何か新しい
深い深い重圧から逃れて、息を吹き返す深海魚よろしく地上に出ると、もう空はつい先刻の桃色が嘘のように紫紺色に覆われていた。
光る街並みと暗い空。世界が反転したみたいだ。
行ったことがある店だから道のりはわかる。待ち合わせ時間には意外とほとんど遅れずに済んだ。
せっかくだから、街の雰囲気を味わおう。
最短距離を知っているのに、敢えて少し迂回して繁華街を抜けて店へ向かう。
このルートなら、報告通りの15分と少しで店に着くだろう。
賑やかな街並みの中に居ながら、遠巻きに眺めるように人々の服、表情、靴、属性、ショーウィンドウ、看板、視線を巡らせながら街を自分の中にインストールしていく。
空間に慣れないと、いつまでも置いてきぼりにされてしまう。
自分でも意味のわからない習慣だ。そういうのって、誰にでもあるよね。
駅から近すぎず遠すぎず、絶妙な距離にある洗練された建物。雑踏を感じさせない、異空間めいたこのビルがなんだかとても好ましい。
木製の螺旋階段に、障子で限られた空間。間取りが不規則で重心が外される感覚に陥る。どこぞのアニメのラスボスの根城みたいで少し笑える。
さて、今日はどんなメンバーだろう。
男は2人とも旧知の仲だ。元気な大地と静かな江ノ島。間違えた、片瀬。
たしか女の子は大地の後輩と、その友達らしいから、お淑やかなタイプか元気なタイプな気がするな。
元気な子ってエネルギーを喰らう感じがするから、あんまり得意じゃないんだよな。わかるかな、エネルギー弾というか、エネルギー波というか、熱の波動というか……。
まぁ、何でもいいけれど。
苦手な人と会うのも、また楽しい。良くも悪くも刺激は面白い。
目的地に着く寸前まで期待に胸を膨らませて、薄闇に淡く光る紙の扉がぼくの幻想を無惨にぶち破る未来を想像して胸が圧迫される。
現実の前にはすべては虚しい。
期待も焦燥も、絵に描いた餅も、正体のない不安も、僕にこれまで起こったすべてが無駄になる。
取り留めのない思考を巡らせながら襖に手をかける。
目を貫くような明るい希望の光は、すぐに収束し4人の人間を映し出す。
「おー、きたきた!柚輝ちゃーん!」
ふだん呼び捨てのくせに、相当舞い上がってるな、大地さんは……。
ふと目をやった2人の少女は、なるほど確かに中の上。いや、なかなかいないクオリティかもしれない。普通に可愛い。クラスで1番かわいい子と、学年で1番かわいい子ってくらいかわいい。滅多に揃わない2人?奇跡のコラボレーションと言って良いかもしれない。
「わぁ、すっごいイケメンきた!」
わ、嬉しい。イケメンって言われちゃった。もっと言って。
悲しい哉、僅かに誇れる容姿を褒められて木に登りそうになる。日頃から人とのコミュニケーションが疎かなぼくには、挨拶のような賞賛でさえも身に染みて仕方がない。
「恐れ入ります。遅れてごめんなさい。柚輝です。三上です。」
無駄に倒置法で自己紹介をしてしまった。帰りたい。恥ずかしい。いや、恥ずかしがるほどのことでもないか。正しいコミュニケーションがそもそも理解できていない、可哀想なぼく。正解がわからない。選択肢があれば良いのに。
簡単に自己紹介を終え、一杯目のビールで乾杯する。
人との交流も、たまには良い。
脳みその一部がパチパチ飴程度には活性化している気がする。
仲の良い……仲の良かったことのある、気のおけない友人、見た目も中身も整った珍しい女性たち、美味しいお酒にちょうど良い肴。これ以上僕に望むことは何もなかった。
「あれ、そういえばそっちは2人なの?」
それなら大体の雰囲気はお察しだ。
たっぷりとした艶やかな黒髪の美少女は大地さんのお気に入り。椿ちゃん。名は体を表すとはこのことだ。菖蒲か杜若でも良いかもしれないけれど。
柔らかい雰囲気だけど、意志の強そうな黒目がちの瞳を煌めかせて大地に向けている。
よかったね、大地。
もうひとりは蜜実ちゃん。ずいぶんかわいい名前だけれど、そんな蕩けるような雰囲気は感じさせない。快活な印象。江ノ島を面白がっている様子。ふにゃふにゃした江ノ島と相性が良さそうだ。
江ノ島も江ノ島で長テーブルから上半身を乗り出して蜜実ちゃんに話しかけている。
よかったな、江ノ島。
間違えた、片瀬。
席を代わればよろしい、と言う言葉が舌の根まで出てくるほどに見事に興味の対象がクロスして話している。そしてそこにあぶれた僕。
良いんだ、良いんだよ。見ているだけで楽しい。人間観察最高。
ゆっくりと勿体ぶりながら足を組み替えて、一呼吸。別に開始早々疎外感を感じているわけではない。掘り炬燵とテーブルの感覚が僕の足の尺に合ってないせいだ。
ただ、ひとり足りないのではないか、とふと疑問がよぎる程度の余裕はある。
誰でも良い、もう少し僕の相手をしてくれても良いのではないか?
そう思って出た疑問だった。
「あ、ひとり遅れてるんです。ごめんなさい。もう向かってるみたいだから、もう少しで来ると思います」
蜜実ちゃんが申し訳なさそうに説明してくれた。そんな、あなたが謝らなくて良いのですよ。あとそんなに全力で敬語でなくても良いのよ。
「あ、全然大丈夫、気にしないでね」
上から目線になってない?俺?大丈夫?
自分のコミュ力に自信が無さすぎて直ぐに目線を逸らすとメニュー表と目が合った。
「あ、何か飲もうかなー」
誰も聞いてないだろうが、これから僕は全力でメニューを見つめます宣言をそっとしておく。
「えー、飲むの早いですね。次もビールですか?」
椿ちゃん、コミュ力高いね。すごいね。さすがだね。嬉しいよ。でも僕心の準備できてなかったよ。
「うーん、違うのにしようかな。椿ちゃんは?」
「私はゆっくり飲んでるので、まだ大丈夫です。あんまり、お酒強くなくて……」
何故か上目遣いで照れながら、手元の不規則になめらかに光るグラスを撫でる。
僕が一気に飲んだから、そんな照れるほど遅くないよ?大丈夫だよ。
「そうなんだ。無理しないでね。あ、ビールじゃないんだね。何飲んでるの?」
「あ、これ、モスコミュールです。ビール苦手で……」
引き続き恥ずかしそうに教えてくれた。ビールは最近苦手な人が多いし、正直僕も別に好きではない。恥ずかしいことではないとおもうけれど、僕も照れた方が良いだろうか……。
「僕もあんまり。次何飲もうかなー」
この店のメニューはビールにカクテルからハイボール、ワインに日本酒、焼酎と何でも揃っている。メニューを眺めているだけで楽しい。どれにしよう。
特に好き嫌いは無いから、何でも試したい。
お通しも美味しかったし、お酒も美味しそう。とはいえ店によって美味しいお酒が異なるから、この店は何だろう。カクテルな気がするけど、そういう気分でもないし。
「夢み心地の春鯨」
なにこれかわいい。語彙力が低下する。グラスの底に沈む青いシロップに桃色の綿飴とピンクサイダー。インスタ女子か。気になるけど、ちょっぴり頼むのは恥ずかしい。ちなみに今の気分はパキッと強めの爽やかなアルコール。
「んしゃわはーーーーーぃ」
色鮮やかな妄想が訳の分からない音と、一瞬遅れてピシャリと軽い木が弾ける音で一気に現実に引き戻される。