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あなたのそばで

作者: せっきー

──全ては、僕の勝手な思い込みが原因だったんだ。彼女が僕に何を望んでいたのか、分かってあげられなかった。というか、僕が何を望んでいるか彼女が分かってくれなかったのかな。


僕は気づいてたよ。あのとき君が泣いていたの。でも何もできなかった。君がなぜ泣いていたのか、僕の何が間違っていたのか。未だに分からない。


──君と出逢ったのは、確か1年半くらい前だった。30年に一度と言われた爆弾低気圧の影響で街は大雨に見舞われ、外出するような阿呆は居る筈がなかった。

しかし自他共に認める阿呆の僕は、この大雨のなか、コンビニに天然水を買いに出ていたのだった。往路よりも激しくなった雨の下、もはや意味を持たなくなった傘をさして足早に歩く復路。しかしその道が、たちまち僕らの福路になった。

市内最大の病院の中を抜ければ近道となる。罪悪感が欠如した僕は、濡れたくないの一心で敷地内を歩いた。

まもなく敷地を出ようと門に差し掛かったとき、建物の出入口で雨宿りをする女性の影が見えた。普段の僕ならば、黒髪ロングだろうが、色白だろうが、巨乳だろうが、男女関係なく「ヒト」たる生物に興味など涌く筈はなかった。しかし何故かあの日の僕は、その女性に近づき声をかけたのだった。


こうやって出逢いを振り替えると長文になるのだが、意外にも1年半という月日を文字起こししようとすると、どうも筆が進まない。それはきっと、僕と彼女の間にあった決定的な差が原因なのだろう。


あの日買った天然水も、僕が唯一の趣味としていた蕎麦を作るための材料だった。祖母の影響で僕は幼い頃から蕎麦が大好きで、人生に無くてはならない存在であった。就職のため大学卒業と同時に実家を出た僕は、毎日の昼食を会社の隣にある蕎麦屋で、水筒の中身は蕎麦茶で、出張や旅行の荷物には必ず愛用の蕎麦殻の枕を持っていくほどの、いわば「蕎麦オタク」と言えよう。とはいえ、この程度なら誰にも迷惑をかけることは無かろうと思い生きてきた。

しかしそれこそが、彼女との関係を大きく左右する大きな要因だったのだ。


──僕の蕎麦愛は変態級だと自負しており、蕎麦を語れば時間が過ぎ去る。なので付き合いたての人とは絶対に蕎麦屋には行かないと誓っていた。そういう意味では、彼女とは上手くいったのかもしれない。

しかしそうではなかった。付き合って半年、そろそろ自分は蕎麦オタクであることを伝えようとした。すると彼女も隠していたある事実を口にした。いや、隠していたのではなく、言い出すきっかけが無かったのかもしれない。それもそうだ。自制のためにも彼女の前では蕎麦について一度も口にしなかった僕に、「私は蕎麦アレルギーなんだ」と言う筋合いなんて無いのだから。


しかし、僕はこのときほどショックを受けたことはなかった。一緒に蕎麦を食べられないことよりも、蕎麦に染まった僕の体が彼女に受け入れられないかもしれない。それは一緒に暮らす上で致命的とも言える。ポジティブに捉えるならば…もしそれを知る前にキスをしていたら、彼女を殺していたかもしれないということだろうか。


彼女も申し訳なさそうな顔をしていた。でもこれは彼女のせいじゃない。本人が望んだ体ではないんだし、僕は彼女を責める気はさらさら無かった。僕はそれでも彼女が好きだ。

彼女は泣きながら抱きついてきた。もう謝らないで。君はなにも悪くない。僕が変わるから。君のために…


なんて思ったものの、やはり自分の生活から急に蕎麦を無くすのは、サラリーマンの朝からホットコーヒーを取り上げるようなものだ。ルーティンたるものを変えるのは、本当に苦しい。でもこれは彼女のためだ。僕は、、大好きな彼女とキスがしたい。結婚して子供がほしい。幸せな家庭を築きたい。こう思ったのは人生で初めてだ。その一心で、食生活から枕までも変えた。


──それから1年ほど経ったころ、彼女を初めて僕の家に招待した。蕎麦の要素を一切排除した、「彼女のための」部屋といっても過言ではない。大好きな彼女の笑顔を楽しみにしてた。なのに、彼女が見せてきた現実は違うものだった。


部屋に入ると、「意外と広いんだね」と歩き回る彼女。僕と同じく「ヒト」たる生物への関心は皆無だが、気になった人の環境や生活には興味があるらしい。しかしこれは女性の特権だろう。男の僕が初めての彼女の部屋で同じことをしようものなら、笑って見守ってもらえるか追い出されるかの二者択一だ。おそらくこの子のことだから笑いながら案内してくれるだろうが、そもそも母親以外の女性と密閉空間で2人きりなんて経験は皆無なので、きっと呆然と立ち尽くして動けなくなるだろう。


ひとしきり見回る頃、2つのグラスに彼女の好きなパインジュースを注ぎ、一人暮らしの象徴とも言える小さな卓袱台に運んだ。彼女の発言とは裏腹に、2人が座った位置は隣り合っていた。いわゆる「LOVE-LOVE」なカップルの距離感である。心臓の鼓動が速まっているのは当然のこと、一般的なカップルなら頬にフレンチ・キスをしてしまうような状態だった。


その距離を保ったまま、彼女の影響でやり始めたテレビゲームを始める。蕎麦を作るというシュールすぎる趣味から僕を連れ出してくれたことに感謝している。

2時間ほど経って、2人の腹が同時に鳴る。照れ笑いしながら、複数人が立つには少々狭い台所へ向かう。不慣れな彼女の手つきを眺めるのは新鮮で、怪我だけはしないように見守った。彼女の初めての手料理は決して美しい盛り付けではなかったが、四苦八苦しながら作った努力の味は美味だった。


その後もゲームなり雑談なりをして過ごし、笑い声が途切れない時間が続いた。外を見れば夜。彼女も一人暮らしだが、翌日は仕事があるので帰すことにした。僕の家から最寄り駅までの6分間を、自然と手を繋ぎながら歩く。


「そういえばさ、、」


微かに耳に届いた声。


「うん、どうした?」


「今でも蕎麦、、作ってるの?」


「ううん、作ってないよ」


「どうして?」


どうしてなんて、訊かないでほしかった。君のために決まってるじゃないか。君を守ると誓ったんだ。君の笑顔が見たくて、君とずっと一緒にいたくて、君とキスがしたくて…。でも恥ずかしくてそんなこと言えるわけがなくて、


「君に悲しい思いをさせたくなかったからだよ」


そう答えるのが精一杯だった。


すると彼女は立ち止まり、絞り出すような細い声で一言…


「…そっか…」


とだけ呟いた。


彼女は僕の家の最寄りから3駅隣りに住んでいる。駅で別れて20分ほどで、彼女から無事に家に帰ったと連絡が来た。自分の部屋があれだけの笑い声に包まれたのは初めてであった。微かに残る彼女の香りが、僕の鼻を刺激して記憶を鮮明に蘇らせる。しかしその回顧とは反比例に、目の前には白けた現実だけが存在していた。


──それから1週間ほどが経った。僕も彼女も連絡を取り合える暇がないくらい忙しくなり、気が付けばあの会話も記憶から薄れていた。いや、本当はそうじゃない。あのときは意識してなかっただけなんだ。


仕事が終わりスマホを確認すると、彼女からメッセージが届いていた。


「今度の週末、会えませんか?」


雲ひとつない、晴れ渡った青空の下。彼女が行きたがっていた遊園地で1日を過ごした。終始笑顔の彼女。お化け屋敷では少し怖がってたね。ジェットコースターでは絶叫し続けて。観覧車では景色に感動していた。

だけど、あの日を振り返っても最後に思い浮かぶのは、帰り際に彼女の頬に流れた涙だった。人前で泣いたり、それを指摘されるのを嫌うから気付かないふりをしていたけど、あの涙は僕が思っていたものとは違ったのかな。僕に何かを訴えようとしていたのか、それとも自分自身に対して何かを悟っていたのだろうか。


──それから3日と経たない頃、僕のもとには、彼女の最期は自殺だったとの情報が届いた。詳しいことは分からない。分かりたくない。それどころではなかった。どうしてあの人が。なぜ自ら死を選んだの。明るい笑顔が過る。もう会えない。もう話せない。様々な考えが錯綜し、想いも後悔も自分の心のなかに留めておくのが精一杯だった。


僕は気づいてたよ。あのとき君が泣いていたの。でも何もできなかった。君がなぜ泣いていたのか、僕の何が間違っていたのか。今ならそれが何となく分かる気がする。あの1日は、彼女にとっての区切りの日だったんだ。その区切りをつけるために、1週間に渡って自分の心に問いかけた。その答えがきっと、僕と1日を過ごしたい、悔いのない1日を過ごしたい、そしてあの涙だったんだ。


あのときそれに気づけなかった自分が情けなく思える。こんなので彼女のことを守るとか、そんな戯れ事を言っていたなんて笑えない。僕は彼女に死を選択させてしまった。


僕が彼女を殺したんだ。


──その週末には、彼女の家族を発起人に葬儀が行われた。憔悴しきった僕の心を察してか、葬儀に来てほしいと直々に連絡が来た。

様々な覚悟のもとに足を運ぶ。小ぢんまりとした会場には、彼女の親戚や友人が数名いた。彼女の親御さんとは面識はあり、早々に声をかけられた。来てくれてありがとう。その微笑みは彼女にそっくりで、言葉も出ず会釈するのがやっとだった。


通夜が終わる頃には、心にある程度の余裕ができていた。再び親御さんを見つけたので、挨拶をしようと歩み寄る。すると僕の顔を見るや、静かになった会場に目を移し、


「もし良ければ、、顔見てあげて」


そう微笑みながら呟いた。


棺の蓋をゆっくり開く。


彼女の顔は、今までとは違った意味で美しかった。

きっとかなりの決意のもと、落ち着いた気持ちで死を迎えたのだろう。


しばらく無言で彼女の顔を眺めていると、親御さんが1枚の封筒を差し出した。表には見覚えのある文字で僕の名前が書かれていた。恐る恐る中を確認すると、それが僕に対する遺書とは思えないような落ち着いた文字が並んでいた。


『この手紙をあなたが読んでくれているということは、きっと私に最後の挨拶をしに来てくれたんだね。こんな形であなたと話すのが最後になるのは申し訳なく思ってます。あなたが私のために蕎麦から離れた生活を始めたことを聞いたとき、私はあなたから大切なものを奪ってしまった、真の笑顔を奪ってしまったと思いました。もしかしたら気のせいかもしれません。でも、もし私たちが結婚していたら、あなたには永遠に我慢を強いてしまう。それは私が望んでいたあなたではないんです。それと私は気づいてました。あなたは私とキスしたかったよね。しかしあなたの家でも、あの観覧車でも、あなたは何もしてこなかった。それが私たちの本当の未来なんだと確信しました。あなたのキスで死ねるなら本望です。せめて最後は、あなたのキスでお別れさせてください。あなたのそばで生きられたこと、私の人生で一番の幸せです。今まで本当にありがとう。』


全ては、僕の勝手な思い込みが原因だったんだ。彼女が僕に何を望んでいたのか、分かってあげられなかった。

僕は彼女を傷つけたくなくて、本当の僕を隠していた。もし僕がもっと早く自分を出していれば、君に出逢わせることができていれば、僕たちはもっと長く笑顔でいられたのかな。


僕こそごめんね。君の最後の願いを、僕は罪悪感に押し潰されながら叶えることしかできない。棺のなかに収まっている、すっかり冷たくなった彼女の身体を少し持ち上げて、彼女の唇に吸い込まれるように顔を近づけた。

初めてのキスは、こんな味なんだ。これは夢の味。僕たちの未来の味。もう僕たちは会えないんだ。こんな形で最初のキスをするとは思ってなかったし、こんな形で最後のキスになるなんて思ってなかった。この味を絶対に忘れない。


翌日、僕は彼女の身体が旅立つ瞬間を見守ることはできなかったが、彼女の細く透けた声が聞こえた気がした。


──僕も君と出逢えてよかった。あなたを忘れたりしない。あなたがいなくなったこの世界を、僕は前を向いて生きていきます。

これからも、あなたが生きた世界を、生きた証を、絶対に守っていくね。


──終──

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