サキュバスの恋
アーデル山の麓に一人の魔女が住む。
人付き合いが嫌いな偏屈な老婆、ガネーラだ。
今日も愛猫トマスと、のんびりハノイの温泉を楽しんでいた。
「ふぅ~、良いねぇ。いつまでも入ってたいよ。」
広い湯舟で伸ばした足が気持ち良い。
トマスが器用にガネーラの腕に頭を乗せ、四肢を伸ばし寛いでいる。
今日で約束の10日間が終わる。明日にはハノイの街に、この温泉を返さなければいけない。
こんなに気持ち良いのに手放さなきゃいけないなんて。
ガネーラはすっかり温泉の虜になっていた。
(しまったねぇ。こんな事なら10日じゃなく、一年と言うんであったよ。)
温泉からあがり、寝間着を着る。トマスも後に続き、身体をブルっと震わせた。
「やだねぇ。なんだか寒気がするよ。」
ガネーラは今まで風邪など引いた事が無い。
にも拘わらず寒気を感じるなんて、これが悪い事の前兆でなければいいが。
こんな時はさっさと寝ちまおう。
いそいそと、ベッドの中に潜り込む。
だが悪い予感と言うのは、大抵当たる物だ。
ガネーラがいびきを掻き始める頃、それは起こった。
「「おー---ばあー---ちゃー---ん!!」」
ドデカい声が響き渡り、家の屋根を突き破ってそれは来た。
角の生えた真っ赤な長髪に、煌めくピンクの瞳。今にもはち切れそうな、たわわに実った胸。
そして、背中に生えた蝙蝠の様な翼と、お尻に生えた悪魔の様な尻尾。サキュバスである。
びっくりして起き上がったガネーラの側に、サキュバスがルンルンとして近寄る。
トマスが逃げる様に棚の上に飛び乗った。
「お久しぶり、おばあちゃん!もう寝るなんて、早過ぎるんじゃない?」
「その呼び名で呼ぶなって言っただろ。あんた、あれは直してくれるんだろうね?」
「えぇ~。そんなのおばあちゃんの魔法でちょちょいのちょいじゃない。そんな事より、おばあちゃん。あたし、惚れ薬が欲しいの。」
全くこのサキュバスはいつもこうだ。
突然やって来たかと思うと、いきなり要件を突きつけガネーラの調子を狂わせる。
どうしたものかと溜息を吐きながら、のそりと起き上がり、ガウンを羽織った。
「面倒くさいねぇ。」
屋根の穴が空いた部分に杖を向け、呪文を唱える。
たちまち、穴が塞がった。
ねぇねぇおばあちゃん、と縋ってくるサキュバスを無視し、台所で温かい茶を入れる。
ずずっと啜ってから、一息ついた。
「さて、惚れ薬だって?そんな物、魅了のあるあんたにゃ必要ないじゃないか。」
「んもぅっ!おばあちゃん、あたしの話聞いてた?相手は人狼なのっ!人狼には、あたしの魅了なんて効かないでしょ!?」
ぷくぅっと頬を膨らませる様は、流石はサキュバス。
愛らしいが、ガネーラはちらりともその顔を見ようとしなかった。
「その甘ったるい声はどうにかならんのかい?頭が痛くなるよ。」
「これがあたしの声だから、仕方ないでしょ!?」
「はぁ。さてね、人狼だって?何でまたそんなもんに目が行ったんだい。あんた達の天敵じゃないか。」
サキュバスと人狼は古来より相容れない間柄だ。
サキュバスのいる所に人狼は近寄らないし、人狼のいる所に、サキュバスは近寄らない。
にも拘わらず、このサキュバスは人狼に恋をしたと言う。
ガネーラにはサキュバスの気持ちが全く理解出来なかった。
「彼は特別よ!銀色の毛並みがすっごくカッコいいんだから。」
「あぁ、そうかい。」
適当に返事を返し、戸棚の中をごそごそ探る。
目当ての物が見つかり、「ほらよ。」と、小瓶を投げた。
サキュバスが落ちそうな小瓶を慌てて両手でキャッチする。
「さ、これで用は無くなったね。さっさと帰っておくれ。」
しっしっと手を振るガネーラだが、このサキュバスは動じない。
縋る様な瞳で、ガネーラを見つめる。
「・・ねぇ、おばあちゃん。あたしだけで行ったら、あの人に惚れ薬なんて絶対飲ます事出来ないよ。」
「・・・・。」
「ねぇ、おばあちゃん。お願い。着いてきて?」
実は少し、このサキュバスの恋の相手に興味があった。
飽き性のこの子が、惚れ薬を使ってまで捕まえたい相手だなんてねぇ。
明日から温泉も無くなるし、暇だから着いてってやるか。
「興味が無くなったら、すぐ帰るよ。」
途端に、サキュバスの瞳が輝いた。