湖に戻った蒼佑が持って行ってくれていたから、桜桃は身軽だった。
「じゃあ、蒼ちゃんによろしくね」
「うん伝えとく」
桜桃はバスの段に上がって、二人掛けに座り横にヴァイオリンケースを置いた。
ラック君が傍にいることは、桜桃にとっては心強いことだった。バスにはWi-Fiがあったから、スマホのネットワークを変更しようとしたが、自動的にバスのものに変わっていた。
「こんにちは、雁湖の生徒だよね」
「あ、はい」
後ろから声をかけられて、桜桃は驚いたが嫌な気はしなかった。
「生徒会選挙の説明についてのライブ中継見るよね?」
時間は五時半を回ったぐらいだったから、ライブをバスで視聴することになる。蒼佑が勧めてくれたわけだし、見た方がいいとは思ったけれども、見る気は66パーセントくらいだった。話しかけてきた生徒は、問いかけてきたのだけれども、Wi-Fiをうまくつなげられないみたいで、桜桃の返答を待っているわけではなかった。
「うまく繋がらないと、見れないんだけど、どうしよう」
「タブレットなら繋がるんじゃない? 無理だったら、一緒に見ようよ」
「ありがとう」
見る気満々でもないのに、流されてしまったような気がする。でも、悪くないなと思った。
「私、龍野理真美。あなたは?」
「葛西桜桃……です」
「ああ、蒼佑の妹…みたいな?」
「あ、そうです。ホントの妹じゃないけど」
「だよね。全然顔似てないもん」
桜桃にとって蒼佑は、兄のような存在だ。男らしくて強そうな、むさくるしい顔をしているし、家族だと思っている。付き合っているのかどうかを聞くような牽制球のような言葉でもあったけれども、桜桃はそういう風には捉えなかった。
「私ね、生徒会入りたいなって思ってるんだ」
理真美は可愛い顔をしていて、おとなしそうなひとだと桜桃は思っていた。だから、人の前に立って何かをやっていくというのは意外に見えた。
「……意識、高いんですね」
「意識? そう見えるんだ」
その言葉から、野心のような、大志と言うと大袈裟になるような秘めているものが見えた。
「ほら、始まるよ。ガイダンス、見ようよ」
黙っている桜桃をつついて、理真美は動画を見るように促した。
そもそも桜桃は車酔いをする方だし、最初は頑張って見ようとしたけれども、すぐに気持ちが悪くなって、動画を見るのを諦めた。理真美は、メモを取りながらその動画を見ていて、それを見ているだけでも更に車酔いが酷くなりそうだったから、目を閉じてイヤホンで選挙の詳細について聞くことにした。
雁湖学院は、見切り発車のようなところがあって、ギュフのCEOの椎野真生が学校の理事長であり、校長でもあるという体制で始まっている。民主主義的な組織であるためには、組織内における権力を分散させるべきだということは分かっているが、与えられた条件の中で運営していかなければならないため、より効率的な椎野真生からのトップダウン方式を取っている。即ち、彼のやりたい放題が可能という状況なのだが、真生自身ではなく、どちらかというと周りがそういう体制を取るように仕向けていた。
メイ・ノーラン、ピクシー、柊の三人は、真生の腹心であると同時に彼が暴走しないためのストッパー、冷静な知性でもある。彼らの名前は表向きには出てこないが、真生を良く知る人々はその存在を知っている。実質上、ワンマンではなく、チームワーク、これが、ギュフとその学校である雁湖学院の特徴であり、強みである。
ガイダンスの説明に現れたのは、勿論、椎野真生で、燕尾服にシルクハットという恭しい正装で現れた。ヨーロッパ系の輪郭のはっきりした顔と、手足の長い容姿が生える格好で、目を引くものだった。生徒会選挙という行事に対する彼の敬意の表れではあったが、それは、コスプレのようにも見えた。真生の考えでは、interestingな生徒会選挙というコンセプトだが、interestingの訳語は面白いで、この2つの言葉の間には知的レベルにおける差を感じさせる。面白いという言葉からは、エンターテイメントであったり目を引くことを意味していて、真生の意図する演出がうまく見ている人に伝わらないような趣向になっていた。
ネットでライブ放送されているのは、観客のいる雁湖学院の講堂で、その観客の動揺がイヤホンを通しても分かる。そして、理真美が驚いた表情をした後、吹き出す様に笑っていた。
(気持ち悪い~~)
何が起こっているのか、確認したいと思ったけれども、画面を見るような余裕はない。げっそりと座席でうなだれている桜桃を見て、理真美は言った。
「大丈夫。あとで、詳細は教えるから」
「うん……」
理真美は優しく桜桃の背中を何度かさすってくれた。良い人だなと桜桃は思った。
選挙は、二段階制で行われ。生徒会に入るクラス代表を1名決定し、そのクラス代表を生徒会長の立候補者として、学校全体で選挙を行う。投票権を持っているのは雁湖学院の生徒のみで、専攻科に関わらず全員が平等に1票を持っているという形式である。
5月31日がクラス代表決定日、6月1日が立候補者公示日、6月15日は選挙の日。選挙の日には、最終PRが行われ即日開票という流れだ。生徒会は、各クラスの意見を集約できる機関であるようにするため、クラス代表は自動的に生徒会役員になる。そして、選挙の日の投票で1位を獲得した生徒が生徒会長、2位になった生徒が副会長になる。会計や書記といった担当する仕事にまつわる役職については、選挙ではなくその後の生徒会の会議で決める。部活や委員会など、生徒らによる団体・グループの意見をどのようにくみ上げるのか、選挙を経ずに生徒会に入りたいという生徒をどのように入会させるのかといった議題もある。生徒会の仕組みそのものを作っていくという作業があるのだが、生徒会長には、他の生徒会メンバーよりも強い権限があって、生徒の意見を強引に纏めることもできるし、理事長とも対等に話し合いをする事ができる。
桜桃は権限とかそういうものにはあまり興味がない。代表とか会長とか部長とか、そういうグループを纏めるような役割には興味があって、活動を通じてリーダーシップとかそういう力を発揮出来たら良いだろうなと思っていた。具体的に何かやりたいということがあるわけではないから、積極的に立候補とかができるような勇気はないけれども、彼女なりの野心を抱いていたのだった。
桜桃は看護師か医者になって神威島の診療所を支える。そういうものだと思っていた。桜桃の父親は、都会で生まれ育った人だったけれども、葛西家のルーツがある神威島に戻るという選択をした。そもそものきっかけは、世界の第一線での研究に携わっていた矜持もあって、総合病院という大きな組織の中での自分自身の置かれている環境に耐えられなくなったというネガティブなものだったけれども、島の人たちはそんなことを気にせず歓迎してくれた。島に対して縁のある人間が、医者として、そしてその妻は看護師として島の人々を助けてくれる。そのような人間を島の人々が受け入れないはずがない。お互いにWin-Winの関係でうまくいった。ただそれだけの話なのだけれども、周りの大人たちはよくこんなことを言っていた。島の人たちに受け入れたという恩は決して忘れてはいけない。
ずっと島にいたら、新しい技術についていくことは到底できない。新しいものを取り入れていかないと、現在の医療技術で治るはずの病気はいつまでも治らない不治の病のままになってしまう。桜桃の父は大学の研究室の教授のつてで推薦があってイギリスで短期間の研修を受けることができたが、それは幸運だったと言えるだろう。
(勉強して、資格を取ったら島に戻るだけなのに、どうして頑張るの?)
体調が悪いと嫌な考えが浮かんでくるものだ。生徒会選挙に立候補を考えようとする桜桃を邪魔する思考が湧き上がってきた。そして、ライブ放送の内容は全く頭に入ってこなくなった。
「私、ヴァイオリン、嫌い」
昔、桜桃対して放たれたなぎさちゃんの声が頭の中に響いた。
「でも、私は好き……」
ケースに入ったヴァイオリンのラック君を抱きしめて、桜桃はブツブツと唱えた。
「大丈夫、私は君が大好きだから。大丈夫、私はあなたが好きだから」
血の気が引いたような顔になっていた桜桃の背中を理真美は、チョンと突いた。桜桃は驚いて、大きく息をのんだ。
「もう、ライブ終わったよ。大丈夫?」
「……う…ん」
理真美の声で、桜桃は現実に戻ることができたように思った。
(助かった……)
内心ではひやひやものだったが、桜桃は冷静を装い、ただ車酔いで気持ちが悪いふりをした。理真美は桜桃の落ちそうになっていたタブレットを指さして、落ち着いた声で注意を促した。
「もうライブ終わったよ。危ないからタブレット、片付けた方が良いよ」
言われるままに桜桃はタブレットをカバンに入れて、ヴァイオリンケースに腕を回して、手で頭を支えて目を閉じた。
バスが雁湖学院の寮のバス停に着いたときには、辺りは真っ暗だった。あまりにも気持ち悪くて、椅子から立ち上がるのが精一杯だったけれども、ヴァイオリンケースに入っているラック君は絶対に手放さないと頑なに決めて立った。頭がぐらぐらしている。理真美は桜桃を気遣ってくれて、スーツケースの荷物をバスから降ろすのを手伝ってくれた。
降りた後は、バス停のベンチに崩れ込み、スマホを探した。
「大丈夫?」
「うん。助け、呼ぶから。先に行って」
自分が弱っているところを、あまり知らない人に見られたくなかった。理真美のことは好きだ。だからこそ、格好の悪い自分を見せたくないと桜桃は思った。
「もしもし、今、バス停。迎えに来て……」
桜桃は電話をした。すぐに蒼佑は来てくれた。
蒼佑の姿を見ると、安心した。そして、不思議なことに桜桃から頭痛が消えていくのが分かった。
「遅い」
あえて不機嫌な言葉をかけると、蒼佑は桜桃の顔を見て笑みを浮かべた。
「じゃ、大丈夫ってことだな」
「……うん、治った……」
車酔いだけじゃなくて、違うものにも当てられた気がする。
(車酔いしてたのに、動画見たから、酷くなったのかな……)
体調が悪くなっているところに、嫌な記憶が現れるというストレスのかかる時間を過ごして、桜桃は混乱していたが、蒼佑が傍にいることで緊張が解れていった。蒼佑はヴァイオリンケース以外の荷物を渡す様に促して、桜桃は素直にそれに従い、部屋に向かって歩き出した。
「龍野理真美さんって知ってる?」
「ああ、りーまね。隣の部屋」
「バスで一緒になって、生徒会選挙のガイダンスのライブ見て……気持ち悪くなった」
「見たんだ、ライブ。嫌そうだったのに」
「だって、龍野さんが、見ようって……、だから、仕方なく」
「仕方なくで見ることねぇだろ、生徒会選挙は、生徒の意見を学校の偉い人に訴えることができる代表を決めるものなんだから、大事なもので、生徒はちゃんとみておくものなの」
兄貴面をする蒼佑を冷めた目で見てしまうけれども、彼が言っていることは正しいのだ。それなのに桜桃が興味がないように振舞ってしまうのは、なぜだろうか。良くないとは思う。だけど、変えられない。
「ヴァイオリンを頑張ってる、桜桃ちゃんなんて嫌い」
なぎさちゃんの声が聞こえた。だけど、それを冷静に聞き流すことができた。そうか、頑張っている姿を否定されたから傷ついたんだ。真剣に取り組んだもの程、否定されるのか傷つく。そのリスクを負いたくないから、頑張ることを避けてしまうのかもしれない。
「アイツが教えてくれたんだ。なかなかやるじゃん」
蒼佑が感慨深げにそう話したのを聞いて、桜桃は尋ねた。
「え、どういうこと」
「りーまに言われたから、お前、ガイダンスを見たんだろ? りーますげぇなって。俺の言うことは絶対に聞かなかっただろうから」
「へぇ、そっか。りーまって呼ぶってことは、特別なの?」
「友達だろ。お前は妹で、りーまは友達」
「……そっか」
この感じは、嫌じゃないなと思った。まだそんなに経っていないわけだし、付き合ってると言われたら、面喰う。わざわざ聞くようなことではないけれども、蒼佑のことは知っておきたかった。
雨が、降り始めた。頬に雨粒が当たって、桜桃も天気の変化に気が付いた。
「そんなに大事なものなら、奪っちゃおうかな」
なぎさちゃんの声がまた聞こえた。その声は、なぎさちゃんの声だったけれども、こんなことは言われたことない。それなのにその声は本当にあった言葉の様に響いた。
(ラック君、助けて)
ヴァイオリンケースを強く抱きしめて、桜桃は強く助けを乞うた。雨が近くに置かれていたトタンにぶつかってパラパラと大きな音を立てた。
「雹? 5月なのに珍しいな」
「……冷えてるもんね」
嫌な気持ちがなくなっているのが分かった。
(色んな記憶が交差していて、ぐちゃぐちゃ……)
もう桜桃の部屋のある棟まで来たし、部屋まであと少しだし、気持ちも落ち着いている。桜桃は、蒼佑から荷物を奪うように取って言った。
「もう大丈夫。あとは自分で行くよ」
「桜桃、飯は食ったのか?」
車酔いして気持ち悪いと思っている桜桃に対して、ご飯の話をするなんてデリカシーのない男だったが、蒼佑がそういう男だということはよくわかっていたから苦笑いを浮かべて応えた。
「大丈夫、適当に何か食べるから」
「適当じゃダメだ。すぐ食べるもの持っていくから……」
これは止めても無駄なやつだ。そう思ったから、桜桃はとりあえず荷物を引っ張って部屋に戻った。
ピンポーン。111区画のインターホンが鳴って、桜桃だけではなく双葉も部屋から出てきた。インターホンのモニターを見ると、蒼佑の顔がはっきりと映っていたから、双葉がロックを解除してくれた。
「お、双葉も居たのか」
「うん、私の部屋だしね」
「桜桃は?」
桜桃は少し嫌そうな顔をして、玄関から離れて立っていたが、蒼佑はズカズカと桜桃の方に向かってきて、スーパーの袋一杯の食べ物を突き出していった。
「ちゃんと飯食え」
「こんなの渡されても……」
「晩御飯はタッパーに入っている奴で足りると思うから、朝食はちゃんと自分で作って食べる。生活のリズムを整えることで、心も身体も整う。じゃあ、ゆっくり休めよ」
桜桃が袋を受け取ると、蒼佑はそそくさと部屋から出ていった。桜桃はその袋の中身をテーブルの上に出して確認しながら、ため息をついた。
(こんなに食べられるはずないじゃないか)
「相変わらず、料理上手いね、蒼佑」
双葉が、話しかけてくれたので、桜桃は愚痴をこぼすことができた。
「こんなに食べられないんだけど……。一緒に食べない? ……片桐さん」
「双葉って呼んで。同じ部屋なんだし、桜桃」
「うん……」
「じゃあ、ご飯分けてもらおうかな。最近、夜ごはん食べるのが早いし少な目だから、まだお腹に余裕あるよ」
「いいの、いつものペース崩れちゃうんじゃない?」
「蒼佑の美味しいご飯なら大歓迎」
笑顔で愚痴を昇華してくれる双葉を桜桃は凄いと思った。心の扉を乱暴に開けるのではなくて、丁寧に開けてくれる。そんな双葉が魅力的だなと思った。
晩御飯を食べながら、この区画に二人しかいないことに気が付いた。
「篠塚さんと岩下さんは?」
「ああ、椥と珊瑚ね。多分部活じゃないかな」
「部活?」
「射撃部作って、活動してる。部員増えたって喜んでたよ。苗字じゃなくて、椥紗と珊瑚って呼べばいいのに」
「うん……そうだね。頑張ろう……かな」
「頑張らなくてもいいとは思うから、苗字でも良いとは思うんだけど。……それにしても美味しい」
肉じゃがは味が染みているし、魚は蒼佑が自分で味噌漬けしたやつで、丁度いい具合の塩加減である。タッパーは、勿論電子レンジに直接入れられるやつだし、無骨な顔に反して、蒼佑の仕事は繊細である。
「蒼佑、本当に料理うまいよね」
双葉にそう言われて、桜桃は自分が褒められたような気分になった。学校の勉強はあまり得意じゃないし、無鉄砲なところがあるし、世間体とかそういうのを気にすることができないから、札幌の高校に進学したもののすぐ退学した。そんな頼りない蒼佑だけれども、彼が褒められるのは、仲の良い友達として、いや、血のつがらない兄妹として嬉しかった。
翌日、朝起きて個室の扉を開けると、ダイニングルームのソファに河童が座っていた。部屋のバルコニーに通じる扉が開けっ放しだったから、そのせいで部屋に入ってきてしまったんだろう。
(誰が?? 多分、椥紗、だよな)
他の住人、三人の姿を思い浮かべて、扉を開けっぱなしにしていそうなのは彼女だ。
(後で注意をしておかないと……)
険しい表情になっていく桜桃に、河童が話しかけた。
「かぱ、かぱかぱかぱぱ、かぱぱ」
「ああ、この前の緑衛門か」
「かぱぱ」
「はいはい。えっとね、昨日蒼佑から渡された物の中にキュウリあったはず……。洗ってあげて……」
河童の緑衛門は、桜桃をつぶらな瞳をキラキラさせながら見ている。冷蔵庫を開けて、水道で洗って、キッチンタオルで拭いたものを持っていくと、緑衛門はキュウリを奪い取って、かじった。はじけるような、美味しそうな音がした。桜桃は、隣に座って、覗き込むように緑衛門を見た。
「不思議な子だね、君は」
「クワぁ」
桜桃が緑衛門の頭を撫でようとすると、触るなと言わんばかりに吠えた後、腕なら触ってもいいと差し出してきた。
「あ、皿はさわられるのいやなのね。ごめん、ごめん」
下手に出ると、緑衛門は少しだけ残っている、キュウリを桜桃に見せつけて、もっと持って来いと主張した。
「それは調子に乗りすぎじゃない……わかったよ」
そこまでキュウリが好きなわけじゃないし、蒼佑の渡してくれた食べ物は一人で食べるには多すぎる。与えるかどうか躊躇をしながら冷蔵庫の前で考えていると、椥紗が部屋から出てきた。
「お、緑衛門が来てる。おはよう、桜桃」
「あ、バルコニーに出る扉、あいてたから入ってきたみたいなんだけど……」
桜桃は挨拶もせずに苦言を呈すると、椥紗はそれを気にせずに応えた。
「自分であけたんじゃないかな。でしょ?」
「かぱぱ」
緑衛門は頷いた。
「え、それ不用心だからやめてほしいんだけど」
「かぱ、かぱぱぱ、かぱ、かぱ」
「分かった。じゃあ、出入りするときはちゃんと鍵の開け閉め、よろしくね」
桜桃には緑衛門の言っていることが分かるが、椥紗には分からない。椥紗は気にせずに続けた。
「こういう妖怪系ってさ。『人間の常識が通じないから、覚悟しといてキラーん』って言ってた。」
「きらーんは言ってないと思うけど、それは誰?」
「りっちゃん。えっと何だっけなんちゃら律。だったから、りっちゃん。えっと、蒼佑と同じ部屋の。勝手に入って出ていくのは良いんだけどさ、この子来ると、床がぬめるんだよね。後でちゃんと掃除しないと……」
椥紗は桜桃とは違う視点から緑衛門についての苦情を述べた。
「大丈夫、私、やるから」
「え、ほんとに、助かる。何か今から先生と部活についての相談があって急いでいかなきゃいけないんだ。だから……」
「あ、うん。大丈夫、こっちのことは、任せて……、椥紗……って呼んでもいいかな?」
「いいよ。寧ろ嬉しい。じゃあよろしくね、桜桃」
そういった後、椥紗は満面の笑みを桜桃に向けてくれた。そして慌ててまた個室に戻っていった。
椥紗のことはまだ苦手だった。彼女のまとっているオーラみたいなものが強くて、それに取り込まれてしまいそうな感じになる。他の人はそういうのを感じていないから、普通に接しているのだけど、桜桃はそうじゃない。うまく説明できないから、なんとなく苦手、そういう風に説明している。苦手な相手に対して対等であるために、椥紗という名前で彼女を呼べたこと、そして、その場の空気を悪くすることなくうまく対応できた自分のことがなんだかカッコいいと思った。
他の人間には分からないけれども、緑衛門は桜桃の気持ちを理解してくれていたようで、キュウリを食べながら、指で桜桃の手の甲を何度もつついて、良くやったという気持ちを伝えてくれていた。
「食べながらって、行儀が悪いよ」
苦言を呈された緑衛門は不機嫌になって、最後の一回は強くつついて、そっぽを向いた。それでも、キュウリを食べ続けていた。
「私ね、きっと、椥紗のこと良いなって思ってるんだよね。嫉妬か何か、そういうのをしているのかも」
禄衛門はくるりと桜桃の方を向いた。
「射撃部の部長として、ということはみんなに信頼されているんだよね。きっとそんな風になりたいって思ってるんだよね、私……」
そして、ただ見つめてくれた。
「ありがとう。私は私なのにね」
緑衛門に笑顔を向けると、彼は食べさしのキュウリを桜桃に向けた。キュウリが緑衛門の水分で滴っているし、なんかぬめっているような感じもする。
「……それはいいよ」
とりあえず気持ちだけ受け取るに留めた。
しばらくして、椥紗が身支度を整えて個室から出てきた。そして、フリーザ―パックにパンとジャム、冷蔵庫からジュースのパックを取り出してカバンに放り込んだ。
「いってきます」
「あ、うん。後で、私も行くから」
時計を確認したが、まだ登校するにはまだ早い。そうであるにもかかわらず、111号室には、桜桃しか居ないみたいだった。リビングは、今住んでいる4人全員が居たとしても、広いと感じるような部屋だったから、一人というのは寂しかった。
「君がいてくれて助かったよ」
桜桃は隣のぬめる物体に話しかけた。
校舎までの十分ちょっとの道程は、朝の散歩にちょうどいい。平坦で、電線のない空があって、都会のたくさんの感情が入り混じっている空気を全部リセットできる世界だった。札幌にはなずなが居るし、嫌いだというわけではないが、人混みは何度経験しても慣れない。車酔いがいつもよりもきつかったのは、そのせいもあるだろう。別に人間嫌いというわけではない。人間はそこにいるだけで、周りに影響を与えている。その影響を桜桃は繊細に感じてしまうのだと思う。
都会に住んでいる人は桜桃の様に感じていないようで、桜桃の覚えているしんどさはなかなか理解してもらえない。「人酔い」だとか「車酔い」だとかそういう言葉で表現すれば納得してもらえるけれども、大したことのないものとして扱われることがほとんどだ。 人間という存在に対する意識を遮断することができれば、もっと楽になるのに。分かっているけど、慣れない。
(でも、こんな風になるのは、日本の人混みだけかも)
ロンドンの街に出た時も同じような感覚だったかもしれない。でも、今回の札幌滞在程のしんどさではなかった。言葉がわからなくて、人々から漏れてくるものが言葉ではなく音として聞こえるからだろうか。家と学校の往復だったり、雁湖学院の授業をオンラインで受けるのに忙しくて、そんなに街に出なかったからだったからかもしれないけれども。
一人で歩いているから、速いスピードで歩くことができたみたいで、少し前を歩いていた楽しそうに話していた二人組の女子を追い越した。楽しいから大きい声になっていて、桜桃にまでその話の内容が聞こえてくるような感じだった。羨ましい、そう思った。
蒼佑と一緒に登校することもできただろうけど、それは何だか違うと思った。蒼佑は兄だ。兄だけれども、彼は子供っぽくて、同い年だと桜桃は思っている。桜桃は四月生まれで、蒼佑は早生まれだから、学年は一つ違うけれども、生まれてからの日数はそんなに変わらない。一人で登校するのは寂しいと思うけれども、いつも兄と一緒にいるのはおかしな話だ。ここまで一人で歩いて、分かったことがある。一人でなければ見えなかった景色もある。
「生徒会選挙ありまーす。皆、立候補できますー。ちゃんと候補者の話聞いて投票しましょー」
選挙に参加することを促す宣伝活動をしている2人組が居た。背の高い方は拡声器で楽しそうに話していて、その横で背の低い男子生徒がステップを踏みながら太鼓を叩いている。
「5月の終わりは、クラスで投票。皆、忘れず投票しましょ。6月15日は会長選挙、演説聴いて考えて。皆の代表決めましょーおー」
生き生きとした音が太鼓から発されると、拡声器の声はそれに合わせて節を持つようになり、それはメロディーを持つ歌になっていった。ただ訴えている言葉だけでは残らないような光景が、音楽として強い印象を持つようになる。
桜桃はその2人の様子に惹かれて、自然とその方向に近付いていった。その2人組の音楽は力を持っていたから、それを避けていくような人もいた。怖さは少しあったかもしれない。自然に身体が導かれていった。
「あ、君、葛西桜桃でしょ」
太鼓を叩いていた小さい生徒の方が、手を止めて桜桃に話しかけてきた。
「貴方は、誰?」
「僕は、鳥居風太で、こっちは河竹律。蒼佑のルームメイト」
「あ、そっか。よろしくお願いします」
桜桃は頭を少し下げて、その後また口を開いた。
「何、してるの?」
「バイト、バイト」
「バイトちゃう。ボランティアや。でも、ご飯貰えるねん。朝の集合時に朝ごはん、しかもいなり寿司が出るっていうから、やることにしてん」
「蒼ちゃんが楽しそうにバイトしてるから、ReGで何か探してみようって、選挙応援を募集してるし、面白そうだからやってみようって、ね」
「お稲荷さんのためや」
律は、稲荷ずしの話しかしない。桜桃は、断片的な情報しか分からないけれども、律は凄い自然の力を使える何か神様みたいな存在のように思っていたのに、ただの食い意地のはった拡声器を持った背の高いお兄ちゃんにしか見えなかった。
(能ある鷹は爪を隠すって言うから……、馬鹿にしちゃダメだけど……)
「そんなに稲荷ずしが好きなら、自分で作ればいいんじゃないのかな?」
「それはちゃうねん。誰かに作ってもらうからいいの」
「どうして? 同じなのに……わざわざボランティアしなくても、蒼佑が作ってくれるだろうし」
「確かに、蒼ちゃんのはうまい。ワシはそれが食べたいだけとちゃうの」
桜桃が提案しても、律はことごとく否定する。何度も否定されるとちょっとむっとしたが、それ以上に、律が何を思って桜桃には不可解な行動を取っているのかが気になった。
「もっと効率的なことは考えないの?」
「正直、暇やし」
「暇だったら勉強したらいいのに」
「ワシ、別に学校行きたないもん」
「じゃあ、何で生徒になったの?」
「偉い人になっとけって言われたから。まぁしゃあないなって。札幌帰ってくんなって言われとるから、暇やねん」
「札幌がダメだったら、他のところに行けばいいんじゃないの?」
「行きたいところないしなぁ。ワシは人がたくさんおるところに行きたいねん」
「そっか、じゃあ、飛行機に乗って……」
「お金かかるやん。人間の身体って、移動出来る範囲しれてとるし、移動するだけでお金かかるやん」
「そっか。じゃあ、バイトしたりして……けっこうギュフの仕事あるって、蒼佑が言ってたよ」
「だからしとるやん」
「ボランティアじゃなくて、バイト。そうしたら、お金貰えて、遠くに行けるじゃない」
「お金は食べられへんし、興味ないねん。そもそも金のために働くっちゅうのが気に食わん」
「え、それは、生活していけないじゃん」
「ええねん。ワシ、別に人間ちゃうしな。違う存在やもん。人間の生気を頂いてやっていけるし」
「え、今も? 朝から、生気取られたら、皆勉強できなくなるじゃない」
「朝、元気やねんから、少々頂いても問題ないて。元気すぎて困ってる人も居るやろし」
「りっちゃん、それ、女の子の前で言うことじゃない」
調子に乗って話をする律を風太が嗜めた。
「じゃあ、ずっとお金ないの?」
桜桃が哀れむような言葉を掛けると、律は反論した。
「お金、稼がれへんわけちゃうで、ワシはずっとホストとして……」
「りっちゃん、お金稼いでもすぐ使っちゃうの」
風太が説明を加える。
「財布にお金があると……いや、そもそも財布持たない主義で、お金持ってると使っちゃうの。計算するのメンドクサイとかなんとか言って……」
「ぷうちゃん、何言うとん」
「生活能力はゼロなのは認めなよ。りっちゃん、ホントに人間じゃなくてよかったね」
2人の話は面白かった。でも、桜桃は真面目だから腕時計を見て言った。
「ごめん、またね。授業行ってくる」
そして慌ててその場を去った。
「あ、僕も行かないと」
それを見て、風太は太鼓を律に押し付けて桜桃を追いかけた。
「おお、大変やね」
律は風太の反応に驚いて、適当な言葉をかけることしかできなかった。
教室に入ると、双葉の姿が見えてその隣の席が空いていたから、そこに向かって桜桃は歩いて行った。
「おはよう、朝早かったんだね」
「おはよう。うん。今日は戻ってこれるのギリギリだったから、ロッカーで着替えてきた。学校の荷物は律さんが持ってきてくれて……着替えと交換、みたいな」
「律さんと双葉ってどういう関係なの?」
「先生とか、師匠みたいな?」
「そういう人に荷物持ちみたいな事させるんだ……」
「じゃあ、トレイナー、みたいな?」
「うーん。トレイナーでも目上の人でしょ。普通は、そんな荷物持っていかせたりしないよね」
「桜桃も蒼佑に荷物持ってもらったりしてるでしょ。それと同じだよ」
「蒼佑は、幼馴染だから特別。じゃあ、特別な関係なの?」
「特別な関係、なのかな。まだ出会って一月くらいなんだよね。でも、信頼してる。信頼できるって思ったんだ。一緒に過ごしていて、目つきは悪いけど、そうじゃないなって思ってる」
双葉がそのことに確信を持っているというのは、表情で分かる。
「律さんって何なの? 今日は緑衛門が来てたけど、律さんも河童とかそういうのなんだよね?」
双葉はすごく話しやすくて、ついつい桜桃は話に熱を籠らせてしまう。
「まぁ、似たようなものだとは思うんだけど、妖怪って言ったら怒られるから……どういったらいいのかな。狐の神様……って言えって言われてるけど、神様っていう威厳はないと思うし……。日本の神様は、おとぎ話みたいな神話の中で神様だから……」
「ねぇねぇ、その話もっと詳しく聞かせて」
横から椥紗がそういって割り入ってきた。
「椥。今、双葉と話しているんだから、入ってくるのはダメだよ……」
桜桃がむっとしたけれども、表情には出さないようにしていた。でも、双葉はその事に気が付いたのか、椥紗が急に入ってきた状況に対しての嫌な感じを指摘してくれて、双葉に対する好感度が上がった。
「親が日本の昔のことに詳しくて……。日本は色んな神様がいるところだからね。生まれるときは神社にお宮参りに行って、結婚式はチャペル、死ぬときはお寺。人生の大事なイベントを神道、キリスト教、仏教っていう違う宗教に頼ってる。そんな国の神様だから、律さんのことを神様って呼んでも、神様でも、結構いい加減な神様っていう感じだなって」
「だから、狐の神様っていうのに納得したの?」
椥紗はとにかく桜桃の前に出てくるような感じで鬱陶しい。でも、桜桃はにこにこと笑って聞いていた。
「神様……っていう要素はないこともないから、怖いとも思う。でも、私が女だからかな。手が出るってことがない。合わないことがあったら、まず嫌だと思った事について話をしてくれる。それでも納得がいかないときは、無理やり通そうとするから、私が折れることになるけど、そんなに揉めるってことないな」
「そんな神様、律さんは、入口のところで選挙の呼びかけやってたよ」
「へぇ~」
桜桃の話に対して、双葉は興味がありそうな返事をしたが、それ以上は何も言わなかった。
それぞれの授業の組み方によって、時間割は違っていて、席は殆どの授業が自由席だった。授業を受けに来たわけだし、授業の間の時間は限られているから、たまたま隣の席になった人と話が出来るとは限らない。
「あ、桜桃だよね?」
「はい、りーまさん」
たまたま同じ授業で、出席カードを提出するときに、理真美に会って2人は言葉を交わした。交わしただけだったけど、それだけで親密度が上がったような感じがする。忙しい高校生活の中で、そういう小さな親密度を上げていくことは大切だと思う。島にいるときは、家族同士の中がいいからとか、そういうので知り合いとか友達が増えていったけれども、知らない場所で関係を作っていくというのは、より意識的に何かをしていかないと難しいような気がする。
何かをしていく、そういう風に考えていたから、学校にある掲示板も意識的に見るようになっていた。
「浅木海里」
よくある音楽家のリサイタルのポスターだった。でも、それは桜桃にとっては特別なものだった。
(この子、多分、ヴァイオリンのコンクールの時に、見かけた子、だよね。知ってる……)
そのポスターのある掲示板は、人通りの多いところからは少し離れている静かなところだった。だから、他の誰かが来るのが、すぐにわかる場所でもあった。その誰かは、見覚えがあった。
「久しぶり、覚えてる?」
彼は恭しくそう言った。ポスターの写真の彼がだ。
「えっと……。私は……」
浅木海里という同い年の彼は、ピアノの世界では有名人だ。確かに、桜桃が出たコンクールの北海道の地方予選に出ていたけれども、その時だって彼は予選を免除されてもいいくらいダントツで実力のある神童だった。
「随分前のことだから、もう忘れてしまっているかと思ったけど、僕ははっきりと覚えているよ。君もコンクールに来ていたでしょ?」
「……気のせいだよ」
「予選の話だよ。君も予選を通過したのに……。また、会えて嬉しいな」
雲の上にいるような存在のはずなのに、どうして同じ目線で話をしてくるのだろう。近付いてくる海里の物腰は柔らかかった。だからこそ怖かった。神童がどうして自分のことを覚えているのかもわからない。逃げないと……そう思う前に桜桃の身体は走り始めていた。
その様子を2人の生徒が見ていた。男女の2人組で、紫のリボンとタイ、芸術科の生徒だ。女子生徒は布引雫、ピアニストで男子生徒は井筒糸雨、バリトンの声楽家だ。浅木海里と同じ中学校の出身で、音楽の道を進む同志であり、ライバルでもあった。
「あーらら、さすが粘着質のピアニスト。地方予選で気になった……だけで、ずっと想い続けるとは……」
「ストーカーって思われたんじゃない?」
「まぁやってることは、問題なくストーカーだけど。わざわざ自分のコンサートチラシを撒いてさ。気付いてもらえるように……って健気だねぇ」
雫と糸雨がからかうと、海里は顔を紅潮させて言った。
「君たちには言われたくない。君たちは、僕のストーカーじゃないか」
「確かに。お前みたいな才能を手放したら、俺は後悔するだろうからね。中高一貫の高校を蹴ってついていくくらい当たり前じゃないか」
糸雨は感情豊かに自分の想いを語る。対して、雫は冷静に言葉を紡ぐ。
「まぁ、そこは否定しないけど、海里みたいなストーカー行為はしないわよ」
「……君たちにはわからないよ。僕がどれだけ彼女を愛しているのか。初めて姿を見た時から分かった。これは、運命だと。全てが僕の理想なんだ。ああ、僕は彼女のために生まれてきたのだと……」
「あ~はいはい。気持ち悪いにも程があるわ」
熱がこもる海里に雫は雫は辛辣な言葉を吐いた。海里と雫の間にそれだけの信頼関係があるからこそ吐ける言葉だった。同じピアニストとして、雫は海里の演奏を高く買っていた。それは、真摯な姿勢とか真面目なものではなく、常軌を逸したような感性の持ち主だという点である。単に技法・技術という点で言うのであれば、雫の方が優っていると彼女は自負している。そうではなく、技術とかそういうものとは別の狂気のようなものが、海里にはあるのだ。
「それで、今日は僕の部屋で作戦会議をしようよ」
「残念。今日は、2人で治田さんのところ。チップも弾んでくれそうな地元有力者のパーティーだよ。大事なパトロンだから、掴んどけってさ」
「え~。ちょっとそれは聞いてない」
「言ってないもの。じゃあ、糸雨、3時半にバス停のとこまで迎えに来るらしいから、よろしく」
雫は、冷静に海里をあしらった。海里の戯言は往々にして、らちが明かないものだから、適当にやり過ごすのが良いことを彼女は良く知っている。
雫と糸雨は、多少頭のおかしい海里とうまく付き合っている友人だった。芸術の道に進むには、頭のねじが何本か抜け落ちているくらいが丁度いい。とりわけ雫は、海里の暴走しがちな芸術家としてのセンスを扱うのが上手い友達だった。同級生として演奏については話ができるだけではなくて、ピアノのデュオで連弾や2台ピアノで一緒に演奏することもある関係だった。
「CM見たよ。まさか全曲使うとはね」
「私も、マジかって思った。切り取られると思ったのに……」
パトロンである治田氏の迎えが来るバス停までの道を2人は歩いていた。雁湖学院への入学が決まってから早々に、浅木海里と布引雫は雁湖学院の理事長の名前で依頼を受けた。直接理事長の椎野真生に会ったわけではないが、ギャラ付きの結構大きな仕事だった。ギュフの担当者がついて、雁湖学院に付属するスタジオでの試演を兼ねてピアノ曲の録音を行い、その録音を元にギュフの広告を作るというものだった。
「コンセプトとかそういうのはないの。曲を聞いてそれで考えるってプロデュ―サーみたいな人に言われてね。良く知られている作曲家の曲が良いって話になったの。じゃあ、3B作曲家、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスのどれかをやれっていう話になって、海里がブラームスを選んだの。まぁ、結果的に、2つのラプソディを1曲ずつ弾くってことになって……」
ヨハネス・ブラームスは、19世紀のドイツのロマン派の作曲家で、ドイツの偉大な作曲家とも揶揄される存在である。2つのラプソディは第1楽章、第2楽章から成る曲で、テクニックを要する難曲である。この曲を弾くことになったことについてあまり納得していないような表情の雫を見て、糸雨は言った。
「不服そうだね」
海里のいないところだったから、雫は思っていることを素直に口にした。
「何で、ブラームスなのよ……。って思った。3Bでいうなら、バッハは、私の方が良いんだけどな。ベートーヴェンとブラームスは、海里の方がえぐい。付け足してもらうなら、モーツァルトやハイドンも私のほうが得意なのに、何で私の演奏が劣っているように見えるような選挙区になってしまったのかしら」
雫には雫なりの矜持があって、冗談を言っているように見えるけれどもそれが彼女なりの守り方である。雫は自分のことをよく理解しているし、糸雨もこのことをよく知っている。
「でも、海里は自分で選ばないとテンション上げてくれないでしょ」
「そこよ、そこ。自分で選ばないと気が済まないし、ロクな演奏しないから、私が折れてるのに……」
「そうやって折れるから、海里が得意なものを弾いていつも劣等感感じるんでしょ。分かってるなら、やめりゃいいのに」
「私は、演奏家であると同時に、海里の演奏のファンなの。海里がクソみたいな曲弾くのが嫌なの」
「あっそ……」
糸雨は適当な返事をした。
面倒くさい奴だなとは思ったが、糸雨にはかけられる良い言葉が見つからないから、話題を変えることにした。
「それで、ブラームスにした経緯は分かったけど、何でラプソディなの。連弾できるんだから、ブラームスならハンガリー舞曲でしょ。5番にすりゃ、良く知られてるのに。1番も耳に残る曲だと思うけど」
「これは、私の力不足よ。悔しいけど」
雫は唇を噛んだ。
「こう、言わざるを得なかった。どうしてなのか分からないけど、海里のテンション上がりまくりでついていけなかった……。糸雨も思うでしょ。ブラームスって言われたら、ハンガリー舞曲だもの。万人受けを狙っても、これがいいかなって。それで、ハンガリー舞曲の1番をデュオでやるつもりだったのよ。5番は良く知られていて、つまんないし。でも、無理だった」
雫の演奏の技術がないわけではないと、糸雨は思った。雫の言う力不足というのは、楽譜通りに弾く技術のことではなくて、身体的、精神的な力のことだ。雫の演奏する体力や筋力、又、気合いや感情とかが海里に追いつかなかったということだろう。
「最初は頑張ろうと思ったけど、そうすればするほど海里の演奏と私の演奏に間に溝ができていったの。だから、シンドって思って止めた。ロマン派の作家ってどうして感情を残しているのかしら、それが海里の気持ちと相まって、止められなくなる。どんなに弾き散らかそうとも、低音で制御できると思ったんだけどな……」
海里と雫が連弾をする時は、低音部は雫、高音部は海里が担当する。子供の連弾だと、低音部が伴奏で、低音部の方が演奏技術が高い人がやるものみたいなイメージがあるけれども、海里と雫の場合は上手い下手ではなくて、どちらが楽譜に合っているかで担当を決めている。海里の持つ表現の豊かさと自由さと、雫の聡明さや堅実さが良い具合に絡み合う。そんな効果を狙っての役割分担だった。
それなりに計算されているはずの演奏なのに、数回合わせてみて、雫が一緒に演奏することはできないという判断を下した。海里はその判断に素直に従った。聴衆にとって良い演奏かどうかというのは、海里自身には判断できないと思っている。彼は自分にとって美しいと思うものを弾いているだけで、他人からどう思われようとあまり気にしていない。それでも雫の言うことには従う。海里は雫の知性を尊敬しているのだ。
「それは御愁傷様。大分おかしくなってるな、海里」
「そうね。何かおかしいわね。でも、音楽家として間違ってはいないと思うわよ。ただ、あまり良い傾向とはいえないかな。私には手に負えなくなってしまうような感じがして……」
「海里も大人だし、別に雫が何とかしようとかそういうことを思う必要はないんじゃない」
「まぁ、そうなんだけど……」
表情を曇らせていく雫の雰囲気を変えるために、糸雨は少し照れながら言った。
「何にしても、ラプソディ、良かったよ」
「そう? それは、海里のがアップロードされてないからそう思うだけで、あんな破壊的な演奏きかされりゃ、私のなんて、全然……」
「雫は雫でいいんだよ。俺は、雫の演奏が好きだから。安定していて、堅実で」
「それってつまんないって言ってるでしょ」
「そう、卑屈になんなくてもいいんじゃないの。俺は君の演奏が好きだけど」
「並べられるのがやだ。並べられると……」
「ああ。だから、まだ海里のラプソディの1楽章はアップロードされてないのね」
そう言われて、雫ははっと気付かされて、冷静になった。
「そう……なんだ」
「その様子じゃ、アップロードされたの、見てないんだね」
「……えっと、確認はしたのよ。結構いろんな人が画像と私の曲うまく合うように編集されてて……でも、HPまでは見てないんだけど……」
「気を遣ってくれる、スタッフが居たってことだよね」
雫は、演奏に対して、真摯に向き合っているし、きちんとこだわって練習をしている。だけど、作品に対しては、そこまでの注意を払っていない。演奏会のアンケートには必ず目を通すし、聴いている人の意見も活かしていくべきだと思っている。その一方で、自分の手を離れた作品、特に録画や録音したものについては、淡白な態度を取っているかもしれない。特にインターネットに出てくる自分の演奏や情報はあまり見ないようにしている。エゴサーチみたいなことをしているみたいなのは格好悪いし、匿名の誰だか分からない意見に自分の世界観が壊されるようなことになりそうで、積極的に見たいとは思えなかった。
二つのラプソディ、ラプソディは狂詩曲という漢字が与えられている。自由奔放な形式という意味のラプソディに、狂という字をつけて、それが自由が結び付けられているのは、皮肉なのか、それとも自由の本質を示しているのか。どちらも短調で、悲劇的な強さがある。雫が担当した第2楽章は強い堂々とした主題から始まるのに対し、第1楽章の冒頭はうねる様な狂気が上昇していく。しばしの安らぎと、「さくらさくら」のような音の動き、それに海里は感情、いや、彼の物語を載せる。
その具体的な物語は分からないのに、雫の感情が揺さぶられた。閉塞感から開放された自由が暴力的に弾けだすのが収まると、優しい物語であったり穏やかな空間が広がるのに、また最初の狂気のある主題に戻るのだ。楽譜を読んでそれを音にすれば、そこに様々な心の動きが呼応するのは、雫だってピアニストだから分かる。それを物語という形にまで持っていけるのか、それは、分からないままに弾いた。曲はブラームスの描いたもので、彼の想い人と言われているクララ=シューマンへの思慕の念を想像するけれども、ピアニストはそれを具体化する存在だ。そこには具体的な描写があるわけではないから、自分の個人的な経験を投影させてもいいのだが、そんな経験などない。誰かに恋焦がれる。抑えられない情熱、それを込められたら、きっともっと良い音になる。
「海里はおかしい。たかだか16で、真剣な恋愛を経験しているんだもの」
「その気になる人が桜桃ちゃんってわけね」
「まぁ、そういう理解で合ってるとは思うんだけどさ。……なんかね~。引っかかるんだよね」
「あ、もしかして、雫、嫉妬してる?」
「何で、私が海里を好きだっていうことになってんの。友達でいるのも精一杯なのに」
「……へぇ、そんなに手を焼いてるんだ」
「私のことはどうでもよくて、明らかに葛西桜桃、怖がってたじゃない」
糸雨は雫に応えなかった。丁度治田さんのところの車がやってきて、そこで会話が終わった。嫌な想像はしないほうがいい。特に、表現を生業にする人間は、それを本当にしてしまう力があるのだから。
部屋に戻った葛西桜桃は、荷物をすべて床に置いた後、ケースに入っているヴァイオリンのラック君を手に取り、ぎゅっと抱きしめた。
「さっきね、出会ったんだ……」
4年前に浅木海里に出会ったヴァイオリンのコンクールに一緒に行ったラック君は、この姿をしていなかった。彼の躯体は、今はその時よりも一回り大きくなっている。ラック君は桜桃のヴァイオリンに宿る魂だから、今のこのヴァイオリンの中に居るのは、ラック君だ。胴が変わろうとも、ずっと桜桃の音を共有してくれる親友、北海道の田舎のコンクールの予選会に行った時も、一緒だった。同い年の海里が、とても生き生きとした音を奏でていたのを覚えている。何の曲だったか、それは忘れてしまったけれども、他の参加者とはレベル違いの演奏をしていた。ラック君にそのことを話すと、その記憶に紐づけられているものが浮かび上がってきた。
その後、札幌の地方予選を突破した事は知っていたけど、その後のことは知らなかった。風のうわさで、恐らく、先生の香花紫からの話で知ったのだろうけれども、海里が東京の芸術系大学の付属中高に行ってるってのは聞いていた。でも、どうして、今、雁湖学院という何の実績もない学校にやってきたのかは分からない。
ラック君を抱きしめていると、彼の音を聴きたくなった。多少ならこの部屋で音を出すこともできるけれども、しっかりとした練習をするのであれば練習室を使う方が良い。ReGのアプリを開いて、空いている練習室を確認した。15分後に空く部屋があったから、その部屋の予約を取って、近くにあった楽譜とタブレットを手提げかばんに入れ、部屋を出た。
練習室まで15分もかからないけれども、廊下には座るところがあるし、早めに行って待っていようと思った。練習室の近くまで行った時、桜桃が予約した部屋から制服の女子学生が出てきた。
「えっと、椥紗……」
ルームメイトだった。驚いたと同時に、桜桃と同じように音楽を練習する人が近くにいたことに桜桃は気持ちが高揚するのを覚えた。
「あれ、桜桃が次だったんだね」
「ピアノ?」
「えっと、今日やったこと? ピアノみたいな、歌みたいな。好きだからよく来てる」
練習室を使っているけれども、何か特定の楽曲を練習しているわけではない。適当なメロディーを作って、適当な歌を歌って、なんとなく浮かんできた言葉と音を合わせていただけだ。こういうことをしているのを誰かに知られるのはちょっと恥ずかしい。椥紗は、どう答えて良いのか分からずに、はぐらかすように言った。桜桃はそんな椥紗を気にせずに続けた。
「部活は?」
「部活? 今日はない日。部活のことばかりやってると、どうも視野が狭くなっちゃう感じがするから、他のこともしたいなって」
「宿題は?」
「うーん。やってないんだけど。宿題じゃ、リラックスできないじゃない。桜桃は宿題終わってから来たの?」
「んっとまだやってない……かな」
「私と同じじゃん」
椥紗が興奮して、ついつい大きな声で叫ぶと、巡回の警備員が唇に指を当てて、静かにするように促してきた。
「えっと、中で話そうか」
部屋の中は防音されているから、そこで話す方が良いだろう。椥紗の音楽に対する思い入れを聞こうと思っているわけだから、関係のないことをしているわけではないし、咎められるようなことは何もない。
練習室に入ると、そこはグランドピアノのある部屋で、窓もあって、演奏中は開けることを禁止されていたけれども、開けることもできたし、開けなくても太陽の光が入ってくるような気持ちのいい部屋だった。
「窓、開けるね」
今日は暖かい日だから、開ければ気持ちいい風が入ってくる。しばらく弾く気がないならと、桜桃は、ピアノの蓋が開けられたままだったので、閉めようと試みた。結構な重みがあるので、手こずっていると、椥紗が手伝ってくれた。
「このピアノね、小学校のピアノだったみたい」
そう言われて、ピアノの淵を見ると、学校の備品である事を示すシールが貼られていた。
「ここの練習室、こういうピアノが多いんだよね。コンサート用の本格的なピアノっていうのではなくて、古い日本製の小学校とか中学校ででつかわれていたようなピアノ……これもそうだったの。何かね、良いなって思った。弾いてあげないとなって」
少子化で廃校になったりした学校のピアノなら、クラシックの世界でやっていこうとするピアニスト向けではないだろう。その疑問について、椥紗は続けて話をしてくれた。
「これは、メンターさんの話なんだけど、本格的なピアニストを目指している生徒って、自分の部屋にグランドピアノを持ってるんだって。だから、この練習室の子たちって品質はそんなに大事ではなくて、とりあえずピアノなら良いって感じみたい。だから、殆どが『捨てられた』子たちなんだよね。それでも十分。私は、音楽は好きだけど、どこどこのピアノじゃないと弾きませんっていうこだわりはないから。メンターの和奈さんと色々話していて、音楽が皆の物でありますようにっていう考えが彼女にはあってね。それがギュフの、真生さんの考えとも近いんだろうなって。それを大事にするためにはどうしたらいいのかなって考えて、それって、ここで練習することなのかなって思ってなんか練習してる」
「椥紗は、理事長のことが好きなの?」
「え、あ、好きだよ。イケメンだし、顔は好きだけど、恋愛とかそういうのではなくて……」
(恋愛対象ではないとわざわざ指摘するからには、多少なりとも恋愛対象として見たことがあるわけか)
慌てる椥紗を見て、なかなか大胆なこと考えるんだなと思うとなんだかおかしくて桜桃は笑ってしまった。
「な、何かおかしいこと言った?」
「ううん。気にしないで。仕草が面白くて」
「いや、違うでしょ。もっと他のことも考えてるでしょ」
「さぁ、どうかな。秘密」
椥紗がワタワタとしながら、桜桃に詰め寄ってくるのが、面白かった。
「もういいよ。即ち、ピアニストの音楽専攻の人は、気分変えたいときくらいしかここにこないみたいなの。幾つかはコンサート用に使えるピアノもあるみたいだけど、それは、個人レッスン室とか特別なところに置いているみたいで、専攻とか関係なく、音楽に触れなさいっていう学校の方針があるわけ」
「学校の方針ねぇ……」
「何でニヤニヤ笑ってんの」
「別に」
こんな風に関われば、椥紗と初めて会った時に感じた嫌な感じというのは殆どなくなっていた。不思議だ。
そして、桜桃はあることに気が付いた。
「じゃあ、ピアノの専攻の人って、部屋に自分用のピアノがあるってことは、それだけお金持ちってこと? 借りることも出来るって聞いたけど、それでも高いよね」
椥紗はその答えを知っているので、ニヤニヤと笑って答えた。さっきニヤニヤとされて、ちょっとムカッとしたので、返してやろうという意図もあった。
「確かに、高いよね。でも、それをちゃんとカバーするシステムがあるんだな。雁湖学院には。芸術科の生徒は、才能があることを認められているわけで、その技術、例えばピアニストなら、演奏を提供してその対価として楽器を借りるとかそういう契約をしてるんだなー。優秀だから奨学金ではなく、優れた仕事の見返りという対価なのよね。録音は、ギュフ関連の広報につかわれるらしいんだけど……」
そう言いながら、椥紗はタブレットを操作して動画を桜桃に見せた。
「これ、ギュフの特別動画のところににあるやつ。動画はギュフの人が作ったみたいだけど、音楽は布引雫の演奏なんだよ」
「へぇ、何の曲?」
「良く知らないけど、凄い曲だった。聞いてみる?」
椥紗が再生ボタンを押して、15秒も経たないうちに桜桃はタイトルが分かった。
「ブラームスのラプソディの二番」
「え、なんでイントロクイズみたいな感じで分かるの?」
「えっと、先生がスパルタだったから。ちゃんと背景まで勉強しなさいって。紫先生……えっと、ヴァイオリンの先生が、言ってて。色々聞いたんだよね。島で育ちで、することないし。クラシックが好きで、色々な曲が知りたかったから」
「何か、凄いね」
とにかく椥紗が桜桃のことを褒めるので、気恥ずかしいし、そんなに褒められたようなことをしているわけでもないし、恐れ多いという気持ちになった。
「たまたま、知ってただけで……。弾けるわけではないし、そもそも、私は、ヴァイオリンの方が得意だし」
「ヴァイオリンの方が得意なのに、ピアノの曲ちゃんと知ってるってすごいよ」
「いや、だって……そんな……」
これ以上褒めるのは桜桃の精神状態に良くないということを察してくれて、椥紗は話題を変えた。
「この曲さ、短いバージョンがTV版CMでも使われてるよね。談話室のテレビでも見かけたし。絶対弾けないけど、同い年の子が弾けるってカッコいい……」
「椥紗も、弾けるんだよね?」
「一応ね。芸術科のピアノの生徒みたいには弾けないけど、幼稚園の頃から音楽教室に行ってたし、不登校になってからは月に2回くらい先生が来てくれてたから、ちょっとずつうまくなってるしまだ上手くなるつもりではあるけどね」
音楽の話をするのは楽しい。いや、話をするというよりは、椥紗が自分と同じように音楽を嗜んでいるということが嬉しい。
「なんていうのかさ、ピアノって、続けるのが難しいんだよね。ここに居ると今までの先生のレッスンを受けられないしさ。良い先生が居たらいいんだけど……」
「ReGで、探したりできるんじゃないかな。蒼佑が趣味合う人とか探すのにもこれ使えるとか言ってたけど」
「ああ、確かに良いかも」
「あのさ、椥紗はどういうのを教えてもらいたいって思ってるの?」
「えっと、そうだね。バッハのインベンションとかツェルニーとか? 基本的に怠けものだから、ツェルニーはまだ30番だし。にゃはは。でも、最近はベートーヴェンのソナタを頑張ってる。もうなんか3ページ目辺りまで譜読みして、なんかきついから。そのきつさを慰めてくれるような先生欲しいなって……」
(え、結構弾けるんじゃないか)
桜桃は椥紗の話を聞いて、気持ちが昂った。
桜桃は、カバンから楽譜を取り出して、椥紗に見せた。
「じゃあさ、これとか弾ける?」
「え、伴奏ってこと? 合唱の伴奏もやったことあるから、出来ないことはないとは思うけど……」
「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の、伴奏。えっと、ちゃんと弾けなくてもいいの。最初の部分だけだし。久しぶりに弾いてみたくて、あの、コピーあとでして、渡す。もしも弾けたらいいなって」
椥紗は渋い顔をしたが、全体をサラッと見て言った。
「頑張ってみる……」
そういってくれたのが、嬉しくて桜桃の表情は明るくなった。椥紗との間は、何か引っかかりがあるけれども、音楽を介すればもっと理解できるようになるかもしれない。そう思ったのもある。椥紗がうまく弾いてくれて、桜桃もラック君の魅力を引き出せるよう演奏が出来たら、更に機会が繋がっていくはずだ。たくさんの人の前で演奏をする事ができるかもしれない。そうなれば、きっともっと自信が出てくると思う。何かが変わるかもしれない。
椥紗は窓を閉めて、その後扉の方へ向かった。
「練習の邪魔したくないから、帰るね。楽譜は……」
「うん、練習終わってからコピーしに行く」
「了解」
そのやり取りの中で、椥紗が嬉しそうに見えて、良いなと桜桃は思った。そして、部屋の脇に置かれていた譜面台を出してきて、楽譜を出し、あとはヴァイオリンのラック君を準備すれば、弾けるような状態にした。
弾けると思うと嬉しかった。奏でることが出来るともっと楽しくなった。ヴァイオリンの音が好き。自分でその音を紡いでいきたい。そう、思った。
音を鳴らせば鳴らすほど、ラック君のことがもっと好きになった。どんな風に触れたらいいのか、ラック君と身体や心を合っていくようだった。波が起こり、恐怖や負の感情がそのうねりの中に飲み込まれていくようだった。桜桃とヴァイオリンを遠ざけさせたなぎさちゃんの言葉もその中に吸い込まれていくようだった。
練習を終えた後、売店のコピー機に行く。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の楽譜をコピー機のガラス面にくっつける。この行為をしている間も、気持ちが昂っている自分に気が付いた。ふわふわしていて、落ち着かない感じもしたから、それを上手く制御しないといけないとは思ったけれども、それを超えるような柔らかい光が下から溢れてくるような感じがした。
(これ、なずちゃんも喜んでくれる音楽が出来そうってことだよね)
部屋に戻ると、リビングには椥紗が居た。
「あ、おかえり、桜桃。ご飯食べた?」
「えっと、まだだけど」
「蒼佑がおすそ分け持ってきてくれた。左の冷蔵庫」
とりあえずは荷物を部屋に置いて、着替えてホッとしたくて、頷いた。
「椥紗、今日は、居る、よね?」
「居るけど……桜桃、何か言い忘れてない」
「えっと、楽譜のこと?」
「……それはあとでいいんだけど、大事なこと」
「大事なこと?」
本当に何のことを言っているのか、桜桃には分からなかったから、何か腹立たしいなと思った。
「私ね、おかえりって言ったの。…だから、何か言葉ほしいなって……」
椥紗は強い調子で言ったのだけれども、ちょっと恥ずかしそうに顔を赤らめた。それを見て、現れたムカムカが引いていくのが分かった。
「うん……ただいま。ちょっと待ってて。すぐに、着替えてくるから」
「いいよ、慌てなくて。挨拶、よくできたから、ごはん、温めておいてあげる」
「……うん。ありがとう」
何かムカつくけど、そういうものだと思って、受け入れようと桜桃は思った。
椥紗は、宣言通り蒼佑の差し入れを温めておいてくれて、器に奇麗に盛り付け……ようとしてくれた。整えようという心意気は見えたのだけれども、はっきり言って奇麗じゃなかった。だから、桜桃は椥紗が不器用であることが分かった。ちょっと哀れに思った。完ぺきではない椥紗を見て、ホッとした。
椥紗には大きな力がある。射撃部の部長に選ばれたり、明るく振舞って周りを元気にしようとしたり……それが桜桃には羨ましかった。椥紗の仕草が乱暴になってしまったりすると、椥紗の力は予想外のところに飛んでいく。その力の痕跡を見て、桜桃は凄いと思ったし、怖いと思ったしその両方が交じり合った感情は、嫉妬と呼ばれるものなのかもしれないと思った。
「ねぇ、部長って、大変?」
マグカップに飲み物を入れてテーブルの方に向かってくる椥紗に向かって桜桃は問いかけた。
「うーん、なんか大変かもしれないけど、仕事があるわけではなくて……まぁ、大変」
(え、どっちなの)
桜桃と椥紗の間に微妙なぎこちなさがあるのを椥紗も意識しているようで、それがおかしな言葉に繋がったのかもしれない。「羨ましい」なんて思っているから、上手くいかない。桜桃は、椥紗が用意してくれた箸をまっすぐに整えて、箸置きに置きなおした。
「慌てなくてもいいのに」
「だって、ほら、お腹すいてるだろうなって思って、うん」
自然に誰かを気遣えるのは、凄いことだ。だから、人が付いてくる。椥紗の周りには人が寄ってくるんだ。射撃部部長なんていう肩書に憧れているんじゃなくて、他の人をを引き付ける椥紗の力に桜桃は嫉妬しているのだ。
「あのさ、私、生徒会選挙、頑張ろうと思うんだ」
桜桃は躊躇を振り払って、自分の考えていることを口にした。
「生徒会? あ……あれ、か」
椥紗は生徒会にあまり興味ないみたいだった。
「生徒会長。学校の代表。この前、説明やってたでしょ」
「うん、まぁ、分かるけど。りーまちゃんに見ておくように言われて、ちゃんとみたんだけど、なんか、私には関係ないなって」
「生徒の代表、私たちの代表のことなのに?」
「うん、確かにそれもわかるんだよ。大人の選挙と同じで、自分たちの社会のことを決めていく代表を決める大事なものだっていうこと。でも、何だか、私には違うなって」
椥紗はちょっと困ったような顔をして、彼女の意見を話していた。
「こんなこと言ったら、だめかもしれないんだけど、りーまちゃんが何か頑張るとか言ってたのは聞いたけど、桜桃は意外だなって」
「だめ、かな」
椥紗は頭を横に大きく二度振った。
「え、いいね、それって思ったけど、意外だなって」
「意外って、どういう意味?」
「えっと……」
椥紗は言いづらそうにしていた。桜桃はその言いづらそうにしていることが、椥紗の桜桃に対する感情の本質だと思ったから、聞きたいと思った。そして、話題を少し逸らした。
桜桃は、一呼吸置いて、椥紗をじっと見たあと、口を開いた。
「椥紗はやろうと思わなかったの?」
「えっと、りーまちゃんに立候補すればって言われたことは言われたんだけどね。ほら、生徒会に入れば、より学校の運営の人たちとより交渉しやすくなるし。部活を続けていく上でも、確かに有利になるし、まぁ仕事もかっこいいし? でも、私には無理かもって思った。色々ややこしんだよね。自分がこういうことやりたいって思ったら、根回しとか、そういうのがあって。射撃部のことは、レオンと珊瑚が色々やってくれて、お金のこととか、全部お任せで。私一人ではできなかったなって思ったの。なんか流れでなっちゃった部長だしさ」
聞いてると、また桜桃の旨がムカムカしてきた。それを悟られないように、マグカップを手に取ってのどを潤した。
「大丈夫?」
「……羨ましいな」
「え」
「何でもない」
「えっと、あの、さ。なんて言ったの?」
その言葉は桜桃にとっては不覚だったから、もう一度なんて言いたいわけがなかった。
「いい。気にしないで」
「ちょっと、気になるから、もう一回言って、どういうこと?」
「言わないよ」
言いたくもないのに、もう一度言わせようとするのは鬱陶しいし、腹立たしい。その後は微妙な空気が流れたけれども、その沈黙の中で桜桃は用意してくれたご飯の箸を進めた。椥紗は明らかにばつの悪そうな顔をしていたけれども、その方が静かに食事をするのに都合がいい。
ちょっと重い空気だったのに、椥紗はそこに座っていた。この空気から逃げようと思わないんだろうか。一通り箸をつけた後、桜桃は椥紗に話しかけた。
「それで、楽譜のこと、だけどさ」
「うん」
「これ、結構難しいかもしれないんだけど。ちょっと皆の前で弾いてほしいと思うんだ」
「え」
椥紗は、何が言いたいのか全く分からないような顔で応えた。今なら椥紗に対して強気に注文を付けられるような気がして、思い切って言った。
「生徒会選挙では、自分のことを知ってもらうための最後のPRがある。その時に、これ、弾こうと思って」
「えっと、要するに、本番で、私も弾くってこと、だよね」
「うん」
「それってさ、芸術科の音楽の専門家が居る前でやるっていう感じだけど……」
「やる。だって、私、弾けるから」
そう言えた自分が不思議だった。いつもは及び腰なのに、なぜか腹の底から強い気持ちと言葉が湧いてきた。
「凄い勇気だな。なら、応援したいけど……私、本当に大丈夫かな」
「大丈夫。きっと椥紗なら弾けると思うし、それにちゃんとしないといけないのは私だから」
ヴァイオリンだけでなく、ピアノの伴奏付きで弾くことで、曲の魅力が変わることは、桜桃も椥紗も分かっていた。そして、伴奏の弾き方次第、いや、そうじゃない。伴奏と主旋律の息の合わせ方も、その曲のイメージを変える。椥紗と合わせることができたら、それがステージの上で出来たら、椥紗に対して覚えている嫉妬のようなモヤモヤとした感情もきっと変わる。そう思った。
布引雫と井筒糸雨は、リビングをシェアする部屋に住んでいる。同じ屋根の下に年頃の男女が住んでいるということは、欧米のシェアハウスでは、あり得るが、日本ではそうでもない。勿論ベッドルームは別なのだが、年頃の男女が、キッチンやリビングを共有して同じ区画に居るということには雁湖学院の教員を含むスタッフの間でも賛否があった。理事長の椎野真生は生徒の自主性を大事にしている。16歳を越えているのだから、生徒たちが自分で判断するべきだと考えていた。
真生は、一般的な考え方とはずれているところがあったから、彼に任せていては、無秩序が生まれるだけで、健全な学校環境とはかけ離れたものが出来上がるという結論になり、彼を支える周りの人間が、体制を整える、何らかの制度を作るということになった。その中心になっているのがピクシーと呼ばれる真生の右腕の一人である。彼を中心として個別対応のグループが作られ、そのグループはまず雫と糸雨と議論をするということが必要だと考えた。
2人が一緒に住みたいというのは入学時からというわけだから、入学前から、2人に接触して考えを聞き出していく必要があると考えた。2人、ついでに浅木海里も通っている首都圏の中学校の近くのギュフの店舗の会議室で話し合いの場を設けて、様々な大人たちも含めながら、どうするのが良いのかと話し合いを重ねてきた。
頭の痛くなるような事例ではあるのだけれども、不思議とピクシーはこれに関して面倒なこととは思わなかった。寧ろ若い世代の人間が、与えられた条件の中で自由に生きることの手助けをする大切な仕事だと思ったのだ。
雫と糸雨の2人は、自分たちの望む練習環境を手に入れるために、雁湖学院のスタッフの働きかけに対して、積極的に関わった。雁湖学院のスタッフからは、自室にピアノを持つこと、部屋の防音は保障されるとのことだったから、雫と糸雨でピアノをシェアしていつでも練習ができる環境にしておくのが一番いいと考えた。雫と糸雨は性格だとか考え方も合っていて、一緒にいるのが苦じゃない。
「でもね、私はこう思うの。恋愛をするなら、外がいいわ。恋愛がうまくいかなくて糸雨や海里と共演できなくなるのは嫌だもの。ボロボロになる恋愛を体験してもいい。そうすることで共感できる楽曲は増えるし、重い気持ちを抱きながら聞いてくださる方たちにも寄り添えるようになるかもしれない」
そんな風に考えるようになったのは、海里の音楽をしょっちゅう聞かされているからというのがある。海里の音は、10代そこそこの子供とは思えないほどの喪失感や絶望があって、それが納得のできる重さで、深い。そんなものを聞いていたから、雫の考え方は変えられた。そして、自分の音楽をより高めるためにも、海里の傍は離れられないと思った。その深淵に触れて、自分も成長したい、と。その雫の考え方は、大人でも達せないような考え方で、ピクシーは驚いたし、その考え方に寄り添いたいと思った。
真生には劣るが、ピクシーも頭のねじが何本か抜けているというか、ちょっと考えられないところにビスが入っているというか、普通とは言い難い考え方をするところがある。雫と糸雨の2人が大人として同じ区画に住むというのにあたり、個別対応のグループでは、教育が必要という結論に至った。グループのメンバーたちは、男女間のモラルや、性教育という、まぁ中等教育や高等教育でやるようなありきたりな意見を出したが、ピクシーは通過儀礼を経ることが必要と考え、ピクシーが通過儀礼の代表例と言われる割礼について理解をする講義を2人に受けるよう促した。
割礼とは、男性器若しくは女性器の一部を切開・切除する外科的な手術の事を指す。男性器の包茎手術のようなもので医療行為であるのだが、女性器の場合は人権侵害とも取られることがある。割礼を行うことで性行為に伴う快楽を失わせることで、不貞行為を防ぐことも意図されている。麻酔や鎮痛剤を用いずに外性器を切除することで、純潔性や貞操を保つ。愚かしい行為とは思えるが、世界には未だに行われている地域もある。
女性の不貞を防ぐとか、女性の奔放な生き方を制限するために行われていた慣習は割礼の他にもある。中国の纏足は、小さな足が美人の条件とされていて、そのため小さな子供のうちから足を縛って、成長しないようにするというものだ。そうすることで、身体が大きくなっても足が成長しておらず、上手く歩くことができない女性になった。
ピクシーの作った講義は、雫と糸雨が大人の男女の間の関係性を学ぶことに対して、効果的だったのかどうかはかなり疑問な内容だったのだが、2人はそれなりに大人の意図を汲み取ったようである。
「確かに、高校時代に同級生の男子と一緒の部屋に住んでたってなると、まぁ、私の貞操観念はどうなってんのってなるだろうけどさ。ま、私はもうピアノに魅せられちゃってるから、他のどのようなものも私を虜にすることは出来ないと思うの」
「そのきっかけが、海里のピアノってわけか」
「そ、だからって、海里に惚れてるわけではない。『結婚したい』っていう盲目的なファンっていうのの真理はいまいちわからないわ。海里は他の誰かを想いながら弾いていて、それを見て惹かれるのに、その想い人になれるって本気で思ってるって愚かだと思わない? 演奏の本質を理解していない。まぁ、大衆向きの評価に踊らされるファンが居るからこそ演奏家の商売は成り立つわけだけど、そこらへんがね、どうも納得できないのよね」
「まぁ、それで食わして貰えてる立場の方は何も言えませんって」
「いやぁね。糸雨は大人だから。私はそこはこだわりたいと思う。だから、私はいつまでも子供って言われるのかもしれないけれど」
糸雨は、はいはいと頷いた。聞けば聞くほど、自分の気持ちが報われないことを糸雨は思い知らされる。それでも、雫の傍にいられるということを選んでしまう自分を糸雨は痛々しいと思うが、どうしようもならなかった。
「それで、打診されていたのは受けるつもりなの?」
「ああ、一応ね。合わなかったら止めるけど」
糸雨は思う。傍にいるからこそ、知りえることがある。彼女がどうしているのかがわかったとしても何もできないけれども、知っている、それだけで、何か満たされる。