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宴の後に―ビートニクを偲んで―

作者: MeatOgawa

昨今の文章生成AIの進化には目を見張るものがある。

Google社の『LaMDA』は言うに及ばず、我々一般人が利用できるツールとしても『AIのべりすと』等は設定次第では、小説、詩、ルポルタージュ、果ては架空のインタビューまで、まるで人間が書いているかのようにリアルな文章が生成される。

勿論これは技術の発展として素晴らしいものではあるが、過去の『人工無脳』のような機械特有の、奇妙だがどこか面白味があったり、興味深い文章が出力されなくなっていくことに、私は一抹の寂しさのようなものを感じていた。

その時に『ゴーストライター』という入力した文章を切り貼りして文章を出力すると言う、昔ながらのスタイルのツールを見つけた、これを使えばランダム故の面白い文章が作れるのではないかと思った。

そしてこれは、バロウズの『裸のランチ』に代表されるカットアップの新しい手法になりえるのではないかと考え、作ったのが本作である。

カットアップなので意味が通っている部分は殆ど存在しないが、そこかしこにらしさのようなモノがある文章に仕上がったのではないかと思っている、読者諸兄にもそれらしさや、面白みのようなモノを見つけて頂けると嬉しく思います。

カットアップによって書かれた文章のためわかりにくい部分も多々あるので、筆者としては本文を先に読んで頂けるのが嬉しいですが、先に後書きに載せております原文を読んで頂いた方が理解はしやすいかとは思います。

物書きとしてこの姿勢はどうかとも思いますが、その判断は読者諸兄に委ねますので宜しくお願い致します。

最後に、酒宴の席での何気ない言葉から気付きを与えてくれた或る人、あるいはビート・ジェネレーションとカットアップに敬意を評して。

 愉しみの後にやってくる、その滑稽さに気付かされた時に酷く居心地の悪さを覚えるのである。

 この推測と言う事であろう。

 では何故に、それでも私は人と触れ合う事を望むのか。

 それが他者との触れ合う事であろう。

 いや正確には、自らの心も推し測ろうとする行為であり、推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

 私は人と触れ合いは、その理由ではないだろうか。

 しかし、他人と言ったが、その鏡は酷く曇っていて、眼を凝らさなければ見えてこない。

 その幻想の快感を何物にも代え難い、その一時は大変に熱をおびて悦びに満ちており、またその一時が過ぎてしまえば、つまるところ独りになり熱から覚めて、それまでのことを自問自答して、その後にやってくる苦しみの反動は大きい。

 ただ一つ確かなことは、私にとって他者との触れ合う事であろう。

 無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができない、もっと単純な社会的動物としての人間の、他者との関わりであれば尚更だ。

 そして鏡である。

 だがそもそも人をわかるとは、自分がわかるとはどういう事なのだろうか。

 ただ一つ確かなことは、私にとって他者との

 関わりであれば尚更だ。

 鏡と言う事を望むのか。

 だから人と触れ合いは、その後に大きな苦しみがあるとわかっていて尚追い求める本能的なもの、そう言った要素に起因する等もあるのだろう。

 ただ一つ確かなことは、私にとって他者との関わりを求める程に。

 しかし、他人と言う鏡を通すと他人の心がわからない、そして同じように私自身の心がわからない。

 無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができる。

 それは一重に、人間同士の交わりによってのみ得られる悦びがあるからだろう。

 これを言い方を変えれば、人の心がわかる。

 しかし、他人と言ったが、その人の心を持っている、それに人は一人一人が違う存在だ、違う存在だ、違う存在だ、違う心を推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

 私は他人の心がわかる。

 この推測と言う鏡を通すと自分の心がわからない、そして同じように私自身の心がわかる。

後書きと言う体裁の原文


愉しみの後にやってくる苦しみの反動は大きい。

それが他者との関わりであれば尚更だ。

では何故に、それでも私は人と触れ合う事を望むのか。

それは一重に、人間同士の交わりによってのみ得られる悦びがあるからだろう。

私は他人の心がわからない、そして同じように私自身の心がわからない。

人は一人一人が違う存在だ、違う心を持っている、それに人は例外なく嘘をつく、それは自覚しているものもあれば、無自覚なものもある、なればこそわからないのが当然なのだ。

しかし、他人と言う鏡を通すと自分の心が、自分と言う鏡を通すと他人の心がわかる。

いや正確には、わかった気になったような幻想を抱けるのだ。

その幻想の快感を何物にも代え難い、その後に苦しみがあるとわかっていて尚追い求める程に。

だがそもそも人をわかるとは、自分がわかるとはどういう事なのだろうか。

鏡と言ったが、その鏡は酷く曇っていて、眼を凝らさなければ見えてこない。

そして鏡である以上、そこに写し出されるものは虚像なのである。

これを言い方を変えれば、人の言葉や仕草等のあらゆる合図から、その人の心を推し測り、それの中の自らと同じ事や、また差異を通して、自らの心も推し測ろうとする行為であり、推し測る以上それは、どこまでいっても確信に似た推測以上にはなり得ないと言う事であろう。

この推測と言うものは都合の良いもので、自らに快いものだけを見ることができる。

より正確には、自らに不快なものは見ないふりができるのである。

であるからして人との触れ合いは、その一時は大変に熱をおびて悦びに満ちているが、その一時が過ぎてしまえば、つまるところ独りになり熱から覚めて、それまでのことを自問自答して、その滑稽さに気付かされた時に酷く居心地の悪さを覚えるのである。

これが私が人中で愉しけれは愉しい程、その後に大きな苦しみが反動としてやってくる、その理由ではないだろうか。

無論これは一つの側面に過ぎず、言葉にして説明する事ができない、もっと単純な社会的動物としての人間の、他者との関わりを求める本能的なもの、そう言った要素に起因する等もあるのだろう。

ただ一つ確かなことは、私にとって他者との関わりは最大の悦びであり、最大の苦しみであると言うことである。

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