水の物語 3.役割
3.役割
篠塚椥紗は、射撃部部長に選ばれた。選ばれるために何かをしたわけではない。流れの中でそういう役割が回ってきたのだ。そういえば、小さい頃は元々リーダーとか、何かを代表するものになりたいと思っていたように思う。射撃部部長だからと先生から手渡された茶封筒の塊は、特別な物だと感じたし、それに何か、優越感みたいなものを覚えた。きっとそうなることを、百舌陽一郎も、岩下珊瑚も、織原レオン謙人も気付いていた。まだうまく話ができるような関係ではないけれども、百舌聖も椥紗がリーダーに向いていることに気付いていたようにも思う。
いつから、リーダーになりたいと思うことを止めたのだろうか。中学校の時は、リーダーになることを怖いと思っていた。女ばかりの学校で目立つと、いじめの標的にされてしまうような感じがしたし、実際にそうだった。いじめは、いじめをする人が悪いのだからいじめられないように振舞う必要なんてないはずなのに、現実にはそうはいかない。気を付けていたはずなのに、案の定、いじめにあって、最後の一年はあまり学校に通うことすらできなかった。中学校では、グループで何かを活動することだってできなかった。だから、何かの代表になるなんてことは考えもしないようなことだった。望んだってかなうはずがない。絶望を経験すると、淡い期待は脆く空気に溶けてしまった。
チャンスは突然やってくる。封筒に入っている白紙の企画書は、面倒くさいものではなくて、ワクワクするものだった。何かの代表になって、そのグループを引っ張っていくという責任を負い、グループを盛り上げていく。そんなことを望めないと思っていた。不思議だな。なぜかうまくいっているんだ。
部活動として1つのグループを立ち上げるためには、5人の部員を必要とした。部員というのは、雁湖学院の所属でも、社員やアルバイトといったギュフの所属でもいい。ReGというアプリを利用するためのIDを持っている人ということが部員になるための条件だった。ミーティングは、寮の食堂で、篠塚椥紗、百舌陽一郎、岩下珊瑚、百舌聖、織原レオン謙人の五人が集まって行われた。最初に、百舌陽一郎の牽制のような言葉があった。
「やるからには良い成績を残すよな?」
「当然でしょ。何事もやるからには本気で取り組むに決まってる」
陽一郎に続いたのは、聖の強い言葉だった。
よくあるような流れなのだけれども、この流れが、椥紗の頭痛の種になった。この二人の言葉が、部活の方向性を決めた。元オリンピック選手、百舌陽一郎が本気でやる。そういうコンセプトで、部員になる者は、全国大会を目指すのは当然という部活の雰囲気が作られた。
「じゃあ、俺は、マネージャーかな」
レオンが手を挙げてそう言った後、珊瑚も偉そうな雰囲気で続いた。
「私も同じね。銃の中身やメンテナンスには興味があるけど、撃つことにはそんなに興味ないし」
本気で射撃をしようとしているメンバーは、篠塚椥紗、百舌陽一郎、百舌聖の三人で、そのうち陽一郎はコーチみたいなポジションだから、実質競技者としてやるのは椥紗と聖の二人しかいないということが分かった。
そもそも椥紗もそこまで競技に興味があるというわけではない。椥紗は、射撃はやりたいと思っていたけれども、どんな風にその競技と向き合うのかまでは考えていなかった。ただ、頭の中では、珊瑚が持っている魔装銃を扱う時のことだけを想定していた。浅はかな考えだけれども、椥紗が魔法のような力と繋がりを持つためには、これくらいしか方法がなかった。
結局、椥紗は、颯のことをあまり知らない。双葉が颯から距離を置いているのだから、椥紗と颯が仲良くなって、風の力が使えるようになる……という形になれば椥紗としては1つの目的が達せられるのだが、颯は椥紗のところにやってきてくれない。風を操ることができるというのは、双葉が特別な力を持っているからで、それが椥紗に出来るようになるという確証はない。双葉の特別な力というのが何なのかは分からない。そもそも風は気まぐれなものだし……。
「双葉みたいに、修行とかそういうのできたらさ、全然違うんだろうけどなぁ」
双葉は毎日山の方に行って、力を高めているらしいけど、律は椥紗がついていくことをダメだという。双葉が出かけるときは律と一緒だから、ついていくことはできないし、色仕掛けとかそういうので連れて行ってもらうこともできない。
「颯……。もうさぁ、どうしたら君は現れてくれるのかな」
学校の廊下を歩きながら、途方に暮れていた椥紗の横を、スッと風が通っていった。それが颯だと分かったのだけれども、それに確証はない。現れるときには、突然で、前よりもはっきりと分かるようになった。椥紗と颯との距離は確実に近付いていて、椥紗に風の力というものがあるのだとすれば、それは確実に進歩はしているのだけれども、どうすれば、もっと見えるようになるのか、感じられるようになるのか、操れるようになるのか、その糸筋は全くつかめない。
何かできるとすれば、魔装銃を操れるようになること、くらい……。銃を撃てるようになるということである。銃を打つトレーニングをしておけば、良い撃ち方ができて、狙った対象に対して、効果的なダメージを与えることができる。ただ、そもそも珊瑚が魔装銃を椥紗に使用させてくれるかさえわからない。
魔装銃というのは、弾丸にあたるクーゲルに風・水・火・土の四元素の力をそれぞれ宿し、それを銃に装填してその力を放つものである。魔装銃に風のクーゲルを背中の方から撃たれた椥紗は、数時間気絶することとなった。また、何かによって憑かれていた珊瑚が、講堂の客席に向かって、風のクーゲルを撃ったことがあった。その時は、風の力を操ることができる双葉が、その風の力を相殺させて、大きな事故に至らないように収集をつけたが、その時に相殺しきれなかった風の力が、講堂の天井に穴が開けるということがあった。
椥紗は、魔装銃を撃たれたことはあるけれども、撃ったことはない。安全に撃つことができるかとかそういうレベルではなく、撃ったことがない。
(近いようで遠いんだよな。……魔法までの距離)
椥紗は、魔法と呼んでいるが、その力は目に見えないものとして、様々な名前で呼ばれる。魔術、呪術、妖術……それは、科学の範疇では説明ができない超自然的な力を指す。幾つかの川が集まるこの雁湖という場所は、単に上流の水を集めるだけでなくそういう力も集めている。だから、珊瑚が何者かに憑かれて、魔装銃を暴発させた。……そういう事件もあった。あの時、その力が人のいる客席に向かって放たれてたら……けが人が出たかもしれない。運が悪ければ死んだ人が居たかもしれない。魔法は安全な力ではない。
だから、皆を守れるように双葉は魔法の力を高めようとしている。実際に双葉が、相殺させたから、魔装銃から放たれた力が人間に当たることはなかった。強い力を持つことは、「正当防衛」として必要なことだ。彼女のやろうとしていることは、正しい。一方で、椥紗がやろうとしていることは、ライフルで正確に標的に当てるということだけだ。椥紗がに魔法の力はない。ライフルを撃つ力を習得して何になるのか。ビームライフルはただの赤外線光線だし、デジタルライフルも実弾ではない。エアライフルは実弾だけど、ただの鉛の弾だ。高校生を対象とした競技ではないが、火薬を使ったスモールボアライフルという競技もあるから、そのとっかかりとして、エアライフルのトレーニングをするというのはアリだろう。1970年代の浅間山荘事件で使われたのはこの口径の銃だったらしいし、それで人が殺されている。ライフルは、今現在、この世界で戦争の中にある人たちが手にしているような武器でもある。歴史ででてくるような話よりも、今同じ時間を生きている人たちの方が想像しやすいかもしれない。
(でも、銃で誰かを殺したいとか傷つけたいとかそういうのはない。むしろ、絶対やだしなぁ……)
椥紗の頭の中で大きなウェイトを占めているのは、銃のことではなく、魔法のような力の方なのだ。自然の大きな力、それが操ることができるようになれば、いいのに。自然の力の脅威を示したのは、2011年の東日本大震災だろう。その時に東北の太平洋側の街が大きな被害に遭った。揺れによる被害もあったけれども、大きな津波がやってきて、街を飲み込んだ。人間の想像を超えたようなできごとだった。
地震の研究家とか、研究所のえらい人とかが様々な予測を付けていたし、どういうメカニズムでその地震が起こったのかという説明は様々なテレビ番組で見た。東日本大震災に関わるドキュメンタリーといった番組をいくつも見たし、インターネットで地震についての情報を調べたり、本を読んだりもした。たくさんの情報はあった。だけど、次にいつその地震が起こるのかという正確なことは分からない。人間の寿命はたかだか100年程度なのに、地震の周期は100年だったり、1000年だったりで、何分何秒後とかそこまで細かいことは分からない。東日本大震災は、そもそも予想されていたことだった。太平洋沖で地震が起こる。東日本大震災は、予想の範囲内にあった地震だった。それでも2万人を超える死者、行方不明者を出した。一方で、避難訓練をしていたから助かった命もあった。
自然の力で起きる災害も人間の眼には見えない力というわけだから、魔法と捉えることもできる。目に見えない魔法の力のことを考えることは悪いことじゃない。だけど、必要以上にそれにこだわらないほうがいい。椥紗には、双葉のように力が見えるわけじゃないんだから。部活動を始めるというのは、余計なことを考えるのを止めるのにも役に立つ。珊瑚は椥紗を馬鹿にするように言った。
「引きこもりが部活動を始めるというのは、立派な前進じゃない」
「それは、珊瑚もそうでしょ」
「私は中学校に行くことに意味を見出せなかったから行かなかったのよ。いじめられるのが怖くて行かなかったアンタとは違う」
出席日数が少ないという点は同じじゃんと反論したかったが、反論したところで珊瑚に口先でかなうはずはないし、そもそも珊瑚は不登校だったことに対して、後ろめたさとかそういうのはないから、何を言ったってダメージを食らわないことは分かってる。
「ねぇ、最近は研究してないの?」
「……部活の方が面白いからね」
「そうなんだ。意外……」
「部活だけじゃないわ。学校の勉強もなかなか悪くない。この前の化学は悪くなかったわ。実際にギュフの製品持ってきてナイロンの説明するんだもの。実際にナイロン製品をパッケージから取り出して、火をつけて燃やしてみたり……」
「パッケージを開けるっていうのが面白かったよね。本物を実験してるっていう感覚にドキドキした。これは熱に弱いから、キャンプファイヤに持っていくのはダメだとか、このウィンドブレーカーは熱に強いし温かいから、オッケーとか。ギュフの製品に大分毒されてる感じはするけど、でも、製品で実際にやる方が役に立つ知識になってる気がする。この製品が燃える、燃えない、風を通す、水を通さない。他の会社の商品は似たようなものだし、1つの会社の製品について色んな事を知っていれば、これはアレに似ているとか、感触、テクスチュアから連想出来て、危険を回避できるかもしれない。実験室で実験用に渡されるものって、現実とは違うように思うからさ、やっぱり売られている商品を使わせてもらうとうまくリンクする感じがする。どうして勉強するのか。先生がそういうのを伝えようとしてくれている気がする」
「でも、それは、所詮他の人間が見つけ出した知識に過ぎないのよ。実験っていうのは、どうなるか分からないから面白いの」
「それは、危険でしょ……」
「それでもやるのが、うちの家の人間よ」
だから、魔装銃なんていう発明ができるわけか。無謀ともいえるような実験を繰り返すという岩下家の家訓……、それが失敗することを恐れない珊瑚を支えているのだろう。
「じゃあ、魔装銃は、より使いやすくなったりしたの?」
「最近はやる気が出ないの」
「あっそ」
魔装銃のことを聞いても、何の躊躇いもなく答えてくれる。天井に穴をあけたり、他の人にケガをさせたりするようなことをしたわけだけだから、戸惑ったりするものかと思ったけれども、ケロッとしているのは椥紗からすれば意外だった。
「どう計算したって、天井を開けるような出力が出るはずないのよ。……確かに空いてたあいたわけでしょ」
「まぁ、あいてたよね」
穴が開いた天井はすぐに補修工事が行われて、数日後には何もなかったかのような状態になっていた。天井に穴があいたのは、想定を超えた強風のためで尤もらしい自然現象のためで、魔装銃から放たれた風と、双葉が呼んだ颯の間で起こった衝撃のことはなかったかのような物語が作られている。
「あれは、本当にあったんだよね?」
椥紗がそう尋ねると、珊瑚は頷いた。
「夢だったと勘違いさせるような説明がご丁寧につけられているけど、あったはずよ。私は大分意識飛んでたけど」
「じゃあ、覚えてないんじゃん」
「アンタだってちゃんとは見えてないでしょ」
「そうだけど……。そっか、嘘が本当になっていく、そんな魔法があるのかも」
「魔法?」
「……想定外の自然現象っていうのが、本当になる魔法。そして、本当に起こったことが嘘によって上書きされちゃうの」
「何、その魔法?」
「歴史とかってそういうのが結構あるって言ってたよ。歴史って記録に残っているものがベースに作られているじゃない。だから、その場所を統治していた、王様とか偉い人のことしか残ってない上に、その記録の中心になる王様が正しいように描かれてるでしょ。実際にそうだったかもしれないけど、嘘だって書かれているはず。その王様の正当性を主張するために、敵の勢力をより悪いように書いたりとかして、相手の像が全然違うものとして伝わっていることとかある。そういう魔法」
「魔法じゃないでしょ。それは、科学的な事実に基くものでしょ」
「魔法は、いつも科学の外側にあるわけじゃない」
「それで言いたいことは?」
「珊瑚はさ、風、水、火、土の四つの元素をベースに魔法っていうものを考えてるけど、魔法ってそれだけじゃない。嘘が本当になる魔法、かけられてそうだから気をつけなきゃなって思ってさ」
椥紗にもはっきりと見えたわけじゃない。なんとなくそうじゃないかなと思ったくらいの出来事だった。魔装銃から放たれた大きな風の力と、双葉の放った颯の力がぶつかったということは、なかったことになってきている。双葉と律は見ているけれども、その事件があったことを誰かに主張したりはしない。雁湖学院は、その事実を知っていて消そうとしているのか、それとも説明がつかないから想定外の自然現象という風に説明しているのか。その差は微々たるもののようで、結構大きな違いのような気がする。
魔装銃について突っ込んだことをきいてもよさそうな雰囲気だったから、椥紗は質問をぶつけた。
「何であの時、天井を壊すような大きな風が出たの?」
「分かんないわよ。考えたって分からないのよ。だからしばらく研究は止めてた。分からない時は、一旦離れてみる。それも大事なことなのよ」
珊瑚が考えることを拒否しているのに、椥紗はその空気を読まず続けた。
「あのさ、良く分からないんだけど、そもそも魔装銃ってどういう仕組みになってるの?」
「……クーゲルが、風、水、火、土の四種類あって……」
珊瑚は渋々ながらも答えてくれる。
「それぞれの性質を理解すること。そして放たれる力をイメージすること……」
「なぜイメージしたものが、現実になるの?」
「そういうものなのよ。これは私が作ったわけじゃないもの。使い方は分かってる。詳しい仕組みは分からない」
「えー。そうなの? なら、そもそも、珊瑚もよくわかってないんじゃん」
「だから、実験してたのよ。どうイメージすれば風の力が出るのかって。思った通りになったわ」
「実験の段階で、私に当てたんかい」
「アンタなら丈夫だと思ったのよ」
「それは、どうして?」
「理由なんてないわよ。アンタに当てればうまくいく、そう思ったの」
「それって……ただの迷惑なやつ」
そういう迷惑なやつが珊瑚だというのは、一緒に暮らしていて、大分分かってきた。珊瑚は椥紗の話はいい加減に聞きながら、自分の話を始めた。
「講堂での事件があった時、私は、所謂酩酊状態だったのよ。別にお酒を飲んだわけではないけど自分が何してるのか、朧げには覚えているけど、ちゃんとは覚えていないそういう状態。お酒に限らず、睡眠薬とかそういうのでも、意識がはっきりとしないという状態にはなる……」
「薬を飲んだ覚えは?」
「ないわよ」
「じゃあ、そういう魔法をかけられたとか……ってこと?」
「……それもありうるのよね。では、誰が私を酩酊状態にしたのでしょうか?」
「……誰が?? 誰かが珊瑚を意図的にそういう状態にしたってこと? 珊瑚を狙ってってこと?」
「それもありうるってこと。だとしたら、危険だと思ったの。クーゲルには、四元素の力が充填されていて、力を使える奴にとってはそれが良い標的になるみたい。こっちは相手のことが見えないわけで、分からない状態で、魔装銃を扱うっていうことで事故が起こるかもしれない。私自身そういうのを気にしてるのと、双葉にもしばらく距離を置いた方がいいって言われたのもある。隠すのは得意らしいから、クソ狐がうまく隠してくれてるけど、しばらくは使わないようにしようかなって」
「へぇ、考えてるんだ」
「安全対策も科学者の務めよ」
(そんなこと言うのに、私で実験するわけで、全然説得力ないけど)
椥紗は恨めしそうにジトッと珊瑚を見たが、すぐにそんなことを気にしても仕方ないかと気持ちを切り替えた。
「それで、りっちゃんと双葉も噛んでたのか」
「アンタが魔法って呼ぶ力については、あの二人に聞くのが一番でしょう」
「ま、それは否定しない」
「双葉には感謝した方がいいわよ。あの子は何でかしらないけど、椥紗を守る気でいる」
「……何でだろ?」
「さぁ、それも謎ね」
「私、何かした?」
「知らないわよ」
「でも、双葉が私を好きでいてくれているなら、その気持ちを大事にしないと。あ、恋人とかそういう意味じゃなく」
冗談をいって照れ隠しをした椥紗に、珊瑚は言った。
「……人が人を好きになるのに、理由なんて考えなくていいんじゃない?」
「ま、そうかもね」
双葉は中学校の頃からずっと見守ってくれているわけで、そこには好きという気持ちがあるからだろう。その好きは、見返りを求めていない好意で、そんな気持ちを抱いてくれていることに対して、嫌悪感を抱かず尊いと思える。椥紗と双葉の間の好意は、絆と呼ばれるもので、それがあるから一緒に居たい、そういう風に感じさせてくれるようなものでもある。
「あのクソ狐は、双葉の椥紗に対する気持ちを大事にしてくれてるみたいよ。弟子ができて面白いっからなんて言ってるけど、それは照れ隠しみたいなものよね。双葉が力を得ることに協力的。アイツは悪い奴じゃないわ」
「不思議だよね。何で、りっちゃんが良い奴になっちゃったのか……。私としては嬉しいなって思うんだけどさ」
そもそも敵のように思っていたのに、いつの間にか仲良くなっている。珊瑚はクソ狐と呼びながらも律のことを信頼している。律は、今二人が知っている中で一番力を持っている。それが双葉に対して協力的で、修行みたいなことをしてくれている。良く分からないけど、うまくいっている。
「悔しいけど、クソ狐の言うことは、間違ってない気がするの。なので、とりあえず、人間らしく学校で勉強をする」
「へぇ。りっちゃんは、勉強することも珊瑚に勧めてくれたんだ。それで、珊瑚、ちゃんと学校に行ってるんだ。全然クソ狐じゃないじゃん」
「アイツは、クソ狐よ。この街を狙ってるクソ議員とかと繋がってたこともあるんだから。今もクソな奴らと繋がってるのかもしれないでしょ。もう腹立つ。聖が、札幌からこっちに戻ってこないように監視したり、そのことを考えたらクソ狐ったらクソ狐よ」
(へぇ、故郷に対する想いって結構強いんだなぁ)
椥紗は、珊瑚の言葉から北大屋町に対する想いを読み取って、それを意外に思った。椥紗が黙っていると、珊瑚は不機嫌になって言った。
「何よ。何か文句あるの?」
「反応がヤンキーだな……」
「アンタが急に黙るからでしょ。……悪い?」
「ううん。良いと思う。珊瑚が、ちゃんと学校に行く気になっていて、学校の勉強がちゃんと身になってる。そうなりそうでいいなって」
珊瑚は椥紗の発言が上から目線のように感じてイラついた。
「だからと言って、別に研究をやめたわけじゃなくて……」
「分かってる。今は、普通に高校生らしく学校生活を送るのがいいのかなって、私も思った。私も頑張ろう。ちゃんと集中してさ。そっか。りっちゃん良い奴じゃん」
椥紗は嬉しそうで、思ったことを発言しただけだった。色々なことを散漫に考えているだけで、誰かを下に見たりとかそういうのを考えずに勢いだけで発言しているだけだ。言葉足らずで、勢いだけで発言するところは、不用意だけれども、悪いものじゃない。珊瑚は覚えた嫌悪感が消されてしまったように思った。
それが椥紗の持つ、不思議な力なのかもしれない。一緒にいると毒気を抜かれてしまうというか、ネガティブな気持ちが消えてしまう。椥紗が意図的にやっているという感じではなくて、自然とそういう風になっている。だから、駆け引きの緊張感がなくて、椥紗の創り出す雰囲気に飲まれてしまうような感じがする。
「ねぇ、りっちゃんは魔法の力のことどんな風に話しているの?」
椥紗は自分の知らないところで珊瑚が律にコンタクトを取って、色々相談していることを興味深いと思っていた。珊瑚を介してなら何か聞くことができるかもしれない。だから、聞いてみることにした。律は椥紗が魔法のことを知ろうとしても意地悪に接して何も教えてくれない。からかわれているという感じなのだけれども、適当にあしらわれて大事なことは教えてもらえない感じだ。その意地悪な態度が、椥紗に対してだけであれば他の人がアプローチをかけて情報を聞き出せばいいわけで、珊瑚から何か情報を聞き出せないかと試してみることにした。
「目に見えない存在に対しては、むやみやたらと関わらないべきだって言ってた。だから、しばらくクーゲルから離れろって」
「銃じゃなくて、弾の方なんだ」
「そう。魔装銃なんて名前が付いてるけど、銃には魔法とかそういう力はない。だからクーゲルを封じろってね」
「でもさ、珊瑚自身に大きな風の力の素養があったら全然意味ないのにね」
「残念ながら、私にはそんな力はないわよ」
「どうして? 分かるの?」
「私自身には、風とコンタクトを取るような力はないから。アンタや織原は、風を感じることは出来るみたいだけど、私にはない。認知ができないのに、風の力が使えるっていうのは、ちょっと考えにくい。私自身ではなく魔装銃かクーゲルを介して放たれたと想定するのが正しい気がする」
「え、そうなんだ。意外。それだけ魔法について色々知ってるから、使えるのかと思ってた」
「……私自身にはそういう力はないわ。装置とか機械とかがあれば、認識は出来るようになるかもしれない。研究して発明に結びつけられれば、アンタたちくらいに分かるようにはなると思う。ただ、道具は道具で、それがあるからといって力が備わるわけじゃない。一般的には、認識できることと、使役できることの力はリンクしてるみたいで、アンタと織原はそれなりに使えるのかもしれない。これは、推定に過ぎないけど」
「ほえー、色んなこと知ってるねぇ」
「先人の知識だから、あくまで推定……。ま、ムカつくけど」
「ムカつくのは何で?」
「分かるでしょ。自分にはないものを持ってるやつがいたら、ムカつくって思う気持ち」
「……即ち、嫉妬しているわけだ。良かった、珊瑚も結構人間っぽいじゃん」
「は、人間っぽいってどういうことよ」
椥紗は珊瑚の追及を煙に撒くように違う話題を振った。
「それで、その先人ってすごくない? その人に聞けば色々分かるんじゃないの?」
「残念ながら、居ないからね。そりゃあ直接聞ける方が得られることは多いと思うけど。記録を元に実験をして、その知識を検証する。そのプロセスで、新しい物を見出したり、アイディアを構築したり……。こんなことを話してると、研究したくなってくるじゃない」
「いいじゃん。今やらないだけで、またやるでしょ、珊瑚は」
椥紗は珊瑚がいい気分になるように、乗せてくれる。何の力があるわけでもないのに、元気になるような笑顔をくれる。
「そうね、私は風の力が使えないけど、銃の力を使って風の力を使う。足りないものを知恵で補う。実に人間らしいことをしているわけよね」
「人間らしい……か」
確かにそうだ。歴史の様々な局面で人間は知識や知恵を増やし、この世界の謎を解き明かし、科学の範疇を広げてきた。昔は仕組みの分からなかったできごとも、説明できるようになってきている。それを「人間らしい」なんて、珊瑚は、カッコいいセリフを言う。椥紗はそれを聞いて、思わず手を叩いた。
「ま、アンタは、好奇心が強くて、新しい発見に対して好意的だけど、私みたいな革新的な人間は得てして認められないものだもの」
「そうなの?」
「斬新すぎると、同時代の人間には理解されないのよ。クレイジーでいかれてるって。最悪の場合迫害を受けたりするわね。ほら、歴史の有名な人ってあまり良い死に方してないでしょ」
「迫害……魔女裁判とか? ジャンヌダルクとか?」
「イギリスとフランスとの戦争で、彼女が大活躍して敗北寸前のフランスが持ち直した、素晴らしい民衆のヒーローの聖女様か。フランスの人たちにとっては、大英雄だったかもしれないけど、権力者からすれば秩序を壊す危険分子……どんな存在も様々な面を持っている」
椥紗の問いに対して、珊瑚は含蓄の深い言葉を返してくれた。
珊瑚と話していて、椥紗は話が続くことが不思議に思った。椥紗の歴史の知識は、春日伊織仕込みで、彼女が歴史についての造詣が深いから、その話を聞いていて椥紗は歴史に関する教養が他の人間よりもある。そのために椥紗は、中学校の教科書に描かれているような内容が何か物足りないと思っているようなところがあった。そんな椥紗と対等に話ができる珊瑚は優秀なのだけれども、特に知識量の多さよりも視野の広さというのが際立っているように思える。
椥紗は、ことあるごとに伊織に歴史の話を持ちかけたし、伊織も歴史のことを知ってもらうために、椥紗が好きな漫画だとか、アニメだとか見て、その内容を絡めながら話をした。椥紗がもともと住んでいたところには、神社や寺がたくさんあったし、その場所にする慣習も大事にされていた。だから、教科書に書かれている歴史が、より具体的に現実味を帯びた状態で知識の中に蓄積されていた。奈良には、法隆寺や東大寺といった7~8世紀の歴史を受け継ぐものがある。この頃の時代は、中国や朝鮮半島との交流が盛んだったから、国際色豊かである。正倉院にはシルクロードを通って日本までやってきたような芸術品もあり、毎年秋に博物館で行われる展覧会ではその一部が公開される。展示される物が毎年異なっているので、それを楽しみにしているファンもいる。京都は、平安京が作られた8世紀の末から、明治維新まで日本の首都を担ったということで、歴史のある場所がたくさんある。太平洋戦争中の空襲の被害が少なかったこともあって、数百年の歴史のあるところもザラだ。戦禍に巻き込まれて、なくなってしまったものもあるが、実際に見られる経験ができる場所だ。北海道にいると、それが滅多にないということが分かった。京都駅と奈良駅は電車で約一時間の距離で、近いし、何より電車の本数が多い。県境をまたいでいるのに、札幌駅から新千歳空港の間くらいの距離だ。北海道は広く、街と街が遠い。距離の点でも、交通の便という点でも……。
そういえば、この雁湖という街には神社や寺、神道や仏教にまつわる場所、スポットがない。新しく作られた町だから? いや、北海道だからか? 歴史上、倭人と呼ばれた日本人が本格的に北海道に入ってきたのは江戸時代以降で、本格的に開拓使が入ってきたのは明治維新後だ。それ以前にも日本人は北海道に入ってきているし、松前藩がアイヌと交易をしている。アイヌには不利な交易で、倭人とアイヌの間には、支配、被支配の関係があった。こんな風に言うと、それはまるで昔のように見える。そうではない。誰かが誰かを支配するというのは、歴史上の出来事ではなくて、現在進行形である。家の中での親と子の関係、学校の中の先生と生徒の関係、その中でも支配はあり得る話だ。それは概して年上から年下への抑圧があるという風に捉えられるけれども、決してそうではない。子供が親を殺すこともあれば、生徒が先生を苦しめていることもある。
伊織は歴史を正しいものとして、教えなかった。教科書に書いてあるものは、一般的な認識に過ぎなくて、それは何なのかを話し続けていくことが大事だと言った。「歴史とは何か」という本を書いたE.H.カーに影響を受けたような言葉である。
珊瑚が話していることは、教科書に書いてあるものをそのまま捉えるのではなくて、くりぬいてその側面や裏側からも見てみるというような行為である。ジャンヌダルクという人物を取り出して見るだけで、彼女の生きた時代のことを事細かに知ることができるという歴史的なことだけではなくて、彼女の人生、彼女を裁判にかけた人間たちのことを見ると、人間とは何かという哲学的な問いさえ出てくる。
椥紗の目の前にいる岩下珊瑚という人間は、魔女裁判にかけられ処刑された革新的な女性、ジャンヌダルクのことをあっけらかんと話した。けれども、それは他人事ではない。珊瑚は、革新的で人とは違う行動を取る。時代が変わろうとも、人間なんてそう変わらない。だとしたら、自らがジャンヌのようになりかねないとも限らない。
「珊瑚は研究することをやめないの?」
しばらく考え込んだ後、椥紗は心配そうに尋ねた。珊瑚は、椥紗の視線をさえぎるように目を伏せて、答えた。
「止めれないわ。研究することこそが、私だから」
そう答えた珊瑚を椥紗はカッコいいと思った。そして、珊瑚にとっての研究みたいに自分の人生を掛けられそうなものが欲しいと思った。
椥紗は射撃部の部長として、創部にあたっての申請書一式を入れた茶封筒を与っているわけだが、それは別に椥紗が整えたわけではない。10代半ばの生徒たちには、容易ではないプロセスだったにもかかわらず、珊瑚とレオンのおかげでその申請書の内容を作るのには殆ど苦労しなかった。レオンは親が会社をやっているので、必要な書類とかを作るのは見よう見まねで慣れているし、珊瑚はコンピューターを使って何かをするというのは得意で、文字を入力するような作業は慣れている。これで監督には、元オリンピック選手の百舌陽一郎という体制で、運営はばっちりの体制だが、競技者は、椥紗と聖だけで、心もとない部活動だった。
部活動は基本週三回。週二回は、学校のジムでの基礎トレーニングで、一回は体育館で実際に撃ちこむ練習をする。週三回のうち、殆どが学校のジムで基礎トレーニングで、射撃をすることを目的として入部するのであれば、納得のいかないルーティンのある部活だった。椥紗と聖は、陽一郎の作ったメニュー通りにやっていたが、そのメニューは苦しくて、その割には撃てなくて、射撃をやっているんだか、ジムでの体力づくりをやっているのだかよくわからなくなってくるものだった。
納得のいかない気持ちは、顔にも表れているらしく、それを見た陽一郎は嗜めるように言った。
「本気でやらねぇなら、うまくはならないだろうな」
陽一郎にとって、本気でやるというのは、生活の中心に射撃を置いてやるということだ。試合の日程に合わせて、モチベーションを調整し、練習メニューを作る。その練習の時間に合わせて、自分の生活をコントロールして、試合に勝てる身体と精神を作った。生活が射撃によってコントロールされていて、射撃以外のことを出来るような状況ではなかった。椥紗と聖は、陽一郎のそれとは違って、学校生活を中心において、部活動としてやっていくわけで、正直、陽一郎の言葉は重た過ぎる。別にそこまで頑張る気はないし、仮に他をなげうってでもという気持ちになるかもしれないけれども、いやいややらされているという感じでは、絶対に辿り着けないような境地だと思った。
「射撃の強みは、銃さえ持てれば誰でも出来るということだ。生涯スポーツにもなってるし、デジタルとなれば足が動かねぇ奴でもできる簡単な競技だからな。本気にならないなら、俺が関わる必要はねぇ気がするなぁ」
「え、何言ってんの、陽ちゃん。陽ちゃんが日本の代表として活躍出来た背景には、国のスポーツ振興という税金が投入されている事業があるはずよ。国体の選手は、渡航費や滞在費を負担してもらっているから、試合ができるわけで、その税金の恩恵を受けた分はちゃんと返すべきだと思うけど。本気にならない競技者は相手にしないなんて、無責任だわ。次世代が射撃を楽しめるように振興する義務があるはずよ」
椥紗は、そう言い切った聖に驚いた。政治家の家に生まれたせいか聖は、社会に対しての責任感が強くて、それに突っ走るところがある。それで周りは振り回されるのだが、聞いている椥紗の方が恥ずかしくなるようなくらいまで正義感を示せるところは尊敬に値すると思う。
「私は、聖に協力はするけど、別に射撃には興味がないわ。ただ、メンテナンスは面白そうね」
「俺も運営かな。どんな風に人集めをするか。どうやってお金を何とかするのか。そういうのには興味はあるけど、競技自体はそんなに……」
珊瑚とレオンが、射撃に興味があまりなくても、部活動に関わりたいと思ってくれるところは、聖の強いところに惹かれてだと思う。ただ、珊瑚とレオンの態度が消極的だと、聖は納得がいかなかったようだ。
(それは仕方がないだろう……)
椥紗は珊瑚とレオンに同情したが、聖は二人を責めるように言った。
「あのね、こういう何かを始める時は、皆の士気を上げていくのが大事なのよ」
「まぁ、そうだね。でもさ……」
レオンが言葉に困るのは当たり前だ。聖は強引で、そのテンションについていこうとすると疲れてしまう。このままだと、この場の空気が悪くなってしまうと思い、椥紗は口を開いた。
「うーん。聖が機嫌が悪くなるというのは分かるけど、聖の態度も良くないんじゃないかな」
椥紗が思ったことを言うと、それに対して陽一郎が吹き出した。
すると、聖はレオンと珊瑚を攻めるような態度を緩めて、大声を出して笑った陽一郎を見て納得のいかないような顔をした。
「……だとよ。具体的には何がよくないんだ?」
陽一郎はその視線を椥紗に向けて、話を続けるように促してくれた。
「何だろう。強いって言うか、上から目線というか、マウントをとってくるっていうか……」
椥紗は、強いことが悪いことではないと思っている。けれども、この流れの中で、強いということがネガティブな意味で捉えられてしまう。レオンと珊瑚が、競技者として部活動に関わらないというのは、単に聖のせいではない。指導者である陽一郎が本気で競技に取り組むことを要請していて、その方針に従っているからだ。試合で良い成績を残す、真剣に射撃に向き合うというのは、数多あるやり方の一つでしかないけれども、この状況の中では、真剣に向き合うことが、一番正しいやり方で、その結果、競技者が椥紗と聖の二人になってしまったとしても、やむをえないことなのかもしれない。
どういう風に進めることが適当なのかと椥紗が考え込んで黙っているうちに、聖は責められているような空気が耐えられなかったのだろう。
「分かったわよ。私抜きでやりなさいよ」
聖は、腹を立てて、席から立ちあがってどこかへ行ってしまった。恐らく、トドメになったのは、椥紗の言葉だから、椥紗に責任感の針のようなものが刺さったが、椥紗としては素直に思ったことを言っただけだから、その針の痛みはそんなに感じなかった。寧ろ、聖が大げさに怒っているという風に見えた。
「これって言っちゃダメなことだったかな?」
椥紗が陽一郎に問うと、陽一郎は同情してくれた。
「いや、それくらい灸を据えるべきだと思うから、寧ろ、俺は良くやったって言いたいね」
レオンも続けて、椥紗を支持する言葉をかけてくれる。
「聖は、確かに強引なんだよ。強く出られるのは良く言えばカリスマだけど、一緒にいる人間は振り回されてしんどい思いをさせられるからね」
「アンタが、競技ではなくてサポートに回るって言ってるのは、振り回されたくないからでしょ?」
「その通り。君もでしょ、珊瑚」
「そもそも、アンタも悪いのよ、百舌陽一郎」
「……俺も譲れねぇことがあんだよ」
その言葉の中で椥紗は、この場にいる陽一郎、レオン、珊瑚が状況の把握をしっかりできているんだということを確認できた。
それもそのはずだ。レオンと珊瑚は聖と同じ中学校だったから、聖のことはよくわかっている。冷静かと思えた聖が突然激高することは、以前にもあったことで、二人は彼女との距離感の取り方を分かっている。この場合、聖が機嫌を直すまで、余計なことをしないで静かにしていることが肝要だということを教えてくれた。次に行うべきこと、それは、椥紗が一人で射撃部員の勧誘活動を行うことだった。
「まず、5人の部員を集めることで、グループを立ち上げることができる。そして、部員集めをする。どんな人が部員になってくれるかで、部の方針とか方向性とかは変わるから、まずは人集めしてみて、考える」
「ただ、聖がへそを曲げてるから、私たちがアンタと一緒に何かするってなると、機嫌を更に損ねる可能性がある。だから、見える範囲での勧誘活動は椥紗一人でやるのが良いと思う」
それは体のいい仕事の押しつけではないかと椥紗は思ったが、反論できるような意見はなく、おとなしくその指示に従うことにした。
ReGで部員募集をかけるほか、掲示板にポスターを貼るといった方法で部員を集めるのだが、掲示板のところに行くと、理真美もポスターを持ってやってきていた。そのポスターには、SDGs部部員募集という文字が大きく書かれていた。
「結局SDGs部になったんだ」
「そうなんだよね。持続可能な社会というのを考えるっていうのもやるから、間違ってはいないけど、何だか違うなぁとは思うんだよね」
理真美は渋い顔をしながら話を続ける。
「やっぱりまず人数をそろえないといけないから、流行に乗って、人を集める。そういう戦略でいこうってギュフの人に言われたの。私は、どうやって人を集めるかとかはあまり得意じゃないから、そういうのは大人に任せてて、その人たちがSDGs部がいいんじゃないかって言うからね。あまり納得はしてないんだけど」
「ギュフの人?」
「そう、うちは、鈴と蘭の二人も参加するけど、中心になるのはギュフで働いている大人になっちゃいそうなんだよね。だったら、その多数に従うのがいいのかなって……」
理真美はそう言ったけれども、それが不本意だということはすぐにわかった。理真美は、雁湖学院で何かしようと意気込んでいたし、それに対してこだわりも持っていた。なのに、実際に動き出してみると想像したようにはいかなくて、それでも納得しようとしてそういう言葉が出てきているのだと椥紗は思った。
「そっか、りーまちゃんも大変なんだ」
「『も』ってことは、椥紗ちゃんもだね」
「あはは。そだね」
違う部活動だけど、ポスターを一緒に貼る。同じ行為をすることで、二人の間に同志のような絆が芽生えていくような感じを覚えた。
「鈴と蘭が居るなら、一緒にポスター貼るのお願いすればよかったのに」
「二人は日本語の勉強中、ギュフの外国人向け日本語学習会に参加してるから、私しか手が空いてないの」
「え、そんなのあるんだ」
「外国人社員のための日本語勉強会なんだけど、基礎からだから二人にも是非って。ギュフってすごいよね。儲けた分のお金は教育に回そうとしていて、それは外の人ではなく、中の人を教育するために使おうというスタンスなのが。中の人なのか、外の人なのか、それで線引きをしてる。雁湖学院の生徒も中の人っていう扱いで、大人の人と一緒に勉強することもできる。それにも理由があるんだって、どうしてだと思う?」
理真美は色々なことを知っていて、椥紗はただ感心して相槌を打つことくらいしかできなかった。
「……なんでそんなこと知ってるの?」
理真美の問いに答えるのではなく、椥紗は自分の中に浮かんできた疑問をぶつけた。
「本当は、私の問いに答えてほしかったんだけどな」
「……あ、ごめん」
「いいよ。私ばっかり話してたし、そりゃあそういう疑問を持つのは当然だなって思うし」
理真美は違う話を振られたにもかかわらず、楽しそうだった。
「ここに来た初日に椎野真生さんに会って、お話しさせてもらって、それでちょっと親近感湧いちゃって、直接メールしたんだよね。そしたら、頻繁にやり取りしてくれるようになって。それでいろんなことを教えてもらってるの」
大企業のCEO、トップの人間に直接連絡をするなんて、凄い行動力だなと椥紗は思う。寮に来た初日に真生と直接話をする機会があったし、その時はとてもフランクに緊張感なく話をさせてもらったけれども、テレビや新聞に出ている有名人と直接メールをしているなんて、肝が据わっている。
「やり取りっていっても、真生さん本人は、忙しくて文面は秘書の人が書いてくれてるみたいなんだけど、ちゃんと見てくれているって言うか。それで、ギュフっていう会社がどういうことを考えているかがはっきりと見えて、安心する。私もここの社会の一員として認められている。私の話も聞いてもらえるって」
「でも、SDGs部っていうのには納得してないんでしょ? 別に自分の意見が通っているわけじゃないじゃん」
椥紗がひねくれたことを言うと、理真美は苦笑いをして言った。
「確かにそれはそうなんだけどね。流行を取り入れたり、盛り上がっていることを取り入れることで、訴えるものがある。その力を使うべきだって言う考えがギュフの社員のメンバーから出てきたの。ギュフ以外の社会で認められるような活動になればもっと大きな展開ができるんじゃないかとか、そういう意見もあった。私は、私の生まれ育った田舎の町に活気が出来ればいいって思ってるだけだけど、まぁ、名前くらいは譲ろうかなって」
理真美は、部活動を作ることに息まいていたから、それだけ思い入れもあったんだと思う。部活を作るということになって、実際に動き出すと、彼女のこだわりが消えていくように見えた。
理真美のものだった部活が、彼女のものではなくなっていくようでなんだか寂しいと椥紗は思った。でも、それを理真美はポジティブに捉えているようだった。だから、余計なことは言うまいと思った。
「……頑張ろうね」
椥紗はどう答えていいのかわからず、こぶしを握って理真美を鼓舞する言葉を掛けた。理真美は何かを察したようだった。
「そうだね。頑張ろうね」
目的のために自分の意思を曲げなければいけないことを理不尽だと怒りを表すのではなく、そういうものだと受け入れる。それは、しっかりと成熟してカッコいいことであると同時に、周りに迎合しているようにも見える。それはきっと理真美にとって不本意なことだとは思うけれども、椥紗には何もできない。
入部募集のポスターを貼る作業に集中して、どうしていいのか分からない気持ちを紛らわせた。
「椥紗」
すると誰かが椥紗を呼ぶ声がして、振り返ると、レオンが二人に手を振っていた。
「椥紗、お疲れ。あ、りーまも、勧誘活動中なんだ」
レオンは嬉しそうにこちらに向かってきていて、理真美も嬉しそうだった。
「あ、レオン君。椥紗ちゃんのお手伝い?」
「お手伝いって言うか監視? 部長が率先して呼び込みをすれば、他の部員はやる気になるでしょ。だからちゃんとやってるか、ってね」
意地悪な言葉をかけられて、椥紗はむっとした顔をする。レオンはマネージャーで、部員がちゃんとやっているかも管理することも仕事なんだろうけど、そんな言い方はないだろう。そういいながらも、椥紗の荷物を全部引き受けてくれて、言葉は彼の真意ではないことがわかった。
「りーまのも持とうか?」
「いいよ。私は違う部活だし」
「別に。関係ないよ。イケメンにイケメンらしいことさせてよ」
(うわー。自分に自信があるからこそ言える台詞言ったよ。鋼鉄のような心臓を持ったイケメンめ……)
身体が痒くなりそうな台詞を履いたレオンを椥紗はジトッと見つめたが、レオンは飄々とした様子で理真美の荷物を少し強めに奪い取って、少し前に走っていってしまった。追いかけようと思えば追いかけられただろうけど、それはレオンのペースに乗っかってしまうような気がしたから、放っておくことにした。
勧誘活動を続けることは出来ただろうけれども、レオンに荷物を預けてしまったから、雁湖学院の生徒用の掲示板から、寮に帰るしかなくなった。学校にはまだ人が結構居たし、一枚だけポスターを持っていたから、呼び込みのようなことをして部活動をPRするということも出来るだろうとは思った。そうすれば、ドラマとか漫画とかそういうのでやっている一般的な高校でやっているような勧誘活動のようなことができるはずだ。
(でも何か違うような気がするんだよな……)
学校の敷地は広いし、ギュフの敷地も入れると歩いて勧誘活動することは非効率でしかない。掲示板にポスターを貼っておけば見たい人は見るだろうけれども、積極的に行うべきは、インターネットを通じた勧誘活動になるだろう。積極的にビラ撒きをしたところで、受け取ってもらえるかは分からないし、紙という資源の無駄にもなる。勧誘活動をどのようにやるかという工夫も求められている。
レオンは、三人の寮の入口に居て、そこのベンチで椥紗と理真美の到着を待っていた。レオンは二人の姿を見ると、横に寄って二人も座るように促した。
「お帰り」
「ただいま」
個々の寮生たちは別に家族でも何でもない。でも、そういう言葉を掛け合うと家に帰ってきたという安心感みたいなものが生まれる。レオンは立ち上がった。
「ちょっとさ、りーまに聞いておきたいなって思ったんだけど」
「何?」
「SDGs部って、ギュフの社員が多いらしいけど、どんな感じなの?」
「どんな感じって?」
「社会人が高校の部活動に加わるなんて、変わった話だなって思ってさ。どうして、一緒に部活動をやろうってことになったのか、聞きたいなって」
レオンはニコニコと柔らかい物腰で話を聞き出そうとしている。
「おかしいかな?」
椥紗は、レオンの言葉に疑問を抱いて、割って入った。
「普通は、各学校ごとに部活動をするものだろ。高校野球とか高校サッカーとかテレビでやってるじゃん。こういうのって、学校ごとで、高校生だけのチームで……」
「高校野球とか高校サッカーって、全部男子のスポーツだし。そもそも女の私には全然関係のない話だよ。雁湖学院でこういうの作ったって、面白くない。ジェンダーフリーだとか、LGBTQとかそういうの言っている時代に昔とおんなじ枠組みで考えたってしょうがないじゃない」
「それも一理あるんだけど……」
「でしょ。だから……」
「ちょっとストップ。椥紗が話しちゃうと、俺が聞きたいことが聞けないだろ」
「えっと、はい……。すいません」
レオンは椥紗を戒めた。そして、同時に椥紗の手をぎゅっと握った。
「学校の部活は、学生のもの。そういう常識ってあると思うんだよね。その常識はここでもあって、それなのにSDGs部はそれを覆して、社会人を勧誘できている。りーまはどうやってその常識を覆したのかなって。その理由とか聞きたいなって」
椥紗は余計なことを言ったなと思ったと同時に、居心地が悪いなと思った。理真美はレオンに答えた。
「確かにそうだね。社会人の人が、高校生のグループに入りたいなんてさ、変わってるよね。……うちの場合は、私が、社会人と一緒にやるっていうことを大事にしてるから、入ってくるっていうのはあると思うの。私のやりたいことは、私の街に産業とか仕事を作ることで、いつか部活を作った経験が活かせたらいいなとかそういうことも考えながらやってる。私の街はさ、高校とか大学とかで皆都会に行っちゃって、若い人が居なくなっちゃうんだよね。街には面白いものがあまりないし、若い人も居なくて活気もなくなっちゃう、それなのに少ない人数で年上の弱い人たちを守っていかなきゃならないって感じで、実際にはそうでもないんだけど、そういうイメージで見られて、敬遠されちゃうんだよね」
「それは、この北大屋町でもそうだよ」
「過疎とか一極集中とか、社会問題として取り上げられているのに変わらないし、寧ろ問題として取り上げれば取り上げられるほど、街から逃げちゃうんだよね。街でしか出来ないことを作らないと、きっと変わらない。田舎は自然がいっぱいだし、空気も奇麗だし、世界は広いんだけど、それは当たり前だし、つまらない」
北海道の外の都会で育った椥紗には理解することが難しい気持ちだった。周りには色々なものがあって、色々な音があって、寧ろ情報過多で頭が痛くなるほどなのに、田舎にはそれに憧れる人がたくさんいる。
「社会人の人を巻き込んで、多くの人に知ってもらえる活動にしたいの。私が問題に思っていることとか、理想とかそういうのをメンターに話したら、親身に考えてくれて、その力がやっぱり大きかったな。私のメンターは雁湖に住んでる人だから、この場所の良さを共有してくれて、メンターと同じようにここに住んでいるギュフの友達を誘ってくれて、部活の設立のことに親身になってくれたんだ」
「だけど、部活動としては形がまだはっきりしないから、SDGsっていう流行りの言葉を部活の名前にすることになっちゃったってわけだね」
「それは、否定できないな。もやもやしてるんだけど」
レオンと理真美は、対等に部活を運営していくということについて向き合っていた。
椥紗は、聞いていることしかできなくてぼんやりと眺めていた。キーンという耳鳴りが聞こえてきて、それを少々不快に思いながら、レオンと理真美の間で続けられる話に耳を傾けていた。
「俺は一応射撃部に入ることにしたけど、別に、競技はなんでも良かったからね。ただ、メンバーが面白そうだから、射撃部なだけで。だから、SDGsになっちゃったのは残念だけど、うまく流せるのも大事なんじゃないかなって」
理真美の表情が緩んだ。
「ありがとう。レオン君って凄いな。納得してたつもりだったけど、そういう風に言ってもらえて、安心できた」
何もかもがうまくいくわけじゃない。物事を進めるためには割り切ることも必要だ。それに対して、椥紗は納得できなかったし、割って入りたかった。
「ちょっと、それは違うんじゃないかと思いますぞ」
勢いよくその言葉を放って、二人の会話に入ろうとしたけれども、耳の中の音が大きくなっていって、表情が歪んでしまっていた。
「え、大丈夫?」
「うんっと、耳が変。だけど、それよりも、二人の話に納得がいかなくて……」
「いや、私たちの話よりも、椥紗ちゃんの具合の方が心配だけど」
「そうじゃなくて、やっぱり、ここはちゃんと言っとかないと」
「何を?」
「何かおかしいって思うことに対しておかしいって思えることを大事だと思える事の大切さ。……えっと」
伝えたい言葉は出てこないし、耳鳴りは止まないし、頭の中がパンクしている。
「落ち着いて、ね。大丈夫だから」
理真美は椥紗を包むようにハグして、興奮が収まるように気遣ってくれた。
「新しい環境で無意識のうちに頑張りすぎてるんだよ。落ち着いて。疲れたら休んだらいいんだから」
理真美は温かくて、彼女の優しい言葉を聞いていると、気持ちが落ち着いてきた。でもキーンと鳴る耳の中の音は止まらなかった。違和感がある。でも、それを無視していることも出来るくらいのささやかなものだった。
「とりあえず、部屋に戻……」
優しく触れようとしたレオンの手を椥紗は咄嗟に叩いた。
「大丈夫、自分で、帰れるから」
気まずくなることをしてしまったと思った。だから、部屋まで小走りで急いだ。覆いかぶさってくるような、レオンの優しさが怖かった。
部屋に戻ると、まだ七時だというのに双葉はパジャマを着て、リビングをうろうろしていた。そのことに椥紗は驚いた。
「え、パジャマなの?」
「おかえり、遅かったね。うん。もう寝る」
「寝るって、まだ八時だけど」
「朝早いから……寝れるなら、8時間寝たいし」
「何時に起きてるの?」
「4時に待ち合わせ。そうじゃないと、学校に間に合わなくなっちゃうから」
随分早起きをしているんだな、大変だなと思った。
「何でそんな朝から?」
「ランニングと基礎的なトレーニングをしている程度だよ。別に大したことはしてない」
普通の人間が通れないような場所でランニングと基礎的なトレーニングをしてるってことなんだろうなとは思った。
「朝練か……」
「ん?」
「強豪スポーツ高校の朝練みたいだな……って」
「確かに、そういう感じといえばそうかもしれない」
「それで、学校の勉強はちゃんとできてるの?」
「学校の勉強をするのは当たり前だし」
双葉は、サラッと返す。そんなことができるのは、双葉の頭が普通とは大分違っているからだ。やっぱりかっこいいと椥紗は思った。
「えっと、緑衛門だっけ、元気?」
「ああ、うん。たまに付いてくるけど、勝手についてくるだけ。そうだな、雨が降ったり、風が吹いたり、そういう天気が良くないときに現れるかも」
「かも……? 気付いてなかったの?」
「授業が始まるまでに、戻ってこないといけないから、戻ることだけに必死で気付いてなかった。今、椥に話してこうだったなって認識したよ」
4時に集合して、8時半に学校に居て、9時には授業を受けている。それで学校が終わったら、すぐに宿題をして、就寝する。双葉はヒジュツと呼んでいる魔法のような力を使えるようになるためにそういう生活をしている。その目的は、普通ではないけれども、朝、毎日トレーニングをして、その後普通に学校生活を送っているという1日の生活スケジュールを考えると、規則正しい高校生らしい生活をしている。
(朝のトレーニングを部活動とするなら、部活としては何部になるんだ? とりあえずりっちゃんと、双葉が部員で、それプラス他の部員……部活動にするのは最低5人必要だから……)
「椥?」
想像を膨らませる椥紗の頭の中は暴走を始めていて、双葉が呼びかけても自分の世界から戻ってこなかった。
「椥、椥紗」
双葉がもう一度呼びかけると、椥紗は我に返った。
「あ、ごめん。いや、ちょっと考えてたら……」
「何を考えてたの?」
「んっとね、どういう風なことをしてるのかなって……りっちゃん、ついて行っちゃダメだって言うし、具体的にどんなことをしてるのかなって……」
「ずっと自然の中を歩いているだけだよ」
「うん。そうなんだけどさ、もう少し具体的に……」
「声を聴けるようになること。それを大事にしてる。りっちゃんは適当な場所に連れていくから、山道や森の中を歩きはじめるときに、まずどちらの方向に進めばいいのかの目標をまず決める。最初は闇雲に進んだんだけど、自分の意識を集中させるっていうか、消すというか、目標はどこなのかという答えを出すまでの間に、周りの自然を聞くの。自然の声は実際に存在する音ではなくて、直接意識に刺さるというか……」
「聞いてみたけど、何かやっぱり分かんない」
「うん……私も説明してみて、伝わってないなって思ったよ」
「でも、役に立つトレーニングだなって思うんでしょ?」
「それはね。変化を感じられるようになってきたなって。それは感覚でしかなくて、他の人には分からない、私にしか分からないことなんだけどさ」
「でも、りっちゃんには分かってるんでしょ」
「どうなんだろうね。どうすれば、風や水の力が高まるかということは教えてくれるけど、それがどれくらい変わったのか見えてるかは……。ただ、明日はね、ちょっと難しいことをしようって言ってた」
「ちょっと難しいこと?」
「そう。何かは明日にならないと分からないんだけど」
双葉は笑っていたけど、何か怖がっているというか、辛そうな感じに見えて思わず椥紗は抱きしめた。
「大丈夫だよ。双葉なら大丈夫。……私も頑張らなきゃって、学校行って部活の勧誘やって、頑張らないとって思った」
中学校の頃は椥紗が守られている感じだったけど、今度は自分が双葉の支えにならないとと椥紗は意気込んだ。
双葉が部屋に戻るのを確認して、椥紗は自分の荷物をレオンに預けたままだったことに気が付いた。律が双葉に対して課していることを確認しておいた方が良いと思ったのもあったし、212号室に向かったのだった。
レオンに電話をして、212号室の扉を開けると、律と風太がソファにいた。律はダラダラと寝そべっていたが、その横で律は真剣に勉強に勤しんでいた。
「えらいね、宿題?」
「せやろ」
風太の代わりに律が答えてくれたのだが、椥紗は机の上に広げられていたドリルと、ノートに書かれた二桁×二桁のひっ算を見て前言撤回した。
「計算ドリルやってるってどういうことよ。これ、小学校のやつでしょ」
「だって、ぷうちゃんでけへんねん」
「これ、出来なくてよく今までやってこれたね」
「電卓のアプリ使えば楽勝だし、こんな難しいの、普段出てこないし」
「普通は出てこないけど、普通は小学校の間に出来るようになってるものだよ」
「うるさいなぁ」
風太は苛立ちながらも、問題を進めていた。
「やろうと思ったとに始めればいいじゃん。やろうとしたことは、良いことでしょ」
レオンが、個室からダイニングにやってきて椥紗に荷物を渡した。
「レオンちゃんのそういうとこ、ええよね」
「レオンは優しいからね」
「何が? 椥紗の荷物をちゃんと預かっていたこと?」
「まぁ、それもやけど、ワシが言いたかったのは、ぷうちゃんに対する姿勢」
「出来ないことを責めるよりも、出来るようになるような言葉を掛ける方が合理的だと思っただけだけど」
合理的という言葉は、尤もな感じがするけど、それはレオンの真意ではない気がする。椥紗でさえそう思うのだから、あまりものを知らない分、人の感情に対して敏感な風太はもっとレオンの想いを汲んでいるのだと思った。
「ワシだってずっと言っとったんよ。ちゃんと勉強せなあかんよって、でも全然聞けへんかった。もうな、なんでやねんって感じ」
律は風太を恨めしそうに見るけれども、風太はそれを気にせずにドリルを解いていた。
「りっちゃん、何か圧があるからじゃない? 抵抗したくなるっていうか」
「……よぉわかってるやん、なっちゃん。わかんねんけど、納得できんやん。ワシ、正しいこと言うとるのに、ちゃんとやってくれへんとか」
正論は正論で、正しいからといって、それが進歩を導くとは限らない。感情というのは気まぐれなもので、正しいことを受け入れられないことが往々にしてある。
「何にしても、良かったね。ちゃんと勉強する気持ちになれて」
「せやな、ちゃんとやってるから、大分出来るようになってきとる。偉い偉い」
律の不満は、椥紗の態度や言葉に回収されてしまった。律は納得がいかないというか、居心地の悪さを少々覚えたが黙っていた。
話が収束してきたので椥紗は、律に聞いてみたい新しい話を振った。
「それでさ、さっき双葉と話してたんだけど、明日から何かするの?」
「秘密。説明してもどうせ分からへんやろし」
律は椥紗に教える気は全くないらしく、椥紗の方を見ずに答えた。椥紗は引き下がる気はなかった。
「でも、ちょっと不安そうだったっていうか、緊張してたっていうか」
「へぇ、そうなん。双葉ちゃん、何でも簡単にこなしはるなって思ってたけど、そうなんやね」
律は椥紗の方を見なかったけれども、表情が変わった。ちょっと嬉しそうだった。
「もう寝るって言ってたよ。っていうか、りっちゃんは寝なくていいの?」
「ワシ寝ぇへんもん。宿題するし。終わらせてから、寝るし」
「これからだと、11時越えそうじゃん。そしたら、4時に待ち合わせてるなら、5時間しか寝れないじゃん」
「え、ちゃうって。それも終わらせてから寝るの」
「昼夜逆転生活……。一番ダメなやつ……」
「歓楽街におったら、これが普通。これがワシのスタイルなの」
「じゃあ、学校行ってないの?」
「だから、オンラインで授業見て、課題しとるよ。最近はまってるのは、化学やな。結合とかおもろいなぁって」
「え~。モル計算とかよく理解できるね」
「分からんことは、全部双葉ちゃんが教えてくれはる。あの子、教え方むっちゃうまい」
所謂、修行の見返りが、学校の勉強を教えるっっていうことなのか。律と双葉の間には互酬関係があって、どちらかがどちらかに依存するという形をとっていないということになる。今は協力関係を結ぶことができているけれども、律と双葉の立場は大分異なっている。今後関係が破綻したとしても、後腐れのない形を取れていると律は考えているようだった。
椥紗は、律のどこか一線を引いているような姿勢が気になっていた。怖い人だなと思うけれども、悪い人じゃない。胡散臭い人、いや、人でもないけど、椥紗にとっては、話していて楽しい存在なのだ。
「りっちゃんは、基礎的な読み書きと計算はできる。だから、風太が計算苦手なことが余計に気になるんでしょ」
椥紗がしばらく部屋に居ることになることを見越してか、レオンがお茶を用意してソファの方にやってきた。
「椥紗はさ。しっかりと勉強出来る環境に居たから、基礎的な勉強をちゃんとやってこれたんだろうけど、みんなそうっていうわけではないんだよね」
「でも、小学校で勉強することだって出来たでしょ」
レオンと椥紗の話に律が情報を加えてきた。
「普通の人間がどうなんかはようわからんけど、ぷうちゃんは、小学校行けてへんで」
「小学校行けないってある……よな。私も不登校だったし」
「その割には、ちゃんと授業についていってるよね。椥紗が取ってる授業、大学進学考えてる人向けのばかりなのに」
「……そうなんだ。どれが良いのかとかよくわかってなくて、メンターと双葉とあと春日ちゃんにアドバイスされるがままに決めちゃった感じだけど……、ついてくの必死だよ」
「必死でもついていけてるなら大丈夫でしょ。風太は、教科書を読むのだって難しいから」
最近、高校は誰でも行くものになっている。そもそもは、義務教育ではなくて、より学びたい人だけが行くものだった。今から50年以上前の話になるけれども、高校受験は熾烈で、高校を浪人せざるを得ない人もたくさんいた。今は大学全入時代で、高校どころか大学にだって皆が行けるような場所になっている。積み重ねられるだけの土台がないのに、より高度な教育を重ねていくことに意味はあるのだろうか。
風太は、計算ドリルに書かれた問題をひたすら解き続けていた。出来て当然の問題で、やればやるほど風太の正答率はあがっていってたし、その解くスピードも上がっていた。何度もやっているうちに、二桁掛け算だと同じ問題が出てくることも良くあるわけで、答えを覚えてしまっていることもあった。意地悪をしたいのもあって、途中の計算式を飛ばそうとする風太を律は嗜めた。時間の効率性を考えれば、計算式の省略は何も間違ってはいない、むしろ正しいことなのだけれども、律のちょっかいは悪いものじゃなかった。勿論風太は文句を言った。必要のない悪戯は、風太が計算をもう一度確認する上でも、二人が一緒に何かをするという上でも、意味のあることだった。
二人の様子を羨ましそうに見ていた椥紗に、レオンが声をかけた。
「そういえば、もう元気になったんだ。さっき、頭痛そうだったのに」
「あれ、そういえばそうだね。耳鳴りっていうか、そういう感じだったんだけど。何でだろ」
「……治ったならよかったよ」
椥紗はマグカップにお茶を入れて、カップを手のひらで包んで暖を取った。
「内地の人は、寒さに弱いね」
もう5月だというのに、寒そうにする椥紗を見て、レオンがからかってきた。
「手足が冷たいだけだよ。この時間でこんな感じでしょ。朝4時だったら、もっと寒いんじゃないかって思うのね」
「朝4時?」
「双葉とりっちゃんが待ち合わせてる時間。その時間からトレーニングしてるんだって」
「へぇ。それは凄いね。でも、その時間だったら日の出が見えるね。寒い方が空気が澄んでいて太陽が奇麗に見えるんだろうなって」
「え、何かそう聞くと素敵な感じしてきたんだけど……」
「じゃあ、早起きして、見送りに行こうよ」
「え、それって、明日⁉ 朝起きれない、無理」
突然の提案に椥紗はたじろいだので、レオンは引いてくれた。
「そうだな。俺も予習と部活の予算書を作ってしまいたいし、明後日の方がいいな。見送った後、散歩して、朝日が見えるところまで行こうか。俺、良い場所知ってる」
レオンが楽しそうに話をするのは見ていて良いなと思ったけれども、双葉がレオンに対して好意を持っているように見えるから、それに配慮しない行動をするのもどうかと思う。躊躇う椥紗を横目に、レオンは続けた。
「まだ食堂はやってないから、朝ごはんなら、蒼佑に何か作ってもらってもいいし」
「いや、それは悪くない? 朝早いんだよ」
「桜桃が来てから、たくさん人を集めて何かするとかがし辛くなったらしくて、誰かにご飯作りたいって言ってたから」
「……それって、二人は付き合ってるの?」
「いや、そういうわけではないらしいけど」
「……桜桃が束縛してるってことでしょ?」
「蒼佑がそれを望んでたら束縛ではないんじゃない?」
「それって、本当に良い関係なんだろうか?」
「いや、俺に言われても……優先順位でしょ。蒼佑が皆を呼んでご飯を作ってくれることよりも大事なことができたっていうだけで……」
「でも、作りたいんでしょ?」
「やりたくても出来ないことっていうだけじゃないのかな」
「……お付き合いって難しい。よくわかんない」
「椥紗はお子様だからね」
「馬鹿にしてる? 私だって、イケメン見てムハーってなったりするよ。レオンにだって最初はドキドキしたし」
「あら、そうなんだ。じゃあ付き合う?」
「は、アンタには、双葉がいるでしょうが」
突然の申し出に、椥紗は驚いて顔を赤くし、抵抗をした。
「俺と双葉はそういう関係じゃないよ。双葉も分かってると思う。『僕を通して、僕ではない誰かを見ている』その気持ちを共有してるし、寧ろ俺にはそういうところが嫌だなって思ってる。俺じゃない誰かを自分に見てる人と、付き合える? 椥紗は、そういうのナシで俺を見てくれるし、付き合うなら、椥紗だよね」
「え?」
「付き合わない?」
二人きりじゃなくて、律や風太のいる目の前で、サラッと告白出来てしまうレオンに、椥紗の顔は更に赤くなっていった。
「……彼氏…とかではない気がする。いや、うん。嫌いじゃないけど。告白されたら考えるけど、えっと、告白されたんだけど、こんなオープンなのは違うっていうか……。それに、やっぱりお付き合いっていうと、もっと……ドキドキするような感じで……」
「残念。俺は演出に失敗してしまったっていうことだね」
「演出とかじゃないの。うひぃ。そうじゃなくて、私は、レオンは好きだけど、そういう風に見てないし……」
「じゃあ、これからそういう風に見てくれる?」
「えっと、えっと……とにかくさよなら」
椥紗はどうしていいのか分からず、自分の荷物をかき集めて慌てて部屋から飛び出した。しばらくした後、風太はドリルをしていた手を止めて、レオンに言った。
「ねぇ、これどうするの? レオン、本気で椥紗のこと好きなの?」
レオンを恨めしそうに見る風太と、残されたレオンを見て律は笑い出した。あんなに困っている椥紗を見られるなんて面白くて仕方がなかったようだった。
部屋に戻った後、椥紗は自分の個室に一直線に向かっていき、床に荷物を落として、ベッドにうつぶせになって寝ころがった。
「レオンに告白された…ってことだよね」
しばらく考えていた。良く分からないけど、とりあえず寝たら気分が変わるだろうし、目を閉じた。レオンの顔が浮かんでくる。西洋人の血が入っていて、周りの人たちよりも色素の薄い髪はサラサラで、はっきりとした目、鼻、口。カッコいいんだけれども、柔らかくて可愛い表情もする。それが、『付き合わない?』って言ってきた。
本気で言ってるんだろうか? どこか甘い声から発される言葉は、椥紗の警戒心を解いてしまうような力もあるから、悪戯にその言葉を信頼していいものかも迷う。何か裏がある。……とも思えない。
「寝れるわけがない」
ゴロゴロとベッドで動いたり、枕の位置を変えたり、布団をかぶったりまた布団から出てみたり。何をしても眠気が来ないし、気持ちが落ち着かない。まさか整った顔をしたレオンが、椥紗に告白をしてくるとは思わなかった。あのレオンがだよ。双葉を泣かしたレオンがだよ。好きか嫌いかと言われたら好きだけど、だからといって、レオンの好きがどういうことなのか分からないし、あんな律や風太が見てる前で言うし……考えていると更に頭がのぼせ上ってくるのが分かった。とりあえずシャワーを浴びることにした。洗面所で服を抜いで、髪が濡れないように高い位置で束ねていると、鏡に映る自分の姿を見て確認する。
(付き合うって、そういう事も含めるってことだよね?)
男女だということを意識をすると、気持ちが張り詰める。あまり考えないように、シャワーの勢いを強くして、音でモヤモヤと沸き起こる気持ちを掻き消そうとした。シャワーを浴びて奇麗になったところで、そのモヤモヤまで消えるわけじゃない。寧ろ心臓の音がよく聞こえる。いつもよりも丁寧にタオルで身体を拭いて服を着た。
「水、飲もう」
一人で部屋に籠って居ても気持ちが落ち着くわけがないと思ってリビングに出ることにした。リビングの電気は消えていて、静かだった。このままの方が落ち着くかもしれない。(電気をつけることはないな)
棚からコップを出して、蛇口まで足音を立てないように進む。防音設備は整っているから、寝ている人たちを気遣う必要はそこまでないのだが、今は、誰かに会いたい気持ちではなかった。コップに水を注いでいると、後ろからブツブツと呟く声がした。
椥紗は気になって辺りを見回すと、ソファに体育座りをしている人影を見かけた。誰にも会いたくなかったはずなのに、思わず近付いて声をかけた。
「こんな時間まで起きてるんだ」
パソコンの画面を見ている珊瑚がいた。彼女は眼鏡をかけて、真剣な表情をしていた。
「文章校正。大したことをしてるわけじゃないわ」
「何の?」
「部活の」
「え、何かすることあったっけ? 5人を集めれば、部活として成り立つんでしょ? 5人は集まっているし、必要な書類は作ってくれたって言ってなかった?」
「部活を立ち上げるために必要最低限のことはすぐにしたわよ。これは、追加の自主的な仕事」
「自主的な仕事?」
「部活の企画書と予算書を規定に沿って作成するの。今後の役に立つから」
「今後の役に立つ? どういうこと?」
「高校の部活を作るだけだったら、部員の自由な活動ができないから。どういう活動をするのかとかは、顧問が話し合うように促したり、部員が話し合って提案を顧問に話して、その顧問が承諾して、実現してくれるみたいな感じになるけど、そうじゃなくて、その流れ全部を部活でやれるようにするの」
「それって面倒くさい作業が増えるだけじゃないの? 任せられることは任せたらいいのに」
「任せたら、学内で活動するだけのしょぼい部活になるからね。部活に配当される予算だけじゃなくて、ギュフの本体で募集している自主活動支援金に申請できるし」
「そんなにお金使うの⁉」
「百舌陽一郎の話だけど、『うまくなるためには、試合を経験する事が必要だし、良い選手のいる内地の試合に出るべきだ』って言ってるからね。北海道から出るためには、飛行機代込みの交通費がかかるし、宿泊費もかかる。ギュフの社員ネットワークを使って、試合会場の近くの家に住んでいる社員の家にステイさせてもらうとかそういう工夫もできるだろうし。高校生の活動なんだからって小さくまとまるような活動になるのは嫌でしょ?」
「……凄いね。ロマンありまくりじゃん」
椥紗は目をキラキラさせて、珊瑚に言った。珊瑚はそれを見るのが何だか恥ずかしくて、目をそらした。
「アンタのためじゃないわよ。どうせ、聖のことだから、想像の斜め上のようなことを言ってくるだろうし。だったら最初から、自由度が高くなるような方法をとっておいた方がいい。私だけで、仕事をやってるわけではなくて織原にもさせてるから……」
織原謙人レオンの名前が持ち上がって、椥紗の顔が一瞬で暗くなった。
「どうしたの? 織原と何かあった?」
「えっと、あの、気まずいこと」
「気まずい? 何かやらかしたの?」
「えっと……あの」
喉元までもう言葉は上がってきている。椥紗は思いっきり息を吐いた
「レオンに、『付き合わない?』って言われた~。どうしよう」
「……うるさいわよ」
「あ、ごめん、つい」
あまりにも大きい声が出てしまっていて、寝ている双葉や桜桃を起こしていないかと動揺した。珊瑚は、その言葉を冷静に聞いていた。
「ああ、そういうこと。どうせ織原のことだから、冗談っぽく言ったんでしょ」
「うん、そうなの。りっちゃんとぷうちゃんがいる前で……」
椥紗はいつもよりも早口で、上ずったような声で告白された状況を説明した。
動揺するのは分かる。けれども、こんな透る声を出し続けられたら、防音が整っている部屋とはいえ、双葉と桜桃の部屋まで聞こえているだろうし、二人を起こしてしまいかねない。それに色恋のことは二人に知られてしまうと厄介になるかもしれない。珊瑚は、椥紗の気持ちがより盛り上がらないように低く静かな声で応えた。
「演出最悪。事務連絡のようね」
椥紗の声は無意識に珊瑚の声のトーンに合わせていた。
「でしょう。でもさ、そんなこと言われたら、動揺するでしょ」
「するのは分からなくないけど……別におかしなことではないわよ。アンタのこと、織原は尊敬してるもの」
珊瑚はパソコンを閉じて椥紗を見た。
「尊敬?」
「アンタが聖と織原と私に対して与えた影響、大きいのよ、悔しいけど。一緒に協力して射撃部作るなんて思わなかった」
「だって三人は同じ中学校でしょ。だったら、良く知ってて仲良さそうだし……。私は何も……」
「アンタ、良く知ってることと仲良くなれることがイコールで繋がると思ってる? そんなに仲良くないわよ。アンタの考えって、お花畑に住んでるような考え方じゃない」
「お花畑……」
「各学年、1クラスが精一杯の人数しか居ない学校だったから、知ってることは多いけど。だからこそ相容れないと思うことがたくさんあるわ。聖は性格きつい上に言葉もきついし、織原は自分の目的本位で何考えてるか分からないし」
「なのにどうしてこんなに仲良く部活を作ろうとしてるの?」
「……アンタが頑張っているからよ」
寧ろ椥紗よりも珊瑚の方が話に熱が込められてきた。
「いじめられたことのあるアンタなら分かるでしょ。一緒にいるのにうまくいかなくて、だから何とかしようとして、正しいことを主張したり、やるべきことをやったりして、さらに関係がこじれたりする。織原は、アンタに対して協力的だし……」
このままレオンの話が続くと、何だか気まずい気持ちになりそうだったから、慌てて椥紗は、冷静さを装いながら尋ねた。
「え、私いじめられたこと言ったっけ?」
「アンタの真面目さ見てたら、中学校に行けなくなったのは不本意だったことくらい簡単に想像つくわよ。……まぁ、ちょっと双葉に聞いたけど。行きたくても行けなくなったってことは分かってたし、それに、双葉はちゃんと高校に行き続けられるか心配していたし」
「……そっか」
双葉は、椥紗が想像している以上に椥紗のことを想ってくれている。中学校の時にいじめられていたを双葉が珊瑚に話していたことを、椥紗は嬉しいと感じた。
「それで、織原と付き合うの?」
「え、どうしたらいいと思う?」
「そんなの知らないわよ。アンタがしたいようにすればいいじゃない」
珊瑚は、興味がなさそうに話す。出刃亀で聞いているわけではなく、椥紗の気持ちを整理する上で、話をしていた方が良いと思ってのことだった。
「付き合うって、やっぱり男女のそういう……」
「性のこと? あるかもしれないわね。もしも、性衝動に駆られた行動に走るなら、お互いに同意をしてから走ることね」
「性衝動って、言い方」
「アンタにもあるでしょ。知ってるわよ。アンタが札幌に遊びに行った時にBL本、仕入れてきて来てることも」
椥紗は顔が熱くなったので、慌てて後ろを向いた。
「それはね、パパの志向性を知りたいだけで……。うちのパパ、ゲイだから、パパの理解っていうか……」
と言いながらも、あくまで空想として描いている男性と男性の恋愛漫画で、現実を理解しようというのはかなり無理があると椥紗は思った。椥紗の性的興味を満足させるものとして、購入したことは否定できないけれども、だからといって、それを認めるのには躊躇がある。ワタワタとするな椥紗を横目に、珊瑚は冷静に続ける。
「それはただの言い訳でしょ。……思春期なんだから興味を持って当然だと思うけど」
「他人事みたいに言うけど、珊瑚も思春期でしょうに……」
「残念ながら、ないのよね」
「ないの? ズキュンとか、ドキドキすることとかないってこと? イケメンパラダ……」
話していることが楽しくなってきて、叫びそうになった椥紗の口を珊瑚は思わず手で押さえた。叫んだら、寝ている人たちに迷惑がかかる。
「……ごめん」
椥紗は、気分が高まると周りが見えなくなる。珊瑚は椥紗の話をよく聞いてくれるし、応えてくれる。だから、ついつい嬉しくなってしまうのだ。
深呼吸をして、椥紗は再び言葉を紡いだ。
「……ありがと」
「何が?」
「珊瑚が生きていてくれて」
椥紗はそう言って、珊瑚の腕をぎゅっと抱きしめた。珊瑚は一瞬眉をひそめたが、嬉しそうにしがみつく椥紗を見て悪い気はしなかった。
「椥紗、アンタは、同性愛者なの?」
「……違うと思うんだけど……、わかんない」
「あっそ。アンタ、もう少し考えて行動した方がいいわよ」
「何で?」
「尋ねたいのは、私だわ」
無邪気な椥紗に珊瑚は灸をすえた方が良いと思った。
「……このハグはどうすれば、性的な興奮に繋がるの?」
珊瑚は椥紗の方を向いていなかった。ただ静かに背筋に這いまわりそうな言葉を珊瑚は言った。その言葉を聞いて、椥紗の心が手が震えた。そして、思わず珊瑚から離れた。怯える椥紗に、珊瑚はペロッと舌を出して言った。
「刺激的だった? だとしたら私の演技はアンタの心の入ったってことね。残念。私は、アンタに興奮してないわよ」
「でも、本気だって思ったよ。食われるって……」
「食わないわよ。不要な粘膜接触は避けるべきだし……ああ、そうか、粘膜接触か」
「は?」
「『付き合う』ことを承諾するというのは、性的接触、即ち粘膜接触を承諾する可能性があるということ。そのリスクを冒すかもしれないことを承諾するという……」
「何それ」
「『付き合う』というのは、キスやセックスという性的接触もありうるということでしょう。即ちそれは、双方の間で粘膜接触をする可能性があって、菌やウィルスを媒介させてしまう可能性があるって言うことだなって。それを承認するということになるわけ」
「いや、それは違うでしょ。将来を見据えた、死が二人を分かつまで、一緒に生きようという……」
「即ち、繁殖行動を想定した関係性を構築しようという……」
「ちがーう。それは、あまりにもドライというか、行為を描写しているだけというか。恋愛は違う。もっとドキドキとか、心と心の繋がりとか絆とかそういうのを求めてであって、そんな菌の媒介とか繁殖行動とか考えてたら、付き合いなんてできないじゃないか」
「考えられなくなるのが、恋愛の病的部分でしょう。脳を錯乱状態に陥れるという……。でも、考えるべきでしょ。人間は精神だけじゃなくて身体も含めて人間なんだから」
「そんなの考えてるわけないじゃん。ちょっと一緒に居ようとか、二人でいる時間を増やそうとか。お互いに特別な人として見るっていうか、性行為とかそういうの考えてお付き合いするわけじゃないよ。だってまだ、高校生だよ? 妊娠したらまずいでしょ」
「じゃあ、お付き合いなんて曖昧なことするべきじゃないわね。危うい関係というか、そういう不安定さも恋愛の要素として不可欠ということ? ゲーム的な要素を楽しんでいる?」
「うーん。事実はそうかもしれないけど、表現がおかしいよ。もっとパッション、パッションよ」
「パッション、周りのことが見えなくなる脳の錯乱を起こす現象のことかしら。そうね。まぁ、そうなることは予想しておいた方がいいわね。今の日本社会においては、婚前性交渉が主流らしいから、HIV検査をしている場所と避妊方法の学習はしておくのがいいんじゃないかしら」
「だから、そういうのじゃないって。あの美形が私みたいなのとなんて……」
「容姿と性交渉の関連性は薄いでしょ。体格から推測するけど、アンタはもう生理始まってるわよね?」
「あ、うん。小学校の終わり頃に始まったけど……」
淡々と話をする珊瑚の勢いに乗せられて、椥紗も事実をそのまま述べた。
「アンタと織原には、性器があって繁殖能力があるんだから。それは重々考えた上で関係を持ちなさいよ」
「だから、そういうのじゃなくて……」
「関係というのは、性交渉の隠喩にもなるけど、信頼関係や友情関係の省略でもあるでしょ。そのままの意味なら、繋がり。性的って入れてしまう文脈にもなるけど、それはアンタのエロセンサーが働いているだけであって」
「あぁぁぁもう、そんなの。聞きたくない」
椥紗がまた騒ぎ出したので、珊瑚は一息おいて椥紗を落ち着かせることにした。
椥紗が頭を抱えていた腕を外して、また居住まいを正したのを確認して、珊瑚は話を始めた。
「別に、アンタの羞恥心を煽っているわけじゃないわよ。飢餓状態になるほど人間の繁殖力は高まるらしいから、そういうことも鑑みて行動するべきと言いたいわけ」
「……難しい。それはどういうこと?」
「何かが足りないと思っているときほど、エロセンサーが働く。危機に追い詰められた時にはほだされやすくなるし、その勢いに押されてセックスに至る場合もある。夫婦とか特定のパートナーとのそういうのは、後々問題になることは少ないけど、曖昧な関係というのは、望まないセックスになる可能性が高いからね。気を付けるに越したことはないってこと。そして、危機的な状況では、性的な関係にならないように自制することね」
「えぇぇえ、何言ってるの。そんなことないでしょうよ」
「色々もめてても、とりあえずセックスさえすれば大団円とかはあり得る話だから」
「ってセックスセックス、言うの、恥ずかしいんですけど」
「じゃあ、男性器と女性器の接触と言えばいい? 性行為って言えばいい?」
夜だから、テンションがおかしくなっているのかもしれない。煽ってくる珊瑚に対して、今度は椥紗がひとつ深呼吸をして、落ち着くような仕草を取った。
「えっとね。私は、まぁ、パパの影響で、そういう男女のことについて話すのは平気だけどね。こういうことを人前で話すとかっていうのはやっぱり気が引けることで、双葉はそういうの恥ずかしがるし、やっぱりそういうことは分かっていてほしいなって」
「分かってるわよ。アンタだから話してるのよ」
それは即ち、椥紗なら空気に飲まれて望まないセックスをやることになりかねないと思われているということなんだろうか。そんなに尻が軽いように見えているんだろうか。色々とモヤモヤとした気持ちになるが、性のことを言葉にするのは恥ずかしくて、精一杯の反論を示した。
「えっとそれは失礼じゃないかい?」
「私の見立てだけど、双葉は真面目だし、必要以上に異性に接近したりしないでしょ。人と接するときの距離、パーソナルディスタンスがアンタに比べて長い。椥紗、アンタは人との距離が近いから、忠告しないとと思うの。暴力的な性行為を強要されるとかは双葉も女性だからその危険性はあるけど、トレーニングしていて、かつ、いざという時は風の力で吹っ飛ばせる。そもそも人との間に物理的な距離をとっているから、密着した状態に鳴りずらいのもあるわね。椥紗、アンタはそういう力がないし、人を引き付ける妙な力があるし、更に心配なのは不用意に人に近付く。ハグはその相手の心を開くためには有効な手段かもしれないけど、それで異性として、性的な対象として見られてしまう可能性も高い。その結果、の不本意な性行為をする羽目になる可能性が高い。だから気をつけなさいっていうこと。偏見とかではなく、アンタの性質に対してのアドバイス」
「むぅ。そういわれたら否定できないかも。それは、レオンと私のことを心配してる?」
「違うわ。一般論。他人の懐に入るというのは、別に悪いことではないけど、それだけリスクも高いってこと。織原は、節度を守れる理性的な人間だとは思うし、織原の『付き合う』は一般的なものと違う気がするから、性行為をする対象として見ているのかどうか、かなり疑問だけど」
「じゃあ、ここまで色々性に関する話してきたけど、全然必要なかったんじゃん」
「アンタ、馬鹿にされてるの気付いてない? 懐に入り込める能力があるけど、アンタには、女性としての魅力がないから織原に性的対象として見てもらえないかもしれないわよっていうことを暗に込めたんだけど」
「え、それ、すごく失礼じゃん。最初は、レオンとの間にそういうことがあり得るかもっていうので話をしてなかった? まぁ、そんなのないって思ってるけど」
「アンタが不用意に異性に近付こうとしているから忠告しただけよ。男女の関係に興味がある割には、躊躇せずに男部屋に行くし……」
「それを言うなら、珊瑚だって陽一郎さんの部屋に行ったりしてるじゃない。陽一郎さんの部屋、一人部屋だよ」
「百舌陽一郎には、翡翠を通して説明している。あの男が私に手を出してきた場合、その場で性器を潰すことはいとわないつもりだし、男性としての尊厳を奪うために薬剤投与とかも面白いかもしれないわね。良い実験体ができる口実になる」
翡翠というのは誰のことか分からないけれども、珊瑚が信頼している人なんだろう。椥紗は特に気にせずに話を続けた。
「えええ。それは酷いよ。だって、陽一郎さん良い人だし、もっと良く知れば関係は違ってくるかもしれないじゃない。じゃあ、よくある身体の相性が良いから好きになるとかそういうのは否定するの?」
「……身体の相性をベースに考えるなら、婚姻関係は破綻しやすいわよ。人間はセックスのためだけに生きているわけではなくて、それぞれ仕事だとかやりたいことがあって生きているわけでしょ。考え方や立場そういうのを考えて、うまくいきそうな相手を選ぶのが賢明じゃないかしら。身分違いとかで惹かれあったのに、一緒に居られないからって火事を起こして全てをぶっ壊すような心中もの『八百屋お七』のような物語はあるけど、それを現実でやれば、警察に捕まるし、SNSで吊るされて人生積むでしょうね」
「でも、それに憧れる気持ちは分からなくはないな」
「物語だから、危険な恋はいいのよ。友達としてアンタがセックスに堕ちていくのは見たくない。そう思うだけ」
「恋愛だよ、恋だよ。そういう生々しいのじゃなくて」
「同じよ。現象としては」
「同じじゃないよ~」
やっぱり椥紗の声は大きくなってきている。珊瑚はエキサイトする椥紗にまた大きなため息をついた。
椥紗が静かになったので、珊瑚は危惧していることを話すことにした。
「でも、織原とアンタが付き合うのには二人の間だけではなくて、気にするべきことがあるわね。……付き合うことになったとして、双葉には説明できるの?」
「やっぱり、双葉がどう思うかって気になるよね……って知ってるの?」
「知ってる。織原から、違和感を聞いてるから」
「っていうか、レオン、珊瑚に話してるんだ。何かそれってデリカシーがないというか」
「抱かれている好意の意味が分からないから、何か分からないかって相談に乗っただけよ。双葉が織原を特別に見ているのは、単に好きだからではなくて、『何か違うものを見ている』から」
「それがよくわかんないんだよね。多分、タイプなのは間違いないんだろうけど」
「そういう嗜好のことが言いたいんじゃないの。何かもっと別の……」
「前世での恋人とかそういうのかな」
「……前世?」
「そう、転生モノとかあるでしょ。異世界転生、流行ってるじゃない。双葉が双葉になる前に、レオンと双葉はどこかで出会っている。それで、双葉はその時に好きだった人と勘違いしているとか」
「……ふぅん。椥紗は輪廻転生を信じるのね」
「え、やっぱ、アニメとか漫画の読みすぎかな。なんていうの、最近流行ってるからさ、異世界転生。ゲームとかの世界に入ってしまう奴」
「輪廻転生ね。あり得るかもしれないけど……」
「おお、まさか乗ってくれるとは」
椥紗は珊瑚の意外な反応を嬉しく思った。
「転生というのがあったとして、双葉は織原に対して、思慕の念を抱いているけれども、織原はそのことを理解していない。織原に前世の事を覚えていなくて、双葉は前世のことを覚えていて、想いを寄せている。又は、前世の双葉が一方的に想っていたのかもしれないというのもあり得るわね。他人の空似というのかもしれないし。可能性を考え出したらキリがないかも」
状況を説明しようとする珊瑚を見ながら、椥紗は目をキラキラとさせた。
「そうそう、すごいすごい。色んな考えが出てくる」
「アンタは本当楽しそうね。……嫌いじゃないけど。まぁ、前世とかはどうか知らないけど、椥紗、アンタはうまく利用されている可能性はあるわね。織原は、椥紗と付き合っているという事実を突きつけて、双葉からの特別な感情を遮断するという方法を取ろうとしているのかも」
「どういうこと?」
「椥紗と付き合ってるということで、双葉から距離を取ろうとしてるってこと」
「え、それ、酷いじゃん。私の扱い酷くない? いや、好きとかそういうのではなくて、ただの防御壁っていうか」
「好きであることは間違いないと思うけど、まぁ良い壁ではあるわよね」
何にしても、椥紗がレオンと付き合うということに障害があるということだ。
珊瑚はパソコンに手を近付けて言った。
「さて、私はそろそろ部屋に戻るわ。アンタもそろそろ眠くなってきたんじゃない?」
確かに珊瑚と話をして、大分気持ちに整理をつけられたような気がする。
「あのさ、レオンとどういう風に接したらいいと思う?」
「別に、好きなように接すればいいじゃない」
「好きなようにって言われても、『付き合う?』ってことは好きっていうことでしょ? じゃあやっぱり、今まで通りでは無理ってことだよね?」
「そうなの? そんな意識しなくても良いと思うけど」
「いつも通りにしていられ……るかな? ハグ、できるかな?」
「もうそれだけ意識してたら、無理でしょ」
「それはそうだけど、ハグ大事なの」
「じゃあ他の人とすればいいんじゃない?」
「じゃあ、誰とならハグしてもいいの? やっぱり男の人とするのはダメだよね」
「何でアンタ、そんな意識してるの。いつも通りで良いでしょ」
「えっと、そうだよね、いつも通りなら、ハグは普通に皆とするし……えっと……」
動揺する椥紗を見て、珊瑚は笑った。
「可愛いってこういうことをいうのね」
「え、何、突然?」
そして、一通り笑った後、一つ咳払いをして、真面目な顔になって言った。
「何でもいいわ。でも、不道徳な性行動に走るなら、私はアンタを知能ある生物としての尊厳を失った存在として軽蔑するから。じゃあお休み」
そういった後、珊瑚は全ての荷物を抱えてさっさと自分の部屋に戻っていってしまった。一人残された椥紗は、珊瑚が残した表情の圧が凄くて、しばらく動けなかった。
「マジで、怖い……」
レオンから告白を受けたということに興奮して眠れそうになかったが、肝が冷えた。眠るのに心の熱量が丁度いい塩梅になったかもしれない。
勿論、朝4時に起きれるはずもなかったが、7時にはすっきりとした面持ちで目覚めることができた。まずキッチンに向かい、トーストをオーブンに、お湯をポットに入れてまた個室に戻って制服に着替えた。中学校の時に不登校だったとは思えないほど、頭がすっきりとしていて、普通に高校生らしい生活を送れている。
英語の単語テストをするらしいから、その勉強をしながらの朝食。ハムとレタスをはさむだけの簡単なサンドイッチをほおばりながら、20単語くらいを確認する。まぁ、大したテストではない。記憶力というのは、生まれながらに備わっているものがちがっているわけで、中学校は進学校だったから、頑張って覚えても学校の中で上位になることはまず無理だった。雁湖学院は、色々な生徒がいるから、劣等生だと感じることは殆どない。単語テストは、中学校の頃よりも出題範囲が狭く、覚えることが簡単だと感じた。
不登校になった原因は、いじめられたことだから、学校の勉強はそんなに大きな要素ではないけれども、椥紗は雁湖学院の方が自分に合っていると感じている。同じような学力を持っている生徒の中で切磋琢磨することよりも、色々な学力の生徒の中で自分のペースで学んでいくほうが椥紗には合っているようだ。
学校にいきたいと思うようになったから、部屋を出る時間も早くなった。今日は準備が早めにできたから、学校が始まる1時間も前に部屋を出た。一時間目から授業のある生徒はばかりではないから、いつもの人通りもまばらなのだけれども、制服を着て校舎を目指そうとする人はほとんどいない。ジャージだったり、ラフな格好で食堂に朝ごはんを食べに行こうとするような人が結構いて、それを見ながら歩いていた。
「椥、もう学校行くの?」
斜めから声をかけられて、椥紗は驚いた。半袖のシャツに腰に巻いたジャージの上着、トレーニングウェアを着た双葉は少し泥にまみれていて、汗もかいていた。
「おかえり。新しいこと、したんだよね?」
今日から、律と新しい修行をするらしいことは知っていたから確認をするように尋ねた。
「うん。なんとか大丈夫だった。ありがとう。後で学校でね」
詳しいことは話してくれなさそうな感じで、その場をそそくさと立ち去ろうとしていたが、その双葉に椥紗は声をかけた。
「うん。単語テストあるけど大丈夫?」
「もう覚えてる~」
ボロボロそうだったけど、これは絶対満点取るんだろうな……。椥紗は出来の悪い自分と比較して、恨めしいと思った。
頑張ったところで、双葉に勝てるはずもないけれども、テストは誰かとの勝負ではないし、満点を取れれば良いわけで、椥紗は双葉の存在というどうやっても学力で勝てることのない壁を掻き消して、単語テストの勉強に集中することにした。教室は新しいし、黒板じゃなくてホワイトボードだし電子黒板みたいなのも置かれている。中学校は歴史のある伝統校で、その建物も古い。物を大切にするというのは悪いことではないけれども、嫌な場所だった。
(いじめられたってのが一番大きいかも……)
中学校も、ここも学校という同じ場所だけれども、ここまで景色が違うと違う場所だということを認識できる。単語テストのために早めに登校したのに、単語帳をカバンから出すことさえしていない。寝たりないせいで、頭はぼーっとしているし、大きなあくびが出た。
(飲み物でも取ってこようか)
荷物を置いて教室から飛び出すと、一人のすらっとした女子生徒に声をかけられた。制服のリボンが緑色だから、技術科の生徒だろう。
「篠塚さんを探しているんですけど」
「はい、私が篠塚椥紗です」
背が高くて、目は細くてカッコいい女性だ。ショートカットなのが、更に彼女らしさを引き立てている。
「望月怜。……東京から来ました。射撃部入部希望です」
「え、あ、はい……え、ありがとうございます」
予想外の出来事に椥紗はどう応えていいのか分からず、とりあえず頭を下げて礼を言った。でも、技術科なら、同じクラスに百舌聖が居るはずで、どうしてわざわざ椥紗のところに入部希望の話をしに来たのかが分からなかった。
「あの、望月さん。技術科なら、百舌聖、知ってます? 彼女も部員なので……」
「知っています。ポスターを見て知ったので。専攻と名前で、教室に行って話をしようと思いました。百舌さんは、同じクラスですけど、話したことはないし、射撃部だとは知りませんでした」
カッコいい容姿をしているのに、初対面の椥紗に対しておどおどとしている怜を見て、椥紗は好感を持った。不登校で、同世代とのかかわりが少なくて、最近は大分頑張ってはいるけれども、自分ががつがつ行くのはいいけれども、がつがつ来られるのは得意じゃない。
「じゃあ、連絡先……メール教えてください。皆と繋げるので」
(貼ったポスターを見て、入部を考えてくれたということだよね。一緒に競技してくれるってことだよね。要するに、私の勧誘活動が成功したってことだよね)
ニヤニヤと笑っている椥紗を見て、怜は言った。
「そんなに、嬉しいですか?」
「……勿論、嬉しいよ。だって新しい部員だよ。仲間だよ」
興奮する椥紗に、怜は静かに答えた。
「そうですか。だったら、私も嬉しいです。篠塚さんが部長なんですよね?」
「え、あ、はい」
「支えていけるように頑張ります。よろしくお願いします」
「あの、何もできない部長ですけど」
「じゃあ、支え甲斐がありますね」
「支える?」
「はい。部員を纏めるのは簡単なことじゃないですから。篠塚さんが部長なのは、みんなに信頼されているからなんでしょう? 皆を纏めて、部活続けられるようにしていく。私にはとてもじゃないけど出来ないから。だから、私も支えられるように、そういう意味です」
椥紗の力になってくれそうな言葉、丁寧な物腰、椥紗はそんな少女に部長と呼ばれてのぼせ上ってしまうような気持ちになった。
「ありがとう。でも、そこまで私出来てないかも」
「部長は部長として居てくれるのだけで大きな役割なんだと思います」
「私も、役割、ちゃんと出来てるんだ……」
聖も陽一郎も珊瑚もレオンもみんな優秀で、椥紗は自分の能力のなさを恨めしく思うこともあった。何もできないから、これで良いのかと疑問に思っていた。その不安の中で、支えたいと思ってくれる人が現れた。部長、悪くないかもしれない。