蒼と黒
真夏の河原を歩き、汗だくで大学から戻ると、自宅のドアは開いており、黒の心臓は大きく鳴った。まさか、いや、もしかして。
黒がそっと玄関に入ると、女モノの靴が目に入り、落胆し、そんな自分を苦々しく感じる。
「日本に戻ってたのか、翡翠」
アトリエに黒の作品を並べ、数歩離れた所から女が絵を眺めていた。
翡翠と呼ばれた背の高い女は、派手な服を見事に着こなし、勝手に注いだ黒のウィスキーを舐めながら彼の方に目をやる。
「別件で来たけど時間ができたんで。今日、いくつか持って行ける?」
翡翠は有名なギャラリーのオーナーで、有能な画商だった。
かつてはカリスマバイヤーだったが、現在はその頃培った人脈やコミュ力を駆使して世界を飛び回り、美術品の取引をしている。
……そして黒の実姉でもあった。
黒が付箋を渡すと、翡翠は狙いをつけた作品にそれを貼り始める。とある作品に貼り付けようとした所で黒は首を振った。
「それはダメだ」
翡翠は付箋を引っ込め、黒を見た。
「あんたが人物描くなんて初めてだよね?凄く良いよコレ。……ダメなの?どうして?」
「未完成だ」
「複数あるじゃない。一枚だけでもダメ?」
黒は再度首を振る。翡翠は肩を竦めた。
「随分若いモデルだね。まさか未成年?」
「…今年で十九になる筈だ、確か」
「いつ描いたのコレ」
「去年……三枚目の途中で、居なくなった」
「どういう事?」
「言葉の通り。ある日突然姿を消した。連絡先も名字も知らない。探しようがない」
「はぁ〜なにそれ。未成年相手なら尚更、身元はちゃんと確認しとかないと。……ホント相変わらずあんたは、考えてるようでなんも考えてないよねー」
「……」
「それに。あんたってやっぱ、ゲイだったんだね」
「はあ?」
「別に隠さなくてもいいじゃん。これ観れば分かるよ」
黒は反対しかけ、思い直した。高名な目利きである翡翠にはどう見えているのか、それを確認したくなった。
「…そう見えるのか、この絵」
翡翠は黒をじっと見ると、絵に視線を戻す。
「この絵ねえ……描き手がモデルに、もっとくれ! って言ってるみたいな感じ。もっとお前をくれ! 俺にくれ! って。期待と飢えに溢れてる。……あんたの絵で描き手の感情がここまでダダ漏れてるのは、初めてかもね」
黒は眉間に皺を寄せて絵を見た。
「私は良い事だと思う。汲めども尽きぬ泉、湧き出すインスピレーション。……ついに出会ったんじゃない、あんたのミューズ(美神)に」
「……」
「でさ、姉として聞くけど……ヤっちゃった?」
「アホか。未成年だし、そういうんじゃない。親がネグレクトだと言っていた。数時間モデルをやって貰って、晩飯を食わせてただけだ」
「ふーん。ま、いーけど。じゃあ車呼ぶから、持ってける奴、包んじゃいましょ」
翡翠はスマホを取り出し車を呼んだ。黒は梱包材を奥から抱えてくると、絵の大きさに合わせてハサミでカットし始める。
程なく車が家の前に到着し、翡翠のアシスタント(毎回、顔ぶれは変わった)の若い女の子と、三人で絵を梱包し、車に積んであった専用の緩衝材を絵と絵の間に注意深く挟み、固定する。
「細かい事は後でメールするから、パソコンチェックしといてよ」
車に乗り込むと翡翠は黒に向かって言った。
「宜しく頼む」
「次にこっちに来れるのは冬頃になると思う。じゃあね」
車を見送ると黒は家の中に入り、汗を拭いた。冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐ。
『これ麦茶? コンビニの奴と何か違う! うまい! へえ、麦茶って本物はそうやって作るんだ。知らなかった』
去年の今頃、蒼は黒の作る麦茶を気に入って、家に来ると真っ先に飲みたがった。…ふとした瞬間に記憶が蘇る。
蒼は告白の後、黒の家には二度と来なかった。黒は心配し、辺りを探してみたが、河原に蒼の姿を見る事も無くなった。
黒は改めて、蒼の事を何も知らないと気付き愕然とした。
蒼の名字も住所も電話番号も知らない。合鍵を渡してあったので、勝手に蒼の方から訪ねて来ていた。
……そもそも「蒼」が本名がどうかも分からなかった。警察に行く事も考えたが、手掛かりは絵だけ、しかも少年のヌードの絵だ。
蒼との関係を上手く説明できる自信が無くなり、断念した。
ちゃんとメシを食ってるだろうか。親に酷い目に遭わされていたりしないか…
日々の生活の合間に、いつの間にか、常に蒼の事を考えている自分が居た。街や大学で似た後ろ姿を見かけるとドキリとし、追いかけて確認する事も時々あった。
秋になれば、蒼が姿を消してから、ほぼ一年経つ事になる。
黒は三枚目の蒼の絵を長い時間、眺めた。
あの時の高揚、俺が求めていたのはこれだったんだ、という確信。今でも手に取るように思い出せる。
でも、まだ足りない。蒼が居ないと、この続きは描くことが出来ない。
『もっとくれ!俺にくれ!って…』
翡翠の言葉が耳に蘇る。
あの時、自分は蒼の求めを受け入れなかった。自分には恋愛は無理だ、そう思っていた。……あいつにまた会えたとして、俺は何て言えば良いんだろう。
今頃、あいつは何を考えて、どこで何をしているんだろう。
「のらくろ先生!」
黒は振り返ると自分を呼んだ新任の助手、雨宮秀義の目を見てゆっくり答えた。
「野田先生、だ」
雨宮はにっこり笑った。
「野田黒先生、からのぉーのらくろ先生!この方が生徒に覚えて貰いやすいと思いますが。…てゆーか、先生、今までの渾名、のらくろだったんじゃないですかあ?」
「お前はヒデヨシって呼ばれてたんじゃないか?」
「…ですね!」
二人は賑やかな大学の廊下を、生徒の作品を抱えて歩き、教授の準備室に到着した。準備室は、いつも埃と紙と絵具の匂いがし、所狭しと作品らしき紙や立体で埋め尽くされていた。
その中の一角にスペースを確保すると、黒と秀義は作品を置いて上に付箋を貼り付けた。秀義は手拭いで汗を拭くと呼びかけた。
「教授〜!一コマ目の生徒のデッサン、此処に置きますよ!」
準備室の更に奥に、黒の直属の上司である赤城教授の部屋がある。
「お疲れさまぁ。こっち来て休憩しなよ!アイスコーヒーあるよ」
教授室からもう一人の助手、太刀掛珠美が顔を出す。黒と秀義は雑多な物を避けながら準備室を奥へと進み、教授室に入った。
教授室は準備室よりかなり狭く、やはり雑多な物が溢れているが、準備室には無い居心地の良さがあった。何よりエアコンが効いていて涼しい。校内でエアコンのある部屋は限られていた。
大学はコンクリート打ちっ放しの建物で天井が高く、風の通る所は割と涼しいが冬は冷える。
黒と秀義は歪んだパイプ丸椅子を引っ張り出して座り、珠美が紙コップに注いでくれたアイスコーヒーを飲んだ。
「次のコマの色彩構成、今日はいつものトコじゃなくてB棟の303です」
珠美はタブレットを操作しながら赤城に言う。
「そうだった。……黒せんせ、今週の返却分、採点終わってるよね」
「先週に終わらせて三階の準備室に置いておきました。再提出は五人です」
「黒せんせはいつも仕事が早くて助かるう。制作の調子はどう?」
赤城教授は穏やかに微笑んだ。
「まあ……ボチボチ」
黒はコーヒーを飲みながら視線を下に向けた。
「黒先生の新作、僕はいちファンとして楽しみにしてるんだけどなぁ」
「こないだ何枚か卸したんで。冬にはいつものギャラリーでご覧頂けると思います」
珠美は溜息をついた。
「あのギャラリーに定期的に作品を展示できるとか……凄いとか羨ましいとか通り越して、神ですね」
「のらくろ先生は、凄いしよく見りゃイケメンなんだから、服装と髪にもう少し気を使えばめちゃモテますよ」
秀義がからかうような調子で言う。
「いらん世話だ。別にモテたくない」
「ヒデヨシ知らないの?こんな無愛想なのに、野田先生、影で密かにモテてるよ。毎年、沢山チョコ貰ってますよね先生……それ食べるのは教授だけど」
「チョコも彼女も必要ない。珠美、秀義、そろそろ行くぞ」
黒は助手二人と早めに教授室を出た。次の授業の準備をするためだ。
授業が終わると、その日は、以前から秀義に頼まれてアトリエ個室の引越しを手伝う予定になっていた。
美大では、生徒や助手が有料でアトリエ個室を借りる事が出来る。三畳程の広さだが、自家用車の無い生徒は大きな作品の搬入が難しい為、大学内に個室を借りて作品を制作した方が都合が良い場合が多かった。
秀義の作品を軽く梱包し、画材と一緒に彼が借りた車に載せる。次に入る予定の個室が空くまで、黒の家を一時置き場にする事になっていた。
「いやーホント助かります! 是非メシ作らせて下さい!!」
運転席に乗り込み、秀義は嬉しそうに言った。
「お前、料理できるの?」
「得意料理はお好み焼きです」
「ホットプレート無いぞ」
「フライパンで出来ますって。あ、食材もう買ってあるんで」
「そりゃ楽しみだ」
黒の家に着くと、自分の作品を運び入れながら秀義はハイテンションで喋りつづけた。
「うわぁ野田先生の作品が! 生でこんないっぺんに観れる……感動だ〜」
「喋ってないでキリキリ動け」
秀義は身体を動かしながら口も良く動かした。運搬が終わると、黒の作品を歓声を上げながら鑑賞し、台所に入って夕食の準備を始めた。この家で誰かとメシを喰うのは久しぶりだ。ブツブツ言いながら野菜の皮むきを手伝う蒼の姿を思い出す。
……黒は頭を抱えたくなった。やれやれ、これじゃまるで振られた相手に未練タラタラなオッサンの図じゃないか。しかも相手は10歳以上も年下ときた。我ながら背筋が寒くなる。
「のらくろ先生〜出来ましたっ! お皿の用意お願いしまーす」
秀義の元気な声で我に帰り、黒は食器棚に向かった。
お好み焼きはかなり本格的な味で、黒に褒められて秀義は顔を真っ赤した。美大に入る前から黒の作品のファンで、助手になれたら黒の近くで働きたかった、希望が叶って毎日が楽しい、と彼は語った。
作品を褒められる事は素直に嬉しいが、賛辞が自身に向けられると黒は落ち着かない気分になる。
片付けの後、冷蔵庫のアイスコーヒーを二つのコップに注ぎ、秀義に声をかけようとアトリエに踏み込んだ黒は、作品をじっと見つめる彼の真剣な眼差しに言葉を飲み込んだ。
秀義はカンバスにかけておいた布を取り、微動だにせず見ている。
蒼が描かれた三枚のカンバスだ。
黒の方を見ずに秀義は口を開いた。声が微かに震えている。
「……さっき、この三枚だけ見せて貰えなかったの何でだろうって……そう思ったらどうしても見たくなっちゃって。……でも、だから、バチ当たったんですかね。見なきゃよかった」
「秀義? どうした?」
「たった今、告白する前に失恋したとこです」
黒は秀義の側に歩み寄る。秀義の視線はカンバスの蒼を捉えたままだ。
秀義は苦しげに顔を歪ませ、低い声で言った。
「黒、先生、は……好きなんですね。この彼の事」
それを聞いて。
この一年の間に黒の気持ちの奥でフツフツとたぎっていたものが一気に沸騰し溢れだした。
……お前もか。
……どいつもこいつも……
「いい加減にしてくれ!!」
黒は大声で怒鳴り、秀義は驚きのあまり固まった。
「何だって直ぐに愛だの恋だの、ヤッただの何だのと言い出す?……俺は、ただ、会いたいだけだ! 会って続きを描きたい、もういい描き切ったと思えるまでずっと。それだけなのに。
……あいつは居ない! ここから消えた。俺は、もう……どうすりゃいいのか分からない」
黒の中の冷静な部分は、自分の感情の暴走を何とか食い止めようとしていたが、堰を切り溢れだした言葉が止まらない。
「あの時あいつがあんな事言い出さなければ。俺が受け入れていれば。あいつは今でも消えずにここに居たのか? ついに見つけたと思ったのに永久に失ったのか? どうして……俺のせいなのか……」
黒は両手で顔を覆い、膝をついた。
「野田先生! 先生、大丈夫ですか?」
秀義は黒の隣にしゃがみ、蹲った黒の背中をさする。
数分間、二人はそのままの態勢でいたが、黒はゆっくりと顔から両手を離し、秀義の方を向いた。
「……すまん。……取り乱した」
「いえ。俺の方こそ。勝手に見てしまってすみません」
二人は立ち上がった。秀義は普段のおちゃらけた態度とは全く違う、青ざめた顔で、カンバスと黒を交互に見て言った。
「でも、正直、先生にそこまで想われてる彼が、俺は羨ましいです。……今日は帰ります。野田先生、また明日」
秀義が帰った後、黒は風呂に入り、Tシャツとスウェットでウィスキーのロックを片手にアトリエに入ると、蒼の絵の前に座り、絵を眺めながら思いに耽った。
黒は資産家の親の元に生まれた。黒には二人の姉と兄、弟がいる。六人兄弟だ。
野田家は昔からの地主で広大な土地を保有し、それを元手に色々なビジネスを手広くやっていた。父親にはビジネスの才能があり、引き継いだ事業をさらに成長させ、金と人脈とを増やしていったが、ひとつ致命的な欠陥があった。
女性関係だ。
兄弟の一番上の兄、朽葉の母親は正妻だったが、夫のあまりの自分本位さに疲れ、子供を産んでまもなく去っていった。
その後は、後釜を狙う女達が入れ替わり立ち替わり野田の家に出入りし子供を産んだが、父親は彼女達と籍を入れようとはしなかった。母親達は揃いも揃って、子供を産み落とした後は禄に面倒も見ずに野田の家に押し付けた。
姉の紅、兄の浅葱、姉の翡翠、黒、そして弟の白は、野田の家に昔から仕える使用人達に育てられたと言っても良かった。
法事などで親戚が集まると、従兄弟という名目で父親の隠し子が連れて来られる事も何度かあり、また、相続や金の問題が常に水面下で取り沙汰されて、あちこちで揉め事が起こっていた。
どれだけ面倒な事になっても、父親の女遊びは未だに止む気配はない。
野田家の子供達は、薄々事情を知る近所の大人達からの羨望と哀れみの眼差しの中で成長し、学校生活では時に虐められ、時に崇められながら濃ゆい人間関係に揉みくちゃにされた。
そんな環境で育った子供達は、恒久的な人との関わりを信じられなくなった。奇妙で複雑な人間関係に既にくたびれ果てていた。
非現実的で気楽な学生の恋愛でさえ、彼らには無理な話だった。
現在、兄弟の中で結婚しているのは翡翠だけだ。それも夫がバイヤーで、二人とも世界中を飛び回っており、顔を合わせるのは年に数回という特殊な夫婦関係だから成立しているようなものだ。
一番上の兄、朽葉は精神科医だ。いつだったか彼は自嘲的に言っていた。
「俺が精神科医になったのは、興味深いサンプルがいつでも身近にあったから。親父、俺たち。俺は死ぬまでに俺自身を治療して、まともな人間にできるかどうか、一生をかけて実験してるんだ」
……今までまともに人と向き合った事も、恋をした事もない。それで特に困る事もなくこれまでやってきた。
……でも、蒼の事は。
彼を失いたくなければ、それではいけないのかもしれない。
彼がもし戻ってくれたなら、自分自身に真剣に問いかける必要があるのかもしれない。
本当に自分は彼を受け入れられないのかどうか。今まで試してみようとも思わなかった心の中の錆びついた部分を、動かす事ができるのかどうか……。
『人を一目見て綺麗だと思ったのはお前が初めてかもしれない』
『俺が二十歳になってたら、オッさんは俺のこと抱いてくれた?』
——蒼。
お前にもう会えないと思うと、どうしようもなく苦しい。
お前がどこかで苦しんでいるかもしれない、と思うと、後悔のあまり、この身を引き裂きたくなる。
どこにいる。顔を見たい。
会いたい。もう一度。
夢でもいい。出てきてくれ、蒼……
その日の夜明け頃、密やかに玄関の鍵が空き、そっと入ってくる人影があった。人影は青年だった。Tシャツと膝丈のズボンを身につけている。玄関を入ってすぐにアトリエだ。
アトリエの中にはカンバスが雑多に置かれ、青年が見た事のないものも沢山あった。その中にあった少年の絵にしばし視線を止める。
その後、アトリエ内の年季の入った革のソファに、男が眠っているのを見つける。
男は無精髭を生やし、目の下には隈があった。顔色があまり良くない。ソファの下の床に飲みかけの酒のグラスと眼鏡がある。
青年は男の顔の側に跪いた。手をそっと男の顔に這わせる。そのまま手で鼻と唇に触れ、男に呼びかけた。
「くろ…黒」
黒はうっすら目を開いた。
背後に後光を纏った青年の顔が間近に見える。……これは、夢?
「蒼?」
蒼と呼ばれた青年は身を屈め、黒の唇に軽くキスをし、少し身を離して黒の目をじっと覗き込んだ。
「良かった。俺の事覚えててくれた」
「……蒼!!」
黒は目を見開き、ガバッと起き上がると蒼の首に抱きついた。
「蒼! お前、おまえ、本物の蒼か」
「さあ、どっちかな。オッさんはどっちだと思う?」
青年は悪戯っぽく笑った。辺りに懐かしいラピスラズリの光が満ちた。
黒は蒼をきつく抱きしめた。
胸が早鐘を打った。
涙が溢れた。
本物だ。
今度こそ本物の蒼だ。
<fin>