通学路にある魔女の店
熱中症には、くれぐれもお気をつけて。
しばらく歩いて、ぼくはそこにたどりついた。
魔女の店、と、あとあと呼ぶことになる、その店。
弱かったぼくを変えてくれた、その店。
けさ、ニュースでやってた。
きょうの気温は40℃にもなるって。
これはもう、自然災害のレベルだそうだ。
でも学校は休みにならない。
災害時なのに。
焼けたアスファルトの道をとぼとぼと歩く。
子どもは大人よりも背が低いから、そのぶん地面に近い。
だから、アスファルトの熱がすごく近い。
ぼくらがこうして蒸し焼きになりながら学校まで歩かなきゃならないのに、大人は学校まで車で通勤する。
もちろん、冷房完備だ。
ぼくらは車での送り迎えはなしだって。
ランドセルも重いのに。
「おはようございます。出席を取ります」
学校の中も暑い。
教室にはエアコンはもちろん、扇風機もない。
窓を全部あけても、きょうは風がない。
みんな下敷きでべこんべこんとあおぐ。
水筒は持って来てるけど、中身はただの水。
お茶はダメ。
ポカリもダメ(ポカリは、ポカエリアスの略で、スポーツドリンク。たぶんこれを読んでるみんなのまわりにはあまり売っていないと思う)。
でも、職員室は涼しいし、大人は冷蔵庫からつめたい麦茶を出して飲んでる。
「余湧 強君」
こんなの……
理不尽だ。
「……はい」
でも、ぼくはなにも言えない。
なにか言ったって、どうせ意味はないし。
言ったらぼくが怒られるだけだ。
ぼくはそんなに身体もじょうぶじゃない。
成績も、あんまりよくはない。
目立たなくてもいい。
なんとかしずかにして、3年生の1学期をやりすごそう。
焼け焦げたアスファルトの道をよろよろと歩く。
夕方になっても、ちっとも涼しくなってくれない。
もうすぐ終業式なのに、持って帰らなきゃいけない教材はまだけっこう残ってる。
なのに、おこづかいはもうあんまり残ってない。
夏休み、どうしようかな。
下校のときは、集団通学じゃない。
だから、ぼくはいま一人で帰ってる。
大人には、狭い路地をとおらずになるべく広い道を歩くようにと言われているけれど。
この暑さじゃたいへんだ。
広い道は、日影がまったくない。
不審者の前に、西日に刺される。
まわりには人影もないし、誰かに見つかって怒られることもないだろう。
すこしでも暑さをしのげるところ。
家までの距離が短くなるところ。
ああ、こっちだ。
ぼくは、道を1本ずらして、ふだんとおらない路地裏に逃げこんだ。
こっちの道は日影ばっかりだった。
おかげで、すこし楽だ。
一息つける。
きょろきょろと、まわりを見わたす。
なんだか、古めかしいところだ。
道は曲がりくねってせまい。
シャッターがおりっぱなしの建物、床屋のくるくる回るやつは止まってつたがのびている。
なんの店かわからないところもある。
人けは、まったくない。
それに……ずいぶんと、うす暗い。
ちょっぴり怖くなってきた。
けれど、足はひとりでに動き出した。
ま、まあ、来た道をもどれば迷うことはないし、いいけど。
――しばらく歩いて、ぼくはそこにたどりついた。
魔女の店、と、あとあと呼ぶことになる、その店。
古い歯医者とはげたポストのあいだに、ぽつんと建っていた。
最初は、駄菓子屋かなにかだと思ってた。
すこしだけひらいたガラス戸からのぞく光景が、そんな感じだったから。
でも、違和感はあった。
外に看板みたいなものが出ていなかった。
ガチャガチャも置いてなかった。
なにより、ここだけやたらと小ぎれいだった。
そのときはお金も持ってなかったし、暑くて疲れて早く家に帰りたかった。
だから、そのまますどおりしてもよかった。
けど、好奇心に負けた、というのもあるし。
すきまから吹きこむ、エアコンの涼しい風にさそわれて、ついはいってしまった。
ガラス戸は音もなく、すうっと横にひらいた。
はいってすぐ、目の前には、木枠のついたガラスケースが並んでいた。
ぼくが最初にここが駄菓子屋だと思ったのはこれだ。
でもよく見ると、なにかわからないものがいっぱいはいっていた。
ビニールに包まれてたり、銀紙に巻かれていたり、たぶん商品なんだろうとは思う。
そのどれもが、ぼくの見たことのないものばかりだった。
プラスチックの小びんにはいっているけど、ラムネ菓子ともちがう。
丸くて茶色くて穴があいているけど、ミニドーナツともちがう。
なにか、現実味がなかった。
そもそも、ガラスケースの中の商品はスペースが広く取られて、ひとつひとつピンでおさえられて、ていねいに展示されていた。
昆虫の標本かなにかみたいだった。
どこかから、薬っぽいにおいがただよってきていた。
明かりの少ない、その空間でしばらくぼうっとしていると、
「あら……いらっしゃい」
横からふいに、声をかけられた。
びっくりした。
店の人だ。
いや、そりゃそうだ、いるにきまってる。
声は若かった。
てっきり、おじいちゃんおばあちゃんあたりがやってるものと思っていた。
女の人だ。
どうしよう、勝手にはいって怒られるのかな。
あやまらないといけないのかな。
ぼくはなにも、悪いことなんてしていないのに。
とっさにそんなことを考えてしまう自分がいやになる。
でも、声はやさしかった。
だから、ぼくもおずおずと顔を上げた。
「あ、こ、こんにちは……」
ぼそぼそとかすれた声しか出なかった。
これで暗いやつだと思われるかもしれない。
ぼくはここに来ちゃいけなかったんだ。
もう、早く帰ろう。
「きょうも暑いわね」
びくびくしていると、女の人はさらに話しかけてきた。
またちょっとびっくりして、そちらのほうを見る。
むこうは若いといっても大人だ。
ぼくよりずいぶん、背が高い。
ここは涼しいからか、長そでのうす紫色のブラウスを着ていた。
その上には紺色のベスト。
手品をする人みたいなかっこうだと思った。
顔は彫りがふかかった。
光の加減か、髪も目も銀色がかって見えた。
外国の人なのだろうか、それともハーフなのかも。
とてもきれいな人だった。
「はい」
いまのはちゃんとしゃべれた。
お姉さんはそれを聞いて、満足げにふふっと笑った。
思わずどきっとした。
「もうすぐ終業式かしら。夏休み、楽しみね?」
その言葉に、反射的にため息をついてしまった。
すぐ後悔した。
お姉さんの前で、これ以上なさけないところはあまり見せたくなかったのに。
ぼくって、いつもこうだ。
けど実際、あんまり楽しみにもできないことはたしかだ。
「あ、その。……近ごろどこも暑くて。ああ、いや、ここは涼しい、です。……けど、早く秋になってほしいです」
「学校には、エアコンはないの?」
「あります。……教室には、ないですけど」
ぐちっぽく言ってしまうのはいやだったけど、なぜか言葉はすらすら出てきた。
ここは涼しくて静かで暗い、心の落ち着くところだ。
お姉さんもやさしいし。
だから、気が楽になって話しやすいのかもしれない。
「あら。じゃあ、ここに来るまで大変だったでしょう。……ねえ、こっちへいらっしゃい」
そう言ってお姉さんはくるりと向きを変えて、奥へと歩き出した。
高いヒールのくつなのに、足音がちっともしなかった。
ぼくは板の床をぺたぺた鳴らしながら、言われるがままに後ろをついていった。
ことり。
丸いテーブルに、コースターとコップがおかれた。
茶色い液体がつがれて、氷がうかんでいる。
「どうぞ。冷やし飴……きょうまでがんばったごほうびに、お姉さんからのサービスです」
お姉さんはまた、ふふっと軽く笑った。
コップの音と氷のゆれる音、お姉さんの鈴みたいな声が、入れかわり頭にしみこんでくる。
「……いいんですか?」
「もちろん。夏バテ、しないようにね」
いま、ぼくはお金を持っていない。
だから、このお店で飲み物をこうして置かれたとき、正直とてもきんちょうした。
わざわざ確認して飲んでいいんだと思うと、心底ほっとした。
ぼくは本当に小心者だ。
「じゃあ……いただきます……」
ひとくち、コップをかたむける。
冷やし飴はしょうががはいってる。
べつにからくはない。
駄菓子屋でも売られてる、おなじみの飲み物だ。
ここ手馬崎県九十九市ではレモンもはいってる。
大人も子どももみんな大好きなソウルドリンク。
やさしい甘さだ。
気分がすっきりする。
心が、ちょっと軽くなった。
「おいしいです」
「よかった」
はじめて、自然な笑顔が交わされた。
……ただ、そうやってお姉さんの顔ばかり見ていると、またきんちょうしてしまいそうになる。
ごまかすように、ぼくはまわりをきょろきょろと見わたした。
「ここ、なんのお店なんですか?」
お姉さんはゆっくりとテーブルにひじをついて、ぼくの顔をじっとのぞきこんできた。
「なんだと、思う?」
「え、と。さいしょは、駄菓子屋さんかと思ったんですけど……薬屋さん……?」
ぼくは内心ものすごくどきどきしながら、ふつうにしてるふりをして答えた。
ひょっとして、顔が赤くなっていたかもしれない。
「ここはね、魔法屋なの」
魔法?
その言葉でぱっと思いつくのは、ゲームとかに出てくるやつだ。
炎を飛ばしたり、ケガをなおしたり。
そういうもののことを言ってるんだろうか?
「ふふ。君の想像してるような、危なっかしいものは置いてないけれど。でも、ちゃんとした効果のあるものばかりよ」
ぼくの頭の中を読みとったように、お姉さんは話し出した。
ぼくはびっくりした反面、ファイアーとかサンダーとかの魔法書みたいなのがないと聞いてちょっとだけがっかりした。
「魔法ってね、現実にとってはものすごく強くはたらくの。だから、なんでも好きなものを買えるわけじゃないけど……うーん、そうね……」
お姉さんは、ぼくの向かい側に座ったまま身体をひねって、横の引き出しを動かし始めた。
その無防備そうな横顔を、ぼくは見ちゃいけないような気がして、まだ中身の半分くらいある冷やし飴をあわてて飲み干した。
「はい、お待たせ……こういうものも、売ってるわ」
お姉さんがテーブルに置いたものは、缶バッジだった。
なんのへんてつもない、缶バッジ。
表面に、なにか格子もようのようなものがえがかれている。
じっとながめると、それがなにか巨大ロボットの顔のようにも見えてきた。
格子の中に、色のちがうところが2か所あって、それが目に。
格子の下半分がこまかく複雑になっていて、それが口やりんかくに。
でも、ぼくのしらないキャラクターだ。
手にとってすみっこや裏側を見ても、特に名前は書いてなかった。
「それは、勇気のバッジ。身につけていると、その名のとおり、勇気がわいてくるの……」
バッジを手に乗せたままその言葉を聞くと、どうしてだかお姉さんの声がすうっと頭に流れこんでくるようだ。
勇気。
このロボットが、勇気の象徴なのだろうか。
けど、勇気って、ふだん必要なものなのかな?
お店に売ってるってことは、つまりそういうことなんだろうけど。
みんな、ぼくのしらないところで、どこかで戦ったりしているのだろうか?
「……現実の世界でも、くじけそうになるとき、おしつぶされそうになるとき。こまりはてて、どうしていいかわからなくなるとき。そんなとき、勇気はきっと、君を助けてくれるわ」
ぼんやりしながらも、お姉さんの言葉はよく聞こえていた。
ふだんの授業中も、そうだったらいいのに。
ぼくは手をひらいて、バッジとお姉さんを交互に見くらべた。
「あの、これって、いくらですか?」
「あら、気にいってくれたのね。ええと、お値段は、そうね……これ、最後の1個なんだけど……」
お姉さんはまた身体をひねって、引き出しの中を探し始めた。
最後の1個?
大変だ。
早く買わないと。
でも……
「すみません、ぼく、いまお金を持ってなくて。すぐに家に取りに行きますので、待っててほしいんですけど」
お姉さんは振り向いて、やさしく笑った。
「大丈夫よ、お金は今度でも。ほんとは50円だけど、おまけして10円にしてあげる」
えっ、10円……?
おまけしなくても50円って、安くない?
お祭りの屋台とかだと、魔法のないただの缶バッジでも絶対300円はしそうなのに。
とたんに、ぼくはお姉さんに対してもうしわけない気持ちでいっぱいになった。
「あの、すみません。そんなによくしてもらって……冷やし飴だって、ただでもらっちゃったのに……その……ぼく」
「ふふ。君ほど立派で、礼儀正しい子はそうそういないわ。初対面でのこんにちは、飲む前のいただきます、それにきちんとした受け答え。大人でも、なかなかできる人は少ないの。だから、もっと自分に自信を持ってね」
お姉さんの言葉は、今度は頭にはとどかなかった気がした。
そのかわり、胸にしみこんでいくようだった。
勇気のバッジは、制服につけたかったけど、見つかって怒られるのがいやなので、ランドセルにこっそりつけておいた。
きょうは最後の授業の日。
体育がある。
体育館は、じっとりと暑い。
プールじゃないのかと思ったけど、雨が降りそうなので中止らしい。
ちょっとくらい降ったっていいじゃないか。
まったく、ゆうずうがきかない。
そんなわけで、いまはとび箱の時間だ。
ぼくは体育自体が苦手だけど、その中でも群を抜いてとび箱が苦手だ。
バネのないジャンプ台で、どうやってとべというのか。
自分の腰より高い位置に、どうやってとどけというのか。
あんな奥行きの長いもの、どうやってとびこせというのか。
そして、とび箱がとべたからといってどうだというのか。
そういったことを、これまで説明すら受けたことがない。
ぼくのとなりで、ぼくと同じくらい暗い顔をしたクラスメイトがいる。
追田 雷君だ。
ぼくとはけっこう、仲がいい。
追田君はぼくとちがって運動ができるほうだけど、きょうはぼくと同じレベルに落ちこんでいる。
プールじゃなくなったのがこたえたんだろうか。
「じゃあ練習始め!」
笛の音を合図に、みんなそれぞれの高さのとび箱にならび出した。
ぼくは3段だ。
追田君は6段からの挑戦だったと思うけど、なぜかぼくと同じ3段の列にいる。
ぼくの後ろだ。
壁際まできても、風はちっともふかない。
ぼくの順番が来たので、とりあえず走った。
しっぱい!
とび箱って、人間のとべる構造になっていないんじゃないのか?
横にどいてから、ちらっと後ろを振り向く。
追田君の番だったけど、追田君は次のクラスメイトに順番をゆずった。
「とばないの?」
「うん……ちょっと調子が悪くて」
「ふーん」
また僕の番になった。
走った。
おしい!
……のかな?
これって、なんの説明もなくやみくもに練習してうまくなるものなのか?
というか、ちょっと動いただけで蒸し焼き状態だ。
暑すぎる。
水筒は体育館のすみっこにあるけれど、給水タイム以外は飲んじゃいけないそうだ。
追田君の番だ。
また、次に順番をゆずった。
「おい、追田! なにやってる!」
怒鳴り声が飛んだ。
追田君ばかりじゃなく、みんながびくっと立ち止まった。
ぼくはたぶん、だれよりもびっくりしてふるえあがった。
「お前、6段からだろう! なんでそんなところにいるんだ! プールじゃないからって、やる気がないとかいうんじゃないだろうな!」
追田君がターゲットにさせて、まくしたてられている。
みんな追田君のほうを見た。
お前のせいで怒られてるじゃないか、というような目だ。
ぼくは追田君のほうを向けなかった。
さっきまで、追田君と一番近いところにいたのはぼくだ。
追田君と、最後に話したのも、たぶんぼくだ。
ぼくは動けない。
全身からふつうの汗と冷や汗が止まらない。
ぴくりとでも動けば、追田君に視線のひとつでも送れば、次にやられるのはぼくだと思った。
「余湧! お前が追田になんかいったのか! 追田は3段じゃない、6段だ! 勝手なことをさせるな!」
動かなかったのに、ぼくまで怒られた。
なんでこんな目にあわなければならないんだろう。
ぼくは一言も言えず、ぼうぜんと床の一点を見つめることしかできなかった。
「……です」
追田君が、なにかしゃべった。
ほとんど聞こえない。
「体調が、悪いんです」
かすれ声だった。
きのう、ぼくがお姉さんと初めて会ったときよりもかすれた声だった。
本当に体調が悪いんだ。
運動の得意な追田君でも、そういうことがあるんだ。
じゃあ、つまりぼくはなにも悪くないのか。
「体調だと! なんでそんなことをいまさらいうんだ! 3年生になって体調管理もできないのか! いま、お前のために体育が中断されてるんだ! なんとかいったらどうなんだ!」
なにか続けてまくしたてられたけど、ぼくの耳にははいって来なかった。
追田君が、壁にもたれてうずくまったからだ。
「気持ち悪い……」
ぼくは追田君のところにかけよった。
顔が真っ赤だ。
せきとかはしてない。
かぜじゃないのか。
……ということは。
テレビとかでよく聞くあれだ。
ぼくはしゃがんだまま振り返って、さけんだ。
「熱中症です!」
声が裏返ってしまったけど、そんなことはどうでもよかった。
どうしよう。
はやくなんとかしないと……
「――! ――――!」
とび箱の向こうから、かわらず怒声がひびいてくる。
なにをいっているのかはわからない。
そんなものを聞いているひまはない。
どうすればいいんだ?
このままじゃ、追田君の体調が悪くなっていくだけだ。
ぼくじゃ、どうにもできないのか?
こんな理不尽に対して……
――ふと。
お姉さんの、きのうの言葉が脳裏によみがえった。
こまりはてたとき、勇気はきっと助けてくれる。
勇気だ。
勇気のバッジだ。
ぼくは胸元に手を当てて、ぎゅっとにぎった。
勇気を。
ぼくに勇気を!
手のひらが、じんわりと熱くなった気がした。
「――――! ――――!」
ばかみたいな怒声を振り切って、ぼくは走り出した。
向こうはとび箱の後ろにふんぞり返って、1歩も動かない。
体育館の隅っこにおいてある水筒をつかんで追田君のところにもどるのは、ぼくのほうがずっと早い。
「追田君、これを飲んで!」
ぼくは水筒をあけて、中身を差し出した。
きょう、こっそりお母さんがアクエリを持たせてくれていた(アクエリは、アクエリスエットの略で、スポーツドリンク。たぶんこれを読んでるみんなのまわりではちょっとめずらしいと思う)。
ほんとはダメだけど、身体のほうが大事だから、水のフリして飲みなさいって。
「おい、余湧! まだ給水していいなんていってないだろうが! やる気あんのか!」
「うるさいっ!」
ぼくの声が、体育館中にひびきわたった。
みんなどよっとした。
「そっちこそ、やる気あるのか! 生徒の命を守る気が! ニュースと天気予報見てないのか! これで雷が死んだら、どう責任とるんだ!」
「な、なんだと……!」
「いまから雷を保健室に連れていく! 救急車だってよぶかもしれないんだ! わかったらジャマをするなっ!」
頭のおかしい大人はもう無視して、ぼくは保健室にかけこんだ。
すぐに保健の先生が体育館に走っていった。
それを見とどけてから、ぼくは廊下を走って職員室に向かった。
「3年1組の余湧 強です! いま、体育館で虐待が起こっています! ぼくは自分の身を守るため、すぐに早退します!」
すぐに戸を閉めようとしたら、近くの先生に呼び止められた。
「ま、待ちなさい。担任の先生の許可はとってあるのか? なにがどうなっているのか、もう一回ちゃんと言いなさい」
「後で保護者をとおして言います!」
後ろから手が伸びてきたみたいだったけど、そんなものは振り切った。
廊下を走るのは、スリッパをはいた大人よりも運動ぐつをはいた子供のほうがはやいにきまってる。
ぼくは、体操着のまま、ランドセルだけをひっつかんで、一目散に玄関から外に飛び出した。
きょうのことは、ちょっとだけさわぎになった。
お父さんとお母さんは、PTAがどうの、校長がなんだの、教育委員会がかんだのと夜になっても電話をかけて回ってる。
よくわからなかったけど、夕飯の後で、お母さんがこれだけは教えてくれた。
追田君は病院で点滴を受けてるけど、あしたには大丈夫だって。
それだけ聞いて安心した。
終業式はぼくだけ体操着だった。
制服を置いていってたから、しょうがない。
はずかしかったけど、正直なところ制服よりは楽ちんだった。
温度もそうだけど、実際、場所も体育館ではなくて教室だった。
きのうの事件があって、体育館はやめようということになったらしい。
家に帰って着替えてから、追田君にプリントをとどけるついでにお見舞いに行く道だった。
「こんにちは、強君」
お姉さんだ。
あれ、ぼくは自分の名前いったっけ?
「こんにちは、お姉さん」
お姉さんは長そでのブラウスとベストまで着ているのにちっとも暑くなさそうで、ぼくににっこりと笑いかけてくれた。
「あの、勇気のバッジ、役に立ちました」
報告する声がついついはずんでいるのが、自分でもわかる。
「あら、さっそく魔法の効果、あったのね。よかったわ」
お姉さんもうれしそうだった。
ぼくは左胸につけた、謎のロボットの顔のバッジをはずして、お姉さんに見せた。
「ふふ。どれどれ……」
と、目を細めて見ていたお姉さんが、ちょっとだけ目を丸くした。
「強君。これ、魔法が減っていないわ」
「……え?」
「この目の部分、魔法を使うとね、温度計みたいに色が変わるんだけど……ほら、変わってないでしょ?」
お姉さんが少しだけ背中をかがめて、バッジを見せてくれた。
お姉さんが影になるくらい、とても近かったのでどきっとした。
「それじゃあ……」
「ひょっとして、いまみたいに身につけてなかったとか?」
「あっ!」
そうだった。
きのう、ぼくは勇気のバッジを、制服でも体操着でもなく、ランドセルにつけていたんだ。
そのことをつたえる。
と、お姉さんはさぞ残念がるかと思ってたんだけど、ちがう反応だった。
「よかったわね、強君。君は魔法にたよらずに、自分の力で困難を乗りこえたのよ」
そういって、おねえさんはぼくの胸元に手をそえ、バッジをそっとつけなおしてくれた。
「君は自分の勇気で、お友だちを助けたの。お姉さんはね、君に勇気のバッジをあげられたことが、とてもうれしいわ」
お姉さんはすっと立ち上がって、ぼくの頭をぽんとなでた。
「お友だちのところに行くの?」
「はい! それで、あの……この勇気のバッジ、雷に貸してあげるのって、大丈夫ですか……?」
「もちろん。君が助けたいと思う気持ち、大事にしてあげてね」
ぼくもうれしくなって、胸元のバッジに手をそえた。
そして顔を上げたとき、お姉さんのすがたはどこにも見当たらなかった。
見わたしのいい道路だった。
かくれられるようなところはなかった。
勇気のバッジは、追田君にわたしていろいろためしても色は変わらなかった。
そもそも魔法の効果がどれほどあったのか、いまになって考えてもわからない。
もしかしたら、今回は特に不思議なことはなにも起こらなかったのかもしれない。
ただ、あのせまい路地の、古い歯医者とはげたポストのあいだには、なんの建物も、なんの空間もなかったことは、いちおう、ここに記しておくことにしよう。
8月1日から夏休みが始まるよ、
夏休みは補習があるよ、塾があるよ、
部活があるよ、大会があるよ、
夏休みなんかそもそもないよ、という方々。
本当におつかれさまです。