水の物語 プロローグ
北の大地の片田舎に雁湖学院という新しくできた高校があった。新設校なので、高校一年生しかいない。その学生寮は学校の校舎から10分ほど離れたところにあった。周りにあるのは、学校と雁湖学院の母体となっている自然派ブランドギュフの関連施設。田舎なので、学校と会社以外のものは森への散策路とかそういうのしかない。敷地から出ている路線バスで、町内の中心部、ショッピングモールのある北大屋町瑞穂地区まで十数分でいけるし、札幌中心部まで3時間もかからずに行けるから、決して不便な場所というわけではなかった。
学生寮のほとんどは、個室にトイレとシャワールームの付い部屋と数人の学生でキッチンダイニングをシェアするというもので、篠塚椥紗もその形の部屋に住んでいた。111-A号室が彼女の部屋で、111がキッチンダイニングのある区画を示し、Aが個室を示している。111には、A、B、C、D、E、F、G、Hの8つの個室があるのだけれども、現在使われているのは、3部屋だけで、椥紗の他には片桐双葉と岩下珊瑚が住んでいた。
そのうちの1つに、新しい入居者が入るという話を椥紗は、同じ寮の212-A号室に住む島田蒼佑から聞いた。蒼佑は料理が得意な1つ年上の生徒で、札幌の高校にいったんは入学したものの中退したらしい。そして、地元の蒼佑の妹みたいな存在の生徒が、居ることを椥紗は聞いていた。その妹のような存在の生徒が海外から帰ってきて、5月の連休中に入寮するというのだ。蒼佑は北海道の離島、神威島の漁師の息子で、面倒見がよくて、よく部屋に人を招いている社交的な生徒だが、妹みたいな生徒のことを時々話す。だから、蒼佑とその子の関係は、ただならないものがあると椥紗は思っていた。椥紗の感覚は、都会で培われたものだ。神威島は小さな島だから、それぞれの住人の関係が都会とは違ってもっと密なのかもしれない。椥紗は内地と呼ばれる本州の、しかも札幌よりも大きい街からやってきたから、狭い島社会の様相が分からない。だから、蒼佑とその生徒との関係性を恋愛だとか、そういう特別な感情のあるものだと認識していた。蒼佑の妹のような存在である少女の名前は、葛西桜桃、神威島の診療所の医師の一人娘だった。
父親の外国での研修に家族でついていく。そのために、桜桃は、4月の授業をオンラインで受講していた。桜桃は両親共に大学院を修了しているような家に生まれたから、高校に行くことは、絶対だったし、大学に行くことも既定路線だった。勿論、神威島には大学はない。それどころか高校もない。大学に行くことを想定すれば、都会の学校、札幌の学校ということになるだろうが、桜桃は都会で一人暮らしをすることを嫌だと考えていた。
進学先を探していたが、なかなか良いところが見つからなかった。日本全体の人口減少の中で、北海道の田舎はそのあおりを食らっていて、閉校した高校はたくさんあり、今まさに閉校やむなしというような高校もあった。1990年代にバブル経済が弾けてからというものの、日本の教育文化には公的予算がなかなかつかず、ないがしろにされてきたという部分もあるし、田舎の高齢化が進み、若者や子どもが都会へと出てきてしまったというのもある。それから数十年たって、IターンやUターンといった若者、子育て世代の移住などが進んでいる地域もあるが、概して過疎化が進む中で、それぞれの田舎における教育がほぼ失われてしまったという状況にある。
札幌の高校に行くことを避けるために、桜桃はインターネットを駆使しての学校探しを行った。親元を離れることへの不安はそんなになかったが、人が多いところというのが苦手で、その上幼馴染の蒼佑が中退したというのも嫌悪感を高める要因となった。そんな時に、北大屋町という北海道の片田舎にある雁湖学院という新設校を見つけた。ギュフという自然派ブランドが母体となっている学校で、殆どの生徒が寮生活、そして、アルバイトをしながら就学することも可能というどんな家庭環境にある生徒でも学んでいくことができるというコンセプトの学校だった。
ギュフは有名なブランドだったし、オンラインショッピングもやっているから、田舎に住んでいる桜桃だってそこの服を持っている。自然派を謳っているのだから、自然の多いところに拠点を構えるのは当たり前のことだとは思うけど、日本の企業は流通の関係からか、大体の企業が東京に拠点を構えている。今ある社会の当たり前なのか、理念上の当たり前なのか。大企業であるにもかかわらず、その間で、揺れたり、もがきながらやっているところに桜桃は、好感を覚えていた。
このギュフが開校させる雁湖学院は、男子普通科、女子普通科、技術科、芸術科、通信科の5つに分かれている。進学を希望するから、自分は女子普通科だと桜桃は思って、どの学科にするのかはあまり迷わなかった。島で仲良くしている1つ年上の島田蒼佑も、同じように学科を決めた。蒼佑は、今度こそは卒業したいと考えていたのもあったから、学校のことについて詳しく調べていたので頼りになった。
雁湖学院では、それぞれの事情に合わせて授業を受講することができた。その事情と学校の提供する教育機会とのすり合わせには、メンターがいて、そのメンターと相談することができるし、家族の事情というもので勉強が出来ないということにならないような配慮がある。
「部屋の家具とかは、蒼佑が準備してくれたって言ってるからね。蒼佑がやってくれるなら、大丈夫かな」
「蒼佑君は、桜桃に甘いんだな」
「そうなんだよね。頼りになるお兄ちゃんなんだ」
帰国後、桜桃は家に戻らずに、直接雁湖学院の寮に入寮するつもりだった。家から送る荷物については、神威島の近所の人たちに送ってもらうように頼んできたし、何も心配はない。初めて親元から離れて暮らすことになる桜桃は、その不安を払拭するために、自分に言い聞かせた。
「大丈夫、大丈夫。待っているのは楽しい毎日だよ」
合格通知として送られてきた招待状のようなハガキをファイルから取り出して確認した後、また丁寧にファイルの中に戻した。イギリスと日本との間の時差は、現在8時間。経度0度のグリニッジから、日本までは135度あって通常ならば9時間なのだが、3月の最終日曜日の午前1時からサマータイムが始まっている。午前中の授業を受けるとなると、夜中になってしまうので難しいが、お昼の授業なら早朝に起きてリアルタイムで受けることもできる。桜桃のメンターの西崎清良は、頻繁に連絡を取ってくれるし、蒼佑もいる。折角イギリスに居るのだからと、外国人向けの英会話学校に週に数回通って、日本の高校の勉強もやって……。忙しいけれども、充実した毎日だった。
雁湖学院の学生寮、111号室に住んでいる篠塚椥紗は、同じ部屋の岩下珊瑚と一緒にビームライフル射撃を体験しに行くことになっていた。百舌陽一郎の車で、その従妹の百舌聖の4人で北大屋町立体育館で練習をするというものである。
「私は、いいや」
誘われたものの、射撃に対して興味のなかった片桐双葉は、断って別の予定を入れることにした。今、111号室に住んでいるのは椥紗と珊瑚と双葉の3人なので、2人が出掛けるとなると、双葉は一人きりの自由な時間を使うことが出来る。
この時間を使って、双葉は、河竹律に会う約束を取り付けた。双葉には、不思議な力があって、風の力を使うことができた。その風の力の使い方は、自然と身についていたもので、誰かに教えてもらったとかいうものではなかった。律はその力のことを知っていて、詳しく教えてもらいたいと思っていた。椥紗や珊瑚も風の力のことは知っているが、双葉のように使えるわけではないし、彼女たちが関わるとややこしくなるから、誰もいない方が話がしやすいと思ったのだ。
双葉が律に対して聞きたいことは色々あったが、頭の中で整理できていなかった。とりあえず、学校の敷地内から続く森の中の遊歩道を散歩して、話をしたいという誘いのメッセージを送ると、すぐに律から快諾の返事が来た。
律の容姿は30代前半くらいで、ここに来る前はホストだった。今は雁湖学院の通信科の一年生として生活している。年齢は本人曰く、1300歳をちょっと超えたところで、この間まで長髪だったのに、尊敬する人物、天皇陛下のヘアスタイルにしたいということでわざわざ札幌までいってツーブロックにして帰ってきた。歓楽街で働いていたということで、顔もチャラくなってしまったんだろう。すっきりとした髪型になったが高貴さは全くなく、むしろ胡散臭さを感じさせるようになってしまった。そんなことを言ったら、傷つくだろうと思って、双葉は黙っていた。
「別に隠すことでもあらへんから、言うとくけど、ワシは狐で、ぷうちゃんは狸やで」
ぷうちゃんというのは、鳥居風太のことで、蒼佑や律と同じ212号室に住んでいる。
「化け狐と化け狸か」
「ただの狐とちゃうで。凄い昔は伏見におった。なのに、いつの間にか人間として、すすきのにおって、姐さんに紹介されて働いとった。顔がそれなりの若い奴なら、店では必要とされるし、おもろいからな」
「何でわざわざ北海道まで」
「昔は関西からこっち迄、船があったんや。まぁうまそうなものが食べれそうやなってことで、乗ったら、帰られんようになってしもて……」
その船は、江戸時代の中・後期辺りから、北前船のことをいっているのだろう。北海道と天下の台所と言われた大阪を結ぶ船で、大阪から瀬戸内海を通って本州の端、山口県で日本海側に進み、そのまま北上して蝦夷地と呼ばれた北海道まで進む船だ。様々な港を経由して、交易を行い稼いでいた。今のように通信手段がなかったから、物価が港によって違っていて、その差額を利用して儲けを得るという仕組みだ。
使われていた船は、現代のように丈夫な船ではないから、航海中に難破し命を落とすことの覚悟も強いられるようなものであったが、それでも得られる報酬は魅力的だった。この北前船のおかげで北海道の昆布といった海産物が関西まで運ばれ、日本の食文化の発展を促したとも言えるだろう。食べ物に眼がない律の性格を鑑みると、北前船に乗ってしまったのは、無理もない。
「食い意地が張ってるのは昔からなんだ。聞いたよ。蒼佑が作っても作ってもいなりずし全部食べるって」
「まぁ、お恥ずかしながら……。でも、しゃあないやん。蒼ちゃんのお稲荷さん美味しいねん。弁解しとくと、ちゃんと材料は自分で買って来とるからね」
「蒼佑、自分のバイト代で生活やりくりしてるから、ちゃんと自分で食べる分は払いなよ。アイツは別に良いって言うだろうけど」
「大丈夫。人間経験も長いし、義理や人情でやっとる世界で揉まれてきたさかい、お金のことはきっちりしてるで。それに、こう見えても、元々は商売繁盛、五穀豊穣の神んとこおったから、そういうので困ったりはさせへん」
律は自信満々に話すが、双葉は疑いの眼差しを向けた。
「そうだといいけど。狐ってお稲荷さんは神様で祀られているけど、そうでもないでしょ。狐憑きとか、女狐とか悪いイメージの方が多いし。最近は九尾の狐がアニメとかに悪い奴として出てくる」
「まぁ、狐はたくさんおるからな。実際の狐は、農作物を荒すこともあるから、悪いイメージがついているのもしゃあない。ただなぁ、遊郭の女に女狐が居るって言われるけど、だまされる男も男やと思うで。色んな女買うて、酷いことしとる奴も居るし、ワシは、狐の肩を持つけどな」
「遊郭、今の歓楽街、夜の街に当たるものだね。居酒屋があって、酔っ払いがいて、奇麗なお姉さんが客引きしてて、いかがわしいお店がたくさんあって、歓楽街って良いイメージないけど」
「心外やなぁ。それこそ人間の浪漫でしょ」
双葉が閉口すると、律はニタっと厭らしい笑みを浮かべて言った。
「ま、おこちゃまな双葉ちゃんにはまだ早いかなぁ」
双葉はその仕草にイラッとして、不快感を露わにしながら言った。
「こういうのをセクハラって言うって聞いたけどね。それと年長者が年下に向けやるパワハラって言ったらいいのかな」
「確かに、そう捉えられる発言になるところは、認めざるをえなんなぁ。まぁ、かんにんや」
適当に受け流そうとする律に対して、双葉は更に追い打ちをかけた。
「ああ、そういえば、風太が『りっちゃんは女装してもいいのに髪を切るなんて信じられない』って言ってたけど、それ、りっちゃんが、女の格好して店に出てるってことでしょ?」
「アイツそんなこと話してるんかいな……ホンマ余計な話ばっかりしよってからに……」
愚痴をこぼす律にはお構いなしに、双葉は続けて言葉を浴びせる。
「女性として、接客して客からお金を巻き上げてるってことでしょ。要するに、りっちゃんも、だます女狐みたいなこと、してるんでしょ?」
「まぁ、否定はせんけど。ぷうちゃん、余計なこと言うてんねんな。接客やからね。客もだまされに来てるし。嘘だから、虚構だから楽しんでるんでしょ。現実から離れられる。ええ言葉で言えば夢や。その夢見る手伝いをしてあげてるだけや。そういう場所や思て、来てほしいよね。キャバクラやスナックのお姉ちゃんと恋人なったり結婚したりして、夢を現実にしてしまう人も居はるけど、アレはアレや。ワシは、割り切った商売しとる。ブランドやらなんやら、プレゼントしてくれはった人も居るけど、欲しいと言うたこともあるけどやな。……だまされるのが悪いねん」
弁解しているうちにどんどん墓穴を掘っていくことに気が付いた律は、開き直って言った。
「そもそもワシ、ええ人ちゃうからね。ここ来てから大分毒気抜かれてるけど、……もぅ、全部なっちゃんのせいや」
確かに、篠塚椥紗は、不思議な生徒だった。彼女はなぜか楽しそうにしているし、その彼女の傍にいると敵意や攻撃的な感情が和らいでしまうことがよくある。双葉っは、律の悪事を追及してもどうなるわけでもないと思って、律の話題の転換に乗った。
「確かに、それは……同意する」
「双葉ちゃんって、ここに来る前から、なっちゃんのこと知っとるんでしょ? どういう子やったん? 元々あんなに無邪気に笑うん? あれ、可愛い思うけど、むっちゃ怖いんやけど」
そう言われて、双葉は、椥紗が中学生のころを思い出した。椥紗は、中学校三年生の頃になった頃は不登校で、学校に来ることさえ出来ていなかったから、無邪気に笑うとかそういうのもあまりなかった。双葉は、中学校三年生の時には懇意にしていて、椥紗の家まで会いに行っていたりしていたから、楽しそうにしている様子も観ているけれども、家の中で楽しそうなのと、外で誰かと一緒に楽しそうにしているというのでは、随分と雰囲気が違う。
中学校三年生のころは、仲良くしていたけれども、中学校に入学した当初からそうだったわけではない。中学校に入った頃から気になる同級生ではあったけれども、友達というわけではなかった。確か二年生になって間もない頃から、グループから仲間外れだったり、悪口や陰口を叩かれるようになっていたというのを耳にしていて、同じ学年の間でいじめがあるということに対して、良い気はしていなかったし、それが元々気になっていた同級生だったから、風の力を借りて椥紗がどのような感じで過ごしているのかは探っていた。そもそも、風というのは気まぐれで、献身的に助けてくれたり、仲良くなったり、見えることで様々な経験は出来るのだけれども、いつも傍にいるとは限らない。だから、今までに色々な風との出会いと別れというのを経験してきた。椥紗のことを探るのに力になってくれたのは、颯で、この風は双葉の風として働いてくれるし、他の風を操ることを助けてくれたりする。
「椥のことを、ちゃんと知ったのは、一年前くらいからかな」
「なんや、結構最近やな。ま、中学生の一年っていうのは、ワシのような年寄りの一年とは全然ちゃうか。結構長い間なんかな」
「中学校三年生になってからは、どうしたら学校に来てくれるんだろうとか、学校に来てくれた時のためにどういうことをしてあげたらいいんだろうとか、そういうこと考えてた」
「優しいやん」
「だって、誰かが困っていたら、助けるのって、人間として大事なことでしょ?」
「それな。それよ、難しいの。誰かが困ってたら、助けるもんなん? 助ける義理とかがあったら助けるけど、何の見返りもないのに助けたりってできるもんなん?」
「それは、そうじゃない? そういうものとして教えられてるから」
「ホンマに誰でも? 例えばさ、なっちゃんのことをいじめとった人とかが、助けを求めていたら助けるん?」
「……うーん。でも、同級生だし。状況に寄るけど、助けると思う」
「結構お人よしやな。じゃあ、助けるためにどこまでのことをしてあげられる?」
「どこまで?」
「重い荷物持ってて、助けてくらいやったら、双葉ちゃんやったら助けると思うねん。じゃあ、助けるためにどこまでの犠牲を払える? あ~、でも君やったら結構払ってしまうから。講堂に来とった数百人のお客さん守るために、自分への影響考えずに颯さんをぶっぱなせるような人やからな……」
双葉は、講演会が開かれていた講堂の客席に向かって、大きな風の力が放たれそうになった時に、颯という風を使ってその風を撃ち返したということがあった。そんな大きなことを力を使ったことは、双葉にとっては初めてのことで、けが人は出なかったが、相殺された風の力は講堂の天井を貫いていた。講演会に来ていたのは、殆どが双葉の知らない北大屋町の住民で、助ける義理なんてないのだ。どうして咄嗟に彼らを助けようと思ったのかと考えてもよく分からない。咄嗟で頭で考えて、判断する余裕などなかった。隣で考え込んでいる双葉が何を考えているのか、そんなことはお構いなしに律はぶつぶつと話し続けていたが、それを遮るように双葉は言った。
「もしも、誰かが困っていて助けるかどうかって言われたら、多分助けたいと思う。でも、誰かを助けるためにどこまでのことが出来るかって、実際にその場面にならないと分からない、と思う」
「教科書通りの答えみたいでつまらんなぁ」
真剣に答えをぶつけたのに、律はいい加減な嫌味のような言葉を言った。
「……残念ながら勉強しか出来ないコなので」
それ対して、双葉は、開き直った応え方をした。
「本ばっか読んどったら、頭堅くなるで」
「学生の本分は勉強なので」
「そぉかぁ、ワシも見習わなあかんなぁ。学生やし」
律が謙虚な意見を返してきたのは意外で、双葉は律の顔を見た。
「じゃあ、君も勉強してくれへん?」
「勉強?」
「颯の力借りんと、色んなことできるようになってくれへんかな」
「颯の力を借りないって?」
「双葉ちゃんがどれくらい自分の力を把握してるんかは知らんけど、今、一番使えると思ってる颯、君のモンではないでしょ? そういう君が力を使えるようになるための『先生』みたいな風から一回離れてみてくれへん?」
律は魔法のような風の力のことを知っている。そして、律の正体である狐は古くから霊力を持った存在である。双葉からすれば、思ってもみないようなお誘いではあったが、それが逆に怖かった。
「……考えさせて」
「何や、つれないんやな。ワシを誘ったの、双葉ちゃんなのに」
確かにそうなんだ。それでも、頭で理解できないことに突っ込んでいくことが怖い。
「急におびえるような顔になったけど、どうしたん?」
前に進む歩みが遅くなった双葉を振り返って、律は柔らかい表情で言った。それは信じてもいい顔なのだろうか。律は、双葉より強い力を持っているし、それで双葉のことを牽制してきたこともある。ただ、彼は今までに一番被害が少ない方法を取ってくるようにしてきた。律は悪い人じゃない。律のことは、信じても良いことだと、自分に言い聞かせて双葉は自分の恐怖を止めようとした。見かねた律は、双葉の頭をポンと叩いた。それが恐怖を和らげてくれた。それは、彼の魔法だったのかもしれない。
「じゃあこうしよう。鞍馬天狗って知っとる? ワシな、ずっと憧れててんけど」
「鞍馬天狗って能の? それとも何か昔のドラマの?」
「んっと、伝統芸能の方な。ワシは、テレビは殆ど見ん。天狗が源義経に色々教える話しな。なんていうの、かっこええやん。自分の弟子が、平家との戦いで大活躍していくん。その勢いの勇ましさのルーツとしてやな、鞍馬での修行があげられるんよ。義経の活躍は、神がかっとって、だからこそ、彼は天狗っていう想像上の存在と関わったみたいな話になるんやけど……」
「知ってるよ。だから何?」
「そういう何か師匠的なもんになりたいなって思ってん。そのワシの自己満につきおうてくれへん? 君みたいな見込みのある弟子欲しい」
双葉が承諾するように律は話を展開させていく。胡散臭いのだけれども、嫌じゃなくて、芸人とかコメディアンのような感じで心に入り込んでくる。
「そうだね。悪くない、かも」
その答えに対して、律は何も言わずに微笑んだ。
10点という表示が出た時に、篠塚椥紗は大きな息を吐いて言った。
「やっと当たった……」
北大屋町の町立体育館には、ビームライフルがあって、そのライフルで射撃を練習することができた。ビームライフルは赤外線を的に当てて、体験をするというものだった。ビームライフルは五台あって、椥紗の隣で、百舌聖は、何度も的の中央を当てていた。
「よし」
当たるごとに、よし、とか、当たった、とか何らかの声を上げるので、椥紗はそれを聞きながら、鬱陶しいと感じていた。聖は、北大屋町の町長、百舌大二郎の一人娘で周りにちやほやされながら育ったようで、何かとマウントを取ってくるような感じを受けた。椥紗と寮の同じ部屋に住んでいる岩下珊瑚は、聖と同じ中学校だったので、よく慣れていて、聖のきつい言葉にひるむことなく言い返しながら、仲良くやっていた。
(別にこんなことがしたかったわけじゃないんだけどな)
そもそもライフルの体験をしたいと言い出したのは椥紗だったので、文句を言うことにためらいがあった。聖の従兄、百舌陽一郎が、ライフル射撃の競技者で、良く知っているということから、指導をしてくれている。とはいっても、彼は競技者としてやっているのがメインで、指導者ではない。競技を体験するだけなら、ビームライフルで十分だと考え、町立体育館に連れてきてもらったわけなのだが、思ったよりもつまらなくて、椥紗はがっかりしていた。
「普通ライフル射撃なんて出来ないのが当たり前。うちの町は凄いのよ。陽ちゃんが、オリンピックで入賞したから、体育館にたくさんビームライフルを導入したし、講習会も結構してるんだから」
聖が陽一郎のことを話すと、さも自分の功績であるように話しているようにきこえるので、椥紗のイライラというか、どうしていいのか分からない気持ちは募っていった。陽一郎は、それに気づいたのだろう。体験をしたいと言い出した時は、明るかったのに、椥紗が思ったよりも楽しそうにしていない。椥紗が飲み物を買いに体育館のロビーに向かった時に、陽一郎は少し後ろからついていき、話しかけた。
「何を飲みてぇんだ?」
自動販売機の前に居た椥紗はそれに驚いた。
「うんっと、いいよ。自分で買うから」
「黙っておごられとけ。子どもは遠慮なんてする必要ねぇぞ」
椥紗は微糖のミルクティー、陽一郎はブラックのコーヒーを買ってその脇にあったベンチに並んで座って飲み始めた。
「やっぱ、聖のこと、苦手か?」
「……どうだろ。まだ、わかんないから」
「ま、当然だよな。アイツ変だからな」
陽一郎ははっきりとした答えを濁していた椥紗の気遣いを一刀両断するような言葉を返してきた。
「あれは、どうしようもねぇ。聖がああいう風になったのは、北大屋町の周りの奴らが、小さいころから次の町長だからといって持ち上げてきたのがあるだろうからな」
「次の町長? 選挙で決めるんでしょ。今は世襲制じゃないのに、変だね」
「全くだよな。だけど、お前みたいな感覚を持った人間は、田舎には少ねぇんだよ」
一週間ほど前に、統一地方選挙があって、北大屋町の主張である町長も、町議会議員も改選となった。改選であるにもかかわらず、立候補者と当選者が同数で、選挙はあってないに等しいような状況だった。今回の北大屋町の選挙は、20年ぶりの町長選挙が行われ、現職の百舌大二郎と、町議会議員の織原睦美の一騎打ちの選挙となった。両者が政策などを主張し、激しい選挙戦を行ったが、予想通り、現職が当選することとなった。
「ずっとうちの家が、爺さんが、そのうえの曽爺さんが町長やってというのが当たり前で、その流れで、叔父さんが町長やってるみたいなもんなんだけど、睦美さんが町長に立候補するって話になった時、正直ほっとした」
「ほっとした。どうして?」
「政治家の家っていう概念を崩してくれる。背負っていたものをはがしてもらった。そんな気がした。俺は、聖に政治家になってほしいと思っていないし、そういう期待をかけるべきじゃないと思っている。だけど、アイツはそういうのを背負っている。自分で勝手に大学への進学実績が高い宮森学園に進路を変更したのも、必要のねぇ責任感のせいだ」
百舌聖は、北大屋町の新設校、雁湖学院に進学する予定だったが、入学直前になって札幌にある宮森学園という進学実績の高い私立の高校に進学することに変更した。宮森学園に行くほうが確実に大学に進学できる。そういう展望が見えたからだ。ただ、聖の行動で、岩下珊瑚は発狂したし、ちょっとした騒ぎにもなった。聖には、トラブルメーカーなところがある。
「そんな奇麗なものじゃないでしょ。町長の娘、未来の町長なんて自分を良く見せるためのブランドでもあるからさ。そういう自分を良く見せようとする虚栄心でもあるんじゃないかな」
「……お前、結構見てるというか、ズバズバ言うんだな」
「中学校に、そういう人がたくさんいたから」
椥紗が都会の中高一貫の女子校で不登校になった背景には、周囲との人間関係がある。うまくいっていれば、あまり意識して考えることのない他の人との関わりだが、椥紗は不登校を通じて、考えなければならない状況になった。なぜグループのリーダー格の同級生は椥紗を目の敵にしたのか、周りの取り巻きのような生徒たちはなぜリーダーに従うような態度を取るのか。椥紗自身にとってどうでもいい話だが、椥紗が中学校で快適に学ぶことの出来る環境を整えるためには、分析しておくべきことだった。
難関大学に進学する卒業生の多い学校だったし、名門のお嬢様学校という側面も持っていたから、そこに通っていた生徒たちもそれぞれプライドを持っていたのだろう。そのプライドを守るため、示すために他人を不快にするような態度を取っている。態度の一つ一つを変えさせたところで、何が変わるというわけではない。目上の注意する人間のいないところで、いじめは続くに決まっている。女性の方が隠れてやる分、男性よりも粘着質でたちが悪いかもしれない。
黙って分析をして、深刻な表情になっている椥紗の肩をポンと叩いて、陽一郎は言った。
「ま、聖のアレは直さねぇといけねぇ性格だから」
余計な力が抜けるような言葉で、椥紗はホッとした。
「あ、いたいた、陽ちゃん」
すると、聖が珊瑚を連れ、文句を言いながら、こちらに向かってきた。
「ちょっとさ、なんでどっかいっちゃうのよ。指導者でしょ」
「あぁ⁉ 今回はただの体験だろうが」
「私、大分当たってたんだけど、ちゃんと見といてよ」
「机に肘ついて殆ど揺れない状態で撃ってりゃ、全部10点当たって当然なの」
「そんなことないわよ、隣の篠塚さんは、一回十点取るのに二十回以上撃ってたわよ」
「お前、人のこと見てる余裕あったのかよ。全然集中出来てねぇじゃねぇか。集中力ねぇのがもう致命的だわ。センスねぇ」
マウント取ってくるのは面倒くさいけど、そういう態度を陽一郎が嗜めてくれるから悪い気はしない。
「だったら、マジでやろうじゃないの」
「マジでって、何をするのよ」
「だから、本当にオリンピックの競技になってるやつをやらせてよ。こんなおもちゃみたいなビームじゃなくて、エアとか、火薬つかう奴とか。陽ちゃんはそれでずっとやってたんでしょ。許可いるから無理じゃなくて、ちゃんと教えてよ。だったら本気でやれると思うわ」
強気の発言に陽一郎はひるみ、少しどもりながら答えた。
「まぁ……、車があるなら火薬撃つところも見せてやれるけど、全員連れていくとなると、めんどくせぇな。そもそも、火薬は高校生が出来る競技じゃねぇからな。ビームを台撃ちじゃなくて、装備付けてやるか……」
「い、や。こんなおもちゃみたいなのはいや。ちゃんとしたものがやりたいの」
「分かりました。手配させてもらいます」
聖が強いから、陽一郎は動かざるをえなくなる。これが彼女の良いところでもある。強いから、相手が要求をのまざるを得ないのだ。聖と陽一郎のやり取りを見ているのは、椥紗だけではなくて、珊瑚もだった。そういえば、珊瑚の偉そうな口調で話す。よく聞いているとその話し方は、聖に似ているかもしれない。そんなことを考えていて、珊瑚を見た時、椥紗がプッと笑ってしまった。そして、珊瑚は怪訝そうな顔をした。