水の物語 1.矜持
1.矜持
篠塚椥紗は、危機感を覚えていた。自分に何の力もないと考えていたからだ。彼女が自分自身をローファンタ―ジーの主役であることを認識しているのか、ということは定かではないが、少なくとも、劣等感を覚えているのは確かだった。
同じ111号室の友人、片桐双葉は風使いだった。颯という風を使って、離れているところでも椥紗と連絡ができたし、他の人の様子を探ることもできた。
「は、どういうこと?」
「しばらく颯の力は借りない。颯から離れて生活することにしたから」
「何で?」
「りっちゃんの勧め。私も、やったらいいのかなって思った」
「いや、颯がいなくなったら、どうすんの? 連絡とか」
「スマホあるでしょ? 連絡するならアプリで十分伝わるし」
「電波なかったら……」
「最初はこの雁湖地区の電波環境悪かったけど、工事があって良くなったでしょ。椥が颯のこと、『そこにいる』くらいでしか認識できないから、スマホの方が連絡しやすい。別に必要ないじゃない。颯は使わない」
颯の力を借りないようにするというのは、河竹律から勧められたことだ。双葉は颯の力を借りることで、大きな風の力を使うことができた。ただ、それが双葉の力なのか、颯の力なのかというのは分からない。律は、双葉が持つ本来の力を伸ばすために、颯という能力を上げるドーピングのようなものを使わないほうが良いと考えたのだった。また、この物語は、水の物語である。そのため、風の力である颯が大暴れして台頭されるのは困る。という筆者の都合を汲んでくれたとも言えるかもしれない。
戯言は置いておこう。颯の力を使わないと言われても、椥紗と双葉は特に困ることはないのだ。現代の情報機器は、前時代からすれば魔法のアイテムで、遠く離れた相手に連絡することができる。音声だけではなく、文字も写真も動画も、様々なことが出来るようになっている。AIはとうとう人間の代わりに考えてくれるようにもなったし、色々なことができるのが当たり前で、魔法のような力を魔法と考えなくなった。また、魔法が現実になるスピードはとても速くて、もっとこうなればいいのにという想像をして、新しい魔法を望むような時間、何かを渇望する暇さえ与えなくなっているような感じがする。供給が過剰なのかもしれない。
豊かな時代というのは、どういう時代なんだろうか。電気、水道、ガスにインターネットというインフラが当たり前のようにあることなんじゃないだろうか。今生きている多くの人間は、そのインフラが生まれた時からあって、それがないことを想像する方が難しい。本当に我々は豊かだろうか。幸せを感じられているだろうか。便利の源泉となる物がないということを、想像することができるような時間さえない。なくたって幸せに生きていた人間はたくさんいるのに、ないことを不安に思うのだ。いつも何かに追われているような感じがして、今、ある豊かさのことが考えられないようになってしまっている感じもする。
颯が居なくても、本当に困らないんだろうか。颯の力を使わないといった双葉の宣言を聞いて、椥紗はそれがどういうことなのかを考えていた。確かに、スマホアプリのメッセージ機能で十分で、文字を打てない場合は音声認識を使えばいいし、電話機能もある。電話機能にはビデオもついているから、画像で伝えたいことを伝えることもできる。スマホは、椥紗が送ったメッセージをそのまま双葉に伝えるわけだけれども、颯が椥紗から受け取った情報を双葉に伝えるときは、颯が発信するという違いがある。颯の伝え方で、双葉の情報に対する感情は変わるだろうし、スマホとは違って双葉のメッセージの受け取り方次第で、颯はその場で伝え方を修正できるから、より正確な情報を伝えることが出来た。まぁ、どういう風に伝えていたのかとかは椥紗にはよくわからないけれども、椥紗よりもはっきりと颯の存在を認識できるということは、颯の伝え方にもヴァリエーションが多いということになる。また、颯がメッセージの運び手として存在するということは、相手が受け取るということの確実性を上げることになる。颯は受け取る相手の思考にまで達するような伝え方をするわけで、既読スルーや聞き流しといったことをさせない。
椥紗は個室のベッドで寝転びながら、颯とスマホとの違いを考えていたが、次第にその問いは颯とは何だろうというものに変わっていった。目に見えないけど、近くにいる存在、妖精や精霊の類、そして神様だ。
中学校三年生の間は、学校に行けなかった。勉強するなら、嫌な思いをさせられた場所にまた戻らなければならなかった。先生に嫌われないように、良い子を演じて、仲間外れにならないように、嫌なことがあってもニコニコ笑って……。そんなことをしていたから、他人を下に見たい奴に狙われるんだ。そして、一度出来てしまった学校社会における関係性の構造は、簡単には変わらない。弱者はいじめ続けられる。椥紗はいじめられる弱者になった。そして、そんな社会の中でしばらく過ごしていた。
でも、椥紗は運がよかったのだ。中高一貫の女子校に通うことを勧めた祖父は、中学校に入ってすぐ位に亡くなっていたし、本当の父親だと名乗り出た「叔父だった人」は、行きたくなければ学校に行かなければいいと言ってくれた。そしてその代わりに、勉強を教えてくれる春日伊織という女性を傍に付けてくれた。
その時に、ゲイだと言っていた叔父が、実の父親であるとカミングアウトしたり、母親だったけど実は伯母だったお母さんが海外に行ってしまうとか、まぁ色々あった。その出来事だけでも大騒ぎだった。父親は、椥紗が辛い学校生活を送らなくてもいいような介入をするために、本当のことを告げることは必要だったと今でも主張している。叔父の立場では、学校を辞めさせるとか、大きな提案は出来ないと判断したようだ。また、お母さんは、母親自身が海外に行くからという口実で、椥紗が正式に学校に行けないという理由を作ろうとした。親の仕事のどちらの提案も椥紗を混乱させるだけで、それも椥紗をしんどくさせていたように思う。その時に一番信頼できるのは、家族でも何でもない春日伊織だというのを認識出来た。ただ、それも今となっては、大混乱もこの雁湖学院に入学するための布石だった。めちゃくちゃな家族だけれども、彼らが椥紗のことを思っているから、それぞれなりに精一杯のことをしていたんだ。嫌だった時期が達観できるくらい、今は楽しい。
それを支えてくれたのは、周りの人々というのもある。けれども、同時に目に見えない存在も椥紗を支えていてくれた。どんな時も大丈夫だと言ってくれるような存在があった。いつか変わる、生きていればなんとかなる。そう言ってくれる存在、多分それは、普通の人が神様だという存在の気がする。
(あれって何だったんだろう)
改めて考えてみると、それは、颯に似ているかもしれない。北大屋町のショッピングモールで双葉を探していた時に、椥紗に双葉の場所を教えてくれた風が颯だ。その指示があったから、広いショッピングモールで椥紗はすぐに双葉の居場所を掴むことができた。そのメッセージを素直に受け取ることができたのは、信頼に値すると感じたのは、どうしてだろうか。
(ずっと支えてくれた神様みたいなのは颯だった……とかねぇ。ありえないことじゃないかも。……いや、まさかね。ま、妄想妄想)
頭の中では否定しながらも、その考えがどこか的を得ていて不思議だった。しんどかった椥紗の中学校時代に支えてくれた存在が颯で、椥紗が何とか辛い時期を切り抜けるために助けてくれていた。ありえなくもない。何かが、繋がったように思った。
さて、今、双葉は、颯ではなくスマホで連絡をしようと提案してきた。便利な文明の利器に変わることによって、椥紗にどのような影響があるのだろうか。颯を介したことで、椥紗と双葉のやり取りは円滑に行われていた。椥紗が目に見えないものをより感じられるようになったのは、雁湖に来てからだ。颯のことも認識できるようになってきていて、双葉に用事があるときに、どこに居るのかとか聞くことなどをしていた。中学校の頃は、椥紗の情報を双葉に届けるだけの一方的なものであったが、今は双方向で、とても便利だ。待ち合わせとか、一緒にご飯を食べるとか。でも双方向で情報のやり取りができるようになってから、まだひと月も経っていない。この間にやり取りしたことは、確かにスマホで十分だ。
颯は勝手に探ってきてくれるから、「どこにいるの?」という問いに対して、かなり正確な答えを出してくれる。だが、スマホは既読スルーができる。既読スルーは、双葉の手が空いていないからそうなるときもあるし、双葉が自分の場所を特定されたくないときもある。颯の場合は、別に手が空いていなくても伝えることができる。
(便利なだけじゃない。颯はフィルタリングもしてた可能性がある)
そして、颯が2人の会話をどのように伝えるかを決めることができる。そもそも、颯という風にどこまでの意思があるのかは分からないが、システム上、颯が伝えるかどうか、どうやって、どのようにという情報の取捨選択、改変が可能であった。
律が双葉と颯を引き離そうとした背景には、そういうこと、颯の持つ危険性のようなものを見ていたからかもしれない。彼は、目に見えない存在側にいるわけで、その存在がどのようなものかを椥紗や双葉より分かっている。その目に見えない存在は、いつも同じ形をしているわけではなく、変幻自在である。颯は椥紗や双葉に頼りになる風として認識されているが、実際はそうではないかもしれない。双葉と椥紗に取り入りたいからそういう形で居るのかもしれない。そもそも気まぐれでしかないのかもしれない。律が雁湖学院の一生徒として過ごしているのも、興味本位の暇つぶしだ。颯の真意は律にも図ることができなかった。
椥紗は色々と思考を巡らせながら、颯の代用となるスマホを手に取って、メッセージアプリを起動した。手のひらくらいの大きさなのに本当にたくさんの情報が詰まっている。そしてその情報には感情も込められていた。
「スマホなかったら死ぬ、生活できない」
しばらくの間スマホのない生活を強いられる女子高生の投稿だった。椥紗はここに来る前はスマホを持っていなかったから、この言葉に共感出来なかったが、こんなちょっとした言葉の中にも力があって、これに同調する人間がたくさんいることも想像できた。スマホを失っただけで、発狂したり、狼狽したり、感情が大きく動かされる。
それは、一個人の感情だけでなく、社会をも支配してきている。テレビの情報番組では、インターネットのトレンドや検索数、いいねの反応といったものを紹介するコーナーがある。さもその結果は、我々が調べてきたかのように出しているが、データはサイトのコンテンツを纏めただけである。スマホでも調べられる情報をわざわざ紹介するのは、その番組の情報収集力の欠如と笑えればいいが、その番組自体がネットの情報の増幅器として機能していることも忘れてはならない。その番組の内容が番組HPに掲載される、それがSNSで個人が呟く。内容の良し悪しではなく、システムが対象となるものに力を与えられる、この社会に生きるということは不思議なシステムと一緒に生きるということなのかもしれない。
律が双葉を連れて行ってしまったので、椥紗は手持無沙汰になった。とりえず珊瑚の個室の扉をたたいたが、何の反応もなくて、諦めて外に散歩に出かけることにした。空気は奇麗で、大きく深呼吸をすると気持ちがいい。椥紗が元々住んでいたところとは全然違っている。一通り辺りをうろうろして、特に何もしたいことがないことに気が付いて、遊んでくれる人がいないかと、寮棟に戻った。そして、212号室のインターホンを鳴らした。
「はぁ? 何で篠塚が来るわけ?」
「いや、誰か遊べる人が居ないかなって。あはは」
部屋から出てきた鳥居風太は、ムスッと機嫌の悪そうな顔をしていて、椥紗はそれが怖くて頭を何度か下げた。
「そういう卑屈なの嫌い。いいよ。入りなよ。僕以外誰もいないけど」
「あ、うん」
椥紗はいつものように靴を脱いで部屋に上がり、キッチンを越えて、奥のソファの方まで進んで座った。共用部分は荷物が殆どなくて整っていた。
「ふーん、入るんだ」
「いや、入りなよって言ったのはそっちじゃん」
「素直か」
「え、素直になっちゃいけないの?」
「…あのさ、君って男の部屋に入るっていうことに対して警戒心ないわけ? 高校生にもなって?」
「ああ、女性が男性の部屋に入ったら、性的暴行するとかそういうの?」
「性的暴行、言い方w。一緒に気持ちよくなろうとか、そういう誘い方するよ。言葉にだって出さないよ。雰囲気」
「雰囲気は大事かもしれないけど、両者の合意のない性行為は、性的暴行だよ。マッサージで一緒に気持ちよくなるってのはあるけど、性的になったらダメ。どこまでが性的な接触になるかとかも、マッサージする人とされる人の間でちゃんと同意を取ながらよ。嫌って思うところを触られたら、嫌っていうのは当たり前でしょうが。マッサージであっても」
「確かに」
「女性と男性が同じ部屋にいるということで、性的合意があるなんておかしいよ。男性同士だとそういう風に捉えないんでしょ。男性同士だと、性的行為がありえないの? この部屋の人たちは、同じ部屋に住んでるけど、それは性的合意をしているってわけ?」
「そんな気持ち悪いことあってたまるか」
「でしょ。だから、別に男子の部屋に入っても平気なのだ」
「……変なやつ」
「そうかも。パパとはそういう性的行為についての話ちゃんとしてるから。父親と性について話をする高校生なんて普通居ないよね。パパはアウティングしているゲイだから、そういう話をちゃんとする」
ゲイとは、男性の同性愛者のことを指す。そして、アウティングは、そのことを自認し公表しているということである。
「普通は、アウティングなんてしないし、アウティングはセンシティブで他人がやるのはハラスメントどころか、犯罪行為だからね。パパは、専門家として、当事者として性的マイノリティとの共生についての啓蒙活動をしてる。仕事のためにアウティングは必須だって思ったから、自分でゲイだって公表した。そして、自分のことゲイなんて言ってるから、私はパパの娘になれなかった。同性愛では生まれるはずのない子どもだからね」
「じゃあ、篠塚は隠し子なんだ」
「そう、ちょっとカッコいいでしょ」
椥紗はvサインをして楽しそうに答えた。
「大分頭おかしい」
「正確に言えば、私を授かったからにはパパはバイなんだ。けど、バイですって大きく出しちゃったらさ、男も女もってこと、即ち、2人以上と関係を持っているみたいな感じになるでしょ。パートナーの人と出会ってからは、ずっと一筋だし、そういう自分として見てもらいたいのがあるから、ゲイっていうのでいくって言ってた。異性愛者っていうのが普通と思われているから、普通の人は異性愛者だなんてアウティングしない。性的マイノリティなら、アウティングしないといけないなんていうのもない。だけど、LGBTQに対しての当事者である学者っていう肩書を持つなら、アウティングは必須だから」
「仕事のためのアウティングってこと? まぁ、そういうのは歓楽街ならよくあるよ。ニューハーフのショーバーとか。ドラッグクイーンの店とか」
風太は札幌のすすきのという歓楽街で育ったから、年齢的に踏み入れることができないとはいえ、水商売のことについては色々知っている。世話をしてくれた人は、バーのママをやっている男性で、そこによく遊びに来る河竹律とも仲良くなった。
「パパの仕事はもっと真面目な仕事。LGBTQの人のイメージって、ちょっと普通とはい違うみたいな感じでしょ。芸能人とかタレントとか見てると。そういう人って、水商売しかできないっていう感じもあるし、それっておかしいじゃない。勿論だんだん変わってきてるんだけど、日常生活の中にそういうマイノリティの人がいると、そうではない人たちがうまく対応できなかったり、それで心理的な圧迫を受けちゃうっていうのもあるし、マイノリティの人たちと、普通だと思っている人をもっと近付けていくのが仕事だって言ってた。テレビとかに出たりするけど、パパは見た目には普通の男性だよ」
「じゃあ、君を娘にしても良かったんじゃないの?」
「それが出来なかった理由は二つあるって言ってた。1つは、私が生まれた時に育てられる甲斐性がなかった。お母さんの子どもとして育つ方が幸せになれるって思った。丁度その時、旦那を亡くして間もない頃だったし、私が懐いたんだって。これが、篠塚椥紗になった理由。それで、2つ目はゲイという設定である以上そういう自分を演出しなきゃって思ってるみたい。あと、パートナーの人への配慮だよ。性的志向、バイ、ゲイ、レズ関するアウティングをするなら、聞いた人に今までに何人と関係を持ったかっていう勝手な推測される。バイなら、男と女、2人以上と性交渉持ったのかみたいに受け取られちゃうからね。この人ちょっと素敵だなって思うだけでも恋だ、性的な想いだっていう人もいるわけで、性交渉があったかどうかもわかんないのにさ。性的志向の話してるだけで、経験人数のことは何も言ってないのにね。パートナーとしか性的接触を持ちません。誰これ構わず手を出すってことではない。異性愛者だったらこういう変なイメージ持たれなくてもすむのにさ。ま、パパに関しては、実際そうだし、女性に対してそういう感情わかないって言ってたし、現在はどれよって言われたら、ゲイなんだけど。結局さ、マスメディアっていうのが一方的に情報を与えるものだから、弁解とかしなくてもいいような分かりやすい設定にするっていうのも大事なのよ。今は、ゲイとしてLGBTQの生きる権利を主張したり、対話できるようにするっていうのが大事なので、余計な設定は加えられないの」
「自分のこと、余計な設定っていってるじゃん、篠塚。その煽り食らってるの、きついじゃん、篠塚」
「……そうだね。篠塚は結構不思議な苗字なんだよね。私はパパと苗字が違う。お母さんの亡くなった結婚相手の苗字なのよね。全く見知らぬ人の、苗字。まぁ、世間を欺くには、それくらいの保険はかけておかないとってことなんだけど。勿論、パパとは会うし、可愛がってくれるし、ハグもするし、手もつなぐ。そういうことするとさ、知らない人は、パパと私は恋人だってパパラッチされたこともあるのよね。ちゃんと叔父と姪。弁解する公式設定があると説明しやすいでしょ」
椥紗の境遇に対して風太は同情したのに、椥紗は篠塚という苗字についての説明を始めたので、全然話が通っていないと思った。ただ、憐みの感情を同級生に向けられることが、椥紗にとって心地のいいことなのかどうかは分からない。それは、意図的だったのか、反射的に暗くなりそうな話を避けたのか。
椥紗の父親は、学者として表に出る活動もしている。そのため、「面倒くさい」追いかけを上手く巻くような手段を考えながらやっている。椥紗の実家からも、今住んでいるところからも、父親が住んでいる東京は離れているから、頻繁に会うこともできないから、余計な詮索がされないかと気をもむ必要はないようにも思える。わざわざ設定を作っているのは、父親の趣味のようなところもある。ただ、それくらい頭がおかしい奴じゃないと、メディアで性的マイノリティを自称しながら活動するなんてことは出来ないとも言っていた。生半可な気持ちで、ジェンダーの課題を世間に訴えるのは、止めるべきだとも言っていた。男女、どちらかに分けられる秩序を大事にしている人間からすれば、昨今の多様化は脅威だし、そのはけ口として攻撃されることもある。同性愛はキリスト教では歴史上のついこの間まで禁止されていたことであるし、性的マイノリティであるがゆえに罪を犯しているという見方があった。その考え方は、残っていないとは言えないから、それを変えていくこと自体が課題という段階にしか達していない。
社会がどのように変わってきたのか、椥紗の父親のジェンダーに対する考え方が正しいかどうかには、疑問符が浮かぶ点があるが、戸籍上の父親にはなれないという決断は、否が応でも受け入れるしかなかった。それは椥紗の境遇でしかなくて、別にどうってことはない。父親は、お金に困らないようにきちんと稼いでくれているし、出来る事には進んで協力してくれている。パートナーであるあきらさんも、椥紗に対して好意的で、わざわざ東京から北海道まで来て、入居の手伝いをしてくれようとしていた。椥紗としては、父親のパートナーである男性と一対一で引っ越し作業をするというのは、やりずらかったから、お断りしたが、問題はない。まぁやろうとしていることに対して椥紗は納得しているし、尊敬できる父親ではある。変だけど。
一通り話を聞いて、風太は椥紗に対して、好感を抱いた。歓楽街育ちの風太が、煩わしいと感じている、常識だとか普通とかそういうものを椥紗は押し付けてこないと思った。
「まぁ、僕の周りは変なやつが多いから、別にどうでもいい話だけど。そこまで君が秘密を教えてくれるなら、僕もそれ相応の秘密教えようかな」
風太は、スマホを取り出して一枚の画像を見せた。
「タヌキ。なんだっけ、これ、信楽焼のタヌキだよね」
「良く知ってるね。信楽なんて」
「滋賀県でしょ? ふ。これが、スパルタ家庭教師、春日伊織の教育のおかげよ」
「誰だよ、春日伊織って」
「パパのお友達、いや、戦友って言ってたから、もっと深い関係なのかな。まぁ、信頼できる大人っていうやつよ」
パパもお母さんも仕事で椥紗の傍にいられないから、椥紗の面倒を見てくれたのが春日伊織だ。不登校を選ぶことで、勉強が出来なくなることを防ぐために家庭教師のように課題を与えたり、分からないところを教えてくれたりした。それだけでなく、椥紗が寮に入居する時もわざわざ飛行機に乗って手伝いに来てくれている。
「本当に? 深い関係っていうと、恋愛とかそういうの?」
「違う、戦友だって。それに、言ったでしょ、パパは現在進行形のゲイだって」
「好意の延長線にあるのが、恋愛っていう認識でいたんだけどな」
「それは、ぷうちゃんの勝手な……」
「あのさ、僕ぷうちゃんって呼ばれるの嫌なの分かってて、そう呼んでる?」
「あ、ごめん。でも、何で嫌なの?」
「なめられてるみたいだもの」
「舐めてないよ。だって、りっちゃんって呼んでるからセットでぷうちゃんでいいかなって」
「まぁ、律と一緒にされるのは悪い気はしないけどさ。」
「それに、可愛いし」
「可愛い⁉ やっぱなめてるじゃん」
「舐めてないよ。何で可愛いって舐めてるっていうふうに聞こえるの? りっちゃんとぷうちゃん、そう呼ぶとね、何か親しいなっていう感じがするから、ちゃん付けが良いなって……」
椥紗があまりにも丁寧に説明しようとしてくるので、風太はその態度に折れた。
「わかった。篠塚に呼ばれるのは良いってことにする。だから、僕は椥紗って呼ぶ。君の話を聞いて、篠塚っていう名前にはあんまり力がないことが分かった。そう思ったら、椥紗って呼ばなきゃって思った」
「結構、ぷうちゃんも素直じゃね」
「ただし、そう呼んでいいのは、僕が許可した人間だけ。ちゃんとそれは認識しといて。嫌いなやつがそう呼んだら、僕、ガン無視するから」
「はいはい、了解了解」
「了解も、はいも一回ずつ。そんな二度も言ったらやっぱり舐めてるってきこえる」
「ごめん、はい、了解。それで、さっき信楽焼のタヌキの話してたよね」
椥紗が話題を戻そうとすると、風太は迷いながら話題に戻ってきた。出てくる言葉はどもっていたので、とりあえず、写真を見せるように椥紗は促した。
「そ、この写真ね。それで、何を話そうとしていたの?」
「うんっと、これはさ、廃業になった割烹店の信楽焼のタヌキで……」
割烹というのは、料理屋のことで、日本料理屋を指す。割烹なんていう古い言葉を使っているので、老舗なのだろうか。よく見るとその画像は写真を撮ったもので、大分昔の写真の様だった。じっと見つめた後、スマホを風太に返した時に、彼は言った。
「これが僕」
しばらく、椥紗は何のことか分からないまま停止して、情報を整理し、ポンと手を叩いて言った。
「うんっと、要するに妖怪とかそういう?」
「妖怪とは失礼な。まぁそういう分類になっちゃうのかな。妖精さんの方が良いなって思うんだけど、人間の体に入っちゃったんだよね。これがまた、何でだか分からないけど」
「りっちゃんもそうなの?」
「りっちゃんは、僕とは違う。りっちゃんは同じような目に見えない存在でも、格……、年齢が大分違うと言えば分かりやすい? 僕は100歳くらい。りっちゃんは、1000歳越えてる」
「じゃあ、10歳と100歳くらいの差みたいなものか」
「10分の1にすればそうだけど、違うと思う。りっちゃんは経験が豊富で、霊力みたいなのがあって、呪い殺したりするし」
「いや、結構怖いね」
「僕もいつかね。あのクソガキを……。クソガキが大体けり入れやがって、呪い殺……いや、いつか同じ目に合わせてやろうとは思ってるけど」
風太は冷静に話していたが、話しているうちにふつふつと怒りがこみあげてきたのだろう。顔を下に向けて、深呼吸した後、太い声で言った。
「潰れろ金玉」
風太が中指を立てた下品なポーズを決め、そのあとすっきりとした顔をした。
「とにかくこの部分、蹴るやつが多いわけよ」
風太は写真の股間に当たる部分を指さして、椥紗に説明をした。
「金玉蹴られた恨みはデカいな」
「そりゃそうでしょ。アイツら急所を蹴られると痛いの分かっていて、蹴るわけ。何で自分が蹴られたら嫌なのに、置物のは蹴ってもいいって思ってるわけ? 酔っぱらってたからついつい? 自制きかなくなるまで飲むなや、カス。むしゃくしゃしてたから蹴った? そのストレス解消に使うなや、ボケ」
そういいたくなる気持ちも分からなくもない。信楽焼のタヌキはとてもクリクリの眼で、緩い顔をしていて、愛嬌がある。椥紗にとっては可愛くて、撫でたいと思うような存在だけれども、歓楽街の酔っ払いたちにとっては悪態をついても良いような存在になってしまっていたというのもありえない話ではない。
「割烹の隣が、バーだった時、酔っぱらった馬鹿がいっぱいいて僕に絡んでくることとかもあった。こっちが黙ってるからってさ、どうなの。アイツら脳みそ空でしょ、人間としての最低基準満たしてないでしょ」
「まーまーまーまー。落ち着いて」
興奮する風太を、椥紗はなだめていたが、感情を爆発させる風太があまりにも人間らしくて、見ていておかしくて笑ってしまった。
「何。馬鹿にしてんの?」
「してないよ。人間らしいなって。いいなって」
「人間らしい?」
「そう、思いっきり怒って、感情さらけ出して、すごいなって」
「タヌキの金玉は、金袋だから、金運の象徴なの。大事なところなの。僕はね、商売繁盛を願って恩人から頂いた大事なものなんだよ。それ蹴る? しかもその部分。一応お守りみたいな感じで置かれてたんですけど」
「そっか、それ、大事なプライドだったんだね」
「そう、矜持だよ矜持。大将を守ってきたの。分かる? りっちゃんほどじゃないけど、僕なりに店の運気が上がるように頑張ってきたわけ」
酔っ払いみたいな感じになっている風太は鬱陶しいという以上に何だかうらやましかった。
信楽焼のタヌキは、陶器だから人間のように痛覚があるわけではない。だから、蹴られても痛くないはずだ。なのに蹴られることで痛いと怒っている。復讐しようという感情まで起こっている。椥紗はこんなに感情に素直にいれるんだろうか。何で自分は怒れないんだろう。ぼーっと眺めていると、風太が尋ねてきた。
「君は、椥紗は怒らないよね? どうして?」
心を見透かしてきたのか、椥紗が分かりやすい態度を取っていたのか。
「怒るよ。多分、大事な時には」
「さっき、椥紗のパパさんとの話聞いたけど、君は自分がパパさんの娘で、お母さんの本当の娘じゃないという話を聞いた時、どんな感情が巻き起こったの?」
「ああ、そうなんだって、思った。そっかそうなんだって」
「悲しいとか裏切られたとかそういうの、思わなかったの?」
「全部パパは説明してくれたもの」
「それ、何かおかしくない? 怒っても、泣き叫んでもいいのに。それ、うつとかそういうやつ? うつ状態になると、色んな事にやる気が起きなくなって、っていうじゃない。だから、そういうことじゃないのかな?」
「うつ? まぁ、引きこもりしてたわけだから、あってもおかしくないけど。病院とかには行ってない。……普通は、学校に行かないってなったら、病院か。でも、私の場合は、いじめがあったわけで、それで学校に行かなくなったわけで、別に私自身がおかしくなったわけじゃない」
一言でうつ病と言っても、その症状は色々ある。気持ちが憂鬱になるというのが、うつ病で、その心の状態によって、朝起きれなくなる、眠れなくなる、食欲がなくなる、物事に対して関心がなくなる、笑えなくなる、何かに依存しがちになるといったことが起こる。うつ病で、依存する傾向が高まり、性行為を繰り返してしまうという性依存もある。物事に対して関心が持てなくなる、そして人間の大事な欲望の一つ、性欲がなくなるという症状もあるから、その行動でその人の心の状態を判断するのは難しいのだが、風太は椥紗と話をしていて、「正常ではない」何かを感じたようだ。
「僕はお医者さんでもないから、いい加減な話しかできないけど、君の話ってさ、衝動とかそういうのが殆どないなって思うんだ。もっと自分に素直になればいいのに。湧き上がってきたもの、大事にしたらいいのに。君は心じゃなくて、頭で生きてるのかも。それが悪いって言ってるんじゃなくて、そうなっているのは、そうしないと自分を守れなかったからなんじゃないかな……、しらないけど」
風太は自分の考えをとりあえず発したものの、その意見に対して自信は持てなかった。こういう適当に話しているだけなのに、椥紗が自分はうつ病なのではないかと嫌な気持ちになってしまうかもしれない。それにしても、なぜこんなに社会問題にもなっているLGBTQやら引きこもりからのうつ病といった話を真面目にしているんだろうか。だんだんしんどくなってきた。こういう話題は話しているとしんどくなるから、友達同士で話しているときに上がってこないのだと思う。考えれば考えるほど面倒になる。
風太はそのめんどくささから、だーっといってソファで身体を大の字に伸ばした。
「何しとん?」
覗き込むように見てきたのは、外の出かけていたはずの河竹律で、風太は驚いてそのままソファから落ちて床に転がった。
「あれ、出かけてなかった?」
律はバルコニーを指さして、言った。
「めんどくさって思ったから、とりあえず上った。窓の鍵は開けてきたし、特に問題……な」
「あるわ。ちゃんと玄関から帰ってきて」
風太は律に対して、大きな声で突っ込みを入れた。
212号室は勿論2階にある。よじ登って入ってきているところを他の人に見られたら、不審に思われる。
「ちょっとぴょーんって跳んだだけですわ。静かに入ってきたから気付かへん。ちゃんと入ってきたらさ、オートロックいっぱい開錠せなあかんやん。面倒やん。この建物入るためのオートロックと、ここの玄関の開錠で二回もせなあかん。しかもこの建物の玄関まで回り込まなあかん。それに、鍵忘れた」
この建物は、少し坂道を下ったところにあるので、坂の上からまっすぐ跳べば、部屋のベランダに到達するので、簡単らしい。よじ登ったのではなく、スマートに跳んだということを強調しながら説明するが、何にしても、超自然というか超人というか、目を疑うようなことだ。それをやった原因が、鍵を忘れたというありふれたものであるというギャップが面白い。
「建物の玄関のオートロックは、双葉ちゃんと一緒やと入れるし、この部屋のインターホン鳴らしたら、開けてもらえるし、誰もおらんかったら、111号室に居らしてもらったらいいなって思ってて」
椥紗はあーと納得した。風太はプリプリとした態度で、注意を促した。
「何でそんな当たり前のように女の子の部屋に行くのさ。異性の部屋に行くっていうのは、躊躇いとか恥じらいとかそういうのがあるべきじゃないの」
「そうそう。……っていう話をしてたの」
風太の言葉の後に椥紗は付け足して状況を説明した。
「なんや、真面目にどうでもいいこと話しとってんな。そもそも、ワシ、狐やし。ってことは動物、ペットか。ペットっていうポジションだから、どこに行ってもええの」
「寮はペット禁止だけど」
風太はすかさず突っ込む。
「うそやん。じゃあ、考えますかね。異性の家にいったらあかんのはなんでか? 異性の家に行くということは……何であかんの? 頭で考えても、どうしょうもならんよ。状況次第。そもそもワシらのとことか、なっちゃんの部屋とかは同じ作りで、リビングとキッチンは住人全員のシェア、共用空間やろ。誰かの部屋っていう認識で見てええもんかどうかもなぁ。考えたって無駄無駄。男女関係とかそういうのって、ややこしなったら、ドロンしとったし、結局人間の情は一番強いってええようにも言えるけど、粘着質でタチが悪いとも言えるからなぁ。恋愛とかが絡んできたら、駆け引きがあるやん。面白そうやって思ったらガンガン行くし、もう状況次第。考えてもしゃあない。酔っぱらってたら、考えてられへんし」
色々考えて、発言した後に律はその質問を放棄した。律にしては、誠実な態度なのは、この部屋の空気が穏やかだからだ。
「それで、双葉はどうしたの? 一緒に出かけたんでしょ?」
家に帰るための鍵を当てにしていた双葉がいないというのは明らかにおかしい。律は、面倒くさそうな顔をして答えた。
「後から帰ってくるねん」
「後からって?」
「いや、ワシと一緒におるとな、警戒して神様やら妖精やら精霊やらが寄り付かんくなるもんで、一人で帰っといで~って感じで、置いてきた」
「どこに?」
「うんっと、森の中」
「森……」
そう言われて椥紗の頭の中に、童謡「森のくまさん」の歌が鳴り始めた。
「ある―日ー。もりの~な~か~。くまさ~んに~であ~った~。はなさ~く~、も~り~の~み~ち~、くまさ~ん~に~で~あぁった~」
椥紗はその歌を口ずさみ、身体を揺らし、最後は立ち上がってスキップしながらそれなりのボリュームで歌っていた。
「そうそう、そういう森」
「あかんやん」
「なっちゃん、関西弁上手いな」
ついつい関西弁で、突っ込んでしまうと、律は楽しそうに手を叩いた。
「いや、そうじゃなくてさ。出会ったらダメじゃないですかよ、熊だよ。危険だよ」
「熊より、りっちゃんの方が怖いと思うけど。この人、人間の魂、普通に美味しかったって言ってたよ」
「人間同士だって、殺しあえるやない。そんな変わらへん」
風太が椥紗を脅すような言葉を言うのに続いて、律はケロッとした顔で言う。
「…まぁ、そだけどさ。りっちゃんって、そういうのだと思ってたけどさ。熊はコミュニケーション取れないじゃん? あと、まぁそんなりっちゃんが危険だったら、私よりも、この部屋の人の方が危険でしょ。いつでも寝首かけるし」
この部屋には鳥居風太と河竹律以外に、島田蒼佑と織原レオン謙人が住んでいる。その2人の方が、風太と律に接する機会が多い。律と風太が人間ではなく、異形の類であると知ったら、蒼佑とレオンはどう思うだろうか。
「いや、この部屋は大丈夫。蒼佑も、レオンも良い奴だから大丈夫」
「諸々話といたで。まぁ、人間の魂食うよ~ってことは言ってへんけど、大体納得済み」
風太と律は、椥紗の心配をよそに、堂々とした態度で答えた。
「レオンは、『すすきのには、狐やタヌキがたくさんいるっていうのは本当だったんだ』って感心してた。理解のある住人は、凄く助かるよね」
「それは、同意や」
律はうんうんと頷いている。
「蒼佑は昔、海の神様に助けられたらしくて、『お前らは、狐とタヌキの化身なら、ちゃんとお供えしないといけないな』なんて言ってた」
「蒼ちゃんサイコー」
風太の言葉に続いて、律が叫んだ。この二人は神なんかではなく、ただの厚かましい奴らだ。
「蒼ちゃんのお里って、神威島っていうやろ。えらい仰々しい名前やなって思ったら、海の神様の話とかちゃんと子どもたちに伝えとるらしくて、蒼ちゃんも目に見えない存在を信じて祈ったりする習慣があるっていうとったわ。まぁそういう人らやから、全然問題ないわ」
問題ない…わけじゃないだろう。だからといって、深刻そうな顔をしてもしょうがない。とりあえず椥紗はため息をついた。
「ため息をつくと、幸せが出ていくよ」
風太は椥紗に警告を発した。律は、椥紗の眼を正面から見つめた後に、抱きしめた。椥紗は動揺したが、律は穏やかな声で言った。
「なっちゃんは、他の人が悩んでるとき、こうするから、なっちゃんもこうすれば、落ち着くのかなって」
「ええっと、そうだけど、」
「あかん? じゃあ、女になろか。なっちゃんは、あんまり男の人に慣れてなさそうやし……女の人やったら、安心してくれへんかな」
「不用意に変化の術は使わないほうがいいよ。りっちゃん、不器用だから、戻ったときに、髪型崩れるよ」
「せや、それはあかん。また美容院いかなあかんやん」
律は髪を指で整えながら言った。
風太は、椥紗がこの部屋に来た時に、この部屋が「男性の部屋」と意識させたことを後悔した。豪胆なのが椥紗の性格であるのに、それを取り繕おうとして、ぎくしゃくとした雰囲気になっている。律や風太の身体は、人間のものとは違うし、精神も違う。人間に対して、性愛や色恋の感情を持ち得るはずがない。まぁ、そういうことなのだが、実際に人間とほぼ同じ姿で傍にいると、その前提が揺らいでいるような気もする。
そのぎこちない空気に嫌悪を抱いていたのは椥紗も同じだった。勘が良いのか、物事を単純に見ているのかがテーブルの方を見なら何か考えている風太を見て、椥紗は風太も同じことを考えていると思ったのだった。風太もこの場の空気を変えたいと思っているなら、椥紗が振る舞いを変えれば、いい方向に行くかもしれない。椥紗は、律の手を握り、律の顔を見て一つ呼吸をして眼を閉じた。律は、椥紗が落ち着きたいと思っている気持ちをすぐに分かったし、それに応えるように柔らかいハグをした。律のハグは、動物とのハグみたいなものかもしれない。凄く近い。大丈夫。その場が穏やかになった。
「それより、双葉について、詳しく教えて。いつ帰ってくるの?」
椥紗は律から離れながら、尋ねた。
「うーん、いつやろなぁ。今日中には帰ってきてもらうけど、双葉ちゃんが、周りにおる存在に気が付けるようになったら、すぐ帰ってくるやろね」
「妖精とか精霊さんとか、神様とか?」
「ま、そういうとこやね。ワシの狙いとしては、颯ナシで扱える双葉ちゃんの力が強くなったらええななんて思ってるけど、まぁ、こればっかりはなぁ。風の動き、高度、太陽の位置、そんなんでも帰り道は分かる。あの子は頭がいいから、科学の範疇で帰る道が分かってしまうと、期待外れの結果になるかもしれんけど」
「じゃあ、りっちゃんが直接見せて教えてあげればいいんじゃないの?」
「それが出来んのよねぇ。ワシの力と双葉ちゃんの力はその性質が全然ちゃう。双葉ちゃんと仲良しなのは、風の力で、ワシはどれかっていわれたら、火。ワシと同じように……というわけにはいかん」
「風とか火。それって、四元素っていうやつ? 珊瑚が魔装銃とその弾のクーゲルの話するときによく話してくれるけど」
「風、水、火、土の四元素。西洋の方の考え方やな。ワシは、東洋的な陰陽五行の方が馴染みがあるけど。五行は水、木、火、土、金やから、風はないので、こっちで説明するのは難しいか……。何にしても、ワシと双葉ちゃんが得意とすることは違う。違うことを説明するために風とか火とかそういう言葉を使っただけで、四元素のことはあんまり気にしてへんわ。珊瑚ちゃんは、頭で考えてる人やけど、ワシは感覚派やし」
「感覚派っていう割には、りっちゃんは物知りなんだね」
椥紗がそう言うと、律は嬉しそうに椥紗の頭を撫でた。
「まぁ、この世界に長いこと居るからね。情報もたくさん持っとるよ。だけど、頭の中で考えていることと、感覚的に出来る事ってちゃうやん。類型を作って世界を把握しようとするのは、頭のええ人らがよくやることで、意味がないわけではないのも分かっとるけど、ワシには合わんな。それぞれの要素がどういう風に存在し、どのような関係を持つのかとか。四元素と陰陽五行は、理論が組み立てられてて面白いことは否定せんけど。でも、それがどれだけ役に立つ知識なんかは、ワシの中ではしっくりきてへんな」
「りっちゃんは不器用なんだよ。頭で考えている通りにやることができない。コントロール出来る以上の力を持ってるのも考えものだよね」
「いいなぁ。余りあるほどたくさんあるんだったら、分けてほしいな。そういう力、私にもあったらいいのに。ねぇ、私もさ、双葉みたいに風の力とかそういうの使えるようになったりしないの? 森は無理だと思うけど、何かこういう風にしたら使えるよとか、そういうの」
律はそれに対して、子どもをいなすような口調で言った。
「せやなぁ、なっちゃんにはなっちゃんの力があるからなぁ」
「じゃあ、りっちゃんはどういう力か分かってるの?」
「それは、秘密やな。君が自分で自分の力を分かるようになったら、話は聞いたるけど」
「じゃあ、分かるようになったら、双葉みたいに修行みたいなことしてくれるの」
「さぁ、どうやろねぇ。今、ワシが君に教えられることはないねん。すまんねぇ」
律は煙に巻くように、風太の方を見て話題を逸らした。
「ちょっと考えててんけど、ぷうちゃんも双葉ちゃんと一緒に連れて行ったら良かったなって思ったわ」
「いやいやいや、無理だって。りっちゃんが連れて行くところ、遊歩道も、登山道もないようなところでしょ。そんなところ連れていかれたら、帰ってこれないじゃん」
「だから、読む力が身につくんでしょ」
「新聞で読んだよ。熊が、乳牛食ったって。僕、そんなのに遭遇したら、死亡フラグじゃん。しかも熊の走るスピードって、無茶苦茶速いじゃん」
「逃げようって思うからあかんのちゃうん。タヌキちゃうくて、タヌキをかたどった物に魂が入った陶器。陶器ならやり過ごせるでしょ。」
「突然、信楽焼のタヌキが現れたら不自然でしょ」
「いや、熊はそんなこと考えへんと思うし、食われへんから、無視やと思うで」
律と風太の二人が矢継ぎ早に話をするのに、椥紗は全く入っていくことができなかった。双葉のように修行のようなことをしたいと思っているのに、椥紗はダメと言われた。それなのに風太は連れて行ったらよかったなんて言われている。しかも自分が参加できないことについて、楽しそうに話をするのは居心地が悪い。椥紗は立ち上がって、玄関の方へと向かった。
「なっちゃん、双葉ちゃんが帰ってきたら、連絡頂戴ね」
律が明るい調子で椥紗に声をかけてきたのには、腹が立ってきて靴を履いて扉を開け、あえて大きな音で扉を閉めた。風太は、律に言った。
「意地悪だな、律は」
「そぉ? 場を飲みよったのは、なっちゃんの方よ。なっちゃん御本人は気付いてへんと思うけど、こちらが手ぇ出されへんもんもくっついとる。なっちゃん本人は可愛いなとおもうけど、なめられてるなって思うわ」
「へぇ、りっちゃんが対抗か……。矜持を前面に出してくるなんてね、意外、成長のチャンスが訪れたってことだね」
律はその言葉を聞いて、むっとした顔をした。
「いつも僕に言ってたこと、返しただけだけど。対抗しようとするプライド、それこそが成長の種だってね」
その時、風太は気分が良いと思った。勝てないと思っていた存在に、滅多にできない仕返しができたから。
四月の半ばごろ、雁湖学院の講堂で講演会が行われた。その時に、大きな風によって爆音が巻き起こったという事件があった。幸いなことにけが人は居らず、誰もいなかった講堂の2階の天井に穴が開いただけの損害で済んだ。ニュースでは、気候変動による竜巻の影響だという風に伝えられたのだが、それはあくまで表向きの理由で、何者かによって操られた岩下珊瑚が想定外の強い風の力を魔装銃から会場の方向に向けて放った。そして、それを止めるために、片桐双葉は颯という名前の風を珊瑚の銃から放たれた力に向けて撃ち、弾道の方向を変えて、会場に風の力が着弾するのを防いだ。
それは一瞬の出来事だったから、人が認識できるようなものではなかった。たくさんの人がいたけれども、全て自然の恐ろしさということで片付けられた。椥紗は、講堂で講演を聞いていたのだが、彼女には何が起こったのか、大体わかった。見えたわけでも、聞こえたわけでもなく、そういうものだと把握出来た。そして、それは他の分かっている人たちとも同じ認識であることが分かった。
誰が、その全容を知っていたのか。椥紗の知っている範囲では、双葉と律が全容を把握している。事件の発端となった珊瑚は、意識がほとんどなかったと言っているし、大きな風の力を起こした魔装銃は、珊瑚が家族から貰ったもので、珊瑚自身がその構造を分かっているわけではない。風、火、水、土の力を込めることができる弾丸、クーゲルがそれぞれあり、珊瑚が風のクーゲルを講演会場に向かって発射させたことは間違いないのだが、想定されているものとはかけ離れた風の力がその場に放たれた。想定されていた出力は、熊を追い払う、気絶させる程度のものだった。なぜそんなに大きな力が放たれたのか分からない。理由が分からなければ、不測の事態に備えなければならない。だから、双葉は自分の力をもっと操れるようになりたいと考えている。
そこに、椥紗の居場所はなかった。椥紗はちょっと力のことが分かるだけだ。ただ、この雁湖という場所に力が集まっている歴史的な理由は知っている。雁湖学院のあるこの土地は、ダムの底に沈んでいたこともある場所で、ずっと人間が住んでいる場所ではなかった。川と川が交わり、上流から養分が流れてくる豊かな土地であると同時に、目に見えない様々な存在も集まってくる場所でもある。分かったところで何も出来ない。
212号室を出た後、気持ちがもやもやするので椥紗は部屋に戻るのではなくて、どこかで発散したいと思った。食堂までの道を歩いていくと、スタッフから荷台いっぱいの荷物を渡された龍野理真美がいた。理真美は技術科に所属する椥紗と同じ一年生だ。入寮日初日に出会ってから椥紗と理真美は仲良くしている。
「椥紗ちゃん」
「あ、りーまちゃん。どうしたの、そんな荷物をもって」
「あのね、園芸部作れそうなの。……あ、園芸部という名前がダサいから、もう少し考えないといけないんだけど」
理真美は北海道の田舎の町の出身で、地域の活性化とかビジネスについての意識が高い。ギュフという会社が作った雁湖学院だからこそ、出来そうな採算の取れる活動をしたいと考えていて、早速ビジネスを考えられるようなグループを立ち上げようとしているようだ。雁湖に来ていたギュフのCEO、椎野真生に直訴したりと、理真美は積極的で、リーダーシップのある生徒だった。
理真美は講演会の日に講堂に居たけれども、予想外の激しい自然現象が起こったと認識している一人だった。魔法とか呪いだとかの目に見えない力には、興味がないというわけではなさそうだったけれども、力を持っていない人だったから、双葉や律や風太がそういう力の研鑽を図っていることを話してもしょうがないと思った。また、そういう話題をふって、椥紗が理真美から変な人という眼差しで見られるようになるということになるかもしれないと思うと黙っておくのが賢明だと思った。
「今、種まきして、秋に収穫出来るようなもの育てようと思ってるんだけど、今のメンバーでは難しくてさ」
「今のメンバーということは、園芸部に何人か入ったの?」
「そう、鈴ちゃんと蘭ちゃんも部活に入ってくれるみたいでさ」
阮鈴と阮蘭は、理真美の部屋、211号室に住んでいるベトナム人の双子である。日本語が十分に使えないので、通常の生徒のように授業を履修することができていない。雁湖学院の日本語を母語としない生徒のためのクラスだけではなく、ギュフが日本語が話せない社員のために開いている講座や、個別指導などをうまく組み合わせて、日本語を学びながらの日々を過ごしている。3年で卒業というのはほぼ不可能だということを本人たちも納得していて、収入面での不安はギュフでのパートタイムの仕事などをやりながらやりくりしていくそうだ。椥紗は、不登校にはなったが、中高一貫のお嬢様学校みたいな学校に行っていたし、比較的実家が太いので、お金に関して不自由せずに生きてきたので、どうやって稼ぎながら生きていくかということをしっかりと考えている同級生の話を聞くと、その逞しさに尊敬の念を覚える。
「やっぱりね、何かを作りたいなって思ったの。この雁湖のギュフの敷地内は、自然に生えてくるキノコとか、山菜とかあって、それで何かできないかとかも考えたけど、ピンとこないんだよね。何かを栽培する。そしてその採れたもの、収穫物を使って利益を得たいなと思ったんだ。収穫物そのものを売るっていうのも良いとは思うんだけど、その加工品を考えたい。どういう商品を作っていくかとかは、メンバーで考えながらなんだけどね。私のメンターと話していたら、ビジョンがどんどん大きくなっちゃって、楽しんだけど、結構大変だなって。まずはね。栽培して収穫してって考えてるなら、今、始めなければ間に合わない。そう考えるとね、新しく土地を耕すところからスタートするのではなくて、ギュフの農場の一部を貸してもらってやるのがいいんじゃないかって勧めてくれたの」
雁湖学院の生徒にはそれぞれメンターと呼ばれる相談できる人がつく。メンターは、ギュフの社員で、ギュフの様々な部署で働いている人がいる。必要に応じて、他のメンターに相談するということも出来るから、ビジネスの専門家に相談しながら事業を始めることも出来るようになっている。
学ぶことと働くことを両立させるというのは、決して容易ではない。けれども、その両立は求められていることでもある。大学を卒業し、社会人になってから両立を図ることを考えるというのが一般的だろうが、中高生のころから両立を意識しているのは悪くない。大学全入時代にはなったけれども、その学費をどのように賄うことが出来るかは、人それぞれだ。社会的な課題ともなっている。奨学金は貸与のものが殆どで、お金のない家に育った人が大学を卒業するということは、多額の借金を背負った状態で社会に出るということを強いられる。実際に、お金のない家に生まれても、ニュースで言われているほどの事態になっていない人もいる。だから、そのことを深刻に考えていない人たちも多い。うまく大学を卒業して、安定した就職を得て、奨学金を無事に返し終えた人もいる。奨学金の貸与を受けていても、アルバイトやらで収入を得て、奨学金に手を付けることなく学生時代を過ごせる人もいる。周りが仕事を仲介したり、アルバイトをできるように取り繕っていてくれたのかもしれない。政府という大きな仕組みが必ずしも助けてくれるとは限らないし、自立できるようなことを教えるのが教育であるはずだ。
「私の勝手な思い付きなんだけどね」
理真美は恥ずかしそうに、そして笑みを浮かべながら椥紗に言った。
「織原睦美さんと、コラボしてね、何かしたいなって」
織原睦美というのは、212号室に住んでいる織原レオン謙人の母親なのだが、レオンの家は三つ葉ワインという会社を経営していて、その社員でもある。織原睦美は、四月に行われた北大屋町の町長選挙に立候補し、有名人でもあった。そういう背景があって、雁湖学院で生徒たちに向けた講演会を催した。強い風が講堂の天井をぶち抜いた事件があった講演会である。
「睦美さん、若くして夫婦で起業して、作ってるワイン、結構有名らしいよね。講演聞いてたけど、まぁなんかすごいんだなくらいしかわからなくて」
理真美が睦美に対して強い尊敬の念を持っている理由が椥紗にはよくわからなかった。講演中に事件があって、風の力にばかり気がいってしまっていた。そのために、講演の内容のことはほとんど覚えてないというのもあるだろう。
「連絡とったの?」
「ううん。まだなんだ。メンターさんにも『取ってみたら?』って言われたけど、なんだか気が引けちゃって。だって、織原さんは本当に凄い人なんだもん」
「でも、レオンのお母さんだよ。同級生のお母さん。それだけじゃなくて、友達だし。言ってみればいいと思う。そういう思い付きって、結構うまくいったりするし」
「大胆だなぁ」
「ダメかな? でも、何かを始めようとするときに、大きな力は必要だと思う。そういうの出来るのって凄いって思うし、りーまちゃんには成し遂げてもらいたい」
椥紗がこぶしを強く握って話すと、理真美は微笑んで言った。
「椥紗ちゃんって強いね。……空気を読まないって、違うな、空気とか当たり前とかを気にせず進もうとするところ」
「え、それ褒めてる?」
「私は、好きだよ」
「ありがとう。あのさ、私、応援してるから……」
椥紗は、理真美の手を掴んでぎゅっと握って言うと、理真美は微笑んだ。
「うん、頑張るね」
「それでさ、このこと、レオンには話したの?」
「まだ。だって、部活になるか分からないから。メンバー集めもしないといけないし」
「なのにこの荷物?」
「メンターさんが何人か連れてきてくれて、相談に乗ってくれるって言ってくれたんだ。作物を植える前の土づくりをして、ついでにバーベキューしようか。逆かな、バーベキューメインで、話し合おうかくらいの軽いノリだった。この道具とか土とかは、技術科の授業で使うものを少しわけてもらってて、手探りでやってく感じ。ここで過ごせる時間は、3年しかないからね。出来ることをどんどんやらないと」
「別に私が応援しなくても、りーまちゃんは、自分で答えを見つけてるし、十分大胆だよ」
椥紗が嘯くと、理真美は首を振った。
「椥紗ちゃんが背中を教えてくれるから大胆になれるんだよ。前に進ませてくれる、天才だなって思うよ」
そう言われて、椥紗はちょっといい気分になったし、自信をもらえたような気がした。
理真美のことは好きだけど、彼女がやろうとしていることに、あまり興味がわかなかったから、椥紗はそこで理真美と別れた。だからといってすることがあるわけではない。とはいっても、部屋に戻ると気持ちが塞がってしまいそうだったから、寮のロビーのソファで座っていることにした。ここの社会は都会とは違って人が少ない。その上狭い。ロビーを通っていく人は大体が見たことのある人で、都会の駅のプラットホームに座っているときに感じる孤独がやってこなかった。
引きこもりだったからといって外に出なかったわけではない。椥紗は同世代にしては背が高く、体格も良かったから、中学生なのに大学生くらいに見えるような装いをすることもできた。大人として出かけるなら、補導されることもないし、余計な詮索はされずに済む。平日の昼間に、子どもが一人で街に居たらおかしいと思われる世界にいた。
雁湖学院は、全ての授業が詰まっているわけではないので、授業がない時は、うろうろとしている生徒もいる。高校からは任意の教育で、小学校や中学校の義務教育ではない。どのように学ぶのか、そしてその学びを活かすのかは、自分次第だ。どこか生徒を突き放すようなやり方は、雁湖学院の方針は、自主性を重んじているともいえるし、無責任ともいえる。
何をしていいのか分からない無力感みたいなものが椥紗を襲ってきた。こういう時に何をすればいい? この辛い波が消えるまでどうすればいい?
「やほー、椥紗」
深淵に落ちていく椥紗に明かりを灯してくれたのは、織原レオン謙人の声だった。少年系アイドルのように整った顔立ちのレオンは、笑顔で手を振ってくれた。
「うぉ。イケメンパラダーイス」
ついつい叫んだ椥紗に、レオンは吹き出した。
「それ、好きだよね、椥紗。ちょっと声かけようか迷ったけど、元気そうでよかった」
「迷った?」
「そ。どんよりとしたオーラ纏ってたよ」
「あはは、やっぱ、そう見えた?」
椥紗が明るく振舞おうとするのが痛々しいと思ったレオンは、椥紗にソファを開けるよう手で示して、隣に座った。
「やっぱ、王子様みたいだよね」
「こうしたら元気になれるよね」
レオンは、椥紗の手をぎゅっと握って、キラキラとした眼を椥紗の眼と合わせる。そうすれば好意を持ってくれている人は、ドキッとする。コイツはアイドルの振る舞いというのを自然と身に着けているみたいで、それをわかっていても乗ってしまう自分自身を椥紗は情けなく思った。
「そうそう、さっきまでりーまちゃんと喋ってたんだけど、園芸部(仮)を作ろうとしてて、」
「(仮)って何?」
「いや、園芸部っていう名前がダサいからみたいだけど、他にも意味があるっぽくてさ」
「その意味って?」
「んっと、ビジネスにしたいとかそういうこと言ってた。何か育てて、商品作って、ギュフの人とも協力して。ちょっと私はそういうのあんまり得意じゃないからうまく説明できないんだけど、それでさ、織原睦美さんに興味があるって言ってて」
「急に母さんの話が出てきたね」
「あのね、睦美さんって、起業したわけでしょ。そういうのに興味あるみたいで、話聞きたいとか、あー。うまく説明できなくて、私が勝手に話してもいいものなのかとかよくわからないんだけど」
話をしながらどんどん混乱していく椥紗を見ながら、レオンは笑っていった。
「わからないけど、りーまの熱意を伝えたいってことは分かった」
「そうなのよ。私は睦美さんとりーまちゃんが早く会えばいいのにって思うんだけど、りーまちゃんはそういう感じでもなくてさ」
「うん。じゃあ、今度うちに遊びに来ればいいんじゃない? 何かみんなで楽しめそうなこと提案するよ」
「えっと、そんな急にお邪魔するとか」
「俺の実家だし。りーまは、もう友達だし、全然気を使わなくていいから」
「でも、女の子だよ? 異性だよ?」
「あのさ、うちの部屋、212に気軽に出入りする君がそういうこと言う? そういうのじゃないから。椥紗と一緒だよ。ただの友達」
それでいいんだと思うけれども、うまく言えないけれども納得できないことも色々ある。椥紗はむくれながら言った。
「むぅ。これ、難しいんだって。だって、双葉は何か、レオンのこと好きそうだし、レオンは、別にそれを嫌がってないけど、恋愛とは違うって言うし、全然分かんないんだって」
「そうだな、じゃあこういえばいい?『アイドルは、恋愛禁止だから』」
歯の浮くようなセリフをレオンは何のためらいもなく言った。堂々と言う。だから、レオンはキラキラと輝いて惹かれるのに、そういう手の届かない存在になる。
「アイドルすげぇ、イケメンパラダーイスだな」
「それ、本当好きだよね。でも、まぁそういうことだよ。あと、ちょっと気持ちが上向いたと思うんだけど、根本が解決しないと心がしんどいのは解決しないからね。どうするべきか、迷った時は、メンターに相談するのも手だと思うよ。誰かに話すことで、きっかけがもらえたりとかあるし、うまくいけば、根本から解決するかもしれないから」
レオンの言葉に、椥紗は納得して素直にうなずいた。
一通り話をした後、レオンは自分の部屋、212号室に戻っていった。残された椥紗は、レオンのアドバイスはあながち間違っていないと思ったから、スマホを取り出して、メンターに連絡することにした。椥紗のメンターは、冴山和奈という。話がしたいというメッセージを送ると、すぐに返信が返ってきた。休暇と出張で雁湖に来ていて、すぐに会うことも可能というのだ。椥紗が今は暇だという旨を伝えると、和奈はギュフのスペースに入るところのロビーまでくるように指示をしてきた。今いるところから、そこまでは数分もかからないので、椥紗は急いで向かった。
ギュフの企業スペースには、雁湖学院の生徒は入ることができないようになっているが、社員の同伴や許可があれば、入れるところが結構ある。机が並べられていて、いかにもなオフィスもあるけれども、開放的なテラス席だったり、働いている人の気持ちが高揚するような場所がある。仕事場ではあるけれども、休暇を兼ねることができるというも分かる気がする。
「嫌なことがあってもね、ここで温泉に入って、のんびり散歩して。そうするだけで、気持ちが変わるんだよね」
「和奈さんでも、そんな気持ちを変えなきゃってくらいしんどきときあるんだ」
和奈は明るく活発で、自分の意見をはっきりと言えるような人だったから、彼女もストレス発散を心がけていることが椥紗には意外だった。
「そりゃそうだよ。苦情対応とか、そうだな、店でお客さんにおばちゃんって呼ばれただけで、心が折れたりとかあるよ。モヤモヤした時はさ、お酒飲んだり、映画観たり色々するけど、やっぱり自然があって良い空気が吸えて美味しいものが食べられるっていうのは全然違う」
些細なことで、人は傷つくのに、気にしないふりをしながら生きていかなければならない。それを我慢するべきというのは戦争とか貧しい時代の日本を経験した昭和の価値観だとも思う。成長するために我慢は必要かもしれないけれども、その今感じているしんどさや痛みが、耐えるべきなのかは立ち止まって考えるべきなのかもしれない。
「でも、ここは、仕事場なんでしょ?」
「確かにここで、仕事もするけどね。その仕事は、新しい企画を考えたり、仕事の中でもワクワクすることをすること。そういうことを雁湖でやってる。だからここに悪いイメージがないんだよね。ここに来れば、全国で色んなこと考えながらやってる友達というか、同志みたいな人たちに出会えて、それで新しいことが出来て楽しい、みたいな。泊まる場所も色々あって、家族連れの人は家族連れて旅行みたいにして来てる。詳しくは知らないんだけど、子供用の託児所兼プレイスクールみたいなのもあるのね。そこには、ギュフの幼児用品の試作品みたいなのも置いて、子供の反応とかの実験みたいなのができるから、色々試してみたり、ね」
「じゃあ、龍野さんがメンターさんたちとバーベキューしながら園芸部(仮)の企画とかするのもその一環……とか?」
「龍野さん? バーベキュー、園芸部……ああ、来てた来てた。バーベキューのお誘い来てた。あんまり興味なかったから、スルーしてたけど。まぁ、バーベキューも、うちの製品使いまくりだからね。バーベキューで使える食品とか、道具とか。社割もあるし、サンプルもあるし。そういうの使えばお得にできちゃうからな。使ってみての気付きが、製品をよりよくしていくから」
「何で、バーベキューには行かなかったんですか? 良い製品に繋がるかもしれないのに」
「それは、興味がなかったから。それ以上でもそれ以下でもないかな」
「でもバーベキューって楽しそうじゃないですか」
「楽しいと思うよ。でも今日は行きたいと思わなかった」
「そんなに感覚で生きて良いんですか? バーベキューで新しい関係やアイディアも生まれるかもしれないのに。もったいないって思わないんですか?」
「うーん。もったいないという感覚のために、わざわざやりたいと思わないことする? それはちょっと同意できない感覚だな。」
「人間は、ちゃんと学ばないといけないし、そのためには辛い経験もしないといけないって思いませんか?」
「それもまた、極端な考え方だね。ま、それもそうなんだけどね。そうだねぇ。私もちゃんとわかっているわけではないのだけど、少なくとも、人生は苦しむためにやってるんじゃないっていうことは大事だなって思ってる。生きることは辛いことだと思うよ。だから、苦しまないために学んだり、色んな喜びを作ったりする。どうして我慢するのかっていったら、それは我慢の先にある幸せを手に入れるためでしょ。苦しいとか嫌なことの先にハッピーが見えないなら、わざわざ頭突っ込まないほうがいいって思うんだよね」
真面目な答えを真剣に答え続ける椥紗を、和奈はいったん受け入れながらも否定する。どうしてこんなに否定されなきゃいけないんだろう。好きとか嫌いとか、そういうのがどこかで消えたってこと?
どうして消えたんだろう。
そういうのあったよね。
あったから、中学校に行かないという選択をしたんでしょ。
違うよ、学校に行かなくても良いと言ったのは私じゃないか。
いや、行かないように促したのは、パパだよ。
私じゃない。
雁湖学院に入学しようとしたのは
便宜上じゃないか。行かないというのはカッコ悪いから。
これから生きていくのに必要だから。
そんなくだらないことがここに居る理由なの?
最悪を逃れるための手段?
違うだろ。
それは意志じゃないか。
良いと思った。
行きたいと思った。
それがここに居る、一番のきっかけだろ。
考えをめぐらして、とりあえずの結論にまで辿り着いた。その結論が強い感情と結びつくもので、気合いが入った。ただ、その後フッと気を抜くと、思った以上に力が抜けたというか、頭痛までしてきた。折角良い答えが見つかりそうだったのに、心も身体もついていかない。なんだろう。何が正しくて何が間違っているのか混乱してきた。
「今、何をやっていいのか分からないんです」
やりたいことは、双葉みたいに風の力とかそういう目に見えない力が使えるようになること。律にぞんざいに扱われたことが、心にダメージを与えたようにも感じられる。
「やりたいことはあるのだけれども、それを叶えるには全然力が足りなくて、才能がないから、諦めた方が良いって思ってるんです」
そう話しているうちに、椥紗の眼には大粒の涙が溢れてきたし、鼻からは鼻水がたれてきた。顔をぐしゃぐしゃにしながら泣く椥紗の頭を和奈はよしよしと撫でてくれた。
「大丈夫、大丈夫。まずは落ち着こうね」
和奈は左手で椥紗を支えながら、右手でカバンを探ってハンカチを出した。
「はい。これで顔を拭こうか。こういう時に予備のハンカチを持っておいて良かったって思うよね。勿論、予備だから全然使ってないよ」
真剣に衛生面について説明をする和奈を見て、椥紗の気持ちは緩んだ。
「あの、私は……」
「えっとね。もう考えるのやめよう。椥紗ちゃんの場合、とりあえず自分が出来そうなことをするのが良いように思う」
椥紗は渡されたハンカチで顔を拭いながらも、和奈の方をじっと見つめた。
「あのさ、椥紗ちゃんって真面目すぎ、よね。」
「真面目なのは良いことじゃないんですか」
「真面目自体は悪いことじゃないけど、その副作用っていうのかな。そうなろうとして、堅くなっているというか」
「それって、良くないですよね。どうすれば……」
「私がちょっと思うには、何も考えない時間を作るのが良いと思うんだ。勿論どんなことでも極めようとすることは大事だと思うよ。本気を出して取り組もうとする。怠けようとする自分を律する。そういうのは全部カッコいい。でもね、しんどいという自分も、受け入れて上げてほしいなって思うんだ」
和奈の言葉に、椥紗は納得できないような顔をした。じゃあ、どうすればいいのか。答えが欲しかった。焦る椥紗に、和奈は問いかけた。
「あのさ、私、バーベキューに誘われてたのに、どうして、今ここで、椥紗ちゃんと話してるんだと思う?」
「それは、メンターだから……」
「今日、休日だよ。なのにわざわざ椥紗ちゃんに会おうとした。それだけ私は貴方に会えるのが嬉しいの。私ね。結構好き嫌い激しいんだよね。そして、好きじゃないことはなかなかできないの。私は椥紗ちゃんのことが好き。そして好きだから分かることがたくさんある。うまく説明できなくて悪いんだけど、椥紗ちゃんを見ていてね、苦しそうだなって思う。だから、もっと楽になったらいいのにって思う。周りが自分より前に進んでいて焦るとかそういうのもあるのかなっていうのを感じるんだけど、そんなの比較しないほうがいいよ。椥紗ちゃんは椥紗ちゃんにしかなれないから」
そう言われて、椥紗はまた目尻が熱くなってくるのを感じた。支えてくれる人がいる。思ってくれる人がいる。それを大切にしよう。双葉みたいになれなくても、理真美みたいになれなくても、いい。何もできなくても、私は私。大切に思ってくれる人がいる。メンターの和奈さんだけではなくて、遠くにいるパパもお母さんも、春日ちゃんもいる。
いっぱい泣こうと思った。泣いていいと思った。今ここに居れて本当に良かった。泣ける場所があってよかった。
声を出して大きな声で泣いた後、椥紗は和奈に渡されたハンカチで顔を拭った。
「大分すっきりしたみたいでよかった」
和奈は、にっこりと笑った。
「しんどい時はしんどいってその気持ちを外に出すことが大事。叫んでも、泣いてもいい。それで少しでも自分が楽になるように努める事」
ちょっとメンターらしいことを言って、和奈は全く違う話を始めた。
「うちの会社はレクリエーションが多くてね。やりたいと思ったことは大体できるのね。農場、牧場、製品を作るとこからきっちりやってるから、部署とアクセスしたら、体験ができる。お試しというかもうリアルな生産現場を見れるし、間近で感じられる。体験する人が来ることによって、その部署の担当者は説明をしなければならなくなるんだけど、説明をすることで客観的にその部署の役割を把握する、学ぶ機会にしている。仲間内だけだと、阿吽の呼吸で伝わってしまうというのは、効率的に何かを作るには良いかもしれないけれども、売るとなった場合、随分と毛色が変わってくる。買ってくれるのは外の人だからね。売ることを考えた製品を作るには、自分がどういう仕事、役割を担っていて、どういう強味があるのかとかを知っておくべきだし、部署外の人が入ることでそれを意識する機会になるから」
和奈は自信満々に話すけれども、椥紗は途中で何の話をしているのか付いていかなくなっていた。もしも精神的に落ち着いている状態だったら頭の中でうまく整理をして理解できたかもしれないけれども、いや、それでも難しかっただろう。
和奈は、混乱している椥紗を見て、自分の話ばかりをしている事に気付いた。メンターの大切なことは聞くことだけれども、和奈はギュフという会社のことをとても気に入っているようで、その素晴らしさを詳細に語らずにはいられなかったのだ。和奈の話はよくわからなかったけれども、和奈が今の仕事環境に満足していて、幸せだということはよくわかった。
「前に、椥紗ちゃん、ピアノを弾くとか言ってたけど、実際に弾いたの?」
「え…っと、まだなんです。あの、ピアノの練習室ってやっぱり芸術科の子が使うのが良いのかなって。優先的なものなのかなって思って……。練習室は、芸術科の生徒専用って感じがして、どうもですな」
「そういう気持ちにさせるような空間になってる? だったら問題だわ。練習室はみんなのためのもので、芸術科のためのものじゃない。そういうような空気を芸術科の子たちが出しているんだったら、それは変えた方がいいってうちのボスなら言うわね」
「ボスって?」
「勿論、椎野真生よ」
「呼び捨てなんですね」
「別に、彼は気にしないわよ。一緒に働く仲間なんだから、敬称はつけないほうが良いって思ってるタイプだから」
真生は、デンマーク人とイギリス人のクォーターで、日本人のハーフだ。半分がヨーロッパの人だから、日本のように目上の人に敬称をつけるというのには違和感を覚えるのかもしれない。
「絵を描くこと、音楽を奏でること、ダンスを踊ること。色んな種類の芸術があるわ。そのどれもが、誰もがやってもいいことなの。なのに、芸術は、お金になるものだけが価値があるみたいになっている。お金になるものこそが素晴らしい芸術みたいになっている。それが問題だと思うのよね」
また和奈は熱くなり始めた。このままだと、また椥紗を置いてけぼりにすると思って、話題を変えた。
「とりあえず、今から、最初の予約を取りましょうか。そうすれば、一歩踏み出せるでしょ。まずは、ReGのアプリから……」
和奈はどんどん前へ進んでいった。椥紗は元気に話し続ける和奈を見ながら、ただついていくことしかできなかった。メンターならば、待つことも必要だ。それを和奈は出来ない。メンターとしての能力の低さを露呈してしまっているが、ギュフという会社は、彼女がメンターであることを悪く思っていなかった。和奈がメンターとしての自分を好きであることが最も大きな理由で、そして、ギュフはその会社のポリシーとしてその社員を育てることも大切だと考えていたというのがもう一つの理由だった。
和奈に予約されてしまったから、椥紗は練習室に行かざるを得なかった。予約をしたからには、責任をもって行く。そういうのは椥紗の面倒を見てくれていた春日伊織からしつけられていたことだった。他に練習したい人のことも考えて、練習室が満室の時は、予約した人は、予約時間から一定の時間以内に部屋に入らなければ、予約がキャンセルすることになっていたり、不満が起こりにくいようなシステムにはなっていたが、そういうキャンセルの時のこととかを考える余裕はなかった。
六時からの予約だったが三分前には練習室の前についていた。椥紗が予約した部屋は、まだ前の時間に予約していた人が使っていて、中から激しいピアノの音が聞こえてきた。それを聞いていると、へたくそな自分がその部屋で同じピアノを使って練習することに対して劣等感を覚えてしまうような気がしたから、その部屋から離れたところで待とうと思った。練習室が並ぶところからは、少し離れたところには、談話室のような場所があってそこのソファで座って時間まで待っていることができたが、練習室からの音が漏れ聞こえてきていて、特に椥紗が予約している部屋からの音がよく聞こえて、どんどん気持ちが小さくなっていくような気がした。
気を取り直すために、椥紗は周りを見回した。ソファの前のテーブルには幾つかのビラが置いてあった。コンクールであったり、奨学金であったり、マスタークラスの案内であったり、音楽の専門家を志す者だけが関わることができるようなものばかりで、それを見ていてもどんどん気持ちが萎えていくように思えた。
その中に、ピアノ公演のビラがあった。よくあるクラシックのソロコンサートのビラで、大きな演奏者の写真がった。その演奏者は、いかにも少年という幼い容姿だったが、整った顔立ちをしていて、その写真に「神童現る」という文字が貼り付けられている。
椥紗の後から、談話室に制服姿の男子生徒と女子生徒がやってきた。彼らは紫色のタイとリボンを付けていたから、芸術科の生徒ということだろう。二人は、椥紗と同じようにそのビラを手に取って、二人で見た後、あざけるように笑ってビラを元の場所に戻した。
(何か感じ悪いな)
椥紗はそう思ったので、ビラを奇麗に持ち帰るためにわざわざ楽譜を取り出してその表紙と一ページ目の間にはさんだ。時計を見ると六時を回っていた。
再び自分が予約している部屋の前に行ったが、まだ中からピアノの音が聞こえてきていた。
「やっぱ、すっごい曲」
椥紗は家に来てくれれる講師にピアノを習っていた。ピアノを弾くことは好きだし、表情豊かに弾くことは出来たけれども、楽譜を読むことが苦手で、ちょっとずつしか前に進むことができない。そのために、なかなか新しい曲を弾きこなすことができなかった。扉の向こうから聞こえる曲は、複雑で技巧を必要するもので、椥紗がレッスンでやれるような曲ではない。聞いた感じ、ドビュッシーとかのふわふわっとなめらかで幻想的でつかみどころがないようなものだとはおもったのだけれども、その曲が誰の曲なのかというのは分からなかった。
とにかく、うまい。出てきた言葉はそれだけだった。ただ、これ以上聞いていると、ここでピアノを弾く自信がなくなってしまう。そう思って、椥紗は扉をコンコンとノックした。すると中のピアノの音が止まって、扉が開いた。奇麗な顔をした男子生徒だった。
「あの、練習室、私、六時から、予約してて」
「あ、そうだね。もう終わりだね。ごめん。気付かなくて」
「いや、あまりにもうまいから、邪魔したら悪いかなって」
「別に。みんなで使うピアノだから、僕がルールに従わないといけない。気付かなかった僕が悪いんだ。僕の方こそごめん。君の大事な練習の時間を奪っちゃったから」
「あの、練習、もう終わりで良いの?」
「うんっと、僕、部屋にもピアノがあるんだ。だから、別に練習室のなんて使わなくていいんだけど、うちの学校には、どんなピアノがあるのかなって。気になっちゃって適当に弾いてただけ。えっと……」
目を伏せて少しアンニュイな表情をした彼に椥紗は思わず叫んだ。
「イケメンパラダーイス」
男子生徒は椥紗のことはあまり気にせず、楽譜をカバンに片付けたりしている。
「……。え、何?」
「な、な、なんでもないですぉ」
時間差で改めて聞かれると、恥ずかしい。
「ピアノ使う? 開けたままでいいかな?」
「はい、開けたままでいいです」
「僕は浅木海里。君の名前は?」
「私は、篠塚椥紗です」
「篠塚さんね。僕は芸術科なんだ。よろしく」
まぁ、それくらいのレベルの演奏ができれば、専門家を目指しているわけだよな。椥紗は出来るだけ気にしないようにして、ピアノを弾く準備を始めた。楽譜を出して、ピアノに置いて、よくわからない小学校の名前と創立10周年記念という文字が刻まれていることに気が付いた。そのピアノは決して新しいピアノではなくて、どこかからやってきた中古のピアノだった。コンサートホールで使われるような専門のピアノではなく、小学校のボロボロのピアノ……鍵盤だって傷が結構ある。
「浅木海里……ただものじゃない。ん、浅木海里?」
椥紗は、談話室で楽譜にはさんだビラを取り出して確認した。
「御本人だ……」
さっき見た姿はビラの写真と比べると大分成長した姿だったから気付かなったが、神童、浅木海里そのものが、さっきまで目の前にいたのだ。ビラにはモーリス=ラヴェルのピアノ曲の題名が書かれていた。恐らくさっきまで弾いていた曲は、ラヴェルの曲ということなんだろう。ラヴェルなんて、椥紗には手の届かない遠い存在だった。
ピアノは、ピアノフォルテやフォルテピアノとも呼ばれる楽器である。ピアノは、イタリア語で小さい音、フォルテは大きい音。音楽の授業で出てくる音楽記号のP、Fが崩されたような文字のやつだ。ピアノ曲といえば、大雑把に分ければ、バッハやヘンデルなどのバロック、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典、シューベルト以降のロマン派に分けられる。椥紗が把握しているのはこの程度で、音楽の専門家であれば詳細に語れるのであろうが、ざっくりと言って、古いものほど楽譜は単純で、ロマン派になるとたくさんの音符が書き込まれている。そして、それを弾くピアニストというのは、ヨーロッパの男性が中心だから、手の大きさが椥紗の手ではどうしようもならないような表現もあった。ただ、椥紗は体つきはがっしりしていたし、手も大きかったからオクターブを同時に鳴らすことは簡単だったし、手だけは、ピアニスト顔負けだった。譜読みが得意であったならば、音楽家を目指すなんてことも考えたかもしれない。
海里が去った後のピアノに楽譜を置いた。しかし、椥紗はピアノを弾く気持ちになれなかった。とりあえずは椅子に座ったし、自分の弾きやすい高さに椅子を合わせた。でも、ピアノには、海里のラヴェルの余韻が残っていて、それを上書きするのが自分の拙いソナチネになると思うと、弾く気が失せた。
良いピアニストは、ピアノにもこだわるという。スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインという横文字ピアノたちは、それぞれ特徴を持っていて、ピアニストの好みに合った音を出してくれるらしい。部屋にピアノがあると言っていたから、海里もこだわりを持って弾いているピアニストだということを椥紗は察した。
眼を閉じると、さっきの音が出てくる。椥紗は知らないが、その曲の名前は、「水の戯れ」という。フランス語では、Jeux d'eau。この言葉を1つの塊として訳すと噴水という意味だが、単語毎に訳すと色合いが異なってくる。Jeuxは、Jeuというフランス語の複数形で、遊びや遊戯を表すもので、英語ではGameに当たる。d’はdeの省略形で、~のという意味、英語ではof。そして、eauが水。噴水と訳されていると、そこにある噴水をただ形容しただけの曲に聞こえるが、水の戯れなんていう言葉になると、より水の動きへの造詣が強くて、曲に現れる流線型のフレーズに焦点が当たる感じがする。モーリス=ラヴェルは、水に関わるピアノ曲を作っている。ドビュッシーだと椥紗が感じたように、ラヴェルとドビュッシーは、同じ印象派として分類されるが、二人に深いかかわりがあったわけではない。
椥紗は頭の中の海里の音を消そうと努めた。練習室は芸術科の生徒だけのものじゃない。芸術は全ての人間に対して、開かれているものであって、その全ての人間の中には椥紗も含まれる。この練習室を予約するように促してくれた和奈も、開かれた芸術を大切にしているわけで、ここでひるむのは良くない。
意を決して、椥紗は譜面立てのソナチネアルバムを開こうとしたのだが、その時に腕に水滴が垂れていた。
(汗?)
五月といっても、北海道の五月はまだ寒い。汗をかくというのは珍しいと思った。それを服で拭って、気を取り直して基本となるド、Cの音に左の薬指を置いて、深呼吸をした。ソナチネアルバムの1番最初の曲はクーラウの作曲したものである。軽くて明るいハ長調から始まって、途中で短調に変わりその時に、メロディーラインを左手が担う、低音部が支配するようになって、重々しさがヒシヒシと現れてくる。その部分は数小節に過ぎないのだけれども、暗い。左手から右手へとメロディの担当が変わると、また明るい調子に戻るみたいなのが何度かあるのだが、雰囲気が変わったことをどこからどんな風に表現するかは、ピアニストの判断にゆだねられていて、プロから見れば簡単な曲かもしれないけれども、まぁまぁな時間をピアノにかけてきた人が自分の表現力を楽しめる曲といえるものである。
でもどうやっても、海里のようなピアノの音にはならない。クーラウのソナチネが、古典派と呼ばれるもので、よりはっきりとした調性という輪郭を持っていて、ラヴェルのような印象派のぼんやりとした靄のかかったような雰囲気とは違うからというのもあるのだが、海里の音と水が身体に絡んでくるというか、魔法にかけられるんじゃないかというような音だった。
考えれば考えるほど海里の音と自分の音を比べてしまうので、しんどい。なので、椥紗は、楽譜を閉じて、自分で好きな音を弾いて楽しむことにした。まずはド、次にレ、そしてミ、その後はファ……。一音ずつその音を基礎として、適当に指を動かして、音の物語を編んでいく。カッコいい言葉で言えば、作曲になるのかもしれないけれども、それをうまく楽譜に認められるわけでないし、その場で生まれては消えていく儚いものだった。なんだろうな、シャボン玉のようなものかもしれない。作曲家によって描かれ、何度も校正されて楽譜として成り立ったものは、価値のあるものとされているけれども、椥紗が今やっている行為は、たわいもないものなのだ。
「おお、なんか希望に溢れる感じであった」
椥紗はミ、Eの音から始めて、ロック調というか、アニメの戦闘シーンとかに使うとカッコいんじゃないかという感じの速い曲みたいなのを弾いて、満足感を得ていた。その中で得たカッコいいメロディーラインを弾いて、それに左手の伴奏をつけて、その伴奏も単純なものから、半拍ずらしたりして鳴らしてみたりしたり、スローテンポにしてみたりして、遊んでるうちに、次に自然と鼻歌を付けていた。
AメロとかBメロとかサビとか。カラオケ選手権みたいな番組があるから、よくある曲の構造は、一般的にもなっているし、楽譜として認めるならそういうのを考えて作らなければならないと思ったのだけれども、結局とにかく自分の感情なり、出してみたいことをこの練習室で表現するなら、そんなのを気にしていられない、もう知らない、と椥紗はお思った。これに良い歌詞を乗せることができたなら、その音は作品になったかもしれない。その時、感情を表現し、そしてその感情が動いた爽快感は、気持ちがよかった。そして、気が付いた。椥紗の拙いはずの音が、少しずつ海里の音を消していた。クーラウの曲が、悪いわけじゃない。クーラウの曲を弾くことで、海里の音を消すことも可能だったもしれないけれども、クラシックという同じ土俵の上に立つことで、もう既に勝負が決まってしまっているような感じになっていた。音楽は勝負じゃないこともわかってる。音に感情が乗り、その場に漂うと、その場にいるものがその影響を受ける。
(何か違う……)
弾いているうちに分かった。海里に対する対抗心があるということは、まだその幻影が消えていないということだ。ピアノを弾くことを止めようと思った。指を軽快に動かすことではなく、叩く。それで、現れる音にその力を託そうと思った。
叩きたいと思った音は、ソ、Gの音。いつもと同じように鍵盤に指を置き、まずは右の中指でソの鍵盤を叩いた。スタッカート、スラ―、短い音、長い音……様々な質感の音を、同じ中指で叩き続けた。それは、でたらめではなくて、やがてそういう法則を持った音、ある種の曲になっていった。
叩く指を変え、そして手を変えて同じ音を鳴らした。どの指が奏でるかで、音は変化する。音程ではない何かが、その曲を支えるものとなったとき、ピアノは打楽器となり、打鍵の表現がより鮮明になった。椥紗は息を吸った。
「くぃおぅーあぃーー さぅえおーあーいー あぇーけそ うぃーけーな」
ひらがなで書くとこのような言葉になるのだが、言葉を作ろうと狙って歌っているのではなくて、その口の動き、のどから通ってくる空気、それが出す音に強弱であったり、高低をつけることで、曲に動きをつける。更に、声の出し方を変えれば、音は物語のように登場人物たちに紡がれていくようになる。
その間出している音はずっとソ Gの音で、わざわざ手を高いところまで上げて叩き落として音を出したりした。ピアノにとって暴力的な行為だから、銘のあるピアノだったら怖くてそんな触れ方はできない。けれども、その中古のピアノは許してくれる気がした。自分の気持ちが乗ってきたところで、椥紗はピアノ内部に右腕を突っ込んで、弦を指で押さえて左手で、またソの音を叩いた。ソの音に対応する弦ではないのを触っていたから、それを探るのに指を何度が動かしたけれども、最後にソの音が変化して、変化した音を3回叩いて、それで満足した。こんな音程が狂ってしまうような行為は、音程を重んじるピアノ曲を弾いている人たちにとってはタブーだ。卵を握るような柔らかい手つきで、なめらかに弾いていく世界を壊して、やっと、海里の作った洗練された上品な空気が消えた。
ピアノの中に突っ込んでいた右腕に、じんわりとした感触があって、そこには汗のような水滴が溢れていた。タブーを犯そうとしたことで心が強張っていたのかもしれない。
「海里は魔法使いかもしれない」
消えたと思ってたのに、まだ彼の残したものがあった。
練習室から出ると時計は七時を回っていたので、夕食を取ろうと思って食堂に向かった。
「おい、篠塚」
そこには、百舌聖と百舌陽一郎がいて、聖が陽一郎に詰め寄っていた。どうやら、聖の無理難題の押しつけから逃げようとして、椥紗を呼んだらしい。椥紗は、そのことには気付かず、ホイホイと二人のいるテーブルに向かった。椅子にカバンを置いて、スマホだけをもってメニューを選びに行こうと思ったのだが、その反対側に座っていたちょっと不機嫌な聖に椥紗は少しびびっていた。
「あ、すまん。気にせず飯買ってこい」
「やっぱ、お邪魔……」
「じゃねぇ。寧ろ助けてくれ」
隣の陽一郎は、小声で椥紗に助けを請うた。聖の口調だったり、振る舞いは上から来る感じできついから、喩え年上であったとして一人で引き受けるのは大変だろう。そして、椥紗は、助けを求められて悪い気はしなかった。
まずはご飯を食べながら話を聞いていた。この前ビームライフルを打ちに行ったが、その感触が良かったので継続的に活動を続けたいということ。そして、継続的に続けるためには、部活動を設立するべきだというのが聖の主張だった。聖が、部活動を作りたいと息まいているのは、彼女が住んでいる211号室に園芸部(仮)を作ろうとしている龍野理真美がいるからで、その積極的な動きに感化されたのだろう。
「部活動にすれば、しっかり練習して、インターハイとかの全国大会も目指せる。競技人口が少ないから、全国とか世界とかを見据えながら競技に向き合えるっていう強みがあるし、何せ指導者はメダリストよ。これに人が集まらないはずないじゃない」
確かに。陽一郎はオリンピックのライフル射撃競技でメダルを取ったわけで、その話を聞いて部活に入りたいという人が集まってくるかもしれない。聖は強い口調で主張するけれども、陽一郎はこの意見に対して乗り気ではなかった。
「何度言われても、お前じゃ集まらないだろ。俺は競技者としての経験は長いが、指導者はほぼ素人だ。しかも、ちゃんとした指導者の継続的な指導を受けてやってきたわけじゃなくて、ほぼ我流でやってきてる。国内の事情はよく分からない……というか、まぁ、そういうわけだ」
途中辺りから、陽一郎の話はたどたどしくなり、何か理由があるんだろうなと椥紗は察した。
この前連れて行ってもらって体験したのは、ビームライフルだ。それだけではライフル射撃の面白さは分からないだろうということで、日を改めて、エアーライフルを撃つことができる機会を持つことにはなっていたけれども、ただの体験という意図で陽一郎は言ったわけで、それが部活という継続的な形ではない。エアーライフルというのは、圧縮した空気で鉛の弾を撃つ競技で、所持には許可がいるし、自分の銃を誰かに貸して練習するにしても、コーチとしての許可が必要だったり、銃刀法に沿った形での練習や競技が認められている。陽一郎は、コーチとしての資格があるわけではなかったから、銃を貸して指導できる人の協力がなければ、聖や椥紗たちにエアーライフルの体験をさせることはできなかった。
聖は処々の事情を調べて、実現可能なプランを考えていた。同じ部屋で、部活動を始めるために、ダイニングでパソコンで検索をかけたり、ReGというギュフ関係者が使っているアプリで参考になりそうな部署に連絡をしたり。調べる→計画する→実践するというループを何度も繰り返しながら、出来そうなことを探していた。聖は、理真美のように動くことはできなかったけれども、ライフルについての検索をかけて、出来そうなことを考えていた。
「色々考えたの。私は、見たいんじゃなくてやりたい。やるなら、ちゃんとしたものがやりたいって」
聖はプレゼンテーションを始めた。陽一郎だけではなくて、椥紗にも視線を送りながら、自らの主張を始めたのだった。
「まず、使うのは、デジタルライフルよ」
「デジタル。まぁ、確かに、それなら、許可はいらねぇな。そんなのよく知ってたな」
「そりゃあ、調べたに決まってるでしょ。理想なのは、エアライフルもできることだから、陽ちゃんには、指導できる許可を取ってもらいたいと思ってるんだけど。脱線したわね。うちの部活の特徴は、陽ちゃん、貴方よ。メダリストとして、国際大会で優勝した経験がある人に教えてもらえるなんて、滅多にある経験じゃない。貴方を目玉にして、部員を集める」
「言っておくが俺は、指導者じゃねぇ。そして俺をウリにされるのは気に食わねぇ。俺の功績は俺のものだ。それを勝手に……」
「勝手にじゃないわ。国際的な大会に出られるような選手になるために、私たち家族が支えてきたんじゃない。伯父さんと陽ちゃんが試合に集中できるように私たち家族は、百舌家として担うべきことをやってきた。北大屋町の町長としての仕事をしてきた。だからうちの家は経済的に豊かで陽ちゃんは競技に集中することができた。よく考えてよ、功績は自分のだけのもの? 勝手なのは陽ちゃんよ」
最後の方を話すとき、聖は感情が高ぶって叫ぶような感じになっていた。
聖の言っていることはきついけれども、間違ってはいないと思う。百舌陽一郎という一流のアスリートを生むために周りの支えは不可欠だったわけで、その功績を陽一郎だけのものだなんて言われたら、そりゃあ家族である聖は文句も言いたくなると思う。だけど、陽一郎がその恩を返すために、部活のウリ文句として使われるというのが嫌だというのも分かる。椥紗は二人の間に割って入った。
「部活って、ブランドとかそういうので人を集めるものなのかな?」
椥紗の言葉に、聖と陽一郎は沈黙した。
「陽一郎さんのことを悪く言うつもりとかそういうのはないんだけど。オリンピックのメダリストっていうのは、凄いけど、でも、それで、人は集まるかもしれないけど、それいいのかな。オリンピックに出たような人がが教えてくれるからといって、うまくなるわけじゃないし、陽一郎さんは、ずっと自分は指導者じゃないって言ってるでしょ。だから、それを部活の魅力に掲げたところで、意味がないというか、来てくれる人に対して正しい情報を与えていないっていうか」
椥紗の言葉を、二人は黙って聞いていた。二人が椥紗の方をじっと見ているので、椥紗は急に恥ずかしくなって、手を振って顔を隠した。
「いや、えっと、ごめんなさい。えらそうなこと言って」
「良いから続けろ。出来れば、何か提案とかあったら言ってくれねぇか」
聖は、うんうんと頷いた。椥紗は深呼吸して、心を整えてからまた話し始めた。
「部活動の中心になるのは、生徒、部員だと思うんだ。それで部員は練習試合、そして、出来れば全国大会を目指して練習を積むとかそういうのをやっていくのがいいんだと思う。コーチとか指導をする人がどれだけ優れているかではなくて、良い部員が入ってくることが大事。陽一郎さんは生徒だから、勿論部員になれると思うんだけど、インターハイは無理だよね?」
「恐らくな。規定は知らねえけど、俺はインターハイなんて目指すとか、ない」
「まぁ、当然よね」
椥紗の主張に対して、陽一郎と聖が良い感じで合いの手を入れてくれるので更に頭の中に話したいことが湧いてきた。
「もしも、私が射撃部を始めるなら、ちゃんと全国大会とか大きい大会を目指せるような感じでやりたい。だから、陽一郎さんにはコーチをお願いしたいと考えるよ。指導者としての経験はないって言ってるけど、やっぱり、競技者としてトップまでいったことのある人の経験は部員のモチベーションになるし、より欲しいアドバイスを貰えると思うんだ。もしも可能なら、陽一郎さんにはコーチとしての勉強をしてほしいし、あ、でも、陽一郎さんが競技を続けるなら、両立は難しいの……かな?」
「へぇ。なかなか面白い考え方だな。俺はまだ競技やってるけど、第一線は退いているし、高校に入ったわけだから、真剣にやるつもりはねぇ。競技者とコーチの両立は可能だと思うけど。ま、状況次第だな。気持ちが向かないとやらねぇ。というか、やれねぇ。今の俺はライフルだけじゃねぇからな」
「私のビジョンともほぼ同じね」
「はぁ? 全然違うだろ。まぁ、部活を始めるにしても、運営、経済的な問題をどうクリアするかだな」
「デジタル?ライフル?とかについてはよくわからないけど、当面はこの前やらせてもらったビームライフルで練習とかなら出来るんじゃないかな。ずっと10点取れて当たり前の競技みたいだけど、私、出来ないし」
「私は、結構10点取れるけどね」
聖は余計な一言が多くて、椥紗はマウントを取られたような気持ちになった。
「お前の問題じゃねぇよ。まぁ、ビームでやるなら、体育館まではバスで行けるし、実現可能ではあるかもな。あと、じゃ、部員を集めか。聖……お前が、部長やるのはなしな。部員が集まらないのが眼に浮かぶ」
「はぁ⁉ どういうことよ」
立ち上がって怒りをあらわにする聖の斜め前で、椥紗はうんうんと頷いた。
「ちょっと、どういうことよ」
「いや、まぁ、ちょっと頷いただけで」
「部長は、お前がやれ。篠塚椥紗」
「へ?」
「俺は、お前のビジョンが気に入った。お前が部長をやるなら、指導者としての勉強をするのも悪くねぇって思った」
「ちょっと、このコ、別にうまくもなんともないし。何で。私の方が色んなこと知ってるし、なんでよ、陽ちゃん」
聖は口をへの字に曲げながら、声を上げて反論した。
「聖。人は理屈では動かない生き物なんだよ。そういうのをちゃんと覚えとけ」
陽一郎に射撃部の部長に指名されて、椥紗は誰かに必要とされたという自信が持てた。誰かの役にたった。そんな気持ちになった。
その場で部長を引き受けるかどうかの答えは出せなかった。突然のことだったし、射撃部を作るという案は、まだアイディアでしかない。陽一郎がどれくらいのテンションで言ったのかは分からない。そもそも射撃が好きなのか。全然当たらなかったし、聖には馬鹿にされたけれども、確かに面白かった。食堂を出て、部屋に戻ろうとすると、建物の近くに軽トラックが止まって居たのだが、それが動き出した。そして、その軽トラックが去った後に、見送っている織原謙人レオンの姿が見えた。この雁湖の社会の狭さを感じる。偶然に知り合いに出会うということがとても多い。
「レオン、どうしたの?」
「あ、親に荷物持ってきてもらったんだ。実家で使っていないもので、風太が使いたいっていうものがあったから」
寮費は光熱費などが込みで二万円ちょっと。価格は破格だから、ギュフのアルバイトをしながらでも高校生活をやって行くことは出来る。通学の往復にかかる時間などを考えるなら、いくら家が近くても敷地内に借りる方が楽だ。寮の中には、自分の部屋だけではなくて、ジムとか読書室とか学習を深めるための施設もあるし、グループ学習なんかは生徒同士が近くに住んでいる方がやりやすい。家族から離れて暮らすという経験を積むいい機会になる。
レオンはずっとこの北大屋町の住人として育っていたわけで、百舌家のこともよく知っている。百舌陽一郎と百舌聖とさっきまで食堂に一緒にいたということを話すと、レオンは楽しそうに話し始めた。
「聖も、陽一郎さんも、こっちに引っ越したらしいね。陽一郎さんは特別な部屋だって聞いたよ。大人だからさ。お酒も飲みたいし、タバコも止められないから、色々そろってるギュフの社員用の棟にって聞いたけど。街の一人暮らし用のアパートを引き上げたって言ってたから、主にこっちに住むつもりなんじゃないかな」
「アパート以外にも家があるの?」
「陽一郎さんは、聖の家にも彼の部屋があるよ。御両親は亡くなっているから、叔父さんの住んでる家が実家みたいな。実家というか、本家みたいな感じかな。まぁ、地主だからね。内地の銘家みたいな? 格式とかそういうのはないけど、あの家はお金持ちだなぁって感じ」
「じゃあさ、羨ましいとか思った?」
「別に。うちも似たようなものだし。社長の息子だから」
「あ、そっか。町長の娘と社長の息子か。すごいね」
「親は親。俺は俺。それに、父さんと母さんは血の繋がった本当の親じゃないし」
「……それってさ、意味あるのかな」
「血の繋がり? あるでしょ」
椥紗は、父親、祥悟とは血は繋がっているけれども、あまり会ったことはないし、彼がどういう人なのか、どういう考え方をしているのかもよくわからない。血の繋がりに、特別な何かがあるというのを感じられない。レオンがサラッと言った言葉にどう反応していいのか分からなくて、椥紗が下を向いて黙っていると、後頭部をポンと叩いてレオンは言った。
「ごめん。なんか、ちょっと重い話しちゃったかな」
「ううん、そうじゃない」
「よかった」
そう言って、レオンは椥紗にキラッキラの笑顔を向けた。その笑顔が椥紗の視線をひきつけた。そして、その場の空気が変わった。
「今日、元気ないね」
「そうかな」
「いつものピカピカなオーラが消えてる」
ピカピカなオーラと言われて、嬉しいというのもあるけれども、それ以上に恥ずかしいというか、しょっぱい感じがした。レオンは好意的に椥紗のあり方を見てくれているんだけれども、そう振舞えない自分が苦々しかった。
「そう、だね」
今日は色々なことがあって心が忙しい。律には仲間外れにされて凹んで、陽一郎には射撃部の部長になるように言われて。不登校をしていて、あまり変化のない毎日を送っていた椥紗にとって、感情がジェットコースターのように動くような出来事が起こった。
不登校だったから、普通の高校生としての日々が変化に富んでいるという風に感じるのではなくて、寮生活を始めた上に、同じ年齢の生徒だけがいる空間ではないことで、より刺激的になっているのだと思う。ここで起こる出来事に当たり前は通用しなくて、振り回されている感じがする。
自由というのは、無秩序とも近いのかもしれない。校則は、生徒たちを縛り付けるものであると同時に、ある種のセーフティネットとしても働いている。校則という縛りを受ける代わりに、その範疇にある限り生徒は守られるという契約のようなものがある。様々なバックグラウンドのある生徒を受け入れることから、雁湖学院にはその校則を設定することが難しい。「高校生なら高校生らしく」という前提がなく、椥紗は高校生としての自分という像が見えなくなっている。
例えば、椥紗がもともと通っていた学校は、学業への影響を考えてアルバイトを禁止しているような学校だったけれども、ここでは必要に応じて許可されているどころか、アルバイトに合わせて、学校の授業を調整するようなこともメンターを通じてやることも可能だなんて言われている。それが、産学連携で新しい試みだなんて言われるから、座学での勉強よりも、どんどん新しいプロジェクトを建てた方が良いみたいな雰囲気がある。
正直、どうしていいのか分からない。その不安は顔に出ていたんだろう。レオンは、全然関係ない話題を振ってきた。
「椥紗ってさ、社会科は何とったの?」
「世界史」
「じゃあ、同じだ。面倒くさそうなのに、どうして、世界史を選んだの?」
「パパも春日ちゃんも勧めてくれたから」
「人が勧めてくれたから、そうしたんだ?」
「……だって、よくわからないし。あ、フランスとかに行ったことがあるから、っていうのもあるかもだけど、そんなに考えて選んでないよ。そっか、レオンは……違う、もんね」
椥紗は、カッコいいとかそういうのには反応するけれども、日本人だとか外国人だとかそういうことに対しては無頓着だった。レオンの名前や、容姿を改めて見て、違うということを認識した。レオンの顔は、顔立ちははっきりしていて、外国人っぽいと言えばそういう顔なんだけれども、整った日本人の顔という感じでもある。明らかに日本人と違うのは、色。薄い茶髪で、色素の薄い眼をしているというところだ。
「日本語しか喋れないし、外国人って言われても、そういう実感は全然ないんだけど」
「でも、気になるってこと?」
「世界史を知ったからといって、自分のルーツが分かるわけはないと思うけど。どっちかっていうと、日本史に興味がないんだよ。教科書の歴史は、内地用の歴史だから」
レオンは吐き捨てるように言ったが、椥紗には彼が攻撃的な素振りを見せたことに驚いたし、少しの嫌悪を抱いた。
「ごめん、怖がらせた? 椥紗を嫌な気持ちにさせたくはないんだけどさ」
「いいよ。嫌だなとは思ったけど、『何で、学校の勉強にそこまでの気持ちを向けられるのか』って思ったよ」
「本当は逆じゃない? 『何で、自分の感情を入れ込めないことをわざわざ学ばなければいけないの?』って思わない?」
それは、学校の先生といった教育者に対して向けられた言葉であると同時に、受験勉強とかでただひたすら座学に力を入れてきた人間に対する攻撃的な言葉でもあった。
「じゃあ、世界史はレオンの気持ちを満足させてくれるものだったの?」
椥紗がそう尋ねると、レオンは明るい調子で話し始めた。
「もうざっとやったよね。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四つの話。そこでさ、象形文字とか、楔形文字とか、文字が発明されたっていう話を聞いてさ、変だなって思ったんだ」
「変?」
「何で俺たちは遠い場所の昔のことを文明といって讃えているんだろうって」
「でも、凄いよね。下水道とか、鉄とか。ピラミッドみたいに大きな建設物作ったとか」
「凄いか凄くないかで言えば、凄いんだろうけど。正直、下水道も鉄もピラミッドみたいに大きな建築物も今の世界にはたくさんあって、そんなのを凄いよなんて言われても、ねぇ」
「昔の技術がない時代にそれだけのことが出来たのは凄いんじゃないかな」
「そんなに昔って今よりも劣っているものなんだろうかな。こういうのを凄いって思うのはどうなんだろうかなって」
「そう思ってる割には、結構頭に入ってるの凄いね」
「椥紗、君は何でも凄い、凄いなんだね」
「ああ、そういえばそうかも。でも凄いんだもん」
「不登校だったから、今の社会に対して色んな意見を持っているのかなと思っていたけど、ちょっと期待外れ、だったかな」
何を期待していたのかは分からないけれども、馬鹿にされたことは分かって、椥紗は苛立ちを隠さずに言った。
「ごめんなさいね。そういう態度はどうかと思うけど」
「こちらこそ、ごめんね。丁寧な態度で君を嗜められなくて」
「謝るよりも馬鹿にしてるでしょ」
「よくわかってるじゃん」
椥紗は、この時レオンを嫌なやつだと思った。でも、やっぱり彼の顔も容姿もカッコいいと思うし、避けたいとはつゆも思わなかった。
「意地悪だなって思うよ」
椥紗が文句を言うと、レオンは笑って言った。
「意地悪なのが俺の本性だよ。装っている僕はあまり好きじゃないんだろ」
前に椥紗と島田蒼佑が「僕という一人称で自分を語る謙人というあり方を非難したこと」があった。レオンはミドルネームとして真ん中に書く時もあるし、日本の通常の名前ではないものだから、表記を省略したり、カッコをつけて書いたり、後ろにひょろっと書くこともある。レオンは、本当の親がつけてくれた名前で、謙人は育ててくれた親がつけてくれた名前で、どちらも大事なものではあるけれども、便宜上、レオンという名前の部分を適宜合うように使っていたのだが、そういう使い方をすることで、レオン自身、本当の親から与えられた自分というものをおろそかにしていたような気がした。
謙人という名前が嫌いなわけじゃない。本当の親の代わりに育ててくれた人がくれた名前だ。だからその名前には、与えてくれた人の期待に応えなければならないという制約がかかってしまうような感じがする。親が誇りに思うような自分になろうとして、なりたい自分の首を絞めているような感じがするように思う時もある。謙人は僕、レオンは俺、人格が異なっているわけではないけれども、一人称を使い分けて、自分を類型化すると自分自身がより分かりやすくなるような感じもする。
「何の話してたっけ?」
「あ、四大文明の話。私が凄い凄いって言ったら、馬鹿にした」
「そうだった。頭使えって言いたかったんだ。歴史の授業さ。全然心に響かないんだよね。俺はもっと遠くから見てるというか、俯瞰してるんだ。何でこれを凄いって思うんだろうって」
「凄いじゃん」
「じゃあ、文明のないところはどうなの?」
「文明のないところは、うーん。まぁ、この場合考えないよね」
「凄くない場所って考えてない? それがさ、優れた文化、劣った文化というランク付けのもとになってるんじゃないかって、思うんだ」
「そんなこと思ってないよ。あんまり考えてなくて、凄いなぁ。面白いなぁ。じゃあ覚えよう。テストのために。みたいな感じ。面白いなぁの部分は結構大事にしてるけど……」
「真面目だし、優秀だなぁ、椥紗は」
「そんなことないよ。双葉はさ、私なんかより記憶力がよくて、すぐに覚えちゃう。授業で一回聞いただけで覚えちゃうんじゃないかな。私はそれは無理だから、」
「双葉は双葉。椥紗は椥紗。まぁ、双葉は記憶力も良さそうだよね。覚えていることと理解していることは別だと思うけど。もしも、歴史に授業をさ、ただ覚えないといけないみたいに思ってるんだったら、何も考えてないじゃんって思う。受験勉強は知識量だけど、本当に役に立つっていう知識を得ようと思うなら、学校で学んだことを、現実にまで落とし込んで、自分の感覚を養うっていうことが大事じゃないのかな、って」
「じゃあ、例えばどういうことを言うの?」
「俺は、文明の授業を受けてこう思ったんだよね。文字がない文化に対する眼差しはどうなのかって。ここに昔から住んでいたアイヌには文字がない。だから、歴史として、目に見える形で残っていないだけで、実際にここに生きていた人はいるんだ。そう思うと歴史って何だろうって思わない? その時の出来事が残っていることを歴史っていうの? 遺跡があるから歴史? じゃあどうすればこの場所で起こったことの歴史は残るんだろう? ……そんなことを考えてる」
「じゃあ、何でレオンはそんなことを考えるの?」
最初はマウントをとってくるみたいな感じだったレオンに対して、苛立ちを覚えていたけれども、彼が真剣に会話をする姿にいつの間にか惹き込まれていた。揚げ足とかそういうのを取るための発言ではなくて、純粋に疑問に思ったことを口にしただけだった。
「この場所が僕、謙人にとって大事な場所だから。他の人よりもこの場所を大事に思ってるんだ。これは、多分、執着だよ」
違うだろうなと椥紗は思った。大事という言葉で片付けられないようなもの、どうすることも出来ない不足が、謙人の執着を駆り立てている。足りなければ足りないほど、そう認識することで、想いは募る。
「それ、プライドじゃない? 謙人としてのプライド。なんか、カッコいい。私は、自分の街をそんな風に思えなかったから。いいな、って。そうだよね。この場所の価値って大事だよね。生きてる場所を好きって思えるの、大事だよね」
椥紗は思ったことを素直に話す。レオンはその純粋さを良いと思ったけれども、それを口にすることはできなかった。微笑んでいる彼女は、可愛い。
「レオンってすごいな。また、色々教えてね」
「別に、大したことじゃないよ。ちょっと思ったことを話しただけ。あ、話変わるけどさ。もしも、射撃に興味あるんだったら、部長やりなよ?」
「は? 何でそのこと知ってんの」
「聖から、メッセージ来てた。射撃部作りたいから、俺からも頼んでくれって」
「っていうか、何で聖さんとレオンが繋がってるの?」
「さん付けなんだ。聖のこと」
「だって、まだそんなに仲良くないんだもん」
「聖はさっぱりした性格だから、呼び捨てにした方が喜ぶと思うよ。あと、陽一郎さんは、信頼できるって思う人にしか心を許さないと思うな。用心深いんだよ。だから、不用意に政治家にならなかった」
「何でさっき二人と話してたことが全部レオンに筒抜けなんだよ」
椥紗がむっとした顔になると、レオンは意地悪そうに笑った。
「これが、田舎の情報網だよ」
レオンはそう言い残して、その場を去っていった。部長になること、それは今椥紗にしかできないことだ。そう言われた気がした。そして、それは矜持として椥紗に力を与えてくれるような気がした。