結婚式前夜に想う
シモーヌは、翌日に自らの結婚式を控えて、1人静かに部屋の中で佇んでいた。
その部屋は、彼女1人で過ごすには広過ぎたけれど、整えられた上質な調度品には程よい経年と落ち着きがあり、居心地がよかった。
壁際には、贅沢に繊細なレースがあしらわれた、輝くような真っ白のウェディングドレスが、大きなハンガーで吊るされている。
シモーヌは、ドレスを彩るレースにそっと触れてから、橙色の炎が煌々と揺らめく暖炉の前に場所を移して腰を下ろすと、そのほっそりとした両腕で両膝を抱えた。暖炉からは、パチパチと勢いよく火のはぜる音が聞こえてくる。
幻想的に揺れる炎の輝きをじっと見つめた後、ずっと大好きで忘れられない人と過ごした時間を思い浮かべながら、シモーヌは静かにその瞳を閉じた。
***
初めて彼が馬車から降りて来る姿を見た時、あっという間に心を掴まれた。さらりと流れる淡い金髪に、優しさを讃えた深い藍色の瞳。すらりと姿勢よく伸びた背筋。
世の中にはこんなに素敵な人がいるのかと、幼な心に驚いたことを覚えている。彼の柔らかな低音の声も、耳に心地よかった。
彼は、穏やかに微笑みながら、はじめましてと私に手を差し出してくれた。私は胸を高鳴らせながら、その手を握り返した。
彼はいつでも私に対して優しかった。私が転びそうになると、慌ててその力強い腕で抱き留めてくれたし、私が彼の手を握ると、そのまま温かく手を繋いでくれた。よく一緒に遊んでくれて、街に行けば、私の好きな菓子を選んでくれた。私が遊び疲れてしまった時は、私をおぶってくれて、私は幾度も彼の温かな背中で眠ってしまった。遠くに出掛けた時には、私への手土産だって欠かさなかった。私に似合うだろうと、花を象った可愛い髪飾りを買ってきてくれた時など、嬉しくて思わず彼に抱き付いてしまった。
私を見つめる瞳が柔らかく細められると、胸が苦しくなるほど嬉しかった。
本当に、彼のことが大好きだった。
この想いが彼に届くことがないということは、わかっていた。それでも、ずっと彼のことを見ていたし、一番近くで見ていたかった。
憧れも入り混じっていたけれど、あれは、私の長くて淡い初恋だったのかもしれない。
彼は、もう2年前にこの世を去ってしまった。もっと、ずっと長く生きていて欲しかった。泣いても泣いても涙が止まらなくて、涙が枯れるという言葉の意味が、当時の私にはわからなかった。
あの時、泣き続ける私の肩をそっと抱いて励ましてくれた、そして、彼が最後に、よろしくと私に言い残していった人と、私はこれからの人生を一緒に歩んで行く。
***
トントン、と部屋のドアが軽くノックされた。シモーヌの返事と同時に、1人の男性がそっと部屋に入って来た。翌日、シモーヌの隣に立つことになる彼は、温かな光を放つ暖炉の前まで歩いてくると、シモーヌの隣にゆっくりと腰を下ろした。
黙ったまま暖炉の炎を見つめるシモーヌに、彼は話し掛けた。
「…シモーヌ。また、思い出してたの?」
無言で頷いたシモーヌが、体勢を変えて暖炉の炎を覗き込むように身を乗り出すと、彼は少し苦笑して、その右手を彼女を制するように伸ばした。
「そっか。
…あんまり炎の近くに寄ると、危ないよ」
シモーヌはその言葉に少し目を見開くと、ふっと笑った。
「驚いた、同じことを言うのね。
…もう子供じゃないんだから、大丈夫よ」
シモーヌの口から溢れた言葉に、彼は少し目を伏せてから、シモーヌの顔を覗き込んだ。
「やっぱり、忘れられない?」
「…そうね。こんなに生き写しの人が目の前にいたら、忘れられるはずがないわ」
シモーヌも、目の前の彼の瞳を見つめ返す。暖炉の火を映す深い藍色の瞳も、品よく整った顔も、その輪郭を彩る柔らかな淡い金髪も、低くてよく通るその声までもが、懐かしい彼にそっくりだった。
2人は視線を暖炉の炎に戻した。しばしの間、2人の間に沈黙が落ちる。
沈黙を破ったのはシモーヌだった。
「ねえ、覚えてる?
この場所で、昔、お父様とお母様に、よく寝る前に絵本を読んでもらったわよね。
お兄様も私も、途中でよく寝落ちてしまって、お父様に抱きかかえられてベッドに運んでもらったわ」
「ああ。懐かしいな」
昔の情景を思い返すように目を細める彼に、シモーヌは微笑んだ。
「お兄様、って呼ぶのも、今日で最後だなんて…。何だか変な感じね。
お父様とお母様は、どう思っているのかしら」
「さあね。きっと、雲の上から僕たちを祝福してくれるんじゃないかな」
「…そうね。私も、そんな気がするわ。フレッド」
シモーヌの母とフレッドの父が再婚した時、連れ子だったシモーヌはまだ5歳、フレッドは6歳だった。
シモーヌの母は早くに天に召されてしまい、フレッドの父は男手一つで兄妹を育てた。シモーヌのことも本当の娘のように慈しんだ彼が、その後再婚することはなかった。
そんな義理の父を、シモーヌは単なる父という以上に慕っていた。
フレッドがシモーヌの兄になったばかりの時には、やんちゃなフレッドは、兄というよりも、互いに父母の愛を争い合う幼い子供だったけれど、彼は次第に優しく思いやり深く、そして父そっくりの美しい男性に成長していった。
血が繋がっていないシモーヌのことを、フレッドが妹として見ていないことに、それでも兄として彼女を傷付けまいと葛藤していることに、いつしか彼女は気付いていた。
フレッドが秘めた想いをシモーヌに告げたのは、父が他界してしばらく経った後だった。
シモーヌは、そんな彼の言葉が嫌ではなかったばかりか、今後も彼とずっと一緒にいられることに安心感を覚えたことに、そして、彼に対して仄かに甘い感情を抱いていた自分に気付いて、彼からの結婚の申し入れを受けたのだった。
「…僕は、いつか父さんを超えられるのかな」
ぽつりと呟いたフレッドに、シモーヌはくすりと笑うと、少し彼に近付いて、その肩に自分の頭をことりと持たせかけた。
「もう、お兄様ったら。
お父様とお兄様を比べることはできないし、大好きなお父様のことを忘れることもできないけれど。
…でも、お兄様のことも、…フレッドのことも、私は大好きよ」
フレッドは微かに頷くと、シモーヌに微笑んだ。
「もう夜も遅い。もうそろそろ、休むかい?」
「…ううん。もう少しだけ、このままで」
父と母と、同じ場所で過ごした時間をそれぞれに思い返しながら、揺らめく暖炉の炎に見守られるように、2人の兄妹としての最後の夜が更けていった。
最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました!