水の物語 2.Room mate
2. Room mate
ゴールデンウィークなのに、新千歳空港の一階ロビーは空いていて、葛西桜桃はすぐに島田蒼佑に会うことができた。桜桃の両親は、東京に滞在するとのことで、羽田空港で別れた。
「荷物はこれだけか?」
「うん。もう家から大体のものは送ってるし、要らないものは全部親に持って行ってもらったし、大丈夫」
「教科書は?」
「それは全部、清良さん……メンターさんにデータで送ってもらってた。イギリスに持っていけるものって限られてたから」
「大変だったな」
「学校の勉強は、全然。結構適当にやってたし。語学学校行って、英語で生活して……。良い経験だったさ」
二人が待っているのは、札幌から新千歳空港を経由して雁湖まで行くバスで、蒼佑は札幌までよくバイトに行っているから、乗り慣れていた。メンターから、バイトを入れすぎないように嗜められているが、それでも週に一回くらいのペースで札幌に働きに行っている。蒼佑は札幌のような大きな町が苦手だったけれども、たくさんの客が来る場所で仕事がしたいと考えていたから、あえて札幌のギュフの店舗を選んだ。
蒼佑が桜桃のスーツケースを持とうとすると、桜桃は彼から遠ざけるように動かした。
「蒼佑の方が荷物多い、よね?」
「別に軽いし。まさか当たってしまうとは……」
「何のやつ?」
蒼佑は大きな抱き枕を抱えていた。鳥居風太のリクエストである。風太が好きなアーティストの期間限定ストアが札幌の商業施設にオープンするので、限定商品を買ってくるように頼まれた。3000円毎に引ける抽選があって、そのくじを蒼佑が引いた結果、抱き枕が当たってしまった。こんなものをバイトだけではなく、桜桃の迎えのある日に持ち歩かなければならないとは、蒼佑にとっては面倒くさいことになっていた。
「Beco-Gua。メジャーデビューしたばかりらしいけど、よくわからん」
「AliumのYoutubeで聞いたかも」
「Alium?」
「ロックバンドだよ。えっと、前に動画、送ったよね」
桜桃は音楽が好きで詳しい。そして、蒼佑は彼女からおすすめの曲を時々教えて貰っている。
バスは定刻よりも五分遅れでやってきた。ゴールデンウィークで渋滞していたんだろう。
蒼佑は抱き枕を桜桃に渡して、スーツケースを持った。蒼佑が桜桃の世話を焼いてくれるのには、理由がある。だから、桜桃は彼のやりたいようにさせている。バスはガラガラだった。桜桃は二人掛けの席の奥に抱き枕を置いて、通路側に一人で座った。蒼佑は荷物置きと書かれている一列目の席に桜桃のスーツケースを置いて、桜桃の一つ前の席に座った。桜桃はショルダーバックから、スマホを取り出して音楽アプリを起動させ、イヤホンで確認した。そして、蒼佑を突いた後、片方のイヤホンを蒼佑の耳に突っ込んだ。
「これ、知ってるでしょ?」
蒼佑はしばらく聞いた後、言った。
「バイト中に聞いたかも」
「これがAliumの”Cloudy”、新曲」
蒼佑は積極的に音楽を聴くわけではないけれども、好きではある。
「お前、イギリスでも聞いてたのかよ?」
「……うん。好きだから。Youtubeならいつでも聞けるし。Spunkyのラジオが始まったから、PCを色々いじって海外でもラジオを聞ける設定にしてもらったんだ。全部聞いてたさ。えっとね。SpunkyがBeco-Guaのドラムやったって言ってたような」
Aliumは女性ヴォーカルSakuraを中心とする3人組のロックバンドで、Spunkyはそのドラマーである。インディーズの頃は、パンク系でダークな楽曲が多くて、桜桃はそんなに好きではないのだけれども、メジャーデビューしてからはSakuraの迫力のある声が好きだから、ファンをやっている。Sakuraの声もいいのだけれども、それを引き立てるというか、確実に合わせていくというか、ベースのPivotの音が這うようについていくのにも惹かれている。ドラムのSpunkyについては、結構どうでもいいと思っていたのだけれども、SakuraとPivotはMCをやらないし、インタビューとかも殆ど出ないので、Spunkyのラジオを聞いていた。
「Spunky、関西弁喋るんだよね。なんか、いいな、って」
「関西弁が好きなら、うちの部屋、喋る奴いるぞ」
「え、そうなの? 習おうかな」
蒼佑は桜桃の一学年上だけれども、神威島の中学校は人数が少なくて、同じ教室での授業も結構あったから、そういう感じがしない。子供が少ない島で、蒼佑は小さい頃から桜桃と良く遊ぶ仲だったが、事件があってそれからしばらく離れていたことがあった。
「スパン君のラジオって明るくて、Aliumって感じがしないのさ。だからね、きっと喋るなって言われたんだろうね」
桜桃が楽しそうに話をするのを、蒼佑は良く分からないながらも頷いて聞いていた。
「音楽で気付いたんだけど、お前、相棒はどうしたんだ?」
「あ、ラック君は置いてきた」
ラック君というのは、桜桃のヴァイオリンの名前である。桜桃は楽器に名前を付けて、大切にしていた。
「寮に連れてこないのか?」
「どうしようかな」
「俺、札幌までよくいってるから、運ぶの手伝えるけど」
「そだね。蒼佑になら頼めるね。だったら、今度お父さんかお母さんが札幌に来る時に連れてきてもらおうかな。イギリスでも、弾いてたんだよ。お父さんの同僚の人が使わないヴァイオリン持ってたから。でも、やっぱりラック君の方がいいな、って」
「そりゃ、当然だろ。自分の道具の方が良いに決まってる」
「道具だけど……ラック君だよ」
桜桃のラック君と名付けられたヴァイオリンは、中二の時に買ってもらったものだ。ヴァイオリンとして、そんなに高級な品ではないが桜桃は気に入っていて、相棒のように思っている。
桜桃の部屋は、111号室だった。蒼佑は今その部屋に住んでいる住人全員とご飯を食べたことがあると言っていて、親しい幼馴染が他の人たちと懇意にしてくれているのは心強い。
「何か、随分頼りがいのある人になったなって思ったよ」
「それ、昔の俺をディスってるだろ」
「すぐに高校やめちゃった島の問題児だよね、蒼佑は」
桜桃は笑顔で意地悪なことを言った。けれども、蒼佑は全然気にしていなかった。バスが雁湖の寮の前のバス停についたとき、桜桃にBeco-Guaの抱き枕を任せて、彼女のスーツケースを降ろし、そのまま引いて先に行ってしまった。マイペースな蒼佑は、いつものことだったから、桜桃は気にせずに抱き枕を抱えて追いかけていった。
「蒼佑」
すると前方から、彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。鳥居風太である。
「誰?」
「えっと、島の幼馴染。前言ってただろ」
「あ~。初めまして、鳥居風太です。蒼佑のルームメイトです。よろしくです」
風太は恭しく頭を深く下げた。
「えっと、葛西桜桃、デス」
「桜桃って、蒼佑の彼女?」
「え……」
「ちげぇよ、馬鹿」
「そっか。よかった。こんな奇麗な子が蒼佑と付き合ってるとしたら、世も末だなって、本当に良かった。しばらく世界は平和だ」
蒼佑は桜桃のことを面倒を見なければならない幼馴染と思っていて、彼女が可愛いとかそういう意識をしたことはない。桜桃は良く食べるし、美味しそうに食べるから、彼女のために料理を作ることは楽しいし、その笑顔が見たいから料理を良くするようになった……というのは否定できない。桜桃は結構大食いなのに、あまり太らない。体形は良く言えばスラッとしていて、顔はシャープで奇麗な顔をしている。髪は艶のあるストレートで、カッコいい女性になりそうな容姿をしているにもかかわらず、中身は結構抜けていると蒼佑は思っていて、彼女の外見のことをあまり評価してこなかった。
「Beco-Guaの抱き枕……ってことは、僕と同じでBeco-Guaのファン?」
「えっと……」
桜桃はその返答に困った。
「いや。これ、お前の。お前に頼まれてた物買ったら当たった」
「マジで。蒼佑、最高なんだけど」
桜桃は抱き枕を風太に渡して、言った。
「あの、Beco-Guaのことはあんまり知らないけど、Aliumは知ってて……」
「僕も好き。いいよね、センスいい友達だね」
桜桃と風太の話が盛り上がりそうになったが、蒼佑の質問がそれを遮った。
「で、お前、何してんの?」
「気分転換」
「何の?」
「勉強の。りっちゃんは、最近山ばっかり行ってるし、ヒマ」
「レオンは?」
「レオンは忙しそうで、部屋居ない」
「じゃあ、バイトすれば?」
「札幌は絶対に行くなって。そんな暇があったら勉強しろってメンターに言われてる」
「勉強って、宿題とかあったか? まぁ、俺は二回目だから簡単に思ってるだけかもしれないけど、でも、そんなに難しいこと……」
「ちがうよ、計算ドリルしてる」
風太は、スマホで写真を出して、今やっていることを示してくれた。三桁×三桁の計算だった。
「結構難しくない? ひっ算」
「それ、小学校の計算問題じゃねぇか」
「そう、これなら80点とれる」
「いや、これ、100点とれないといけないやつ……。それは致命的だろ」
「何が、大体でいいじゃん、こんなの。分かんなくなったら……ごまかせばいいじゃん」
「ごまかすのは良くない、お前もそう思うだろ、桜桃?」
急に振られて、桜桃は戸惑ったが、思ったことを述べた。
「……うん。これはちゃんとできた方がいいやつ、普通の仕事で必要な基礎の計算だよ」
風太は、桜桃に言われて引き下がった。
「じゃあ、しょうがないな。部屋に戻って、勉強するかな」
「なら、ちょっと待て。頼まれてたものも渡すわ」
蒼佑は背負っていたリュックを下ろして、風太に包みを手渡すと、彼は抱き枕を抱えながら嬉しそうに去っていった。
その頃、111号室のリビングでは、篠塚椥紗と河竹律が顔を突き合わせていた。
「見えとるんやな?」
「うん見えてるよ。河童がね」
椥紗は、そう答えた。緑色の身体の河童がソファでくつろいでいた。腰に布を巻いてくれているので、目のやり場に困るということはなかったが、身体にぬめりがあって、歩くと床がペタペタという音を立てるのが気になった。
(後で拭き掃除しないと……)
椥紗はちょっと神経質なことを考えながら、冷蔵庫の方に歩いて行った。個室から出てきた片桐双葉は、シャワーを浴びた後でまだ髪が濡れていた。律は双葉に話しかけた。
「まさか、こんなのを拾ってくるとは思わへんかった」
「……お腹すいてたみたいで、ね?」
「ここ、ペット禁止やで」
「ペットっていうか、人助けっていうか」
「これの、どこが人やねん」
「えっと、律さんもそうじゃない?」
「同じにせんといて。まぁ、同じやけど」
「かぱかぱかぱっかぱか」
「ほら、コイツもいうとる」
律と双葉は、河童の意思を理解しながら話しているようだけれども、椥紗には何もわからなかった。
「かぱかぱしか聞こえないよ、双葉は分かるの?」
「まぁ、なんとなくは。……分からない?」
双葉が椥紗はどうかときいてきたので、椥紗は首を横に振った。
「椥の意思は伝わってるよ。言葉も分かってるんじゃないかな」
「あ、そうなの? ごめんね。うちの家、キュウリなくって……代わりにピーマンはあるんだけど」
椥紗が、申し訳なさそうに洗った生のピーマンを河童のところに持っていき手渡すと、河童はピーマンを受け取って、礼儀正しく頭を下げた。
最近、よく早朝に律は双葉を山や森、人間が行くことのない自然の中に連れて行って放り出してくる。これが、所謂修行なんだそうだ。自然の中で、風や水をはじめとする様々な元素、自然を構成するものを感じること、知覚すること。その感覚から得た情報で寮まで戻ってくるのが、課題である。ゴールデンウィークは、学校のことを気にしなくていいので、かなり遠くまで連れていかれるそうだ。視覚や聴覚といった五感を混乱させた状態でスタート地点まで連れていかれ、寮まで戻ってくるためには、自然の中にあるものから確かな情報を手に入れなければ、遭難してしまう。
「颯っていう風がおったら、全部それが帰り方を教えてしまうから、意味ないと思って連れてくんなって言うたんよ。これで、違う風を味方につけてくるかなとか、風の動きを見てなんとかしてくるかなとか思ったんやけどなぁ」
律は恨めしそうに河童を見た。
「何で、水のが憑くの。えらい好かれてるよね。異界のモンに」
「りっちゃんは憑かないじゃん」
「ワシは憑く相手を選ぶの。双葉ちゃんのことは嫌いやないけどね」
「まぁ、好きじゃないと、力の使い方とか教えたりしないよね」
椥紗がうんうんと頷いて、相槌を打った。
「颯なしだと、全然方向とか分からないし、どうしていいのか分からなかったよ……。風のことは分かるんだけど、自然の中の風ってよくわからなくて。本当、どうしようかと」
「その割にはちゃんと帰ってこれてはるな」
律はつまらないという気持ちを露わにするが、双葉は気にしていないようだった。
「声が聞こえたの。だから、その声の方に進んでいった」
「まぁ、心当たりがないわけとちゃうけど。それで、何で、河童まで連れてくんねん」
「付いてきちゃったんだよね。気が付いたら、この子の後ろを歩いていて、このまま行けば帰れると思った。ちょっと記憶がないところがあるんだけど、無事に帰れたし」
引っかかりのあるようなことを話しているなと聞いていた椥紗は思った。その時、111の玄関の扉が開いた。
入寮の手続きをして、桜桃は蒼佑と共に111-C号室に向かった111号室は、女子の部屋で、蒼佑自身が何度も出入りしたことがあるというわけではないけれども、レイアウトは蒼佑が住んでいる212号室と同じで、慣れた場所だ。蒼佑は桜桃に鍵になるチップを入口にあるセンサーにかざさせて、躊躇せずに先に部屋の扉を開けた。
「あれ、鍵開いてた?」
椥紗のその言葉にその場にいた、律、双葉、河童の三者は玄関の方を見た。部屋に入った桜桃は、目を丸くして言った。
「……河童がいる」
蒼佑はその言葉に驚いたが、その意味が分からなかった。そして、両眼をこすった。
「ソファ、座ってる。見える?」
「何か、見えるくらい。お前は?」
「ねぇ、なんでピーマン食べてるの?」
「キュウリないから」
椥紗が答えた。
「あ、やっぱり。ピーマンは違うって言ってるよ」
桜桃の眼には、ペッとピーマンを吐き出して渋い顔をしている河童の姿が見えていた。
「お前分かるのか」
「うん。何かね。私、水の神様に好かれてるんだと思う。昔、海の神様にも助けてもらったし。だから、大切にしてあげないと。蒼佑、キュウリない? 持ってきてあげてほしいんだけど」
「部屋に行けばあるけど」
「じゃあ持ってきて。あ、農薬ついてるのは嫌なんでとりあえず洗ってほしいって」
「そんなこと言ってんのか?」
「いいから、はやく」
蒼佑は、桜桃に促されて部屋から出ていった。残された桜桃に向かって、椥紗は言った。
「えっとどちら様ですか?」
「あ……ごめんなさい。あの、今日からこの部屋の、葛西桜桃デス。普通科デス」
蒼佑がいなくなった桜桃は慌てて、恥ずかしそうに自己紹介をした。
「あの、この部屋、女の子だけの部屋だと思ってたんだけど……」
「ワシはこの部屋じゃないし、この河童は近くの山からやってきた河童や。住人はこの二人と、今はおらへんけどあともう一人おる」
律の説明を受けて、桜桃は胸をなでおろした。
「私は、篠塚椥紗、普通科だよ。それでこっちが……」
「同じく普通科の片桐双葉です。双葉って呼んでください」
「あ、同じく私も椥紗って呼んでください」
椥紗と双葉が自己紹介を始めたが、桜桃はその二人よりも河童のことに興味があって、河童が座っているソファの前でしゃがんでその顔を見て言った。
「君、不思議だね」
河童は、桜桃のことはお構いなしに、ピーマンを見つめながら何かをじっと考えていた。しばらく桜桃はその様子を見つめていたが、相手にしてもらえないと思い、立ち上がり、玄関の荷物を部屋に入れることにした。
「あ、手伝うよ」
椥紗も立ち上がったが、桜桃は右手でそれを制止した。
「自分で出来る……から」
そして、自分の部屋を探してグルっと見回した。椥紗は桜桃に言った。
「ここだよ、ここ。ここが、えっと……」
「桜桃って呼んで。ここが私の部屋なんだね、椥紗」
桜桃は微笑んで、椥紗に言った。
個室に入った桜桃は、家具やシーツといった物が桜桃の好きな青を指し色にして、落ち着いた感じで整えられていることに気付いた。
(さすが、蒼佑だな)
幼馴染の蒼佑は、桜桃の好きなものをよくわかっていて、そのセンスは信頼に足るものだった。備え付けのベッドとデスク・チェアとクローゼット、そして部屋の中の扉を開けるとトイレ、洗面所と一体型になっているシャワールームがある。そこも明るくて使いやすそうだし、やっぱり桜桃の好きな色のタオルやアメニティが揃えられていた。ここでなら、ゆっくりできると思った。
スーツケースを床に寝かせて、手持ちのカバンをベッドにの上に置き、桜桃もベッドの上に転がった。ロンドンのヒースローから羽田、新千歳と飛行機を乗り継いで、バスに乗ってここまで来た。やっと一息付けると思った。
「桜桃」
部屋をノックする音が聞こえて、その後に蒼佑が名前を呼んだ。
「あ、ごめん、寝そうだった」
「疲れてるよな」
「うん。でも、折角だし。ちょっと皆とお話ししようかな」
両親の都合で四月はすべてオンラインで受けるしかなかったが、蒼佑がフォローをしてくれたおかげで、困ることは殆どなかった。英語は得意なわけではないけれども、三か月ほど英語しかない世界で暮らしていたから、それなりに分かるようにはなった。父親も母親も日本人だから、家での会話は日本語だったが、全ての人間が日本語で意思疎通がスムーズに出来るというのは快適であることを実感させられた。
個室からリビングに戻ると、河童は嬉しそうにキュウリをほおばっていた。そしてはしのほうでは、バス停の近くで出会った鳥居風太が体育座りをしていた。風太は、桜桃に手を振って言った。
「面白そうだから来たよ」
律は不機嫌そうに言った。
「また余計なの連れてきて」
「余計なのって何さ」
「課題は終わったのか?」
「終わってないけどさ。Aliumファンのコと仲良くなりたいって思うのは、Beco-Guaファンとして当然でしょ」
風太も河童が見えているようなのに、全く動じていない。そのことが不思議だったが、桜桃はあまり気にしないようにした。
「あのさ、思ったんだけど、この子に名前をつけてあげたらいいんじゃない?」
椥紗が提案すると、桜桃と双葉はそのことに賛同するような表情をした。律と風太はまた面倒なことをしてとでも言いたそうな渋い顔をした。名前を付けるというのは、名付けたモノと名付けられたモノとの間に、何らかの関係が生まれることを意味する。
桜桃はヴァイオリンに名前を付けるくらい名前を考えることが得意だったから、頭を回転させて良い名前を挙げていった。
「それ、いい……ね。んっと……なんだろう。かっぱ、さん。皿。ピタピタ……。嘴。男の子だよね。尻子玉」
「尻子玉って、ちょっと破廉恥では」
尻子玉というのは、肛門にあると言われている玉で、河童は悪戯でそれを引き抜くことがあるといわれているものだ。これが抜かれると死んでしまうらしい。桜桃とは違って、双葉は名前を考えることがあまり得意ではなくて、考えているだけで良い名前を提案することはできなかった。桜桃はブツブツと呟きながら、名前を考えていて、そして、良い名前に辿りついた。
「えっと……緑衛門」
「ろくえもん?」
「緑で……、ちょっと昔っぽいなって。緑衛門、どうかな」
「いいね、緑衛門」
桜桃が名前をつけ、双葉がその名前を呼ぶと、河童は椥紗や蒼佑の目にもはっきりとその姿が見えるようになった。
「え、どうしてどうして。見えるようになった」
椥紗が驚いて声を上げると、風太は律の袖を引っ張って尋ねた。
「ねぇ、りっちゃん、眷属契約……だよね」
律は恐らく何が起こったのかを分かっていたのだろうけれども、目を伏せて知らんぷりをした。
「眷属契約って何?」
椥紗は畳みかけるように律に尋ねたが、律は適当にあしらった。その代わりに風太が椥紗に言った。
「神社の神様と狛犬みたいな関係。親が子供に名前を付けることで生まれるみたいな。親と子供の間には、血縁とか他の関係もあるから、名前を貰ったということだけで結ばれているものじゃないから、ちょっと違うけど。ま、名前を貰ったっていうことで、結ばれたんじゃないかな。まぁ、河童にも関係を結ぶかどうか選ぶ権利があるわけで、ただの人間相手に契約を結んだりはしないけど。双葉みたいに力のある人だったら、眷属契約を結んで主従関係になってもいいかな~ってなったりするよね」
契約が成立することで、河童は力を得た。そして、のない普通の人にも見えるような存在になった。緑衛門と名付けられた河童は、マイペースにキュウリをほおばっていたが、それを見ながら、蒼佑は怪訝な顔をした。
「なんかさ、べたべたしてる音がしねぇ?」
「でしょ。何かこれ、汚れないかなって心配でさ」
「顔もよく見たらきもいよな」
今まで見えなかった椥紗と蒼佑の二人が悪口を言っていることは分かるらしい。
「シャアアアアア」
緑衛門は、そう言われて、激しい声を出した。
「緑衛門、大丈夫。蒼佑は悪い奴じゃないよ」
桜桃が緑衛門をなだめるようにハグをすると、蒼佑はまた怪訝な顔をして言った。
「お前、良く平気だよな」
「え、別に、悪い、妖怪じゃなさそうだし」
「でも、まぁ、妖怪って認識してるわけね」
「妖怪だけど、良い妖怪だし……」
説明に困る桜桃を補足するように椥紗は言った。
「キモカワってやつか」
「えっと、まぁ、そういうの、かな」
桜桃は半分くらい納得して、半分くらい違うなと思った。
律は他の人たちのやり取りを適当に眺めていた。
「これだけ見えるようになってるということは、他の人にも見えるわけで、ちょっと問題になるんじゃない?」
風太は律から言葉を引き出そうとして、疑問を投げかけたが、それに対して答えたのは河童の緑衛門自身だった。
「かぱ。かぱかぱかぱ」
椥紗にはその言葉の意味が分からないので、双葉に助けを乞うと、双葉が言葉の翻訳を請け負ってくれた。
「えっと、何とかするから大丈夫だって」
「かぱぱ、かぱかぱぁかぱかぱ」
「力の出力の仕方をうまくコントロールすれば、見えないようにも出来ると思うって」
「かぱかぱかぱぱぱ」
「まぁ、やってみないと分からないけど」
「かぱかっぱかぱかぱかぱ、ぱ」
「とりあえず山に帰ってからやってみる」
即ち、今、緑衛門は、人の目に見える状態で、山に帰るまでの間、人の眼に触れる可能性があるということだ。そのことに椥紗は気付いて慌てた。
「あのさ、これって、今日ここに居る間は、見えるんだよね? 寮の人びっくりするよね?」
「なっちゃん、慌ててもしゃあないって。夜までここに居らしといて、暗くなってから帰らせたらええんちゃう? まぁ、河童やし、うまくごまかせると思うし、まぁ、それくらい出来て当然やんな?」
最後は、椥紗を安心させるというよりは、緑衛門に対して圧力を掛けるような言い方で、緑衛門はい居住まいを正し、敬礼をした。
「強い…人?だね……」
律を見て、桜桃は首を傾げた。
「そういえば、自己紹介、してへんかったな。ワシは、河竹律。蒼佑のルームメイトや」
「えっと人間? だよね?」
桜桃が尋ねると、風太がすかさず答えた。
「君が思ってる通り、りっちゃんは人間じゃないよ」
「え。嘘」
「嘘言っても仕方ないじゃん。ここに居る皆知ってるし。僕がタヌキでりっちゃんは狐。色々事情があって人間ごっこしてるわけ」
風太は不機嫌そうに、でもしっかりとした口調で答えた。
「じゃあ、妖怪さん……?」
さらに桜桃が尋ねると、次は律が答えた。
「有象無象の人を襲う下等な奴らみたいなので、妖怪っていう言葉を使ってるなら、そういう括りにされるのはお断りやけど、まぁ、否定はできへんな」
「じゃあ、妖怪じゃないなら……、えっと、ここには、魔法使いがいっぱいいるってこと……? 律さんは、狐の魔法使いってこと?」
「魔法使い……」
その言葉を聞いて、律は大笑いをした。他の人はそんなに反応しなかったのに、律だけウケていて、桜桃は何がおかしいのかが分からずに反応に困った。
「なっちゃんも結構お花畑の思考してるけど、この桜桃ちゃんも大概やな」
「何で私の方を見て笑うの」
急に椥紗の方に流れ弾が飛んできて、椥紗は心外だと抵抗を示した。
「律さんや、風太君みたいに魔法使いみたいな人……学校にいっぱいいるの?」
桜桃がこわごわと尋ねると、律はいい加減な感じで答える。
「さぁどうやろな? ワシそんなに学校行ってへんし」
続いて風太が口を開く。
「僕は、感知が得意じゃないから……」
「ま、年季の違いやな。……ところで、あともう一人のこの部屋のはいつ帰ってくるん?」
律がもう一人の住人、珊瑚のことを尋ねると、椥紗がそれに応対した。
「わかんないけど……、なんで気にするの?」
「いや、あの子、河童なんて見たら、実験したいとか言い出しそうやん。ま、えっか。そろそろ部屋帰るわ。無事に双葉ちゃんが帰ってきたし、ワシはここに居る必要のうなったし」
律は立ち上がって玄関まで、歩いていき自分の靴を履いて、最後に思い出したように双葉に言った。
「せや、君につけといたちっちゃい狐、鬱陶しかったら消してもええで」
「狐?」
「あ、気付いてへんかった?」
律は、双葉が何のことだか分かっていないことに優越感を抱いたようで、口角を上げた。
その日は岩下珊瑚が戻ってこなかった。そのおかげで、河童の緑衛門は彼女が居ない間に山の方へと帰っていくことができたのだが、初日にルームメイト全員に会えなかったことは、少し残念に思っていた。
「よかったら、食パン食べる? 一人だと食べきれなさそうなんだ」
翌日、朝起きてリビングに行くと、椥紗が馴れ馴れしく話しかけてきた。鬱陶しいなと心の端の方では思っていたのだけれども、椥紗には全く悪意がなかったし、折角の申し出だし、それをありがたく受け入れることにした。
桜桃は、朝ごはんをどうするのかとか、適当にしか考えていなくて、椥紗の歓待はありがたかった。けれども、その歓待を受けることで、桜桃が椥紗の力の傘下に入るような感じ、即ち桜桃と椥紗の力関係がイーブンではなくなっていくような感じがして、どうも素直に良いものとして受け入れられなかった。その桜桃の気持ちが外にまでじんわりと出ていたのだろうか。二人きりのリビングは、居心地のいいものではなかった。
その空気を変えたのが、帰ってきた珊瑚だった。
「昨日はどうしたの?」
「聖の家に泊まったのよ。射撃部作るの、本気らしくて、色んなプラン聞かされた。でも、百舌陽一郎を落とすのは無理だからな」
「ほぉほぉ」
「椥紗。アンタが承諾するべきなの」
「何を?」
「部長になること」
「は?」
「百舌陽一郎も、聖も頑固だから絶対に決めたことは変えないのよ。要するに、二人の主張は平行線確定なのよね。」
椥紗はトーストを焼きながらも、珊瑚としか共有していない話をしていて、桜桃は居場所がない感じだったけれども、不思議と居心地は悪くなかった。椥紗が構ってくれると、なぜか落ち着かない。椥紗は身体が大きいし、骨格がしっかりしていて、存在に圧迫感があるというのもあるけど、話し方とかそういうのだろうか。懸命で、どうもその勢いに圧倒させられる。
(別に、おせっかいというわけではないんだろうけど……)
桜桃は二人の話がよく分からないけれども、珊瑚が椥紗を必要としているということは分かる。
(やっぱり頼りになる感じもする…し、ね……)
意味は分からないけれども、気配を消して二人の様子を眺めて居た。そして、ファの方を見た珊瑚と目が合った。
「あれ、誰?」
「あ、気付いた。新しいルームメイトだよ」
そう言われて、桜桃の方に珊瑚が近付いてきた。
「え、っと……。葛西桜桃、です」
「なんで今、ここに入ってきたの?」
「えっと、イギリスからかえって……、きて。親が研修とか、交流とかで、三か月ほど、居たんだ」
「わかったわ」
たどたどしく話す桜桃を見て、珊瑚は興味がわかなかったらしく、適当に言葉を返した。
「ちょっと、ちゃんと挨拶。自己紹介、してないでしょ」
「私に指図出来ると思ってんの?」
「あ~もう、また、突っかかってくる。えっと、こっちは岩下珊瑚です。科学者っていうか、色々作るのが得意な子です」
「……それ、蛇足」
「あ、はい」
蒼佑が珊瑚の名前は教えてくれていたし、自己紹介をされなくても別にいいし、しないというのもしない人の1つの意思なわけだし、そういうのも含めて、その自己紹介をしている相手のことを慮ればいい。そう、珊瑚が指摘した通り、椥紗の振る舞いはどこか余計なのだ。別に、悪いことじゃないのだが、何だかそれが桜桃には引っかかった。
桜桃と椥紗だけでなく、珊瑚も一緒に朝ごはんを食べてくれたおかげで、椥紗の圧が桜桃だけに降りかかってこなかった。そういう圧を感じている自分が嫌だなとは思うのだけれども、こればかりはどうしようもない。まぁ、珊瑚がいるだけで、桜桃が椥紗に対して抱く何か嫌だなという感じは薄まることが分かったし、椥紗と二人きりにならないように、避けていることが椥紗に知られないように、うまくやっていこうと思った。こればっかりはしょうがない。なんとなく合わないという感じは、対処するしかない。そして、その気持ちを心の中に閉じ込めた。
蒼佑が校舎までの道程や、寮の中を案内してくれるというので、寮棟の玄関で二人は待ち合わせた。蒼佑が居るから、椥紗からの親切な「案内する」とか、「ショッピングに行こう」とかいった申し出も断ることができる。そういう予防線みたいなところもある。蒼佑がいてくれて本当によかった。
蒼佑がやってくると、桜桃は自然と笑みをこぼした。
「何か、あったのか?」
「いや、何でもないよ」
「そ。じゃあ、食堂から案内するわ」
食堂に入って、桜桃は入口のところの掲示板に張られた一枚のチラシが気になった。『バスケやりたい人募集、集まれば部活になるかもよ』。そこに書かれていた部活という言葉に桜桃は注目したのだった。
「部活、作れるってこと? 部活を作るっていうことをしている人が結構いるってこと?」
「さぁ、俺、バイトするから興味ねぇし」
蒼佑が札幌の高校を退学したことに引け目を感じているから、学生生活を充実させることへの興味が気迫であることを桜桃は察していた。
「椥紗も、そうなのかな?」
「そうって?」
「部活つくるの、とか」
桜桃は椥紗と珊瑚が部長とかそういうことについて話をしていたことをふと思い出した。
「何か聞いたのか? ああ、そういえば、レオンが『珊瑚が部活を作ろうとしてるって』言ってたな」
「レオン?」
「何かハーフっていうか、外人の顔した奴」
「外人って言ったら差別になるよ」
「いや、外人はそうじゃねぇだろ。日本人っぽい顔がただそういうものって言ってんのの反対なだけで、別に差別とかそういうのしてるつもりないけどな」
「でも、子供に指さされて、チャイナって言われたのはちょっと嫌だった」
「ちょっとだろ。それは、お前に中国に対する偏見があるだけで……」
「ひとくくりにされるのが、何かひっかかる、よね」
「じゃあ、アジア人って聞かれていやなことはねぇのか?」
「うーん。それも、違う、気がする」
とりとめのない話になりそうだったので、蒼佑が話題を戻してくれた。
「それで、俺の部屋のレオンっていう奴は、地元の奴なんだけどさ。そいつが、部活の申請書を作るのに付き合わされているって言ってたな」
「ああ、それ、だと思う」
桜桃は朝、椥紗と珊瑚がやってたことがどういうことなのか少し分かって、うんうんと二度頷いた。
食堂の後は、売店、浴場、談話室など、蒼佑が知っている場所を案内してくれたが、蒼佑は寮に居る時間よりもギュフの店舗でバイトをしていることが多いから、施設のことをあまりよく分かっていないらしい。
「えっと、音楽、練習できる部屋とか……?」
「ヴァイオリンか。部屋じゃダメなのか?」
「あの、部屋でも良いかもしれないけど、音が聞こえるの嫌な人もいるし……」
「お前の部屋だったら別に言っとけば大丈夫なんじゃ……、いや、そうでもねぇか」
大分、111号室のメンバーのことを把握しているんだなと蒼佑の言葉を聞きながら桜桃は思った。蒼佑は、島にいたころよりも大分がっしりとした体つきになっていた。もともと島では外で元気に遊んでいる子供で、健康的で、力のある男性という感じなのに、性格は穏やかでどちらかというと繊細である。
「メンターが、芸術科の生徒向きの練習用の部屋あるって言ってたから」
「ああ、そういえば椥紗が、そういうのあるとか言ってたような」
蒼佑が篠塚椥紗のことを椥紗と呼ぶと、桜桃は少し顔が引きつった。蒼佑が誰とどういう関係を構築しようとも、桜桃には関係のないことだが、椥紗というのはどうも引っかかる。
「おい、桜桃」
桜桃は、何も言わなかった。動揺していることを、蒼佑に悟られたくなくて、桜桃は速足で先に進んでいった。
そして、二人は寮から雁湖学院の方へと歩いて行った。ほんの十分ほどの道程だが、開けて遊歩道で何もない。道の両サイドは芝生があって、時々ベンチとか椅子とか、テーブルとか。よくある形ではなくて、美術品のような一点物のようなものが使えるように置いてあった。公園のようなスペースのところには、遊具のようなもの、多分健康器具だと思うのだけれども、懸垂をしたり、自転車を漕ぐような動きができるようなものであったり、その空間が安全でなければ、誰かによって盗まれてしまうようなものが置かれていた。ベンチやテーブルは美術品のようなものでしかないだろうけれども、そういうものが置かれているだけで、その空間の色が変わる。物でしかないけれども、その物には意思が込められている。固定されているけれども、それらは盗もうと思えば盗むことができる。仮にそれが盗まれたとしたら、その「盗む」という行為がその空間の雰囲気や色を変える。その場所にその物が存在するのは、物理的にそこが守られているだけではなく、精神的にそこが守られるべき場所という目に見えない力が働いているからなのかもしれない。
祝日で雁湖学院の門は閉じられていた。敷地内は立ち入りが出来なくなっていたが、電気のついているようなところもあって、誰かが居るのかもしれないとは思った。でも、無理に入る必要もないし、門のところで、ターンをして、また歩いてきた道を戻ることにした。
遊歩道は、車の往来のない道で静かだった。校舎まで車で行くには違う道を進む必要があって、この雁湖という場所が現代社会から隔離されている場所というわけではなかったけれども、何か失くしたものをまた感じられるような場所だった。桜桃と蒼佑には、神威島での生活という共有する記憶があって、その記憶から都会での生活を引き算して出てきた答えがその何か失くしたもの認識しているものなのだけれども、それはうまく言葉では表せられないもののように思った。
「空が、奇麗だよな」
遊歩道を歩きながら、蒼佑は言ったが、それは単にその空の美しさのことを言っているのではなくて、高い建物や電線、遮るものがなくて良いという意味も込められているような感じを受けながら、桜桃は頷いた。蒼佑は札幌と比較して、桜桃はロンドンと比較してその空の美しさを見ているのだけれども、二人の美的意識の基礎は神威島にあることを認識する言葉でもあった。
神威島は平坦な島で、丘と呼べるくらいの突起しかなかったので、山に囲まれているこの雁湖という場所とは異なっている。ただ、自然の中に囲まれているという安心感というか、生きていることを認識することができる感覚がある。都会では感じることのできない息吹のようなものが感じられる場所だ。田舎で生まれたから知ることのできた自然の中での人間のあり方、大体の場合その感情は言葉で言い表すことができないと書かれるが、い意味でも悪い意味でもだ。桜桃と蒼佑は自然が豊かで美しいだけではなく、残酷で厳しい面があることも知っている。
二人は小学生のころ事件にあった。正確には、蒼佑の浅はかな考えが事件になった。蒼佑は父親の船に桜桃を乗せて、無断で嵐の海に出かけて行ったのだ。父親が船を操縦するのはよく見ていたし、蒼佑の父親は蒼佑と同じでお喋りだから、どんな風に扱うのかの説明を頼みもしないのにしてくれる人だった。
「ばかだったよね。嵐で連絡船は全部止まってたのにさ。神威島で暮らしていて、専門の先生のレッスンを受けてないんだよ。そんな子が、ヴァイオリニストになんてなれるわけない。本気の子は、良い先生を探して、その先生に習えるような環境を作る。それができなかったちょっと上手かっただけの私……。本気でもなかったのに、蒼佑はいつも持ち上げてくれた。札幌のコンクールに行くために、中学生になったばかりの蒼佑が『俺が海を渡らしてやる』ってさ。ふふ」
桜桃はその時のことを思い出して、笑った。蒼佑は黒歴史を掘り返されて、ちょっと恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
「うるせぇよ。あほだったの。ちょっと考えりゃ分かるよな。連絡船が運航休止になるくらいの嵐だったわけで、その中に船舶免許を持ってない俺がな、マジでありえんよな」
神威島は離島だから、天候次第で連絡船が欠航になる。だから、いつも島から出られるとは限らないのだ。島に住んでいれば当たり前のことだが、都会に住んでいる人はあまり知らない。津波といった災害が起こっても、島の中で対処しなければならない。もしもの場合に備えなどは、他の自治体よりも深刻に考えなければならないような場所だった。
桜桃と蒼佑に降りかかった事件は4年ほど前のことになる。桜桃はヴァイオリンのコンクールの一次予選を通過し、札幌で行われる地区大会に出場する権利を得た。その地区大会の前日、嵐で海が荒れて連絡船が全日欠航になった。桜桃は、母親と一緒に札幌まで向かう予定だったが、その嵐のせいで神威島から出られないという事態になった。
勿論、行きたいとは思っていたが、天候が悪くて島から出れないなら仕方がない。母親は、島の数少ない看護師だったから、長期間桜桃のためにつきっきりになるわけにはいかなかった。そんな事情のことを桜桃は理解していたし、そもそもヴァイオリンのコンクールにチャレンジした理由が不純な動機だったから、行けなかったらそういうものとして諦めて良いと思っていた。その頃、桜桃はヴァイオリンに自信が持てなくなっていた。その原因は何だっただろうか。そうだ、島にやってきた「なぎさちゃん」という意地悪な同級生に演奏を馬鹿にされたということがあったのが原因だった。
なぎさという響きに、悪いイメージがあるのは、その「なぎさちゃん」のせいだと思う。彼女が神威島に住んでいたのは、三か月程度の期間で、詳しいことは分からないが家族の都合でやってきていたらしい。彼女は生意気に言いたいことを言った。
「あのさ、桜桃ちゃんは、ヴァイオリンとピアノが出来るって聞いたんだけど、両方できるなら、ヴァイオリンよりも、ピアノを弾けばいいじゃない。へたくそなヴァイオリンなんてキーキー嫌な音を出すだけだし、あたし嫌いなの。その点ピアノは合唱の伴奏もできるし、役に立つじゃない? だから、ヴァイオリンなんて止めた方がいいと思うのよね」
桜桃は理不尽な「なぎさちゃん」に対して、攻撃的な気持ちが湧いてこなくて、ただ適当に相手をしていた。突然やってきた音楽のことを知らない転校生を相手にすることは労力の無駄と思っていたが、同じ学校の同級生だし、同じクラスだし、小さな島だし、嫌でも顔を合わせる。そのたびに、「なぎさちゃん」にヴァイオリンのことを悪く言われたことを思い出して、嫌な気持ちになっていた。そんな時があった。
そんな時、桜桃は蒼佑によく相談をしていた。相談して何か良いアイディアを出してもらうというのを考えているわけではなくて、消化しきれない気持ちをただ聞いてほしいがために、話をした。大体会うのは、診察が終わった後の診療所の待合室で、二人はよく一緒にその部屋の掃除の手伝いをしていた。
「蒼佑」
「だからお前、俺のことはさん付けしろって……」
「……蒼佑は…蒼佑だよね?」
蒼佑の両親は、桜桃の両親、特に医師として診療所で働いてくれている父親のことを尊敬していて、蒼佑に診療所の手伝いをさせていた。させていたといっても、小さな手伝いで、掃除だったり、診療所に通う患者さんたちの手伝いであったり、中学生でもできるようなことをやっていた。その頃から、桜桃と 蒼佑はよく話していた。
「お前、今日はヴァイオリンのレッスンじゃなかったのか?」
「あ、うん。そうなんだけど……」
「何だ? お前、何かステージ立ってるときと、普段と全然態度が違うよな」
「そう、かな」
「まぁ、自分の考え方をしっかり話して通そうとするところは、普段もあるけど、何かおどおどしてるっていうか。俺、そういうの好きじゃねぇ」
「……そう、なんだ」
「その、言い方。なんとかしろよ。あのさ、この前、先生と弾いてたやつ、カッコよかったんだけど、それがコレって思うとさ、何か残念な気分というか」
「そっか。……嫌いって言われて、さ」
「誰にだよ」
「新しく来た子……その子が嫌いって言ったから」
「止めるのかよ。馬鹿じゃねぇの」
蒼佑は、桜桃のことをいつも見てくれていて、欲しい言葉をくれる人だった。桜桃にとってヴァイオリンは、特別なものだった。そして、それを良いと言ってくれる蒼佑が自信をくれた。神威島は、都会に比べると、モノが少ない場所だったが、島には、音楽大学を卒業したヴァイオリニストの女性がいて、その人が桜桃にヴァイオリンとピアノを教えてくれていた。専門の教育を受けていた人だから、どうすればプロのヴァイオリニストになれるかということも分かった上で、桜桃に教育をつけてくれていた。
先生の名前は、香花紫という。その名前は芸名らしいが本当の名前は限られた人間しか知らない。彼女がなぜ神威島にやってきたのかということは、謎だったが、彼女は島唯一のヴァイオリニストとして、島の様々な場所で演奏をして生活をしていた。紫は、演奏をするだけではなく、ヴァイオリンにまつわるようなことは何でもやった。音楽配信ページに録音した音を配信したり、専門の資格は持っていないが、デイケアセンターの通所者と一緒に即興でヴァイオリンを弾くといった音楽療法のようなこともしていた。そして、小学校と中学校で音楽の補助教員をやっていた。そして、香花先生として呼ばれていた。
桜桃はヴァイオリンの技術を落とさないために、ロンドンでも、個人レッスンを受けていた。たまたま紫の知り合いが居たからだったが、その先生の元にやってきている生徒たちは、クラシックでのプロを目指す意識の高い人が殆どだった。ヴァイオリンと一体になっていくこと、より表現したいものをありのまま表現する意識が強いというか、楽曲を学び、それを消化しクラシックに特化したホールで演奏することを目的とするような人々で、ちょっと何か違うなと思った。滞在は三か月という短期間だったし、海外に楽器を持っていくことは色々と手間がかかるから、桜桃は、ヴァイオリンを借りて練習していたのだが、
自分の楽器を持ってこなかったことを馬鹿にする人もいた。紫が学んできたヴァイオリニストの世界を垣間見て、改めて香花紫という人間の偉大さを知った。クラシックホールという無菌室のような場所で洗練された音を奏でることが目的なのか、それとも、天井の低い音の広がらない場所で、クラシックに無知な観衆に向けて演奏することが目的なのか。紫は後者を選んだ変わり者、前者を極めている人間からすれば落伍者のようなヴァイオリニストみたいな言われ方もしかねないだろう。
(その道に進もうとは思えなかったけど、ロンドンでレッスンを受けた経験は悪くなかったし、「美しい」と言われているものがどういうものなのかも分かった気がした)
ロンドンでの経験は、桜桃の相棒のヴァイオリン、ラック君への想いも変化させる機会となった。
さて、神威島での話に戻ろう。桜桃は小さいころから紫の元に通っていたから、紫先生と桜桃ちゃんとして、信頼関係があった。学校では頼りのされていて、よく伴奏を任された。音楽の先生が、伴奏を弾きながら歌の指導をするというのは、オーソドックスな方法だけれども、紫はピアノに特化しているわけではないし、歌も専門でもない。ただ、ヴァイオリンを学ぶ過程でピアノや歌を学ぶことは大事なことだったし、西洋クラシック音楽を知らない人々にその基礎を教えるくらいの素養は十分に身に着けていた。ただ、ヴァイオリニストとしての範囲でしか出来ない。義務教育での音楽を教えるには、その教える内容に集中して、伴奏とか他の要素は誰かに頼めるのがベストだと思っていたから、桜桃が伴奏を任されたのだ。ピアノに対して、ヴァイオリンほどの興味を桜桃は持っていなかったのだけれども、紫に教えてもらえるのであればやってみたかったし、紫は都合で伴奏を頼むのだから、ピアノはレッスン料なしで教えてくれると言ってくれた。そして、桜桃は、ピアノを弾くことができる生徒として、島の人々から見られるようになった。それは次第にヴァイオリニストとしての桜桃のプライドを揺るがすものともなった。
「なぎさちゃん」が「ヴァイオリンよりもピアノを弾けばいい」と言ったことが桜桃の心に刺さったのは、その言葉が他の人からの桜桃の評価を明確な言葉にしたものだったからで、「なぎさちゃん」はきっかけにすぎない。今、雁湖に居る桜桃は、「なぎさちゃん」の言葉を思い出しながら、その話を始めた。
「なぎさちゃん、元気かな?」
「なぎさちゃん? お前の部屋の?」
「違うよ。神威島に来てた、なぎさちゃん。春に来て、夏くらいには居なくなっちゃった子」
「ああ、そういう奴いたな。お前が、ヴァイオリンを弾く気がなくなっちまって、香花先生が話を聞いてくれて。その時に、ヴァイオリンのコンクールに出るって決めたんだろ?」
「え、そうだっけ?」
「違うのか? 俺に愚痴こぼして、俺がそれでもレッスンに行けって言って、それから数日の間に決めたじゃねぇか。コンクールの予選に出るって。レッスンで話し合って、ヴァイオリンを弾く理由を取り付けたんだろうなって思ったんだけどな」
「全部お見通しだったんだね……」
「…お前のことは大体わかる」
「……すごいな。私にさえ分からないことを、蒼佑は見てくれる……よね」
「桜桃、お前はさ、ずっとヴァイオリンをやってきてて、ピアノよりもヴァイオリンの方が好きだってことは、俺だけじゃなくてみんな気付いてることだ。大体、好きに理由なんてねぇだろ。お前の悪いところは理性で感情をコントロールし過ぎっていうか。理由つけないとその好きを大事にしねぇところだよな」
「私は、自分がしたいことよりも、自分が必要とされることがしたいんだよ……」
「だから、学校で頼まれてるピアノの方がやりたいっていうのか。それは、誰かに依存してるだけじゃねぇか。お前がどうしたいか、それが出来ねぇのは無責任な生き方だよな」
嫌なくらい、蒼佑は桜桃のことを知っている。そして、蒼佑は自分の意思を大切にして、それに責任を持って生きている。合わない札幌の高校を中退して、雁湖学院に入りなおして、一年遅れになって、学費を出させた親に対して申し訳が立たないから、生活費を自分で稼いで何とかしようとしている。この言葉を蒼佑以外の人から言われたら、何か晒されているようで凄く嫌な気持ちになるんだろうけど、蒼佑の言葉だと腑に落ちる。言葉は、不思議だ。その言葉の意味だけではなくて、誰がそれを発するかで全然意味が変わってくる。
「そういえばさ、なぎさちゃん、すげぇ派手な子だっただろ?」
「そうだった? うん、確かにそうかも……」
なぎさちゃんの言葉は覚えているのに、彼女の容姿のことをほとんど覚えていない。蒼佑に指摘されて、覚えていないことに気が付いた。それほどどうでもいい存在だったのに、彼女の言葉だけは、今でも残っている。これがトラウマというものなのかもしれない。
「なぎさちゃんが島にやってきたときに、お前、コンサートしただろ。あれ見て、羨ましいっておもったんじゃねぇの。お前、公民館で凄い演奏したじゃねぇか。」
島の中でコンサートを開く桜桃に嫉妬していたのかもしれない。なぎさちゃんの言葉、それは単に桜桃の演奏に対して言ったものではなくて、背景があってその言葉が紡がれたというわけだ。神威島はクラシックを演奏するのに良いホールがあるわけではなくて、せいぜい大きなところで公民館だったから、桜桃は自分自身の演奏をそこまで良いものだとは思っていなかった。目立ってちやほやされたいと考えているなぎさちゃんが桜桃に嫉妬して、きつい言葉を投げかけたということも考えられなくはない。言葉から相手の意図を汲み取るのは難しい。
なぎさちゃんのことは、些末なこととして、なんとなくしか覚えていない。その後、コンクールに出るために、桜桃と蒼佑が起こした事件があまりにも大きかったからだ。
「あのさ、やっぱ忘れられないよな、えっと」
「あれは、蒼佑が悪いわけじゃない……」
そのきっかけは、なぎさちゃんの言葉にショックを受けて、桜桃がヴァイオリンのレッスンを休もうとしたことだから、ポイントであることは間違いない。
あの時、桜桃は蒼佑の言うことを聞かないと思った。だから、他の人の力が必要だと思った。必要になる人は誰なのかすぐにわかった。蒼佑は、ヴァイオリンの先生、香花紫の住む二階建の家まで走っていったのだった。息を切らせながらやってきた少年に、身ぎれいにしている中年に近付いている年齢の女性が言った。
「島田君どうしたの?」
「あの、桜桃が……、いや、葛西が、ヴァイオリンのレッスンに行かないって。自信失くしてて、俺、アイツのヴァイオリンが好きだから、それはダメだって……」
紫は神威島に引っ越してきてから長かったし、補助教員として蒼佑の先生もやっていたから、自分が何を求められているかがすぐにわかった。紫は、蒼佑の話を聞いて蒼佑と一緒にすぐに桜桃の居る診療所に向かってくれた。そして、一枚のビラを出して言った。
「桜桃さん、コンクール、チャレンジしてみない?」
レッスンに無断で行かなかったのに、そのことは言わなかった。桜桃は真面目な生徒だったし、そんな生徒が理由もなく遅刻したり休んだりするわけがない。そう思っているから過ちを指摘せずに、その過ちの原因となったことを解決出来る方法を紫は提示したのだった。コンクールなんて、演奏能力の高い生徒しかチャレンジしないようなものだ。そんなものに誘ってくれる。これは、紫が、桜桃の演奏の力を高く評価してくれていることを示している。桜桃は嬉しくなった。そして、何も考えずに二度大きく頷いたのだった。
ピアノやヴァイオリンといった音楽のレッスンをなぜ受けるのかという問いの答えは「好きだから」というものが一番いい。レッスンの費用や、楽器にかかるお金、コンクールに行くための遠征費……諸々を考えると、その好きにお金をかけられないから、多くの人が忙しいを理由に辞めていく。他の習い事だったり、塾だったり。とりわけ塾は音楽を辞める大きな理由になっていて、時間の面でも金銭の面でも子供たちを逼迫するものとなっている。神威島には、良い進学塾なんてないし、お金を浪費できる場所が少ない。その代わりに娯楽が少ない。数少ない娯楽の1つが音楽だ。紫が音楽家として活躍できるのは、このような環境にあるからだ。より高いレベルの演奏を求めて、ただコンクールに向けて練習を続ける日々もあった。その練習は、楽しいものではなくて同じものの反復でつまらないと思うこともあったし、何度弾いても自分が理想とするものにならなかったし、良いと思う演奏を誰かに披露して不評であることもあったし、入賞したからといって、仕事につながらないことがほとんどだ。辛かった。それはどんどん積もっていった。楽譜と向き合い作曲者の意図を捉えても、それが理解してもらえなければ意味がない。コンクールの審査員が誰なのか、そのメンバーでどのように弾くべきかを考え、実践し、だからといって、それがいつもうまくいくとは限らない。それが、聴衆に理解して貰えないことが殆どだ。ステージで緊張と向き合う時に、孤独な自分と戦う。腕・指・呼吸……身体の全てと楽器が重なる快感……。それを見るのは、コンクールの審査員だけだ。それに何の意味があるだろう。次第に紫は、コンクールに意味を見出せなくなった。
そうであるにもかかわらず、紫はコンクールのビラを桜桃を勇気づけるものとして持ってきた。意味が見いだせないと思えるまでこだわり続けた練習があっての自信、それが今紫を形作っている。音楽の専門の道に進んだところで、成功を得られるのはほんのわずか。そして、栄光の陰には、きな臭い話もよく聞く。音楽家になるためには、音楽大学を卒業し、更に海外での研鑽に努める者が多い。教育を受けるのに大きなお金が必要となる。また、ソロでのコンサートを開くにはお金がかかる。だから、元々お金持ちの家に生まれなければ実績を積むことができないとか、才能だけではどうしようもならないところが多分にある。お金をなんとかするために、力のある人に取り入ったり、時にはそのために性的な関係を持つといった、穏やかではない噂もある。そんな世界に自分の可愛い生徒、桜桃を導いていくなんてまっぴらだ。
矛盾している行動だと思う。でも、逆説的に捉えれば、それだけのリスクを冒してでも、誰かに認められるということには意味があるということだ。コンクールに時間や労力をかけることには意味がある。紫が桜桃くらいの時に欲しかったもは何かと考えた時に、誰かに認められるということだったかもしれない。自分の良いと思うものが誰かに認められることは、支えになった。コンクールは、紫を鼓舞してくれたモノだった。初めて予選に通ったとき、自分の番号が合格者の表にあった時、紫は飛び跳ねた。予選に通って当たり前、そう思うようになる前の自分は嬉しいと感じていたのだ。
桜桃は神威島に住んでるし、日本の良い音楽大学、いや、海外の第一線で活躍しているような音楽家を輩出する大学を卒業し、多くのリサイタルをこなして、一流になることは難しい。父親と母親は離島である神威島の医療を担う、神威島に居なければならない人だし、桜桃の夢のために一緒に動いてくれるなんてことは無理だ。だが、都会に住み、一流の音楽家を目指す人たちにはないモノがある。神威島の人々という桜桃のファンみたいな人たちだ。彼らは、桜桃がうまくなることを喜んでくれる。ヴァイオリニストとしての力を伸ばすこと、それは世界で活躍する音楽家になるためではなくて、ただ身近な人々を楽しませる、そんな大きな理由がある。田舎の音楽なんて分からないような人たちだなんて馬鹿にされるかもしれない。難しい音楽の理論は分からなくても、桜桃の音楽を愛おしいと思ってくれる人たちなのだ。理論よりも身近にいるや、具体的で強い力として働くことが多い。知らない誰かよりも、知っている誰か、その笑顔、幸せ……具体的な形が、力を与えてくれるのだ。
コンクールには、課題曲があって、その課題曲を演奏し、それに対する評価を比較して順位が付けられる。まず桜桃が知ったのは、神威島という離島では、その課題曲の楽譜を手に入れることが骨だということだった。
「もしもし、その楽譜、もっているなら写メをして送ってほしいの」
紫は音楽大学での友人や、一般的な演奏活動をしていた時の知り合いに連絡をして、求める楽譜が手に入らないかの交渉を積極的に行った。オンラインでフリーで手に入る楽譜もある。それも楽譜ではあるのだが、ずっとコンクールにこだわってきた紫にはただそれをなぞるだけの演奏でいいとは思えなかったのだ。コンクールの審査員のメンバー、作曲者、そして、桜桃の性格からどの楽譜が良いのかを選択することに時間をかけることから、プロジェクトは始まった。
最初、桜桃はその大変そうな作業を楽しいと思っていた。ただいつものように渡されたが楽譜を読むだけではなくて、同じ楽曲でもどの楽譜が一番良いのか、その楽譜でうまくいかないところは、他の楽譜を見て、自分に合うように修正する。メンデルスゾーン作曲、ヴァイオリン協奏曲、ホ短調、作品64。ドイツロマン派の作曲家、メンデルスゾーンの有名な楽曲で、哀愁、幸福感、感情の揺れ動きが激しく、オーソドックスなコンクール曲ともなっている。小学校高学年の桜桃には難しいものとも思ったが、公民館とはいえ神威島で何度も舞台を踏んでいる。舞台にいるときに、桜桃は普段のおどおどとした姿でなく、堂々とした惹き込まれるような演奏をする。紫自身が桜桃の演奏のファンだったのかもしれない。そういう演奏ができる桜桃だからこそ、良い成績を取らせて、自信をつけさせたいと思ったのだ。
桜桃は、楽曲について学ぶことも、演奏することも、楽しいと思っていた。それは容易な作業ではなかった。楽譜に書かれていることを表現するには、その楽譜を書いた人が、どうしてそのように書いたのかそれを考えなければならない。強弱記号、表記されている言葉、それは日本語は書かれていなくて、イタリア語やドイツ語で書かれている。楽譜からのメッセージが理解できても、その通りにうまく指が動かないし、そのための練習を何度も重ねなければならない。時間も労力もかけた。だけどそれを苦にしないくらい、楽しかった。
その作業を元に、自分の音楽を誰かに届けたいとは思ったが、不特定多数の大歓声を得たいとは思わなかった。必要とされるものを奏でたかった。謙虚? そんなことはない。そう思っているのに、舞台に立つと誰かのためになんていう気持ちは消える。ピアノの伴奏、その前奏を契機に、前奏がなければ、客席からの最初の拍手を導きに心と身体を沈め、楽器に溶け込ましていく。溶けていくと、自分自身と楽器の間に境界がなくなる。どんな風に指を動かせば、楽譜に書かれているように演奏できるのかとか、そういうのは準備の中で昇華されてしまっている。楽譜に書かれていることは、もう全て頭の中に入っているし、身体にまで沁み込んでいる。舞台の上で、怖くなるなんてことはなかった。楽譜に書かれたように出来ないものは出来ない。それをどう演奏するかは、もう身体が知ってる。どのように評価されるかではなくて、自分ができることをするだけでいい。それが出来ることが、誰かに琴線に触れる事になる。その信念に基いて弾いている。だから、傲慢だと言われるかもしれない。そんな姿を知らない誰かに見られたくない。
コンクールの審査員は、公平性を規すために、表情を変えずに演奏を聞く。その筋では有名な人らしいが、ヴァイオリニストだけではなくピアニストや声楽家といったクラシック音楽関係の人が審査に入っていた。一次予選はそんなに難しいものではなく、ヴァイオリンの専門家でなくても聞き分けられるほど荒い選別でしかないということだ。
桜桃はいつものように弾いた。ただそれだけでつまらなかった。ヴァイオリニストらしい審査員の先生は期待のまなざしを向けてくれたように思えたが、後の先生は仕事としてこなしているような感じで、そういう空気の中で演奏するのは嫌だと思った。一次予選は、公民館同じような部屋だし、その場所で演奏することで何かワクワクするということもなかった。いつも通りに弾けば、合格できる。紫の言った通り、合格通知が家に届いた。
合格通知と一緒に同封されていたのが、地区予選への招待状だった。札幌で行われる地区予選では、桜桃が今までに経験したことのないような大きな音響のいいホールが用意されていたし、合格という「演奏が認められた」という通知があったことが嬉しくて、予選に行くかどうか言われて、その場で「行きたい」と返答したのだった。
神威島から札幌はフェリーで約一時間、その後札幌まで車で約三時間、バスだと四時間弱の道程なので、半日はかかる。
「マジか。緊急手術ってことだから……」
「そう、お母さんは行けないって」
神威島の患者の状況で、桜桃の予定は大きく変わった。最初は家の車で行くということだったが、桜桃の両親の都合が悪くなってしまった。桜桃が一人で札幌まで向かうことはできるのか、子供が一人で出かけれるようなサービスを探したり、札幌に住んでいる知り合いに連絡を取ったりと、桜桃の周りの人たちは地区予選に行けるように色々動いてくれた。最初はワクワクして嬉しい気持ちの方が優っていたけれども、段々、申し訳ないような気持になってきた。一次予選の詰まらなさそうな審査員のためにわざわざ札幌に行くのか。そう思ってしまったのだった。
それは偶然だと思っていた。でも、数年経った今、その時のことを思い返してみると、桜桃が札幌の地区予選にいかないようにする何らかの力が働いていたような気もする。仕事でいけない両親のために紫がついていくということになったけれども、紫はその日は北海道本島に用事があって、港で合流ということになったし、その上嵐がやってくるということで、フェリーが欠航になってしまったのだった。
このままでは、コンクールに行くことができないことを知った桜桃は、いつものように蒼佑にそのことに対する不安をぶち明けたのだった。出たい。でも、何か嫌な感じもする。コンクールに出ることは、本当に向上心とかそういう気持ちがあって出たいと思っているのか。虚栄心とかじゃないのだろか。横柄な自分になっているのではないだろうかと、桜桃は懸念していた。
「それで、お前はどうしたい?」
もうすぐ嵐が来るというのに、不思議なくらい穏やかな海の防波堤で幼い桜桃は蒼佑に問われた。
「私よりも、先生が……。先生のために、出られたらな、って……」
「先生のためか……。演奏すればいいじゃねぇか。先生とか、俺には関係ないけど」
「関係ない?」
「そう、俺は、お前の、葛西桜桃の演奏が聞きたいだけで、別に先生とかどうでもいい」
「……えっと……」
「いや、何か言えよ。はずいだろ……」
蒼佑は、言った後、自分が言ったことがなんだか勝手に突っ走ってしまった感じを覚えて、顔を赤らめて身体をばたばたとさせた。
「あの、嬉しい。よ……。ありがと」
蒼佑はいつも桜桃に気持ちを伝えてくれていた。優しかった。それを当たり前だと思っていたから、気付いていなかったんだ。
桜桃がコンクールに出られないことを知って、蒼佑が無断で親の船を使って嵐の中の海に出たこと。周りの大人たちからすれば、とんでもない話だった。子供二人で、クルーザーに忍び込み、大荒れの海に飛び込んだ。大人たちには何を言ったって無理だと言われる。ならば、内緒で行こうと話を持ち掛けた蒼佑も、またそれに同意した桜桃も何かに憑かれたようなところがあって、冷静に判断できるような状態ではなかった。運航休止になって、連絡船が出ない、にもかかわらず、その時の神威島の天気は、ただどんよりとしているだけで、船がでらえないなんて信じられないくらい穏やかだったんだ。だから海に出られないなんて思わなかった。
運航休止を選択するのは、大人で、なんて理不尽に物事が決まるのだろうと蒼佑は思った。蒼佑は、連絡フェリーの人に船が出せない理由を尋ね、またインターネットを使って調べた。コンクールでいい結果を残すとかそういうのもあったけれども、舞台に立てないということが、桜桃のヴァイオリンに対する意欲を落としてしまうのではないかということが嫌で、がむしゃらになった。神威島の天気は決して悪くない。神威島の天気よりもその対岸の北海道本島の天気が荒れていることが原因ということは分かったから、連絡船が就航している港とは、違う港を目指せばいい。降りかかってくる困難に対して、対処する策がすぐに降りてきた。まるで、天才になったかのように、神様がそう導いてくれているように、滞りなく計画が進んでいった。そして、そのプロセスが蒼佑と桜桃に海を越えるという勇気を与えてくれたのだった。
蒼佑の家のクルーザーは、そんなに大きなものではないけど、船舶免許を持っている蒼佑の両親や親戚なんかに操縦してもらって、蒼佑と桜桃はよくそのクルーザーで神威島の周りに出かけていた。勿論、中学生の蒼佑は船舶免許を持っているはずがない。だけどどんな風に操縦しているのかは、皆がやっているのを見たり、説明してもらったりして知っていた。大人になったら、蒼佑を免許をとって、船に乗るようになる。それが無謀な冒険に繋がるなんて誰も考えていなかった。事件というのは、何も知らないところから始まるのではなくて、にわかな知識があるから、起こるというのが多々ある。若年者の無免許運転での事故というのは、それの代表的なもので、車の扱い方を全く知らなければ、その若年者は車を動かすことすら出来ないはずだ。どのようにすれば車の扉が開き、人を載せて動かすことができるのか。それを知っていれば、免許なんてなくとも運転するという目的は果たせるのだ。そして、そのにわかな知識は往々にして事故を導く。嵐の中馬鹿なことを考えた二人の子供が船を動かし、船が遭難し、運よく子供は北海道本島側で保護された。けが人も死人もいない上に、事件を起こした当人たちが子供で情報を詳らかに出すことがはばかられたし、その上地元の新聞社でさえカバーできないような田舎で起こったようなことだった。そのために、ニュースとしては小さなものにしかならなかった。
それは不思議な出来事だった。気持ちが悪いくらい海が穏やかだった。神威島の洞窟みたいになっているところに、その船は係留していた。縄を岸から外すと、船は海原に進んでいくことができる。今、何をするべきなのか、どうすれば前へ進めるのか、何も言われていないのに分かった。蒼佑は、ただ必死で操縦した。最初は必死だったんだ。でも、何か導いてくれるモノがあって、ただそれに沿っていくだけ。船は絶対に岸に辿り着くと思っていた。目には見えない。だけど、感覚が教えてくれる。見よう見まねの操縦、前に進むのにそれがどれくらい役に立ったかは分からない。大きな何かに守られていて、それは目には見えないもので、神様って呼ばれるものかもしれない。
航行はうまくいった。うまく岸に降りて、そのまま近くのバス停まで行くことができれば、札幌に辿り着けるはずだった。けれども、思った通りにはいかなかった。
「あの時、ヴァイオリンが壊れたんだよな……」
「そう…だね…。その時のラック君、船を降りるときに、海に落ちちゃったから……」
船を岸につけて陸に上がろうとしたときに、桜桃のヴァイオリンが海へと落ちてしまった。それを何とか拾わなければならないと二人は大人を探し、辺りをさまよった。近くに道道があったから、桜桃は楽譜に鉛筆で大きな字で『助けてください』という文字を書いて、ヴァイオリンを救い上げてくれる人を探した。その試みはうまく成功し、ケースのまま海へと落ちたヴァイオリンは、無事に救出された。そして安堵も束の間、蒼佑と桜桃の二人は補導され、保護された。神威島からの脱出という大冒険はその時に終わりを迎えたのだった。
「あの時のもラック君だったのか?」
「そうだよ。私の相棒はラック君だよ」
「それなんか変じゃないか? お前。ヴァイオリンを変えたら、前のラック君はどうなるんだよ?」
「それは……考えたこと、ない、よ。私のヴァイオリンは二台目で、一台目が、海に落ちたコ。そのあと、どうやっても良い音が鳴らなくて、その魂は消えちゃったんだと思ったの。でもまた出会えたの。それが、神威島に置いてきたラック君。紹介してもらった楽器屋さんで思ったの。『君だ!』って。ラック君だ。ここに居る、って思ったんだよね……」
「相変わらず、ファンタジーみたいなことを信じてるんだな」
「ほんとにそうなんだよ。物には魂が宿る。そう思って楽器を奏でるから、私の音は特別になるんだよ」
「だったら猶更、ここに連れてくるべきだろ。お前のヴァイオリンはお前の傍に居ることを望んでいるんだから」
「……そだね」
桜桃は、しみじみとした表情をしながら、頷いた。
「あのさ、笑って話ができるのは、助かったから……だよね」
「そうだな、必死過ぎて、もう何であんな海を渡れたのか、覚えてないけどな」
「私は別に何もしてなかったけど……ちゃんと覚えてないよ。一応無事……いや、その時のラック君はダメになっちゃったから……でも、今、ラック君は居るから、無事、……だよね。ラックって幸運だから。あの時、ラック君は自らの身体を犠牲にして、私と蒼佑を助けてくれた……のかな」
蒼佑は、ただ桜桃の話を聞いてくれていた。桜桃は深呼吸をして、間を置いた。
「ラック君の身体を失ったこともあるけど……。ラック君は、身体よりも心、精神の方が大事で……そんなに大きなことではなかった……。大けがだけど、命は大丈夫……みたいな。それよりも、蒼佑との関係が壊れちゃった……。それが、ちょっと大ダメージだったかな……。ずっと疎遠だった。……避けてた?」
「……親っていうか、周りがっていうか。なんか変な目で見るだろ」
「別に、蒼佑だけが悪いんじゃないのにね」
「いや、でも、結構強引に連れて行ったのは……」
必死になっていく蒼佑の口に桜桃は自分の人差し指を置いて冷静になるように促した。これ以上話をしてもだれの責任だったかとか、不毛な話し合いにしかならないから、もう止めようと桜桃は思ったのだった。
「Lineを交換してちょっとはなしができるようになって、今こうやって同じ寮に住んでいる。また、ちょっと前進……だね」
そう言った桜桃が、もう子供じゃなくて一人の女性として可愛くて、蒼佑は顔が赤くなった。
椎野真生の自宅にやってきたピクシーは、珍しく机に向かって真剣に仕事をしている真生を見て、一旦満足した顔をしたが、そこに書かれているのが会長、書記、会計、記録、各委員会代表、各部活動代表といった会社とは関係のなさそうな言葉が並んでいて、背後からチョップをくらわしたのだった。
「あー、会社のことではなく、学校のことやってたんですね」
真生は、敬語を使いながらも、対等に接するピクシーを気に入っている。
「現在よりも未来に賭けたくなる気持ち、分かるだろ?」
「いや、こちらとしては迷惑です」
ピクシーは笑顔だけれども、頬がひきつっているのが分かる。真生は大きく伸びをしながら言った。
「もう会社のことはさ、ピクシー君に全て渡してしまいたいんだけど……」
「冗談を……。そんなの無理に決まってるでしょ。椎野真生というカリスマがあって、ギュフには人が集まってきて経営が成り立ってるんです。貴方はそれを狙って、自分自身をブランディングしてきた。容姿、振る舞い……メディアの中の貴方が魅力的だから、人が付いてくる。それは……」
「それは虚像じゃないか」
言葉に熱がこもってきたピクシーに対し、真生は静かに言った。
「虚像でいいんですよ。僕はそれに応じた製品やサービスを担保する。会社はチームプレイです。僕は、貴方が作る虚像を現実にする。それが僕の仕事です」
勿論、一流と言われる製品を作っている。だからといってそれが売れるとは限らない。製品を売るというのは、製品の品質と同時に魅力をプロデュースする必要がある。時には、モデルとして製品をPRする真生の力があって、ギュフはその規模を大木屈してきた。
「キャハ。これ、愛の告白? 僕、めっちゃ評価されてるじゃん」
「……そうですよ。僕は……」
「愛の告白?」
「あーたねぇ、そんなの確認しないでください」
ピクシーが、照れて言葉に詰まるが、真生はサラッと言葉を返す。
「じゃあ、僕も同じ気持ちだよ。ピクシー君、僕は君を買っているんだ。それくらい、僕は君の可能性を見出してるし、大好きなんだ」
「可能性……、何を根拠に……。僕には無理ですよ。そういう冗談は、ほどほどにしてください。僕はそもそも前に出て何かをするというのは得意じゃないんです。目立ちたくない。兄ならともかく……」
「あぁ、お兄さんねぇ。セタンタ君だったな」
真生は、セタンタとは、ケルト神話のクーフーリンの幼名である。悪戯好きの小物の妖精のピクシーの兄が英雄セタンタというのは、バランスが悪い。真生はピクシーとは違うものを見ているようである。
「……冗談か。そう思われちゃってるのか」
真生は小さな声で言った。だから、ピクシーには聞こえていなかったみたいだ。
雁湖学院のことに関する仕事をすることは、真生が本業であるギュフの仕事をさぼっているということではなくて、ギュフと雁湖学院の間で交流したり、何が事業をすることができないかということを考えている。雁湖学院の部活動を作る際に、生徒たちがいかに充実した活動を行うことができるか、ではなくて、ギュフにいる社員を巻き込むことを想定した上で部活動を作ってもらおうというものである。日本の色んな企業には部活動がある。仕事をしながら所属している部活のスポーツをやって、全国大会だけでなく、国際的な舞台を狙うというのはよくあることだ。部活動を熱心にやっている社員にどれだけ会社の仕事を任せるかというのは、企業の匙加減で、部活と仕事本業の両立というのは決して容易なことではない。
そもそも部活は、全国大会で一位を取るためにやるものなのだろうか。真生はそのことに疑問を持っていた。スポーツに限らず、音楽、美術、様々な分野で、競争する機会があって、全国大会の一位や金賞といった賞を貰うという目標を定めて頑張ることは往々にある。例えば音楽においては、大会で演奏することだけが本番というわけではなくて、地域のお祭りやショッピングモールで演奏するといったことも出来るだろう。勿論、ゼロから様々な場所にアプローチをかけて、演奏場所を求めるということもできる。だけど、きっかけがあるかないかでは、その実行性は変わってくる。
例えば、あるショッピングモールで5人ほどで演奏をするという企画があったとする。そのショッピングモールにギュフのテナントがあれば、そのショッピングモールの中の組織のことを知っている人間がいるわけで、その人をきっかけに演奏をするということをより簡単にモールの責任者に話を取り付けることができる。また、ギュフのテナントにはバックヤードがあるわけで、楽屋のように使える場所も提供できる。
また、ギュフの人間がその音楽を行うグループのことを知っていれば、どのようにその企画を進めるのが良いのかということをより具体的に考えることができる。音楽グループの実力に応じて、その企画を行う場所、時間などをうまく設定して、より聞きたいニーズのある場面を作りだすことも可能だろう。
演奏をして、その機会の提供としてギュフの名前を出すこともあって、生徒に広報という仕事をさせるのはどうかという倫理的な問題もあると指摘もされたが、雁湖学院の運営資金の一部、いや、結構な部分は、ギュフという会社の「寄付」で成り立っているわけだし、その活動に関わる生徒たちが義務教育ではなく、自発的に活動を行っているという建前もしっかりと用意している。建前ではなく、それが本当に所属しているメンバーたちのやりたいことなのかどうかは吟味する必要はあるが、企業と学校、その二つを面白く繋げていく。それを真生は仕事として、楽しんでいるのだった。
それはモデルとして、ギュフの製品の宣伝も行ってきた椎野真生が広告塔としての仕事から違う形の広告をプロデュースしていくという変換も意味していて、ピクシーはそれを残念だと考えている。雁湖学院には芸術科という専攻を作ったが、その専攻の生徒たちにギュフを代弁するような実践教育を行わせようとしている。クライアントの依頼に応じて作品を提供し、それが広く出回るというプロセスを表現方法を問わずやらせようとしているのだ。実際にやってみるという目新しさに、いや、学校なんてなかった昔には当たり前のようにやっていたことだとは思うのだが、「生徒がギュフの広報事業を担う」ということに注目が向けられているのだ。生徒にやらせて、どれだけのクォリティが保てるのか、どこまで社員がプロジェクトに関わるのか、そういうことが注目されていて、真生がギュフのモデルとしての引退を考えていることには、殆どの人が気付いていなかった。
椎野真生がやっていた広告だって、最初は数人でデジカメで写真を撮ってパソコンで編集した素人の作品に過ぎなかった。会社が大きくなるに連れて、より高い技術を持った人との出会いがあったり、それだけのギャラが払えるようになった。だから、それなりのクォリティがあるだけで、ずっと真生がメインでモデルをやってきて、ギュフという会社が大きくなったからといって、彼自身はほとんど何も変わることはなかった。
雁湖学院という学校ができることで、真生中心だった会社が、所属する皆のものになっていく。そのプロセスは、この社会やギュフという会社にとって好ましいものでも、ピクシーにとっては心がざわつくようなもので、これをどんな風に受け入れられるのは、もやもやとしていた。
少し曇った顔をするピクシーに、真生は嬉しそうに部活動の企画書を印刷して、ホッチキスで止めて、その一部を手渡した。
「見て見て。幾つか部活の企画書が出てきたよ」
パソコンで作られた企画書、それは生徒が書いたものだけれども、丁寧に作られたものだった。教員が作成に関わったのもあるが、メンターのアドバイスをもらったり、周りの大人の関与があって、完成度が高いものとなっていた。真生は人を動かすのがうまい。生徒の作った中途半端なものではなくて、手を加えてでも生徒が社会でも通用するようなものを作るという普通にやるよりもかえって難しいようなことをやってしまう。社会と学校、その二つの境界で道化のように振舞う真生の在り方は、双方からの批判を受け流すのにうまく働いているようにも見える。
真生は、部活動の企画書を見ながら、その内容に唸っていた。
「ふぅん。面白くなってきたじゃないの。僕は、こういうの好きだよ。これも僕の作品でしょ? で、部活動を企画したら、生徒会ととかも必要じゃない? 交流するだけじゃなくて、うまく調整する代表、所謂国会みたいなやつ」
「知ってますよ。そうですね。各専攻から一人ずつ代表を決めて、その代表の間で選挙を行い生徒代表、生徒会長を選ぶ」
「じゃあ、それは楽しいゲームで決めようか?」
もう既に面白いことは、真生の頭の中にはあるんだ。そして、ピクシーは振り回される。そんな予感がしていた。