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キャッチボール

作者: 階堂徹

 日が暮れはじめ空が赤く染まりだしている。練習を終え、ユニホーム姿のままで、家の路地を抜けた通りのブロック塀に軟球を投げ、一人でキャッチボールをする。あらかじめ自分で決めたブロックの三段目をストライクゾーンと決め、投げ込む。ドスっとブロック塀に弾かれたボールを拾い上げようとしたとき吉岡のおっちゃんの声がした。

「おっ、やってるな……」

 僕は振り返ると微笑むおっちゃんに頭を下げる。

「ミットもっておいで」

 僕は頷き路地を駆け、家の玄関からキャッチャーミットを持ってきておっちゃんに手渡した。それはとうちゃんが使っていたものだ。おっちゃんはブロック塀の前にしゃがみ、右手の拳でキャッチャーミットを叩く。おっちゃんの右頭上まで沈んできた夕日はすぐにでもブロック塀で見えなくなりそうだ。

「よっしゃー、投げといで!」

 僕はグラブの中でボールを握り締めた。ボールの縫い目に指を引っ掛け、大きくモーションをとる。キャッチャーミットから眼を逸らさずに腕を(しな)らせた。おっちゃんの構えているキャッチャーミットは、ほんの少し右に移動しボールを捕球した。ボールが曲がったことに僕は得意げになって、グラブで鼻の下を擦った。

「小便カーブやな」

 おっちゃんはミットの中でボールを転がしながら言い、返球してきた。僕はおっちゃんの言葉にむきになりさらに強くボールを握りしめる。しかし、おぼえたての変化球は本当にわずかしか曲がらない。何球、投げたか分からない。気がつくと街灯が点り始めていた。おっちゃんは立ち上がり、僕のそばまで来るとキャッチャーミットで僕のイガグリ頭を撫でた。

「五年で変化球投げれるだけでたいしたもんや。そやけどな、今から変化球投げとったら肘壊すぞ。今の間はストレートでちゃんと投げれることだけ練習しとったらええんやで。それによし坊ピッチャーやのうてショートやないんか。ショートは変化球投げんでもええやろ。そやから、おっちゃんよし坊に変化球教えたんやで」

 背後に気配を感じ振り向くと、かあちゃんが立っていた。おっちゃんは僕に話しかけながら、僕の背後に立つかあちゃんを見ていた。

「いつも遊んでもろうてすいません……」

 かあちゃんの声は何処となくよそよそしい。

「頑張れよ……」

 おっちゃんは誰に言うともなく、呟いてキャッチャーミットを外すと僕の胸に押し付け背中を向けた。

「また教えてな!」

おっちゃんは振り向かないまま上げた右手を振り立ち去る。

とうちゃんのいない僕は、時々キャッチボールの相手をしてくれ、変化球まで教えてくれるおっちゃんが好きだった。


 かあちゃんはコロッケを小皿に盛り付ける。一つはコロッケ二つとハムカツが一つ、もう一つの小皿にはコロッケが一つきり、かあちゃんはコロッケとハムカツがのった小皿を僕の前に差し出す。

「かあちゃん、コロッケ一つしか食べへんのん」

「かあちゃん一つで十分やし、よし坊一杯食べや。仰山食べんと大きなれへんし。それより、野球もええけど、ちょっとは勉強もせんとあかんで……」

 仰山食べんと大きならへんしと言うのはかあちゃんの口癖だ。僕は大きくもなければ小さくもない、クラスでは真ん中よりも少し前だ。かあちゃんは、リトルリーグでエースでもなく四番でもない、かろうじてベンチに入ることの出来る僕にプロ野球選手になることなど期待していない。

「吉岡のおっちゃん、一生懸命練習したらプロ野球選手なれる言うてたし……」

「そんなもんなれる訳ないやろ、山ちゃんみたいに身体でも大きかったら、かあちゃんもちょっとは期待するけど、よし坊がプロ野球選手になれるとは思えへんわ」

 僕はかあちゃんに野球で期待されていないことで、野球をするのは小学生の間だけと約束させられていた。かあちゃんの内職仕事で生活する僕の家庭にそう余裕はない。十歳の僕にもそのことははっきりと認識できていた。だから地区大会の選手に選ばれて夏休みに費用の掛かる強化キャンプがあることを言い出せないでいた。もちろんその強化キャンプには補欠の選手も参加して最終レギュラーを決めるのだ。かろうじてベンチ入りの許されている僕にとって、強化キャンプへの不参加はポジションを明け渡すことを意味する。それこそ熱心な親がいて寄付やら活動をして、中には色仕掛けで監督に取り入り自分の子どもをレギュラーにしようとするのだから、ベンチ入りぎりぎりで行ったり来たりの僕はとにかく実績を残さないとどうにもならない。それには強化キャンプの紅白戦でアピールすることが手っ取り早いのだ。

 ちゃぶ台の上に置かれたてんこ盛りの、ご飯茶碗に手を伸ばすが箸がすすまない。

「……」

「よし坊、早よ食べんと……」

 僕は上目使いにかあちゃんを見た。

「とうちゃん、野球上手かったんやろ?」

「そやな、キャッチャーで四番やったからな、よし坊とキャッチボールするの楽しみにしてたのにな……、仕事でもないのにあんなに一生懸命にして、それでもとうちゃん、野球してるときダントツに楽しそう……」

 とうちゃんのことを口にするときのかあちゃんの眼は、トロンとしていて遠くを見ているようだ。

 仏壇の前の写真のとうちゃんはユニホーム姿で笑っている。僕にはとうちゃんが野球をしている実際の記憶はない。写真という記録が僕にとうちゃんが野球をしていた事実を伝えてくれる。アルバムを繰ると、ボールを追いかけるヨチヨチ歩きの僕の後ろにはいつもとうちゃんが写っている。グラウンドの隅で応援するかあちゃんも楽しそうだ。さらにページを繰る。試合に勝ったのだろう。吉岡のおっちゃんと抱き合い喜ぶとうちゃんがいた。きっと、とうちゃんがいればエースだって四番にだってなれるに違いない。それにもっと、もっと応援にも来てくれるだろう、そう思うとご飯が喉を通らない。かあちゃんの内職仕事で生活する僕の家では、リトルリーグの強化キャンプなんか夢のそのまた夢の話のように思えた。テレビ画面ではドラえもんがのび太のわがままに困っている。僕ならドラえもんにとうちゃんをねだるだろう。

 かあちゃんは早々とご飯を流し込むと、茶碗を片付けてミシン台に向かっていた。六畳一間の僕の家には内職仕事であるヘップサンダルの一部分が、ダンボール箱に無造作に詰め込まれている。僕はかあちゃんが踏むミシンのマシンガンのようなモーター音を聞くと、夏休みの強化キャンプのことを言い出せないでいた。

 かあちゃんは横にダンボール箱を置くと、その中からヘップサンダルのパーツを取り出し、次々とミシンを走らせる。ミシン台の下にはあっという間に、リボンが縫い付けられたパーツが数珠繋ぎのまま山積みになっていく。

 かあちゃんが僕をチラッと見る。

「よし坊、マンガばっかり見てんと、早よ食べてちょっと手伝(てつど)うてや!」

 僕はご飯を口に詰め込み、食器を流しの洗い桶につけ握りバサミを手に背中でミシンの振動を感じながら、数珠繋ぎになったパーツの糸を切っていく。ビニールのパーツはミシンの滑りが悪いために油が塗布してあり、僕の手をすぐさまツルツルにしてしまう。僕の家はヘップサンダルのビニールと油の匂いでいっぱいだ。僕が糸を切っても切っても、かあちゃんは次から次へとミシンを走らせるから、僕は休む暇がないのだが、壁に掛かった時計の針が八時を指すとかあちゃんは、決まってミシンを一度止める。

「ありがとう。お風呂行って宿題あったらしてしまいや」

「宿題、学校でしてきたし、ちょっとだけ素振りしてきてもええ?」

 かあちゃんは舌打ちをしながら再びミシンを踏み出した。

「ちょっと……」

 否定的なかあちゃんの声はミシンのモーターの音で最後まで聞き取れず、僕は生返事を返し、木戸に立て掛けた金属バットを持って路地を飛び出した。


 朝から降り続いていた雨も小降りになっている。学校の帰りに練習場所を通って帰る。細かい雨がぴちゃぴちゃとグラウンドで弾けているがじきに止みそうだ。それでも水はけの悪いグラウンドはあっちこっちに水溜りが出来ていて沼地のように見えた。

「今日は休みやな……」

 振り向くと僕の傘の上にもう一つ傘がある。山ちゃんは僕よりも頭一つほど背が高い。大きな山ちゃんがパツパツの半ズボンを穿いて、ランドセルを背負っている姿はいつ見てもおかしい。僕が上目使いに頷くと山ちゃんが続けて言った。

「よし坊、練習休みやし、石田の誕生日会に行かへんか?」

「……」

 僕は山ちゃんの提案にすぐに答えることが出来ないでいた。

「石田とこ、すし屋やからすし食い放題やぞ。ハングリー精神で行くんや。ハングリーで……」

 山ちゃんは口癖を繰り返し僕を見る。

「プレゼント持っていかんといかんし……、金ないし……」

 山ちゃんは小さくてはち切れそうになっている半ズボンのポケットに、大きな掌を突っ込み百円玉を一枚取り出した。親指と人差し指で摘んだ百円玉を僕の眼の前に差し出し、自分で納得するように頷く。

「大丈夫、大丈夫、着替えたら呼びに行くからな」

 雨はもう殆ど降っていなくて、僕は傘をたたみ口笛を吹きスキップをする大きな山ちゃんを見送る。

 家に帰ると油とビニールの匂いが充満する部屋で、かあちゃんはミシン台にへばり付き、ヘップサンダルのパーツを縫っている。

「ただいま……」

 かあちゃんはお帰りと言っているつもりなのだが、ミシンの音で聞こえず、口の動きで僕は言葉を判断する。いつもなら傍にかけより、晩御飯のおかずを聞くのがつねなのだが、山ちゃんとの約束のためにすぐさま制服を着替える。かあちゃんはいつもと違う僕の行動に足を止める。

「どっか行くんか?」

「うん。練習休みやし、山ちゃんと石田くんの家遊びに行くねん」

 石田くんの誕生日会だということを何故だか僕は言うことが出来ない。言えばプレゼントを買って行けとかあちゃんは小遣いをくれるだろうが、余分なお金を使うことは、一日中ミシンに向うかあちゃんに申し訳なく感じるのだった。

 僕が路地を飛び出すと、山ちゃんが自転車に跨って待っていた。

「よし坊、乗れ! 早よ行かんと間にあわへん」

 僕が自転車の後ろに飛び乗ると、山ちゃんが向った先は公園の横にある駄菓子屋だった。

「どうするん?」

 僕が尋ねると山ちゃんは肩で息をしながら駄菓子屋の中へと進んで行き、手招きをした。グリコのキャラメルを手にして山ちゃんが笑う。

「どうするん?」

 もう一度同じ質問をする僕に、山ちゃんはグリコをまるで、時代劇のワンシーンのようにキャラメル箱を僕の顔に突きつける。

「控えおろう。このプレゼントを何と心得る」

 僕はどうしていいのか分からず固まったまま立ち竦んでいると、山ちゃんはポケットから新聞紙を取り出しグリコを包み、もう一つのポケットからナイロンロープを取り出した。

「よし坊、リボン結び出来るか?」

 僕は、新聞紙で包んだグリコにナイロンロープでリボン結びをして山ちゃんに返す。

「完璧や、完璧……」

山ちゃんは小さな包みを空中に放り投げ連呼していた。そして、再び自転車に跨り山ちゃんの急いだ先は石田くんの家だった。一階が店で入口の横に二階につながる扉がある。自転車が数台置かれていた。すでにみんなが集っているようで家の中から、同級生のはしゃぐ声が聞こえていた。僕はインターホーンを押す山ちゃんの後ろに立っている。

 石田くんのおばちゃんだろう。女の人の声がした。

「はい」

「石田くんいてますか?」

「雄一の友だち? みんな来てるわよ。上がって頂戴」

 山ちゃんが振り向くと僕に親指を立てた。

 僕たちが二階に上がると石田くんがみんなからプレゼントをもらっているところだった。誰一人として普段は一緒に遊ぶことのない、グループの違うクラスメートの集まりだった。テーブルの上には、大きなすし桶が二つとチキンバスケットにお菓子にくだもの、バースデイケーキが豪華に並べられている。階段の隅に石田くんの弟が立っていた。その横を通り僕たちは誕生日パーティーの行われている部屋に辿りついた。誕生日プレゼントの包装紙を解くたび歓声が上がっていた。

 石田くんは、僕と山ちゃんを見たがそ知らぬ顔で包装紙を解いていく。四十八色のクーピーペンシル、ガンダムのフィギュア、文房具セットなどが山積みになっていた。山ちゃんが新聞包みを石田くんに手渡す。

「これよし坊と俺から」

 石田くんは新聞を破くとグリコを見て鼻で笑った。どうやら山ちゃんは誕生日会に招かれたのではなく無理やり紛れ込んだようだった。それでも身体が大きくって番長格の山ちゃんには石田くんも面と向って帰れとは言えない。僕は何だか恥ずかしく俯いていた。一円だって出していない僕には偉そうなことは言えないのだけれど、みんなが差し出すプレゼントと比べれば月とスッポンだ。石田くんは部屋にいる幼稚園の弟にグリコを投げる。

「おい。これやるわ」

幼稚園の弟は畳に転がるグリコには見向きもせずに、会食の始まるのを待っていた。僕は拳を握り締めたまま、山ちゃんの横で小さくなっていた。山ちゃんはそんなことに頓着しないというより、むしろ力強く生きることを楽しんでいるようでもあった。

食事もそこそこに、みんなは隣の部屋でゲームを始めていた。

 テーブルの上にはご馳走がまだたくさん残っていた。

「よし坊、今のうちに喰うてしまおう。ハングリーで行こう」

 山ちゃんは招待されてもいないクラスメートの誕生日会に潜り込んで、食べることにもハングリー精神を発揮する。

 山ちゃんが手づかみですしを貪るのを見ているうちに、恥ずかしくって、悔しくって、腹が立っていたはずなのに、山ちゃんにならい、テーブルの上に手を伸ばすと後はもう止まらなくなり、日ごろ食べることの出来ないご馳走を二人で頬張り続けた。山ちゃんは笑いながらチョコレートをズボンのポケットに詰め込み、僕にもお持ち帰りを勧める。僕たちのズボンのポケットは瞬く間に大きく膨らんでいた。石田くんの弟が僕たちの行動を不思議そうに見ていた。

 石田くんの家を出る頃にはすっかり雨も止んでいた。僕たち二人はお腹が一杯で真っ直ぐ歩けない状態だった。当然、自転車に跨ることなど出来るわけもなく、二人で寄りかかるようにして橋の上まで辿り着くと、地面に寝転がった。

「俺もうあかんわ。お腹千切れそうや」

「僕もや……」

「グリコのキャラメル一個でご馳走一杯喰えたやろ。こんなお土産までもろて……」

 山ちゃんの自転車の前かごには、石田くんのお母さんがバナナやらお菓子を詰めてくれたビニール袋が二つ入っていた。

「よし坊、夏休みの強化キャンプ行ったら、一緒に寝よな……」

 突然、強化キャンプの話を持ち出され僕は何も答えることが出来なかった。

「あっ……」

 山ちゃんが指差す向こうの空に虹が架かっていた。


 かあちゃんはやっぱり僕が、野球をやることには関心がないようで練習試合がある日曜日でも朝からミシンの前に座っていた。別に応援に来てほしいというのでもなかった。グラウンドに着くと山ちゃんが大きく手を振り迎えてくれた。山ちゃんの家族はおばちゃんにおっちゃんそれに二人の妹、一家総出で応援にきている。そう山本家にとり、山ちゃんは希望の星なのだ。山ちゃんがプロ野球選手になることで山本家は上流階級の仲間入りが出来ると信じている。山ちゃんがバッターボックスに立つたびにおっちゃんはメガホンを打ち鳴らし、ハングリー精神やと声を()らしていた。どうやら山ちゃんの口癖はおっちゃんの受売りのようだ。家族の応援に応え、山ちゃんがホームランを二本打ち、五対二で九回の表の攻撃を終わろうとしていた。二塁にランナーを出しながらもツーアウト、僕はバッターボックスに立ったが、三点リードで気が緩みピッチャーの投球モーションを何気なく見ていた。僕たちのチームの勝利を確信してか、対戦チームの応援席からの声援もどこか小さく感じられる。キャッチャーミットにボールのおさまる小気味いい音が響く。

「ストライク!」

 僕は審判の判定をぼんやりと聞いていた。

「コラッ! よし坊、ボールしっかり見やんかぁー」

 怒鳴り声にバックネットの端を見ると、金網越しに吉岡のおっちゃんがいた。その横にはかあちゃんの姿が見えた。僕はかあちゃんが応援に来てくれることなど期待していなかったのだが何だか嬉しくなり、自分でも心臓がバクバクと動いているのが分かった。僕は構えたバットを下ろし、何度も足元を踏みならす。ヘルメットに手をやり少し深くずらす。バットを構え直しマウンド上で首を振るピッチャーを睨み付ける。ピッチャーの手を放れたボールの軌道を読む。

「ボール……」

 審判の判定に納得し頷く。大丈夫、球筋はしっかり見えている。かあちゃんをチラッと見た。応援することなく黙って僕を見ていた。二塁ランナーの山ちゃんがバッティングポーズをとり僕に声援を送っているが聞こえない。ピッチャーの手からボールが離れ、二塁ランナーの山ちゃんがスタートする。僕は足を踏ん張る。僅かにバットを引き、ひっぱ叩いた。ボールが左中間に飛ぶ。三塁手が飛びつく。僕は一塁にダッシュする。三塁手が起き上がり後方を見ていた。山ちゃんが三塁を回りホームに向う。レフトから三塁手を中継してボールがホームに返ってくる。山ちゃんが滑り込むとボールはキャッチャーミットからこぼれていた。僕は一塁ベースを踏みピースサインを出していた。かあちゃんを見ると金網の向こうで手を叩き飛び跳ねて喜んでいる。そのはしゃぐ姿は同級生の女の子のようにも見えた。

 結局、六対二で快勝。試合の後ミーティングで監督から、強化キャンプへの参加、不参加を問われ解散した。僕はプリントさえバッグに押し込んだままで、かあちゃんに見せてさえいない。僕は監督に返事を返さないままで、グランドの向こうにいるかあちゃんと、吉岡のおっちゃんのもとへと駆け寄った。

 おっちゃんは僕の頭に手を置いた。

「良かったで……。ご飯でも食べに行こか?」

 かあちゃんは僕を見て微笑んでいた。

 僕たちの入った店はおっちゃんの行きつけの居酒屋だった。席は殆ど埋まっていて、どの客の前にも土鍋が置かれ、湯気が立ち上っていた。客達は額に汗を滲ませながら鍋を突っつく。大型冷房機が冷気を吐いていて、鍋から立ち上る湯気と格闘しているようだ。僕たちは奥のテーブル席に案内された。僕とかあちゃんが並んで座った。おっちゃんが生ビールを二つとバヤリースオレンジを注文する。

 向かいに座るおっちゃんが、グラスにオレンジジュースを注いでくれる。

「このオレンジジュース、日本ではじめての果汁入りジュースなんやで……」

 おっちゃんがそう言うと、僕は何か特別な秘密を知ったような気になり、バヤリースオレンジが好きになった。

 僕はジョッキを合わせるかあちゃんとおっちゃんを交互に見た。

「今日のよし坊、格好よかったわ。おかあさん興奮したわ」

 おかあさん……、普段は絶対に使うことのない言葉だ。今日のかあちゃんは特別だ。おめかしをして言葉遣いはよそいきでどこかよそよそしい。それでも、僕はかあちゃんが喜んでいると感じているだけで凄く嬉しかった。居酒屋で鍋を囲む僕たち三人は、はたの人間から見れば幸せな家族として映っていたに違いない。

 おっちゃんがテッチャン鍋を注文するとやっぱり、僕たちのテーブルの上にもコンロが置かれ、土鍋が乗せられた。鍋から立ち上る湯気の向こうでおじさんが言った。

「よし坊、テッチャン食べれるか? コロッケとか別のもん頼んだろか」

「大丈夫やんな……」

 僕の代わりにかあちゃんがこたえていた。

「さっきの左中間、抜けたから良かったけど、もうちょっとで捕られるとこやったで、ヘッドがちょっと上がってたんやな、それでも振り抜いたぶん打球に勢いがあったわ。一塁までの走塁もよかったしな」

 野球に興味のないはずのかあちゃんが、おっちゃんの言葉に熱心に頷いていた。僕の才能を少しは認めてくれたのだろうか? ほんの少しうれしくなり、ほんのりと赤ら顔になったかあちゃんを見た。強化キャンプに参加させてもらえるかもしれない、そう思った。僕は思い切って、バッグにねじ込んだままになっていた強化キャンプのプリントをかあちゃんに見せてみた。

「夏休みに一週間、強化キャンプあるねん。なぁー、行ってもええ? 来週までに返事せんとあかんのんや」

 かあちゃんは開いて見たが、黙ったまますぐにプリントをたたむとカバンの中にしまい込んだ。

眼の前には真っ赤なテッチャン鍋がグツグツと煮立っていた。

「よし坊は野球選手になりたいんか?」

 僕が頷くとおっちゃんが続けた。

「それやったら、仰山食べて大きならんと……」

 隣に座るかあちゃんが鍋の具を小皿に取ってくれ、口に運んではみるのだが、小学生の僕には辛くて食べることが出来ないものだった。結局、僕には串かつとおにぎりを注文してくれた。

 僕が二本目のバヤリースオレンジを飲み終えるのを待っていたかのように、かあちゃんが言った。

「よし坊、明日も学校やから、先に帰って風呂屋さんに行ってきなさい。おかあさんもすぐに帰るから……」

 今日のかあちゃんの言葉はやっぱりよそよそしい。

 かあちゃんは僕が立ち上がると、カバンから財布を取り出し風呂代をくれた。

「なぁー、強化キャンプ……」

「早く帰って風呂屋さん行かんと、寝るの遅くなるで……、上履きとかまだ学校の用意もしてないやろ」

 僕は床に置いたスポーツバッグをとり、吉岡のおっちゃんに頭を下げた。

「がんばるんやで……」

 おっちゃんが言い、かあちゃんを見ると頬杖をついた顔が僕には歪んだように見えた。

 僕は曖昧に頷き、冷気と湯気が混ざり合って混雑する居酒屋の外に出て、点り始めた街灯を見上げた。

 泥だらけのユニホームを着替え、下着と石鹸箱をタオルに包んで風呂屋へ向かう。

 番台のおっちゃんは壁の棚に設置したテレビに夢中になっている。ナイター中継が行われていて、場内の歓声が聞こえていた。おっちゃんは大人には「らっしいゃい」と無愛想に言う。子どもに対する対応は、番台に置いたお金を一瞥するだけで顔を背ける。そう風呂屋のおっちゃんは誰に対しても無愛想なのだ。番台に硬貨を置いた時、僕の前を番台の暖簾を掻き分け、フリチンの幼児が叫び声を上げながら女湯へと駆けてゆく。暖簾の割れた間から濡れた女体が見えた。幼児の母親だろう。全裸でしゃがみ込み、幼児をバスタオルで包み込み抱き上げた。ほんの一瞬だったのだけれども、しゃがみ込んだその膝と膝の間から黒々とした茂みと、細長く切り裂いたような洞窟の入り口が見えた。

「よし坊!」

 僕がTシャツを脱ぎながら首を捻る。洗い場の扉開き全身から湯気を立ち上らせる山ちゃんが立っていた。

「もう、身体洗(あろ)うたん?」

「洗うたで……、よし坊、上がるん待ってるわ」

 僕は腰にタオルを巻きつけ洗い場に入って行く。桶に石鹸箱を入れ、それで場所取りをする。湯船に腰掛け、足だけをお湯の中に浸ける。待っていると言った山ちゃんも僕の横に座り、湯船の中の足をバシャバシャと動かしていた。

 お湯の流れる音、人の話し声が湯気にくぐもって聞こえる。時折、カッコーンと桶がタイルに響く音が小気味いい。

 山ちゃんは横に座ると今日の試合のことを話し始めたが、僕は先ほどのことが頭から離れずに曖昧に相槌を打っていた。一通り話を聞き終え、山ちゃんの耳元で囁くように言った。

「さっきな……、オメコ見えてん……」

 山ちゃんは湯船の中で動かしていた足を止め、何を想像しているのか、見えるはずもない女湯と隔てられた壁を睨んでいた。

「何処で?」

 僕が番台での出来事を話すと、山ちゃんは壁に描かれた富士山のペンキ絵を見て唸っていた。

 男湯と女湯の隔たれた湯船の壁側に造園されたスペースがあり、石垣まで造られている。山ちゃんは湯船の中を勢いよく歩いて行き、突然、石垣を登りはじめた。山ちゃんは今日の試合のことなど、もうどうでもいいようだった。一番上まで登ると女湯を覗き込み、僕に向って親指を突き立てた。それは物事が上手く運んだときの僕たちの合図のようなものだった。

「コラッ!」

 湯船に浸かっていた色の黒いおっちゃんの怒鳴り声で、山ちゃんは石垣を飛び降り、湯船の僕と色の黒いおっちゃんを交互に見て、へっへっへと笑った。山ちゃんが僕の横に来ると、おっちゃんが僕たちの前に立ってにやついた。

「おっさんも、坊主みたいに見てみたいわ……、そやけどおっさんがやったら、警察に捕まってしまうからな……、んっ」

 おっちゃんは山ちゃんの股間を見て眼を剥いた。

「お前、もう女抱けるわ」

 おっちゃんはそれだけ言うと背中を向けた。

 僕が山ちゃんのチンチンを見ると、それは少し膨らみ、ほんの少しヒゲまで生えていて偉そうに見えた。

「ハングリーやから……」

 山ちゃんはそう言いながらイガグリ頭を掻いていた。ハングリーな山ちゃんの頭からメリットシャンプーの匂いがした。

 風呂屋を出ると、山ちゃんは左に僕は右に歩いて帰る。山ちゃんは洗面器にシャンプーと石鹸箱を入れ、バスタオルまで持っていた。僕の手にはパンツと石鹸箱を包んだ濡れたタオルだけだ。

「また明日な!」

「うん!」

 山ちゃんと別れ、しばらく歩き暗い路地の脇道を見ると、かあちゃんと吉岡のおっちゃんが向こうに歩いていくのが見えた。声を掛けそびれ僕は黙って二人の後をついて行った。暗がりを歩くおっちゃんとかあちゃんの後を、こっそりとついて行くと心臓がドキドキと高鳴った。二人が立ち止まると僕は電信柱のかげに隠れる。おっちゃんが振り向きかあちゃんを抱きしめ、二人は唇を重ねた。どれだけ経ったのかわからない。二人が向こうの角を曲がり、姿が見えなくなるまで僕は息を殺すようにして見ていた。僕は濡れたタオルを握り締め大急ぎで家まで駆けた。蝶番にかけた南京錠を外す。古くて建てつけが悪くなった木戸は、右端を少し持ち上げなければすんなりと開かない。割れたすりガラスにガムテープが何重にも貼られている。ガチャガチャと音を立てる木戸をいつもなら忌々しく感じるのだが今日はそれをを気にすることもなかった。

「とうちゃん……」

暗い部屋の中に入った僕は、仏壇の前で微笑むとうちゃんの写真に呟き、布団を敷き頭から潜り込む。

 しばらくして玄関の扉が開き、かあちゃんの声がした。

「ただいま。よし坊……、よし坊……、寝てるんかいな?」

 僕はさらにタオルケットの中に潜り込む。

「明日の用意は出来てるんやろな」

 かあちゃんは独り言のように言い、天井から垂れ下がった蛍光灯の紐を引っ張った。

 しばらくするとかあちゃんの踏むミシンの音が鳴り響いていた。その夜、ずーっとタオルケットに潜り込んでいた僕は、かあちゃんがいつ仕事を終えたのか知らない。ただ、眼を閉じると吉岡のおっちゃんと抱き合うかあちゃんの姿が浮かび、涙が次から次へと溢れて眠ることが出来なかった。

 寝不足で最悪の朝を迎えた。潜り込んでいたはずのタオルケットは、部屋の隅で丸まっている。内職仕事の品物の入ったダンボール箱が、部屋の隅に積み上げられている。埋もれるように部屋の真ん中に折りたたみのちゃぶ台が広げられている。自分の眼が腫れていることは鏡を見なくても分かった。家の中には香ばしい焼き飯の匂いが漂っていた。ちゃぶ台の上に、あっちこっち凸凹になったアルミ茶碗に山盛りになった黄色い焼き飯がある。僕の家ではその黄色い焼き飯を黄金チャーハンと呼んでいた。ある日、かちゃんが玉子かけご飯を作ったが、それに飽きた僕が愚痴をこぼすと、フライパンで炒め僕の前に置いたのだ。なんとも言えぬ香ばしい匂いにつられ、僕は一気に食べ尽した。それから僕の家では玉子しか入っていない焼き飯を黄金チャーハンと呼び、忙しい朝など手間がかからず、度々食卓に上がるようになっていた。

かあちゃんが家の外で洗濯物を干し終え入って来る。

「早よ食べてしまいや」

 僕はかあちゃんの顔を見ることが出来なかった。下着姿のままアルミ茶碗にスプーンを突き刺す。アルミ茶碗は熱くて手に持つことが出来ない。顔を近づけスプーンを口に運ぶ。

「よし坊、しんどいんか?」

 いつもならがっついて食べるのだが、俯き加減の僕を見てかあちゃんは、僕の額に手を当てた。

「熱はあらへんな、それ食べたらさっさと学校行くんやで、大丈夫やと思うけど、しんどかったら、先生に言うて保健室で寝とくんやで、家におっても寝る場所ないんやからな、かあちゃんこれからマンガおっさんとこ行ってくるからな」

 マンガおっさんとは、内職仕事を出してくれる会社の社長のことで、ハゲで出目、その上出っ歯でマンガのような顔をしていると言って、かあちゃんがつけたあだ名だ。他人がいると、社長と敬称で呼ぶが、僕と二人だけの時、かあちゃんはその社長のことをマンガおっさんと言うのだった。いつも、洗濯物を干しすぐさまミシンの前に座るかあちゃんの行動も、今日は様子が違う。

「まだそんなけしか食べてないんかいな。かあちゃんもう出掛けなあかんから、ちゃんと鍵かけて行くんやで」

 僕はスプーンを口に運び、上目使いにかあちゃんの後姿を見送っていた。


「わっ!」

校門を通り過ぎたところで隠れていた山ちゃんが僕のランドセルを押したが、僕はさほど驚くこともなく、右手を上げた。運動場には早く登校した友達が遊んでいた。女の子はゴム跳びやケンパをして、男の子は馬跳びや盗人探偵をして駆け回っている。

「おはよう……」

「よし坊、どうしたんや? 元気ないやんけ。早よカバン置いてあいつら捕まえにいかんといかんやんけ」

「何でもないし……」

僕と山ちゃんは探偵で、盗人を捕まえに行かないといけないのだ。この遊びは鬼ごっこと似ているのだが、鬼ごっこの鬼が一人に対し、盗人探偵は同じ人数ずつ二手に分かれ、盗人と探偵が同じ人数いる。盗人は探偵に捕まって陣地に捕らわれた仲間を助けに行くのだ。そして盗人が全員捕まると、チームの役柄がかわるという遊びである。どういう訳か、正義の見方の探偵役よりも盗人の方が人気があるのだった。学校での休み時間はこの遊びで殆ど潰れていた。

 昨日の帰り道、かあちゃんと吉岡のおっちゃんが路地で抱き合っていたことなど、親友の山ちゃんには死んでも言えなかった。授業中も休み時間も頭の中がぼやけていた。短縮授業で午前中で終わるにもかかわらず一日が長く感じられた。この日僕は一人も盗人を捕まえることが出来なかった。

 玄関を入るといつもより高く、ダンボール箱が積まれていた。ミシンのモーターの振動で上のほうのダンボール箱が小刻みに震えている。僕が帰ってきたことに気づき、かあちゃんがダンボールの隙間から顔を覗かせると振動が止まる。

「二十日の締めまで四日しかないし、これだけやってしまわんと……。よし坊、かあちゃん忙しいから、お米洗って、昼ごはんなんでも食べとりや。冷蔵庫に玉子もあるし……」

 手鍋に水を入れコンロにかける。コンソメと炊飯器の中の冷ごはんを入れてから、玉子でとじると雑炊が出来上がる。手鍋のままかき込むように食べると、やけどして口の中の天井の皮が一枚ベロリと剥けた。ヒリヒリとして痛かった。麦茶を飲み込むと、口の中で剥けた皮がユラユラと泳いでいるのが分かった。僕の関心は口の中の痛みを和らげることだけに向けられていた。僕を悩ませていた昨夜の出来事はすっかりと頭から抜け落ちていた。

昼ごはんを食べ終え片付けてから米を洗う。学校から帰って来て米を洗うのは僕の仕事だった。僕のうちにライサーなんかない、買ったときの米袋に入ったままだ。その中に計量カップが入っている。米袋から三カップお米を鍋に取る。水を少し加え揉み洗いするように鍋の中で米をこねる。再び水を入れ乳白色のとぎ汁をバケツに取る。三回も繰り返すとバケツの中はとぎ汁で一杯になる。とぎ汁は玄関先に植えてあるニラの肥料となるのだ。炊飯器にといだお米を入れ三の目盛りに合わせると、後はかあちゃんが時間を見計らいスイッチを入れるのだ。

 今日は野球の練習がないので遊ぶ約束をしていた山ちゃんが、外で大声で叫んでいた。

「よし坊!」

 僕はかあちゃんに山ちゃんと遊びに行くことを告げた。かあちゃんが何か叫んでいたが、ミシンの音とラジオから流れる声で何を言っているのかわからない。たぶん早く帰って来いとでも言ったのだろう。いつものことだ。僕はテレビの横の棚に置いてある陶器で出来たピンク色した豚の貯金箱をひっくり返し、小銭を取り出した。ダンボール箱の向こうにいるかあちゃんに曖昧に返事を返すと玄関を飛び出した。

 公園の近くの駄菓子屋でキャラメルを買い山ちゃんに半分あげた。山ちゃんはキャラメルをいっぺんに三つ口に頬張る。僕はキャラメルを一つ飲み込む。この季節、キャラメルはグニャグニャと溶けていて、あっと言う間になくなる。公園の中では中学生が蝉捕りをしている。幼児が滑り台から転げて泣いていた。僕たちは並んでブランコに乗る。どっちが高くまで漕げるか競争するのだが、この勝負は身体が小さくって体重の軽い僕に分が良かった。勝負が着くと僕は足で地面を擦りブランコを止めたが、山ちゃんはいつまでもブランコに揺られていた。止まろうとしない山ちゃんに尋ねる。

「どうしたん?」

「とうちゃんが()うてくれてん。足ついたら汚れるし……」

 山ちゃんは顔をにやつかせながら、真っ白なスニーカーを穿いた足をぶらつかせていた。

 とうちゃんのいる分、山ちゃんの家庭は僕のところより裕福に思えた。でも実際、山ちゃんの家も、妹が二人いて家族が多いから、僕のところとそうたいして変わりはないのだけれど、身体が大きくて期待されているだけあって、何でも買ってもらえる山ちゃんが羨ましい。

「よし坊にはブランコは勝たれへんな、しゃーけど野球やったら負けへんで」

 山ちゃんはスイングする真似をしながら続ける。

「もう強化キャンプの申し込みした?」

 僕は無言のまま首を横に振った。

「どうするん? 今度の金曜までやろ」

「うん……」

 昨日、やっとの思いで強化キャンプのプリントを見せたのだが、行かせてくれるか聞くどころか、昨日からかあちゃんの顔さえ見ることが出来ないでいる。

 区役所からみおつくしの鐘が鳴り始めていた。夏の日は長く、暮れていないのだけれども帰らないといけない。もう少し遊ぼうと言う山ちゃんを振り切り僕は駆け出していた。帰りが遅いことをかあちゃんに怒られるよりも、山ちゃんに強化キャンプの話をぶり返されることが嫌だったのだ。

 家に帰ると玄関の木戸が開けられたままになっていて、ミシンの音が路地にまで響いていた。中に入る僕に気づかないようでかあちゃんは首にタオルを掛け、一心不乱に仕事をしていた。

 僕はミシン台の前に立つ。

「晩ごはんは?」

僕は強化キャンプのことを聞こうとしたが、晩ごはんのおかずを聞いていた。

「ご飯は炊けてるし、冷蔵庫に玉子もあるし……、何でも食べとり」

 かあちゃんは、一瞬足を止めて言い再びミシンを踏み出す。

 冷蔵庫を開けると玉子しかなかった。忙しいかあちゃんは玉子さえあれば何でも作れると思っている。玉子焼きに目玉焼き、オムレツ、雑炊、焼き飯……、僕は玉子を三つ取り出してどんぶりの中に割った。そして玄関先の突き当たりに植えてあるニラを包丁で切る。僕のうちのニラは先が少し茶色になっていて不細工だ。ニラは引き抜かずに切るとまた伸びる。路地の突き当たりは空き地になっていて太陽が良くあたり、ニラはグングン育つ。それを沢山食べると、山ちゃんのように強くなれるような気がする。熱したフライパンにごま油をひき、まな板の上で刻んだニラを炒める。フライパンから立ち上る煙と共に、ヘップサンダルのビニールと機械油の臭いが、ごま油でニラを炒める匂いに入れ替わる。どんぶりのとき玉子を流し込む。香ばしい匂いが鼻腔を満たし、口の中に唾液が沸く。匂いに堪らなくってフライパンに手を伸ばし頬張る。

「早よ食べて、ちょっと手伝ってや……」

 かあちゃんはどれだけ仕事が沢山あっても、晩ごはんの後に一時間手伝えとしか言わない。数珠繋ぎで山積みになったパーツを握りばさみで切ってはダンボール箱に入れていく。ラジオから歌謡曲が流れているがミシンの音で上手く聞き取れない。僕は僕で殆ど音声の聞き取れないテレビをチラチラと見ながら手を動かす。床に腰を下ろす僕にはかあちゃんの姿が見えない。ミシンのモーター音の振動でその存在を感じている。かあちゃんにも僕の姿は見えない。僕はかあちゃんがミシンから足を上げるタイミングを見計り、声を掛けた。

「なぁー、強化キャンプ……」

「何!」

 ミシンの音に紛れて返ってきた返事に僕は、立ち上がりもう一度言った。

「野球の強化キャンプやんか。この間プリント渡したやろ」

「分かってる……」

 かあちゃんはそれだけ言い、再びミシンを踏み出した。

 一時間ほど手伝い、僕は宿題を済ませ風呂屋に向う。

 風呂屋から帰ってもかあちゃんはまだミシンを踏んでいた。流しの洗い桶にかあちゃんの茶碗だけが浸けられていた。冷蔵庫の中のタクアンでご飯を流し込んだのだろう。おかずを食べた形跡がない。忙しいときはいつもそうだ。玉子だって食べない。

 かあちゃんは足を止め、両手を大きく天井に突き上げて伸びをして椅子から立った。蛍光灯の紐を引っ張るとレフ球だけの灯る部屋の床に腰を下ろし、ミシンに取り付けてある裸電球で手元を照らして繋がった糸を切り出す。

「よし坊、早よ寝えや……」

 僕はタオルケットに包まり、キチッ、キチッと糸を切る音を聞きながらいつの間にか眠りに着いた。ふと目覚めると、裸電球に照らされたかあちゃんがハサミを握ったまま、ミシン台に凭れ眠っていた。近づいてみるとその身体は汗臭かった。扇風機の風が当たると乱れた髪の毛がざわつく。額に解けた後れ毛が汗で張り付いていた。僕は扇風機のスイッチを切り、かあちゃんにタオルケットを掛け自分の布団に戻った。

 かあちゃんはあれからすぐに起きたのだろうか? 僕が起きると、すでにミシンの音が響ていた。出来上がった品物の入ったダンボール箱が、納品するために玄関に運ばれていて、部屋の中は少し広くなっていた。

 僕は顔を洗うとちゃぶ台の上のおにぎりに手を伸ばし頬張る。

「強化キャンプのお金、金曜日に持って行ったらええんやな」

 僕は動かしていた口の動きを止め、かあちゃんを見た。

「強化キャンプ行ってもええん?」

「あぁ……、早よ食べて学校行かんと遅刻するで……」

「ほんまなん」

 僕の言葉に返事することなくかあちゃんはミシンを踏み続けていた。

「行ってきます」

僕は仏壇の前のとうちゃんにガッツポーズをとり、ランドセルを背負いおにぎりを齧りながら家を飛び出していた。


 学校に着いて僕は山ちゃんの姿を探す。もちろん強化キャンプに行けることを報告するためだ。僕は山ちゃんを見つけると嬉しさを堪え、それとなく切り出した。

「山ちゃん、強化キャンプ、誰々行く?」

「みんな来るに決まってるし……」

 山ちゃんは当然のように言う。

「そうなんや……」

「よし坊も行くんやろ?」

「うん!」

 僕が差し出した右手の親指を立てる。

 僕は盗人を三人も捕まえて大活躍をした。

 学校が終わり、一緒に練習に行くことを約束して橋の上で別れた。強化キャンプに参加できることで僕は嬉しくって、嬉しくって大急ぎで家に帰った。

 外にはホロの付いた軽四輪自動車が止まっていて、僕のうちにヘップサンダルの内職仕事を持ってくるおっちゃんがダンボール箱を積み込んでいた。路地を入ると朝、玄関に積まれていたダンボール箱はすっかり無くなっていて家の中がすっきりとしていた。

「ただいま!」

「お帰り……」

「何合?」

 かあちゃんは指を三本立てながら、僕の横をすり抜け、軽四輪自動車に近づき何度も頭を下げていた。

「この分だけ、金曜日までにお願いします」

 かあちゃんの言葉を背中で聞きながら、僕はランドセルを下ろして米を三合洗い、大急ぎでユニホームに着替え再び玄関を飛び出す。

 僕の顔は朝からにやけぱなっしで、ランニングも山ちゃんと喋りながらグラウンドを回っていた。監督に叱られ、僕のために全体責任をとらされ、チームのみんなはいつもよりグランドを三周多く回らされた。練習の後、六年の先輩に頭を小突かれたがへっちゃらだった。

 山ちゃんと別れて家に戻ると、路地の前でキャッチャーミットを持った吉岡のおっちゃんの姿が見えた。おっちゃんはキャッチャーミットをはめた手を大きく上げ笑っていた。僕は立ち止まり睨みつけた。笑っていたおっちゃんが僕の表情に困惑して眉間に皴を寄せた。おっちゃんは僕と遊びに来たのでも、野球を教えに来たのでもない。僕のかあちゃんに会いに来たのだ。手に持っているキャッチャーミットはとうちゃんのものに違いなかった。おっちゃんは僕のいない間に家の中に入ったのだ。僕はおっちゃんにゆっくりと近づき、キャッチャーミットを毟り取った。

「とうちゃんのミットに触るな!」

「よし坊、どうしたんや?」

 僕はおっちゃんを無視して家の中に入る。ラジオが鳴り響いていて、今朝、納品したはずのダンボール箱が部屋の中に山積みにされていた。

「かあちゃん……」

 キャッチャーミットと自分のグラブを下駄箱の脇に置き、かあちゃんを呼んでみたが返事はなかった。炊飯器を見るとスイッチが入っていない。僕は炊飯器の赤いボタンを押した。今日の晩ごはんは何だろう? 冷蔵庫を開けると、玉子が五つ並んでいた。麦茶を飲み着替え、ユニホームを玄関に置いてある洗濯機に入れる。外に出て通りを窺うが、すでに吉岡のおっちゃんの姿はなかった。ほんの少し気まずい思いがした。

僕にはとうちゃんの記憶はないけれど、写真の中で僕を抱き上げてくれるとうちゃんが好きだった。写真の中で僕を追いかけ笑っているとうちゃんが好きだった。写真の中で笑うとうちゃんの血が僕にも流れているというだけで、ただそれだけでとうちゃんのことが好きだった。とうちゃんがどんな人だったなんか僕には関係ないように思う。僕がどんな人だったと尋ねてもかあちゃんはとうちゃんのことをあまり話さないから、僕はほとんど写真の中のとうちゃんしか知らない。早く死んでしまったとうちゃんのことを話すと僕が悲しむと思っていたようだ。それでもたまにとうちゃんのことを話すときは凄く嬉しそうで、かあちゃんもとうちゃんのことが好きだったことが分かる。スタイルが良くって野球が上手いだのと、とうちゃんの自慢をするかあちゃんが大好きだ。でも、吉岡のおっちゃんと楽しそうにしているかあちゃんを見ていると胸のあたりが熱くなる。カーブの投げ方や、バヤリースオレンジの秘密を教えてくれるおっちゃんのことも嫌いではないけれど、おっちゃんにかあちゃんを盗られそうで僕の頭は混乱してしまう。仏壇の前の写真を見ると、微笑んでいるはずのとうちゃんの顔が悲しんでいるように見えた。

僕がとうちゃんの写真を見ていると玄関で物音がした。振り返るとかあちゃんが木戸に凭れかかっていた。今にも倒れそうだ。僕はかあちゃんに駆け寄った。

「どうしたん?」

 かあちゃんは僕を振り払い、炊事場までヨロヨロと歩いて行きコップで水を飲みしばらく俯いていた。かあちゃんの横の炊飯器からは湯気が立ち上っていた。僕はじっと見ていることしか出来ないでいた。かあちゃんは部屋に上がると呟くように言った。

「キャンプ……」

「えっ……、何?」

 小さな声が聞き取れず、僕はもう一度尋ねる。

「よし坊、キャンプなぁ……」

 小さな声で躊躇いがちのかあちゃんの声は、僕に夏休みの強化キャンプの参加がダメになったことを理解させるのには十分だった。

 かあちゃんは僕に強化キャンプに参加させるため、急ぎの仕事を取りいつもより余分に仕事をしていたのだ。その品物を今朝、納品したのだが、内職を運んできた男が三分の一ほど左右を間違えて持ってきたために、かあちゃんの縫った品物は飾りのリボンが左右があべこべになっていたのだ。それで今朝、納品したはずの品物が返品され部屋の中に積まれている。かあちゃんは配達した男のミスだと抗議したのだが、気づかない者も責任を取れと無償でやり直しを迫られたのだ。僕の強化キャンプの参加費を当て込んで取った仕事なのにあてが外れてしまったのだ。かあちゃんはダンボール箱の端を掴んだまま、僕から顔を逸らしていた。

 僕は立ち上がると、ダンボールの中の品物を握り締めかあちゃんに投げつける。

「何でや! みんなキャンプに行くのに何で僕だけ行かれへんのや……、何でや! 僕にはとうちゃんがおらへんからかあちゃん!」

 吉岡のおっちゃんのことがもう少しで口に出そうになったが何とか堪えた。僕の投げた品物がかあちゃんの顔に当たり床に落ちた。僕はかあちゃんに怒られると思い、眼を閉じ両方の拳を握り締め身体を硬直させた。ところが、ピンタはおろか怒鳴り声も聞こえない。僕はきつく閉じた眼をゆっくりと開く。眼の前のダンボール箱が小刻みに震えていた。もちろんミシンの振動によるものではない。かあちゃんの足が見えた。僕が視線を上に移す。ダンボール箱に腕を伸ばしかあちゃんが泣いていた。

「堪忍やで……、よし坊……」

 かあちゃんは消え入るような声で言い、僕の投げつけた品物を拾い上げダンボール箱の中に戻した。

「……」

 僕はかあちゃんに品物を投げつけたことを後悔したのだけれど、返す言葉も見つからずに俯いていた。ほんの先ほどまで吉岡のおっちゃんと仲良くしていることに腹を立てていたのだが、僕に謝り震えるかあちゃんを見ていると悲しくって、悲しくって涙が溢れてくる。僕にはかあちゃんを喜ばすどころか、悲しませることしか出来ない。僕とかあちゃんはお互いを見ることなく、薄暗くなった部屋の中で佇んでいた。

「よし坊!」

 玄関先で山ちゃんの声がした。

 山ちゃんと風呂屋へ行く約束をしていたことをすっかり忘れていた。

「よし坊! ……」

 もう一度山ちゃんの声がして、僕とかあちゃんは慌てて涙顔を取り繕う。

「はーい」

 かあちゃんが僕の代わりに返事を返すと、山ちゃんが玄関の扉から顔を覗かせ僕に言った。

「よし坊、風呂行かんのんか?」

 山ちゃんは腕で顔を擦っている僕を見て、かあちゃんに叱られていると思ったようで、玄関に立っているのが気まずそうだった。

「山ちゃん待たせたらあかんし、早よ行っといで……」

 かあちゃんが少し震えた声で言い、箪笥の一番上の引き出しから財布を取り出し僕に小銭を差し出す。

 僕はかあちゃんの手を押し戻す。

「行かへんし……」

「折角、山ちゃん誘いに来てるのに」

「行かへんし……、キャンプも行かへんし」

 僕は誰に言うとでもなく呟くように言う。

 山ちゃんは玄関で洗面器を持ったままどうしていいのか分からないようで、黙ったまま僕を見ていた。

 かあちゃんが洟を啜り上げ、返品された品物の入ったダンボール箱を二度叩く音が聞こえた。

 僕は振り返るとかあちゃんは手の甲で、頬の涙を拭っていた。

「これ、やり直したらキャンプ行けるし……、かあちゃん頑張るから……よし坊、手伝うてや」

 山ちゃんが僕とかあちゃんを交互に見た。

「おばちゃん、俺も手伝うわ」

 僕がかあちゃんを見ると山ちゃんが親指を突き立てていた。

 僕たちは握りバサミを手にして、返品された品物の縫い目を解いていく。

 いつの間にか吉岡のおっちゃんもハサミを握りしめていた。

 部屋の中にはご飯の炊き上がる匂いが立ち込めていた。





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